Dear puppy love-T
1971年、7月。
我が家の窓を、ふくろうが訪ねてきた。
最初に気づいたのは、母親だった。
「イギリスってこんな真昼間からふくろうが飛び交うものなの?」
そう言われても、私は曖昧な返事しか返せない。
────私達一家がイングランドに引越してきたのは、つい半年前のことだった。そろそろ小学校4年生が終わりそう、という冬の頃、父親の仕事で海外赴任が決まったのだ。今だからこそその辺りの事情も理解できるが、10歳そこらだった当時の私には"異動"と"旅行"の区別がついていなかった。引っ越しをするらしい、ということは理解できても、そこに伴う苦労など全く実感を持てていなかったのだ。
形式的なクラスの送別会を終え、あっという間に家が空っぽになる。よくわからないままにパスポートを発行し、よくわからないままに飛行機に乗り、気が付いた時には絵本の中でしか見たことのないような世界にいる。
最初のうちはもちろん大変なことばかりだった。電車に乗ろうにも切符の買い方がわからない。外食しようにもオーダーの仕方がわからない。休日にこそ盛り上がるはずの店はみんな閉まっているし、バスは時間通りに来ない。
唯一幸いしたのは、言語に対するハードルがそこまで高くなかった、というところぐらいだろうか。
おそらく父が海外赴任の可能性を以前から考慮していたのだろう、それこそ物心がつく前から英語の教育は受けていた。それが当たり前の生活だったがために疑問を覚えることはなかったのだが、いざ改めて英語に溢れた世界に落とされてみると、慣れ親しんだ言語とは違うはずなのに"理解できる"、"発信できる"ことのアドバンテージがいかに大きいかということを驚くほどに思い知らされた。
とはいえ、である。
私の家系はみんな日本人で、更に母は趣味で茶道や華道、果ては弓道まで嗜むような典型的な大和撫子だった。当然今までの10年は日本で過ごしていたし、いくら日常に英語が浸透しているとは言っても私の血肉は日本のそれでできている。
なんとか生きていけたとしても、なんとか現地の人と話せたとしても、私がイギリスの地で真に心を開くことはできなかった。
だからなのだろうか。
日本の小学校に通っていた頃は年相応に子供らしくしていたように思うのだが、海を渡った途端全てが色褪せて見えるようになった。ルーズな公共施設に対しても「まあそんなものか」と受け入れ、肌の色を見た瞬間目線をひとつ落とされるような人々の振舞いにも「仕方ない」と諦めるようになっていったのは、幼いが故の柔軟性がなせた業なのか、それとも私が環境の変化によって要らない成長を遂げてしまったからなのか────それは、今でもよくわからないままだった。
とにかく、話を戻す。
事が起きたのはある年の夏、母が驚いてみせた通りふくろうが我が家の窓を嘴で激しく突きだした時だった。
どうにも退却する気配がないので恐る恐る窓を開けると、襲うどころかふくろうは優雅に我が家の天井を一周旋回し、それから嘴に加えていた封筒をぽとりと落とすと、そのまま何を言うでもなく何を求めるでもなく窓から去っていったのだ。
「…何…?」
残されたのは、怯える母と「不思議なこともあるものだ」とまた変に達観してしまっている私。母は突然のことでショックを受けている様子だったので、私が潔くその封筒を開けることにした。
『親愛なるリヴィア殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。
教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。
新学期は9月1日に始まります。7月31日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしておりますが、貴殿は魔法界との接触が皆無だと思われるため、それ以前にホグワーツの教員より直々にご説明のためお宅に伺い、詳細なご説明を差し上げたく存じます。ご承知おきくださいますようお願いいたします。
敬具
副校長 ミネルバ・マクゴナガル』
…?
初めて聞く"魔法"という言葉に、流石の私も戸惑いを覚える。
魔法だなんて、完全にファンタジーの世界のことだと思い込んでいた。確かに私は…そうだな、例えば私のことを明らかに嫌っている人に何か天罰がくだらないかなあと思ったその翌日、その人が腕を骨折した、なんていうタイミングの良い(少し不謹慎ではあるが)出来事に遭遇したし、憂鬱な学校行事が待っていた日には必ず雨が降って中止になったし、何かと"私に都合の良い人生"を送ってきたという自覚がある。
もしかして、それが魔法の効果だとでも言うのだろうか? いやいや、魔法なんて現実に存在するわけがない。
「…詐欺の手紙かな?」
「でもふくろうが持ってきたのよ。こんなことって…」
母と2人で戸惑っていた、その時だった。
────玄関のチャイムが、唐突に鳴り響く。
これには2人揃って飛び上がるしかなかった。ふくろうの突然の訪問、わけのわからない言葉の羅列、そして前触れのない訪問者。こじつけが過ぎるかもしれないが、私達はおそらくどちらも「この一連の流れは繋がっている」と本能的に思ったことだろう。
「…私、出てみるね」
そう言いながら、私は意味もなく忍び足でリビングを出、玄関をそろりと開ける。
────そこに立っていたのは、エメラルドグリーンのローブを来た…女性だった。顔の皺から相応の年齢感が窺えるが、背筋はしゃんと伸びており、表情の厳めしさからも彼女の威厳は満ち溢れていることがわかる。
「突然のご訪問、失礼します。あなたがイリス・リヴィアですか?」
雰囲気通りのキビキビとした声に、私もつい反射で「はい」と答えてしまう。
「ふくろう便はお受け取りいただけましたでしょうか」
「ふくろう…ああ、先程手紙を…」
「その件について、私から改めて詳細なご説明をさせていただきたくお伺いしました。ご都合がよろしければ、少しお話をする時間をいただいても?」
女性の言葉には淀みがない。今時誰がこんなものを着るのだろうという不審な格好に、それこそ絵に描いた魔法使いのような帽子を被っている人が訪ねてきたのだから、常識的に考えればこれは通報すべき案件だったのだろう。
しかし彼女は確実に"ふくろう便"と言った。そして、この言いぶりからすると私にとっては全く未知の世界である"魔法"────まだその存在を信じたわけではないが、それについてきちんと説明してくれる気はあるらしい。
私は逡巡した結果、その魔女らしき女性を家に上げることにした。両手で扉を解放し、スリッパを出して彼女が家に上がり込むまで正座で待機。これは日本にいた頃に身に着いた所作だったので、魔女は少しだけ私のその動作に驚いたような表情を見せていた。そうか、イギリスではこうして客を招く風習はないのか。
「あら…まあ…」
当然、リビングで待ち構えていた母親は呆然としている。それに対しても女性は怯むことなく、「突然の無礼をお許しください。私はホグワーツ魔法魔術学校で教鞭をとっております、副校長のミネルバ・マクゴナガルです」と流暢に自己紹介をしてみせる。
この人が────あの手紙を送ってきた張本人だったのか。
もはや完全にマクゴナガル先生のペースに巻き込まれた私達は、追い返すわけにもいかず、彼女をソファに通してお茶を出し、ひとまず話を聞くことにした。
────そうして過ぎること、2時間。
ホグワーツという場所がどういうところなのか。私達はなぜ魔法の存在を知らずに生きていたのか。魔法使いは本当に存在していたのか。なぜ私がその学校に呼ばれることになったのか。マクゴナガル先生はそれを全てわかりやすく、かつ簡潔に説明してくれた。
