椿の残り香
※ヒロイン≠監督生
※監督生が来るより前の話
※サバナ前寮長捏造設定あり(中身がかなりファレナ似)
「げぇっ」
いつものように部屋の掃除をさせている最中、ラギーが不意に間抜けな声を上げた。
何かデカい虫でも見つけたのだろうか、とその時は気に留めていなかったが、
「アンタ、タバコなんて吸うんスか」
そう言われ、俺の動きも一瞬だけ止まる。
声の方へ視線を向けると、ラギーが手にしていたのはほぼ中身の残っていないタバコの箱だった。
「レオナさん普段全然そういう臭いさせてなかったから気づかなかったッス…うわこの時点でクセッ」
俺らのように鼻が利く種族にとって"タバコ"という植物の熟成した独特な臭いは、火を点ける前から既に十分な悪臭を放つものだった。実際、今のラギーもタバコの箱を指先でつまみながら腕をいっぱいに伸ばし、鼻からできるだけ距離を取ろうとしている。
「…いや、俺は吸わねえ」
「えー、じゃあなんでこんなモンがここにあるんスか。てゆーか吸わないんならもう捨てて良いッスか?」
少しの間、迷う。
そのタバコは俺のものじゃない。
俺はタバコなんて鼻が曲がるようなものを、絶対に吸わない。
でも、それは────
あれはまだ、俺が1年生の頃のこと。
夕焼けの草原の王家の第二王子という身分は、それだけで周囲の注目を集めるには十分な肩書きだった。初めての試験を受けるより前に、授業で実力を発揮するより前に、"キングスカラー"という"家の名"は既に学園中に広まっていた。
群れの中の名もなき弱者になる気はない。時が来ればいずれこの故郷によく似た環境の寮を統治するだけの地位を得ようとも思っていた。
でも、望まない"第二王子"などという薄っぺらで何の価値もない言葉で憧憬や嫉妬の眼差しを受けることには早い段階からウンザリしていた。
ああ、ここでも"同じ"なのか。
故郷に自分の居場所はなかった。あと少し早く生まれることさえできていれば、俺の意見はもう少し尊重されただろうに。兄弟なんていなければ、俺の行動はもう少し価値あるものと認められただろうに。
二番目に生まれたというそれだけで、俺は人権を失ったとすらいえる状況に追い込まれていた。
だからNRCへの入学は良い気晴らしになると思った。そこがあくまで狭い敷地に囲われた狭い世界でしかないことはわかっている。それでも、あの息苦しい王宮から離れることさえできるのなら、そして新天地で頂点を取ることができるのなら、きっと俺は渇望していた"崖の上からの景色"を一瞬でも見渡すことができると思っていた。俺の前に獣どもが揃って頭を垂れている姿。疑似的なものだとしたって、学生のお遊びの範疇を越えていないと言われたって、一度はそんな権威の象徴を肌で感じてみたかったのだ。
だというのに。
周りから向けられる視線は故郷で受けていたものと何も変わらなかった。
腫れ物を扱うようかのような態度。"恐ろしい魔法を使う野蛮な獣"と揶揄する声。今度こそはと本物の弱肉強食の世界を、完全な実力主義の世界を期待していたのに、"協調を前提とした秩序ある統治"を掲げていた当時の寮長の姿はまるで兄の影を見せてくるようで────吐き気がした。
実力で黙らせようと思ったことがないわけじゃない。
どれだけ年の差があろうが、魔法士としての経験があろうが、客観的かつ冷静に分析した上で俺は"いつでもこいつに勝てる"と判断していた。
でも────それは、そいつを取り巻く半数以上の寮生の方が許してはくれなかった。
前寮長への敬意に溢れた賞賛。"第二王子だからって下級生が調子に乗りやがって"という野次。
こんな場所で王の座を奪ったところで、意味がない。
挑む前にその事実を理解したのは、他でもない息苦しい故郷で似たような事実を思い知らされたからだ。
どれだけ正当に自分の実力を示しても、"人望"などという曖昧な動機のせいで、俺の行動は全て否定されてきた。どれだけうまく証拠を隠蔽して姑息に兄を殺そうとしたところで、"ファレナ様は歴代最高の王となるだろう"という噂を聞いた瞬間そのカリスマ性が失われることは永遠にないと悟った。
あそこで俺が真の王になることは、できなかった。
だから、きっとここでも同じことが起こる。
唯一許された"決闘"という形で正当に寮長の座を勝ち取っても、周りがそれを良しとしないだろう。難癖をつけられ、何かルール違反をしたのではないかと、あるいは王家の出という肩書きを利用したのではないかと、ありもしない不正の証拠をあげつらわれるのだろう。例え形式的に王になろうと、3年生である今の寮長が卒業するまで、こいつらは絶対に俺には従わない。望んだ崖の上からの景色は、拝めない。
────なんだ、どこへ行っても結局同じか。
強い者が治める国の方が強くなるに決まっているだろう。
生まれた順番や場所など関係ない。力のある者が正義であるべきだ。
自分より弱い者にへつらう必要などない。仲良しごっこなんて見ていて滑稽になるだけじゃないか。
