Marauder-Requiem
ロンドンの一角にある、小さなアパート。隣に住んでいる人間はマグルのようだ。
そこにぴったりと姿現しをする。周りに人はおらず、閑散としている。
わざわざここを兄の姿で訪ねたのはどうしてだろう。なんとなく家にあったポリジュース薬を使って来てみたは良いが、実際のところ僕はそこに明確な理由をつけられずにいた。そのせいで、一瞬だけノックをする前に躊躇いが生まれてしまう。
もしかしたら────僕は、この期に及んでまだ期待をかけていたのかもしれない。
リヴィアなら、僕を"僕"だとわかってくれるかもしれない。
リヴィアなら、僕の言葉を聞いてくれるかもしれない。
リヴィアなら、僕を敵と見なしたままでその行く先を見送ってくれるかもしれない。
リヴィアなら────僕の、共犯になってくれるかもしれない。
ついこの間までは確かに彼女のことが嫌いだった。憎かった。次に会った時は本気の殺し合いをする時だと思っていたし、実際ここにすぐ来られたのもその"時"に備えてのことだった。
ホグワーツを中退した時点で、僕を追う役を彼女が受け持つことなら想像していた。本来は兄の方が僕を見つけることが容易いと言うべきなのだろうが、僕達は互いに歪な関係を、そして感情を育て過ぎた。それが突然、"それぞれの未来と信条を懸けて殺し合うことも容易くできるか"と言われたら────…そこにはどうしたって疑問が生まれる。
かといって、ポッター、ルーピン、ペティグリュー、エバンズはそもそも論外だ。僕個人との関わりはほとんどなく、僕の思考回路の端も知らないような人間。僕の拠点を見つけるためには、あまりにも情報が足りない。
だからそこで一番ちょうど良い人物としてリヴィアの肩が叩かれるのは、必然のことだったのだろう。
他人でありながら、僕との因縁が絶えなかった女。
敵でありながら、最後に別れる瞬間まで結局杖を交えなかった女。
結局彼女は隠された僕の家を見つけられなかったようだが、こちらは殺す準備を着々と進めていた。隠れて生きているわけではない彼女の家を見つけることなんて、仲間を勧誘することに比べたらよっぽど簡単だ。
────準備だけしておきながら、実際どうして殺さなかったのかは────…もう、訊かないでほしい。
わからないのだ。あの女に対して、自分がどんな感情を持っているのか。
嫌い、憎い、殺したい、そういった事実や願望があるのは事実だ。理性はずっとそれを訴えているのに、本能が伴わないせいで、僕はこのドアを今までずっと爆破することができずにいた。
最初から闇の帝王に失望する未来を予想していたわけではない。あまつさえ、そんな自分の最期を託すつもりで彼女を生かしていたつもりなんて更にあるわけがない。それだけは確かなのに────…それを越えてなおわざわざ彼女を泳がせる意味は、果たしてどこにあったのだろう。
可能性としては、"闇の帝王に失望する"という未来が見えなかったとしても────まだどこかで────彼女が僕と志を共にする未来を────…いや、もう考えるのはよそう。意味がないことだし、これだって"理性"の方でなら"ありえないこと"だとわかっていたはずなのだから。御せない本能に理由をつける方が時間の無駄というものだ。
僕は頭を振って冷静になると、改めて扉を3回ノックした。
「誰ですか?」
少しの間を置いて、リヴィアの冷たい声が返ってくる。この時間帯、家にいることは知っていた。彼女はここ最近、仕事帰りに色々とルートを変えて僕のことを探し、大抵深夜を迎える前には帰っていたから。何度かグリモールドプレイスの辺りをうろついている姿なら見ていたが、彼女が11番地と13番地の間を"視る"ことはなかった。
「僕だ」
喉から出たのは、兄の声だった。そして言ってみて、"似たような声"でも全くその質が違うことに気づく。兄の声は僕よりずっと張りがあって、語尾が強く、自信に満ちていて────そして、うるさい。
「本物だっていう証拠はある?」
しばらくの間を置いた後、慎重な声で、疑いの言葉をかけられる。そこは流石に戦争の当事者、身内を名乗る者だからといってすぐに内に入れるような真似はしないだろうと、こちらとて最初から想定していた。
「僕は仲間からパッドフットと呼ばれている。そういう君の渾名はフォクシーだ。そして6年生になったばかりの頃、僕は君に告白をして付き合うことになった。さあどうだい、これで良いか? 今日はちょっと通りがかったから寄っただけなんだ」
それが、僕の見てきた兄とリヴィアの姿。誰もが知りえるような情報では中に入れてもらえないだろうとは思いつつ、少し込み入った事情を話しすぎただろうか、とも悩む。渾名や付き合い始めた時期は合っているはずだが、どちらがどちらに言い寄ったのかというところまでは実のところ知らなかった。
だから、これはあくまで"僕の見てきた"兄とリヴィアの姿。誰に対しても牙を剥き、決して他人を懐に入れなかったはずの兄が唯一心を開き、砕き、許した相手。どう見ても近づきやすいとは言えない兄に、怖気づくことも媚びを売ることもなく、自然な距離で寄り添い続けたリヴィア。
兄が"誰ともわかりあおうとしなかった"人であったのに対し、リヴィアは"誰にでも理解を示す"人だった(だからきっと僕もここにいるのかもしれない)。
突き進む者と、受け入れる者。どちらがどちらに交際を持ち掛けたのか…想像でしかないが、あの兄が惚れた相手を放っておくわけがないという確信だけならあった。
ややあって、部屋の扉が開く。どこか緊張した笑顔のリヴィアが出迎えてきたのは良かったが、なぜか中は真っ暗だった。一般の怖がりな魔法使いじゃあるまいし、応答の速度から考えても寝ていたとは考えにくい。
護身用に持っていたのであろう杖を下ろし、リヴィアが僕を中に通す。
「早めに入って。私とあなたが一緒にいるところを死喰い人に見られたらまずいから」
「わかったよ。まったく、大手を振って歩けないこんな世の中じゃ、彼女に会いに行くのもやっとだな」
兄は多分、リヴィアに良いところを見せたがるはずだ。だから、鷹揚な態度で。あえて視線を外して、ちょっと壁の方なんかを見たりして。
普段の兄の出す雰囲気をできるだけ模倣してはみているのだが、リヴィアが警戒を解く様子はなかった。空気が、痛い。
「なあ、どうしたんだ? なんで部屋の電気なんか消して────」
何も知らない体を装い、彼女の方を振り返ると────。
「────どういうつもり、レギュラス」
彼女はそう言って、今度は攻撃のための杖を、僕の喉元に突き付けた。
「────…」
ああ、気づいてくれた。
