Dear puppy love-V
ヨーロッパでは珍しい、晴れ渡った空を見た夜の後。
私はすっかり、シリウスの顔を見られなくなってしまった。
一体あの夜に何が起こったのか、自分でもうまく説明ができない。
簡単に言えば、その時隣にいたのは"まるで知らない別人のようだった"、というところ。
でも私は、「僕はただのシリウスだ」と言った彼の言葉に迷いなく頷いてしまっている。
ただのシリウスなのに、いつものシリウスなのに、シリウスじゃなかった。
シリウスなのにシリウスじゃないって、どういうこと?
────私の胸の中には今、何人もの友人がいる。
リリー、ジェームズ、リーマス、ピーター、レイブンクローのメリッサ、その他たくさん。
もちろん、それと"同列"にシリウスだっていた。いや、1年生の時の小さな約束を踏まえれば、確かに彼は少しだけ他の人より私の心に占める割合は大きかったかもしれない。
その面積が、どんどん大きくなっていっている。
私の心に、どんどん彼の存在が焼き付けられていっている。
「イリス、昨日の────」
「あ、ご、ごめん、後でね!」
何を言いたいのか確認することさえせず、私はここ最近、ずっとシリウスを避け続けていた。彼はいつも以上に積極的に私を呼ぼうとするのだが(その理由もよくわからない)、こんな情緒のまま彼の顔を見るなんて、天皇陛下に謁見するようなものだ。冗談じゃない。
「ねえ、なんだかあなた達、最近変じゃない?」
そう言うのはリリー。薬草学のために温室へ移動する時、シリウスが前に使っていた教室を出て行く姿をしっかり見てからその場を出た私を訝しみながら、彼女は的確に痛いところをついてきた。
「…わかる?」
「というか、そのザマでブラックが癇癪を起さないのが不思議なくらいだわ。2週間くらい前からかしら…あからさまに避けてるでしょ」
「……」
そう、私はもう、あの星空の日から2週間もこの調子でいた。
シリウスが私を呼ぶ。それを避ける。
シリウスが私に手を振る。それを無視する。
確かに、怒られても仕方ないことをしている自覚はあった。シリウスにたとえ何か思うところがあってそれを見逃してくれているとしても、ジェームズ辺りならそろそろ何か言い出しそうな状況になっていることくらい、わかる。
でも────。
「…なんか、自分の気持ちがわからなくて」
「自分の…気持ち?」
「ねえ、リリー」
自分の気持ちがわからない?
リリーに曖昧な答えを返そうとした私に、理性が囁きかける。
言葉が、一瞬詰まった。
本当に私は、自分の気持ちをわかっていないの?
ううん────そうじゃないでしょ。
深く、息を吸う。
そうだ。
私はわかっていた。
わかっていながら、目を背けていただけだったのだ。
キラキラで、フワフワで、ドキドキ。
こんな気持ちに名前をつけるとするなら────最初からひとつしかないじゃないか。
私はそこでようやく────自分の心に蔓延るこの靄が詰まった蓋を開ける決心をした。
「私────シリウスのこと、好きになっちゃったのかも」
濁していた。察しないようにしていた。わからないように、あえて「なんだろう」と疑問のまま残していた。
でも、本当は自覚していたのだ。
あの日、あの夜、私はシリウスに恋をした。
彼が私にとって特別な存在だと、気づいてしまった。
私達がどういう関係か? きっとそれは、"友人"なのだろう。
シリウスが私をどう思っているのか? それは────まだ、わからない。
じゃあ、私はシリウスをどう思えば良いのか?
私はその答えを、あの夜に得てしまった。
異物で、壁が厚くて、まるでガキ大将のよう。
でも、賢くて、上品で、まるで王子様のよう。
私の目には最初から、"ブラック家のはみ出し者"ではなく"ただのシリウス"に見えていた。
そうしたら今度は、"ただのシリウス"が"特別なシリウス"になってしまった。
王子様が、あの夜に私を迎えに来たのだ。
そんなことを、思ってしまった。
「あら、じゃあ何も憚ることなんてないじゃない」
決死の思いで打ち明けたのに、リリーの答えは実にあっけらかんとしていた。
「え、いや、待って? 憚ることしかないんだけど…」
「どうして?」
「だ、だって…」
────私、恋なんてしたことない。
漫画でなら読んだことがある。友達の恋路を応援したことだってある。
だから、"恋"というものならこの年なりに理解していた。だからこそ、自分の抱いたこの気持ちが恋であることからも、逃げられなかった。
…でもそれは、思った以上に重たい感情だった。
だからどうしたら良いかわからないのだ。
私がシリウスをどう思えば良いのか、それならわかった。
だからといって、何かが進展するわけではない。
シリウスは、私をどう思っているのか。それがわからないと、何もできない。
彼が私のことをただの悪友だとしか思っていないのだとしたら、私にできることなんてきっと何もない。シリウスほどの人の恋人になろうだなんて、流石にそれは無茶なことだということはわかっている。だって彼、バレンタインデーの時に貰ったチョコレートを一体どうしていたか…ああ、今となってはもう思い出したくもない。
でも…でも、でも、もし…仮に…たとえ話として…あるかもしれない未来として…ただの希望的観測として…シリウスが私のことを好き、だったとしたら…。
私も、一歩踏み出さなきゃいけないのかもしれない。いや、だからといってその一歩をどのくらいの歩幅でどのくらいの強さで踏みしめれば良いのかがわからないのだから、結局辿り着く末路は同じなわけだけど。
「だって…そういう目で見るようになっちゃったら…もう"今まで"と同じようになんて接せられないよ…」
「ええー…ヤマトナデシコって本当に大変なのね」
「これも国民性なの? だってリリー、もし誰かのことを好きになったら…」
「"好きだ"とは言わないかもしれないけど、デートくらいになら誘うわ。相手がそれでオーケーしてくれるなら、向こうのアプローチを受ける準備だってするわよ」
恋をしたことのないリリーの答えはいつだって簡単だ。でも、それが"こっちではそう"なのだとしたら、間違っているのは私の方。
陰から見てキャーキャー言ったり、ちょっと話しかけに行くためだけに友達と会議を開く必要なんてないらしい。
「というか、ブラックが相手ならあなたの場合、もうその段階は必要ないじゃない」
「その段階って?」
「デートに誘ったり、駆け引きしたり…そういうの、もう要らないでしょ?」
「なんで?」
確かにリリーは私とシリウスが一緒にいることをよく"デート"って揶揄ってきていたけど…でも、「もう要らない」なんて言われてしまっちゃ、それこそもう八方塞がりだ。
私はシリウスの気持ちを知る術を持たないまま、この大きな感情をひとりで背負い続けなければならなくなってしまう。
「なんでって…なんで?」
「だって私、シリウスが私のことをどう思ってるか知らないし、知れたところでどうしたら良いのか…」
「あら、ブラックの気持ちなら私、ずっと言ってるじゃない。…もはやそれも必要ない自明の理だけど。どうしたら良いのかは…それこそ本人に聞くべきよ。そういうのって当事者の問題だと思うもの」
まるで1+1の答えを出すかのように言うリリーだったが、私にとっては代数のないX+Yの問いを投げられているかのようだった。
それってどういうこと、という何度目か知れない質問を掛けようとした時、チャイムの音と同時に私達は温室に足を踏み入れてしまった。
消化不良のまま、私は授業を受け、食事を摂り、シャワーを浴びて、眠りにつく。
「なあ、イリス────」
「ごめんシリウス、私すっごく疲れてるの。あ、明日でも良い?」
明日でも良くないことを自分が一番理解しながら、私はその日もシリウスを避けてまっすぐ自分のベッドに倒れ込んだ。