調和だとか協力だとか、そんな温くて脆い群れに何ができる。"気持ち"だけで、どうして国を治めることができる。
必要なのは圧倒的な"力"の方だろう。統治とは明確な主従関係という導線が引かれて初めて成り立つものだ。どれだけ群れの中で諍いが起きようとも、どれだけ他の国に攻められようとも、そこに絶対的な知能と剛腕を持った"王"がいるだけで、平民は等しく優秀な駒となることができる。
客観的な事実として、自分が周りの凡夫より優れた素質を持っていることは理解している。
だが、世間はそんなにわかりやすく構成されていなかった。
世間が求めていたのは正しき"支配"の方ではなく、その馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない"調和"の方だったのだ。
不屈の精神を掲げる寮が聞いて呆れる。
結局ここもお行儀が良いだけの明るい公園かよ。
新しい環境に早々に失望した俺は、大した努力をすることもなく、よく授業をサボッては植物園の木々に囲まれた人気のないスペースで昼寝ばかりするようになっていた。
どうせ同じなら、もうどうなっても良い。
テストでも授業でも勝手にやってろ。どうせそんな場所でアピールしたところで全部無駄になるだけなんだから、こっちだってそんな労力を割くことに価値を置こうとは思わねえよ。
そう思い、ある日いつものように植物園へ足を運ぶと────
いつものスペースに、先客がいた。
その時の光景を、おそらく俺はこの先ずっと忘れないだろう。
ガラスの窓を大きく開け放ち、秋晴れの温かい太陽の日差しが差し込む中。
その"女"は、涼しい風に胸元まで伸びた長い艶やかな髪を靡かせながら、タバコを吸っていた。
手入れの行き届いた爪。細い指先に毒を挟み、眩しそうに長い睫毛の隙間で眼を細めては、赤いルージュに染められた形の良い唇の隙間から白い煙を吐き出す彼女。
それはまるで、現代絵画を見ているかのような幻想的な光景だった。
しかしその時間は一瞬で終わった。彼女は俺に気づくなり「マジか」と粗雑な言葉を吐き、急いでタバコの火を靴の裏でもみ消した。足元の、僅かに水が残ったペットボトルに突っ込んでタバコを消化させると、そのペットボトルすら自分の背後に隠す。
「…君、1年のキングスカラーでしょ。授業時間に何してんの。今はここで行われてる授業はないよ」
私服の上から白衣を着ている点、男子校に女がいる点、見た目の大人っぽさ、それらを踏まえて、彼女が"ここの教師"であると推察する。
「センセーこそ良いのかよ、こんなとこで校務サボった挙句タバコなんか吸ってて。植物園で大火事が起きたらさぞ面白いだろうなぁ?」
「私は立派な校務中だから良いんだよ。灰も煙も全部外に出してるし、そもそもタバコの不始末で火事起こすような奴に喫煙する資格はないね」
さっきまでの美を体現したような姿はどこへやら、彼女は予想していたより低い声でがさつな口調のまま吐き捨てるようにそう言った。
聞けば、彼女は魔法薬学の教師とのことだった。うちの植物園の管理人がする仕事は杜撰だからと、こうして定期的に自ら植物の世話をしているらしい。
「ったく、滝壺草にやる水は硬水に限られるって散々言ったのに…」
軟水でもかけられたのだろう、萎れている葉の根元を優しく持ち上げて、今更仕事してますアピールをされた。
「暇ならちょっと手伝ってくんない? 水やりの方法を間違えた後ってケアが面倒なんだよね。水の硬度を変える魔法をかけなきゃいけないから」
「は? なんで俺がそんなことしなきゃいけねえんだよ」
「別に昼寝ぶっこいてくれても良いけど、後で君の時間割調べて担当の先生にチクるよ。キングスカラー君はしょっちゅうここで昼寝してまーすって」
「しょっちゅうじゃねえよ、たまたまだ」
「ダウト。私知ってるんだからね、結構な頻度で君がここに来てるの。いつもここに来るとね、君くらいの背丈の子がちょうど寝そべったくらいのスペース分、土の硬さが若干変わってるんだよ」
サボりを咎めるどころか生徒にこうも堂々と脅しをかけてくるとは、まったくこの学園は…生徒が生徒なら教師も教師だ。
仕方なく、しゃがみこんでは丁寧にひとつひとつの葉に魔法をかける彼女の傍らで、適当に立ったまま広範囲に魔法をかける。
「つーかこんなこと生徒に手伝わせて良いのかよ。この魔法、本来かなり高度なもんだろ。俺なんかにやらせて余計後始末が面倒になっても知らねえぞ」
「ああうん、その辺は信頼してるから大丈夫。水の硬度を変える魔法って言っても顔色一つ変えない奴はその難易度もちゃんと理解してるはずだからね。事実、今君のかけてる魔法はかなり雑なせいで弱いけど、まあちゃんと花が咲くくらいにはリカバリーできてる。助かってるよ」
ヘルプを求められた時は、本来3年生に上がった頃にようやく教わるはずのその魔法を1年生にやらせようとする彼女の頭が本気でイカれてるんじゃないかと思った。だがそこは流石教師と言うべきか、些細な言動から的確にこちらの本質を見抜いていたらしい。
