似た者同士の僕たちは
元々、あまり他人には興味がなかった。
ホグワーツになんて行かなくたって、一通りの魔法を使える自信ならあった。ただそれでも家を出ようと思ったのは────"家を出たかったから"。それだけのことだ。
しかしホグワーツは、僕の予想を遥かに超える場所だった。
期待していなかった組み分けにおいて、僕は血の呪いでもある"スリザリン"の名ではなく、いつか憧れた"グリフィンドール"の名を呼ばれた。
誰ともつるむつもりのなかった僕を、しつこく呼んでくる奴がいた。世の中には僕より優秀な奴がいるのだと、その時初めて自らの驕りを知った。
僕の灰色の世界は、瞬時に深紅と金色の輝かしい色へと塗り替わっていった。
世の中はまだまだ神秘に満ちている。それを学んだ僕が取った行動は、"神秘の解析"だった。実家では頑なに隠されてきた"別の人間から見た歴史"、見ることすら禁じられていた光の魔法、人間以外にも対等な魔力を持つ生物、そして────この魔法の城そのもの。
こんなの、時間がいくらあったって足りやしない。
僕と親友は、朝も昼も夜もずっと足と頭を動かし続け、まずは最も身近な"住環境の調査"から始めることにした。
そう、最も身近で最も簡単だと思ったからこそ着手し始めたというのに────。
3年経っても、僕達はまだ城の全てを解明しきれていなかった。
「どうしてここの人間は自分が住んでいる場所のことを知ろうとすらしないんだろうな?」
3年目が始まってまだ間もない頃。昨日ようやく数か月かけて上階の方を調べ尽くすことができたので、今日からは地下へ行く算段になっていた。
夜がとっぷりと更けてから、ハッフルパフの寮のその先へ。
ジェームズと並んで歩く廊下は暗く静かで、少し寒かった。どうやらハッフルパフ生ですら、自分の寮を通り過ぎてどこかへ行こうとはなかなか思わないらしい。それを半ば揶揄うように、ジェームズが口の端で笑う。
「そりゃあ、ミステリーっていう甘〜いお菓子の表面には────」
ああ…深夜に歩いているといつもこうだ。僕が言葉を返そうとした瞬間、コツコツと明らかに大人の靴音が廊下の端の方に響く。
「────大抵苦い皮がついてるもんだからな」
まったく校則なんて馬鹿げている。ホグワーツが本当に絶対防御の牙城だと誇るのなら、門限なんていらないはずじゃないか。見回りの先生に見つかって書き取り罰則を食らうのは、今月に入ってから今回で────もし見つかればの話だが────5度目だ。そろそろ減点を食らって、上級生にすら目をつけられるかもしれない。寮内に拘束されるのはちょっと面倒なので、それは是非とも避けたいところである。
こちらは時間が惜しいから授業ですらうまいこと誤魔化しつつやっているというのに、夜の時間帯まで邪魔されるわけにはいかない。今日はこの先に何があるのか知りに行かなきゃいけないのだから、うまいことやり過ごさないと────。
「早く、こっち!」
僕達が揃って溜息をついて物陰を探そうかと一旦踵を返したのと、先程まで歩を進めようとしていたその向こう側から細く小さな声が聞こえてきたのは同時だった。
「!?」
僕とジェームズが振り返ると、そこにいたのはひとりのハッフルパフ生だった。口を開こうとした瞬間、再度「良いから、早く!」と鋭い声を掛けられる。
一瞬だけ顔を見合わせ、言われるがままに彼女の招く方へと向かう。彼女は寮の入口に立っている銅像の隅に僕達を座らせ、そこに自らのローブをかけた。
ふわりと、サクラの花の香りがした。
「────何をしているのですか、ミス・リヴィア」
「マクゴナガル先生、ごめんなさい。私、さっきご飯が終わった後にローブをここに置いて来ちゃったことを今思い出したんです。ほら、今日の2年生の課題をやるのにこのローブはちょっとだけ暑くて…」
「おがくずを水晶に変える魔法ですね。確かに体力を使う課題です。熱心なのは評価に値しますが、時間もきちんと見ないといけませんよ」
「すみません、もう回収したのですぐに戻ります。おやすみなさい」
「おやすみなさい、ミス・リヴィア」
おそらくマクゴナガルのものであろう足音が遠ざかると、彼女は言った通りローブを"回収"した。
────疑われすらしなかった。普段の素行が良いのか、それとも彼女の言うところに何も矛盾すると思われるところがないからなのか、単にハッフルパフの寮の目の前という咎めにくいところで出会ったからなのか────とにかくあのマクゴナガルの目を一瞬にして欺いてみせた彼女は、ローブをさっと取り去ると、晴れやかな笑顔をこちらに向けてみせた。
「危なかったね、なんとかなって良かった」
突然のグリフィンドール生の侵入にも全く驚く素振りを見せなかった彼女。大抵の奴は面倒になるからと僕達に関わろうともせず見ているだけのところを、その境界線をあっという間に乗り越えてきてみせたではないか。
「あ、ああ────ありがとう、ええと…」
流石のジェームズも、この展開のスピードには半ばついて行ききれないところがあるようだった。名を聞こうとしたジェームズに対し、少し背の低い彼女は真っ黒い黒曜石のように輝く瞳を細めてみせた。
「イリス・リヴィア。2年生だけど、あなた達の噂はよく聞いてる! 最高にクールで、ホグワーツ創設以来の"最も神秘の真髄に近づいた者"として語り継がれるだろう存在だ、ってね! 一度会ってみたかったんだ、よろしく」
廊下の灯りに照らされた、艶のある少し茶味がかった黒髪。少し幼さの残るあどけない顔は、入学当時のジェームズの表情とよく似ていた。悪戯好きで、大抵の人間が"悪いこと"と思うものを"楽しいこと"と思うような、頭のネジの外れた顔だ。
だから、本能的に思った。
こいつはきっと、良い味方になる────と。
「ああ、よろしく────イリス。見事な機転だったよ」
────それが、イリス・リヴィアとの出会いだった。
「ハッフルパフ寮の先に行きたい? 良いよ、じゃあこの部屋を1週間私が課題のために予約しておくから、拠点は一旦そこに置いてみて。ええと、私が知ってる限りだと隠し場所として体の中に潜ませてくれそうな銅像がこことここにいるから、その人に先に挨拶しておいて…」
あれから、彼女は僕達が声をかける度にこうして悪戯の一端を担ってくれるようになった。どこまでも合法的で、法の抜け穴を熟知した作戦。
「────君って変な奴だな」
「何が?」
ホグワーツの既存の地図を取り出しながらああだこうだとハッフルパフ近辺の案内をしてくれる彼女にそう尋ねると、好奇心の塊と呼んでいる瞳がきらりと輝いた。
