その憐憫は、慈悲より先に。



※3章直後







「あなたは良いですね、悩みごとがなさそうで」

ラウンジでのバイト終わり、程良い忙しさのお陰で程良い疲労感に包まれながら元気良く退勤の挨拶をしたら、バックオフィスで山のように積まれた書類の隙間からそんな恨めしそうな声が聞こえた。

うーん…アズール先輩、今日は相当機嫌が悪そうだ。余裕のありそうな日があれば賃金アップの交渉をしようと思っていたが、この様子ではしばらくそんな機会もないだろう。

自分に向けられた棘のある言葉が相当な失礼にあたることはわかっていたが、だからといって私がそこで傷つくようなことはなかった。だって確かに、学生の身分からは考えられないほどのタスクをひとりで全てこなしてしまうこの人の前では、私の「明日のテスト不安だな〜」とか「グリムにたまにはツナ缶以外の栄養を与えないとな〜」とか、そんな能天気な悩みなんて確かに些末なものでしかないのだから。

「アズール先輩は今何に悩んでるんですか?」
「外部へのコネクションを作ろうとしているのに、誰もが僕が学生だからというだけで取り合おうとすらしないことです。肩書きに囚われて実力を見ようともしない愚かな人間との取引なんてこちらから願い下げと言いたいのですが、いかんせん学内のネットワークだけでは僕の描くビジネスモデルを実現するには限界があるので。こちらも陸海両方で挙げてきた実績は愚鈍な陸の人間にも十分わかりやすく伝わるようアピールしているのですが、どうしても足元を見られるんですよ。全く、腹立たしいことこの上ないです」

よくもまあ…ここまで口が回るものだ。
基本的に自分の悩みだとか、そういう"弱み"にすらなりかねない話を他人にしないこの人が、そこまで誰かに八つ当たりをしなければならないほど、彼の今の悩みとやらは相当彼にストレスを与えているらしい。

────自分が"ある事件"をきっかけに、そこそこアズール先輩から目をつけられていることは、なんとなくわかっていた。

彼が血反吐を吐くような思いで積み重ねてきた努力を、それを上回る悪意で踏み躙り文字通り塵と化してしまったのはそんな頭の悪い自分自身だ。それ以来、彼は私を悪い意味で一目置くようになった。

脅威と見なすほど有能な人間ではないにせよ、私の"悪意のない悪事"は彼の私への評価を変えるに十分値するものだったらしい。要は私は、彼にとって"無能のくせに自分の努力を踏み潰してきた嫌な奴"でしかなく、良いストレス発散の捌け口になっていたというわけだ。
ネチネチと嫌味を言われたところで、それを逆手にとって彼を陥れるほどの頭は私にはない。彼もそれをわかっているから、こうやって"一から新たに努力の日々を築かなければならない"鬱憤をこんなにも簡単に私にぶつけてくる。

弱みを知ったところでそれを利用するだけの知略を巡らせられない頭の足りない私という存在は、彼にとって皮肉なことに"唯一安心して本心をさらけ出せる相手"でもあった。ジェイド先輩やフロイド先輩も同様に"本音を言える相手"であることに代わりはないのだろうが、利害関係の一致という少し乾いた動機のもとに生まれた彼らの複雑な関係では、きっとここまでアズール先輩の"不毛な愚痴"を引き出すことはできなかっただろう。

「…アズール先輩は、どうしてそんなに頑張れるんですか?」

だからそれは、そんな私がずっと彼に対して抱いていた純粋な疑問だった。
彼が優秀なのは誰もが知っている。それこそ学生の身分では制約も多いことだろうが、別にそんなに生き急がなくとも彼ほどの実力があれば卒業後にそのコネクションとやらを構築していったって決して遅くはないだろうに。

「……タコの寿命をご存知ですか」

書類の隙間から、濃い隈を作ってげっそり頬をこけさせたアズール先輩の顔が覗く。

「…すみません、知らないです」

素直に答えると、アズール先輩はそのまま魂まで抜けてしまうのではないかと思えるほどの長い溜息をついた。

「本来、タコの寿命は1年から数年と言われています」

…これは驚いた。アズール先輩はこの学園の2年生だ。16、7年既に生きていることは実証済み。そんな彼の寿命が数年しかないと言われたところで、正直あまり実感が湧かなかった。

「まあ僕は人魚なので、ヒトの寿命の恩恵も受けています。だからただのタコよりは確かに長く生きられていますが…それでも、おそらく純然たるヒトよりは早く死ぬでしょうね。僕の親ももうじき死期を迎えるからと言ってその準備をしていますし」

ヒトより早く死ぬ。それは一体、どれくらいの長さを示しているのだろう。アズール先輩のご両親がもうすぐ死んでしまうというのなら、40代そこらで死ぬのが普通ということだろうか。
私の世界では人生は100年与えられるものだという常識が通用していた。だから私は、そんなに"死"という概念を真面目に考えたことがなかった。

でも、もしもっと若くして死ぬことを知っていたら? 卒業した後そこそこの歳月が過ぎ、これから働き盛りという時に、種族に定められた寿命を否応なく迎えてしまうのだと知っていたら?