最初に思ったのは、そんな安堵だった。
彼女がすぐに僕の正体に気づいたこともそうだったが、僕は何よりそこで温かい気持ちを持ってしまった自分があまりにも滑稽で、情けなくて────そして、どうしてもくすぐったくて、大きな笑い声を出してしまった。
リヴィアは、わかっていたんだ。
僕が、僕であることを。兄の二番煎じでも、ブラック家の次男でもない僕のことを。
何度も何度も、相反するふたつの意見に挟まれてきた。
"兄よりも容姿が劣っている"のに、"兄よりずっとブラック家を継ぐに相応しい"とか。"『シリウス』はすぐに出てくるが、『レギュラス』は言われないと出てこない"のに、"レギュラスが家督を継げば良かったのに"とか。
僕と兄は、いつも一緒だった。一緒なのに、絶対に同列には扱われない。
「レギュラス? なんでそこで弟の名が出る。見損なったぞ、イリス。いくら顔の造りが似てるからって、あんな出来損ないと間違われるなんて!」
そういえば、彼女のファーストネームを呼んだのは、まだ彼女のファミリーネームを知る前────実に7年ぶりのことだった。しかもその時はあくまで心の中でイリスという概念を覚えていたに留まっていたので、本人を目の前にしてその名を呼ぶことに、なんとなくの違和感が残る。
でも、それは決して嫌な感情ではなかった。────それが、少しだけ不思議だ。
こんなにも空気は緊迫しているのに。こんなにも、リヴィアに敵対心を剥き出しにされているのに。
「私がシリウスと付き合い始めたのは、5年生の6月、OWLが終わったその日のことだよ。ホグワーツでその話が流れるまでに夏休みを挟んだから、勘違いしたんだろうけど。それにそもそもあなたが"本物のシリウス"なら、合鍵を持ってるからわざわざ私の許可を取って部屋に入ろうとなんてしない」
そうか、2人は5年生の時点で交際を始めていたのか。OWLの後といえばその時はセブルスと大きく揉めていたはずなのだが。まったくこの2人は、人の感情を簡単に軽んじて自らの本能に従う獣のようだと、少し呆れてしまった。
でも────そうだな。兄に成りすましてリヴィアを訪ねるなら、僕よりセブルスの方が可能性としては高いのではないか? 5年生末のあのいざこざを見ていたから、セブルスが彼らに人一倍憎しみを持っていたことだって知っている。
僕なんかより、余程兄に────そしてリヴィアに執着していたじゃないか。だったらリヴィアだって、僕よりまずセブルスの直接的な加害行為の方を優先して警戒すると思ったのだが。
「────どうして"僕"だとわかったんだ。"僕"が兄さんでないことを突き止めたところで、それが"僕"であることの証拠にはならないだろう」
僕だとすぐ認識されたことに対するあの不思議な感覚が、冷静さを取り戻すとともに不気味さへと変わって忍び寄る。僕の変身スキルが低いのか、それともこの女の”"個人を認知する能力"が著しく高いのか────もう死にゆく僕にはどちらにせよ関係ない話だが、最後にこの女のことを────この女が、僕を"どう見ているのか"を、知りたかった。
その時自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
しかし少なくとも彼女は、学生時代のあの曖昧な表情からはかけ離れた────明確な"敵意"を見せてきた。仮にも外見は愛しているであろう兄の姿だというのに、彼女は確実にその中にいる"僕"を見ていた。
「表情がよく似てたからね。ずっと見てたし、わかるよ」
挑戦的な瞳。いやらしく上がった口角。自信ありげにくいと上がった顎まで見て、思った────兄のようだと。
思えば、兄が家を出て行った時にも似たような違和感を覚えたものだった。
僕のことなんて眼中にないような少年期を過ごしてきたくせに、急にこちらを気遣うような素振りを見せて。他人に対してその言葉に真摯に耳を傾けるなんて、それまでの兄なら考えらえないような行動だった。
お互いがお互いに、影響を与えているんだ。
あの2人は────あの2人にしか歩めなかった未来を、とっくの前から歩んできていたんだ。
(もし彼女の隣にいたのが僕だったら、あの真っ白で空っぽだった身体には、一体何が宿ったのだろう?)
「表情…か。皮肉なものだな。兄さんは家を捨て、僕らと早々に敵対していたというのに」
そしてその"影響"を受けていたのは、彼女だけではなかったらしい。
どこで僕達は同じ表情を覚えたのだろう。どこで僕達は、交差していたのだろう。
僕達は────ちゃんと、家族だったのだろうか。
感傷に浸るわけにもいかないので、ひとまず白旗を挙げて沙汰を待つ。
予想はしていたが、案の定リヴィアがすぐに杖を上げるようなことはなかった。
「それで? わざわざシリウスなんて"一番見抜かれやすい人"の姿になりきって、こんな時間に何の用?」
「今日は別に戦いに来たわけじゃない。お前が僕を尾行していたのは知ってるが────いや、知っているからこそ、今日は…"話"をしに来たんだ」
リヴィアの眉根が寄り、反射的に杖が少しだけ下がる。
わかっている。この女は、僕の"話"を無視できない。話した時間の長さや互いの親密度の問題ではないのだ。そういったわかりやすいものを全て超えた"思想"という曖昧なものをぶつけあってきた身、語られる言葉に無駄なものはひとつもない。
────そう、僕の方からは思っていた。だからここに来た。彼女に会うために。
「杖は下ろさなくて良い。必要なら、僕の杖も差し出そうか?」
まだ"話"の見えていないリヴィアは、杖を中途半端なところでぶら下げたまま僕の頭の上から爪先までを睨めつけた。
「そんな見え透いたしおらしさは演じなくて結構。それより話って何? この期に及んでまだ話し足りないことなんて、あった?」
その攻撃的な物言い。完全に僕を獲物として捉える眼。
本当に彼女は強い人になった。いや、それとも内に秘めていた強さが表に出たと言った方が良いのだろうか?
僕はどうやら、ここでも過ちを犯していたらしい。
綺麗事を並べることしかできない理想論者、人の顔色を窺ってばかりの人形。
そう罵り、見下していたことを恥じよう。
だってそれは振り返れば、僕も同じだったのだから。
「僕はこれまで、"闇の帝王の考えこそがこの世に必要なもので、これからの未来を創るべき正しいものだ"と言ってきた」
「そんなこと、あなたが3年生だった時から知ってるよ」
リヴィアの答えは素っ気ない。
正直、僕がいつから闇の陣営についていたのかがについて見抜かれていたのは想定外だった。
でも、"この先"を聞いてもまだ平常心でいられるだろうか?
