1993/10/31
その日、校内が静まり返っていることは知っていた。
いや、正確には"普段の賑やかさが ある一点 に集中し、それ以外の警備の目が疎かになる"ということを知っていた。
だからこの日を選んだのだ。
教師も、生徒もゴーストも、全てが大広間に集結する日。
一歩その場を出れば、嘘のように静まり返るがらんどうの虚と化す日。
ああ、知ってるよ。
だって、私だってかつてはその7年、あの賑やかな場にいたのだから。
あるいは、当時だってあえてその賑やさに紛れて抜け出しては、静かな城の中で色々と"楽しいこと"をしていたのだから。
この日を選んだのは、たまたまだ。
城が静かになると、知っていたから。
私の存在を誰もが忘れるだろうと、確信していたから。
でも。
なあ、プロングズ。
この"ちょうど良い日"を私が"選んだ"のは、本当にそれだけだったんだろうか?
君達のことを忘れたことは1日たりともなかったさ。
それでも────それでも"今日"だけは別だと────体が、本能が訴えている。
10月31日、今日はハロウィンの日だった。
世間はお祭り騒ぎだ。日頃からゴーストの隣で生きている我々にとってこの日は、同じものを食べることことそできないものの、同じ空間でいつも以上に深く手を取り合い、生者と死者の垣根を越える少しだけ特別な夜だったのだ。
ただ、私にはそんな祭りを楽しむ予定などなかった。
12年前から、この日は私にとって"死者との交流を楽しむ日"ではなく────"親友を一息に全員奪われた"悪夢の日へと変わってしまったから。
死者とは一体どちらを指すのだろう、と今となっては思う。
私にとってこの12年は、ただ命が永らえている屍同然だったというのに。
ジェームズ、リリー、そして生まれたばかりのハリー。
君達は何も真実を知らないまま、ヴォルデモートの手にかけられることとなってしまった。
真実を知る者は、もはやこの世に2人のみ。
生き残ったひとりは、浅ましく、そして図々しく無害な顔をして善良な少年の元でそれなりに愛されている。
全く、良いご身分だと思う。よくもまああれだけの裏切りを重ねながら、のうのうと生きるという選択肢が取れたものだ。
自分の境遇を嘆いたことことなかったものの、あの地獄の12年を経ると、思う。
やはり裁かれるべきは、あの男だと。
そしてもはや、独房で幸福を奪われるだけでは済まないと。
自分の手で下してやらなければ、この復讐は終わらない。私がどれだけの想いを抱えて、どれだけの────憎しみを超えた"悲しみ"を燻らせていたか、本人に伝えてやるまではこの気持ちは収められない。
見慣れた校舎の、何も変わらない階段を昇る。
昔からそうだった。この階段はこの段数で抜ける。この扉はダミー。ここにいる甲冑は驚かせるのが好きだから、目の前を通る瞬間に飛び出てくる。
ああ、全部知ってる。
23年前に、全部調べ尽くしたよ。
かつて毎日通った廊下を歩き、時折抜け道を通り、よく知ってい最短ルートで"家"に帰る。
そうだ。ここが私の────僕の家だった。
居場所のなかった、そして今も居場所のない僕にとって、ただ唯一"家"と呼べた場所。
友人がいて、家族がいて、心が落ち着くと芯から思えた場所。
…と、いけない。
この場にいるとつい感傷に浸りたくなってしまう。
違うのだ。私には、"今"やるべきことがあるのだから────過去の光に浸る暇はない。それはもう少し後、全てが落ち着いた時にようやく向き合える"思い出"だ。
私は吐瀉物のようにせりあがる郷愁感をなんとか胸に収め、ポケットに忍ばせたナイフの感触を確かめつつ、グリフィンドール────かつての我が家の前に立つ。
