夢であってくれたなら
※最終話まで読まれている方向けです
(ネタバレ回避したい方はこの時点でブラウザバック推奨です)
↓以下ネタバレ非配慮の補足事項
※生存IF
※ざっくり設定→主人公死なずに原作軸まで食い込んでいます。不死鳥の騎士団の頃。
スネイプが突然、学期中にも関わらず何の前触れもなくグリモールド・プレイスに現れたのは、そろそろ夏になろうかという雲が不機嫌な時期だった。
騎士団のメンバーとして紹介されてから、ゆうに10年は経っただろうか。ホグワーツにいた頃より長い年月"仲間"として過ごしているのに、在学中に深く深く掘り進められた溝が埋まることは決してなく、こうして顔を合わせる度に、"騎士団のメンバー"という表の顔を一瞬だけ忘れ、痛い緊張がぴりりと走る。
────私とシリウスは、卒業してからもずっと行動を共にしていた。
いや、実際には、シリウスがアズカバンに幽閉されていた時期を除いて、ずっと行動を共にしていた。
卒業後、私とシリウスは郊外にあった小さな古屋を買い取り、戦争の最中にありながらもほっと一息つける拠点として身を置いていた。
ピーターの裏切りが発覚し、私達それぞれの相棒を失い、その忘れ形見を胸が張り裂けるような想いで(リリーがあれだけ涙と共に語った)血縁者の元へ送ったのは約15年前のこと。
あの日、どちらかが「ピーターを追おう」と言わなければ、どちらかがそれを止めていれば、と何度血を噛んだか知れない。親友を失った痛みから、私達はどちらもが「お互いのストッパーであろう」と約束した16歳の夏を忘れていた。冷え込んだ11月の頭、まだ日も高いうちから、私達はロンドンの街中で人生で一番ともいえる派手な失敗をしてしまう。
普段の私達であれば、もう少し考えることを選択しただろう。そして、どう考えたところで、あの時あの場所であれだけの人を巻き込むという選択肢は、私達のどちらもが取らなかったはず。
あの日からきっと、長い長い悪夢を見ていた。12年に及ぶ、現実とは思えないような地獄の日々。無実のシリウスはアズカバンへ連行され、たまたま離れたところでピーターを捜索していた私は取り残され、その探していた相手であるピーターは行方をくらました。
悪夢なら醒めてくれ、現実だというのなら……死んでしまいたい。
────そう思っても、私は死ななかった。死ねなかった。
シリウスと生きて、再び出会える時が来るまでは。
きちんとお互いが納得をして、笑って別れを受け入れられるようになるその時までは。
私達の縁は、他の誰かや何かに脅かされて良いものではないから。
……まさか、その結果が"脱獄"だとは思っていなかったけど。
「僕達の縁は、僕達以外の何者にも切らせやしないさ。たとえこの手と手の距離が離れる時があったとしても、心までは誰にも触れさせない。そしてまだ僕達は、"死"なんていうしょうもないもので離れるべきじゃない」
脱獄後、真っ先にシリウスはハリーの様子を見に行ったそうだ。ある夏の日の真夜中、もうしばらく目を向けていなかったブレスレット────彼から6年生の時にもらった炎の石が突然輝いた時のことは、よく覚えている。
一定のリズムで明滅する光。それを"受信"する側として見るのは初めてだったが、太鼓のように鳴る心臓を押さえてよく見れば、それはとても簡単なメッセージを特殊な信号で表していた。
『プリペット通りにいる』
このブレスレットは、アクセサリーだけでなく私とシリウスの間でだけ使える通信機の役割も果たしている。これが以前使われたのは、まだ私達のどちらもが10代の時だった。内容は簡単、相手を呼び出すための自分の現在位置を伝えるだけ。そしてそれさえわかれば、あとは私達に、何の情報も要らなかった。
もうこのルビーが光ることはないと思っていただけに、私の行動は早かった。これを送ってきたのがシリウス本人である可能性は、客観的に考えれば非常に低い。でも、違う人がこれを使っているというのなら、一刻も早く駆け付けてその不躾で無神経な手を払わなければならない。そして、もし本人が私を呼んだというのなら────。
私は12年堪えてきた涙を流しながら、愛しているたったひとりの恋人の胸に何よりも早く飛び込むことになるのだろう。
────かくして、私達は再び隣で生きていくことになった。ある時はホグワーツ内の禁じられた森の中で。ある時は南の方にある島で。ある時はホグズミードのすぐ近くにある誰も近寄らない洞窟で。そして、今は────。
シリウスの生家であり、現在再び立ち上がった不死鳥の騎士団の拠点でもある、グリモールド・プレイスで。
ヴォルデモートが復活して以来、私達騎士団は第二期の新メンバーを迎えた上で、更に結束を強くしながら闇の中で光を灯し続けてきた。そう、"私達の掲げる正義"の前に、学生時代の"小さないざこざ"を思い出すことは許されない。わかっているのに……スネイプは、死喰い人から足を洗ってこちら側についた身。いくらその理由が「目が覚めたから」なんて、学生時代から散々聞かされてきた薄っぺらいこじつけじみたものだったとしても、ダンブルドア先生がそれを「是」としたならば、私達は受け入れるしかない。
ただ、彼が今放った言葉は、流石にすぐには受け入れ難いものだった。
「ポッターとその仲間が神秘部に行った」
ハリーが……神秘部へ? こんな学期中の、まだ日が落ちる前から?
「え、えー……でも、ハリーは今頃ならOWLを受けてる頃でしょう?」
「まさか、あの小僧はまだ闇の帝王との繋がりを絶っていなかったのか?」
その時本部にいたのは、私とシリウス、それからここに来たスネイプ、あとはリーマス、トンクス、そしてムーディとキングズリー。トンクスが「信じられない」といった顔で疑いの声を上げたが、ムーディがすぐにその"奥"にある推測を持ち出した。
頷くスネイプ。
「どうやらポッターは、闇の帝王に都合の良い夢を見させられたらしい。神秘部で拷問を受ける、ブラックの姿を見た────と」
さっと、全員の視線がシリウスに集まる。拷問も何も、シリウスは五体満足で今ここに座っている。さっきなんて、怪我をしたバックビークの手当てをしていたくらいで……。
「────どうして止めなかったの」
シリウスが屈辱を味わわされているその光景が嘘であることは、ここにいる"大人"なら誰もがすぐに気づけた。それは、スネイプも同様だったはず。こうして悠長に伝えに来たのは良いが、彼はそれを未然に止められなかったのだろうか?
