流星
あまり良い出会い方をしなかった、と思う。
別に悪いことをしたとは思っていない。それでも、契約によって僕の奴隷と化した彼女の友人を救いに来た時のあの怒りは、本物だった。
僕の努力を一瞬で砂にした。誰よりも非力なくせに。
僕の成果を一瞬で塵にした。誰よりも無知なくせに。
そのくせ、全てを吹っ切った頃に、いつか望んで────そして諦めた言葉を、いとも容易く吐いてきた。
「あなたはもう、魔法よりすごい力を持っています」
安い慰めなんて、今更通じるものか。
「努力は、魔法より習得が難しい」
あんな醜態を美談になんてするな。
笑いながらも、腹の底では見当違いな恨みが募るばかりだった。
優しい人間は嫌いだ。見返りを求めずに聞こえの良い言葉を吐く人間なんて信じられない。自分が何をしたのか、忘れたとは言わせない。僕の努力を平気で踏みにじっておきながら、今更何を言うのか。
────しかし、それは決して優しさなどではなかったのだと、後から思い知ることになる。
「アズール先輩、飛行術やば」
平気な顔をしてそう言われた時、思わず魔法で氷漬けにしてやろうかと思った。
「ひえ…本当に訊けばなんでも模範解答が出て来る…AIか…?」
エーアイという人間が誰かは知らないが、ひとまず褒められていないことだけはわかった。
「アズール先輩って、守銭奴で吝嗇家でケチくさいですけど、なんだかんだいつも理には適ってますよね」
いい加減喧嘩を売ろうとしているのかと言いたくなるようなことを言われて、遂に僕の忍耐も限界を迎える。
「あなたねえ、もう少し言葉をオブラートに包むということを────」
「?」
まさか、本当に知らないのか。
単に彼女はいつもまっすぐに、思ったことを言う人だったのか。
それじゃあ、あれは────あの、救われたと勘違いしてしまいたくなるような言葉も────慰めなんかじゃない、同情なんかじゃない、彼女の"本心"だったのか。
「言葉なんてまっすぐ伝えたって誤解が生まれるものじゃないですか。婉曲的に伝えてたらそれこそ伝言ゲームの出発点と終点くらい意図が離れますよ」
晴れやかな顔できっぱり言い切る彼女のその威勢の良さを、僕は確かに羨ましいと思ってしまった。
いつのまにか捻くれて、心の糸が絡まって解けなくなってしまった僕。
いつだって素直で、心の糸をぴんと美しく張っている彼女。
いつも後ろばかり向いて、焦っては根を詰めすぎる僕。
いつも前を向いて、どんな困難にも活路を見出そうとすぐに動ける彼女。
僕と彼女は、"ひとりで世界と戦っている"ところが同じだと思っていた。
でも、実際はそんなことなんてない。むしろ正反対の存在だった。
僕が海底で星の光を恐れて蛸壺に収まっている弱虫なら、彼女は世界を遍く照らす星そのもののようだ。
あれが慰めだったなら、同情だったなら、きっと僕は未だに彼女を警戒していたのだろう。しかし普段から────彼女は決してお世辞を言ったり媚びたりするような人間ではないと、賛同せざるを得なかった。
だからあれは、彼女がまっすぐ捉えた、彼女にとっての"事実"。
そのことが、却って僕を────救っていた。
「アズール先輩、見て、月が海月みたい」
臨時バイトをお願いしたある冬の日の夜、締め作業を終えた彼女が報告に来てくれた時、そうやって僕の部屋のカーテンを勝手に開けたことがある。オクタヴィネル寮は、寮内であれば普通の人間でも歩行できるよう室内と外を完全に遮断しているが、ひとたび外を見ればそこには深い深い海の景色が広がっているだけの空間だ。ただ、そんな中にも月の光は差し込んでくる。彼女があまりにもしつこく「見て!」と言うので、仕方なく立ち上がって外を見ると、確かに海面にぼんやりと映る白い月は、波にゆらゆらと揺れる海月のように…まあ、見えなくもなかった。
「…海月?」
「知ってます? 鏡でも水面でもなんでも良いんですけど、空に浮かぶ月が足元に映った時、誰も知らない世界への扉が開くんですって」
「…なんですかそのいかにも子供が考えたような迷信は」
「えー、ちょっとロマンありません? 絶対手の届かない月に触れて、あっという間に大きな旅ができるんですよ。海月に乗ってぷかぷかって」
そう言って空を見上げる彼女は、まるで恋人を見つめるかのような慈愛に満ちた目をしていた。
「…あなたも情緒が多少はわかるんですね」