"王家の出身って言うからてっきりもっと頭良いんだと思ってたわ"
手を抜いた小テストの結果を見ては、そう陰で噂されていた。
"寮長になりたい? まだ魔法もロクに使えない1年坊主に務まるかよ"
まだ全てを諦める前、自分より劣っている上級生に何も見ないままそう貶された。
────そんな俺にとって、あるがままを当たり前に受け入れる彼女の言葉は…ほんの少しだけ、異質なものに聞こえた。
一通り滝壺草の手直しをしたところで、彼女は立ち上がり大きく背中を腕を伸ばした。
「あー疲れた。一服しよ」
そしてまた、胸ポケットからタバコを出して火を点ける。
「くせぇ」
「獣人にはキツいだろうね。嫌なら授業戻れば?」
「ここまで手伝わせておいて礼もなしかよ」
「サボりを黙っていてあげてるのが十分な対価でしょうが。まあ私は君ら生徒がどんだけ優秀だろうが落ちこぼれてようがどうでも良いけど、処世術として世の常識を知っておくくらいは良いんじゃない? ねえ、オウジサマ」
それがただの挑発ということはわかっていたが、どうしてもそれを言われると苛立ってしまう。俺の顔が険しくなったのがわかったのだろうか、彼女はそれを見てケラケラと笑っていた。
NRCに入ってからこの方、幸いにも胸焼けするほどの善人はほとんど見たことがなかった(その少数派の中にうちの寮長がいることだけが皮肉なのだが)。
でも、そんな中でも教師陣はすべからく一定の秩序を保っていた。当然だ、人に物を教える立場の人間に秩序が備わっていないわけがない。
だというのに、目の前の女は教師だとちゃんと自己紹介をされてもなお信じられないくらい、秩序というものを持ち合わせていなかった。生徒の成績なんてどうでも良いと公言し、"教師らしい"姿を取り繕おうとさえしない。植物と向き合っている時だけは真剣な眼差しをしていたが、俺を見る彼女の表情はずっとただの"クソガキ"を見る余裕に満ちた半笑いのままだった。
教師の中にも喫煙者がいることは染みついた悪臭の残り香から察してはいたが、こうも堂々と吸っている姿を見たのは初めてだ。それが鼻の利く俺ら獣人の前となると、尚更のこと。しかもそいつは、俺が王家の出身と知っているのに全く臆する様子がない。"クソガキ"を見るようにナメた態度を取るくせに、上級魔法を平気で使わせてくる。
「暇になったらまたおいで、いつでも手伝わせてあげるから」
レオナ・キングスカラーという"個人"として接せられるのは、初めてのことだった。
翌日、流石に連日はいないだろうと踏んで再び植物園へ赴くと────予想は外れ、またそこに彼女の姿を見てしまった。昨日と同じ、窓際でタバコをうまそうに吸っている姿。でも今日はもう、それを絵画のようだとは喩えられなかった。
中身がアレだと知った後じゃ、表面的にはどれだけ美しい絵画でも台無しだ。
「サボるの好きだね〜」
彼女はもはや俺が姿を見せてもタバコを隠そうとしなかった。平気な顔で煙を吐き出しながら、その隙間で笑い声を混ぜてくる。
「今日は何してんだよ」
「新種の薔薇の改良です」
ほら、と言われて指示された方を見ると、花弁ごとに色の異なった仰々しい薔薇の花が咲いていた。
「…嫌に人工的だな、目が痛え」
「まあこれは通過点だから仕方ない。本来の目的は薔薇っていう専ら観賞用にばかり使われる花に、より実用性を持たせることなんだよ」
「…実用性?」
「うん。傷口を塞ぐ薬草にしたり、それこそ花弁1枚で致死量になる猛毒にしたり、色々ね。しかもそれを花弁ごとに用途を分けられるようになったら良いなって。ほら、薔薇って花弁の数多いから」
なるほど、色分けは"花弁を1枚1枚独立した用途で用いることができるか"という実験における初期段階というわけだ。匂いや味で判断させるより、(かなりケバいことには違いないが)視覚的に区分けした方が一目で結果が判明すると考えたその判断は適切だろう。
「んで? いつかはそれを授業で使おうって?」
「はあ? そんなもったいないことするわけないじゃん」
本気で意味がわからないという様子で言われてしまい、思わず言葉に詰まる。
「これは趣味です。やる気のないクソガキどもには教科書に載ってる先人の知恵を最低限授ければそれで良いんだよ。現に君みたいに既にその辺り習得してる子はこうやって未知のものに自分から興味を持ってくれるでしょ。そういう子になら私だって喜んで何でも教えるけど、本来何より奥深いはずの魔法薬学のつまんない初歩だけを教えるなんて面倒でしかないね」
「はっ、だったら教師なんかならなきゃ良かったじゃねえか」
喉から乾いた笑い声が漏れた。
昨日会った時から思っていた。この女はどう見ても教師向きじゃない。植物研究者なりなんなり、薬草や毒草と一日中真剣に向き合い続けられる職の方が余程性に合っているのだろう。
良いじゃねえか、お前は自由なはずなんだから。
わざわざ教師なんて道に進まずとも、良くも悪くも無名なお前はどんな場所だって選べたはずだろ。
しかし、俺がそんな皮肉を混ぜてそう言った瞬間、彼女の笑顔が強張った。
────?