「だって、君って奴は────別に頼んでもいないのに情報をアップデートして、勝手にこっちに流してくれるだろ」
「あれ、ごめん。迷惑だった?」
「いや、大いに助かってるよ。────だから疑問なんだ」
「疑問…?」
「そんなに探索好きなら、自分でやろうとは思わないのか? 規則破りを怖がっている節はないし、君ほどの機転の良さがあればたとえ深夜にフィルチに見つかったってなんとかやり過ごせるだろ」
「褒めてもらえるのは嬉しいけど…うーん、私ってどんくさいからなあ。その場の言い訳ならなんとかなっても、さっさか急いで動くっていうのが苦手なんだよね。体力と頭脳、両方備わってる大先輩がいるんなら、その冒険譚を聞かせてもらえるだけで私は楽しいんだ」
大広間の前にある階段に座り込み、足をぶらんと投げ出しながら言うイリス。彼女はとにかく"考えること"が好きで、大きな計画を立てるのも得意だが、自分がそれを実行できるだけの能力を備えているとは思っていないらしい。
「私はハッフルパフ生だよ。何をするにも平均点の、ハッフルパフ。人並に知識欲もあるし、冒険も好きだし、必要とあれば人に取り入ることだって厭わないけど、私は主人公になるより語り部として友達の勇士を見ていたいんだ」
そこに虚勢を張っている様子はない。いつもの夢を語るような眼差しで、僕を見る。
今日はジェームズはいなかった。こちらとしても、常にジェームズと一緒にいないと死ぬ病に罹っているわけではない。たまにこうして、イリスと2人で過ごす時間も年を経る毎に徐々に増えていくようになった。
「────ハッフルパフになら、僕も組み分けられても良かったかもな」
そう返すと、彼女は笑って「シリウスはグリフィンドールの人だよ。勇猛果敢、恐れ知らずの向こう見ず」と言った。
「こら、最後のは悪口だろ」
「でも事実でしょ?」
2人でいる時のイリスは、ジェームズも合わせて3人でいる時の様子とは少し違って見えた。声が少し低くなり、一言一言がきちんと海馬を通った賢いものになる。
ジェームズがいたところで、彼女が賢いことには変わらない。ただ、普段はジェームズのノリにあてられているのか、今の彼女は年より落ち着いた立派な魔女のように見えているのも事実だった。
「…僕と一緒にいて、つまらなくはないか?」
その問いこそがつまらないのだと知らないわけではなかったが、その落差を見ているとふとそう思う時がある。ジェームズがいた方が、無邪気にはしゃげる方が楽しいのではないかと。自分と2人でいると、彼女本来の良さを消してしまうのではないだろうかと。
陰鬱としたスリザリンの血が、奔放なハッフルパフ生を────殺してしまっているのではないかと。
「つまんない? どうして?」
「どうしてって、そりゃ────」
「むしろ楽しいよ。ジェームズも大好きだけど、シリウスは────」
そこまで言うと、彼女はその真っ黒な瞳で僕を覗き込む。
────なんとなく、続きを察してしまう自分がいた。
同時に、今はまだ────その先を知りたくないと思う自分も。
「────シリウスの前では私、自分の好きな私でいられる気がするから」
すると同じように何かを察したのか、彼女は突然瞬きの数を増やし、すぐに僕から目を逸らした。言い訳がましい素振りをしっかりと目に焼き付けておきながら、僕は何も見なかったふりをする。
「"自分の好きな私"って、どんな?」
「自分の心の思うままに動いて、喋って…でもそれが友達と────何より自分にとって"楽しい"と思えるような、そんな人生を送れる自分。損得勘定をするのも好きだし、自分の立てた計画で自分より賢い人が大きなことを成し遂げてくれるのを見てるのも好き。…でもね、それを周りに言うと、"あんまりハッフルパフ生らしくないね"って言われるから、いつも我慢してたの」
「……」
その気持ちなら、わかるよ。僕の場合正確には、"グリフィンドールらしくない"というよりかは、"スリザリンの血を引いてるくせに"と言われているという点で少しだけ違っていたが────うん、それでも、4つしかない寮の普遍的な定義に自分を当てはめられようとすることの窮屈さなら、わかる。
「私が勤勉で、我慢強くて、友達思いなハッフルパフ生じゃなくても…ちょっとズボラで、思い立ったらすぐ行動したくなって、自分を優先しちゃいがちな名前だけのハッフルパフ生だとしても、あなたはそれを許してくれるから…。あなたは、その解放感を知ってる人だから。だから私、あなたの前では自分らしくいられるんだと思う」
ジェームズには内緒だよ、と言うと、彼女はもうその話は終わりだと言わんばかりに立ち上がった。
「あと2年で、シリウス達は卒業しちゃうんだね。シリウスにジェームズ、それから…リーマスとピーター…。あなた達がいなくなっちゃったらホグワーツは随分寂しくなりそうだけど…その意志は、きっと私が誰かに受け継ぐから」
「まだ気が早いよ、イリス。あと2年もあるんだ。やれることを全部やりつくしてから、その話はもう一度しよう」
「そうだね」
しかしやはり、どれだけの時を経ても、なんやかんやと彼女の方が賢明だったらしい。
まだ2年もある────そう思っていた月日は矢の如く流れ、僕たちはあっという間に卒業を明日に控える身となった。
「シリウス、ジェームズ、リーマス、ピーター、リリー」
大広間での卒業セレモニーが終わった後、わざわざ寮の垣根を越えて彼女は僕達に会いに来た。3年生の時に初めて出会った僕とジェームズに加え、すぐに互いを紹介して良き友人となったリーマスとピーター、それから数々の障害を乗り越えて今や新たな仲間となったリリーの元に、駆け寄ってくる小さな魔女。
彼女も次の9月からは最高学年。今や下級生から慕われ、教師からの信頼も完璧に獲得し、その胸には光るバッジを付けている彼女の表情は、不思議なほどに出会った時と変わらない幼い輝きに満ちていた。
「卒業、おめでとう」
一瞬だけ、その幼さに年相応の美しさが宿る。4年前の面影と重なってボヤけて見えたその姿に瞬きをしてしまったことに、ジェームズだけが目敏く気づいた。
「ハッフルパフの奴らのところには行かなくて良いのかい?」
「うん、後で寮内パーティーをすることになってるから大丈夫。むしろ皆のことをここで逃しちゃったら、それこそ────」
「イリス、別にこれきり一生会えなくなるわけじゃないのよ」
声を詰まらせたイリスの目線に合わせ、リリーが少しだけ屈む。女子の中でも小柄な方であるイリスは、たった1歳しか変わらないのに、時折こうしてあどけない少女のような姿を見せるのだった。
「手紙書くね」
「すぐ返事を出すよ」