「────久しぶり、覚えているかな、私のこと」
私の目の前にいるのは、1枚の絵画。
ふくよかで、酒のグラスを傾けながら淡い色のドレスを着ている婦人が、驚きに目を見開いて私を見返した。
絵画は成長しない。12年の時を経て、私だけを取り残して無情に過ぎ去っていく世界の中で、彼女は唯一私と共に同じ流れることのない時を過ごした存在とも言えた。
「あなた────まさか────」
まあ、私の身分を考えればそういう反応になるのも無理はない。何せ、知らない人から見れば私は"親友を裏切った不義理者"であり、"罪のないマグルを大量に殺した指名手配犯"でしかないのだから。
もはや、この婦人に無罪を訴えようなんて思わない。
むしろ、真実を知ってほしいのはもっと身近に────そう、それこそ今大広間で食事を摂っているであろうかつての親友の方だ。
だから、それは良いのだ。諦めている。
それでも────、と思ってしまう自分がいた。
もしかしたら、彼女と────学生時代に散々迷惑をかけて、それでも何度も世話になった彼女となら────そして、いくら世間のニュースを耳に入れているといってもやはりどこか生きている人間とは少しものの考え方について一線を画している彼女となら、12年前と同じように対話ができるのではないかと────。
そんな、どうしようもない期待が拭えないのも、事実だった。
「シリウスさ。あの頃毎晩のようにあなたを困らせたシリウス・ブラックだよ。当時は随分と世話になったね」
僕はそこで懐かしさを込めて微笑んだつもりだったのだが、この落ち窪んだ顔の笑みは単なる脅迫にしか見えなかったのだろうか。婦人は更に顔を強張らせ、その狭い額縁内の奥に身を潜めるようにそっと体を引いてみせた。
「まさかあなたも私のことを報道通りの大量虐殺をした裏切り者だと思ってるんじゃないでしょうね?」
カマをかけるように(本当は彼女の表情から和解など無理だと悟っていたのに)僕が更に笑みを深めると、婦人はおずおずと口を開く。
「────まさかあなたがそれをしていないとでも言うの? あれだけの報道と報告が上がってるのに?」
「予言者新聞の出す"報告"と"報道"の信憑性の低さはさすがにあなたもご存知だったはずでは?」
「たまに誤りがあるのは…ええ、認めるわ。でも今のあなた、とても正気には見えないのよ。魔法省の報道を差し置いてあなたの周りくどい無罪表明を信じられると思って?」
婦人は僕にすぐさま危害を加える気がないことだけは悟ったのか、少しずつ口数を増やしていきながら僕を糾弾していく。
そして、その冷たい言葉を聞く度に、僕の体内を冷たいものが滑り落ちていく。
同じ、時が止まった存在なのに。
彼女の中で、もうあの頃の"やんちゃなシリウス"は失われていた。
時は、残酷に流れていたのだ。
「…正気じゃない、か」
反復しながら、笑えてきてしまう。
わからないのだ。もう自分が正気なのか、狂気に蝕まれているのか。
ただ、目的がひとつしかなかったから。
僕の生きる意味は、それしかなかったから。
親友の敵を討つ。本当の裏切り者に制裁を下す。
そのためだけに自らの命を注ぎ込んでいるのだと断言してしまった時、もしかつての僕に意見を求めていたなら確かに狂っていると言われたかもしれない。
でも、私が今ここに立っているのは。
人生を諦めるでもなく、自棄を起こして全てを破壊するでもなく、唯一の目的を見据えて目的の場所に立てているのは。
その"狂気"が私を"正気"に留めてくれているからだ。
だから、私は胸を張って、足を踏ん張って、目的を遂げるまでは周りに何と言われようとも自分が正しいのだと信じて動くしかない。
「…残念だよ。本当なら数年ぶりに、生徒達が帰るまででも思い出話をしたかったのに」