「そうだ。僕は僕の思想を信じ、その思想に反するお前を明確に敵と断じてきた────これまでは」
案の定、彼女の顔が一瞬で曇る。
そして同時に、僕の体にも変化が現れる。背が少しずつ縮み、目にかかっていた髪が短くなっていき、自分の体格がどんどんみすぼらしくなっていくのがわかる。骨が浮き出て、視界が悪くなり、臓器と皮膚がだんだん近づいていくのを感じて────ああ、自分はなんと醜い存在なのだろうと思い知らされる。
そう。僕は醜い。矮小で、世間知らずで、理想から抜け出せなかった子供だ。
だからこそ、この機会に僕は勇気を出さなければならない。
僕が最後くらい、僕らしくあるために。
「────僕は、闇の帝王に失望した」
真実を、告げる。
返ってきたのは、恐れるようにこちらを見る強張ったリヴィアの顔。
彼女が想像していたものは、僕が思っていたより確かな現実を掴んでいた。
いつから彼女は知っていたのだろう、僕が3年生の時には既に未来を決めていたことを。
どうして彼女は知っていたのだろう、僕が自分で気づけなかったこの盲目的な信仰の危険性を。
「正直、理解に苦しむ。あなたはいつだって一貫して、"歴史に裏付けられた強い力を持った魔法使いこそが魔法界を支配すべきだ"って、そして"その魔法使いこそがヴォルデモート卿だ"って…そう言ってなかった?」
ああ、言ったさ。
そんな幻想を、僕は確かに信じていた。誰にも譲るべきではないからこそ"思想"が確立されるのに、僕は自分が持つ根幹の思想を他人に委ねようとしていたんだ。
「ああ。だが僕はこうも言わなかったか? "僕だって、何も魔法が使えない者全てに生きる権利がないと言いたいわけじゃない"と」
その意見は変わらない。でも僕は、人を────世界を、もっとちゃんと見るべきだった。
「それがどうだ、現実を見れば────…。理想を語れば語るほど、現実と乖離していた時の失望感は大きいんだ。リヴィア、お前ならわかるんじゃないか? "理想論だけで生きていけるほど、現実は優しくない"ということが」
言葉を交わすだけでは理解できないことがある。
許されるべき"思想"が、許されない"行動"へ転じることがある。
それはいつか、彼女自身が言っていたこと。"誰とでもわかりあう"ためにそれを語った彼女を"綺麗事"だと断じた自分が間違っていたとは思わないが、"誰とでもわかりあえるわけではない"ことを理解するためであれば、その言葉はもっと尊重されるべきだった。
理想を追っていたのは、僕の方だ。
夢に惑わされたのは、僕の方だ。
目の前の甘い果実を眺めることに夢中になっていた僕は、その下にあった穴倉に落とされ日の光を失っていたことに、果実が腐り落ちるまで気づけなかった。
「お前のことを散々理想論主義者だと罵って来たが、僕も結局は同じだったんだよ。僕の抱いた理想に、闇の帝王は相応しくなかった。僕が仕えるべき主は、闇の帝王ではないことに、あの学校を出てからようやく気づいたんだ」
ずっと彼女のことを完全に否定してきていた僕が今更掌を返すなんて、やはり俄かには信じてもらえなかったらしい。あからさまに警戒を締めた顔で杖を握り直すその姿に、僕は何より先に安心感を覚えた。
僕は、仕えるべき相手を誤った。でも、定めるべき敵は正しかったようだ。
「言っておくが、ここに来たのはお前達に取り入るためじゃない。────…そんな安いスパイみたいなことを、僕がするわけないだろう。だいたい、闇の帝王のやり方に賛同できないからと言って、僕はお前達を許容したわけじゃない。目的が一致しているだけで、手段も、目的の先に得られる成果も、お前達の綺麗事とは根本的に違うんだ」
もう、間違えない。目的も、理想も、敵も────託すべき、相手も。
「じゃあ、何をしに来たの? よくわからないおしゃべりはやめて、そろそろちゃんと話して」
元々印象は悪かった。
今だって、好感が持てるかと言われたら明確な否を示すだろう。
仲良くなりたいなんて思ったことはないし、なんなら二度と僕の前に顔を見せるなと願ったことも数知れない。
友達にも、仲間にもなれない。
それなのに────…。
「今日ここに来たのは、僕を追う任務を受けていた"優等生"に最後のお別れくらいは言っておいてやろうという親切心と、それから"警告"をするためだ」
────人生を終える間際に思い出してしまったのがそんな相手なのだから、まったく感情というものは難しい。
「これは"予想"じゃなくて"予告"だ、リヴィア。闇の帝王は必ず、お前達の語る愛も友情も希望も全て、簡単に笑って踏み潰す」
僕が敷かれた煉瓦を壊すから。
だから、お前達がまた新たな道を敷けば良い。その先で笑っている未来がお前達の望んだ形なのか、僕の望んだ形をしているのかはわからないが────…残された方が正義だ。貫けた方が強者だ。
歴史とは、そういうものだろう?