────このままで良いのだろうか、という迷いはあった。というよりも、このままで良いわけがない。
だって、私がシリウスをどう思っていようが、私達は傍目には"友達"なのだから。傍目でなくたって、この関係は確かに"友達"なのだから。
でも────。
この間、変わったのは私だけではなかった。
私を見る目に、密かな色がつく。私を揶揄する声に、密かな音がつく。
私達の関係は変わっていない。
変わったのは私だけだ。そう思っていた足場が────瓦解する。
「ねえ、あの日本人、やっぱりブラックと────」
「僕らのナデシコが────」
「猿のくせにシリウスと────」
今までは、視線も言葉も"私"に向けられたものだった。
ヤマトナデシコと賞賛してくれる者も、猿と揶揄する者も、どっちだって"たくさん"いた。良くも悪くも、"私"の立場はホグワーツという広い城で目立つには十分だったからだ。
そこに、最近"シリウス"の名も加わることが増えた。
私とシリウスが。その後までは、よく聞き取れない。余程何か重大なことなのか、私とシリウスの名だけ発した後、彼らも彼女らも揃って声を潜めるのだ。
「良かったよ、シリウスが君を勝手にそういう扱いにしているだけなのかと思っていたから」
リリーに続いて意味深なことを言うのは、リーマスだ。
「"そういう扱い"って、何?」
「あっごめん、僕そういう時の日本式の言い方がわからなくて…失礼だったかな、そういうつもりじゃなかったんだけど」
「いや、それは大丈夫なんだけど…」
リーマスが何を謝っているのかはわからなかったが(そしてこの場合質が悪いのは、ジェームズと違ってこういう時のリーマスがとても真摯だということだ)、とりあえず何も失礼でないことだけは確かな上、私が尋ねたかったことと全く違う角度からの返答が来てしまったことで、私は更に混乱するばかりだった。
「単純に私が訊きたかったのは、私とシリウスが────」
どういう扱いになっているのか、ただそれだけだった。
それなのに。
「リーマス! 至急集合! 面白いもの見つけた!」
ああ、もうこのイノシシ…は確かホグワーツでは神聖な生き物だったんだっけ…ええと…猪突猛進で周りに怪我をさせまくる…とにかくサイでもシカでもなんでも良い! この獣!
リーマスなら核心を突いてくれると願っていたその望みは、やかましい獣ことジェームズに遮られた。遠くの方でぶんぶんと手を振り、まさにシカのように軽やかに駆け寄ってくる。
「…っておや、深窓の令嬢までいる。いい加減プリンスのお目通しは叶えてあげたのかい?」
「もうあなたに至っては一言一句何を言ってるのかわかんないよ…」
「せっかく恋人になれたのに目さえ合わないってあいつ、あれでも落ち込んでるんだよ。ヤマトナデシコが何重にも重ねたカーテンの奥にいるものだっていうのは確かに聞いたけど、もうそろそろワッカに応えてあげても良いだろ」
意味がわからないし、多分ジェームズが言っているのはワッカじゃなくて和歌だ。昔の時代、女性は御簾の中に留まり、垣間見をした男性と和歌のやり取りをすることでその恋心を交わしたという説明なら確かにしたことがある。
────って、ちょっと待って。
「"恋人になれた"…って、何?」
そんな話、聞いてない。
もうこの際ジェームズが私のことを「深窓の令嬢」と呼んだりシリウスを「プリンス」と呼んでいることを疑うのはやめよう。この文脈的に、そして彼の言い回し的に、それが"私とシリウス"を指しているのは明白だ。
ということは、だ。
みんなが言っていたのって────。
デートに誘ったり、駆け引きしたり…そういうの、もう要らないでしょ?
ねえ、あの日本人、やっぱりブラックと────。
僕らのナデシコが────。
猿のくせにシリウスと────。
良かったよ、シリウスが君を勝手にそういう扱いにしているだけなのかと思っていたから。
「私とシリウスって…恋人なの!?」
思ったよりも大きな声が、広い廊下に響き渡る。
当然、その場にいるのは私達だけじゃない。他の生徒の、訝しげな────あるいは、妬むような視線が集まるのを感じ、私は咄嗟に彼らを小教室の中に連れ込んだ。
「おいおい、今の────冗談、だよね?」
ジェームズが明らかに引きつった笑みを浮かべつつ、彼にしては珍しい弱い声音で尋ねてくる。ただ、私の真剣な表情と、今こうして私が慌てて彼らを別室に誘ったことで、それが冗談でないことは半ばわかっているようだった。リーマスは眉根を寄せて、静観を貫いている。
「君────まさか、自覚せずにシリウスと付き合っていたっていうのかい?」
「なあジェームズ、これまさかシリウスが本当にデマカセを────」
「いや、あいつに限ってそんな姑息なこと────」
「ちょっと待って────っていうか、一回状況を整理させてくれる?」
ちょうどその時が昼休みの時間だったからか、あるいは私があまりにも切羽詰まった様子だったからか、2人はすぐに首肯してくれた。
「まず大前提なんだけど────私って、シリウスと付き合ってるの?」
「まずその質問が当事者から出ることが大問題なんだけど…僕ら…そう、僕らでさえそうだと思ってたよ」
「当然、シリウス自身もね」
ジェームズに続き、リーマスも真剣な声で付け足す。
「なんで?」
「なんでって…」
こちらの質問には、2人ともうまく答えられないようだった。顔を見合わせて、困ったように揃って私を見返す。
「だって君達、何度もデートしてるだろ?」
「ホグズミードとか夜に抜け出した話のこと? 確かに茶化してデートだって言われたことならあるけど…」
「あのシリウスが、君のことだけを特別視してることだって知ってるだろ?」
「私"だけ"かはわからないけど、まあ…多少他の人よりは仲が良いって思ってるよ」
「それに君、あいつに"my dear"ってあいつが決死の勇気を振り絞った告白を受け入れたろ?」
「My dear…。ああ、この間のことか…確かに言われたけど…え、告白?」
"Dear"なんて、私達(日本人)にとっては"○○ちゃんへ"という手紙の書き出しに使われる以外に用途のない言葉だった。もしそれが告白の言葉だと言うなら、私達はクラスメイトの女子全員と交際していたことになる。
「何度もデートに行って、深夜の無茶な呼び出しにも応じて、あいつは勇気を振り絞って君に"恋人への言葉"を掛けた。そうしたら君は笑って手を振ってくれた────って、こっちはそう聞いてるんだけど」
ジェームズの言っていることはほぼ間違いない。そう、"dear"の意味合い以外の部分なら。
「あの…初歩的な質問で申し訳ないんだけど…"dear"って…どういう意味?」
再び、ジェームズとリーマスが目を合わせる。そして今度は、揃って溜息をつかれた。
「そういうことか」
「あいつもつくづく報われないよな、笑っちゃうよ」
何か彼らにとっては合点のいく話だったらしい。ひとりついていけない私は、オロオロと2人の顔を交互に見ていた。
「先に確認したいんだけど、君、"dear"の単語自体は知ってるみたいだよね。意味は?」
「ええと…友達とか、家族とかに親しみを込めてつける…なんだろう、"なんとかちゃんへ"、みたいな意味だと…思って…」
「間違いじゃないよ」
私の尻すぼみな答えを優しく肯定してくれたのはリーマス。でも、その会話がそこで終わるわけではないという強さも、そこには込められていた。
「親しい人に対する言葉、それはそうだ。でもそれは、君が言う…そうだね、例えば手紙の書き出しとか? まあ使われないわけじゃないけど…たったそれだけの簡単な意味に終わる言葉じゃない」
「まあ率直に言うと、"愛しい人へ"っていう"愛情表現"の意味が強いってこと」
…じゃあやっぱり、私ってクラスの女子みんなと付き合っていたの?