私が静かに尋ねると、スネイプは蔑むように────「そんなこともわからないのか」と言わんばかりに────鼻を鳴らした。
「あの子供の、父親によく似た行動力のことは、お前の方がよく理解していると思ったがな。止める前には動いている。誰にも相談せず、自分の見たものが全てと決めつけ、周囲を巻き込んで勝手に災いを起こしに行っている────」
「スネイプ、今はハリーの性格診断をしている場合じゃない。大事なことは、今の状況がどうなっていて、我々のすべきことを確認する、それだけだ」
リーマスがスネイプの言葉を途中で厳しく止めた。それに対してもスネイプはまだ苦々しげな表情を見せていたが、流石にまだ裏切る気はないらしく、「闇の帝王に誘われて魔法省へ行ったのであれば、死喰い人が彼らを出迎えるのは時間の問題だろう。我輩が彼らの不在に気づいたのは、まだ2分前のこと。その20分前には、ポッターとグレンジャーがアンブリッジと共に禁じられた森へ行った姿を見ている。向こうへ到着したのがその間の出来事とするならば、両者の邂逅もそう遠くない」と言った。
「それなら、今すぐ私達も行かなきゃ」
「ダンブルドアはこのことを知っているのか?」
「ダンブルドアならじきにここへ来る。誰か1人は残り、彼に新しい状況を伝えねばならぬ────ブラック」
全員が立ち上がったところで、スネイプはいち早く屋敷を出ようとするシリウスを止めた。明らかに苛立った顔で、シリウスは振り返る。
「良いか、私を残そうとしたいなら無駄だ。ハリーは誰のために神秘部へ行った? 私だ! 他の誰が助けに行ったところで、私の生死がわからなければ、そういう状態のハリーが冷静になってくれるとは思えない、そうだろう!」
至極合理的なことを言おうとしているようだが、シリウスのそんな真っ当な言い訳からは「自分がハリーを救いたい」という願いが滲み出ていた。まるで、12年前果たせなかった守りの約束を今叶えようとでもしているかのように。
「世代を超えても傲慢さが変わらないな。貴様が神秘部へポッターを追ったとして、それこそが奴らの思う壺なのだとなぜわからない? 闇の帝王はポッターの心をより孤独にするため、貴様のことは確実に殺す算段だ。特に貴様は闇の帝王を幾度となく怒らせている、個人的にも不快な存在であることは間違いない。今は戦略的に考えてここに留まることが"ひとつの戦う選択"であると、少しでもその腐った頭に機能しているところが残っているのならば、すぐにわかろうというものを────」
「私も君はここにいた方が良いと思う、シリウス」
スネイプの嫌味を引き取り、本気で心配そうな顔をしたリーマスがシリウスに向き合った。彼も一度、シリウスを失った身。完全に"戦略的な選択"をできているとは思えないが、それを踏まえた上でなお、冷静な判断として"誰かが残ってダンブルドアに状況を伝える"ならば、それはシリウスが適任だと判断したのだろう。
気持ちはわかる。ただでさえ外に出づらい身分であるシリウスが、少なからず冷静さを欠いた状況で魔法省に行くことが正しいとは思えない。しかもそこが、久々の戦場ともなれば────シリウスと親しければ親しいほど、彼が激昂し予測の取れない行動に出ることを容易に想像することだろう。
でも、私の答えは彼らとは違った。
「────いや、シリウスは行った方が良いと思う」
それは、14年前の私の後悔が出した答え。そして、まだ成人したばかりだったあの頃の私の心が出した答えでもあった。
"戦場に行かない"という選択は、確かに長い目で見れば賢いものだ。短絡的な考えで命のやり取りに突っ込んでいく方が愚か極まりないというもの。
でも……。
「イリス……」
私は、14年前、"行かなかった"自分を激しく責めた。結果としてシリウスは帰ってきてくれたから良かったかもしれないが、もしもあれが私達の最期だったらと思うと、今でも悪寒に震える。
そして17歳だったあの時、私は"安全"を捨てて"危険"に身を投じることを自分と約束した。戦争に加わることを強制されたわけじゃない。私は、"ただのイリス"として平和な毎日で命を濁すことだってできた。でも、それをしなかったのは────。
「守るべきものが、危険に晒されている。守りたいと願った人が、他ならない自分のために戦っている。ハリーをめぐる戦いが起きているのに、それをただ見ているだけなんて……ううん、この際だからはっきり言うね。シリウス、あなたは絶対に、誰に止められようとも勝手に神秘部へ行くでしょう。黙って、嘘をついて、隠れながら戦争の場に躍り出るでしょう。だったら……どうせ結末が変わらないのなら、最初から私達と一緒に行動を取った方が良い」
私が理想と現実の両方を説くと、ムーディが「ふむ、一理あるな。何せシリウスの無鉄砲さには昔から我々も手を焼いていた」と頷く。彼は歴戦の猛者、戦いにおいてはそれこそ"長い目"でものを見ているタイプではあるのだが、本人が好戦的ということもあり、シリウスの前のめりな姿勢には共感するところがあったのかもしれない。
「でも、それじゃあ誰がダンブルドアにこの事態を報告する?」
リーマスは、まだ納得していないようだった。ここを無人にするわけにはいかない、そういう理性も働いていることだろうけど、本心ではまだシリウスを止めたがっているような様子も窺える。彼は、心からシリウスを心配している……からこそ、こうして彼の本音と"正解"という水を、自らの願いで濁してしまうのだ。
「……クリーチャーがいる」
不意に、シリウスが低い声を吐く。私達の誰もが、その澄んだ水面の煌めきを見つめた。彼は曇りひとつない瞳で私達を映す。
「いる…けど」
反論できたのは、リーマスだけだった。わかっている。私達の"拠点"にいながら、決して"仲間"にはなりえなかった彼をこの局面で"使役"することのリスクが、どれだけ高いかということは。
そして、私だけがきっとわかっている。そのリスクを押してでも彼を使わなければ、きっとシリウスは、一生後悔することになるだろうと。
────その時はまだ、彼の"一生"があんなにも唐突に終わることになるのだとは、思っていなかったから。
魔法省はがらんとしていた。示し合わせたかのように、誰もいない。
どうしてか。10年以上前の記憶が警報を鳴らしていた。死喰い人なら、ヴォルデモートなら、魔法省を夜の帳で包むことなど容易いのだ、このくらいで狼狽えるな、と、あの戦争の毎日をまざまざと蘇らせる。
ああ、こんな表舞台に出たのはいつぶりのことだろう。
ヴォルデモートが復活して以来、裏で情報を集めたり、誰かになりすまして敵の"予定"を狂わせることならあった。そういう工作仕事ならできても、私とシリウスに"杖を上げる"機会は決して与えられなかった。