────魔法はあったのだ。
そして、なんの因果か、私にはその魔法とやらを行使する資格があったのだ。
つまり、同級生が骨折したのも、イベントの日に必ず雨が降ったのも、私の力によるものだったらしい。
「魔法の使えない家系────私達は"マグル"と呼んでいますが、マグルの家庭の中にも突然魔法使いが生まれることはあります。私達は確かにマグルとの共存のため、普段は身を隠して過ごしていますが、魔法使いは独自にその社会を形成しているんです。そして、優秀な素質を持った子供にはホグワーツへの入学を推奨し、立派な魔法使いとして育てることを第一の任務としております。それを踏まえて────イリス嬢には是非その素質を生かして魔法を学んでいただきたいと思っているのですが、いかがでしょう」
私と母が、顔を見合わせる。
魔法。物語の中でしか読んだことのない、不思議と希望に溢れた世界。
ちょうど私がまだ今後の編入先に迷いを持っていたこともあったのだろう。
何より"普通の人には見ることすらできない世界"に飛び込めるというところに、私は最大の魅力を感じていた。
だからこそ、答えに迷いはなかった。
「はい、入学します」
マクゴナガル先生は、その厳格な表情を緩め、そっと笑ってくれた。
「必要なものについては同封されている通りですが、購入するためには魔法使いにしか通りえないルートを通っていただく必要がありますので、ここで簡単に説明しておきます」
それから私達は入学までどう過ごせば良いのか一通りレクチャーを受け、9月1日に未知なる城へ誘われるまでの行程を確認したところで、マクゴナガル先生を見送ることとなった。もちろん、その時も癖で正座をしてしまったのだが、今度は先生も「その年であなたは既にもう立派なレディなのですね」と褒めてくれた(少しだけ嬉しかった)。
────7月某日、私は"魔女"として生きることが決まった。
そうして迎える、9月1日。
道中スムーズに進んだ…とはとても言い難い状況ではあったが、それをいちいちあげつらっているとそれだけで夜が明けてしまいそうなので、「ひとまずなんとか無事にいかにもな古城に辿り着いた」ということだけ綴っておこう。柱を通り抜けることで魔法使い専用のホームが現れたり、初めて袖を通すローブがあまりにも現実離れしていたことなんて、全て「魔法界に初めて訪れる者への洗礼」と思えば済むことだ。ついでに他のコンパートメントで皆が楽しそうに談笑しているのを横目に、私はずっとひとりぼっちで母に持たされたサンドイッチをもさもさと咀嚼していることしかできなかった。仕方ない、これも余所者の運命だ。
なんとか長い汽車の旅路を終え、迎え入れられた先はこれまた映画でしか見たことのないような豪華な大広間。既に同じ服を着た確実に年上と思われる人々が身に纏う色毎に分かれたテーブルに着座している。前方にいるのは、おそらく教師達なのだろう。笑顔を浮かべている者もいれば、気持ちのこもっていない表情で形式的に拍手をしているだけにしか見えない者もいる。
私達新入生はマクゴナガル先生に連れられ、大広間の前方に集められた。そこにあるのは、古びた帽子。突然帽子がぱっくりと割れて歌い出した時には流石に何事かと思ったが、周りにいた(おそらくマグルの)子供が見せたような飛び上がるほどの驚きはなかった。ダイアゴン横丁に行った時点で、ある程度"魔法"に対する耐性はついていたのだろう────つまり、この世界では"なんでもあり"ということだ。
マクゴナガル先生から説明は受けていたので、この後何が起きるかはわかっている。私達はこれから7年間過ごす第二の我が家────"寮"を決められるのだ。
マグル生まれである私にとってはどこに配属されようが大した問題ではないと思っていたのだが、魔法使いの家系に生まれた子達にとってはそう簡単な問題でもないらしい。小声で「レイブンクローが良いな」「僕はスリザリンに決まっている。じゃなきゃ退学するね」などと囁き合う様が見て取れた。
「リヴィア・イリス」
ぼけっと組分けの儀式が行われている様子を眺めていると、遂にマクゴナガル先生から名前を呼ばれた。臆することもなく椅子に座り、帽子を被ろうと頭に触れたところで────。
「グリフィンドール!!!」
大広間に響き渡る大声で、帽子が突然叫び出した。
「え、なんで?」
ここまで平静を装ってきた私だったが、まさかここまでの勢いで即決されるとは思っていなかった。予想以上の間抜けな声を上げてしまったが、帽子はもう既に答える気を失ってしまっているらしい。元のくたりとした古い"ただの帽子"に戻ってしまった。
グリフィンドール──── 一応4つある寮の各名称は聞いていたが、それぞれどういう素質を持った者が集まるのかは全く覚えていなかった。確かどこかが鋭敏で、どこかが賢くて、どこかが温和でどこかが勇敢だって…ああ、もうこれじゃあ何がなんだかわからない。
空いている席を探しながら、盛大な拍手で迎え入れてくれているテーブルの脇を歩く。なかなか混み合っている席の中、どこに着こうか考えていると、おそらく同世代と思われる女の子が両手を殊更大きく振って招き寄せてくれた。
赤髪の豊かな、美しいグリーンの瞳を持った女の子だった。
「私、リリー・エバンズ。私もさっきここに組分けられたばかりだったから、女子が同じ寮に来てくれるのを待ってたの! よろしくね、イリス。私のことも良かったらリリーって呼んで」
はきはきと快活に、日本人の私にも屈託のない笑顔を向けてくれるリリー。
「ありがとう、リリー。よろしくね」
いくら平気な顔をしていたって、内心全く不安がなかったわけではなかった。だからこそ、ここで同い年の子が友好的に接してくれたのは本当に運が良かったと言うべきなのだろう。
全員の組分けが終わり、校長先生の本当に短い"一言"を終えた後(日本の学校で過ごしてきた私にとって、30分以上かかることを覚悟していた講和が本当に一言で終わったことに仄かなカルチャーショックを受けた)、目の前の磨かれた銀食器の上には盛りだくさんの豪華な料理が突如として現れた。なるほど、これも魔法の効果なのか。
リリーと互いの身の上話をしながら、お腹いっぱいになるまで料理を食べる。
「半年前まで日本にいたのね。それなのにあなたの英語、まるで貴族みたいに綺麗だわ。あ、日本ってことはもしかしてニンジャ? サムライ? とかいるの?」
「うーん、どっちも探せばまだいるのかなあ…?」
「本でしか読んだことないけど、私日本の文化に興味があるの! フラワーアレンジメントだったり、カフェでお茶をするにもお作法があったり、アーチェリーをハカマでやったりするんでしょう?」
「わあ、よく知ってるね。私のお母さんがそういうの好きだったから、見習いでよく私もやってたよ」
「そうなの!? ねえねえ、良かったら後で教えて!」
「もちろん。でも逆に私、イギリスの文化とか全然知らないから…」
「私に教えられることがあればなんでも伝えるわ、任せて!」
彼女との話は、初対面とは思えないほど間隙なく続いた。結局お開きの合図が出るまで、自分でも驚くほどにするすると言葉が出てきたのだ。この短い間でも、リリーという女性の人となりがわかったような気がした。
この子はきっと、誰からも愛される子だ。
「そういえば、イリスはあまりこっちの文化に慣れてないって言ってたけど、言葉だけじゃなくて食べ方がとっても綺麗なのね。テーブルマナーを学んでいたの?」