「生死に関わらず、僕ごときの一撃であの方を完全に殺すことはできない。リヴィア、お前達が思っている以上にこれは長期戦になる。そして、僕は今では、その長く不毛な戦いが一刻も早く終わり、そして新たなる支配者が生まれることを望んでいる」
これは、誰かひとりで創れるものではない。
誰かの正義は、誰かの悪になる。
互いが戦い、主張を続け────過ちと思ったものを各々ひとつずつ正していく。
だからこれは、過ちに気づいた僕の最も有効な"未来への投資"に過ぎないんだ。
誰かひとりでは、僕ひとりでは、闇の帝王を────"僕が相応しくないと判断した指導者"を排斥することはできないから。
なあ。
だから。
そんなに泣きそうな顔をしないでくれ。
「これは"死喰い人から騎士団の団員へ"持ち掛けた話じゃない。あくまでホグワーツで互いの輝かしい理想を戦わせた"愚かなレギュラス・ブラックが日和見なイリス・リヴィアへ"最後に伝えたかった、ただの戯言だからだよ」
ここに来たのは、使命じゃない。僕の意思だ。
「────何をしているんですか」
「本を、読みたくて…」
「それなら図書館に行けば良いのでは?」
「…図書館には書いていないことを知りたかったんだ。それより…あなたはどうしてここに…? 必要の部屋を開いたのはどうして…?」
「僕も同じです。図書館にないものを求めた」
思えば、最初から僕達は、同じところに立っていたのかもしれない。ただ、正反対の方向を見ていたというだけで。
「話を聞いてみて、私とあなたは相容れないってことがよくわかった。思想は全て等しく受け入れられるべきだよ。そしてその多様性を調整されるために法があり、その法を正しく運用する肩書きを持った人が必要っていうだけ。世界に"支配"はいらない」
「綺麗事を」
「仕方ないじゃん、だってそれが私の"思想"なんだから」
歩み出した道の先でも、何度か出会った。まるで迂回しては元の道に戻るように。あるいは、僕達が再会した"道"の方が自ら必ず分岐していくように。
「僕にとってはもはや、こんな甘い理想論ばかりを掲げる城など全く価値のないものだ。今は────ホグワーツにいる間はお前達に危害を加えるつもりはないが────覚悟していろ、必ずあの時の借りは返してやる」
「どうぞご自由に。私としても、もうヴォルデモートに付き従う人間は皆"敵"だと思っているから。あなたがホグワーツを離れた瞬間、私もきっとあなたに杖を向けることを厭わないと思う」
「お前だけは絶対に許さない、リヴィア。いつかこの手で、必ず復讐をしてやる」
そう言って、今度こそ袂を分かちたと思っていたのに。
「────結局、僕もお前離れができないんだもんな」
苦しそうに顔を歪めたリヴィアに、僕の自嘲する声は聞こえなかったようだった。あからさまな死を明示した言葉は吐いていないが、この女がそこまで察しの悪い人間だとはもはや思わない。早々に僕の異変に気づき、少ない情報の中でも明るみに出ているものを掴み、その最期を突き止めた。
(良かった、彼女が本当にわかってくれる人で)
「これは"死喰い人から騎士団の団員へ"持ち掛けた話じゃない。あくまでホグワーツで互いの輝かしい理想を戦わせた"愚かなレギュラス・ブラックが日和見なイリス・リヴィアへ"最後に伝えたかった、ただの戯言だからだよ」
印象は最初から悪かった。
友達になれるなんて思ったことは一度もない。
それでも、最期に思い出したのが、貴女だった。
「…レギュラスはそれで良いの?」
だからもう、そんなことを聞かないでくれ。
これで良いんだ。これが良いんだ。
「良いも何も、そうしてほしいと最初から頼んでいるじゃないか」
僕が初めてひとりで考えて出した結論。初めてひとりで見つけ出した大切にしたいと思ったもの。初めてうまく描けた、自分のかたち。
「お前は、自分が本当に刃を向ける相手を間違えるなよ」
そして最後に導いた、僕にとっての正解。
できることなら、その際で見る顔は笑っていてくれていた方が良かったと思う。赤毛の少女に見せていた、冷たい氷を溶かす甘い紅茶のようなものでも良い。癖毛の少年達に向けていた、びっくり箱を開けた子供のようなものでも良い。
────きっと、太陽に焦がれ、星を歌うような笑顔は、"僕"には一生向かないだろうから。
「待って、レギュラス」
全てを諦め────いや全てを受け入れた僕を、リヴィアが引き止める。
「まだ何か?」
正直、これ以上心残りを増やしたくなかった。敵を敵として、敵のまま非情に見送ってほしかった。
だって僕は。
「────どうして、私にそれを話したの? 本当にひとりきりで死ぬつもりだったなら、それが最善だと思っているなら、何も今や敵になってる私に危険を冒してまで会いに来なくたって────」
僕はただ、見送ってほしかっただけなんだ。
「でもその前に、僕の秘密をひとつはお前にも共有して、共犯になりたくてね」
秘密を、知ってほしかった。
ひとりで、たったひとりで誰にも知られず最期を迎えるのが────怖かった。
「だって────"ちょっとした冒険"をする時、それを共有してくれる人がひとりもいなかったら…つまらないだろ?」
「────"ちょっとした冒険"をする時、それを共有してくれる人がひとりもいなかったら…つまらないだろう」
これは、僕の人生を賭けた最初で最後の冒険だ。
少しだけ、あの時言った兄の言葉がわかったような気がした。
「お前なら、多少危険に晒したって自分の身くらいは守れるだろう?」
この人になら、話してみたいと思った。
誰にも言えない、誰にも言いたくない自分の秘密を、試しにバラしたくなってしまった。
だってこの人は、強いから。
「お前なら、兄さん達のグループの中で唯一"理想に絶望した気持ち"をわかってくれるだろう?」
兄だったら、そもそも僕の話を聞かない。
ポッターは、僕が何かを言ったところで良いとこ茶化すか────最悪、僕の顔を見た時点で謎の呪いをかけてくるだろう。
「感情に任せて激昂するのでもなく、理性的に追い詰めてくるのでもなく────」
ルーピンなら、喉元に突き付けた杖を放さないだろうし、エバンズはきっと僕が何を言おうとも最後の最後まで信じてくれないだろう。ペティグリューは論外だ、きっと単体で出会えば僕がどうこう以前に向こうの方から逃げ出すに決まっている。
「お前なら、僕のこんな要領を得ない話だって、黙って受け入れられるだろう?」
命の危険が及ぶ限り、この話は"敵"にしかできない。
そして"敵"の中で心を許せるのは、リヴィアしかいない。
こんなに皮肉なことが簡単に起こりえるのだと考えれば、このくだらない人生の幕引きにもちょっとした刺激が加わるというもの。それならまあ…うん、冒険をしてみるのも、確かに楽しいのかもしれない。
「内容が闇の帝王の滅亡に手を貸すものである限り、お前に害がある話にもならないはずだ。沈黙はそう難しくない」
これから自分が何をしに行くつもりなのかはよくわかっている。
そして今の僕にだったら、どうして兄の姿を模してまで人生の最後にこの女に会いに来たのかも説明をつけられる。
「これはただ、レギュラス・ブラックがイリス・リヴィアというただひとりの人間に明かしたかった最後の"思想"なのだ」
気づいてほしかったんだ。兄ではなく、"レギュラス"なのだと。
聞いてほしかったんだ。ブラック家の忠実な次男ではなく、"レギュラス"の言葉を。
見ていてほしかったんだ。死喰い人ではなく、"レギュラス"の背中を。
僕が一番僕であれる人。僕を一番僕にしてくれる人。
