誰かが見てる



「いただきます」

食事前に手を合わせてそう言ったら、一緒に机を囲んでいた友人に小さく笑われてしまった。何かおかしいことがあっただろうかと首を傾げると、彼女達は目を見合わせてまた笑い出す。何を笑われたのかわかっていないことがおかしかったみたいだ、と今度はその意味を理解して、少しだけ嫌な気持ちになる。

「なまえさ、毎回それ言ってるよな」
「それって?」
「"いただきます"と"ごちそうさま"。誰が聞いとるわけでもないのに」

言われてから、ようやく自分の行動に思い当たった。
それでも、それを笑われることの意味がよくわからない。

「いただきます」と「ごちそうさま」は、その食糧の元になった生き物達への感謝の気持ちだ。誰が聞いていなくたって、こちらが「いただきます」と「ごちそうさま」という気持ちを持っているのだから、言葉にしたまでのこと。…というか、そこまで深く考えずに言っているのが正直なところだ。

「授業が始まる時もさあ、号令にちゃんと従ってんのなんかなまえくらいやし」
「わかる。いつもぴしーって礼しとるよな、偉い偉い」

これから授業をしてもらう、あるいは有限の時間を使って授業をしてもらったことへのお礼をして何が悪いんだろうか。彼女達は「偉い」と言うが、その声にはこちらを嘲笑うような調子がありありと浮かんでいた。

────高校に上がってから、こういうことを言われることが増えた────「ちゃんとしとるよな」と。語尾に括弧書きで笑いをつけたような言い方で。2週間前、3年生に学年が上がって彼女達とよく一緒にいるようになってからは特に。

今まではちゃんとしていたって、誰も何も言わなかった。むしろ家では「あいさつはちゃんとしなさい」、「何事も真面目にやりなさい」と教えられていたので、それが当たり前だと思っていた。

食事前後の挨拶、授業前後の礼。それだけじゃなく、宿題や掃除、学校行事だって。
やるからには全て意味があるものだと思っていた。たとえ得意じゃないことでも、まずは"やってみる"ことが大事だと思っていた。だから授業で当てられた場所を間違えたって、体育で大コケしたって、私は前を向いたまま何度でも挑戦し続けていたし、何事にも真摯に取り組んできた。

でも、そういう当たり前の毎日を過ごしていると────たまに、こういう目に遭う。

世間はどうやら、真面目にやることは格好悪いことと思っているらしい。
どうしてそう思うんだろう。どうしてそれが格好悪いなら、私の両親は私に「真面目にやれ」と教えたんだろう。

どうせ生きていられる時間なんてそう長くないんだから、何でもいい加減にやるより真剣にやった方が有意義だと思うんだけどな。

間違ってるのは、私の方なのかな。

結局その問いへの答えが出せないまま、昼休みは終わってしまった。午後最初の授業は特別教室で行われるので、友人達はぱぱっとお弁当をしまって、鞄を手に教室を出て行ってしまう。

「なまえー、早くー」
「待って、今行く」

ごちそうさま、と言ってからお弁当を丁寧に畳み、忘れ物がないか周囲を確認してから彼女達の後を追おうとしたのだが────机の中を見た後でふっと顔を上げると、既に友人の姿はそこになかった。

「あ────…」

教室から顔を出して廊下を覗き見ると、笑いながら走って行く友人達の後ろ姿が見えた。

「真面目っちゅーか、なまえの場合はトロいんよな」
「わかるわかる。何やろ、頑張って優等生ぶっとるみたいな? ちゃんとやってますアピール? 別に迷惑はかかってへんからええけど、正味見ててサムいわ」

あはは、と甲高い笑い声が、妙に耳に張り付いて仕方なかった。

自分のやっていることがどうやら周りには良く見えないらしい、そのことならなんとなく察しているつもりだった。でも、ああも軽やかに悪口を言われたのは初めてのことで。
答えの出なかった問いに、今明確に「お前は間違っている」という正解を叩きこまれたような気持ちになった。

授業まではまだあと10分ある。どうせ急いで特別教室に行ったっておしゃべりくらいしかすることがないんだから、それなら数秒を割いて忘れ物がないかとか、課題はちゃんとやったっけとか、そういうことを確認したって良いと思っていたんだけど────。どうやらそれは、「トロい」ことらしい。「サムい」ことらしい。

自分が正しいと思ってやってきたことを否定されるのは、ちょっとだけ苦しかった。

走って行けばまだ彼女達には十分追いつける。それでも、なんだかうまく足が出てくれなくて、私はその場に立ち尽くしてしまった。

その時────。

「何もあんな言い方せんでもええのにな」

後ろから、抑揚のない男の人の声が降ってきた。

はっと振り返ると、そこにいたのはまだ3年生になってからこの方一度も話したことのないクラスメイトだった。
でも、名前は覚えてる。クラスの人の名前なら、1週間でちゃんと全員分顔と一致させていたから。