「うーん、なんというか…いかにもな日本文化の中では生きてきてたんだけど、父親が海外に転勤する可能性があった? とからしくて…英語とかは一通り勉強させられてたんだ。英語はまだまだ慣れてないけど、きっと教科書通りの英語だから堅苦しい感じになっちゃってるんだと思う。変じゃない?」
「もちろん訛りはあるけど、何度も言ってる通りとっても綺麗だし、しっかり伝わってるわ。あなたのご両親ってとっても素敵な方なのね。実はさっき、コンパートメントにいるあなたのことも通り過ぎる時にチラッと見たんだけど、あまりにも姿勢が良かったからどこかの絵画のお嬢さんなのかと思っちゃったくらいなの」
「ええ、それなら話しかけてくれたら良かったのに。実は結構心細かったんだよ」
「ふふ、そうよね。ごめんなさい」
久々に友達との話が楽しい、と心から思えた。そうして、楽しい時間というものは得てしてあっという間に過ぎていくもの。まだ話足りないことばかりだと言うのに、私達は上級生に早速招集させることとなった。
「グリフィンドール生はこちらに集まって! 寮の場所を紹介するよ!」
察するに、あの人が寮のリーダーシップを取っている人なのだろうか。リリーと共に席を立ち、新入生の列に並びながら、これから案内されるらしい寮への道を歩いていく。
────と、大広間を出たところで私は足を止めてしまった。
明らかに新入生と思われる女子(青い紋章をつけているので、ええと…確か、レイブンクロー? の生徒なのだろう)が、列から離れて大広間の隅をうろうろしているのだ。集団行動ができずに一人気ままに生きている、という様子はない。明らかに焦った様子でチラチラと進んでしまうレイブンクロー生の列を確認しながら、床に這いつくばるようにして…どうやら、何かを探しているらしい。他の生徒はそれに気づく様子もなく、というより自分のことで精一杯のようで、先導するリーダーについていくことしかできていないようだった。
どうしよう。ここで列からはぐれたら、私も寮への行き方を見失ってしまうのだろう。
でも、あの子は明らかに困っているようだ。ひとりでこの大きな城に来たばかりで、何やら────失くし物でもしたらしい、とにかくそんな状況で孤独を感じるのはあまりに心細いだろう。
私の脳裏に、イギリスに来たばかりの頃のことが蘇る。
…放っておけない、かな。
私はリリーに「ごめん、30分経って私が戻らなかったらもう一回ここに迎えに来てくれない…?」と低頭にお願いし、「どうしたの? 何かあったなら私も…」と戸惑う彼女に「大丈夫」と根拠もなく言うと、そっとグリフィンドール生の列を離れた。
「どうかしたんですか?」
困っている様子のレイブンクロー生の前に跪き丁寧に声を掛けると、彼女は非常にわかりやすい挙動で飛び跳ねてみせた。
「あっ…その、さっきこの辺りで私…ペンを落としちゃって…。入学祝いにパパから買ってもらった大事なものだったから…」
なるほど、それは必死になるのも頷ける。
「いつまで持っていたかは覚えてますか?」
「大広間に入る前、お守りと思ってポケットの中を確認した時にはあったの。だから多分、この辺りかなって思ってたんだけど…」
「うーん…念のため、ポケットを見せてもらっても良いですか? もし破れていたりしたら、大広間の中で落とした可能性もあるかもしれないので」
そう言うと彼女は素直にポケットの中身を見せてくれたが、破れている様子はない。ここに来る前、"ポケットの中"でその存在を確認したというのなら、わざわざ取り出して落とした、という線はないのだろう。
さて、この広い空間の中で一体どこからどう探したら良いのだろうか。
床についていた膝をぱっぱと手で払いながらゆっくり立ち上がり悩んでいると、彼女がおずおずと私に話しかけてきた。
「あの…大丈夫? あなたも新入生でしょう、寮への生き方を見失っちゃったら…」
「ああ、大丈夫です。友達に後で迎えに来てもらうことになってるので。それより、あなたの方があまり遅くなったら戻れなくなっちゃいますよね。手分けして一緒に探しましょう」
「手伝ってくれるの?」
「もちろん」
自分がイギリスに来た頃、何度も「誰かに助けてほしい」と思っていた。だからというわけではないが、困っている人を見かけてしまった以上何かしらはしてあげたいと思う。私としては当然のつもりで言ったまでだったのだが、彼女はえらく感動しているようだった。
「私、メリッサ・バーナーって言うの。あなたは?」
「リヴィア・イリスです。良かったらイリスって呼んで」
「オーケーイリス。良かったらもっとラフに話して、せっかく同い年なんだから」
「そう言ってくれるなら…うん、ありがとう、メリッサ」
そんな雑談を踏まえながら、辺りの様子を確認していく────が、ペンは一向に見つかる様子がない。
いよいよどうしようか、そろそろリリーのお迎えも来てしまいそうだ…そんな風に思っていた時だった。
「アクシオ、ペンよ来い!」
突如として、階段の方から朗々とした男性の声が響き渡った。
一筋の光がどこからともなく湧き出てきたかと思うと────流石にこれは驚いた、大広間の中から一直線に1本のペンがこちらへ飛び込んできたのだ。
「!」
メリッサと私は、慌てながらそのペンをキャッチする。
「それ、もしかして…」
「ええ、私のペンだわ。でも、一体誰が…」
一瞬にして困難を極めていた探し物を見つけ当てた(というより呼び寄せた)人物。一体誰がそんなことをしたのだろうと振り返ると、そこにいたのは2人の男子生徒だった。おそらく彼らも、同世代の子なのだろう。
「お目当てのものはそれで合ってるみたいだね?」
くしゃくしゃとした黒髪を弄ばせた、眼鏡の男の子がそう言う。杖を構えていること、聞き慣れない言葉を唱えていたところを見るに────推測でしかないが、彼はまさか魔法を使ったというのだろうか。
彼の隣にいたのは、とても綺麗な顔立ちをした黒髪の男の子だった。吸い込まれるような灰色の瞳を少し細めて、私達をどこか呆れたような顔で見ている。
「あ、ありがとう…」
流石にこれは私も戸惑いを隠せなかった。まさかそこに人がいるなんて思ってもみなかったし、探し物を一発で探し当てる魔法があるなんて考えもしていなかったのだ。さっきまで"魔法はなんでもあり"と自覚していたにも関わらず、である。
「ちょうどさっき、グリフィンドールの列から離れた君の姿が見えたからさ。何をする気なのかな〜って思って見てたんだ。そうしたら、面識もなさそうな他寮の子を助けてると来た。面白そうだったからちょっと会話を聞いてたんだけど、君達の探し方じゃ一晩かけても埒が明かなさそうだったから、ちょいと出張らせてもらったってわけだ」
「────っていう建前で、こいつは自分が"習う前から魔法を使えるんだ"ってアピールをしたがってただけなんだけどな」
魔法を使ってくれたらしい眼鏡の子に、灰色の瞳の子が鋭い指摘をする。笑うべきなのか一瞬迷ったが、私の心中はそれを遥かに上回る感動に覆われていた。
「そんな魔法があるなんて知りませんでした。本当にありがとう、えーと…」
「ジェームズだよ。ジェームズ・ポッター。こっちは僕の友人のシリウス・ブラック。どっちも君と同じグリフィンドール生さ、イリス」
そう言うと、ジェームズは軽やかなウィンクをしてみせた。シリウスは相変わらず仏頂面だったが、ジェームズに付き合っている辺りこの一連の流れを"つまらない"と思っているわけではないらしい。
彼らからすれば"面白そうなことが起こっている"という程度の認識だったのだろうが、私達が助けられたのは事実だ。彼らの好奇心に感謝しつつ、メリッサに別れを告げようとした。