「だから僕にはこの狭苦しい環境の中ですら、一秒たりたも無駄にはできないんです。早くに死ぬとわかっているからこそ、僕はその短い人生の中で僕という優秀な魔法士が存在したことを、世に知らしめなければならないんです」

彼の努力を無に帰したあの日、私は彼の悲惨な過去のことも同時に知った。
幼い頃、何もできないグズでノロマなタコ野郎と罵られていた彼のことを知っていた。
その時彼はどれだけ世界に絶望したのだろう。ただでさえ周りより短い人生の中で、何もできず虐げられ続けることしかできない未来を、どんな思いで描いていたのだろう。

…目の前にいるこの人が、そんな過去を経てどれだけの覚悟を持って今ここにいるのか、私は今更ながらに痛感した。

あの時彼の契約書を砂にしてしまったことを後悔したりはしない。あれは友達を救うため、そして不本意に能力を取り上げられてしまった"年相応の"愚かな生徒たちのため、自分に取れる最善の選択だと思っていた。

でも、短い人生の中でようやく築き始められていた"アズール・アーシェングロット"という人間の半生を簡単に踏み潰してしまった自分が彼に敵視されることは当然のことだと────自分の信じた正義が誰かにとっての不動の悪になりうることを────改めて、思い知った。

その上で、素直にこの人を尊敬する。
一度自分の努力を無に帰されてなお、それでも挫けることなくまた一からその努力を重ねようとするこの人のことを。
彼にとってあの事件は、"自分を否定される"という二度目の絶望を感じる出来事だったはずだ。でもこの人は、何度心を折られようともその度に立ち上がった。
正直、彼のその努力の向かう方向性が正しいのだろうかと眉を顰めたこともある。いくら自分の利益を世に残そうと純粋に努力したところで、そのやり方には些か倫理観に欠けると思ったことも数知れなかった。

────それでも、そんな彼のことを、心から尊敬していた。

自分にはできないことだと、素直に思った。

望んでもいない世界に突然飛ばされた自分には、その世界でなお名を残そうなんて思ったことはなかった。いつかきっと元の世界に帰れるだろうと、確証もないそんな楽観的な希望を胸に無理やり刻み付け、ただ毎日を生きることにしか目を向けようとしなかった。

そうしないと、生きていけなかったから。

ねえ、先輩。
私に悩みがないなんて、実はそんなことないんですよ。

テストのこともグリムのことも心配ですけど、私は本当は、何よりも自分の未来のことが不安でたまらないんです。
このまま帰れなかったらどうしよう。後ろ盾も魔力もない自分が、この安全だけは確保された学園を卒業してしまった時、一体どうなってしまうんだろうって、本当は毎晩恐怖に震えてるんですよ。

私は、あなたほど強くないんです。

狭い籠の中でどうその大きな羽を羽ばたかせようか考えられるほど、私は賢くもないんです。

だから、能天気なふりをして、悩みなんてないよって顔をして、未来のことを考えまいと必死に言い聞かせてるだけなんです。

「あなたは、将来のことを考えたりしないんですか。魔力もないし、普通の生徒ならミドルスクールまでに習っているはずの基礎知識ですら持っていない。なんのコネクションもなく、元の世界に戻れる確証もないのに、どうしてそんなにヘラヘラ笑っていられるんですか」

アズール先輩は確実に苛立っていた。悩みなんてないですよとそれだけはうまく取り繕えている私の姿は、限られた命を最大限燃やし続けている彼からすれば我慢ならないほど"命を無駄にしている"ようにしか見えないんだろう。
機嫌が悪いからか、普段はそこそこ上手に装ってくれている人当たりの良い表情は完全に鳴りを潜めていた。そこにあるのは、純然たる憤りの感情だ。