ジェームズが完璧なウィンクを返す。
「騎士団の仕事…すごく危ないって聞いたけど、あなた達なら大丈夫って信じてる」
「その言葉が何より心強いよ、ありがとう」
リーマスが彼女と固い握手を交わす。
「でも、困ったことがあった時にはいつでも知らせてね。私にできることなら、なんでも手伝うから」
「ほんと!? ホグワーツにしかない薬草とか本とかいっぱいあるから、助かるなあ…」
ピーターが安心したように溜息をつく。
「……」
そして、僕とイリスの視線が交わった。
「────さて、私達は先に寮に戻りましょうか?」
少しの沈黙を挟んだところで、手を打ち鳴らしリリーがジェームズ達に声をかける。「え? 先に、って…」とピーターが僕達の顔を見回したところで、リーマスが「そういえばプロングズ、昨日言ってたナントカ花火の件、どうなった?」とピーターの肩をさりげなく寮の方へと向ける。
「ああ、そうだそうだ。今日の晩に打ち上げようと思って溜めておいたんだよ────ほら、行こう」
ジェームズが去り際、僕の肩をポンと叩いてから一行の殿を務めた。
ホールに最後まで残っていたのは、僕とイリスだけだった。皆、自分の寮に向かって楽しそうに笑いながら歩いて行った後だ。先程まで温かな喧騒に包まれていたせいなのか、静けさを取り戻したホールがいつも以上にがらんどうに見える。
「あー…」
あからさまに気まずいような顔をして、イリスが指を絡ませる。
────彼女が僕に特別な想いを持っていることなら、薄々勘づいていた。知り合った頃は"カリスマたる悪戯仕掛人"として純粋な憧れに満ちていた目が、年を経る毎に色を覗かせていたから。
ジェームズと3人でいる時には見ることのできない"女性"の顔を、僕は2人きりの時に何度も見てきた。自惚れとは承知だが、その手の視線には慣れている。そしてそれに気づかないふりをしてやり過ごすことにも、慣れていた。
だから別に、今だってこのまま友達面をして「じゃあ」と別れを告げることは容易かったのだ。
容易かった、のに。
「────……」
なかなか自分からは、その一言を切り出せなかった。
共に神秘の解明に尽くしてきた友のような存在。
寮の素質と自らの素質の違和感を抱えてきた孤独な仲間のような存在。
どのような時でも常に僕を慕い、信じてくれた妹のような存在。
…それとも?
どうやって、彼女の存在を言語化したら良いのだろう。何かに喩えるのは簡単でも、それを断定するにはどこかしらで何かしらの要素が欠如しているようだった。
だからこそ、別れが惜しいと思ってしまう。"魂の双子"だとか"親友"だとか"盟友"だとか、何かこの距離に名前を付けないことには…何でも白黒つけたがる自分の性格が納得できないと頑なに主張している。
「その、」
迷う僕に対し、先に口を開いたのは、イリスの方だった。
「────手紙、書くね」
「ああ」
「もしまた会える機会があったら、真っ先に会いに行くね」
「ああ…」
「あのね、シリウス、私…」
「……」
遮れば良い。「君はずっと僕の自慢の妹だ」とそう言ってしまえば、きっと僕の気持ちも落ち着く。彼女だって、それ以上のものを求めるような傲慢な性格ではないのだから────少し時間が経てば、建設的にその関係を捉えてくれるだろう。
わかっている。
わかっていた。
わかっていた、つもりだった────。
「────…私、シリウスのこと、ずっと尊敬してる。秘密を共有した友達として、自慢の兄として、同じ孤独を分かち合った仲間として────…。だから、これからも仲良くしてね」
友達として。
兄として。
仲間として。
彼女は、僕が出せなかった答えを全て明瞭にしてみせた。
嘘が混ざっていることには、すぐに気づいた。彼女は僕のことを友とも兄とも仲間とも思っていない────それ以上のものを、僕に見ている。
それでも、彼女はあえてそう言ったのだ。その根底に何があるのかは知らない。求めてしまったら最後、僕が拒絶するとでも思ったのだろうか。"ありえない"と一蹴はできなかった────しかし、"そうなる"と冷たく断言もできなかったからこそ、僕はこの場に留まっていたのに────。
でも、答えを出したのは彼女だ。迷っていた僕より先に、彼女はこの関係に名前をつけた。
それに対してああだこうだと、うまく言葉にできない感情で反論するのはなんだか違うような気がした。理由はどうあれ、彼女自身が友人や兄弟として僕を見ると決めたのだ、ならば僕はそれに従うまでのこと。
何も、悪いことなんてない。友だって兄だって仲間だって、彼女が大切な存在であることに変わりはないのだから。
「────ああ、よろしく、イリス」
いつかどこかで呟いたものと同じセリフを吐いて、僕はイリスの前から立ち去った。
────それから、数ヶ月が過ぎた。
イリスは夏休みに入ってからホグワーツに戻るまでの間、毎日手紙を送って寄越してきた。ジェームズとリリー、リーマス、ピーターのところにも同様だったらしい。ほぼ内容は同じなのに、魔法でコピーすることはせずに1枚ずつ書き綴られているらしい、微妙にインク染みの箇所が違う便箋を照らし合わせながら、僕達は笑い合っていた。
その時はまだ、笑っている余裕があったから。
大人の世界というものは、思った以上に過酷だった。
ホグワーツでは、朝起きて悪戯、授業をひとつ飛ばして悪戯、昼ご飯を食べて悪戯、午後の授業を受けながら悪戯、夕食を取る前に悪戯、深夜を過ぎてから夜食を取りに厨房へ行きがてら悪戯、寝る前に悪戯、そして夢の中で翌日の悪戯の計画────そんな楽しい毎日が与えられていたが、卒業して城を追い出された途端そうはいかなくなった。
朝起きて死者の報告、午前中は一般人に扮している死喰い人の捜索、昼ご飯を食べる間もなく夕方まで会議、日が暮れた後は夜通し闇に紛れる死喰い人との戦闘。睡眠を取るより優先すべき翌日の戦いの準備。楽しいかと言われれば否だが、その先に見据えた目標を思えば、苦しいとまでは思わなかった。
何より、イリスからの手紙には、いつも笑顔が乗せられていたから。
在学中は彼女が僕達のやることに対して勝手に喜んでいるだけだと得意になっていた節すらあったが、こういう状況に立たされて初めて、無垢な文章で楽しい日常を共有してもらえるということが思った以上に救いになるのだと知った。
『親愛なるシリウス
ねえ、聞いて! 私、ホグワーツの首席になっちゃった! リリーとリーマスからは教科書の魔法を習って、ジェームズとシリウスからは実践魔法を習って、ピーターからは先生に聞かれやすい質問のポイントを教えてもらってたのが功を奏したみたい!