「…寮にはどうやって戻ったら良いんだろう…」
────と、ここでまた新たな問題発生である。彼女はおそらく自分の問題で精一杯になっていたせいで、寮への道のりを確認できなかったのだろう。私はジェームズとシリウスに案内してもらえればおそらく寮へ戻れるのだろうが、他寮の生徒となればそうはいくまい。
一縷の望みをかけてジェームズの方を見ると、「君は本当にお人好しなんだねえ」というどこか呆れたような笑みと共に、それでも「なんとかしてあげるよ」と言ってくれた。
一体何をするのだろう。そう思って動向を見守っていると、ジェームズはおもむろに壁にかけられた絵画の中にいる婦人に話しかけ始めた。
「レイブンクローの寮にはどう行ったら良いか、知ってる?」
多少なりとも、予想していなかったわけではない。それでも────婦人が当たり前のようにジェームズと向き合ったのには、少しだけ新鮮な気持ちを味わわされた。
「レイブンクローの寮なら、西側の塔を上って行けば辿り着けるわ。おそらく上級生がまだ新入生の人数確認のために周りにいると思うから、その人を頼ってみて」
「だって、メリッサ」
「何から何まで本当にありがとう…。イリス、ジェームズ、シリウス、あなた達のことは忘れないわ」
「なーに、僕はイリスの挙動があんまりにも人道的すぎて面白かったからちょこっと横槍を入れただけさ」
ジェームズが私を手招いているので、メリッサと別れを告げて私は彼らの元へと駆け寄った。
「自分のことを差し置いて人の手助けをするなんて、君って本当に面白いね」
「そんなに?」
「もしかしてマグル出身? 魔法使いはだいたい自分の力で自分の問題は解決しちゃうから、あんまり不必要に人の手助けなんてしないんだよ」
「そうなんだ…」
「それに、ちょっと気になることもあってさ」
「気になること?」
「君の訛りだよ。話し方自体はすごく滑らかだけど、イギリスのどこのイントネーションとも違うからさ、もしかしたら外国から来た子なのかなあって気になってて」
「ああ…私、半年前に日本から引越してきたばっかりなの」
「日本! 良いね、極東の島、気になってはいたんだけど全然知識がないんだ。良かったら色々教えてよ」
なんだかリリーと同じような反応だ。それでも、黄色人種として見下されない、純粋な興味を持ってもらえるのは決して悪い気分にはならない。この子とも仲良くなれそうだな、と希望的観測を持ちながら私はジェームズと温和に話しつつグリフィンドール寮への道のりを案内してもらっていた。
────唯一気がかりだったのは、シリウスがその間ほとんど喋らなかったことだ。ジェームズと行動を共にしていたということは、この2人はそれなりに仲が良いということなのだろうが、私に対する印象をどう抱いているのかは正直よくわからない。
「シリウスは────」
意外と寮までの道のりが長かったので、少しは交流を深めようかと話を振ってみる。
「魔法使いの家系の人なの?」
「…ああ、代々スリザリンの家系の出でね。僕だけグリフィンドールに入ったから完全に家の中では異端児扱いさ」
自嘲気味に言うシリウスの言動は、11歳にしてはあまりにも達観していると言わざるを得なかった。あまり触れてはいけない話題かな、と思いつつも、あまり卑屈になられすぎても気まずいので、その場凌ぎとわかっていつつも思いついたフォローの言葉を発してみる。
「私も日本人だからさ、結構周りの人からは見下されがちなんだよね。あなたの家の事情はよくわからないけど、肩身が狭い気持ちならわかるよ。ここで自由になれたら良いね」
そう言うと────気のせいだろうか、シリウスの表情が少しだけ緩んだような気がした。
「ねえ、ところで君って日本では結構名家のお嬢さんだったりするの?」
寮の前まで来た時、ジェームズが唐突に私に話をする。
「うーん…? あんまり意識はしたことはなかったけど、礼儀作法とかは結構厳しく叩きこまれてきたかな。でも、なんで?」
「いやね、歩き方とか喋り方とか、まあ訛りはあるにせよすごく丁寧だなあって思ったからさ。ここにいるシリウスも名家の出だからなんとなく似たものを感じたんだよ」
「そうか?」
シリウスからの同意は得られなかったが、どうやら私の幼少期の教育はここでも功を奏しているらしい。
「親切で上品で、いかにも大人受けしそうなタイプだ。そういう要領の良いタイプ、僕好きなんだよね。ぜひ仲良くしてほしいな」
…なんだか損得勘定が含まれているような気がしないでもないが、これがイギリス人の国民性なのだろうか。いやいや、偏見は良くないか。あくまでジェームズがそういうタイプなのだろう。
とはいえ、習う前からある程度の魔法を習得している(おそらく相当優秀な)友人がいるのはこちらの損得勘定を踏まえてもメリットしかなさそうだ。
「うん、ぜひよろしくね」
そう言ったところで、私達はようやく赤い色で装飾された我が家へと辿り着くことができた。
「ああ、イリス! そろそろ迎えに行こうと思っていたの、大丈夫だった?」
談話室に入るなり、リリーが駆け寄って来てくれる。
「うん、ジェームズとシリウスのお陰で万事解決したよ」
私としては事実を端的に述べたまでだったのだが、そう言った瞬間リリーの眼光が鋭くなった。あえてジェームズとシリウスに視線を向けないようにしている────ように思えるのは、気のせい…ではないのだろう。
私の知らないところで、何かひと悶着あったのだろうか。
まあ、リリーの性格を考えれば別に私がジェームズ達と親しくしていたところで、無理にその輪にリリーを巻き込むようなことをしなければ問題は特にないだろう。
「ジェームズ、シリウス、ありがとう」
それだけ告げて(ジェームズは「気にしないで!」と言ってくれ、シリウスは「他寮の奴に貸しを作れて良かったな」と皮肉気味に答えてくれた)、私はリリーについて寝室へと上がっていった。
「ねえ、買った教科書ってもう読んだ?」
「うん、一通り目は通したよ。でも専門用語とかまだ訳すのが難しくて…」
「良かったらわからないところは私が噛み砕いて説明するわ。なんでも聞いてね」
「ありがとう、本当に心強いよ」
そうして、私のホグワーツでの初日が終了した。色々と新しい情報がてんこ盛りだったせいで全ての詳細を覚えているかと言われると怪しいが、まあこういうのは習うより慣れろだ。
明日以降、なんとか頑張ろう。特に私はイギリスの文化もマナーも、果ては魔法のことまでも何も知らない身。相応の努力を重ねなければならない覚悟を決めつつ、今日ばかりはゆっくりと眠らせてもらうことにした。
────そして翌日から、私の本当の戦いが始まる。
流石に1年目ということで、習っているのが基礎中の基礎だということなら雰囲気で察せられた。しかしそれにしても専門用語がやたらと多い。日常会話だとか、ビジネス会話だとか、そういう次元ではないのだ。"魔法界用の会話"だなんて、どういう人生を送れば事前に学べるというのだろう。
それに問題があったのは、"呪文を唱える際にはイントネーションと発音が何よりも大事"というところだった。私の英語は、いくらネイティブから教わったものといえど、所詮アジア訛りの入った英語でしかない。呪文は正確に聞き取り、教科書のスペリングもきちんと確認していたはずなのに、いざ口に出してみると自分でも「何かが違う」ということがわかってしまった。当然、効果は発揮されないまま。
最初の1週間、一通りの授業を受け終えた私はボロボロだった。
本当に私、魔法使いの素質なんてあったのだろうか…?