「…人だってタコだって、同じだと思うんです」

彼が私を良く思っていないのはよくわかっていた。
でも私は、そんな彼と同じだけの努力をできるような根気強い人間ではなかった。

彼ほどの強さは、私には備わっていなかった。

「アズール先輩が短い寿命の中でも名を残そうとしていることは、確かに尊敬してます。でも…人だろうがタコだろうが、死ぬ時は死ぬんですよ。アズール先輩はいつも未来を見ていて、毎日頑張っていて、本当にすごいと思います。できることなら見習いたいとも思っています。でも、ある日突然異世界に飛ばされた私には────明日何が起こるかわからないって気持ちの方が強いんです」

どれだけ頑張ってみても、一瞬でその努力が消え去ってしまうように。
どれだけ未来へ目を向けて努力したところで、明日には私は死んでいるかもしれない、と思ってしまうのだ。

こっちの世界に連れてこられた前日、私はまさかそんなことになるなんて思っていなかった。いつも通り自分の家のベッドで眠って、朝が来たらいつも通り学校に通って、まだ漠然とした将来のことを考えながら、ただ"変わらない明日が来る"ということだけは信じていた。

でも、そんな"明日"は来なかった。
起きてみたら、私は何もかもが歪んだこの世界に飛ばされていた。

その時に私は悟ったのだ。
確約された明日などないと。

名を残せる将来など、決して約束されていないのだと。

「こっちに来たばかりの頃は、この世界でも生きていける方法を模索していた時だってありました。この世界で私ができることはなんだろうって、真剣に考えたこともありました。…でも、考えれば考えるほど、私にとってそれは無駄なことだって気づいちゃったんです。何も持たずここへ来てしまった私に、未来はありません。前触れもなく異世界へ飛ばされたんですよ。そんな非現実的なことが起こる世界で、"明日には死んでるかも"って思うのはある意味当然のことだと思いませんか?」

元々私はこの世界に順応できるほどのスペックを持っているわけじゃない。努力したって、一秒を惜しんで未来への投資をしたところで、明日には死ぬかもしれない。ここで生きていく覚悟を決めたところで、ここへ来た時同様また何の前兆もなく元の世界に戻されてしまうかもしれない。

「アズール先輩はこの世界の人だから、その努力が報われる時は必ず来ると思います。でも私には、そんな未来は確約されていません。だから、悩むだけ無駄だと思ってしまったんです。どれだけ悩んでどれだけ頑張っても、その時間は…少なくとも私だけにとっては、全てが無駄になります。だったら余計な悩みなんて考えないで、奇跡のように続くこの一日いちにちを楽しんだ方が、私には得なんです」

だから、アズール先輩に言われた"悩みがなさそうで良いですね"という言葉は、むしろ今の私を肯定されているような気持ちにすらさせてくれた。

だって、私はそれで良いのだから。
悩みなんて抱えるだけ無駄だ。そんなことより、私はこの世界からお別れするまでずっと、能天気で馬鹿な私のままでいたい。

「────監督生さん」

アズール先輩の動きが止まった。私と会話しながらもカリカリとペンの音を立てていたその手が止まり、オフィスには一瞬完全な静寂が訪れる。

「明日死ぬかもしれない、その確率と同じくらい、明日も変わらない明日が来るかもしれないとは、思わないんですか」

もちろん、そう思ったことがないわけじゃない。
でも、心も頭も弱い私に、そんな"明日"を考えることはあまりにも苦しいことだった。

「…私には、そんな強い心は持てません。才能もないですし」

能天気で明るいことだけが取り柄だったはずの私の声が、どんどん萎んだいく。
いけない、確かに私は未来を信じられない人間だけど、努力ができるほど根性の据わった人間でもないけど、それでもこの刹那的な時間だけはいつも笑顔でいようと決めたのだ。
明日死ぬかもしれないから、なんてそんな悲しい言葉でさえ、私は明るく言おうと自分に約束したのだ。

未来のためにこうして毎日必死で頑張っているアズール先輩の前でなら、尚更だ。私が悟ってしまった"来るとも知れない明日"のことを、しみったれた口調で言うことなんて許されない。

私は能天気で、どう見ても悩みなんてなさそうなムカつくほど楽観的な人間でいなければ。たとえそれでアズール先輩を更にイライラさせてしまうとしても、彼の努力を一度でも否定してしまった自分は、最期の瞬間までその罪を背負わなければ。
アズール先輩の努力を認めた、尊敬した、そんな簡単な言葉だけで許されようなんて思わない。私は、少なくともこの人の前でだけは、"人の努力を笑い飛ばしてしまう"嫌な後輩でいなければならない義務がある。後から彼の心が救われるようにと願った言葉を吐いた時もあったが、そんな贖罪だけでは足りないと思っていた。