だから本当にありがとう、みんなのお陰で私、"ハッフルパフのくせに"なんて誰にも言われなくなったんだ! むしろ"ハッフルパフが始まって以来自慢の首席だ"って、スプラウト先生にも言ってもらえたの!
同じく主席の男の子はスリザリンのクラウチって子。確かに優秀なんだけど、なかなか私とはウマが合わないみたい。でも、性格が真逆だからこそ、"私についてきてくれる子"と"クラウチについていける子"でぱっくり分かれてて、統率としてはうまく取れそうな気がする。
そっちはどう? 忙しいからすぐに返事を送って、なんて言うつもりはないけど、もし安全なのであればそれだけでも報せてほしいな。私、周りの理解ある子達に、外の世界のことを聞き齧りの情報だとしてもできるだけ伝えておきたいの。みんながせめて、自分の身を守れるようにね。
あなたの心の妹、イリス』
さすが、探求心旺盛で勇敢で狡猾な魔女だ。素質があることも、それを周りが十分認知していることも知っていた。主席という立場は、彼女のような人物にこそ与えられて相応しい。…もっと言うなら、その表の皮を剥いだところに悪戯仕掛人の意志をしっかりと残しているような人物がホグワーツのトップに立ってくれたということも、嬉しかった。
ただ────。
「シリウス、今すぐ本部に来てくれ! ダンブルドアからの緊急招集だ!」
暖炉からエメラルドの炎が上がったかと思うと、リーマスが一瞬姿を現しそう叫んで、またすぐに炎の中に包まれた。
「────…ごめんな、全然返事ができなくて」
僕は楽しい日常に満ち溢れた希望の手紙を机の上に置くと、そのままリーマスに次いで暖炉へと足を踏み入れた。
────彼女に返事をできなくなってから、既に1ヶ月が経ってしまっていた。
言われていた通り、彼女はその間も一切返事の催促をすることはなかった。
それに甘え続けて、それから更に3ヶ月。ホグワーツでは、そろそろクリスマスの準備が始まる頃になっているのだろう。きっとたくさん伝えたいことがあったはずなのに、彼女の手紙の頻度は少しずつ落ちていくようになっていた。
夏休みは毎日送られてきていた手紙が、9月に入ってからは週一に。10月になる頃には、2週間に一度。11月の下旬を迎えた今、届いた手紙はたったの1通。
気を遣ってくれているのだろうということはわかっていた。
12月に入り────まだ別れてから半年と経っていないにも関わらず、彼女の手紙の様子は随分と変わってしまっていた。
『親愛なるシリウス
寒くなってきたけど、風邪とかは引いていない?
ホグワーツは今、クリスマスの飾り付けに追われています。ハグリッドが毎年のように一番大きな樅の木を持ってきてくれたから、フリットウィック先生と一緒に灯りをつける作業を買って出ています。今年で私も最後のクリスマスだって思ったら、つい気合が入りすぎちゃって。どの学年の生徒にも、一番楽しいと思ってもらえるようなクリスマスを作り上げてみせるよ!』
どことなく、そこに空元気が含まれているような気がしたのは────気のせい、なのだろうか。
『あ、そうだ。シリウスとジェームズがフィルチに没収されたっていう"忍びの地図"をどうにか奪還できないか企んでいるところなの。
ホグワーツってね、意外とあなた達が思っていた以上に悪戯に興味を持ってる人が多いみたい。もちろん軽率な人には教えられないけど────各寮の"色んな意味で賢い"人に声をかけたら、一緒にあなた達の神秘の解明作業を受け継ぎたいって何人かが手を挙げてくれたんだ! だからこちらは毎日楽しく暮らせています。
どうか、シリウス達も…辛い境遇に置かれているのはわかっているつもり…だけど、少しでもあの頃の楽しかった日々を思い出してくれたら嬉しいな』
手紙のやり取りを始めた頃、まだ僕の方からも積極的に返事を書いていた頃は、彼女は自分の話ばかりをしていた。ホグワーツの思い出を褪せさせないようにと、毎日毎日思い出を想起させるような文を書いてくれていたのだ。
それが、今になっては。
『あなたが今までに増して、命を懸けた任務に当たっていることはリリーから聞いています。
だからあなたが返事をできない状況なのはわかってる、その代わり、今少し仕事が落ち着いてるらしいリーマスがあなたの近況を教えてくれてるの。そのお陰で、あなたが危険に晒されながらも、それすら楽しんで過ごしていることは知ってる。────知ってるし、あなたが私の知っているあなたのまま変わらないでいてくれることが嬉しい。
私のことは、どうか心配しないでね。私もあなたが知っている私のまま、日々を楽しんでいるから。
もちろん私はまだ魔法に守られた城の中にいるから何も手助けができないけど…。あなたの妹は、卒業した後すぐ兄の力になれるように、力を蓄えているところです。もし信頼をもらえるなら、来年の夏に一度会ってもらえると嬉しいな。ジェームズには適わないけど、ジェームズとは違うやり方であなたの隣に立てる魔女になりたいの。私、負けないよ。大丈夫。シリウスがいない分の穴は、私が全部埋めてから卒業してみせるから!イリス』
かつては"あなたの心の妹"と添えていてくれた署名も、もはや消え去っていた。楽しそうな日々の中に、こちらへの気遣いがひしひしと伝わってくる。
心配されている。そして、それでも連絡が途絶えないというところに────おそらく、推測でしかないのだろうが────彼女自身も、不安を感じているのではないだろうか。
だって、学生時代はほとんど毎日共に過ごしていたのだから。大抵の生徒が"寮"のカテゴリーで相手を判断する中、イリスだけはいつもリベラルだった。どの寮の生徒にも等しく接し、少しでも波長が合うと思えば物怖じせずに近づいていくような子だった。
ああ、そうだ。彼女は紛れもなく公平で、人の善良な面を見つけることに長けた模範的なハッフルパフ生だったのだから。