理由なら、最初にダンブルドア先生から説明された。シリウスは脱獄囚、彼に咎がなかったとしても、何も知らない能天気な市民は彼に罰を求めるから。だから彼は、決して外には出られない。そんなシリウスを独りにしたら、彼は獄中にいる時と同じ毎日を過ごすことになる。誰の力にもなれず、真実も吐けず、ただひたすらに痒い背中に届かない手で肩をかきむしるだけの毎日に、逆戻りしてしまう。
そんな彼を「独りにしない」と言ったのは私だった。私は、戦いを望んでいるわけではない。ただ大切な人が穏やかに暮らせる世界を、笑っていられる日々を取り返したいだけ…それだけの理由で、騎士団に籍を置いた。ならば、シリウスの傍にいて影役者として地味な毎日を送ることと、彼を捨てて"市民"のために戦いに躍り出る毎日、どちらを選ぶかなんて…悩むまでもないことだった。
だから、これは私達2人にとって、久々の"戦闘"だった。
守るべきものを守る。そういう簡単な理由で、杖を取る。
愛したものを愛する。そういう簡単な理由で、術を使う。
「ねえ、シリウス」
「ん?」
走りながらも、私達の口調は穏やかだった。
「ハリーが無事に帰ってきてくれたらさ、叱らなきゃね」
リリーとジェームズの分まで、さ。
「…そうだな。まったく、誰に似たんだか。だからリリーの家族のところに預けるのは嫌だったんだよ。あの2人の血を受け継いでいながら、あいつらと馬が合うわけなんてない。まともな教育を受けられるわけなんてない」
シリウスは笑いながらも、その目に過去を宿していた。
「…だってこれから、あの気性の粗さと凝り固まった頭をどうやってうまく使うのか、"あいつら"から教えられるべきだったんだから」
「うん。だからこそ、これからは私達が代わりに親になろう。子供を授からなかった私達にとっても、親友の忘れ形見は唯一の宝だから……」
命を懸ける戦いを前に、そんな幸せな未来を描く私達。若い頃からそうだった。どうにも私達は、自らの命が危ない時にこそ、そうやって楽しい話をしがちだ。
神秘部の内部には、いくつもの扉がある。それぞれ、貴重でありながら、とても常人には扱えないような研究のため、いくつもの神秘的な宝物が保管されている。
扉がいくつもあるので、どれが一体予言に関するものなのかと一瞬迷ったのだが────。
「大丈夫、正しい扉なら、私が知っている」
魔法省務めのキングズリーが、頼もしい口調で迷わずひとつの扉を開錠した。
中に広がっていたのは、暗い部屋の中にいくつも陳列された棚…だったもの。騎士団内の情報として、予言がどういう形状をしたもので、どのように保管されているのかはある程度知っていたのだが、今やそれらは全て瓦解していた。銀白色の水晶玉のように美しいと聞いていた予言は粉々になり、星の砂のように床に散乱している。
────それだけで、私達がここに至るまでの戦闘の激しさを思い知る。
ハリー達は、無事だろうか。
私達は、その更に奥の部屋へと突っ走り、扉を勢い良く開く。
そこは、紛うことなき戦場だった。10代の少年少女達が、闇の魔術に陶酔した大人の魔法使いを相手に、押されながらも必死で応戦している。
一番反応が早かったのは、トンクスだった。同じく反応の早かったマルフォイがこちらに向かって杖を上げたは良かったが、彼女の失神呪文が放たれる。
死喰い人は、すぐさまターゲットを子供達から私達に変えた。自惚れではなく、事実として、戦いにおいて経験を多く積んでいるのは私達の方。どうやら少年達は劣勢に立たされていたらしい。傷だらけ、あるいは正気を失った状態の彼らより、私達の方が彼らにとっては脅威に映ったことだろう。
私達6人は、石段を飛び降りながら敵に的確な狙いを定め、矢の如き速さで呪いを浴びせる。ただし、相手も長く戦いに身を置いてきている。突然私達が乱入しても、それで陣形が崩れることはなかった。呪いを躱してはすぐさま反撃に出る、その動きは思っていた以上に俊敏であり、更に加えるなら数も相手の方が上回っていた。これでは、子供達を守る目的が後回しになってしまう。
キングズリーが2人を相手取り、シリウスもすぐさま彼の前に立ちはだかった死喰い人と閃光をかわし合う。ムーディはドロホフに応戦しているし、トンクスはレストレンジの方へ杖を向けて────待て、マルフォイは?
マルフォイだけじゃない。あれだけ散らばっていたはずの死喰い人は、今や視界に入る限り全員が私以外の5人と戦っている。もちろん私も呪いを弾き返すくらいはするが、それ以上に子供達のことが気がかりでならなかったので、特定の誰かに狙いを定めるようなことはしなかった。
死喰い人達の狙いは予言だ。誰が持っているのかわからないが、今ここにいる子供は、ハリーとネビル────……一緒にいる。しかも、ちょうど私がその存在に気づいた時、ハリーはまさにマクネアを失神呪文で倒したところだった。
「ハリー!」
一声叫び、彼の元へ向かおうとする。ハリーがその幼い手に銀色の丸い球を持っていることには、すぐ気が付いた。予言だ。本人も、予言も、ハリーが持っていたのだ。
「! イリス!!」
ハリーは私に気が付くと、一瞬だけ安堵したような表情を浮かべた。しかしそれも、即座にドロホフの発した呪いによりかき消される。
まさか、ムーディが…? 不安になりながら周囲を見ると、ちょうど私達の足元に彼の魔法の目が転がってきたところだった。嫌な予感が背筋をさあっと這い上がるものの、今は────それどころじゃない。
戦争という大きな時の流れの中で、一人ひとりの安否を常に確認することはとても難しい。全てが終わった時、誰が笑って名を呼んだ時に返事をしてくれるか。そういう方法でしか、私達は互いの命を把握できない……それが、戦いだった。それが、現実に流れる時の、残酷な速さだった。
「タラントアレグラ!」
ドロホフはネビルに向かって呪いを放った。彼の体に直撃した呪いは、少年に熱狂的なタップダンスを踊らせる。ネビルが倒れ、ハリーがそちらに気を取られたその瞬間、ドロホフは彼から予言を奪おうと手を伸ばした。
「プロテゴ!」
私とハリーが同時に盾の呪文で身を守る。ドロホフの無言呪文が掠ったのか、瞬きの間、ハリーの動きが痛みに鈍る。その体を、私は咄嗟に支えた。
温かい、がっしりとした体。15歳の、まだ成人すらしていない…でも、しっかりと成長してくれている、年相応の青年の体。血が通っていて、心臓が脈打っていて、何よりその目が、唇が、生気に満ち溢れていた。
こんな大変な時だというのに、もしかしたらありえたのかもしれない"守れなかった未来"や、失わずに済んだのかもしれない"守れた過去"が頭をさっと過り、目頭が熱くなる。
守るんだ。
この子のことを。この子と共に戦う、幼くして未来を背負おうとしている少年少女のことを。そんな彼らが安心して生きていける、そんな世界を。
ドロホフが、呼び寄せ呪文を唱えようと口を開いた。私は今度こそ彼を退けるべく、口の中で可能な限り早く石化の呪文を呟いた。