「────あなたは少し思い違いをしているようですね」

アズール先輩は遂に、書類の山を押し除けた。私の顔がよく見えるように、私からも彼の真剣な表情がよく見えるように、私達はなんの遮蔽物もない状態で机越しにまっすぐ向かい合う。

「明日死ぬかもしれない、そんなことは僕だってわかっています。だから僕は、今日を必死に生きるんです。無力だった自分が嫌いだったから、ほんの一瞬でも自分を好きになれるように努力するんです。来るとも知れない明日を前にして、それでも"最期まで頑張った"と誇れるように、僕は毎日努力を続けるんです。それは決して、"いつか来る寿命を満足して全うする"ためなんかじゃありません。確かに…さっきも言いましたが、人より寿命が短いことへの焦りはあります。遠い未来のために一秒でも惜しみたくないというのも本音です。でも僕は前提として、まず目先の今を精一杯生きることに注力しています」

彼の目は、明らかに疲れていた。だというのに────ギラギラと、野心に満ちた輝きを秘めていた。

「悩みがなさそうですねと言ったあの言葉は…すみません、確かに勢いに任せた嫌味でした。撤回こそしませんが、悩みを抱えないという選択をしたあなたの心情はよく理解しました。悩みのなさそうなあなたがそう至るまでに、誰よりも悩み続けていたこともお察しします」

その上で、言わせてください。
アズール先輩の言葉はまだ続く。

「あなたの気持ちは、かつて僕が抱いていたものととてもよく似ています。自分には何もできない、この世界は自分にあまりにも合っていなさすぎる。そんなところでまだ足掻こうとするなんて、それこそ無駄でしかないと…そう思った時期は、実は僕にもありました」

それは意外な真実だった。
虐めてきたやつを見返したい。そんな強い心で、彼はまっすぐに突き進み続けてきたのだとばかり思っていたから。たとえ途中で一度挫折しても、決して諦めることだけはないと思っていたから。

「でも、与えられた世界で身についたものは、直接的ではなくとも必ずどこかで自分の力となります。何より努力したという事実は、努力を続けられるだけの精神力を手に入れたという事実は、どんな世界でどんな状況に置かれても必ず弱った自分を救ってくれます」

彼も、一度は居場所をなくした身だ。ましてやそれは、一番安心できるはずだった故郷の中で起きてしまったことだった。
そんな中でも挫けずペンを取り続けた彼のあの時の覚悟は、きっと今の彼の中でも生きているのだろう。

自分より遥かに劣るはずの人間風情に積み上げた努力を全てひっくり返されてもなお立ち上がった彼の心境を思う。オーバーブロットするほど彼に負担を与えたはずのあの事件の後も、彼はこうして書類にまみれながら、外部とのコネクションを築こうと毎日奔走している。

「あなたに悩めと言っているわけじゃありません。僕と同じだけの努力をしろなんて、そんなことはもっと言うつもりがありません。でも…あなたのその能天気さが"諦め"から来るものなのであれば、そんな諦めは必要ないんですよ。がむしゃらに何かをしたその経験は、いつか必ずあなたを助けてくれます。今の僕のこの歯痒い思いだって、いつか報われるはずなんですから。それは明日死ぬとしても同じです。どこで来るとも知れない死の間際、諦めていた自分を後悔するより、結果論として生きられなかった未来を信じて努力した自分の方を思い返す方が誇らしく思えると…あなたはそう思いませんか」

…まさかアズール先輩にそんな慰めの言葉をかけられるとは思わなかった、と言ったら彼はそれきり口を開いてくれなくなりそうだ。そう思ったので、私はただ黙って彼の言葉を聞き続けていた。

そうは言っても、私にはやっぱり彼ほどの努力を重ねることはできないと思う。
いつ報われるとも知らない、むしろ報われる直前にその努力が完全に無に帰す虚しさを誰よりも知っている私だからこそ、彼の言葉はあまりに強すぎた。眩しすぎた。

「…私、実は結構悩んでるんです」
「ええ、それはよくわかってますよ」
「元の世界にどうしたら戻れるだろうかとか、みんなより遥かにハンデを負ってる状況でみんなと同じようにやっていけるだろうかとか、いざ戻れたとしてももうみんな私のこと忘れてるんじゃないだろうか、とか」
「でしょうね」
「そんな解決策のない悩みばかり抱えて、どう努力したら良いかなんてわかりません。どうしたら報われるかなんて、全然想像できません。自分を誇れる未来なんて、やっぱり信じられません」