あえてこう言うとしよう────"兄"として、妹と離れることに寂しさを覚えないはずがなかった。ジェームズやリーマス、ピーター、リリーとは違う接し方をしていた自覚が常にあった。守りたい相手であり、頼りたい相手であり、対等に背中を預け合える相手だった。
会いたいと思うよ。
もう一度君に会って────たとえこの関係が変わらないとしても、それならそれで良いんだ────"大切な妹"の君に会って、抱きしめたい。
ホグワーツで彼女と過ごした5年間を、思い出の隙間だとしても反芻して、もう一度あの頃の"向こう見ずな自分"に戻りたかった。
離れてみて初めて、彼女という存在がいかに自分に光をもたらしてくれていたのかを思い知る。
危ないことに無防備に突っ込むような馬鹿な女じゃなかった。自分にできることを謙虚すぎるほどに弁え、それでも知っている範囲の情報を惜しみなく与え、僕達にいつだって協力してくれた大切な仲間だ。妹のように可愛がり、時に他の人とは分かち合えないと切り捨てていた心の闇を打ち明け合ってきた同志だった。
特別に思わないわけがない。
僕にとっても彼女は────そう、"特別"だった。
でも────。
もう一度会って、僕は一体彼女とどうしたいのだろう。
わざわざこんな危険な世界に巻き込みたくはない。彼女をどんくさいと思ったことは一度もなかったが、それでもこの死と隣り合わせの世界に巻き込むには────。
────僕が守り切れるという保証がないからなのだろう。
守りたかった。その笑顔を。
包んでいたかった。その柔らかくて小さな体を。
そのためには、彼女を戦争に巻き込むより先に、この戦いを終わらせ、幸せな世界に戻してから迎えに行く必要があった、だから────。だから、僕は────彼女に、「隣に並んでくれ」という返事をずっと出せなかった。
────結局、彼女からの手紙は、クリスマス前のあれを最後に、一度も届かなくなった。
…遂に、縁が切れてしまったのだろうか。いつまで経ってもこの葛藤を言語化できない僕に、嫌気が差したのだろうか。そりゃあそうだ、仲良くし続けようと約束した相手から、一向に返事が来ないのだから。もう呆れられ、過去の存在として追いやられていたって…もう、文句は言えない。
「全部、自業自得なんだ…」
誰に向かって言うでもなく、僕はひとりきりの部屋でそう呟くと、彼女からの手紙を全て引き出しの一番奥にしまいこんだ。
────思えば、それは最も適切な方法だったのかもしれない。
最初からこうしているべきだったのかもしれない。こんなに半端な距離を続けて、彼女をいたずらに傷つけてしまうというのなら、いっそ最初から…ああそうだ、あの卒業を控えた時から、もう少しきちんと別れの言葉を明確に告げておくべきだったのだろう。
もう────こちらから手紙を出すのは、やめよう。
そんなことをしてしまったら、今すぐにでも迎えに行きたくなってしまいそうだ。
僕の軽率な行動で、彼女をこの世界に巻き込みたくない。
彼女には、幸せになってほしい。
そのためには────。
僕の存在は、きっと不要だ。
そうしてそれから、更に半年の年月が過ぎた。
その間、僕達は戦争の最中にありながらも、少しでも人並みの幸せを掴もうと必死になっていた。
ジェームズとリリーの結婚式。リーマスの就職。ピーターが満足のいく新居を見つけられたと言ってきた時には、みんな総出で祝いに行ったものだった。
「それで────シリウスは、いつまであの"妹"で誤魔化している"愛しい人"を野放しにするつもりなんだい?」
久々に6人で集まった昼。近況報告をしつつ、それぞれが厳しい現実の中で掴んだ幸せの話を笑顔でしている中、どこか浮ついた気持ちに乗り切れずにいた僕のことをジェームズが…ああ、こいつは本当にいつも目敏い────せっついた。
「……さあ、誰のことかな」
「今更しらばっくれようってのか? 悔しいけど僕以上のプリンスだったパッドフットがただひとりご執心だった女性なんて、この世にたったひとりしかいないじゃないか」
わかりきったような口を利かれたことに対してなのか、それとも自分の中でもどこか後ろめたさがあったのか、僕は返す言葉をうまく思い浮かべることができず、ただ唇をかみしめる。
「あらシリウス、まさかまだあなた、イリスに────」
「イリスに、何さ」
「────私てっきり、もうあなたが彼女の卒業後に迎えに行く準備をしてるんだと思ってたわ。だってもう、彼女の卒業まで1ヶ月後なのよ? 大人として、色々準備をしてあげなきゃ…」
リリーが心配そうに僕の顔を覗き込む。
「────でも、彼女をこの世界に巻き込むのは────あまりに危険すぎる。彼女は確かに優秀だ。賢くて、勇敢で、時には狡猾で、そして何より────優しい女性だよ」
「そして、シリウスのことを愛してる」
「……」
リーマスの言葉に否定ができない、そのことが苦しかった。
「わかるよ、大事な人をこの世界に巻き込みたくない気持ち。僕にも…まあ、そういうことを考えた時期があった」
「でも私は、自分の意志でこの道を選択したわ。ジェームズは迷いながらも、私にただ"道"を提示しただけだったんだもの。無理やり引き入れるでもなく、ただ"こういう世界があるんだけど、君は興味ある?"って訊いただけだったの。決断したのは私。どの世界に巻き込まれて、どの世界で戦うのかを決めるのは、結局自分にしかできないの。そして私は、イリスにならその決断を下せると信じてる。たとえ、私達と同じ道を選ばないにしてもね。彼女は自分の後悔しない未来を選べる、そういう魔女だと信じてるわ」
ジェームズとリリーの話は、あまりにも耳に痛かった。
最初から騎士団に入るつもりだったジェームズに対し、後からその道を追いかけると決めたリリー。確かに彼らのやり取りは、互いを尊重し、自己責任の下成り立った結論だった。
でも、僕とイリスの場合は?
"僕"が"彼女"に選択を迫ってしまったら────それは実質、彼女に唯一の答えを────即ち、「一緒に来てくれ」というエゴを押し付けることになりやしないか?