「ええ、そうですね。────月が綺麗だと思うくらいには」
その横顔は、どこかいつもと違って見えた。瞳に浮かべる光はキラキラと煌めていて、紡がれる言葉はチカチカと明るくて。
「私、海月になりたいなあ」
そう言った彼女に僕が言えることなんて、せいぜいこの程度のことだった。
「あなたは星の方がお似合いですよ」
「まあそりゃ…月ほど大きかないですけど…」
落ち込むようにボソボソと呟く彼女の横顔を見ていたら、つい笑ってしまった。
「良いんですよ、あなたはそれで」
嘘偽りのない、素直な人。とても友人思いで義理堅いのに、目的のためには手段を選ばない大胆さを持っている人。
僕は、恨みから始まったこの感情が徐々に穏やかなものへ変わっていくことを感じていた。
彼女は僕が持っているものを何一つ持っていない代わりに、僕にないものを全て持っている人だ。
そして自分が持っていないものを持つ人のことは、どうしたって羨ましくなってしまうもの。
「────あなたみたいな人に負けた気になる日が来るとはねえ…」
「お、なんですか。喧嘩ですか」
「いいえ、僕は紳士なのでそういうことはしません」
それはまるで、夜空に浮かぶ一等星のような。
手が届かないとわかっているのに、手を伸ばしたい。手に掴みたい。そしてその光で、そっと網膜を焼いてほしい。
きっとこの気持ちが恋なのだろうということはわかっていた。もちろん最初は全く経験したことのない動悸に何か病気でも患ったのだろうかと本気で心配していたが、いくらなんでも条件を揃えてなお自分の気持ちの正体を悟れないほど愚かではない。
僕はとても静かな感情を彼女に抱いていた。そしてそれに、何よりも自分が納得していた。
他の人とは違うものを感じる。僕に持っていないものを持っている。怖がるあまり回りくどいやり方をとってしまう僕に対し、常に真っ向から光を浴びて歩く姿を眩しく思う。
この気持ちが特別だと思うことの理由なら、十分にあったから。
────それでも僕は、この気持ちを伝えられなかった。
彼女のような人に僕が釣り合うとは思えない。彼女の瞳に僕が映るとは思えない。
だから、闇の中に灯ったこの光は、ずっと掌で隠しておこうと思った。
「アズール先輩!」
それでもやはり、笑顔で僕の名前を呼ぶ彼女を遠ざけることができない。一緒にいる時に呼ばれることを、期待せずにはいられない。
何も求めるつもりはないと言いながら、無意識にどこかで彼女を待っている自分がいる。
その日も授業の合間に元気良く駆け寄ってきた彼女を見て、つい口元を緩めてしまっていた。
「あなたは本当に暇なんですね。今日はなんですか、またどこかでやっかまれたんですか。どこの輩ですか」
「私が言うのもアレですけど、アズール先輩もまあまあ喋るようになりましたよね。違います違います、今日は錬金術の授業がうまくいったので報告したくって」
掌に乗せられているのは、紫色の宝石だった。アメジストに似ているが、それよりもっと濃い。光がギリギリ届くかどうかわからない、そんな深い海の底のような色だった。
「これ、アズール先輩にあげます」
「いりません」
「食い気味に言わないで」
彼女は宝石を僕に押し付けると、鼻歌を歌いながらあっという間にどこかへと消えてしまった。呼び止める暇も、お礼を言う暇もなかった。
「……」
どうすることもできず、胸ポケットに宝石を収める。ほんの小粒のその重みが、やけに深いところまで沈むようだった。
また別のある日、僕は彼女を連れて学外へと出ていた。
その日の商談相手は、女性好きなことで有名なセイウチの人魚だった。僕達と同じように、普段は陸で生活をしている富豪だ。「綺麗な姉ちゃんがお願いしてきてくれたら聞いてやっても良いけどなあ」とアポを取り付けた際に言われたので、精一杯にめかしこませた彼女に高いヒールを履かせ、隣を歩かせた。
無事に商談は成立。彼女の背中に回そうとしたセイウチの手をやんわりと制して、僕達は機嫌良く海辺を歩いていた。
「いやあ、あなたみたいな人でもたまには役に立つものですねえ」
「私、ちゃんと綺麗な姉ちゃんになれてました?」
「ええ、あなたは────」
言いかけて、はたと足を止める。
振り返ると、そこには海を眺めながら歩く彼女。僕の視線に気づくと顔を上げて、ふっと微笑む。
綺麗という言葉が当てはまるのか、わからなかった。