「あ、そこはね、単純に"ベゾアール"っていう固有名詞で大丈夫よ」
「呪文を唱える部分以外は完璧なんだから、あと発音を反復練習するだけで良いと思うわ。正しい発音なら私が何度も繰り返すから、真似してみて」
1人だったら、流石に挫けていたかもしれない。私の様をよく見ていてくれたリリーが、毎晩そう言って自習に付き合ってくれていたお陰で、なんとか「明日も頑張ろう」と思えるようになった。
ただ、いつまでも彼女に寄りかかってばかりではいられない。リリーの励ましのお陰で、「なんとか練習を積めば私も周りに追いつける」ことならわかったので、私はここで一歩更に足を踏み出してみることにした。
イギリスに来たことが私の人生における一番の冒険だったのだ。それを乗り越えた私に、もはや躊躇うことなど何もない。
「────あの、少し薬草学についてお尋ねしても良いですか?」
「すみません、実は天文学の分野でお伺いしたいことがあって」
夕食の時間帯を狙い、私は他寮のテーブルに座る同級生に声を掛け始めるようになった。もちろん、プライベートの時間に割り込んでいるわけなのだからそこまで時間を取らせるわけにはいかない。どうしても自分には難しい部分を2、3点ピックアップし、簡潔にまとめた上で乗りこむようにしていた。
観察していて、気づいたことがある。
ハッフルパフ生は、薬草学に強い生徒が多い。
レイブンクロー生は、呪文学や天文学に強い生徒が多い。
そしてスリザリン生は、魔法薬学や闇の魔術に対する防衛術に強い生徒が多い。
ちなみに言ってしまえばグリフィンドールはどうやら変身術やこれまた闇の魔術に対する防衛術に長けた生徒が多いようなので、その辺りは自寮の同級生に聞くことにしよう(魔法史が得意だという話をどこでも聞いたことがないのが難点だったが、これについては私も別に苦手意識を持っているわけではないので、そっとしておくことにしよう)。
他寮の生徒がいきなり勉強を教わりに来るという状況は、相手からしても意外なものだったらしい。ただ、それでも好意的に接してくれる人が多かったのは幸いした。
「すごいね、君って勉強熱心なんだ。僕も頑張らなきゃ」
「あ、そこはちょっと誤訳があるわ。でも他のところは完璧。言葉の壁さえ越えちゃえば7年生になる頃には主席にだってなれちゃうかも、頑張ってね!」
特に優しくしてくれたのは、ハッフルパフの生徒だった。10人中10人と言っていいほど、丁寧に教えてくれ、ついでに激励の言葉もかけてくれる。その中で友人と呼べる生徒も何人かできた。
レイブンクローの生徒は、どちらかというと事務的な会話に終わることがほとんどだった。戸惑いつつも疑問点は明瞭に解消してくれるが、その後は「グリフィンドールのテーブルに戻れ」と言わんばかりに顔を背けられる。お礼を言いがてら背を向けた時、「黄色人種がなんか成り上がろうとしてる」と囁かれる声だって聞こえたくらいだ。
一応擁護のために言い添えておくと、全員がそうだったわけではない。レイブンクロー生の中にも、「私が困った時にはあなたを頼らせてね」と言ってくれた人だっていたし、この辺りは単に性格の問題なのだと思う。何よりメリッサが良い例だ。彼女は初日に私が手を差し伸べたことをずっと覚えていてくれているようで、何をどのタイミングで尋ねても快く応じてくれた。
本当の障壁は、残り1つのテーブルだった。
「お食事中にごめんなさい、少し聞きたいことがあって────」
「あー悪いね、猿語はわからないんだ。悪いけど、英語で話しかけてくれる?」
「すみません、今週の魔法薬学の────」
「あのくらいの初歩もわからないような魔女まがいはさっさと海の向こうに帰れば?」
────スリザリンだ。
たかが4つの寮に分けられただけで、全ての人の性格を決めつけたくはない。要はこんなもの、血液型と同じようなものなのだから。
それでも、こうも侮蔑的な視線と言葉で突っぱねられると、こちらとしてもそれ以上に食い下がる気力は持てなかった。
とぼとぼとグリフィンドールの席に戻ると、ちょうど近くに座っていたジェームズと目が合った。何やら面白そうな顔をして、こちらをずっと眺めている。
「────何か?」
「いや、随分熱心なことだと思ってね。でもスリザリンの奴らのところまで行ったのは悪手だったな。わかったろ、あいつらは性根が腐ってるんだ」
「噂には聞いてたけど、本当にグリフィンドールとスリザリンって仲が悪いんだね」
溜息をつきながら、ジェームズの隣に座る。当然のようにその隣にはシリウスもいて、彼はジェームズとはまた少し違った刺々しい顔で(それでもその顔に敵意を感じさせないのは不思議だ、と思った)私を見ている。
「寮同士がどうっていうより、あいつらは自分の仲間のことしか眼中にないのさ。自分達のステータスこそが至高で、それ以外はぜーんぶカス扱い。海まで越えてここに来てくれた君みたいな勇敢な子だって"余所者"としか思ってないし、マグルの間に生まれた奇跡の魔法使いだって"紛い物"としか言わない。今に見てろ、スリザリンの考え方で世の中が回っていったら100年の間に魔法界は滅亡するね」
私を庇おうとしてくれているのはわかるのだが、ジェームズの言い方もどこか偏向的なものに聞こえたので、私は曖昧に笑って「気を付けるよ」とだけ言っておいた。
「スリザリンの奴らなんかを頼らなきゃいけないほど困ってるなら、僕が教えようか?」
しかし、ジェームズの言葉はそれだけで終わらなかった。しかもスリザリンへのヘイトではない、真面目な口調での提案だ。
「…良いの?」
「見たとこ、君が困ってるのって呪文の発音と魔法用語の日本訳くらいだろ? どの科目だろうとそのくらいなら僕でも教えてやれるし。代わりに僕、ずっと君の故郷のことを聞かせてほしいって思ってたんだよね、どう?」
ジェームズが優秀な魔法使いであることは、この短い期間の中でもよく理解していた。授業における態度はとても見られたものではなかったのだが、なんなら入学したその日から、私は彼の魔力と知力の高さを思い知っている。リリー以外にも頼れる仲間ができるというのなら、それは私にとって何よりありがたいことだった。
「もちろん私はありがたいけど…対価、そんなもので良いの?」
「そんなものなんて言うなよ、僕らは海の向こうの話を本でしか知ることができないんだ。生の話を聞けるなんて、またとないチャンスだろ?」
なるほど、価値観は千差万別。ジェームズの瞳は小さな子供のようにキラキラと輝いているし、普段から彼があれそれと多くのものに興味を示しては手を出している様を遠くから見て来ていたということもある。私のつまらない人生が彼の楽しみに貢献できるというのなら、こちらもそれに甘えて受けてしまおう。
「ありがとう。じゃあこの後、ちょっと魔法薬学について訊いても良い?」
「オッケー、20時頃で良いかい?」
「わかった、談話室で待ってるね」
そう言うと、ジェームズは軽く親指を上げて、シリウスと共に席を立った。「ジェームズ、まさかその講義、僕も頭数に入ってやしないだろうな」「当たり前だろ、我らは既に一蓮托生さ。それともシリウス君には何か大事なご予定でも?」「別にないけど」なんていう会話を挟みつつ、彼らはどこかへと消えて行った。大方、また何かホグワーツの謎でも探りに行ったのだろう。