迷う僕の肩に、"自らの責任で決断を下した"リリーがそっと手を乗せた。
「どうやらまだあなたは、人を信じるのが苦手みたいね」
「ああ…そうだな、まったくそれに関してはお手上げだ、と認めるよ」
素直に両手を挙げると、リリーは優しい顔で微笑んでみせた。
「なら、まずは手紙を出してあげて。"ずっと返事ができなくてごめん、君に危害が及ばないか不安だったんだ"って、素直に言ってあげるの。────ええ、そうよ。たとえその根底にある気持ちが"君との接点を持ち続けたら僕が不安になりそうだったから"っていうものだったとしても────結局それは、嘘にはならないんだもの」
「……」
「それから、彼女の卒業をお祝いするの。もうすぐでしょう? そうして、最後に聞くのは"卒業後、君はどうするつもりだい?"って…それだけをね」
「…それだけ?」
それじゃあ、僕の迷いは────エゴにまみれたこの迷いは晴れないんじゃないだろうか。僕が知りたいのは、彼女が"僕とこれからも接点を持ってくれるのか、もう一生離れるつもりなのか"という、それだけなのに。あまりに選択肢が多すぎる質問だ、と思わざるを得なかった。
しかしリリーは首を振る。
「そう。別にあなたの方から道を提示する必要なんてないわ。離れていた1年間で、彼女は彼女なりに答えを出しているはず。あの子が自分のことを過小評価してまで"勇敢な行動を起こせない"って言っていたのは、あなたも知っているでしょう。もしその意志が変わらないなら、彼女はきっと…安全な場所へ就職して、彼女なりの幸せを掴みに行くわ」
「────…」
彼女の言うことに一理あると、初めて思った。
彼女ならきっと、自分が"できない"と判断したことには絶対に足を踏み入れないだろう。
そしてその"できないこと"が、"戦争の渦中に入る"ことと同義であったとするならば、彼女は合理的に考えて────僕との縁を、その時こそきっかりと切るはず。
そのことを考えると胸が痛まないわけではない。だって何度も言う、何度も言えるが────彼女は僕にとって、特別な女性だったのだから。
でも、特別だからこそ────去り際は明確にしておいた方が良いのかもしれない。
そうだな。
久々に、手紙を書こう。
元気かどうか尋ねて、こちらの世界が少し過酷だという現実もしっかりと伝えた上で────彼女の進路を────同時に、僕らの未来を問うんだ。
曖昧な距離感のまま続けてきたこの6年に、決着をつける時がきた。
「────…」
その夜僕は、まっさらな羊皮紙を前に、インク染みばかりをぽたぽた零しながら考えていた。
書くべきことはわかっている────のに、しばらく手紙なんて書いていなかったせいで、うまく言葉が出てこないのだ。
元気? 変わりないかい?
彼女との永遠の決別の選択肢が残っているというのなら、あまり親しみやすすぎる言葉は使いたくない。
『────君についての噂は、ダンブルドアから聞いていたよ。優秀な生徒だと、随分と誇りに思われているようだね』
そうだ、このくらいの距離感で良いだろう。
さて、ここからはこちらの近況報告をしなければならないのだが────あまりヴォルデモートとの直接対決の話などは書きたくない。適当に死喰い人の残党との闘いの話でもしておくか────。
頭を悩ませながら唸り続けていると、不意に窓の外からコンコンと鋭い何かがノックする音が聞こえた。カーテンを開けていないので定かではないが、おそらくふくろう便が届いたのだろう。こうして手紙が届くということも、久々のことに思えた。
時計を見ると、夜中の3時になっている────驚いた、要領は悪くない方だと自負していたが、たったひとりの女の子への手紙を書くためだけにまさか3時間も唸っていたなんて。
良い気分転換になるかと思い、換気も兼ねて窓を開けた。賢そうな茶フクロウがスイーッと部屋の中に入ると、天井を旋回しながら手紙をぽとりと落とし、そのままこちらに何を求めるでもなくそのまま窓の外へと去った。
落ちた手紙は、ごくごく薄い封筒だった。中身は…この薄さじゃ、たいしたことじゃないだろう。
騎士団の誰かから届いた定時連絡か────そう思って差出人の名を見た瞬間、僕の時間が一瞬完全に凍り付いた。
『イリス・リヴィア』
「────!?」
ふんぞり返って椅子に座っていたせいで、その衝撃を受けた僕はそのまま後ろにバタンと倒れこんだ。頭の上で星がチカチカと瞬く。痛む後頭部を抑えながら、僕は半ば衝動的にその手紙の封を破った。
イリスが。
半年ぶりに、イリスからの手紙が。
本物、だろうか? いや、疑う余地もない────繊細な、彼女の筆跡だ。
妙に心臓が嫌な音を立てた。緊張と、期待と、不安が混ざった複雑な感情が、心拍数を一瞬にして最大速度まで上げる。全身の血流が活性化し、手には妙な汗をかいてしまう。
思いがけないことがあると、人はこういう生理現象を起こすらしい。
とにかく────ああ、驚いた。
まさかこのタイミングで彼女から手紙が来るなんて、思ってもいなかったのだ。
あまりにもこちらから返信をしていなかったからだろう、彼女も色々と察してくれたはずだったのだ。こっきりと連絡は途絶え、もはやこちらからも彼女が今どんな日常を過ごしているのか、全くわからない状況になっていた。
────もしかして、何か彼女に身の危険が迫っているのだろうか。
それならば、何を放り出しても彼女を助けに行かなければ。
震える手で便箋を開く。そこには────ああ、少し安心した────いつも通りの安定した筆跡で、彼女の文字が綴られていた。
『シリウスへ』
今まで必ず『親愛なる』と添えられていたその言葉が失われていることに、少しだけ胸の痛みを覚えてしまった自分がいた。
『ごめんなさい』
そして、謝罪から始まる手紙にも、一旦潜んだ不安が募る。
彼女の手紙はいつだって楽しそうな雰囲気に満ちていて、こちらを楽しませようと頑張ってくれている様子が窺えていたのに。
『あなたが忙しいのは知っています。毎日新聞欄を見ては、あなたが生きているかどうか確認する日々を送っては────安心していました。こちらの生活は変わっていません。もうすぐ卒業を控え、私の進路ももう決まっています。私にとっては勇気のいる決断でしたが、迷いはありません』
他人行儀な書き方、いつもより神妙な話題の振り方。
どこかが違う、と思った。
今すぐに危険が迫っている様子はない、その様子が外れたことに安心はしたものの、まだ緊張した気持ちのまま急ぎ文字を読み進めた。
『あのね、シリウス。私、あなたがいなくなってから、あなたの消えてしまった穴を埋めようと自分なりに頑張ってたの。仲間を集めて、たくさんの魔法を学んだ。毎日が充実していて、新鮮で、楽しくなかった日なんて一度もなかったよ』
書かれている言葉は満足に溢れているはずなのに、なぜだろう、この心配を煽るような────言葉にしがたい違和感は。