そんな薄っぺらい言葉じゃ足りない気がする。地上に落ちてきた星のような、空に打ち上げられた水飛沫のような────そんな、喩えがたい何かに見えた。
「なんですかアズール先輩、見慣れない私の女性らしい姿にノックアウトですか」
「そんなことは一言も言っていないでしょう、まったくあなたはどこまで厚顔無恥なのか」
「えー、そわそわしながらついてきてくださいって言ってきたくせに。私、これでも結構商談中はアズール先輩の秘書役顔ちゃんとできてたと思うんですけど。ちゃんとすれば美人だ〜なんて言われたりしますし、はっはっは」
「秘書顔ってなんですか。だいたいあれはあの場に同世代の女子があなたしかいなかったからでしょう。探せばあなたより綺麗な人だって優しい人だってたくさんいるんですから、あまり驕っていると足元掬われますよ」
「ほんっと口の減らない先輩ですこと」
正直、彼女の方から茶化しに来てくれたのはありがたかった。失った言葉を取り繕い、ふいと顔を背ける。
「それより、今日はそれなりに大きな貸しを作ってしまいましたね。何かお望みのものがあれば仰ってください、大抵のものなら手配できるでしょう」
"対等"で良い。分不相応に望んだりなんて、しない。
この距離感が正しいんだ。無償の愛なんて注がないし、求めるなんてもってのほか。
「えー…」
こと自分が損することについては呆れるほど頓着しない彼女のことだから、どうでも良いことを言うだろうとは思っていた。でもこれはもはや僕の問題だ。
彼女に貸しを作ったままにしたくない。
────返す時に、また関わりを持つ口実を作りたい。
「そうだなあ、じゃあ…」
ヒールを脱いで、裸になった足で波を蹴り上げる彼女。片手に片方ずつ持ったエナメルのヒールが、月明かりを受けて鈍く赤を反射していた。
「先輩、この商談、必ず成功させてくださいね」
出てきたのは、思った通りの謙虚な願いともいえないような願い。
「…もちろん、そのつもりですが」
「これから先の商談も、どんな難しい相手がいても、必ず成功させてください。それで周りの人達みんなに尊敬されるような…そんな人になって、幸せに長生きしてください」
あまりにもったいぶった言い方に、思わずもう一度後ろを振り返ってしまった。彼女はもう波で遊ぶことをやめ、冷たい冬の海に足を浸けたままこちらを見ている。
「────あなたに言われずとも」
何が言いたいのかわからず、しかしそれを深く尋ねる勇気も出ないまま、強がって胸を張る。それを見た彼女は、少しだけ目を見開いて────そして、小さく笑った。
「良かったです」
そしてそのまま、対価についても未来についても触れず、彼女をオンボロ寮まで送る。
「ありがとうございました、ここまで送っていただいて」
「そのくらいは当然のことです。お願いしたのはこちらなのですから。今日は遅くまでありがとうございました、ではまた明日」
「はい。────さようなら」
おやすみなさい、でも、また明日、でもない。
そんな"別れ"の言葉を持ち出したことに意味はあったのだろうか。
その小さな違和感を尋ねることは、終ぞ叶わなかった。
────翌日になると、彼女は突然消えていた。
「寮にもいないし授業も出てなくて────」
「グリムも知らないって────」
下級生達が俄かに騒いでいる声が聞こえる。最初はまた何か問題児がやらかしたのかと思っていたが、昼休みになる頃、いい加減その事実から目を逸らせなくなる。
「ユウが消えるなんて────」
「まさか、元の世界に帰ったんじゃ」
ここではない"どこか"を故郷に持つ彼女。自分の意思に関わらずここへ連れて来られたというのなら、自分の意思に関わらずその"どこか"へ連れて行かれるのもまた、ありえることなのだろう。
ただ。
「先生も探してるらしいんだけど、マジで学園のどこにもいねえんだよ」
「でも、どうやって────」
「あいつが俺達に何も言わずにいなくなるなんて、そんなことするか?」
そう、問題は"どうやって"消えたのか────もっと言えば、そこに彼女の意思はあったのか。
知る限り前兆はなかった。学園長でさえ、そのことを知らないと言う。彼女と仲の良かった悪友達も、常に行動を共にしていた魔獣でさえも、彼女の去る気配を感じなかったそうだ。
いや────本当に、前兆はなかったのか? 本当に"誰も"それを予見しえなかったのか?