混乱する私を見てすぐにその状況を察し、2人は交互に説明を加えてくれた。
「君の使い方が間違ってるわけじゃないんだ。ただ、シリウスの場合────」
「手を尽くして問い詰めてなんとか口を割らせたけど────あの日、あいつは君に"sweet dreams, my dear"って言ったんだったよね?」
「そもそもそういう…なんていうのかな、それこそ君が言うように"他の子よりは多少特別感のある男女"の間で交わされる"my dear"は、まず前提として恋人への愛情に対する言葉っていう意味合いが強いんだ」
「あいつにとっちゃ、デートを重ねて君との仲を縮めた、加えてちょっとした賭けのつもりで持ち出した校則破りのデートで君との仲を確信した…だからあの夜、ダメ押しで"僕ら、恋人になろう"っていう告白をしてたんだ」
…欧州文化、難しすぎる。
じゃあなに、シリウスは────私があんなに悩んでいたのに────いや、むしろ悩み出す前から、ずっと手を打ち続けていたってこと? 私と恋人になるために?
「まあ…なんだ、そこで君が手を振ってくれたから、あいつは"告白を受け入れてもらえた"って思ってるんだよ。お陰様でその夜はそりゃあもうお祭り騒ぎさ。1年生の時から気になってた子と遂に3年目にしてめでたくくっつけたんだから────」
「それなのに、翌日からあからさまに君に避けられるようになった。最初の1週間こそ"日本人だから恥ずかしがってるのかな"ってなんとか納得させてたみたいだけど、そろそろシリウスの我慢も限界なんだろうな…」
「そりゃ間違いない。昨日あいつ、僕に"次は逃がさない"って言ってたぞ」
「待って、待って…待って…」
突っ込みたいところが多すぎる。
1年生の時から気になってた?
めでたくくっついた?
シリウスの我慢が限界を迎えている…というのは、私の態度が急変したせいだというところはまあ…うん、それ自体は唯一納得できる。ただ、そういう意味だとは思っていなかったけど。
そして…何、次は逃がさないって? それ何? 私、拉致でもされるの?
2人の前で手をかざし、頭を悩ませる私を見て、2人は何度目か知れない目配せを交わした。
「まあ…うん、君サイドの気持ちはよくわかんないままだけど、それは僕のあずかり知ることじゃないから…」
「とりあえず2人の間に誤解があることはわかったから、まずは勇気を出してあいつと話し合ってみてくれないかな。ちょっと僕もシリウスがそろそろ可哀想で…」
ジェームズ、リーマスがそれぞれ私を諭す。シリウスと────未だにまともに顔すら見られない王子様と、至って凡庸な平民の私が"対等"に話すようにと、促す。
「話し合うって、でも────」
ああ、どうして運命っていつもこう残酷なのだろう。
私がどういう手段で彼と2人きりになるべきか相談しようとしたその時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴ってしまった。
「…どうする? 僕は別に次の授業をサボッて君に"シリウスへの対抗策"の教鞭を執ってあげても良いけど────」
「僕はできれば授業に行きたいんだけど…いや、でも大事な友達が悩んでるなら、付き合うつもりではいるよ」
「ううん、ううん…授業には出る…。でもちょっと考えたいから、一晩待ってってシリウスに伝えておいて」
「おや、この数週間頑なに王子の顔すら見ようとしなかった君が、一晩で答えを出せるのかい?」
「…意地悪。散々シリウスが可哀想とかなんとか言って、急かしたくせに」
「そういうところで変な行間を読まなくて良いんだよ。シリウスはちょっと落ち込んでるくらいの方がよっぽど────」
「ま、僕としちゃつまんないけど」
「こら、ジェームズ。今はイリスの気持ちを尊重しなきゃダメだろ」
何かと騒ぎながらも、私達は結局次の授業に揃って向かうこととなった。
一歩前を歩きながらシリウスと私のどちらの気持ちを優先すべきか議論している2人を前に、私はぐるぐると脳をフル回転させる。
私とシリウスって、付き合ってたの?
てっきり私は、ただの報われない私の片想いだとばかり思っていたのに。
だから周りのみんなも急に"私とシリウス"の噂を流し始めたの?
てっきり私は、また"不適合者"が何か"適合者"の意にそぐわないことをしでかしたのかとばかり思っていたのに。
私は確かにシリウスのことが好きだ。
そして────なあに、それじゃあ…シリウスも、私のことが好きだって言うの?
まともな恋愛をしたことのない私にとって、それはあまりにも残酷と言っていいほど激しい濁流の如き情報量だった。
わからない。
ジェームズはシリウスが1年生の時から私を"そういう意味で"気にしていたと言っていたけど、当時の私にそんな気は一切なかった。あの星空の日まで、確かに彼は"私の良い友人"だった。
今だからこそ喜ぶべきことなのかもしれないけど、じゃあ、優しくしてくれたのは、私にちょっとしたお姫様気分を味わわせてくれたのは、シリウスが私に気があったからっていう、それだけのことだったの? 私達は、"良い友達"だったわけじゃないの?