『だって、あなたがたとえいなくなったとしても────ホグワーツには、いつもあなたの面影があったから。あなた達がいてくれたその思い出を感じながら、私はなんとか過ごしていけたから。でもね────』
そこに、大きなインクの染みができていた。この先を綴ることに、彼女なりの迷いがあったことは明白だ。
『私、次の夏からは本当にひとりになっちゃう。自分の進路に後悔はしないつもりだよ。私はよく考えて、自分の人生を楽しむために、この決断をしたから。でも────そこにはもう、あなたの"面影"はない。あなたと過ごした"思い出"はない。そのことがね…少しだけ、寂しくて』
一向に進路の詳細を明かさないまま、彼女は初めてそこで────この1年、いや、出会ってからの6年の中で弱音を漏らした。
『心の中では、いつもあなたが傍にいてくれてるって思ってた。それを拠り所に、私、頑張ってた。だって私はあなたの妹で、友人で、仲間なんだから。────今更その先を求めようなんて、思ってない。でも、シリウス────ごめんなさい、こんなことを言ったら困らせるってわかってるんだけど──── 一度だけ、言わせてほしい』
そこからまた、インク溜まり。何度も書き直した跡が見えるその上に、ようやく見つけたらしい"無難な言葉"が続いていた。
『私、やっぱりシリウスと一緒にいたかったな。恋人だなんて、そんな大事なポジションにいられなくたって良い。あなたに大切な女性がいるなら、もしそれとも────既に奥さんがいるって言うのなら、迷惑にならないように、あなたに縋るのは二度とやめる。でも、一度だけ──── 一度だけ、あなたに"彼女も奥さんもいない"って思い込んでいる私の戯言として言わせて。…私…やっぱり、あなたの隣にいたい。あなたの隣で、私が好きな私をもう一度取り戻したい。シリウス────あのね、』
その先にあったのは、とても小さくて細い、今にも掻き消えてしまいそうな筆跡だった。
『私、あなたのことが好きでした』
もはや自署すら、その後にはなかった。推測でしかないが────おそらく彼女はそこまで書き終えたところで、全てを諦めたのだろう。1年越しに聞けた告白は、過去形になっていた。それが本当に過去のことになっているのか────なんて、そんなこと、その前に書かれている未練が"そうではない"と物語っている。
彼女は、未だに僕のことを好きでいてくれたのだ。離れていても、手紙の返事をしなくても、それでも一途に想い続けてくれたのだ。ただ僕の顔やステータス、そしてカリスマなんて痒い呼び方をされていたあの頃の傲慢な挙動に惹かれたのではなく────本物の"僕の意志の継承者"として1年を過ごし、それでもなお────僕のことを、慕ってくれていた。
だからこれは、彼女の一方的な"離別"のための告白だったのだろうと思う。
勝手に言わせてください。返事は要りません。これを最後に、私はあなたと決別します。
そんな声が、聞こえるようだった。
ああ、思い出せるとも。
虚勢を張る彼女の、いつになく強い声。自信のない時の、か細い声。
どっちだって思い出せる。そして今僕の脳内には、そのどちらもが器用に同時再生されていた。
彼女は強がっている。強がりながら、後ろめたい本音を初めて打ち明けている。
この薄い手紙を送るまでに、どれだけの葛藤があっただろう。半年彼女からの連絡が途絶えていた間、もしや彼女はずっとそのことを考えていたのだろうか────そう思うのは、傲慢だろうか。
でも、少なくとも僕は。
ずっと、君のことを考えていた。
なあ、イリス。
確かに僕は、君に返事を一切返さなかった不届き者さ。そりゃあ、見放されたって仕方ない。思えば、今更『進路はどうするんだい?』なんて聞いたところで、『保護者面しないで』と言われたって仕方ない分際なのだ。
でも、だけど。
もし君が、今になって勇気を出して告白をしてくれたというのなら。
それがもし過去形になっていたとしても、一度は"僕の隣にいたい"と思ってくれていた時間があったというのなら。
────最後の自惚れを、見せても良いだろうか?
1978年、7月上旬。
その日は、ホグワーツ魔術学校の卒業の日だった。
昨日は存分に宴を楽しんだのであろう眠たげな7年生が、一足早くホグズミード駅へ向かう馬車へと乗り込んでいくのが見える。
「……少し、めかしこみすぎたかな」
着慣れないスーツは、なんだか妙に窮屈に思えた。ただこればっかりは、リリーから「このくらいの正装をしなさい。あなたどれだけ彼女を放置したと思っているの?」とお𠮟りを受けた末のものなので、反対することができなかったのだ。
しかも、背中に隠した右手に持っているのは、大輪の赤い薔薇の花束。思い付きはジェームズのものだったので一蹴しようとしたのだが、今度はリーマスが「ロマンティックで良いと思うよ。よく考えなよ、君達、一体いつぶりに再会するんだい? しかもその日は君の一世一代の賭けの日じゃないか。大仰なくらいで行くべきだ」と詰めてきたので、これも仕方なく持って来ざるを得なかった。
校門の前で、ぼうっと立ち尽くしながらたったひとりの女性を探し出す。
馬車に乗り込もうとする生徒達は、ジロジロと遠慮のない視線をこちらに向けていた。流石に1年しか学年が変わらないからなのか、僕のことを知っている生徒も非常に多い。
「シリウス・ブラックじゃない…?」
「どうして? しかもスーツなんて着て…」
「何か先生に用でもあるのかしら」
好き勝手な噂を流されながら、それでも誰にも話しかけられることなく、遠巻きに眺められること10分。
────間違えようもない、5年間ずっと隣で見続けてきた少女の姿を、ようやく発見した。
髪が少し伸びている。顔の作りはまだあどけない少女と言えるものだったが、歩き方が、笑い方が、完全に淑女のそれになっていた。
立派な成人魔法使いとして、外の世界へと行こうとする彼女。ホグワーツで多くを学んできたというのは本当のことだったようだ、とすぐに察せられた。
彼女は友人と談笑しているようだったが、他の生徒と同じく校門前まで来たところで僕の存在に気付いた。その瞬間、トランクも、ふくろうを入れた籠もガシャンとその場に落とし、口をあんぐりと開けて立ち尽くす。
「────……」
何度か見たハッフルパフ生の彼女の友人は、彼女と僕を交互に見ると、何かを察したようなしたり顔を見せた後、「私、先に行ってるね」と言って去っていった。
この光景には、どこか既視感がある。
雑踏の中、取り残される2人。騒がしいはずなのに、聴覚は全てを遮断したように静かだ。
「────久しぶり、イリス」
彼女が一向に動く様子がないので、僕の方から歩み寄ることにした。イリスはその場に留まったまま、僕の頭の先から爪先までを────まるで本物かどうか確かめるように、ゆっくりと眺める。
「…悪かったよ、遅くなって」
「シリ、ウス…?」
信じられないようなものを見るような目が一向に晴れないので、思わず笑ってしまった。