私はそれからゆっくり夕食を摂り、誰にも訊けない魔法史の自習をしつつ、談話室で20時になるまでひとり過ごしていた。
ジェームズとシリウスが戻ってきたのは、15分程時間を回った頃だった。ところどころに擦り傷をこしらえているのは…触れないでおいた方が良いのだろう。
「遅れてごめん、そっちの都合は?」
「いつでも勉強させてもらう準備はできてるよ」
「さすが。じゃあ早速────「ジェームズ!!」────おっと」
ジェームズがこちらに寄ろうとした瞬間、談話室の奥の方から彼を呼ぶ上級生の声が聞こえた。
「ちょっと急用があるんだ、時間は取らせないから来てくれ!」
「あー…次のクィディッチ対抗戦の話かな。まったく、意見を求めるくらいならさっさと僕をチームに入れてくれたら良いのに…イリス、」
「大丈夫。そっちを優先して」
「ごめんよ、多分本当に時間はかからないから。先にシリウスと始めてて」
そう言うと、ジェームズはのったのったと上級生の方へ向かって行った。そこに取り残されたのは、私とシリウスだけ。私は既に教科書を広げているのですぐにでも勉強会を開始できるのだが、約束を取り付けた時からシリウスがこの時間に対して乗り気でないことは明白だったので、何と切り出したら良いのかいまいち掴み切れずにいた。
「あー…その、巻き込んでごめん。ジェームズはああ言ってくれたけど、自分のこともあると思うし、この隙に寝室に戻ってくれても大丈夫だから…」
ひとまず気遣いの声を掛けたが、シリウスは「ああ…いや、別に構わないさ。あいつに言わされた通り、予定があるわけでもないし」と言って、私の隣にそっと腰掛ける。
「────それに、少し気になることもあったんだ」
「気になること?」
一体何だろう。シリウスとまともに話したことなどなかった私にとって、その切り口は些か緊張させられるものだった。
シリウス・ブラック。名家ブラック家の出身で、代々スリザリンの寮を卒業してきた者達で構成される家系図の中、偶然にもグリフィンドールに属されたという────本人曰く、"異端児"。
クールであまり人と馴れ合わず、誰それ構わず話しかけに行くジェームズをどこか呆れたような目で見ている人、という印象しかない。とはいえ、そのジェームズと一緒にいる時は実に楽しそうに笑っているので、彼としてもジェームズとは好んでつるんでいるのだろう。成績はジェームズ同様、非常に優秀。普段の素行に反して…という注釈がつくところまで含めて、彼らはとてもよく似ていた。
そんな中で彼の特徴をあえて挙げるとするなら、その身から滲み出る高貴さ、だろうか。名家と言われるだけあって、彼の所作は誰よりも美しかった。そこに驕った雰囲気は全くないのだが、例えば何かを手に取る時にきっちりと揃えられた指だとか、座ったり立ち上がったりする時の緩やかな動きだとか、おそらく本人も意識していない部分に隠し切れない育ちの良さが出ている。口調だって、わざとぶっきらぼうにしているのがわかってしまうほど、諸所の単語にかつて私が英語を学んでいた頃"この言い回しは一部の貴族がよく用いていたものです"と記されていたものが出てしまっている。
後天的に淑女としての振舞いを叩きこまれてきた私とは違う、本当のお坊ちゃまなのだ、この人は。
「どうしてそんなに努力するんだ?」
────頭の中でシリウスの人物像を整理していたせいで、唐突に降って来た質問に咄嗟に答えることができなかった。
身構えていただけに、そんな"当たり前"のことを訊かれたことに対し多少ならず動揺さえしてしまったほどに。
「…どうして、って…」
「成績が悪いわけじゃない。無理に他人に媚びを売らなきゃいけない事情があるわけでもない。それなのに、どうして他寮の奴らのところにまで乗り込んで、そんなに必死になれる?」
「そんなの…私が魔女として生きることを決めたからだけど」
それは、私の中では最初から決まっていたことだった。
魔女として生きる。その選択は、私が生まれて初めて下した"自分の人生を決めるための選択"だ。自分で決めたことなら、しっかりと最後までやり遂げたい。たとえその先に待っている未来が成功だろうが失敗だろうが、「やれることはやった」と自分に言えるだけの過程を残したい。
────そう根を詰めたことを思ってしまうのは、また私が日本人だから、なのだろうか?
シリウスは完全に虚を突かれた表情をしていた。そんなに驚かれることなのだろうかと思いながら、彼のコメントを待つ。
「それだけのことで…?」
「私、元々は魔法を知らない世界で生きてたからね。魔女になるって選択は"それだけのこと"じゃなかったりするんだ。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、元の世界を捨てた、くらいの気持ちでここにいるの。だったら、できることはなんでもやりたいじゃん? 自分がどこまでできるか試したいし」
「でも、君は既に結構酷い目に遭ってるだろ。その…」
シリウスはおそらく気を遣って言い淀んでくれたのだろうが、言いたいことは十分に察せられた。
「ああ、マグル生まれだとか、アジアの猿だとか、そういう悪口?」
「ほとんどの奴はそんなこと思うどころか、むしろ君のことを尊敬してるだろうけどな」
「うん、ありがたいことにそれはわかってる…し、だからこそそこに悪口がつきまとうのもわかってる。日本にいた頃だって、"人と違う"せいでいじめられることなんてよくあることだったし。でも────」
でも、それこそそれだけのことでは挫けていられないのだ。
「せっかく自分の力をちゃんと試せる場所に来たんだよ。自分が持って生まれた変えようのないステータスじゃなくて、自分がこれから何をしていくのかっていう私だけの行動や成果を残していけるの。それって、なんだかワクワクしない? "どこで生まれたかなんて関係ありません、大事なのはどう生きるかです"、って私、いつかの将来で言ってみたいんだ。だから今はひとまずなんでも頑張ってみるの」
子供の戯言だということは、当時だって子供なりにわかっていた。それでも私は、新しい可能性にチャレンジしてみたかったのだと思う。そこに待ち受けているのであろう困難など考えもせずに、希望だけを胸に抱いて笑っていた。
「────僕は、家のはみ出し者だ。ホグワーツに来たところで、"ブラック家"の者として扱われることは変わらないせいで、板挟みになってる。有体に言えば、僕の居場所はどこにもないんだ。それでも────それでも、僕も────何かを変えたいと思ってここに来た」
心なしか、シリウスの声は少しだけ寂しそうだった。私の意見に同調してくれているらしい、ということはわかるのだが、まだ彼の中には葛藤が残っているのだろう。
私から見れば、私以上の異端者などいないように思えてしまうのだが────それこそ感じ方は人それぞれ、シリウスもシリウスで孤独感を抱えていることに違いはないのだろう。
だったら、私にできることなど何もないのかもしれない。
それでも。
「じゃあ、一緒に"何か"を変えてやろうよ。魔法界のはみ出し者と、完全な余所者がのし上がる世界って、なんだか格好良くない?」