わからない。こうなってしまうと、私のこの気持ちだって、"シリウスが私のことを好きでアプローチしていたから"私がシリウスを好きになってしまっただけなんじゃないか、って思えてきてしまう。つまりこの私の感情も────シリウスに感化されただけの、偽物なんじゃないかって。
もしシリウスが本当に私のことを好きだったとして(ジェームズの言葉だけだったらまず間違いなく疑ってかかっていたが、リーマスまであんなに真剣な顔で言うからには信じたほうが良いのだろう)…これから私、どうしたら良い? だって私は、私自身のこの一方的な気持ちでさえ持て余してしまっているのに…。仮に付き合う、だなんてことになったとして、恋人への接し方なんて私、知らない。でもきっと、今まで通りに気軽に背中を叩いたり、皮肉で煽ったりすることは────できなくなってしまうんじゃないか、と思う。
グルグルと頭の中を忙しく働かせながら、古代ルーン文字の教室に入る。
この授業はレイブンクローとの合同授業だった。私はいつも通り、レイブンクローの中で一番仲の良いメリッサの隣に座る。
「珍しいわね、イリスが時間ギリギリなんて。それになんか顔色も悪いみたいだけど…もしかして、体調悪い?」
「ううん、そうじゃないんだけど…」
そうだ、メリッサは────。
あれだけ校内の噂になっているのだ。メリッサだって、私とシリウスが"客観的に見てどういう扱いになっているのか"は知っているかもしれない。その上で、ずっと私の味方でいてくれた彼女なら────。
グリフィンドール自体は大好きなのだが、どうにも彼らは人の悩み事を"面白い"と捉える節がある。そういう意味では、私はレイブンクローの"目の前の現実しか信じない冷静な意見"が欲しかった。
「ちょっと、シリウスとの関係で悩んでて」
「なあに、痴話喧嘩?」
ああ、やっぱり。付き合ってるのは前提なんだ。
「違うの。なんだかみんなの様子がおかしいなあとは最近思ってたんだけど…私、そもそもシリウスと付き合ってるっていう自覚がなくて」
素直に、そして端的に自分の気持ちを話すと、メリッサは口をぽかんと開けて私を見た。
「え…」
まあ、ジェームズ達の話を聞いた後なので、こういう反応になるのももはや頷くしかなかった。驚くメリッサに苦笑いを返し、「私の言ってること、変だよね。それはわかってるんだ」と添える。
「ただ、本当なの。なんて言えば良いのか…これが正しいのかはわからないんだけど、日本とこっちの文化ってやっぱり結構違うみたいで。私の中では"友達"のラインで済む出来事が、シリウスにとっては"恋人"のラインを越える話だった…って言ったら良いのかな。なんだか知らない間にすれ違ってて、周りにも誤解を与えてて…っていう事実をさっき知っちゃったから、今混乱中で」
「ええと…そうね、とりあえず言いたいことはわかったわ。あなたはシリウスを"友達"としてしか思っていなかったのに、シリウス本人のみならずホグワーツの全員があなた達を"恋人"として扱うから戸惑っているのね?」
さすが叡智の結晶。できる限り要点を押さえて話すように心がけてはいたが、案の定彼女はそれだけで全てを察してくれたようだった。
「シリウスには言えそう? 私とあなたの間にちょっと誤解がありましたって」
「それが…私…私は私で…その、実は勝手にシリウスのことが好きで…」
「あらあら」
「だから…うまく話す…とか以前に、顔を見れる気がしなくて…」
メリッサはまるで幼い子供の初恋を聞いたお姉さんのように微笑んだ。まあ…うん、間違ってはいないかも。
「ふふ、ごめんね。笑い事じゃないんだけど…全然2人の気持ちはすれ違ってないのに環境だけ齟齬が発生してるって事実が、なんだか"恋愛"の難しさを表してるなあって思って」
「メリッサは恋、してるの?」
「実はね、去年の夏休みにレオンと付き合い始めたの」
そう言って、彼女はチラリと教室の後方に座っていたレイブンクロー生に視線を送った。おそらく彼がレオンなのだろう、メリッサの視線を受けると、微笑んで小さく手を振る。
「だから何かアドバイスができるほど経験を積んでる、なんてそんなことはないんだけど…。私、あなた達には幸せになってほしいわ。だってとってもお似合いだと思うんだもの」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど…ねえメリッサ、私どうしたら良いかな」
「うーん…まずあなたがシリウスの顔を見ないことには何も始まらないしねえ…」
メリッサは至って真面目に考えてくれているようだった。口の中で何かブツブツと呟きながら、ああでもないこうでもないと、先生の講義を聞き流してまで私のためを想ってくれている。
「あ、そうだ。お手紙を書いてみたりするのはどう?」
「手紙?」
「そう。そこで全部素直に書くの。顔を見たら恥ずかしくて言えなさそうだから手紙にするね、って言って、私はあなたのことが好きですってちゃんと伝えるの。その上で、ええと…日本と少し付き合うまでの過程が違うんだったっけ? それも説明して、だからあなたの気持ちをわかってあげられていなかった、ごめんなさいって」
なるほど、それならシリウスの顔を見ずに済むし、声も聞かずに済むし、この八方塞がりな状況に風穴…は開けられずとも、亀裂くらいなら入れられるかもしれない。
「…今できることって言われたら、確かにそれくらいかも」
「とにかく"どうにか"はした方が良いって私も思うの。わざわざ相談してくれたってことは、イリスもきっとそう思ってるってことだろうし…少し、勇気を出してみるのも良いかもよ、グリフィンドールのヤマトナデシコさん」
冗談めかして言うと、メリッサは可愛らしくウインクをしてみせた。
リリー、ジェームズ、リーマス、メリッサ。何人もの友人に背中を押されて、いい加減私は足を踏み出さざるを得なくなっていた。
「…大丈夫かな、これがただ本当にただみんな"噂"してるだけで、シリウスが本当は私のことなんて気にかけてなかったら…」
「火のない所に煙は立たないのよ、イリス。あえて部外者だから言うけど、シリウス…というか"あのブラック"がひとりの女の子にあそこまで振り回されてる様は相当異様だわ。万が一恋じゃなかったにせよ、シリウスがあなたに特別な感情を抱いていることだけは事実なはず。レイブンクローの精神に誓って」
ああ…そこまで言われてしまったら、もう頷くしかないじゃないか。
「あ、でも気を付けて。あなたとシリウスが付き合ってることを知っていてもなお、あなたを狙うハイエナはいるから」
「…?」
最後のメリッサの言葉はよくわからなかったが、結局私はその夜、シリウス宛の手紙を書くために早々に寝室のカーテンを閉め切る羽目になってしまった。
「イリス、大丈夫? 体調悪いの?」
リリーが心配して様子を見に来てくれたが、メリッサとの会話の件を話すと、納得したように笑う声がカーテン越しに聞こえてきた。
「まさかあなたがブラックの気持ちに気づいてなかったなんて、予想してなかったわ。だから私との会話も噛み合わなかったのね。ごめんなさい、ちゃんと確認しなくて」
「ううん、どうやら私がどうしようもない鈍感人間だっただけみたい…」
「そういう奥ゆかしいところ、私は好きよ。それなのに今そうやって勇気を出そうとしてるところもね。そういうことなら私、今日は静かにしてるから、頑張ってね」
「ありがとう、リリー」
静寂の中、シリウスに何と伝えようかと思案する。
最初から特別な仲間だとは思っていたこと。たくさんの友達の中でも、一番安心できる存在だったこと。それでも、"友達"の域は越えていなかったこと。
それが、星を見に行ったあの日にガラリと変わってしまったこと。シリウスまでもがその名のように星に見えてしまったこと。そうしたら、地上で見るには眩しすぎて目を合わせられなくなってしまったこと。だから、シリウスをずっと避け続けてしまっていたこと。
その間に私達の関係に対する名前が変わっていたことに、気づけなかったこと。気づいてもなお、あなたと直接話す勇気が出せなかったこと。日本人の悪い癖が、たくさん出てしまっていたこと。
だからこうして手紙を書いていること。その上で改めて、私は────シリウスのことが、好きだということ。
…最後の文章だけ、何度も消しては書きなおす羽目になってしまった。
自分から人に「好きだ」と伝えることがこんなにも難しいなんて、知らなかった。
自分で言うことではないかもしれないが、私は入学した時から早々に諦めを知った"小学生にしては大人びた子供"だと思っていた。大抵のことなら受け流せるし、自分で決めた目標のためなら誰に対してだって向かっていけるだけの度胸だって持っていた。
だから私はグリフィンドールに組分けられたんだろう────と、思っていた。
人が"勇気"と呼ぶものを、"当たり前の行動"だと思えるから。未知なるものに対する感情を、"恐怖"ではなく"冒険への期待"に変えられるから。
でも、どうだ。現実はこんなに及び腰になって、恋とかいうありきたりなものに今私の心の全てが支配されている。
やっぱり、組分けなんて血液型と同じだった。
たまたま"そういう傾向"があるだけで、全ての場面において勇敢さを発揮できるわけなんて、なかったのだ。
何度も書き直した末に残った「慕っています」の文字は、震えていた。
あれ、慕ってるって…ちゃんと伝わる? 英語で書いちゃったけど、日本ではそれが「好きです」の意味だってわかってもらえる? それこそ「My dear」と同じ顛末になっちゃわない?