「先輩、この商談、必ず成功させてくださいね」
「さようなら」
もし、あれが"それ"だったとしたら。
「ねえ、小エビちゃん今日シフト入ってなかった〜? ムダンケッキンは絞めてやんねえと」
「カフェなら最近空いているので、幸か不幸か業務に支障は出ませんよ。狙ったようなタイミングですね」
「なにジェイド、小エビちゃんがいなくなったの確信犯だと思ってる?」
「いえまさか。そもそも彼女が"消えた"なんて思っていませんから」
「何ソレ。探し出す気満々じゃんうける。あ、アズールー」
誰かが何かを言っている。しかし、もはや何も耳には入らなかった。
まっすぐ自分の部屋に向かい、こっそり図書室から借りてきた転移魔法に関する書籍を机の上にドサリと置く。
もし、あれが最後の夜、最後の言葉、最後の顔だったとしたら。
何かによって強制されたわけではなく、彼女がそれを"選んだ"としたら。
わかっている。彼女が帰るとして、それを僕に伝える義理はない。
僕は彼女の家族じゃない。恋人でも、友人ですらなかったかもしれない。
特別なことなんて何もなかった。ただ一度大きく揉めて、互いの顔を知り、用がある時だけ力を貸し合うだけの、"対等"な存在だった。接点らしい接点だって何もない。ここの世界で知り合った人を思い出した順番に挙げて行けと言われたら、きっと僕は20番目くらいに出て来る、そんなところだろう。
わかっている。そんな距離感を生み出したのは自分だ。
どれだけ特別な感情を持っていても、それを出すことは決してなかったのだから。
それでも。
それでも僕は、"あの距離感"を気に入っていた。
近づかなくて良い。でも、離れても良いと思ったことなんて一度もない。
特別だと言わなくても良い。でも、そう思うことさえ叶わないなんて許せない。
「幸せに長生きしてください」
そうなるためには、彼女の存在が必要だ。
────それから僕は、全ての時間を異世界との接続のために捧げた。
まだ誰もやり方を知らない、しかしその現象が実在していることならわかる、そんな不確かと言って余りあるテーマ。
僕は学者になりたいわけじゃない。時空転移をしたいわけでもない。ただ与えられたフィールドで誰よりも認められ、僕を嘲笑った奴らを見返したかっただけだった。
でも、今は────。
会いたい人がいる。
伝えたいことがある。
彼女は次の日も、その次の日も現れなかった。
やがて夏が来て、進級しても。次の夏が来て、研修に出されるその日が来ても。
周りはだんだんと、彼女のことを忘れているようだった。
彼女と誰よりも親しかったハーツラビュルの2人組と魔獣だけが、まだ彼女の帰りを待っていることなら知っている。しかしそれ以外は、少しずつ彼女が消えた日常を取り戻して行っていた。
だからこそ、僕の姿は異質に映ったのだという。
「アズール、最近寝てなくねえ? クマやばいよ、ずっと異世界への行き方探してるんでしょ」
うるさい。
「せめて少し何か食べた方が良いですよ。ユウさんに会う前にあなたが衰弱してしまっては元も子もないでしょう。あなた、最後に食事を摂ったのはいつです?」
時間がないんだ。このまま僕まで彼女を思い出にするわけにはいかないんだ。
「お前がそこまでユウに執着してたとは知らなかったな。向こうはもう忘れてるんじゃないか?」
「そうッスよ〜、ユウくんだって向こうの世界で幸せにやってますって」
そんなこと、百も承知だ。
それでも、止められなかった。
僕は甘えていたんだ。漠然と、これからもこの距離を保てるのだと。
まさか引き裂かれるなんて、遠ざけられるなんて思ってもみなかった。
恋人になりたかったわけじゃない。良い友人になれたとも思わない。
ただ、僕が彼女のことを好きだった────それだけのことだった。