「私だってなりたくなかったさ」
さっきまで吸っていたタバコを根元まで燃やし尽くした後、すぐにまた新しい1本に火を点ける。俺が顔をしかめたところでお構いなしだ。
「────でも、教師にしかなれなかったんだよ」
発言の意図を、読みかねる。
黙っている俺を見てその疑問は伝わったらしい、彼女はまた声を上げて笑ったが、それは俺以上に乾いていて────ひどく自嘲的だった。
「流石の君もこれは知らなかったか。お察しの通り私は教師じゃなく、専門の研究者になりたかったんだ。でもね────今の植物学者の権威ってみんな男なんだ。ここまで言えば、なんとなく想像つく?」
その"違和感"は故郷を離れた時にすぐ気づいたから、彼女の言いたいこともそこまで聞けば十分に理解できた。
この地域は、男尊女卑の分化が根強い。
夕焼けの草原ではむしろ女性の方が尊重されていた。そこには力が弱くとも命を生み出すことができる貴重な女性という存在を力だけは強い男性が全力で守るべき、という敬意の意味もあったし、ライオンの性質を持つ女獣人なんかは単純に男より力の面でも勝っていたのでそういった畏怖の意味もあった。理由はどうあれ、俺達は女性を尊重しろと教え育てられてきていたのだ。
ところが、こちらに来てみればそんな風潮は全くなかった。
NRCが良い例だ。エリートを養成するというこの学校は男子校。では近くに同じようにエリートを輩出すべく創られた女子校があるかと言われれば、そんなことはない。
この地域の権力者は皆男だ。女性を意識的に排他しているとまでは言わない、が、例えば同じ素質を持ち同じ意欲を持っている男女がいたとしたら、男の方が選ばれるだろうと自然に思わせてくるような。
自分が女性優位の社会で生きていたから違和感を持っていただけかと思っていたが、彼女のこの様子を見るに、きっと自分が思っていたより性別による格差は客観的な事実として存在しているのだろう。
それこそ、彼女の未来を閉ざしてしまうほどに。
「どんだけ良い論文作ってもさ、どんだけ新しい発見をしてもさ、取り合ってもらえないわけ。ようやくマトモに認められたかと思ったら、最後にちょっと論文の書き方だけアドバイスしてきた男の名前でそれが公表されたりとかね。馬鹿みたいじゃない? だったら自分の好きなことを好きなだけやって、合間にクソガキどもの相手しながら生活してく方がよっぽどマシなのよ。わかる?」
生まれだけで判断されて、実力を評価されない。
努力が全て砂塵へと帰してしまう。
「────ああ、わかるよ」
同じだ。
彼女と自分は、同じなんだ。
自由なんかじゃなかった。選ぶ余地なんてなかった。
諦めた方が遥かに早いと思うほど────それだけの無駄な時間を、努力などというあまりに惨めな方法で費やしてしまった。
その共感は、本心から出た声だった。彼女は2本目のタバコを消し、口の端だけで笑う。
「ふっ、そう言うと思った」
王子という輝かしい肩書きを持っていながら、それを言われる度に不機嫌そうにしていた俺。
隠し切れない野心の中に、どこか諦めたような雰囲気を持っている俺。
彼女は、たった二度しか機会のなかった俺との会話の中で、そんなことまで見抜いていたらしい。
「だから私も話したんだ。残念ながら私と君は境遇が似てるようだからね」
言いながら、3本目のタバコに火を点ける。その頃にはもう、すっかり鼻は麻痺していた。
「笑えるな。未来ある学生に諦めの成れの果てをそんなに堂々と見せつけてくれるなんてよ」
「逆、逆。未来があるから言ったんだよ。成れの果てを見せたいんじゃなくて、反面教師にしてほしいの」
「…は?」
俺の気の抜けた問いにまず帰って来たのは、吐息と共に長く細く伸びる白い煙だった。
彼女は気怠げな表情のまま、その薄い目で俺のことをまっすぐに見ていた。
「君はまだ若い。この学園に入ってからだってまだ半年も経っていない。やれるだけの手を尽くした結果諦めることしかできなかった私に共感するなんて、10年早い」
突然始まった説教に、返す言葉を見つけられなかった。
若いからなんだって言うんだ。時間さえあればなんとかできる問題だとでも思っているのか。生まれた時から将来が決まっているその絶望を知っている彼女からそんな"一般論"が出てくるなんて思っていなかっただけに、情けなくもつい面食らってしまう。
「君はどうやら、まだサバナクローの"不屈の精神"を本質的に理解していないようだね。諦める前に、本当に自分の居場所を確立させる術を模索しきったと言える? 実力をアピールするだけが努力じゃないって理解した上で、本当に努力したと言える?」
何を言っているんだ。
自分が生きる場所なんて、とっくに探し尽くしたに決まってるだろ。
努力なんて、それこそ無駄だと言い切れてしまうほどしたに決まってるだろ。
俺と似ていると認めるなら、そんな過去の無様な足掻きようなんてそれこそお前の方がよく知ってるんじゃねえのかよ。