ああ、またやり直しだ。
そうやって格闘すること1時間、「好きです」という言葉ひとつのために、私は全ての体力を使い果たしてしまった。結局最後に選ばれたのは、シンプルな「好きです」という言葉そのまま。
もうこれ以上の誤解は御免だ。恥ずかしくて今にも死んでしまいたいくらいだったが、せっかくメリッサが出してくれた打開案で余計に拗れるくらいならいっそ死んだ方がましだろう。
ホグワーツ内部者にふくろう便を送るというのも変な話だが、ここで直接シリウスに手紙を渡せるのであれば、最初から私は彼との対話を試みていただろう。ここは迷うことなく、ふくろう小屋へ向かうことにした。
大丈夫。まだギリギリ、門限までは時間がある。さっとふくろうに手紙を持たせて、さっと寮に戻れば校則破りにはならない。多分明日の朝くらいにシリウスにそれは届いて…それから彼がどういうアクションを起こしてくるかはわからないけど────とりあえず、ジェームズ達に言ってしまった「一晩ちょうだい」という自らの制約も守れることになる。うん。これが一番良い策だ。
私はできる限り気配を消しながら、まだ賑やかな談話室の中をかいくぐり、西塔のてっぺんを目指した。
当然、そこには誰もいなかった。こんな夜に手紙を出そうとするなんて、何か余程の密書を送るか────あるいは、私のように後ろめたい気持ちを抱えてくる人間くらいのものなのだろう。
私は一番賢そうなふくろうを選び(だって夜を越して朝に持ってきてもらうんだから、"待て"ができる子じゃなければならない)、手紙を彼に託す。
「面倒なお願いでごめんね。これを明日の朝、シリウスに届けてほしいの」
会話ができずとも、彼らが私達の言葉を理解できることなら知っている。ふくろうはいかにも威厳のある声で低く返事をしてくれた。当然、その場では飛び立たない。私の手紙を足の下に置き(踏みつけられてしまっているが、ずっと咥えているのも辛いだろうし、風に飛ばされないようにするには確かにその方法が一番良いのだろう)、くるりと首を傾げてみせた。
その反応に私は安心し、「ありがとう」と頭を撫でると小屋を出るべく振り返った。
すると────そこに人がいたことに、初めて気づいた。
名前は知らない。顔はどこかで…ああ、そういえば今日のルーン文字の授業中、メリッサが紹介してくれた彼氏のレオンの隣に座っていた子だった気がする。とにかく私と直接話したことのないその男の子は、私を見て硬直していた。私が彼の存在に気づけなかったのは、ひとえに彼が表情筋までしっかり固めて物音ひとつ立てずにその場に立っていたからだ。
…私、何か変?
「ええと…」
どう見ても彼が私を凝視していることに変わりはなかったので、ひとまず声をかける。時計をチラりと見て一応門限を過ぎていないことも確認しておいた。それなら、特段驚かれる理由もないように思うのだが。
まあでも、先程自分で「こんな時間に来るのは後ろめたいものを抱えている人だけだ」と思ったばかりなのだ。この人も、何か人に見られたくない事情があってここに来たのかもしれない。そうだったとしたら、悪いことをした。
「ごめんなさい、すぐ私、行くので」
そそくさとその場を立ち去ろうとすると、驚くべきことに「待って!」という彼の声が私の進路を遮った。
…待つ理由、ある?
振り返って見ると、彼の顔は真っ赤になっていた。持っている手紙は彼の手の中でぐしゃりと握りつぶされてしまっている。大事な手紙ではないのだろうか、と少し心配になったが、それ以上に彼自身の様子がおかしいことの方が気になる。
ふくろう小屋で偶然出会った顔見知り程度の女子を、振り絞るような声で引き留める図。どう考えてもおかしい。何か────とにかく誰にでも良いから話さなければならない用事でもあるのだろうか。
「…どうかしたんですか?」
待って、と言われたは良いがなかなか彼が話し出さないので、こちらから再び声をかけた。
「あの…その、僕、レイブンクローのショーン・ゲインズって言います。多分、あなたは知らないと思うけど…」
「顔は知ってますよ、レオンの隣にいたでしょう」
「レオンは知ってるんですか?」
「ええと…直接は知らないんですけど、私メリッサと仲が良いので…」
「ああ…」
ショーンはそこで少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「私に何か…ご用ですか?」
「ええ…その、本当はこの手紙で伝えるつもりだったんですけど…」
その手紙とやらは、彼の握力と手汗で見るも無残な姿になってしまっていた。
なんだろう。私は彼の言う通り、今日の今日まで彼の名前を知らなかった。この様子では彼は私のことを知っているようだが(そのことについては驚かない。私はヤマトナデシコであり、黄色い猿なのだから)、直接手紙に記して何かを伝えられるような関係でないことだけは確かだ。
もしかして、この人も日本のことを知りたいとか、そういう話?