欲しいものは手放したくない。たとえ彼女が僕のことを見ていなかったとしても、僕が彼女のことを見ている権利だけは誰にも譲らせたくない。
日がな一日、別世界へ行く方法はあるのか、そもそも別世界という概念がこの世に存在するのか、あらゆる文献や研究資料を漁りながら調べる。
成果は笑えてしまうくらい出なかった。きっと他の分野のことであれば、そこまで執着せずに「何もそれらしいことは書いてありませんね」と放っていただろう。
しかし、忘れるどころか、日を経る毎になぜか彼女のことが自分の心の重量を増していくのだ。
人の記憶は時間と共に薄れていくはずなのに、彼女の笑顔が目を覚ます度に眼裏に映る。ふと息をついた瞬間、彼女の声がどこかから聞こえるような気がする。
忘れてしまうには、彼女はあまりに鮮やかすぎた。
なかったことにしてしまうには、彼女はあまりに眩しすぎた。
「アズール、あなたに縁談が来てるの」
両親にそう言われて何度か海に住む女性を紹介されたこともあった。
1人目は笑顔の可愛らしい、小柄な女性だった。
会話は無難にこなせたと思う。紳士的なエスコートに何度も「ありがとうございます」とお礼を言うその姿だって好ましかった。
でも、思い出してしまったのだ。
「アズール先輩の紳士っぽさはなんか胡散臭いんですよ!」
「胡散臭いとはなんですか。こちらは本心で言っているのに」
「言葉自体は本心でも裏にまだ何かあるのが見え透いてるんです〜」
人の厚意に礼を言うどころかケチをつける、怒りっぽい人のことを。
2人目は所作の美しい、大人びた女性だった。
細やかな気遣いのできる人で、あらゆることへの造詣も深く、会話は無難にこなすどころかよく弾んでいた。
しかし、満たされているはずなのに物足りないと思ってしまったのだ。
「えー…なんでこれとこれを混ぜたら魔法の薬になるんですか…」
「あなたは本当に何も知らないんですねえ」
「くっ…見てるが良いですよ…いつかアズール先輩がこっちの世界に来たらそっくりそのまま同じ言葉を返してやりますから…」
無知で非力なくせに、口だけは減らない人のことを。
3人目からは、もう話が来た時点で断るようにしていた。
「アズール、研究熱心なことは良いことだけど、あなたの人生なのよ。その…」
母には随分と心配をかけてしまっているようだった。僕がくさっている間も変わらない愛情を注いでくれた両親には申し訳ないことをしていると思う。
それでも、止められなかった。
「ごめんなさい、母さん。それでも…これが、僕の人生なんです」
もう一度会いたい人がいる。想いが届かなくても、傍にいたい人がいる。
卒業後、モストロラウンジをそのまま街に出店し、夜だけはオーナーとしての務めを果たし、それ以外の時間を全て異世界にまつわる研究に充てる日々を送っていた。
睡眠も、食事もいらない。学生の頃だったら考えれないほど雑然とした部屋の中で、もはや天井まで達するほどの本と足の踏み場もないほど散らかされた書類に揉まれながら、毎日毎日毎日毎日時空転移の方法を調べる。
実例があるのだ。絶対、何か方法はある。
彼女は一体どうやってこの世界に来たんだ。一体どうやって元の世界に帰ったんだ。
何か、何か必ず────。
「知ってます? 鏡でも水面でもなんでも良いんですけど、空に浮かぶ月が足元に映った時、誰も知らない世界への扉が開くんですって」
「…なんですかそのいかにも子供が考えたような迷信は」
「えー、ちょっとロマンありません? 絶対手の届かない月に触れて、あっという間に大きな旅ができるんですよ。海月に乗ってぷかぷかって」
────まさか。
手に取ったのは、自分の背丈ほどある姿見。窓辺まで持って行き床に寝かせ、鏡面を上に向ける。