僕がひとりごちている間、婦人は周りの絵画にそっと警告を発していた。声を潜めているせいで何を言っているかまではわからなかったが、大方「逃げろ」か「ダンブルドアに知らせろ」か、そのどちらかなのだろう。
もはや会話の余地なし、か。
「それなら仕方ない。私の要求はひとつだ。ここを開けてくれ」
ほんの少し前までなら、そんな馬鹿なことを言わずとも────いや、もっと馬鹿げた言葉のひとつでこの扉は開いていたのに。彼女はいつだって、そう、それがどれだけ常識外な時間であったって、怒りながらも我々を受け入れてくれていたのに。
「私までもが狂う気はないわ。昔のあなたのことならよく覚えてる。ええ、"昔"のあなたのことならね。でも、私は"今"の子達を守らなければいけない。あなたのような危険人物から生徒を守るために、私はいるの」
さすがは寮の守人と言うべきか、震えながらも夫人の声は毅然としていた。
「なあに、生徒に危害を加えるつもりなんてないさ。私はただ────」
さて、虚勢を張ったいるのは一体どちらだったのだろう。昔の"ちょっとした悪戯"の言い訳を並べている時と同じように軽快な口調で語っているつもりだったが────。
「────誰にも知られていない、本当の裏切者ひとりを吊し上げるだけなんだから。"生徒"には指一本触れないよ。だから今ここにいるんじゃないか。なあ、私が────僕が、わざわざこの時間を狙って来ていることに、本当に何の意味もないと思うか? 談話室から人がいなくなる時間帯を選んだことが、本当に偶然だと思うか?」
────どうやら、感情というものがまだ僕の中に残っていたらしい。どこか懇願するような口調になっていることを自覚しつつ、僕は言葉を繋いでいた。
真実なんて、もはや知らなくて良い。
ホグワーツを出た後の我々の行動を、ホグワーツに囚われている彼女が知る必要はない。
ただ、彼女にはもう少し"かつてのシリウス・ブラック"を思い出してもらう必要がある。
"私"が、真実に辿り着くために。"僕"が、この地獄を終わらせるために。
「狂った人間の言うことなんて信じられないわ。あなたがあなただと言うのなら、この先に通る道はただひとつだということもわかっているでしょう? 合言葉よ。それがない限り、どれだけ────」
そこで婦人が声を詰まらせる。
「────ええ、そうよ。どれだけ過去可愛い我が子と思えていた存在だったとしても、私の役目は変わらない。合言葉を言わない限り、あなたをこの先に通すことはできない」
婦人は明らかに今、過去を想起していた。
同時に僕の脳裏にも、鮮やかに彩られた学生時代の思い出が蘇る。
いつだって、僕達は4人でひとつだった。
ホグワーツを荒らして回った後、必ず帰ってくる場所がここだった。いつ何時だって婦人はここにいて、僕達のことを心配したり、時には自分の生活を乱されて怒りながらも、この先に待ってある優しい空間へといつだって迎え入れてくれていた。
思い出さないはずがないんだ。
ムーニー…君は僕達がいなくなった後、それでもひとりでこの世界と戦い続けてくれていたね。
プロングズ…君を失った時、僕はおそらく自分が死ぬよりももっと大きい痛みを受けたのだろう。あれから12年も経ったのだと、脱獄して初めて知ったんだ。だって、その間僕は生きているのか死んでいるのかすらわからなかったのだから。
そして、ワームテール。
僕は、ジェームズが死んだあの日、彼の後を追おうかと思ったんだ。
無情に流れていく12年、何度この空虚な人生を終わらせようかと思ったことか。
それでも私は生きた。
ただ生きて生きて生きて、そうしてここに立っている。
なあ、なんでだと思う?