誰よりも先に、夜空で霞む幾億もの星の中からたったひとつを見つけてくれた人。
リヴィア、貴女は僕にとってきっと一生言葉のつけられない────そんな不可解と言って余りある"特別"な存在だ。
出会えて良かったよ。
"思想"という、誰とも替えられない宝物を交わすことができて良かったよ。
イリス・リヴィアという人間は────初めて会話をした時からずっと、僕に希望を一方的に残して消える人間だった。そして僕に最期まで────敵意だけでは表しきれない"敬意"を植え付けてくる人間だった。
僕は彼女に初めて心から微笑むと、そのまままっすぐに家へと帰った。
そこにはクリーチャーがまだ涙の跡を残したまま、見送ってくれた時と全く同じ姿勢で僕の帰りを待っていた。
「レギュラス坊ちゃま…」
「待たせた。行こう、クリーチャー」
「坊ちゃま…本当に、本当によろしいのですか? 今お会いになってきたのは、大切な方だったのではないですか? その方は坊ちゃまを…お止めにならなかったのですか?」
脳裏に一瞬、僕を見るリヴィアの顔が蘇る。泣きそうで、苦しそうで────でも、決して僕の選択を止めなかった。心配はしても、拒絶はしなかった。
宝物はもう、彼女の心の中に秘められた。魂よりも強い"意志"が、誰にも壊せない場所に残された。
「────ああ、止めなかったよ」
クリーチャーは信じられないというような顔をしてこちらを見上げたが、きっとその目にはいつの日とも比べられないほどの満足感を顔に出している僕の姿が映ったことだろう。見えない心の中に一抹の恐怖があったから、尚更。
それから僕は、まだ嫌がるクリーチャーに無理な命令を聞かせ、潮の暴れる崖の目の前まで連れて行かせた。
暗く、骨の芯まで荒むような場所だった。そこに立っているだけで恐怖を煽るような────まさに闇の帝王が好んで使いそうな場所だ、と思った。
「あのお方が連れて行った洞穴に、僕を」
「……かしこまりました」
命令を聞いているせいで逆らえないようだったが、クリーチャーは何がなんでもしかめ面を解す気がないようだった。恨めしそうにこちらを何度も振り返りながら、崖に近い大岩を下降し、指先から光の球体を生み出した。
空に浮かぶランタンのような光は海面で反射すると、崖の割れ目にある黒い水の渦を映し出す。
「海は大変お寒うございます。どうぞ、こちらを纏って────」
クリーチャーが指先で僕の膝をトンと突くと、そこから全身に温かいココアが滑るように全身を程よい熱が包み込む。成程、中に入らなければならないということか。
案の定、クリーチャーは震えながら海の中に入って行く。「お前も同じように魔法で体温を上げた方が良い」と伝えたのだが、クリーチャーは「これはクリーチャーへのせめてもの罰なのです。レギュラス坊ちゃまをお止めできなかった愚かなクリーチャーは、もう一度死ぬつもりで坊ちゃまをお連れしなければなりません」と聞き入れない。ここで僕が一方的に魔法をかけたところですぐに解かれることは察していたので、せめて彼が沈むようなことがあった時すぐ助けられるよう、意味もない心構えだけ作っていた。
しばらく泳いだ後、大きな洞穴に続く階段を抱えた岩場に降り立つ。クリーチャーはヨタヨタとした足取りで、それでも完全に目的地を把握しているように、岩壁の一点でぴたりと手を止めると、そこに手を翳す。すろとそこにアーチ型の輪郭線が現れ、白い光を一瞬放つ。輪郭線はすぐに消えたが、クリーチャーはそこで落胆したり、戸惑うような素振りは見せなかった。
あくまで迷いのない動きで、ある一点に手をかける。それから躊躇いなくタオルの中から小刀を取出し、自分の手の甲を容赦なく切りつける。
「っ…クリーチャー、何を…?」
「血の洗礼にございます」
それが、血の洗礼。闇の帝王は以前、クリーチャーの肩を刻んできたと聞いていたが────。
「────これは命令だ、クリーチャー。僕は今日君に痛い思いをさせるためにここまで連れて来たんじゃない。言っただろう、これは僕ひとりが完結させなければならない、"僕の選択"なのだと。場所を知っているのがお前しかいないから頼まざるを得なかったが、ここでの行動の全てに僕は責任を持つ。くれぐれも、勝手な自傷行為はしないように」
あえて厳しく言い含めると、クリーチャーはこの上なく不満気な顔をしつつ、機嫌の悪さを隠そうともせずに重々しく頷いた。それでも、滴った血はどうしようもない。岩肌は血の認証を受け、銀色に光るアーチが広がった。クリーチャーがその先へと進んで行くので、後からついて行く。
そこには、真っ黒な湖が広がっていた。天井も、向こう側も見えない闇の世界。なんとなく想像はしていたが、夜の自然な闇とは異なる、まるで絵の具を塗ったような黒い世界に、僕はまたしても帝王の面影を感じる。
「水中には亡者がおりますので────坊ちゃま、くれぐれも足を取られないようお気をつけください」
クリーチャーは湖の縁を歩きながら、僕をある一点まで導く。
「この先に、小舟がございます。クリーチャーが呼んでまいりますので、少しお待ちください」
そう言うと、クリーチャーは湖の畔で何かを握るように拳を作り、もう片方の指先で拳をトンと突いた。
途端、錆と苔などのあらゆる汚れを引き受けたのかと思われるほどの鎖が現れ、水底から小舟が現れる。
「こんなところに────…」
「闇の帝王がクリーチャーをお連れになったのは、この舟で渡った先にある水盆でした」
「水盆…」
「その中に、ロケットが入っています。飲んだ者を絶望に追い込む薬の奥底に、ひとつだけ入っているのです」
おそらく、そのロケットが分霊箱で間違いない。クリーチャーが連れてきてくれるまで、僕はこんな場所のことなど一度も見聞きしたことがなかった。ロケットと闇の帝王の間に執着が生まれていることは確かなのだろうが、いくら忠実なる下僕を名乗っていたとてこの場所まではわからなかっただろう。
クリーチャーが先に乗り込み、僕の手を恭しく引いて小舟に乗せる。
水面は、黒い死体で溢れかえっていた。あれがきっと、クリーチャーの言っていた亡者なのだろう。今のところ、水に触れさえしなければ危害を加えてくる気配はないが────命亡き後まで体良く闇の帝王に利用されているのだと思うとあまりに哀れでならず────そして同時に、自分もいつかこうなっていたのかもしれないことを考えて、やはり彼に心酔しきる前に見切りをつけて良かったと思えるのだった。
辿り着いた先にあったのは、緑の光を放つ石の水盆。これまたクリーチャーに導かれて舟を降り、水盆を覗き込むと、そこはエメラルド色に発光した液体に満ちていた。
試しに、水盆の中に手を入れてみて────水面から数センチのところで見えない空気の膜に拒まれるように僕の手が弾かれた。それでもクリーチャーがまるで下水道に手を突っ込んだかのような衝撃の表情を見せてきたが、もはやこれ以上僕の行動を咎める元気すらなかったらしい。さめざめと泣きながら、「なぜ坊ちゃまがこのような思いをしなければならないのですか…」と、繰り返し僕の生く末を嘆いてくれていた。
「それが、僕の使命なんだよ」
きっぱりと言い切って、ポケットからスリザリンのロケットの模造品を出す。
「良いか、クリーチャー。よく聞いてくれ」
それから僕は、膝までしかない彼の身長に合わせて跪き、目線をしっかり合わせた。
「これから僕は、この薬を飲む」
ひとまず結論からそう告げると、いよいよクリーチャーの瞳が飛び出さんばかりに見開かれた。