自分でも馬鹿なことをしているとは思う。でも、もうまともな方法では2つの世界を繋げることができなかったから。
鏡に映るのは、空にぽっかりと浮かぶ月。外から取り込まれた丸い月光があの冬の日を思い起こさせるようで、胸に言いようのない痛みを植え付ける。
「っ────…」
おずおずと、足を鏡に差し出した。
わかっている。こんな幻に手を伸ばしたところで、届くわけがない。この足は固いガラスに触れるだけで、僕は間抜けに鏡の上で棒立ちになるのがオチなん────。
「!?」
階段を登る感覚で置いてみたその足が、まるで深い水面に浸けた時のように鏡をすり抜けた。思いがけず踏み外したことで、体が前につんのめる。僕はそのまま、月の真ん中に沈んでいった。
心地良い冷たさが、全身に沁み渡る。本当に海の中にでも入ったかのようだ。
ただ、視界は暗かった。触れられるものも何もない。完全な闇の中を駆け抜けていくようなその感覚に、身を任せることしかできない。
どれほどの時間そうしていただろう。まだ状況を完全に把握するより早く、突如として視界が開けた。
────そこにあったのは、満天の星空だった。
宙に投げ出されていると判断したのは一瞬のことだった。どうやら、空から地面に向かって真っ逆さまに落ちているらしい。
着地面に広がっていたのは、海だった。肌を切る寒さと周りに鏤められた星屑が、これは冬の夜空だと教えてくれている。
咄嗟に衝撃緩和の魔法を唱え、そのまま僕は海に落とされた。大きな水飛沫が上がり、暫し視界がゆらゆらと波と共に揺れる。真っ暗な揺らぎの中で見る月の光は、なるほど確かに海月が揺蕩っているように見えた。
一体ここはどこだろう。鏡の中を本当に通り抜けてしまった。ということは、ここはどこか別の世界なのだろうか。見る限り、気候や生態系はツイステッドワンダーランドとほぼ同じもののような気もするが。
あまりに現実離れしたことが起きてしまったせいで、逆に頭は冷静だった。ひとまず岸に上がろうと、慣れない人間の足で浅瀬の方へ移動する。
すると、波打ち際にひとつの人影が見えた。
「大丈夫ですか!?」
何か叫んでいる。その声が彼女とよく似ているように思ってしまったのは、ずっと彼女のことを考えていたからなのだろうか。その影が彼女の姿に見えてしまうのは、ずっと彼女と会いたいと願っていたからなのだろうか。
「あの、怪我とか…救急車…って、ええ…!?」
だんだんと影に近づいていく。ひどく驚いた様子であれこれ騒いでいる姿は、まるで彼女そのものの────よう────で────。
「アズール先輩!?」
波が足首に何度もぶつかっては消えていく。完全に立ち上がれるところまで来た時、人影がはっきりと識別できるようになった時、そこにいたのは────。
「ユウ、さん…?」
髪、瞳、唇、手足、体形、話し方。
その全てが、僕の探し求めていた一等星と同じかたちをしていた。
「な、なんでそこにいるんですか!? ていうかどうやって来たんですか!? 海って、いや海って!」
「な…なんではこっちの台詞ですよ! どうしてここにいるんですか!? そもそもどうして…どうして…────」
────あの場所を去ったんですか。
話したいことならたくさんあった。聞きたいこともたくさんあった。
それなのに、いざ目の前にしてしまうと何も声が出なくなる。
夢じゃないかと疑った。幻を見ているのではないかと訝った。
「…以前、言っていたでしょう。月が足元に映った時、別世界への入口が開くと」
「それを…信じたんですか」
「それしかもう思いつく方法がなかったんです」
少しだけ、責めるような口調になってしまった。彼女にもそれは伝わったのだろう、気まずそうに俯かれる。