それなら直接訊きに来てくれたら良いのに。私なんて、未だにしょっちゅう食事時にハッフルパフやレイブンクローのテーブルを行き来しているのだから。
「僕、あなたがシリウスと恋人だってことは知ってます」
「ああ…はあ…」
話の脈絡こそ見えないものの、頷いて良いのかわからない話題を突然突っ込まれ、こちらのテンポも乱される。ごめんなさい、多分明日になればその話もクリアになると思うんですけど…ちょっと今は明確に答えかねる内容です…。
「でも、どうしても我慢できなくて」
「ええと…何を?」
「返事は要らないんです。もうわかりきっているので。ホグワーツの中でも一番のカップルだって、みんな認めてます。でも僕…どうしても、どうしてもあなたに────」
「────報われない想いを伝えたかった?」
ショーンの消え入りそうな声を遮ったのは、絹のように滑らかで、海のように深い男の人の声だった。
────よく馴染みのある、最近ずっと耳を塞いでいた声だった。
シリウスはどこからともなく現れると、私とショーンの間に立ちはだかる。
最初こそ邪魔者のように入ったものの、それ以上何かを言う様子はない。ただ感情のない灰色の瞳で、ショーンを見つめている。品定めをしている様子も、ましてや見下している様子もない。ただただ冷たくて、底のない眼差しでショーンの明るいブルーの瞳の光を反射している。
「────…不相応なのはわかっていたんです。やっぱり、僕じゃダメでしたね」
すると、その間に何の駆け引きがあったのか、ショーンは力なく笑うと「お騒がせしました」と私に告げ、そのまま階段を降りて行ってしまった。
どうしても、私に?
報われない想いを────伝えたかった?
なに、まさかショーンが私のことを好きだったとでも言うの?
いや、でも今はそんなことより────。
「シリウス…」
どうしてあなたがここにいるの。
見れば、シリウスもその手に手紙を持っていた。
「久しぶり、イリス」
掛けられる言葉は優しいのに、その声音は皮肉に満ちていた。私がわざと避けていることをストレスに思っていたというのは、本当のことらしい。
どうしよう。今ここでシリウスと出会う予定はなかった。私と彼の関係が動くとしたら、それは明日以降の話だと思っていたのに。告白の手紙を"預けた(つまり今の彼は何も知らないのに、後からどうしたって改めて知らされる)"という最悪な段階で、偶然という罰が私に降り注ぐ。やはり友人を無視するという罪は、相当に重いらしい。
「…ひさし、ぶり」
やはり、直視はできない。シリウスの雑に緩められたネクタイを見ながら、私はしどろもどろになって答える。
「今の奴は、友達か?」
「ううん…今日初めて話した人」
「ふうん…」
お願い、そこで言葉を止めないで。
私はあなたが何を考えているのかわからないの。
あなたが何を疎んでいて、何を好んでいて、何に突き動かされて、何を目指しているかなら知っている。
でも、あなたが────私をどう思っていて、私とどうしたいのか、その肝心なことが何もわからないの。
だからどうしてあなたが今ここにいるのかも、どうして私とショーンの間に割って入ったのかも、どうしてこんなに威圧的な雰囲気のまま黙っているのかも、わからないの。
教えてほしい。
出会いたくなかった。明日、心の準備をしてから臨みたかった。
それでも出会ってしまったというのなら、全てを教えてほしかった。
私とあなたの間にある差を。私とあなたの間に生まれた溝を。
────そして、それを埋める術を。
「なあ、僕は君に何かしてしまったのか?」
永遠とも思える沈黙の後、シリウスはようやく口を開いてくれた。
私も、その時間の中でようやくシリウスの顔を盗み見る余裕を得る。
視線を合わせる勇気はまだない。それでも、そっと彼の表情を…そう、そっと見ると、その顔はショーンを見ていた時のような冷たさがなく、むしろ低温で火傷をしたかのように歪んでいた。
決して高い熱があるわけではない。それでも、確かに彼が身内にだけ見せる────僅かな熱が、そこにはちゃんと残っていた。
責められているわけではないことは、その台詞からも察せられていた。それでも、彼の表情を見ると、なんだかこちらが悪いことをした気持ちになってしまう。だってこれは────まるで、傷ついた雛鳥みたいじゃないか。
「…違うの」
そのことについては、私が話さなければいけない。
本当は、言えないから紙にしたためたのに。明日、それが彼に届くはずだったのに。今だって、たったの20秒時間をもらえたら…その手紙を────私が口にするにはあまりに重いその言葉を、ちゃんと────今度こそ誤解なく、伝えることができるのに。
でも、それを許してくれる空気はなかった。シリウスは"今"、"私の口から出る言葉"を求めている。目を合わせなくたってわかる。彼は最初に迷うように視線を揺らしただけで、あとはずっと私のことを穴が空くほど見つめているのだから。
「私…私は、その…」
「考えたけどわからなかった。確認しようにも、君はいつも僕の手をすり抜けてしまうから────。せっかく懐に入ってくれたのに、どこかで嫌われてこの関係が終わってしまったんじゃないかと────」
ああ、どうしよう。きっとまずは、その"関係"を私が認識していなかったところから是正しなければならないのだろう。それはわかっているのに、正直にそれを告げてしまえばシリウスが余計に傷ついてしまうような気がして────私は言葉を選ぶのに精一杯で、彼の絞り出すような声にもなかなか応えられなかった。
「…違うの」
結局出てきたのは、さっきと同じ言葉。
「私は…あなたのことが嫌いなんじゃないの。無視をしてしまったのも、あなたに何か悪い感情を持ったからじゃないの」
逆なの、シリウス。
「ごめんなさい、全部私の問題だったの。私が────私が、あなたと向き合う勇気を持てなかったの」
「…どういう、意味だ?」
シリウスの声に、僅かな猜疑が挟まれる。何せ不安に圧迫されていた彼の声なんて初めて聞いたものだったから、それにも随分と憔悴させられたが、今ようやく少し"いつものシリウスらしさ"が戻ってきたことで、私の呼吸も楽になる。
「私────あの星を見に行った日から、あなたのこと────」
どうしよう。
好きって、言える?
好きだって言った上で、あなたの気持ちがわからなかったから付き合ってるつもりがなかったなんて、言える?