「北くん?」

あまり表情を変えないし、あまり目立つタイプでもなかったから、私は彼のことをそれこそ名前くらいしか知らなかった。でも確かに今、北くんは私に話しかけているみたいだ。

「忘れ物がないか確認しとっただけやろ。みょうじさんは何も悪いことしてへんのにキツいこと言うな、あの子ら」
「聞いとったん、あれ」
「まあ、あんだけデカい声で言われたら嫌でも耳に入るやろ」

北くんは呆れたように溜息をついて、私のことをじっと見つめた。

「あんま真に受けんでええよ、ああいうのは」
「あ、うん…」

フォロー…してくれているんだろうか。
そういえば北くんも、移動教室の前には最後まで残っている人だった。意識して見ているわけじゃないからわからないけど、授業中に怒られてるところだって見たことがないし、今もほら、制服を全く着崩さずに纏っている。

なんとなく私はその時、彼に自分と似たようなものを見た気がした。
当たり前のことを、当たり前にやる。それだけのことでもやりたがらない人は存外多いもので────却って逆のタイプの人がいると、"ちゃんとしている"というイメージが浮き彫りになるものだ。

「…北くんはどう思う?」
「ん?」

会話が始まったせいで、私と北くんはなし崩し的に同じ教室を目指して並びながら歩いていた。私より頭ひとつ分大きい北くんの顔を見上げながら、初めて話すには少し込み入ったことを尋ねてみる。

「例えば食事の前後に挨拶したりとか、学校行事に真剣に取り組んだりとか…そういうのって、やっぱなんかサムいんかな」

だんだんと、自分の声が尻すぼみになっていく。「真に受けなくて良い」と言われた以上北くんがそう思っていないことはわかっているつもりだったが、それでも確かめずにはいられないほど、今の私は自分に自信が持てなくなってしまっていた。

「…みょうじさんは、どう思っとるん?」
「私は…そうは思わん。挨拶って大事や思うし、目の前のことに真剣に取り組んだ方が格好ええ思っとる。…でもな、そうしとったらなんでか知らんけど笑われるんよ」

真面目にやっているだけで「ノリが悪い」とか、「面白みがない」とか言われてしまう。
ただ、彼女達が言っていることもわからないではないのだ。冗談を飛ばして笑いたい場面で、ひとりだけ真剣な顔をしていたら、それだけで場が白けてしまう。それに、子供の頃に教えられたことをいつまでも杓子定規に繰り返す様を見て「子供っぽい」と思うのは、考えてみればそれこそ当たり前のことのような気もする。

彼女達は、自由に生きていきたいんだろう。あえて教えられたことに反抗してみせたりすることで、"自分"を主張しようとしているのかもしれない。そう考えると、彼女達の言っていることにも一理ある…と、思ってしまう。

そして、そう考えると、心のどこかで意地悪な自分がこう言うのだ。
私はつまらない人間だ、と。

両親の教えが間違っているとは思いたくない。でも、ふとした瞬間に流されてしまいそうな自分がいる。挨拶をすること、与えられたものに対して真剣に取り組むことは恥ずかしいことなんじゃないかと。

「…やから、ほんまに私はこのままでええんかなって…たまに迷う」

北くんはどんどん遅くなっていく私の足並みに揃えて歩いてくれていた。それだけで、こんな陳腐な悩みを吐露する私の言葉を真剣に受け止めてくれているのだとわかった。

ろくに話したことも相手から人生相談なんて重たい話をされたら、普通は当り障りのないことを言ってその場を凌ぐか、どん引いてさっさとひとり先を歩いて行ってしまうところだろう。それなのに、彼はとても誠実に話を聞いてくれていた。

「────これは俺の個人的な意見なんやけどな」

私の言葉がひと段落すると、北くんは少しの間を置いてから口を開いた。

「みょうじさんがやっとることって、何より大事なことやと思うんよ」

思わず逸らしていた視線をもう一度北くんに向けると、彼は珍しく微笑んで私のことを見ていた。

「"ちゃんとする"って、俺にとっては当たり前のことやから…大変や、とも偉いな、とも言われへん。それに挨拶をせえへん人間はそういう人間なんや、って思うだけやし、あの子らの言い分が特別悪いとも思ってへん。あ、みょうじさんにああいう風に言うのはいただけんけどな。ただ────」

そこで彼はひと呼吸置いた。何か大事なことを言おうとしてくれているような気がして、私も彼の視線を真正面から捉えたまま、次の言葉を待った。

「みょうじさんのことは、前から見とったから知っとるよ。当たり前のことを当たり前にやって、何にでも真剣に取り組む。俺がそういう振舞いが正しいって思っとるだけやからかもしらんけど、みょうじさんの"ちゃんとしてる姿勢"、ええなって思っとった」