「この中に、あのお方が入れた"本物のロケット"があるんだろう? 僕がこれによく似た模造品を持ってきたから、お前が代わりに持っていてくれないか。そして僕がこれを飲み干したら、この"偽のロケット"を水盆に戻してくれ」
クリーチャーから、この薬を飲んだ時にどんな容態になるのかは教えてもらっている。きっと苦痛に悶え、いっそ殺してほしいと嘆き、過去のトラウマが一挙に蘇るのだろう。
でも、それが僕にできる最大限の復讐で、償いで、そして大冒険だった。
「良いか、僕がその先どうなろうと、お前は一人で帰るんだ。母にも父にも何一つ明かしてはならない。そしてこの水の中に沈んでいるロケットを────できるだけ早く破壊してくれ」
クリーチャーはきっと、自害しろと言われた時でさえこんな顔はしないのだろう。絶望を思い切り顔に貼り付け、わなわなと震え始めた。
「坊ちゃま…あの薬を、飲まれるのですか…?」
「そのつもりで来たんだ」
「いけません! クリーチャーはそんな坊ちゃまのことをとてもお見送りできません! あの薬は悪夢を見せる毒です! クリーチャーは坊ちゃまに美味しいご飯を召し上がってほしいのです、それに────それに、あの薬を飲んでしまったら────」
「正気を失い、絶望に襲われ、挙句の果てには亡者に捕まって殺される────そうだろう?」
まるでその言葉自体を恐れているかのように、僕がそう言った瞬間クリーチャーの顔が更に歪んだ。
「クリーチャーは…坊ちゃまを失いたくはございません…。苦しんでほしくありません…」
わかっているよ。お前は昔から、ずっと僕のことを大切にしてくれていた。こちらが丁寧にすればするほど、忠実に仕えてくれていた。
だからこそ、許せないんだ。あくまでも主従関係ありきで成り立っていた関係だったとしても、それを前提とした上で彼は僕の家族になってくれた生き物だったから。
弁えている生き物を、罪のない生き物を、勝手に道具扱いするようなあの振る舞いが、どうしても僕には許容できなかった。リヴィアの言葉を借りるなら「僕のラインを超えた」というところだ。
「クリーチャー、命令だ。僕がこの薬を飲み干す。そうしたらロケットを交換して、必ずひとりで帰るんだ。母さんや父さんには、僕が任務をしくじって闇の帝王に殺されたと言っておいてくれ」
「そんな…坊ちゃまがご自身の身を賭してまで…このロケットに、本当にそこまでの価値があるのですか? サラザール・スリザリンの縁の品である以上、貴重であることは存じております。しかし、坊ちゃまが命と引き換えに手に入れるほどのものではないはずです!」
今やクリーチャーは、洞穴中に響くほどの甲高い声で泣き叫んでいた。彼の苦痛は、それほどのものだったのだろう。
でも彼は、僕の命令でそれを守ってくれた。闇の帝王の言うことを聞けと言った僕の指示を、忠実に遂げてくれた。
だから、僕にだってできる。僕が決めたこの選択を最後まで遂行する覚悟がなかったら、最初から僕はクリーチャーにそこまでのことを求めてはならなかったはずなのだから。
「クリーチャーはヒトとは違います。今こうして坊ちゃまの元に戻ってこられたのも、坊ちゃまが"戻って来い"と命令をくださったからです。でも、坊ちゃまがもし亡者の手に引かれてしまったら────それをクリーチャーが奥様にお話できないのだとしたら────」
「大丈夫さ、クリーチャー」
きっと彼は、僕が最初から最後まで"ひとりぼっち"になってしまうことを心配してくれているのだろう。
でも、その心配ならもう払拭してきた。拭ってもらってきた。
「────僕は決してひとりじゃないから。この企みは────イリスに託してきた」
「イリス…? それは、シリウス様が誑かされた穢れた血の────」
「マグル生まれの人間だが、とても公平な女だった。そうだな、傲慢で身の程知らずなマグルとは少し違う、そう…まさに僕のこの計画を託せる唯一の相手だ」
今まで散々目の敵にされていたイリスの存在が、今更"レギュラス坊ちゃま"の口から出たことに、クリーチャーは相当驚いたようだった。
でも、今なら僕にもわかるんだ。イリスが、"そこら辺にのさばっているマグル"とは根本的に違うことが。
「イリスがもし家を訪ねることがあれば、彼女にだけはこの話をしても構わない。これは僕と彼女の共犯だから」
「坊ちゃま…」
「お前も、僕が兄さんと同じように悪い魔女に捕まったと思うか?」
「いいえ、いいえ…」
クリーチャーは枯れない涙を流しながら、激しく首を振った。
「坊ちゃまがその高貴なる信念を託されたお相手なのでしたら、クリーチャーも粗相のないようにいたします。イリス────…様、がいらっしゃった際には、坊ちゃまの勇敢なるお姿を必ず、最期に見届けた者として責任を持ってお伝えいたします」
「ありがとう、頼もしいよ」
その時やっと、心から笑えた。見送ってくれた人と、見届けてくれる友がいると、今際の際になってからようやくその大切さに気付けた。
手元の杖を捻り、銀色のゴブレットを出す。手で触れようとしても水面の数センチ上で止まってしまうのに、水を掬おうとするためのものなら通してくれるらしい。
クリーチャーが僕のズボンの裾を引っ張る。抵抗することを禁じられているせいで口はぱくぱくと酸素を求めて開閉しているが、明らかに手に力がこもっていて、僕の行為が何かしらのやむを得ない事情で封じられないかと願っているのが丸わかりだった。
緑色の液体を、ひとすくい。
飲んでみると、アルコールをそのまま喉に流し込んだような熱さが胃まで伝った。
おいしいとは、言えない。"薬"とクリーチャーが言っていた通り、苦いような辛いような…例えばクィディッチの時に箒から思い切り落ちてあばらを折った時、医務室で飲まされたものと少し似ているような気がした。思えばあれも、一晩で治せる代わりに相応の痛み(薬が作用しているが故の副作用だが)があった気がする。
そして、次に来たのは────底知れない絶望感。
"これはまずい"と直感的に思った。
気持ちが沈んでいく。世界中の誰からも嫌われているような気がする。夜が一生明けず、孤独が晴れないまま死んでいくような気がする。
まだその程度で済んでいるうちに、僕は機械的に二口、三口と薬を流し込む。
まるでそれは、悪夢を見せる誘発剤のようだった。
兄と比べられてばかりだった幼少期。反抗する兄にばかり手をかけているせいで、放ってばかりいられた少年期。時折外に出ても"ブラック家の次男の方"と呼ばれていた頃。
クィディッチでやっと僕という存在が有名になってきたのに、それも結局間違えた主に仕えていた時期があったために、自ら捨ててしまった。
誰も僕に価値なんて見出していない。僕が突然いなくなったって、次の日にはいつも通りの日常が続いていくだけ。
「僕は…僕は違うんだ、僕はただ────僕はただ、僕を見てほしかった────…僕は、僕は、誰にも愛してもらえなかったから────!」
知らない間に、自分でさえ自覚していなかったはずの弱音が漏れ出す。クリーチャーは今度こそ声を堪えることなく泣いていた。
僕達魔法使いにとって、死というものは比較的穏やかなものと捉えられることが多かった。
禁忌ではあるが、アバダケダブラの魔法にかけられれば一瞬で息絶える。大抵の病気や怪我なら魔法で治療できるし、それでも手の施しようがない患者は却って自分を健康だと思い込みご機嫌になっていることが多い。
だから僕も例に漏れず、"死"の恐怖を知らない人間だった。
いや────むしろこれは、"生"の苦痛なのだろうか?