どうしよう。
どの順序で話したら良いのかわからない。どの結び目から解いていけば良いのかわからない。
肝心な部分を口に出せず再び沈黙をもたらしてしまった私に、シリウスは小さな溜息をついた。
「僕はあの日から、君が僕の恋人になってくれたんだと思っていた。ようやく、君が僕の手を取ってくれたんだと思ってた。そうしたら────翌朝から、悪い方向に全てが変わっていたんだ。なあ、あの日、君は何を考えていたんだ?」
「────少し、テンポがズレていたの」
「テンポ?」
直接「好きだ」と言えなかった私に、訊いて当然の問いを投げるシリウス。
「私ね、知らなかったの。ごめんなさい…今更こんな子供みたいなことを言うのは本当に恥ずかしいんだけど……その、あの夜、言ってくれたでしょ」
「何を?」
「…m、my dear…って…」
ふっと風が吹けば消えてしまいそうな声も、人の去った西塔にはよく響く。彼は私の言葉を拾い上げ、「知らなかった、って…まさか…」と呟く。
「…意味を、知らなかったの。だから私────あなたが、私をそんな風に思ってくれていたなんて…」
シリウスはすっかり脱力していた。ぽかんと口を開け、その灰色の瞳を見開く。その頃にはもう私もいい加減彼の顔を正面から見られるようになっており、申し訳なく思いながら、その感情の失せた表情に自らを映した。
「じゃあ、もしかして君は────そもそも僕と交際している認識すらなかったってことか?」
言う勇気のなかった私の代わりに、彼は素早く真実を導いてくれた。
「……」
肯定の代わりに、沈黙を返す。
「────ひとつ、訊いても良いか?」
「…なあに?」
「さっきと同じことだよ。あの日から────君は一体何を考えていたんだ? 僕と付き合っていたつもりがないことはわかった。それなら、僕と君の間に温度差があるのも頷ける────受け入れられるかは別として。でも、ただ"気づいていなかった"だけなら、ああまで僕を避ける必要だったなかったはずだ。そうじゃないか?」
「……」
「君はどうして、僕を拒絶したんだ?」
「拒絶はしていないの」
あまりにも強い言葉が出てきたことに驚いて、反射でつい答えの端を漏らしてしまう。そしてそれを皮切りに、シリウスは完全に私の言葉の続きを待つ姿勢に入ってしまった。
「拒絶はしてない。でも…私、わからなくなっちゃって。あの日から、あなたのこと────なんだかいつものように見ることができなくなっちゃったの。あなたのことを見たら他の全てが見えなくなっちゃいそうで、声を聞いても言葉が入って来なくなっちゃいそうで、だから…」
必死だった。「好きだ」と言えない代わりに、傷ついたシリウスがここまで向き合おうとしてくれているのだから、という理性が私に言葉を紡がせる。それまでの沈黙を埋めるように、私は語り続けた。
「だから、時間が欲しかったの。落ち着いて、私はあなたを"何者"と認識しているのか────私にとって、あなたは何なのか、考えたかったの。だからどうしても関われなくて…そのまま、時間が経っちゃって…。ごめんなさい、あなたがそこまで思い詰めてくれていたことなんて知らなくて、ジェームズやリーマスが言っていることも意味がわからないまま…私、逃げてたの」
様子が変わったのはシリウスだけじゃない。私もそうだったのだ。
どうしてシリウスがこんなに優しくしてくれるんだろうと、ずっと疑問に思っていた。それは、彼が私のことを好きでいたから。それに気づいたとほぼ同時に、今度は私の方が彼を好きになってしまって────。
もし彼と同じように、その気持ちを素直に受け入れられていたのなら、きっと私の対応だって変わっていただろうに。
根差す気持ちは同じだったのに、前へ進もうと手を取ってくれたシリウスのことを振り払ってしまった。私は後ろへ後ろへと、逃げようとしてしまっていたのだ。
らしくない、その言葉が当てはまるのは────2人とも、同じだった。
「────そりゃあ、思い詰めもするさ」
ややあって、シリウスが口を開く。私の言葉が一通り落ち着いたのを確認して、灰色の瞳を揺らしながら、それでも視線だけはまっすぐに私を捉えている。
「僕は────1年生の時から、君のことを特別に思っていた」
「1年生の、時から…?」
「話しただろ、いつだったか…はみ出し者同士、共に世界をひっくり返してやろうって」
その会話なら、私もよく覚えている。それにそう言うなら、私だってあの日を境にシリウスをどこか特別に思っていたのだから。それだけで言えば、私もシリウスと同じだ。
「僕は"愛"も"友情"も知らなかった。ホグワーツ特急でジェームズに出会って、初めて友人を得た。君と世界をひっくり返すなんて馬鹿みたいな目標を掲げて、初めて夢を得た。…ああ、ジェームズ達だって特別だよ、そういう意味では。大事な友人だ。決して失いたくない、永遠の友だ。でも────遠い海の向こうから来て、それでも"魔女になると決めたんだから"と当たり前に言いながら前だけを向く君に、僕はそれとは別の"憧れ"を持った」
シリウスの出自なら、ずっと昔から知っていた。わざわざ場を設けて聞き出す時間をもらったわけではない。それでも、会話の断片断片から、彼がいかに家に縛られてきていたのか────いかに彼の家が与える"愛"が彼自身にとっては"呪い"になっていたか、それを察せられてきていた。
「僕にとっては、基本的に"他人"は"わかりあえない"ものだった。だから今だって付き合いが悪いとか、壁が厚いとか言われてるのもよくわかってる────わかった上で、それを"是"としている。言ってしまえば、他人に自らを開示するのが嫌なんだ。僕はずっと異端だと言われ続けてきた。僕がおかしいのだと思い込まされ続けてきた。だから、他人と必要以上に関わりたくなかった。────でも、君はあまりに自然に僕の懐に入ってきた。僕のことを否定せず、違う境遇の共通点を見つけて、"共に生きよう"と言ってくれた。それが────僕にとって────まだ11歳だった当時の僕にとってどれだけ影響の大きいものだったか────」
11歳。日本で言えば、まだ小学5年生の小さな子供。将来のことも、当然家のことも関係なく、自分勝手に生きられる年。
その段階で、彼は既に多くのものを背負っていた。11歳が無邪気に遊ぶためには、シリウスの世界は狭すぎた。
今更ながら、あの時楽観的に発した言葉がどれだけシリウスにとって貴重なものだったのかを思い遣る。私はまだその頃、日本にいた頃の"子供心"が抜けていなくて────だから簡単に、あんなことが言えた。
今でこそわかる。血筋や歴史の物語る派閥は思った以上に重く、無垢な子供に刷り込まれるにはあまりに深すぎる…それこそ"呪い"なのだと。無垢だからこそ、真っ白だからこそ、子供達は大人の思想を吸収するしかない。将来も、家柄も、社会の厳しさも、知らない間に自らを縛る枷として────"自分自身の一部"として、知らない間に消化されている。
でも、シリウスにはそれができなかった。いつから彼が真っ白でなくなったのかは知らない。ただ、彼は自然に大人の言うことを取り込む前から深紅の色を胸に宿していた。だからこそ思想を刷り込まれることも、環境を消化することもできなくて────その違和感が、彼を孤独にしていた。
孤独な11歳の少年。その前に現れた、狭い世界を切り拓こうと無邪気に言い放つ11歳の少女。