そんな時。
私の呪いを外す衝撃が、ドロホフを襲った。私の呪いが当たるはずだった場所から彼は大きく体をのけ反らしながらずれ、人ひとり分の距離はあろうかというくらい派手に吹き飛んだ。
────シリウスだ。
彼が、私の呪いが射出される瞬間と同時に、彼を肩で跳ね飛ばしたのだ。
目と目が合う。「やっとこの時が来たな」、「そうだね」。そんな会話を、視線だけで交わす。彼もまた、守りたいものを守っても良いのだと許される、その時をずっと待っていた。少しばかり高揚している様子なのが、まったく場を思い遣らない彼らしくて…私も、不謹慎なことに少しだけ笑ってしまう。
ドロホフはすぐに体勢を立て直すと、ここに来てから何度も見せていた鞭打つような杖の動きを見せてきた。危険信号も、何度も見ていれば恐れることはない。ハリーは────
「ペトリフィカストタルス!」
────私が唱えた呪文を、そっくりそのまま…今度こそ、ドロホフに見舞った。
…考えることは、同じだったんだね。そういえば、決闘の練習をしていた時…しょっちゅうリリーと掛け合う呪いが被ってしまって、お互いに跳ね返った自分の呪いを食らっていたっけ。
親友の忘れ形見と共に戦っているせいなのか、集中しなければならないとわかっているのに、私の頭の中には過去の幸福な記憶で満ちていた。命が懸かっているというのに、私は────この時を、幸せだと思っていた。
「いいぞ!」
シリウスが吠えるように称賛の声を浴びせ、ハリーの頭を引っ込めさせることで呪いを躱させた。その声は、私が言えたことではないが、呆れてしまうほどに浮かれきっている。
どうせ彼もハリーに、ジェームズの影を見ているのだろう。私が先程、リリーの影を彼に見たように。
ハリーはハリーだ。ジェームズでもリリーでもない。でも、その2人の血を、共に過ごせた時間がどれだけ短かろうとも、しっかりと受け継いでいる。
今ここにいる大人2人が子供のようにはしゃいで、戦争をごっこ遊びのように弄んでいることを、平和になった世の中でいつか謝らなければならないな。
「さあ、君はここから出て────」
平和ボケしそうになった頭に、冷や水を浴びせられる。今私達の体の隙間を間一髪ですり抜けたのは、死の呪いだった。出所を即座に探ると、遠くの方でレストレンジが血走らせた目をらんらんと輝かせている。
────間違いない。彼女は、もはや予言を言葉の交渉で奪えないと分かった以上、武力でハリーから無理やりにでも予言をもぎ取ろうとしている。きっと死の呪いの標的は、ハリーではないのだろうが────今や彼の傍には、彼の味方、彼が大事にしている人しかいない。それらを全て殺して、ハリーを孤独にした上で、ゆっくりと予言を奪うつもりなのだ。
当然、そんなことを許す我々ではない。シリウスがすぐさまレストレンジを追い、ハリーの傍から離れた。
「ハリー、予言を持って、ネビルを掴んで走れ! そしてイリス、君が彼らを助けてやってくれ!」
私もレストレンジとは因縁がある身、追いたい気持ちはあったものの、ここでハリーを独りにするわけにはいかないと────ああ、そうだ────今思えば、私はまた誤った────シリウスと分かれる道を、選んでしまったのだった────。
その時の私は、”全てがきっとうまくいく”と信じていた。14年前の悲劇と比べたら、今の状況は間違いなく私達にとって有利だったから。そしてあの時より、事態はもっと切迫していたから。未来で抱くかもしれない”後悔”のことを考えるより、目の前の命と、過去抱いた後悔を払拭できるかもしれないという期待に身を寄せる方が、遥かに易く、そしてそれも間違いなく私にとっての悲願であった。
「立てるかい? 腕を僕の首に回して────」
ハリーがネビルに肩を貸し、立ち上がる。ただ、ネビルはまだドロホフにかけられた呪いから解放されていない。足をばたつかせたままでいるので、このままでは一蓮托生となっているハリーの手の中の予言が危ない。
「ハリー、ネビルと予言は私に任せて。戦いながら隙を見て、にはなるけど……呪いはできるだけ早く解除する。あなたも怪我をしているの。仲間の命は私に預けてくれて良い、あなたはまず、自分のことを守ることに集中して。逃げるの」
そう言っている間にも、マルフォイがハリーの肋骨に杖先を突き付けている。
「…っ、わかった。ネビル────受け取れ!」
ハリーの判断は、15歳の子供とは思えないほど早かった。予言をネビルの方へ放って寄越し、肩越しにマルフォイへ妨害の呪いを放ち、彼を後ろの台座まで吹き飛ばす。…なるほど、伊達にアンブリッジの目を掻い潜ってダンブルドア軍団を結成し、仲間に防衛呪文を教えていたわけではないらしい。ここが命のやり取りの場でさえなければ、つい口笛のひとつは吹いていたかもしれない。
ネビルの方も、足がもたついて体の自由を奪われている中、それでもしっかりハリーの投げた予言を抱き止めた。
「あなた達、最高だよ! さあネビル、私に掴まって────。その呪いの反対呪文はちょっと複雑だから、応戦しながらになると今すぐ解除してあげるとは言えないんだけど────」
言いながら、またもマルフォイの視線を感じたので、すぐさまそちらに杖を向ける。
「必ず、あなたを無事に外まで連れていく。ハリー、あなたもね」
3人で強く頷き合い、石段の上を見据える。私はマルフォイの攻撃を防ごうと口の中で詠唱を始めた。その時────。
「こっちは僕が引き受ける、イリス、彼らを連れて、行くんだ!」
リーマスが、私達とマルフォイの間に飛び込んできた。
私は瞬間、彼と共に同じ戦場で背中を預け合ったことはなかったな、なんて場違いなことを思い出した。一緒に戦い続けてきたのに、戦場で彼がこんな顔を見せるなんて、知らなかった。もちろん、大人になった分の経験や感情は上乗せされているのだろう、でも、攻撃的な敵意を剥き出しにし、普段の上品な口調を収めて荒々しく叫ぶその様は、まるで本当に獰猛な獣のようで────それが、今の私には、とても頼もしかった。
リーマスになら、任せられる。リーマスなら、大丈夫。
そういうことならば、まずはネビルの呪いを解こう。その分の時間は、絶対に稼いでくれる。そう思って彼の足元に杖の狙いを定めた時だった。
ハリーがリーマスの言葉を素直に受け止め、ネビルのローブを掴むとその体ごと石段に引っ張り上げた。あちこちに体を打ち付けながらも、少年2人は構わず無理やり上っていこうとする。
「待って、今はリーマスがここを守ってくれているから! ハリー、一度止まって! ネビルの呪いを────」
「がんばるんだ! 足を踏ん張ってみるんだ────!」
私の声は、届いていなかった。これまで何度も言い聞かせれてきた「逃げろ」という言葉しか、今のハリーの中には響いていない。ネビルも自分の体のことで必死なようで、予言をポケットの中にしまいこむことで、それを不用意に放り出すことを防ごうとしている。