「もう少し賢いと思ったんだけどなあ…」
俺の反抗的な表情から言いたいことは察したのだろう。彼女はタバコに口付けながら、溜息とも煙を吐き出しただけとも取れる長い息をついた。
「遠回しに言っても伝わらないようだからもう少し噛み砕いて言おう。申し訳ないけど私は君の故郷を知らないから実家の問題にまでは口出しができない…ただ、君の寮内の様子を見る限り、君は自分の置かれた状況をまだ適切に利用できていないように思う。なるほど今の寮長はカリスマ性に優れているんだろうさ。でも、それに本心からの忠誠を約束している人間は一体どれだけいると思う?」
言われてからようやく、俺の頭も回り出す。
彼女の言わんとしていることをハッキリと言われて初めて、俺はその問いが意味するところを掴んだ。
「…言葉の上でなら半数超。ただ本心からついて行ってるのはおそらく副寮長含めた数人程度…」
「私は誰かを従えようと思ったことはないから、これはクソガキどもを長年見て思ったただの憶測だけど…求心力だけで組織を統率してきた集団とは得てして絶対的な実力差の前にはあまりに脆弱すぎる。しかもそのカリスマ性に心から共感している人間が少ないなら尚更だ。人間とはとかく、"雰囲気"に流されがちなものだからね。"今の寮長が良い人だから"。"それを信じてついて行ってる人がいるから"。そんな曖昧な理由だけで同調しているガキはきっと君が思っている以上に多いことだろうさ」
なるほど、俺に未来があると言ったのは────まだ結果をひっくり返せるだけの時間があると伝えてきたのは────そういう理由か。
「さぞや面白いだろうね。"調和による統治"を掲げていた優しい王の前で、そんな彼に自ら進んでついて行っていたはずのみんなを"絶対的支配による統治"を掲げる自分の前に跪かせる光景は」
ああ、そうだな。
それはとても爽快で、愉快で、そして────満ち足りた気持ちになるんだろうな。
まさかこんな閉塞的と思っていた状況下で、こんな堕落した人間から解決の糸口を与えられることになるとは。答えが見えた瞬間、俺の視界は一気にクリアになったような気がした。心なしか、彼女の笑みも少しだけ深まっている気がする。
「…お前、意外と教師向いてんじゃねえの」
「はは、1年坊主ひとりを贔屓して偉大なる寮長サマを蹴落とせって言う奴に教師が務まってたまるか。私はただ、実力のある若造が"諦め"を早々に受け入れたことにムカついただけさ」
そうだ、俺はもっと早くにこの可能性に気づくべきだった。
最初から寮長の求心力が全員に浸透しているわけではないことはわかっていた。
まだ自分にやれることがあることを、そしてそのための時間がまだ十分残っていることを、無意識のうちにとはいえ理解していたはずだった。
でも諦めてしまったのは────そうだな、彼女の言う通り、俺は"諦め"を早くに知りすぎてしまったんだろう。
どうしたって生まれを変えられないのは事実だ。国に戻れば俺はまた人権のない"第二王子"というお飾りに戻るだけ。こんな狭い世界で一時の王座に就いたところで、結局それは"学生のお遊び"の範疇を超えられず、卒業した瞬間何の意味も持たなくなってしまう。
でも、本来俺が目指していたのはそんな無理でさえ覆す未来だった。国王という名がなくとも、それに比肩するだけの尊敬を集め、実力のある者が等しく評価される世界だった。
だというなら、まずはこの小さい国の小さい寮を統べる必要がある。お遊びでさえ頂点を取れない者に、本物の政治で権力を手にできるわけがないのだから。
まずは寮長を特別慕っている様子のなかった"残りの半分"を傘下に入れる必要がある。実力で従わせても良いし、姑息な手段を用いそれこそカリスマという姿を演出しても良いだろう。
それから、雰囲気で流される奴らをこっちへ引き入れる。どうせ元々雰囲気だけで付き従っていただけの中身のない奴らだ。派閥が出来、どうやらこちらの方が強そうだと思えばこちら側につくのも時間の問題。
そうしたら、最後に寮長の信頼を貶める。方法はなんだって良い。ルールに則って決闘を申し込んだって良いし、ああ、何か悪事に手を染めさせて失墜させるのも面白そうだ。
「…良いね。急に輝き出したよ、君の表情。いやあ若いなあ、1年生は本当に」
「はん、年増の説教にしちゃまあまあ良いこと言うじゃねえか」
「夕焼けの草原の人って女性を大事にしてくれるんじゃなかったの…私まだ30歳なんですけど…」
────それから、俺の計画は静かに動き出した。
順位が公表されるテストだけは真面目に受ける。他学年との合同授業には最低限出る。時には知略を巡らせ、時には暴力に訴え、俺は着実に自分の地位を築き上げていった。
春の終わり頃には、"レオナ・キングスカラー"という"個人の名"が学園中に知れ渡るようになっていた。
「ああ、久しぶり。最近来てくれないから遂に全部の授業にちゃんと出始めちゃったのかと思ってたよ」