笑顔を大きく広げてそう言うと、シリウスはニヤリと笑みを返してくれた。その綺麗な顔にとてもよく似合う、皮肉めいているのにどこか可愛らしい、"どこにでもいそうな男の子"の笑顔だった。
「お待たせ…って、なんだ、何も進んでないじゃないか」
ちょうどその時、ジェームズが戻ってきた。白紙のノートを見て、私とシリウスを交互に咎めるような目で見る。
「ふうん、勉強より密談の方が楽しいってわけ?」
それからわかったような顔をしてニヤニヤしながらそんなことを言うので、私とシリウスは揃って吹き出してしまった。
「共同戦線を張ってただけだよ。ね、シリウス?」
「ああ、そうさ。ほら、さっさと始めてくれよセンセイ」
「なーんか意味深だなあ…」
ブツクサ言いながらも深くは突っ込まず、それからジェームズは私の自習に付き合ってくれた。彼の教え方が感覚的すぎてわからない時には、的確にシリウスがフォローを入れてくれる。思ったより真面目に講義をしてくれた…と言ったら失礼になるのだろうが、正直言って、リリーを除いた他の誰に訊いた時よりもわかりやすい勉強会になったことだけは事実だ。
それから1時間も経つ頃には、私は自信を持って次の授業に臨める、と言えるほどにまで内容を理解できるようになっていた。
「わあ…本当にわかりやすかった。ありがとう、2人とも」
「なーに、このくらいお茶の子さいさいさ。それより、今度は君の番だからね。クリスマスは実家に帰るのかい? 次の夏でも良いけど、機会ができた時には日本文化を感じられるお土産、持ってきてくれよ」
「クリスマスはこっちで過ごす予定だけど…わかった、ありったけ持って行くね」
グリフィンドールの秀才3人に加え、友好的な態度を示してくれたハッフルパフやレイブンクローの生徒。身近な教師をたくさん捕まえられたその時の私には、もう怖いものなどないと思えていた。
そして実際、数ヶ月が経ってクリスマスを迎える頃には、私もなんとか自力で授業についていけるようになっていた。魔法用語にも慣れ、普段の発音はともかく呪文を唱える時のコツのようなものは掴めるようになってきたと思う。授業中のデモンストレーションでも私の魔法はしっかりと効果を発揮するようになり、先生に褒めてもらえる機会もだんだんと増えていくようになった。
「ああ、ようやくホグワーツ生になれた気がする…」
「何言ってるのよ、それどころかあなたはもうホグワーツの有名人なのよ」
ある日の夕食後、寝室に戻ってきたところでリリーに大きな溜息をついてみせると、彼女はわざと私を咎めるようにそう言った。
「どういうこと?」
「見てたらわかると思うけど、アジア系イギリス人ならともかく、純日本人っていうステータスを持ってるのはここではあなただけでしょ? その時点で十分目立ってるのに、誰にでも友好的で、努力家で、何より品があるって言って今じゃほとんどの生徒があなたのことを知ってるんだから」
「すごい誇大評価だね」
「そんなことないわ。あなたの頑張りが認められただけのことなんだから、当然よ」
「まあ、その分悪口も聞くけど」
「そんな一部の人間の嫉妬にまみれた戯言なんて、聞くだけ無駄だわ」
好意的な視線も侮蔑的な視線も気にしてはいないが、こうして等身大に話せる友人というものが何にも代えがたいものだ、という気持ちは常にあった。そういう意味で言ったら、リリーとジェームズ、シリウスは私にとって数少ない心を開ける友人だったのだ(なぜかリリーとあの2人は頑なに対立しているようだが)。イギリスに来てこの方心を閉ざし続けていた私にとって、それだけでも「ホグワーツに来て良かった」と思えた。
「さ、今日は早く寝ましょ。明日はクリスマスよ。聞いたところによると、ホグワーツのクリスマスってすごいらしいの。楽しみね」
「早起きして校内探検したいね」
「ふふ、お互い朝起こし合わなきゃね」
ベッドに潜った後、眠りの世界へ引き込まれるのは早かった。特段クリスマスを楽しみにしているというわけではないが、ホグワーツに来てから早4ヶ月、生活サイクルも安定してきてようやくここを"第二の我が家"と思えるようになったところが大きいのかもしれない。私は安心した気持ちで、柔らかなマットレスに身を沈めた。
────翌朝。
日の光で目覚めた私は、まずベッド脇に置かれたプレゼントの山に驚いた声を上げてしまった。
「えっ、サンタクロースって本当にいるの!?」
それで隣のベッドにいたリリーを起こしてしまったらしい。「どうしたの?」と目を擦りながら尋ねてくるので、「起こしてごめん」と一言添えて、私はそっとプレゼントの山を指差した。
「日本では違うの? サンタクロース…はともかく、こういう記念日にはプレゼントを重ねておくのよ。親しい人の間でも気軽に贈り合うから、結構な量が溜まるのよね」
「…どうしよう、日本では"サンタクロースからの贈り物がひとつだけ"っていうのが普通だったから…私、誰にも贈ってない…」
言いながら差出人を確認すると、両親やリリー、ジェームズやシリウス、それにメリッサまで…親しくしてくれていた人からのたくさんの贈り物が確かにたくさん積まれていた。
「後でカードでも書いてあげたら? 知らなかったものはしょうがないんだもの」
「リリー、夏休みにお土産たくさん持って帰ってくるからね…」
「あはは、良いのよ、気を遣わないで」
申し訳なく思いつつ、必ず全員にカードとお菓子をお返ししようと思いながら、まずは両親から届いた大きな包みを手に取る。
ずっしりと重く、それに平べったい。中には何が入っているのだろう。
そっと紐を解くと、中から出てきたのは────。
「わあ、それ、なあに!?」
────着物だった。
「日本の伝統衣装だよ。着物って、聞いたことある?」
「あるわ! キモノ、写真で見たことあるもの! それ、ご両親からのプレゼント?」
「そうみたい」
添えられたカードには『いつでも日本の心を感じられますように』と丁寧な筆致で書かれた母からのメッセージがあった。
「ねえねえイリス、それ、着てみせて!」
「うん、良いよ。ひとりで着るの難しいから、途中でちょっと手伝ってもらっても良い?」
「もちろん構わないけど、私に手伝えることなんてあるのかしら…」
「大丈夫、"ちょっとここ抑えてて"とかそんな程度だから」
着付けの仕方なら教わっている。ひとりで着られるほど私は熟達していないが、リリーの手助けがあればまあ、そんなにすぐ着崩れないくらいにはできるだろう。
私は手早く顔を洗い、髪を着物に似合うよう簡単なお団子アレンジにまとめると、早速着付けに取り掛かった。
それから奮闘すること2時間、私は黒地に赤い花の模様が入った着物をなんとか身に纏うことができた。帯は薄い藤色で、帯紐には着物の模様と同じ赤色が使われている。最後に藤色の草履を履いて完了だ。
こうしてみると、母に作法を教わっていた数年前の記憶が蘇るようだった。多少息苦しくはなるが、この感覚は嫌いじゃない。背筋が自然と伸び、ひとつひとつの所作がいつもより丁寧になるような気がする。
「わあ…」
リリーはうっとりとした顔で感嘆の溜息を漏らす。
「すっごく素敵。そのキモノ、まるであなたのために作られたみたいだわ」
「元々着物が日本人の体型に合うように作られたものだからね。リリーも後で着てみる?」