駄目だ。咄嗟の状況判断には長けていても、その中で幾多もある選択肢の中から優先順位をつけるところまでは、彼らにはできない。どうにか、もがく彼らの隙間から呪いを私が解除するしかないのだ────。
ハリーが、もう一度ネビルを引っ張った。それと同時に、彼のローブが引き裂けてしまい、予言が床に落ちた。
予言を守る。ネビルの呪いを解く。"足を止める"ということすらできなかった彼らに、そのどちらかを求めることなどできただろうか。実際、私ですら、間に合わなかった。こんなにも彼らの傍にいていながら。誰よりも近くで、彼らを守ることを約束しておきながら。
────ネビルのばたつく足が、予言を蹴飛ばす。予言は数メートル先へと飛んでは砕け────中に封じられていた"秘密"が、外に漏れ出す。幸か不幸か、シビル・トレローニーがこの予言をした際に告げた言葉は、この戦いの轟音の最中では何も聞き取れなかった。あっという間に彼女の予言は立ち消え、そこにはもはや"無"しか残されなくなってしまう。
ネビルが一生懸命謝っているが、もはや全てが後の祭り。不幸中の幸いだったのは、敵も今の段階では予言が破壊されたことに気づいていなかったところだろうか。まだハリーとネビルを慎重に狙い、命ではない何かに杖先の焦点を合わせようとしている姿が窺える。
起きてしまったことは変えられない。それならば、今この現状で取るべき最も有効な策は、真実を気取られないまま彼らを外に逃がすことだ。私は尚もネビルとハリー、そして彼らを送り出すべき扉の向こうを見据え────。
見据えた、その時だった。
戦いの轟音の中で、その扉は音もなく開いたように思えた。そのせいで、"彼"の登場はあまりにも突然で、そして自然なものとなる。
「ダブルドー!」
ネビルが叫ぶ。ハリーもすぐに気づいたようだった────ダンブルドア先生の、登場に。
誰かに目を配ることも一切なく、彼はまるでそう、その2つの目でこの場の全体が見えているとでも言いたげに、石段を一気に降りると、彼の出現に気づき対応を変えようとしている死喰い人を何人もまとめて倒してしまう。
形勢は逆転した。たとえ戦争を知らない時代を経ていようとも、彼の動きは衰えるところを知らなかったのだ。たった一人その場に増えただけで、10人分、いや20人分の戦力がこちらに加わる。こちらは計画通り、若人を逃がし戦線離脱するだけ────決戦の時は、今ではないから。
「さあ……」
「待って!」
私の心にも勢いが戻り、ハリー達の背を支える。しかしそのまだ頼りない背に手を掛けたところで、ハリーの悲痛な声が私の意識を後方へと向けた。
「っ────!」
視線を向けて、驚愕する。誰もが一瞬止まった時の中、唯一、いやたった2人だけ、戦争の時を止めることなく流している者がいた。
ダンブルドア先生が現れたことに、気づかない人がいたなんて。
しかもそれは、レストレンジと……シリウス……!
彼らは私に言わせれば、"誰にも邪魔をされない"空間にいた。
「さあ、来い。今度はもう少しうまくやってくれ!」
シリウスは笑って、レストレンジを挑発していた。心から楽しそうに、動きも声も表情もここ数年の中で間違いなく一番大きく揺らし、レストレンジのことだけを見ていた。
いけない、あの状態の彼を、放っていては────!
その時、私は我慢し続けていた"騎士団員としての役目"を忘れ、少年達の傍を離れた。彼が敵しか見ていない時は、大抵無謀な戦いをしようとしている時。駄目なんだ、そういう彼をひとりにしてしまったら。
「シリウス────!」
しかし、私がそこで彼の名を呼んだことこそが、悪手だったのかもしれない。ぴくりと彼の肩が私の声に反応して跳ねる。そして、条件反射のようにこちらを見た瞬間────。
レストレンジの放った呪いは、シリウスの胸にまっすぐ当たった。
ふつり。
その、糸が切れるような音は、一体どこから聞こえたのだろう。
「待って、やめて、駄目っ────!!! シリウスっ……!」
頭の中に、シリウスとのたくさんの思い出が蘇る。出会って間もないころの仏頂面、たまに見せてくれたニヒルな笑み、血が通っていないのではないかと不安になるほど美しい手の意外な温もりや、真っ黒な瞳に宿した煌めき。
「好きだよ」
彼は何度もそう言った。
「必ず君のところへ帰るよ」
彼は何度もそう約束した。
それなら、どうして────。
不自然なほど静かで、何の音も拾ってくれない私の耳。そんな中で、シリウスは私を最期に見た時の、興奮と安堵が混ざったような、憎しみと愛しさを混ぜたような、今までで一番複雑な顔を浮かべながら────"ベールの向こう側"へと、消えてしまった。
シリウス。
もう二度と、置いていかないでって。
置いていかないからって、
そう、約束したのに。
横目に、後を追おうとするハリーとそれを止めようとするリーマスの姿が目に入る。
しかし私は────レストレンジの勝ち誇った叫び声と、どこかへと逃げようとしているらしいその後ろ姿を、既に捉えていた。
「でも────もし、まだ手を取り合う余地があると思ってくれるのなら────僕がブレーキを壊しそうになった時には、君に止めてほしいんだ」
ねえ、シリウス。
私、初めてあなたと本当にわかりあえたあの時のこと、まだ覚えてる。
「どれだけ危険を冒そうとも、何を知ろうとも、必ず最後には君のところに帰るよ。何年もかかってようやく僕の手を取ってくれた君のことを、離したりはしない。それだけは約束する」
永遠なんてないって、わかってた。どこかできっと、そんな約束だって残酷に破られるものなんだと、覚悟していた。でも、お互いにそれを理解した上でそう誓ってくれたあの夜に、私は幸せを知った。
「出会い方も距離の詰め方も最悪だったけど────それでもやっぱり僕はあの日、君と出会えて良かったと思う。君と何度も喧嘩をしたことさえ良い思い出だ。それで────君と、恋人になれたことが…今は本当に幸せなんだ」
私とあなたの人生はこれからだって。また共に歩める日を始めようって、暗くて湿った世界の中、それでも変わらない夢を見ながら、私達は一緒に足を踏み出したのに。
「僕が初めて自分から欲しいと望んだ存在が君だったんだ! 僕が初めて、何もしなくても幸せだと感じられると思えた存在が君だったんだ! 僕が君を手放すなんて、天地がひっくり返ろうがありえない!」
何度も離れた方が良いんじゃないかって考えて、悩んで、話し合って────その上で、これからも共に在ろうと、確かめ合ったのに。
「僕なら大丈夫だ! あいつは────あいつには、必ず一発くれてやらなきゃ気が済まない!!」
どうしてあなたはそう、目先のことばかり追いかけて、後ろにいる私のことを置いて行ってしまうの。まるで学生時代の時みたいに。
「君への愛に誓って、必ず帰ると約束する」