過去の後悔、聞き覚えのないはずの罵倒の声、"お前がいてもいなくても歴史なんて変わりやしなかった"という残酷な事実、それらが一挙に襲ってくる。
「嫌だ、もう許してくれ、僕が生まれてきたことが間違いだたんだ…!」
「坊ちゃま…坊ちゃま、もうお止めになってください…!」
果てのない暗闇の中で、クリーチャーの悲痛な声が響く。頭のどこか遠いところでその声を認識すると────それが、"僕を見てくれた命の言葉"だったからなのだろうか。不思議なことに、そこから連鎖定期に脳裏に兄とリヴィアの顔が一緒に現れるのだった。
僕に幸せか、と問うてきた兄。僕の旅立ちを悲しそうに見送っていたイリス。
今、僕を僕として見ていてくれた人が、僕の中で光を放っている。
レギュラス・アークタルス・ブラックはそこにいたのだと。ここで生き、確かに彼らの心にその存在を刻んだのだと。
奮える手で、ゴブレットに薬を組んで口に含む、その動作を繰り返す。
これをやり遂げれば、いよいよその時にこそレギュラス・アークタルス・ブラックは"生"の価値を見出せる。この時間が終われば、きっといつかシリウスとイリスが僕の過ちを正してくれる。あの戦争を終わらせ、新たな思想による新たな戦いを始めてくれる。
僕の命は、未来でその是非の沙汰が下される。真相を知らない人には、僕が望んだ通り「闇の帝王に恐れをなして逃げようとした結果殺された」という不名誉な最期を語られるのだろう。
でも、それはきっと何人もの人間の人生を狂わせ、全てを他人任せにしてきた僕の大きな過ちに対する贖罪だ。決して望んでなどいないが、受け入れる覚悟は必要なのだろう。
そう考えれば、イリスに正しい姿、僕の描いた未来を聞かせることができただけでも、僕は十分報われたのだ。
────僕の人生は、とても幸せなものとはいえなかった。…いや、もちろん第三者から見れば衣食住、それに加えて名前による栄誉を与えられているだけ幸せだと思われることはわかっている。
でも、僕は…驕りとわかっていて言うが、そんな"幸福な環境"が当たり前の中で育ってきたから、その"環境"にいれば"当たり前に享受できる"であろうものが与えられなかったせいで、どこかいつも傲慢な不満を抱えていた。
個が尊重されない。僕の意見より歴史の提唱の方が優先。何につけても兄の方が手をかけられる。その中で、だんだん"レギュラス"が薄まっていく。
大きく繁栄し、力を継承し、他者から尊敬されることが当たり前、そんな環境の中で自らの意義が曖昧になっていくこの感覚を────人は、どれだけ理解してくれるのだろう。
それならいっそ、一般家庭に一人っ子として生まれ、魔力が然程強くなくても唯一の存在として愛されたかった。レギュラスと、もっと名を呼ばれたかった。
涙を流しながら、臓器を焼くような痛みと相変わらず底のない絶望に耐えつつ薬を消費していく。水盆の中は残り半分くらいになっていたが、今にも正気を失いそうな状況下で"まだ半分も残っている"という事実が更に僕を苛む。
喉を鳴らす度、僕の罪を数えられているような心地になる。
自己主張をしてこなかったこと。表舞台に立つ責任から逃れ続けてきたこと。誰かの名を借りなければ結局何もできないこと。偉そうに自らの思想を語りながら、それがただの夢であることを自覚できなかったこと。
お前は生まれてくる場所を間違えた。生まれてくる時代を間違えた。
お前の命に価値などない。最初から、捨てられるために生まれてきたのだ。
奪われることしか知らない哀れな者。
何も得るものなどない。全てを喪い続ける者。
ああ────やめてくれ。僕を責めないでくれ。
どうか、誰かひとりでも良いから────その人の心に、僕の存在を刻んでほしい。
「あなたの意見を、私は否定しない」
胃の底から湧き上がってくる己を呪う言葉に押し潰されそうになったその瞬間、一筋の光が差した。
「どういうつもり、レギュラス」
それは、僕を呼ぶ声。
「────何をしているんですか」
「本を、読みたくて…」
「それなら図書館に行けば良いのでは?」
「…図書館には書いていないことを知りたかったんだ。そ、それより…あなたはどうしてここに…? 必要の部屋を開いたのはどうして…?」
「僕も同じです。図書館にないものを求めた」
「図書館に、ないもの…」
その出会いは、偶然だったのだろうか。
いや、違う。
あの時の僕は、確かに情報を求めていた。学生の身分では手に入れられない、真実を求めていた。
僕は、未来が欲しかった。新しい世の中に、僕という存在を遺したかった。その過渡期に、自分が当事者として食い込みたかった。誰かに守られる、なんて望んじゃいなかった。
だからイリスに出会えた。わかりあえないなりに、常に本気の論議を交わしていた。これは偶然じゃない。お互いが本気だったからこそ巡り合えた、必然の過去であり、未来だった。
お互いに、真剣な"自分の思想"をありのままにぶつけた"だけ。
その事実だけは、誰にも邪魔させない。これだけは、奪わせない。
僕は────僕が命を燃やしてきたという事実だけは、絶対に誰にも奪わせるつもりがない。
むしろ「この死の迫っている状況下を僕の利益として奪い返す」────そんな心持ちにさえなっているくらいだ。
奪われる者? 冗談じゃない。奪うのは僕だ。
自分の人生、これまで散々消費されてきた。
だから────やってやろうじゃないか。
────僕こそが、本物の略奪者なのだ。
この命の尽きる時が、僕が見限った悪の帝王の一部を滅ぼす時。
確かに僕は彼に命を捧げてみせたさ。だから、その命が終わる時は、貴方も一緒だ、そうだろう?