────知らなかった。
私は3年生になってからの2週間しか、北くんのことを見ていない。でも彼は今、私のことを前から見ていたと言った。前からって、いつからだろう。私が周りの子に「真面目すぎてダサい」と言われている間も、彼は好意的に私の行動を認めてくれていたのだろうか。

「俺な、ばあちゃんに"誰かが見とるよ"って言われて育っててん」
「…誰かが見てる?」
「そう。どこにでも神様がおって、自分の行動はいつも見られとるよって。そやから俺も、"ちゃんとする"ことにはちょっとだけ拘っとる。…まあ、神様がいようがいまいがそれ自体はどっちでもええなって思っとるんやけど…でも、だからこそみょうじさんの気持ちはようわかるし、みょうじさんが"ちゃんとしてる"ところは必ず誰かが見とると思うよ。たとえそれで何の結果が残らんくても、その過程を認めてくれる人はおると思う」

「俺もそのひとりやしな」と言って笑う北くんの姿が、廊下に差し込む陽光に照らされて明るく輝いて見えた。

別に私は誰かに認められたくて"当たり前"を貫いていたわけじゃない。
でも、こうして誰かが見ていてくれる、と言われるのは、なんだかこそばゆいような気がした。

「北くんって…」

思ったより話しやすい人かもしれない。
そうか、彼も"当たり前"を"当たり前"だと思える人だったんだ。
私ひとり、おかしいわけじゃなかったんだ。

ただきっと、彼女達とは価値観が違っただけ。
傍目に見ればノリが悪くてつまらない人間かもしれないけど、無理にそちらに合わせて杜撰な毎日を送るより、今こうして「見てる人がいるよ」と言ってもらえることの方が、私にとっては遥かに嬉しいことに思えた。

「北くんって?」
「ううん、なんでもない。私もこれから北くんのこと、見とるね。ちゃんとしてるとこ、お手本にする」
「はは、それは一瞬も気が抜かれへんな」

北くんが楽しそうに笑った時、ちょうど移動先の教室が見えてきた。中からは楽しそうに喋っている友人達の高い声が聞こえる。少しだけ、その声が聞こえた時に先程言われた悪口を思い出して胃がきゅっと縮んだが、それを察したのか隣の北くんが「大丈夫」と囁いてくれた。

「ちゃんと、見とるから」

まるで魔法の言葉みたいだ。冷えていた指先に、じんわりと彼の笑顔が温かく沁み渡っていく。

「ありがとう。まだクラス替えあって2週間しか経ってへんのに、気づいてくれて」

あのまま息苦しい環境の中で周りに合わせながらズボラに生きるより、いっそひとりで丁寧に生きていくことを選んじゃおうかな。そんな勇気まで出てくるようで、私は心からのお礼を北くんに伝えた。

そうしたら、彼は────。

「────もっと前から、見とったよ。言ったやろ、前からみょうじさんのこと、ええなって思ってたって」

そんなことを言って、最後にもうひとつ笑ってから教室に入って行ってしまった。

…もっと、前から?
それって…いつから?

暫くはうまく彼の言葉を噛み砕けずにいた。そして、どうやら自分は告白されたらしいということにようやく気づく。
誰かが見てる。それは魔法の言葉であると同時に────魔性の言葉でもあった。

彼がさらっと伝えてきた簡単な好意に、遅れて顔が赤くなった私は、ついまた自分の教室を出てきた時のように棒立ちになってしまった。でも今度は、悪意に晒された悲しみで動けなくなったんじゃない。これは────この気持ちは、なんだろう?

「ほれ、みょうじ。もう授業始まるで、早く入って席に着きなさい」

すっかり周りの音も景色も見えなくなってしまっていた私に、後ろから担当教師が声をかけてくる。驚きのあまり飛び上がってしまった私は「すいません」と慌てて謝ってから、空いている席を探してできるだけ小さく椅子に収まることにした。

────その道すがら、既に席に着いて教科書とノートをぴったり揃えて机に置いていた北くんと、ばっちり目が合った。

「!」

北くんは今度こそ、優しく慈しむような、春の陽光のような柔らかい笑顔で私を見た。
その表情があまりに眩しくて、温かくて、私はつい目を逸らしてしまう。

彼と同じように、教科書とノートを重ねて定位置に置く。日直の気怠げな号令に、深い礼をする。座る時には、スカートの裾を直す。全部、いつものルーティーン。
それでも────今回ばかりは、なんだか自分の挙動のひとつひとつにいつも以上の丁寧さが込められているような気がしてしまった。たぶんそれはきっと────私と同じか、あるいはそれ以上に何でもないことを"ちゃんとしてる"、誰かさんのせいだ。









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