ねえ、シリウス。
私、怒ってるんだよ。
今度こそ一緒にハリーを守ろうって約束したのに。あの時のピーターならともかく、あなたってば、レストレンジなんかの挑発に乗っちゃって。
帰ったら、お説教しなきゃ。ハリーもあなたも、あまりに無鉄砲すぎるって。
「おーやおや、おや! やっぱりお前が一番乗りかい、リヴィア!」
エレベーターでアトリウムまで上がると、レストレンジの高らかな声に出迎えられた。
「お前よりあの小僧に執心した女は見たことがなかったよ。薄っぺらで、汚らわしくて、ライオンというよりあれじゃあ犬同然じゃないか! 無駄吠えが多い、誰にも首輪をつけさせない、だらしない犬を! よくもまあそこまで愛せたものだ!」
「うるさい」
シリウスを奪ったなんて、こいつにだけは絶対に言わせない。知ったかぶったようなことを言いながら、シリウスのことなど一度もまともに見たことがないくせに。シリウスがどれだけ愛されていて、どれだけ愛されるべきだったのか、一度も考えようとしなかったくせに。
「お前のことだけは────絶対に、許さない」
シリウスのことを遠くへやった。私達の心の距離は、誰にも分かつことなどできない。それでも、毎日触れていたあの頬の感触を忘れさせようとする全てが────私は昔から、大嫌いだった。
「全員ここに呼べ。お前も、ピーターも、ヴォルデモートも……全員、私が、葬り去ってやる」
ヴォルデモートの名を口にした瞬間、レストレンジの顔が歪む。しかしその瞬間、後ろのエレベーターが再びこの階に誰かが来たことを知らせた。
「────ハリー!」
「ほう…ハリー・ポッター…。お前もまさか、私の可愛い従弟の敵を討ちに来たのかい?」
「そうだ!」
迷いなくレストレンジに杖を向け、「クルーシオ!」と唱えるハリー。しかしその眼は、あまりにも純粋すぎた。瞬間的に苦悶の表情を浮かべたレストレンジだったが、すぐにその表情に厭らしい笑みが戻る。
「まっとうな怒りじゃ、そう長くは私を苦しめられないよ────どうやるのか、教えてやろうじゃないか、え?」
いや、その必要はない。
「ハリー、下がってて」
「でも、イリス」
「聞こえなかった? 下がっていなさい」
ハリーが、私の表情を見てぎょっと体をすくませる。
怒りだけじゃない。まっとうな"感情"を持っている限り、この女を苦しませることはできいない。そんなことなら、16歳の時からよく知っていた。
この女は絶対に殺す。でも、ただ殺すだけじゃ意味がない。
「私が、本当の許されざる呪文を教えてやる……」
今の私には、ストッパーがいなかった。だってジェームズも、リリーも……そしてシリウスも……私を止めてくれる人は、もう皆私の傍から離れてしまったのだから。
「ハッ、お前のことはようく知っているぞ、リヴィア! 臆病で、争いを好まず、人を憎むに憎めない────そんなお前が、許されざる呪文を教える? いよいよのぼせ上っているようだな、お前のような小娘が、私を────」
「クルーシオ」
余裕たっぷりに放たれた煽りは、即座に搾り取るような悲鳴へと変わった。
「どうしたらお前が最も一番傷つくだろうね。予言はもうなくなった。それを"自分のせいで"失ったのだと、服従の呪文でお前の愛しいご主人様に直接報告をさせてやろうか?」
「カ…ハッ…!」
レストレンジがひくひくと痙攣している。やめろ、と言いたげな目でこちらを見上げて訴えていたが、お忘れだろうか────私は、私の大切な人を害する者は、もう人間…尊厳ある生き物としてはみなさない。
私からシリウスを取り上げて良いのは、シリウス本人だけだ。絶対に、誰にも干渉させない。
「嬉しいでしょう? 愛しいご主人様に、真っ先に報告できるんだ。愛しい人の言葉なら、どんなものでも聞きたいでしょう? でもね、その喜びすら、私はお前から奪ってやる。お前は私の全てを奪ったのだから────」
シリウスの眩しい笑顔。優しい声。繊細な手。上品な仕草。私だけに伝えてくれる、愛しているの言葉。それらの全てが、もう思い出になってしまった。つい数刻前までは、全てそこにあったのに。
14年前の別れとは、また違う痛みが胸を襲っていた。あの時は、まだ希望があった。もしかしたらまた出会えるかもしれないという、未来も見えていた。
でも、あのベールのことは……本でしか読んだことがないが、存在を知っていた。あの向こう側にあるのは、"死"だ。もう希望も未来もない。手元に残されたのは、美しい過去と絶望の今だけ。
「嘘、つき、め……! おまえ、は……予言を、持っているんだ、ポッター…!」
息も絶え絶えに、恐怖を滲ませながらレストレンジが叫ぶ。しかしハリーはどこか興奮した様子で、「何もないぞ!」と言い返している。そして、彼の言っていることの方が事実だ。私が冷たい目で見下ろすと、レストレンジの目が更なる恐怖で見開かれた。呼び寄せ呪文を何度唱えても予言は現れないのだ。彼女が現実に気づくのは、時間の問題だった。
「ご主人様! 私は努力しました! 努力いたしました────どうぞ私を罰しないでください────」
結局、恐怖による統治とはこの程度のものなのだ。自分の考えなどなく、右と言われれば右、熟れた林檎も黒と言われれば黒、そうやって憧れた人の言うことを鵜呑みにして、自分ではなく他人の未来を創ろうとする愚かな絡繰人形。レギュラスが離れたのは、私にとっても間違いではなかった。
「努力はしたんでしょう? 自分にできることはしたんでしょう? なら、その失敗は本来仕方のないことだよね。何も謝ることなんてないはず。それなのにそんな風に泣いて謝るなんて……あなたの努力が足りなかったんじゃない? ああ────それとも、あなたの愛するヴォルデモート卿は、大事な仲間が努力の末に一度失敗しただけで簡単に切り捨てるような、薄情で短絡的で愚かな生き物なの?」
「ご主、人様…を…それ以上、愚弄……する、な…ぁああああああ!!!!」
「え、なあに?」
レストレンジの悲鳴が語尾と共に大きくなる。どれだけ痛そうにされても、私の杖が勝手に暴発しているのだから仕方ない。
こういう時、真っ当な人なら謝ったりするのだろうか。でも、私は可哀想だと思いこそすれ、この手を止めようとは全く考えていなかった。
これは当然の罰だ。むしろ、これ以上にどう苦しめれば良いのかと悩んでしまうくらいに。
「────ポッター」
しかしレストレンジの悲鳴だけが響く中、突如として冷たく甲高い声が、一瞬にしてアトリウムを支配した。
この声は知っている。正確には、"この声"を直接聞いたことはなかったものの、この本能的な"恐怖"という負の感情を呼び起こし、どれだけの囁きだろうと鼓膜を真っ先に震わせるような、そんな声の主を、私は1人しか知らなかった。
────ヴォルデモート卿だ。