全てはお前を真実という白日の下に晒し、私の半身を奪ったその罪を私自らの手で贖わせるつもりだった、ただそれだけだよ。
ワームテール、喜べば良いさ。
君が憧れたシリウス・ブラックは今、君のためだけにこの軽い命を永らえさせているのだから。
「本当の裏切り者…? まさか生徒の中にあの凄惨な事件を引き起こせる子がいるとでも言いたいの? あの子達はあの頃、みんなまだ1歳がいいところだったのよ」
「そんなことわかりきっている。違うよ、生徒じゃない。私が狙っているのは、死んだと見せかけてのうのうと無害な魔法使いのペットに成り下がっている、ただの卑怯者1匹だけさ」
「だ、誰のこと…?」
婦人はもう、あの頃のやんちゃなシリウスを見る目を失っていた。彼女の前に立っているのはそう、かつて大量虐殺を行った大罪人のシリウス・ブラックだ。
わかりあえる余地などない。歩み寄る距離すらない。
理解している。最初から、私は孤独だと知っている。
それでも、落胆せざるを得なかった。
もう落ちるところまで落ちたものだとばかり思っていた。これ以上落胆することも、絶望することも、怒りや憎しみを募らせることさえないものだと思っていた。
だがしかし、その見立ては多少甘かったらしい。
ホグワーツという"家"に戻ってきてしまったせいで、私の心がいくらか浮いてしまった。落ちる余地を、そこで生んでしまった。
忘れかけていた吐き気。全てを失うということの本当の痛み。麻痺していた感情の欠片たちが一挙に私に襲いかかり、それは得も言われぬ破壊衝動と化す。
ポケットのナイフが、熱を帯びたような気がした。
「さあ、わかったら早く帰って。あなたの居場所はもうここにはないわ」
婦人の言葉が、ガツンと頭を殴った。
僕の居場所はもう、ここにはない。
なあ、プロングズ。
もう一度、君に問いかけるよ。
僕は一体、何をどこで、どう間違えたのだろう。
どうしたらワームテールの手を取っていられたのだろう。
どうしたらムーニーをひとりにせずに済んだのだろう。
────どうしたら、君を失わずに済んだのだろう。
僕には、本当にもう何もできないのか。
僕が生きている意味、それは真実を明らかにし、胸を張って君達のいるところへと逝くこと────それだけのはずだ。
そのために僕は一度罪を受け入れ、そうして時を待ち、冷たい海を越え、腐り物だけで食い繋ぎながら生きてきたんだ。
そうだ。
だからもう、そんなことで立ち止まってはいられない。
誰かの声に従っていては、未来はない。
いつだってそうだった。
僕は僕の信じたもののために動き、笑い、そして戦ってきた。
だからもう────。
最後に、校内をぐるりと一周見回す。
絵画の様子は何も変わっていなかった。大広間から聞こえる声が少しずつ外に漏れているのは、そろそろパーティーが解散したからなのだろうか。
そうか。
もうそこに、僕の居場所はないんだったな。
もうここは、過去なんだったな。
そうだ、何を履き違えていたんだろう。
郷愁も、故郷も、僕には存在しなかった。必要もなかった。
それならば、最初からやることは決まっていたじゃないか。
僕はポケットに手を差し入れると、中から鈍く光るナイフを取り出した。
「な、何…!?」
婦人の怯えきった声が、私の心をを更に思い出の彼方へと飛ばしてくれた。
悪かったよ、太った婦人。
あなたを傷つけることはしない。
ただ少しだけ、怖い思いをさせてしまうだろう。
だから。
だから今だけ────その場を退いてほしい。
心は穏やかだった。
あまつさえ、私は笑みすら浮かべていたかもしれない。
さっと腕を振り上げると、私は迷いなく絵画の美しい風景を切り裂いた。
場をつんざく悲鳴が轟き、婦人は隣の絵画へと一目散に逃げ去る。
────もしかしたら彼女はこの日のことを永遠に忘れられなくなってしまうかもしれない。
そう思うと心が痛まないわけではなかったが────。
もはや人間の感情を忘れた私には、もう何も届かなかった。
さあ、卑怯なネズミ君。
最後の追いかけっこをはじめよう。
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