「…お前、本当に教師か?」
この数ヶ月、彼女との会話の機会は二週に一回程度になっていた。彼女とて毎日植物園の管理をしているわけではない。教師としての仕事は真面目にこなし(本人がそう言っているだけなので甚だ疑わしいが)、こうして時折ここまで足を運んでは新たな実験を楽しんでいるのだそうだ。今もいつものタバコを吸いながら、しゃがんで月見草の様子を調べている。
「どう、下克上作戦は」
「そろそろ完成だ。寮内の獣は粗方こっちについた。あとは週末辺りにあの能天気な寮長を正当に決闘で捻じ伏せるだけだな」
「お、そこは正攻法で行くんだ」
「そりゃそうだろ。寮内の掌握は済んだとはいえ、まだ他寮へのアピールが足りてねえ。寮長の座を賭けて正攻法で挑み勝利した、って実績はそれにうってつけだ」
「ふーん、賢いね」
さして関心のなさそうな声で言いながら、彼女は咥えていたタバコを唐突に草の葉に押し付けた。植物を大事にしている彼女らしくない、と一瞬思ったが、葉は燃えることなく逆に火の方を消してしまった。
「今ね、燃えない草を開発中なの。元々の性質として燃えない植物はあるけど、これみたいに本来だったら普通に火に負けるはずの植物を燃やさずに済む育て方を探ってたんだ」
訊いてもいないのにペラペラと喋ってくる。二度目に説教を食らって以来、いつも彼女はこんな調子だった。
きっとあの日は本当に俺の諦念に苛立っていただけなのだろう。彼女の心に留まれるのは、この感情も言葉もない植物たちだけだ。
「…ふうん、じゃあ今のは成功じゃねえか」
「ね。ちょっとドキドキしたけどちゃんと火が消えてくれて良かった」
言いながら、新しいタバコに火を点ける。本当にこのチェーンスモーカーぶりはどうにかならないのかと毎度思うが、苦言を呈するより先に鼻が機能しなくなる方が早かったので、いつも俺は何も言わないままでいた。
「そういえば君、最近は私が目の前で煙吹きかけても嫌な顔しなくなったね」
「もうこれがお前の臭いだって体の方が覚えちまったんだよ」
「え、不名誉。絶対悪臭じゃん。なんかこう、カメリアの匂いみたいな人になりたい」
「じゃあまずそのがさつな喋り方とタバコをやめるんだな」
「喋り方までですか」
カメリアの匂いは流石に無理があるだろうと思っていたが、俺の心には未だ初めて彼女を見た時の"絵画のようだ"という感想が残っている。何かに憂いているような眼差しと、タバコを繊細に挟む細くて白い指先は、不本意ながら何度見ても未だに美しいと思わされる。
これで口を開かなければ、あと植物にばっかりかまけてなければ、男どもも黙っちゃいないだろうに。いや、でも彼女は別にそんなことは望んでいないのか。
植物にだけ向き合って、そのためだけに生きている女。
こんなに(植物に関しては)真摯で、こんなに(植物に対しては)愛を持っているのに、その姿勢が評価されない世には今も若干腹立たしいと感じてしまう。
自分のことさえまだどうにもできていない俺が彼女に掛ける言葉などとても思いつけそうにはなかったが────それでも、まずは"どうにかする"その第一歩を踏み出せた時くらいは、ちゃんとこのまとまらない言葉の一部だけでも伝えてみようか。
────そして、来たる一週間後。
「おめでとう、レオナ寮長」
相変わらずこちらを見もしない彼女は、足音で俺の気配を察知し、いい加減な声色でいい加減な祝いの言葉を投げてきた。
俺は昨日、正式に"前"寮長に決闘を申し込んだ。
入学したばかりの頃、俺の隠し切れていなかった野心を見咎めた寮生は今や、全員俺の後ろについていた。肩書きに持ち上げられて驕っていると揶揄していた側近ですら、その挑戦を受ける寮長を冷めた目で見ていた。
力量差は歴然だった。
数分も要さず相手を戦闘不能に陥れた俺は、その日人生で初めて喝采を浴びた。
その時の、前寮長の顔といったら────あれはケッサクだったな。
知らない間に味方を絡め取られていた絶望、下級生に負けたという傷ついたプライド、正義と思っていた"調和"を"支配"によって裏切られた悲しみ────全身を負の感情でいっぱいにして、涙目になりながら蹲って俺を見上げていた。
「どう、気分良い?」
「ああ、最高だな」
崖の上から見る景色はこんなにも見晴らしが良かったのか。全員が平伏している。全員が俺を認め、尊敬している。
俺が俺でいられる居場所を探す、その第一歩。
まずは大きなスタートを切れたことで、俺は久しく抱くことのなかった爽快感が胸に湧くのを心地良い気持ちで感じていた。
「これで君の実力は初めて正当に評価されたわけだ。なぜか私もちょっと報われた気になったよ、ありがとう」
「────だったらお前も、ちゃんと自分自身を正当に評価させろよ」
少し躊躇った上でそう言うと、彼女は怪訝そうな顔をしてこちらに目を向けた。
"どうにかする"その第一歩を踏み出せたら、ちゃんとこのまとまらない言葉の一部だけでも伝えてみよう────。