彼は何の手段を用いてかは知らないものの、ここへ白昼堂々と現れた。レストレンジがクルーシオを受けながらも喘ぎながら這って彼の足元に跪き、泣きながら何かを訴えている────(私は知りませんでした、動物もどきのブラックと戦っていたのです!)────。
そりゃあ、知る由もないだろう。シリウスのことを独り占めしておきながら、他のものに視線を移していたなんて、私が許すものか。
ヴォルデモートは、レストレンジになど目もくれない。まっすぐにハリーだけを見据え、危険であるということだけを相変わらず主張し続けながら杖を音もなく彼に向けた。
────そうはさせるものか。
「お前はあまりにも長きにわたって俺様を苛立たせてきた────アバダケダブ────」
「プロテゴ!」
私はハリーの前に急ぎ立ち塞がると、ヴォルデモートの方へ向けて鈍い白色の保護魔法をかける。
「お前さえ…お前さえいなければ────!」
ヴォルデモートの足元でぐったりと動かなくなった、生死もわからないレストレンジ。死ななくて良い。ただ生きているだけの廃人となり、命を捧げたご主人様にとっても役立たずにしかなれなくなっていけば良い。愛した人に殺されるなら本望? そう言えるのだとしたら、お前は相当の愚か者だ。愛しい人に見放され、道具以下の扱いを受け、使い捨てられるのが現実。どうせヴォルデモートのこと、レストレンジが「罰しないで」と懇願したその願いを踏みにじって、絶望を味わわせることだろう。
だからといって、私の気持ちがすっきりすることはない。
ヴォルデモートがいなければ、レストレンジは彼の配下に下らなかった。レストレンジがいなければ、シリウスがあそこで死ぬことはなかった。────私達の未来が、こんな小物に引き裂かれることはなかった。
「お前は────ああ、そうか。穢れた血の女だったな。名までは覚えていないが」
「覚えられる義理はない。私は今、ただただお前が憎くて仕方ないんだ……!」
私の怒りが増す毎に、保護魔法の力は強くなる。ヴォルデモートの呪いは私の魔法に押され、緑の光は白い光にどんどん飲み込まれていった。
「お前さえいなければ、多くの罪なき人の命が奪われることはなかった。お前さえいなければ、がらんどうの無様な闇の魔法使いがこんなにも生まれることはなかった。お前さえいなければ、シリウスは────!」
怒り、憎しみ、苦しみ、悲しみ、全ての負の感情が、私の杖先に乗っていた。やがてその光は、ヴォルデモートの杖を取り落とすほどに強くなる。流石にこれは予期していなかったのか、彼の表情には僅かな曇りが差した。
今ここで殺せないことは、わかっている。レギュラスが命を懸けて教えてくれたから。
でも、私の悲しみは全て、この男のせいと言っても良い。私が悲しむ時、苦しむ時、その原因の根源は全てこの男にあった。
だから────。
「セクタムセンプラ!」
すぐさま、"彼の部下が作った呪文"を放った。ヴォルデモートはそれを無言で跳ね返したが、そんなものは想定内だ。私は言葉で呪文を唱えると同時に、心の中でも別の呪文を唱えていた。
エクスパルソ。
呪文を跳ね返している間に次の呪いが来たものだから、流石のヴォルデモートも完全には捌けなかったらしい。体を吹っ飛ばすほどの威力は出なかったが、片足が後ろにずれる程度の体勢崩しには成功した。
そして、これが成功した時のことを考え、私は既に次の手を打っていた。
「イモビラス!」
一瞬で良い、動きを止めることさえできれば────。
「インカーセラス!」
そしてこれも、体の一部の自由さえ奪えれば────。
ディフィンド、これで固まった体の部位を裂き、インセンディオ、その部分を燃やす。
反撃も防御も、そんな隙を与えるものか。無言呪文と詠唱呪文を交互に使いながら、ヴォルデモートを少しずつ追い詰めていく。
「闇の帝王が、無様だね」
何度も何度も杖を回し、呪文を唱える。そして、
「クルーシ────」
遂に、許されないとわかっていてなお再び使おうとした、拷問の呪いを唱えようとしたところ────。言い終える前に、私の杖は手元から落ちてしまった。慌てて前を見るが、ヴォルデモートが私に杖を向けている様子はない。むしろ私でも、ハリーでもなく、もっと遠くを見ていて────。
「ああ……」
そこで私は、この戦いが一旦終わったことを悟ったのだった。
ダンブルドア先生が、そこにいたから。
*
翌日。
私はホグワーツを訪ね、ハリーへの面会を許可してもらえることになった。
正直、昨日の今日だ。お互い消耗しているし、怪我もたくさんしている。とてもまともに話せる状態ではないとわかっていたものの────それでも、私は彼に会いたかった。
結局あの夜、ダンブルドア先生が現れたことにより、実質その場は先生とヴォルデモートの一騎打ちとなったそうだ。その結果、ヴォルデモートはまたしても尻尾を巻いて逃げた。レストレンジを連れて。
魔法省にヴォルデモートの存在が明るみに出たことは、世間的に見れば幸いしたことなのかもしれない。でも、そんな小さな前進よりも、私にとってはシリウスを失った不幸という感情の方が余程大きかった。
ダンブルドア先生には、流石に咎められた。ああも連続して許されざる呪文を使うのは、褒められたことではないと。怒る気持ちはわかるが、怒りに任せて法を犯してまで相手を傷つけることは、騎士団の精神にも反すると。実際、私の人生最大の怒りが込められた拷問の呪いのせいで、レストレンジはすっかり正気を失ってしまったらしい。ヴォルデモートは彼女を殺しこそしなかったものの、しばらくは使い物にならないからと言って、彼の拠点としている場所(どこなのかは知らない)の牢獄に閉じ込めているらしい。
ただ、それを聞いても私は「ざまあない」としか思えなかった。そう思ってしまった時点で、私もどこか狂ってしまったのだろうと思う。こんな姿をシリウスに見られたら、と考えないわけではなかったが、そのシリウスはもういないのだ。私を責めても良い人は、もうどこにもいなかった。
リーマスは、その最たる例だった。私の暴走癖は彼もよく知っていたし、「それだけ君がシリウスを想っていたっていうことだと、そう捉えることにするよ」と笑いも怒りもせずに、静かにそう言っただけだった。
約束の時間になって、使われていない教室を訪れる。ハリーは既にそこにいて、ぼうっとした表情で天井を見ていた。
「ハリー」
「イリス」
名を呼ぶと、彼はすぐに反応した。昨晩は泣いていたのだろうか。腫れぼったい瞼に、目の下には隈もできている。頬はおそらく擦りすぎたのだろう、擦り傷のようなものができており、頬が一晩にしてこけていた。
「……」
会いたかったから来た。でも、話したいと思えるほどのことは特になかった。そのせいで、部屋には居心地の悪い沈黙が降りる。
「…ごめんね、それどころじゃないってわかってたのに、無理やり面会を取り付けたりして」
「ううん。…それに、僕も伝えたいことがあったから」
伝えたいこと?