「そうだよ。君の元兄で、元友人で、元仲間のシリウスさ」
「元…え?」
状況が理解できないのも当然のことだろう。だってきっと、彼女の中で"僕"の存在は、1ヶ月前に送られてきた手紙を最後に終わってしまったはずなのだから。
でも、僕はそこで終わらせる気がなかった。
思えば、最初から彼女との関係を終わらせるつもりなどなかったのかもしれない。
僕が卒業する前の日、思い淀んでいたのも。
手紙のやり取りをしながら、うまく"兄"になりきれず、彼女を守る最適解を見つけられなかったのも。
────こうして、彼女から届いた唯一の弱音に釣られてすぐ駆けつけてしまったのも。
本当は────。
本当は、僕の方が────。
「────隣に、いたかったんだ。だから迎えに来た」
イリスの目が驚愕に見開かれる。
ああ、驚いてくれるのならちょうど良い。少し過剰だと思っていたサプライズも、このタイミングになら許されるだろうか。
僕は隠していた大輪の花束を、彼女に手渡した。
「君がどの進路に進むのかは、手紙では聞けなかったな。でも────どんな道を選んだって良い、もし君がその未来を進む上で、そして僕が今どんな人生を送っているのか知った上でそれでもなお僕の傍にいることを一度でも望んでくれていたというのなら────僕はそれに、応えたいんだ」
「で、でも…」
狼狽える彼女の手を、ようやく僕は────1年越しに取った。
「良かったら、僕と一緒に来てくれないか、イリス」
「シリウス…?」
「僕も君のことが、好きなんだ。今も────きっと、前からも」
その手に花束をぐいと押し付けると、イリスは両腕いっぱいにそれを抱え込んでみせた。
「────私ね」
迷うには十分な時間をかけた後、イリスはか細い声を発した。
「…不死鳥の騎士団に入ることにしたの」
「────……え、なんて?」
「だから、私────卒業したら、騎士団に入るの」
そんな、まさか。
選択肢から全く排除していたわけではない。でも、あれだけ進路を濁され、ある意味別れの言葉を告げられた手紙があってのことなのだ。きっと彼女は、僕とは全く違う道を歩んでいくものだとばかり────そう思い込んでいた。
「だったら────」
「ううん、だからこそだよ。あなたと同じ道を進むからこそ、あなたと同じ場所に立つからこそ、この半端な気持ちをそのままにしておきたくはなかったの。私、ずっとあなたにとって私を"妹"って都合の良い立場に置いて安心してた。でも、もうそれにも耐えられなくなったの。私、あなたの特別になりたい。そう思ってしまった。あなたのいない場所でひとりっきり生きていくのが、苦しかった。────だってそれは、あなたとの切れかけの絆に縋ってしまいそうな自分がいつか生まれるって、わかってたから。だから────いっそ、今後会うことがあったとしても"たまたま同じ学校を卒業した全くの他人"として再会したかった。────そうだよ、あの手紙は────私にとって、"決別"の手紙だった」
「バカなことを言うな」
「返事をくれなかったのはシリウスでしょう!」
迷いながら、考えながら、言葉を選んで話していたはずの彼女の語調が、僕の不用意な牽制によって一気に強まる。
「────シリウスにとって私は、もう重荷にしかならないって思ったの」
「そんなことなかった。いつだって僕は、君に支えられてた」
「でも、私のバカみたいな日記を一方的に送り付けるのが、負担だったの」
「それは────申し訳ないって、思う。僕は結局、君に甘えていたんだ」
「シリウスにとって私が妹でしかないことなんて、わかってた」
「違うんだ。僕自身、離れてみるまで君の存在がどれだけ大きいものなのかわかっていなくて────その中途半端な感情が、君に要らない決断をさせていた」
「じゃあなあに、今は私のことが好きだって? 恋人にしてくれるって? そう言うの?」
「ああ、そうだよ。離れて気づくなんて馬鹿らしいと笑ってくれ。君は僕にとってとても大事な存在だった。太陽のように明るく、月のように優しい存在だった。一緒に悪戯を仕掛けて、たまにお互いの孤独を埋めるための寂しい愚痴を零して────僕が"僕のことを嫌わずにいられる僕"であれたのは、君の前でだけだったんだ」
その時のイリスは、目にいっぱいの涙を溜めていた。これまで僕が不義理にも連絡を寄越さなかった時間の中で、きっと彼女はたくさん迷っていたのだろう。僕達と過ごした思い出にまみれた、ある意味では彼女を拘束する城の中で。
「僕は君のことが好きだ。隣にいたい。守りたいし、支えてほしい。だからこうして迎えに来た。────もしもまだ君が未だに僕のことを────好き"だった"ではなく、好き"だ"と言ってくれるのだとしたら────どうか、この手を取ってくれないか」
そう言って、空になった両腕を広げると、彼女は迷うことなく花束を抱えたまま飛び込んできた。せっかく綺麗に並べてもらった薔薇が、ぐしゃりと萎れた音を立てる。
「────許して、くれる? 私みたいな人間が、あなたに憧れ以上の感情を持ってしまうことを」
「許すよ」
「許してくれる? 私みたいな人間が、あなたの隣に立つことを」
「僕の隣に立てる人間なんて、君しかいないよ」
「私でも、あなたを助けられる? 支えられる?」
「今までだってそうだったじゃないか。これからも期待させてくれよ、ハッフルパフの伝説の首席さん」
最後の方に少しだけ揶揄いを込めてそう言うと、瞳に涙を溜めたまま彼女はようやく微笑んでくれた。
「シリウス、あのね、私────あなたのことが、とっても好きだったの。とっても好きだったし、今でも大好きなの。だから────」
「ああ、この1年は────きっとお互いにちょっとだけ…試練の年になったな。でももう大丈夫だ、これからはずっと一緒だよ。楽しいことも、辛いことも、一緒に乗り越えていこう。大丈夫、世間の戦いなんて、校則の穴を潜り抜けることに比べればよっぽどあけすけで派手で、面白いことに満ちてるんだから」
それが度の過ぎた冗談であることなんて、彼女はとっくに察していただろう。
それでも、彼女は笑ってくれた。
出会った時と同じ、"冒険"を求めるキラキラとした黒曜石のような目で。
「これからもよろしくね、シリウス」
「ああ、よろしく────イリス」
このやり取りをするのは、何度目のことだろう────そう考えつつ、何度目だって良いか、と解放感いっぱいの胸で疑問を放棄する自分が勝った。
何度だって、彼女との出会いをやり直そう。
そうして、何度だって────彼女との"これから"を、共に歩もう。
親愛なるハッフルパフの悪戯仕掛人、もといイリス・リヴィアへ。
グリフィンドール随一の悪戯仕掛人────もといシリウス・ブラックより、愛を込めて。
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