先日そう思った結果吐き出したこの言葉は、彼女自身にも報われてほしいという願いから生まれたものだった。
何も助言を与えられた恩を返す、なんてそんなサムいことを言うつもりじゃない。
ただ、実力がある者は正当に認められるべきだという、あの時の彼女の気持ちに共感したから。あの時"諦めた顔をしている若造を見ているとムカつく"と言った彼女に、今俺が同じ思いを抱いていたから。
「いや、もう無理だよ。言ったでしょ、何度も論文を出したって。何度も研究者としての地位を与えてほしいと願い出たって」
「同じことを言おうとした俺に発破かけたのはそのお前だけどな」
「だから、それは君にはまだ十分な時間があったからそう言っただけだって」
「30歳のうら若き乙女だって自称してたのはどこのどいつだよ」
「そこまでは言ってません」
嫌がらせのように、タバコの煙を顔に掛けられる。
でももうその臭いには、すっかり慣れてしまった。
その臭いは、いつか俺が言った言葉通り、"彼女の匂い"と認識されるようになった。
それをもう、悪臭だとは思わなくなっていた。
「この期間中、片手間で植物学者の界隈の現状についても調べた」
「…は?」
「いたじゃねえか。女性にも同じだけ発言の機会を与えるべきだって言ってる新進気鋭の学者。まずはそいつとコネクションなりなんなり作ってデモでもやれよ。悪名だろうがなんだろうが、お前の発言に影響力さえ持たせることができれば、あとはお前の言う専門的な話だって嫌でも"お偉いさん"の耳にも入るようになるだろ」
「何それ、私が知る限りそんな人なんていなかったけど」
「言ったろ、新進気鋭の学者だって。おそらくお前が"諦めた後"に学者としてある程度の地位を手に入れた奴なんだろうな」
"早々に諦めを知った"ことが仇となっているのは何も俺だけじゃなかった。
彼女もまた、まだ心を燃やせるうちに諦めを知ってしまい、そして未来を自ら閉ざしてしまったのだ。
「時間はまだ十分あるんだろ。年増って言われたくなかったらせいぜい時代の動きにくらいはしがみついて行くんだな」
彼女はぽとりとタバコを取り落とした。彼女が生み出した"燃えない植物"が、それを弾いて一瞬で火を消す。
自分にもまだチャンスがある。諦めきって"趣味にする"と無理やり割り切ったその夢がようやく現実的なものになる可能性を覗かせたと知った彼女は、さぞや驚いたことだろう。深い溜息をつきながらも同時に笑う彼女の心中は、まだいくつもの感情を混在させる複雑なものになっているに違いない。
ただひとつ確かなことがあるとするなら、その笑みはいつもの皮肉混じりではない────純粋な少女のような笑顔だった。
「ははは………はあ……まさか生徒に何か教わる日が来るとはなあ…」
「俺はお前のこと教師だと思ったことないけどな」
「嫌味を言わないと気が済まないのか」と言う彼女の笑みは、それでもいつもよりずっと楽しげだった。
ああ…あの日活路を見出した俺を見て"急に輝き出した"と言った彼女は、あの時こんな気持ちだったのか…。
別に、恩を返すつもりなんかじゃない。
でも、借りを返すくらいの気持ちなら、確かにあった。
────そうして1年後、彼女は学校を辞めることになった。
植物学者の権威を目指し研究に専念するためだ、と言っていた。
「だから君に会うのも今日が最後。きっと来てくれるんじゃないかと思ってたよ」
そう言う彼女は、いつものように大きく開け放たれた窓際でタバコを吸っていた。
彼女がいるだろうと思った上であえて足を運んだのは、これが初めてのことだった。
何か言いたいことがあったわけじゃない。何かをしたかったわけじゃない。
ただ、俺が俺自身の力以外で唯一この地位を築くために一役買ってくれた人間がいるとしたら────それは、彼女しかいないと思った。
だから、最後にその顔くらいは見ておきたかったのだ。
途方もない野望を抱えて、大きなスタートを切った"同類"の顔を。
「最近またサボりがちだって他の先生達が困ってたよ。これじゃいよいよ留年させられるんじゃない?」
「別に構いやしねえよ。子供の遊び場とは思っていたが、王座ってのはどうにも居心地が良くてな。また人権のない故郷に帰る前にちょっとくらい浸っても誰も咎めねえだろ」
「いやいやみんな咎める気満々ですから」
いつも通り、靴裏で火を消した短いタバコを、少量水の入ったペットボトルに入れる。
「まあでも、よくこの1年半こんな煙たいところに通ったよね」
「これはカメリアの匂いなんだろ? 王宮の周りにはにはカメリアなんざ咲いてなかったからな。良いこと教えてもらったぜ」
「このクソガキが…いつかタバコの臭いがするカメリアを開発してやる…」
向かう先はそこなのかよ、と思わず笑うと同時に、少しだけ…本当に、ほんの少しだけ…この匂いが鼻をバカにする日はもう来なくなるのか、とそのことを寂しく思う。