素直に首を傾げると、ハリーはぐっと唇を噛みしめ眉根を寄せてから────私に向かって、小さく頭を下げた。
「"あの時"、一緒に駆け付けてくれてありがとう。僕の代わりに、復讐をしてくれてありがとう。……一緒に、シリウスのことで怒ってくれて……ありがとう」
「あ……」
その言葉で、全てを悟った。
そういえば昨日、ダンブルドアはこう言っていたか────「ハリーにも、もう隠し通すわけにはいかぬ。これまでの真実を、全て聞かせるつもりじゃ」と。
きっとハリーは、どうして自分がダーズリー家に預けられたのか、どうしてヴォルデモートに狙われているのかを聞かされたのだろう。そして、どうしてシリウスがあの晩死んだのか────私と同じような話を聞かされたのだろう。つまり、至極冷静な立場から、まるでシリウスは死んでも仕方がなかったと捉えられてしまうような、残酷な事実を。
私はまだ……年齢を重ねていたから、「まあダンブルドアならそう言うだろう」と思えた。それでも、怒りが収まるわけではなかったが。
でも、ハリーは? 15歳の少年に、もし私と同じような説明をしていたのだとしたら────……彼の怒りと後悔は、誰にも理解されなくなってしまうことになる。
だからハリーは、私にわざわざお礼を伝えてくれたのかもしれない。
あの場で最も怒り狂ったのは、私だった。シリウスを失ったことに慟哭し、彼を殺したレストレンジに真っ先に復讐しに行った。決して完治はしないであろう後遺症を負わせ、主人を失望させるという彼女にとって最も絶望する事態を引き起こし、そして、ヴォルデモート自身にも少なからず痛手を負わせることができた。
あの時、ハリーの気持ちに最も近かったのは、私の感情だ。
「────シリウスは、まだ失われるべきじゃなかった」
「うん」
「私達にとってシリウスがどれだけ大事な存在なのかわかっていたから、あの女はあんなに楽しそうに笑っていたんだ。それが、どうしても許せなかった」
「僕も」
「まあ……変に挑発したシリウスのあの大声は、いただけなかったけどね。……叱る機会を、与えてほしかったな……」
「イリスがシリウスを怒ってるところ、僕……まだ、見ていたかった」
「本当、どうしてあの人はいつも私達を置いて勝手にどこか行っちゃうんだろうね」
「それが"シリウスおじさん"なのかな」
「────そうなの。身勝手で、おばかさんで────でも、その時々の選択を、彼は絶対に後悔しない。だから……きっと、死んだとしても……」
嫌だ。子供の前で、泣きたくなんかない。
それなのに、目頭が勝手に熱くなる。
「…僕のせいだったんだ」
涙を堪えるために黙り込むと、ハリーが苦しそうに声を絞り出した。
「僕が、もっとちゃんと閉心術を勉強していたら。それこそいきなり飛び出すんじゃなくて、スネイプでも良いから、今すぐシリウスの安否を確認してもらっていたら。クリーチャーの言葉なんかを信じたりしていなかったら────」
「ハリー、それは違うよ」
矢継ぎ早に自分を責めるハリー。私は彼の肩に、そっと手を乗せた。
「早合点だったことは、私も認めるよ。でも、あなたはシリウスのことが大好きで、大切だから、一刻を争ってでも"自分で"助けに行くことを選んだんでしょう。それが間違っていたのは、あくまで結果論。ハリーのシリウスへの愛がそれだけ大きかったっていう意味で、あの決断は、決して責めるだけに終わるものじゃないと思うんだ」
これは、私にしか言えないことだった。私もきっと、同じものを見ていたら、むしろ仲間を集めることすらせずに単身魔法省に乗り込んでいただろうから。
「駆け付けられて、良かったよ。本当はレストレンジも、ヴォルデモートも、死より惨い目に遭わせるつもりだったんだけど……」
「でも、僕が同じことをしようとしても、イリスの十分の一もきっとできてなかったよ」
「そうかな」
それきり、部屋は再び沈黙に包まれた。
互いが互いに心を痛めているのだから、元気づけてくれる人などどこにもいない。でも今の私には、却ってそれが救いだった。
「────いつか、受け入れられると思う?」
「さあ…大人としては『大丈夫だよ』って言いたいけど…。私は、きっと無理だな」
「…愛し合っていたもんね」
「うん」
自信を持って、答える。
「僕も、シリウスのことが大好きだった。これから、いろんなことを一緒にやっていくって約束してたんだ。シリウスと、イリスと、3人で暮らす未来も楽しそうだねって、話していたんだ……」
その姿があまりにも心細そうだったので、私は思わずハリーを抱きしめた。
「……イリス」
「私は、シリウスと二度と会えないことを受け入れることも、乗り越えることもきっとできない。でも────あの人と約束した、"私達が笑って暮らせる未来"を取り戻すために、これからも戦い続けるよ。私の大事な人が、幸せであれるように……シリウスを害した者達を全て滅ぼすまで、杖を上げ続けるよ。……ハリー、わかる? あなたは、そんな私の、とってもとっても大事な人なの。だから────頑張るね、私」
一緒にはいられないけど。背中はもう、預けられないけど。
でも、ハリーを守ろう…そうシリウスと交わした約束は、まだ生きている。
シリウス。
ねえ、とても遠くへ行ってしまった、愛しいあなた。
それでも、私がそちらへ行くまでは、見守っていてくれるよね。
後追いなんて馬鹿なことは、しないよ。
だってあなたとした約束が生きている限り、私にはまだこちらでやらなければならないことがあるから。
本当は、とても、とてもとてもとてもそちらへ行きたいけど……。
我慢して、あなたと描いた未来をきっと創り出してみせるから。
もう一度会えた時には、ちゃんと謝って。
それから……思いっきり、褒めてよね。
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