この出会いは、どうやら少女の思っていたより強い光を少年に与えていたらしい。
「最初から特別だった。初めて自ら他人を理解したいと思った。初めて自ら────他人の心に入れてほしいと思った。イリス、きっと僕は君が想像しているより、ずっとずっと強く君を想っていたんだ。だって君は、僕にないものを全て持っていたのだから。僕が無意識に欲していたものを、全て与えてくれたのだから」
「……」
「他の奴らはみんな驚いてたよ、そりゃ。君は自分のことで精一杯だったから知らなかったかもしれないが────"あのシリウスが1人の女子に執着してる"って、相当…馬鹿にされる意味でも、純粋な興味の意味でも、色んな声で言われた。"らしくない"って、"実はシリウスの壁はそんなに厚くないんじゃないか"って、何度も囁かれた。でも、違うんだ。僕は────君が君だったから、君にだけ興味を持っていたんだ」
そこまで言うと、彼はふっと息を吐いて微笑み…に近い自嘲的な表情を浮かべる。
「僕のことを何も知らない奴らでさえわかったような顔をして"らしくない"って言うんだ。そりゃあ、僕のことをちゃんと知ってる君からすれば、僕の行動の変化はおかしいようにしか見えなかったよな。不審で、不可解で、不安にもさせたかもしれないな…」
シリウスが一生懸命私の気持ちを理解しようとしてくれているのが、痛いほどにわかる。だからこそ、この2週間、ずっとそんな彼を放置し続けてしまったことへの罪悪感が、私の胸を容赦なく貫く。
「…ごめんなさい、シリウス」
「仕方ないさ、ちゃんと確認…するのも僕にとっては変な話だけど…君の気持ちを、もっと早く聞いておくべきだった」
大人びた、というより諦めに似た声でそう言ってから、「でも」と彼は続ける。
「その曖昧さのせいで、今の男みたいに…他の輩に突け入れられるのは嫌だ。君がいつまでもそうやって僕を避けているせいで、ハイエナがたかるのは嫌なんだ」
私の脳裏に、メリッサの「ハイエナはいる」という言葉が蘇る。
あれはそういう意味だったのか。傍目には────彼女が最初に言ったように、"私とシリウスが喧嘩した"という風にでも映っているのだろう。幸いと捉えて良いのかはわからないが、一定数の人が私に好感を持ってくれていることなら知っていた。もちろん、ただのヤマトナデシコとしての好奇心がほとんどだろうということも弁えてはいたが。
だから、ああいう風に…結局シリウスの牽制(今思えばあれは、「僕のイリスにちょっかいをかける気か」とでも言いたかったのだろう)を受けて、最後まで伝えてはもらえなかったが…ああいう風に私に告白をしようと試みてくれた男の子が現れたのだ。
そしてシリウスは、どうやらそれがお気に召さないらしい。
まあ…私も、他の女の子がシリウスに手を出そうとしていたら、嫌な気持ちくらいにはなるだろうけど。
でも、それって。
やっぱり私の中には、"シリウスが好きだ"という気持ちを自覚してなお残る靄がある。
「────なあ、だから…確認させてくれないか」
その靄を消せないまま、この靄が心一杯にかかった状態のまま、それでもシリウスは歩み寄ってくる。
「…何を?」
「君の、気持ちを」
「……」
彼は待っている。「目を見られない」でも「声を聞けない」でもなく、その根底にある「好きだ」という言葉を。
でも、良いの?
私はこんなに────こんなにも真摯に私を想い続けてくれた彼に、ちょっとした特別な夜のせいで引き起こされた曖昧な気持ちで応えても。
彼の優しさに感化されただけともいえるこんな邪な感情を"答え"にしてしまっても。
「────私、良いのかな」
狡い私は、その答えさえ彼に委ねてしまった。シリウスは当然、首を傾げる。
「多分…もうわかってると思うけど…。私は…私のあなたへのこの気持ちを…"言葉"にして良いのかな」
行動を大事にするこちらの文化。言葉を大事にする極東の島の文化。
だからこそ、私にとっては"言葉"はきっと彼が思う以上に重いのだ。言葉にしてしまったら最後、それが全ての解になってしまうのだ。
そこまで汲み取ってのことかはわからない。ただシリウスはそんな曖昧な私の言葉を受けて────そっと、歩を進めた。
縮められる、物理的な距離。
彼は一歩では止まらなかった。そのままゆっくり私に────逃げる時間を与えながらも、確実に迫ってくる。
「"言葉"を恐れるなら、"行動"で示してくれたって良い」
逃げられる。すっと横に退けば、シリウスの目指す場所には誰もいなくなる。
でも私は、動かなかった。シリウスが何をしようとしているのか半ば予測しながら、なおその場に立ち続けていた。
シリウスの────しばらく見ていなかった顔が近づく。烏の塗れ羽のような黒髪、朝靄のような灰色の瞳、絹のように薄い唇、骨董品のように固い手が、全て私に向けられる。
「何に悩んでいるのかは知らないが────"言葉"にできないだけで、"答え"は決まっていると────そう思って良いんだな?」
「でもね、私はこの間、ようやくこの気持ちを知ったばかりなの。私はこの間、ようやくあなたの優しさに気づいたばかりなの。そんな簡単なきっかけで、あなたの11年を覆した先に生まれた想いに…」
「…ああ、本当に君は"ヤマトナデシコ"なんだな」
優しい笑みと共に漏れた吐息が、私の唇に触れる。
もう焦点は合わない。ただそこにあるのは、大きくて、柔らかいのに堅くて、とても安心する香りの漂う何か。
「それなら、こうしてくれ。僕のしたいことはわかるだろう────。もしまだ君がそんな"些細な迷い"のせいで踏み出せないって言うなら、僕を突き放すんだ。でも、僕は君のその迷いを…言った通り、"些細なもの"だと思ってる。それを受け入れられるなら────」
その先は、言葉にされなかった。
シリウスが私の退路を塞いだ。3年経って大きくなった手が、私を石壁の端に追い込み、そっと顔の横に置かれる。長い腕を曲げて、高いところにあった彫刻のような顔が私の目線まで降りて来る。
────このまま突き飛ばすのは容易だ。
彼の筋肉は、弛緩している。壁に置かれたその手つきも優しく、私の貧弱な腕で退けようと思えば簡単にだらりと宙に浮かぶのだろう。
何より、彼自身が「突き放せ」と言っているのだ。私には、十分な退路が与えられている。
それでも。
それなのに。
私は、動かなかった。
些細なことだと言われた。私の迷いは、彼にとって何の障害でもないと言われた。
彼はもう、私の答えを知っている。知った上で、その答えを言語化できないことも、理解している。
だからこうしているのだ。行動で示せと。
彼は私のやり方に合わせてくれた。今ここで、私の求めている"確信できる何か"を与えようとしてくれている。
だから私も────。
そっと、目を閉じる。
顎を少しだけ上げ、見下ろす彼の唇が触れやすいようにと口を少しだけ引き結んだ。
────私も、彼の求めている"私の気持ち"を示そう。
どこかとても遠いところで、鐘が鳴った。それはさっきまでなら一番と思えるほどに意識していた、私達にとって最後のタイムリミット。
────ああ、また校則、破っちゃったなあ。
そんなどうでも良いことを考えながら────私は、シリウスの甘い唇の感触を受け入れた。
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