アズール先輩はじっと私の目を見つめていた。

「────僕と契約します?」
「はい?」

そして突拍子もなく飛び出した"仕事"の話に、私は思わず面食らってしまう。

「思うに、あなたがそこまで思い詰めているのは全てご自身に"あらゆる才能"がないからでしょう。元の世界に戻る方法は確かに僕にもわかりません。ただ、この世界で生き残る術なら与えられます。勉強を教えることでも、筋力をつけることでも、なんならこの世界に順応できるよう、後付けではありますがあなたに魔法士としての最低限の魔力源を分け与えることも可能です」

…それは、あまり優しい提案には思えなかった。

「…それを願ったとして、対価はどうなるんですか?」
「そうですね。一生僕の奴隷として働いてもらうくらいはしないと見合わないでしょうね」

少しでも励まそうとしているんじゃないかと期待した自分が馬鹿だった。
おかしいな、さっきのアズール先輩は確かに私の身を素直に案じてくれているように見えたのに。

結局契約の話に持ち込まれるのか。
そういうことなら、願い下げだ。まだ諦めて空元気で笑っていた方がマシだと思える。

「…遠慮しときます」
「おや、それは残念です。こちらも確実に手足としてこき使える人手が欲しかったんですがねえ…」

そういうアズール先輩の調子はすっかりいつも通りの皮肉に溢れた守銭奴の姿に戻っていた。

「…でもまあ、そうやってたまに空気を抜く時間くらいは、軽微な対価で提供してさしあげても良いですよ」
「…え?」
「皮肉なことに、あなたの気持ちは僕も以前経験したことのあるものですからね。諦めようが努力しようが正直僕には関係ありませんが、そのどちらを選ぶにせよ時折こうやって言葉にして整理する時間は必要でしょう」

守銭奴の顔から再び覗く、優しい顔。
私はそこに、見たことのないはずの幼い頃のアズール先輩の悲しみを垣間見たような気がした。

「そ、その…軽微な対価とやらはどうなるんですか」
「それはもちろん、これまで通り僕のストレスの捌け口で居続けてもらいます。僕と対等な対価で契約ができるチャンスなんて、そうそうないですよ」

それはただ単に今まで通りというだけなのでは。むしろそれに対価を求めて良かったのなら、今まで私が散々アズール先輩の愚痴を聞き流してあげていたことはただの無償労働だったということになるのでは。

まあ、でも。

「…ありがとう、ございます」

"僕と対等な対価で契約ができるチャンスなんて、そうそうないですよ。"

それは仰る通りだ。彼が対等な条件を提示してくれるなんて、それこそ彼からしてみれば慈善活動をしているに等しいとさえいえるだろう。
…慈悲の精神を司る寮の寮長、というだけのことはあるのだろうか。

「契約成立ですね」

結局最後まで商談のような口調で締められてしまった。
ただ────能天気で悩みのない"ふり"をしないで済む相手が、誰よりも警戒しなければならないはずの人であったことが、私にとっては少しだけ面白く思えてしまった。

きっとどれだけ悩んだところで、私には彼ほどの努力はできないのだろうと思う。その意見は変わらないままだ。
でも、毎日生きることで精一杯な低スペックの私に、そんな日々の逃げ場所を与えてくれたこの人のことが、私は少しだけ────そう、ほんの少しだけ、特別な存在に思えてしまっていた。






まだアズールが監督生に恨みを持っていた頃の話です。
死ぬ気で努力したものを(やり方がアレとは言え)砂にされたら誰だって敵視すると思うんですよね。

ただ、アズールはあれでいて、監督生の姿を"無力であるが故に迫害され続けたかつての自分"と無意識に重ね合わせていたところもずっとあったのではないかなと。

"可哀想な人"という評価と"努力する術すら知らないくせに、人の努力は平気で踏みにじる人"という評価────そんなアンビバレントな感情に挟まれていたのではないかなと。思ったわけです。

だから彼が彼女に逃げ場所を与えてくれたというそれは、慈悲などという優しい感情からではありません。今はまだ、ただの憐れみです。
契約書を砂にした恨みはあれど、その後の監督生の言葉で救われたのもまた事実だと思うので…まあ、彼からすればある種"意趣返し"と"恩返し"と、両方の気持ちがあったんじゃないですかね。そんな解釈です。

アズールが初めて自分と重ね合わせた相手、初めて"この人を救えたら"と思えた相手。
今日のこのなんでもない会話がきっかけとなり、2人は自然と相手を特別な存在と認識するようになり、それからようやく恋に発展していけば…良いな………

いつか甘いアズ監にもチャレンジしますね。
ただ、アズ監がアズ監として成立してしまう前に、私にとってこのお話は絶対不可欠なものでした。

誰もが最初から人に好意を寄せるわけではありませんから。









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