「良いの!? 嬉しいわ、ありがとう! でもまずはあなたにそれで1日過ごしてほしいの、夜に少しだけ試させて」
「え…これで私今日過ごすの…?」
「だってとっても素敵なんだもの。みんなに見せびらかして歩きたいわ」
「遂にあの日本人は頭が狂ったのかって思われるよ」
私の意見は至極真っ当だったと思うのだが、リリーがどうしてもと聞かないので、寮にいる間だけはこの姿で過ごすことを最終的に了承する羽目になってしまった。まあ、クリスマス休暇で残っているのは上級生を含めても数人しかいないという話も聞いていることだし、お祭り好きな彼らならきっと受け入れてくれるだろう。
何よりいつもお世話になっているリリーが心から嬉しそうにしてくれているので、悪い気はしない。私はそっと裾に気を付けながら階段を降り(リリーはその合間にも「ヤマトナデシコってそういう歩き方をするのね…!」と感動してくれていた)、いつも以上に閑散とした談話室までリリーと共に行く。
すると、そこにいた数人の寮生がすぐにこちらに気づいた。
「やあイリス、今日はいつも以上に素敵だね。それ、キモノ?」
「わ〜、ヤマトナデシコ、私初めて見た! ねえ、一緒に写真を撮っても良い? カメラ持って来るから!」
私のいる寮がグリフィンドールで良かった、とこの時ほど思ったことはなかっただろう。リベラルな彼らは私のどう見ても場違いな格好にも苦言を呈するどころか、諸手を挙げて喜んでみせてくれた。
中でも────。
「イリス!!!! どうしたのその格好!!!!!」
──── 一番元気だったのは、ジェームズだった。
「いたの、ジェームズ」
「ずっといたさ! そんなことより君、わあ…なるほどね、それが君の真価ってわけだ。すんばらしいよ、こりゃ」
そういえば、彼には「日本文化を伝える」という勉強会のお礼をまだ果たせていなかった。これもその対価のうちに入るだろうか。
「クリスマスプレゼント、ありがとう。ごめんね、日本文化ではあんまり友人同士で積極的に贈り合う文化がないから、私すっかり抜け落ちてて…夏休みにはたくさん────」
「そんなことどうでも良いよ! もうそれがクリスマスプレゼントさ! ねえ、それは何ていう名前のやつなの? 見たことない形の靴だね!」
それから誰かと写真を撮ったり、ジェームズが着物に使われるものの各名称を知りたがったりと、とにかく慌ただしい時間が過ぎていった。休むことなく質問や向けられるカメラに応え続け、ようやく落ち着く頃にはそろそろ昼になろうかという時間になってしまった。
お祭り好きも、程度が過ぎると疲れしか残らないものらしい。
ようやく一息つけるようになり、私はそっと皺をつけないようソファに腰掛ける。もちろん、帯があるので背中はつけられない。しゃんとした姿勢のまま、今度は袖に気を付けつつ水を飲む。
「ヤマトナデシコってのは、全ての動作が水みたいに流れるんだな」
そこで登場したのは、シリウスだった。先程までの騒ぎでは一向に姿を見せなかったが、どこかで見てはいたらしい。疲れ切った様子の私に向かってまず笑ってみせた後、どっかりと隣に座り込む。
「こんな無駄な布が多い服だからね、何をするにも全身気を遣うよ」
「でもその分、洗練されてるように見える」
「シリウスにそう言ってもらえるなら光栄だ」
あのリリーやジェームズでさえとんでもない大騒ぎになっていたほどなのだ、その後にいつも通りのシリウスが来てくれたお陰で、私はいつも以上にほっと安堵感を覚えていた。
「日本人は"静"を余程大事にしてるのか? 今日の君、一切物音を立ててないぞ」
「あー…日本人っていうか、昔の日本の女性はとにかく控えめで上品で静かであることを"美"って評価してたからかなあ」
「なるほど」
しかしそう言ったところで、私のお腹がぐるるとはしたない音を立てる。
「…まあ、私は現代の女性だから」
「ははは、生理現象には誰も敵わないってことだ」
朝から続いたパーティーのせいで、すっかり朝食を食べ損ねていた。しかも一度音が鳴ったせいで、心の方までしきりに「お腹が空いた」と訴え始めてきた。
「そろそろ着替えようかな。お腹も空いたし、大広間に行きたい」
「────…」
そう言って言外に別れを告げようとすると、なぜかシリウスは押し黙ってしまった。
「?」
何か言いたげにこちらを見ているので、私も首を傾げて言葉を待つ。
「────もう少し、そのままでいてくれないか」
「え、シリウスまでそんなこと言うの」
「"まで"って?」
「リリーもさっきそう言ってた」
「じゃあ、こればっかりはエバンズに同意だ。どうせ休暇中は皆好きな格好で過ごしてるんだから、今日くらい君だってせっかくの国民性を出しても良いだろ」
「そんなこと言ったって、悪目立ちするだけだよ」
「君は日本人であることをもっと誇りに思うべきだと常々思うけどね」
いつになく食い下がるシリウス。ノリに任せてリリーやジェームズがそう言うことになら慣れていたが、まさかここで彼に着物のままでいろと言われるとは思っていなかったので、私の心が思わず揺らいでしまう。
「…惜しいんだよ」
「何が」
着物がそんなに珍しいのだろうか。まあ、イギリス人の…特に魔法使いにとっては珍しいのかもしれない。シリウスはそれだけ言うとぷいと顔を背けてしまった。
「…なんでもない。とにかく、恥ずかしいって言うんならエバンズにでもジェームズにでも正装させるから、今日はそのままでいてくれ」
「ちゃっかりそこで自分を外すところがずるいよね」
「さあ、君の腹はそろそろ限界そうだが、どうする? まだここで論争を続けるか?」
「もう…」
結局、三大欲求には勝てなかった。うまく丸め込まれてしまったまま、私はそのまま寝室ではなく談話室を出るために腰を上げる。
────すると、シリウスが当たり前のようにさっと先に立ち上がり、そっとこちらに手を伸ばしてくれた。
こういう紳士的な動作は、私なんかよりよっぽどシリウスの方が"本物"らしい。とはいえ、ここまで来てしまえば淑女扱いされることに恥じらいを覚えることもないので、私はありがたくその手を借りることにした。
美しく揃えられた指先に、私も意識して揃えた手をそっと乗せる。緩やかな力で私の体は持ち上げられ、そしてそのままダンスパーティーにでも行くかのように、私達は手をただ重ねたまま歩き出した。
「────なんだい、あの映画に出てきそうなカップルは」
後ろからジェームズが茶化す声が聞こえてきたが、私はすっかりその設定になりきっていたところだった。
映画みたいなワンシーン、ちょっとだけ楽しいかも。
クスクスと笑いながらシリウスの方を見ると、彼は慌てたように顔を背けた。
「────?」
なんだか今日のシリウスはシリウスらしくない。
────その時私が思ったのは、そんな程度の幼稚な感想だった。
ちなみに大広間に出ても、私の格好が悪目立ちすることはなかった。パジャマの生徒、トンチキなセーターを着た生徒、孔雀の羽根のようなものを纏っている生徒────予想以上にそこは視覚的に賑やかな場所となっていたのだ。
なるほど、むしろ着物を着て行くくらいで良かったのかもしれない。
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