「クリー、チャー…」
終わりのない呵責に苛まれながらも、決して消えない希望の光を宿しながら、僕は最後の一杯を口に入れる。
「ロケットを…」
クリーチャーは泣きながら、それでも「レギュラス坊ちゃまのご命です。クリーチャーは、絶対に坊ちゃまのご命令を守ります」と毅然とした言い、水盆の底にあるロケットと家から持ってきた模造品を取り換えた。クリーチャーの手の中に渡った本物のロケット────分霊箱は、しっかりと彼の首にかけられた。分霊箱がクリーチャーの手に渡った瞬間、"それ"はまるで嫌がる意思でも見せるかのように震えたが、命令を忠実に守るクリーチャーがそれに狼狽えることは絶対になかった。
「ありが…とう…」
「坊ちゃま、帰りましょう。お家に帰ったら、クリーチャーがおいしいスープを作ってさしあげます。…イリス様をこっそりお家に呼ばれても、クリーチャーは目を瞑ります。それから、奥様や旦那様とたくさんお話をされてください。ご学友の方と一緒に、楽しく箒に乗って遊んでください」
クリーチャーが泣きながら小舟を改めて岸辺につけると、水盆の傍らで崩れ落ちている僕の服の裾を引っ張った。クリーチャーは一体、どうやってこの状態から家に戻って来たのだろう。しもべ妖精はホグワーツ内でも姿くらましができると言うし…きっと、彼ひとりだったらこの場を離れることもできるんだろうな。
全部、全部僕がこの場にいるから。
「クリーチャー…命令だ…」
駄目なんだ。
これは、僕の償い。僕の悲願。僕がやり遂げることで、初めて意味が生まれる。
だから。
「今すぐ、家に帰るんだ…。……ひとりで」
背後に、命亡き者の気配を感じる。僕があと一段階足を崩し、その腐った水に触れたが最後、きっと幾千もの手が喜んで僕を仲間に引き入れることだろう。
こちらはもう、秒読みだ。それに必要な覚悟はもう作ってある。
「な…なぜですか…坊ちゃま!」
天井からいくつか岩が崩れ落ちてくるのではないかと…そんなくだらないことを、思った。
「クリーチャーなら坊ちゃまをお連れして帰ることができます! クリーチャーは、坊ちゃまに命尽きるまでお傍にいてほしいのです…! クリーチャーは、クリーチャーは…!!!」
「命令だ、クリーチャー」
残る最後の力を振り絞り、クリーチャーを𠮟りつける。
「お前は、僕の忠実なる友だった。そうだろう!? だったら主人の最後の望みを聞いてくれ! 僕の願いを…僕がもう叶えられない願いを、お前に託させてくれ!!」
ああ、もう限界だ。
力の入らない足が、ずるりと湖岸から落ちる。心の方はもう、とっくに「このままどうにでもなってしまえば良い」と自棄を起こしていた。
「────クリーチャーは」
ずる、ずる。
命がないとは到底思えないほどの力で足首を掴まれ、もう抗う力がどこにも残されていない僕の体が、どんどん冷たい腐水に取り込まれていく。
汚いなあ。でもきっと、それが僕の人生の末路だったんだろうな。
あっという間に、僕の視界が水面に覆われて、涙を溢した時のようなぼやけた視界に満たされる。それとも僕は、本当に泣いていたのだろうか。
「クリーチャーは、坊ちゃまのご命令を必ず守ってみせます────! このロケットを持ち帰り、破壊します。そして────奥様にも旦那さまにも────ご家族のどなたにも、このお話はいたしません。坊ちゃまがここまでおひとりでされた、そのご意思を今度はクリーチャーが継ぎます。クリーチャーも必ずひとりで、このロケットを壊してみせます!」
腐水越しに、クリーチャーの勇ましい声が聞こえる。涙のせいでかなり聞き取りづらい声にはなっていたが、それは命を賭けた僕にもしっかりと届く、頼もしい決意表明だった。
大丈夫。僕は最初から、独りなんかじゃなかったのだから。
墓も、花も要らない。ただ、僕が生きていたという事実を知っていてくれたなら、もうそれで十分だ。
クリーチャーがいる。そして────イリスもいる。
きっとわかってはくれないだろうし、僕も理解する気なんてさらさらなかったが────そうだな、世直しの一端を担ってくれるという観点では、兄のことも信頼してみよう。
大丈夫。僕の命を、人生を、存在を、無駄にしないでいてくれる人達がいるから。
だんだんと、息が苦しくなってくる。亡者達は新たな"仲間"に夢中のようで、どう足掻いても僕を水中から出す気がないようだった。
意識が遠のく。
体は酸素を求めて藻掻いているのに、心はなぜか穏やかだ。
もし結論として闇の帝王が間違っていた、とどこかのタイミングで気づけたのなら、確かに一度死喰い人として彼の臣下に収まっていたことも悪い話ではなかったのかもしれない。だって、そうでなければ僕は彼の弱点に決して気づけなかっただろうから。
後のことは、生きている人に託そう。未来のために戦う人に託そう。
どこかで絶対、この答えには辿り着いてくれるはずだから。
僕の死が無駄になるのか、それともどこかで報われるのか────最後の勝負をしようじゃないか────…なあ、イリス?
認めたくなんてなかったよ。
でも、貴女はずっとずっと、最後の瞬間まで────確かに僕の、唯一家族以外で最も大切と思えた存在だった。
────ありがとう。
どうか、残された者達が平等に正義を戦わせることのできる────そんな世界が、いつか待っていますように。
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