「もし完成したら真っ先に夕焼けの草原に送り付けるから。だから…はい、これ持って、ちゃんと臭いを覚えておいてね」
テロリストのようなことをさらっと言いながら、彼女は胸ポケットから────タバコの箱を、俺に向かって差し出した。仮にも生徒にタバコを渡すなんて、言葉に負けず劣らずなテロ行為をかましてきやがる。
「……こんな劇物を部屋に置いておけと?」
「気付け薬と言ってくれないかな」
冗談めかした口調だったが、彼女の表情は珍しく優しかった。
クソガキを見る目じゃない、諦めていた俺に腹を立てていたあの目ですらもない。
「…また諦めそうになった時、これを見たら思い出してくれるでしょ。私も頑張るから、君も本来の目的に向かってまだ頑張り続けてね」
それは、互いに果てしない夢を思い描く"対等な立場"の者を見る目つきだった。
「…………」
狡い女。
今まで散々関心のない素振りを見せておきながら、最後の最後でこんなものを遺していくなんて。
会話らしい会話をしたのなんてそれこそ最初の2回だけ。
あとはずっと、乾いた関係しか築いてこなかったのに。
俺にはまだやらなければならないことが沢山ある。
覚えなければならないものがもっと他にもある。
だからこんな何の生産性もない時間なんて、真っ先に忘れるべきなんだ。
というのに────これじゃまるで"私を忘れないで"とでも言われているみたいじゃねえか。
「────代わりに捨てとくくらいならやってやるよ」
「え、まだ2本残ってるんですけど」
「俺が吸うとでも思うのか?」
「大人になるとね…ニコチンを摂取しないとやってられない時が来るんだよ…」
「獣人の鼻バカにしてんのか」
────なあ、お前はそんな縋るような真似を、あくまで平然とした顔を装ってやらかしてくるけどさ。
言われなくても、俺はきっとお前のことを一生忘れられないだろうよ。
「────いや、適当にその辺しまっとけ」
今にもタバコの箱をゴミ箱に突っ込みそうなラギーを制すると、あからさまに嫌そうな顔をされた。
「この臭いホントきっついんスけど…。ったく、こんなもん肺に入れる人間の気がしれねえッスよ…そしてこんなもんをわざわざ取っとくレオナさんの気も全く理解できない…。捨てるなって言うなら従いますけど、引き出しの奥の奥の方にしまっちゃいますからね」
「おう」
「うわ指に臭いついた…あ、てか知ってます? なんか今実家の方でもタバコの激臭のする花が咲いたとか言って騒ぎになってるらしいんスよ。余程近づかなきゃわかんないから最近まで気づかれなかったらしいんスけど、花好きの女の子が近寄って嗅いだら鼻が曲がったって怒ってたらしいッス。いよいよ夕焼けの草原でも環境汚染が始まったんスかね」
「逆じゃねえの」
「え?」
「その花、カメリアだろ?」
「うわ、流石耳が早い。別に花自体がどうとかじゃなくて、ほんとにどっからどう見ても純然で健康なカメリアなのに臭いだけタバコそっくりなんですって。こんなんマジで前代未聞過ぎて何が起きたんだって親戚みんな心配してるんスよ」
「心配すんなっつっとけ。どうせそれ、マッドな"植物学者の権威"が真剣に作った新しい品種のカメリアだろうから、少なくとも環境に害は及ぼさねえよ」
「へえ、レオナさん詳しいんスね。魔法薬学、そんな得意でしたっけ?」
「………さあな」
タバコの箱は結局ラギーの宣言通り、デスクの一番下の引き出しの奥の奥にしまいこまれた。その時、一瞬だけこの獣の鼻がその匂いを敏感に捉える。
────ああ、久しぶりに嗅いだな、この"カメリア"の匂いを。
この話、「もし監督生が女の子だったらお手洗いどうしてるんだろう…あ、もしかして教師の中には女の人もいて一応女子トイレも設備としてはあるのかな?」って深夜に真剣に考えた末生まれた話なんです、実は。
もちろんタバコを絡めた話を書きたいとか、教師との恋愛未満な話を書きたいとか、いろいろ溜めていたものはあったんですが。まさかこんな方向に進むとは思っていませんでした。
レオナは先生に恋をしていましたが(自覚はしていながら認めていなかった)、先生は多分…まだ16、7歳だった彼のことを子供としか思っていなかったでしょうね。植物にしか興味ないですし。レオナに対しては単純に過去の自分と重ねて諦めて欲しくないって願っていただけです。ただ、"なんでもない時間"を繰り返すうち、希望を託した子供が夢の一端を実現させていく様を見るうち、そこそこ特別な感情は芽生えていたことと思います。
まあレオナも学生とはいえ成人したんで、そろそろ先生を迎えに行っても良い年頃かもしれませんね。まず卒業はしてほしいんですが。
ちなみにレオナの頭の回りが鈍いのは当時彼がまだ1、2年生で若かったからです。
決して私の頭では彼の賢さを表現しきれなかったというわけでは…わけでは……あります。ごめんなさい。
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