「…すみません、黙っていなくなったりして」
その謝罪で、欲しくなかった確信を得てしまった。
彼女は自らの意思で、帰ることを"選択"したのだと。
「ずっと探していたんです…。あなたに会いたくて、あなたと言葉を交わしたくて、毎日ずっと、あなたの元へ辿り着く方法を…」
「ごめんなさい」
なんとか涙を堪えながら言うと、彼女は申し訳なさそうな表情を前面に出してもう一度謝った。
「…どうして、突然いなくなってしまったんですか」
一度飲み込んだ言葉を、今度こそ口にする。できるだけ、詰問口調になってしまわないように。
「あそこに、私の居場所はありませんでしたから。誰と会っても、誰と話しても、"私はここの世界の人間じゃない"という意識が拭えなかったんです」
────その意識を植えた原因には、僕もいたのかもしれない。
必要以上に肩入れしてはいけないと言い聞かせていた。僕自身も、心のどこかで"彼女はいつか帰る人間だから"と思っていたのかもしれない。そうあるべきと思って取っていた距離感が、彼女を追い詰めてしまってるなんて、気づきもしなかった。
「でも」
しかし、彼女の言葉はそこで終わらなかった。
「でも…あそこにいたいっていう思いもあったんです。友達ができて、勉強にもだんだんついて行けるようになって、先生にはあの世界での生き方…将来の道についても相談に乗ってもらって…もしかしたら、私もあの世界で生きていけるかもしれないって思うようになりました」
「それなら…っ」
そこまで希望が見えているのなら、どうして帰ってしまったのか。
どうして────それを、誰にも告げなかったのか。
僕の戸惑いは彼女に十分伝わっていたらしい。困ったような顔をして、無理に笑顔を浮かべる彼女の姿はあまりにも痛ましかった。
「────好きな人が、できたんです」
「っ…!」
「恋をしてしまったんです、叶わない恋を。絶対に私のことなんて目もくれないようなひどい人でした。でも…好きな気持ちは止められなかった。だから消えることにしたんです。こんなに辛い思いをするなら、もういっそあの世界の全てを切り捨ててしまえば良い。私なんて、最初からいなかったことに────ただの夢だと思えば良い。そうすることで、自分の気持ちを絶とうとしました」
頭の中が一気に掻き乱されるようだった。好きな人に好きな人がいた。好きな人が好きな人のために世界を去った。好きな人が好きな人のために、全てを諦めた。
「────それなら、どうして僕に相談してくれなかったんですか」
自分でももう、何を言いたいのかわからない。僕じゃない誰かに焦がれる彼女の姿なんて見たくないと思っているはずなのに、それ以上に彼女を失いたくないと思っている自分がいる。
「僕ならあなたの望みを叶えられます。僕ならあなたの好きな人を振り向かせられます。僕なら────」
「アズール先輩だからです!!!!」
惚れ薬、好みのタイプの調査、イメージチェンジ、なんだってやってやる。
その結果彼女がたとえ他の男のところへ行ってしまうとしても。それで、彼女が同じ場所にいてくれるというのなら。
しかし、僕の必死な言葉は彼女の叫びに簡単にかき消される。
「僕だから、って…」
「アズール先輩なんです。私…アズール先輩のことを、好きになってしまったんです」
今度は彼女の方が泣いていた。ぽろぽろと真珠のような涙を零しながら、彼女は悲痛な声で僕を責める。
「叶うわけないじゃないですか。私とあなたは友達ですらない、ただの異世界から来た異物と名門学園のひとつの寮を背負う長なんですよ。あなたは将来成功するだけの実力を持っていて、尊敬もされていて、自由な未来を歩める人です。片や私は地位も名誉も、お金も頭脳もないような凡夫以下の存在なんです。そんな私があなたの隣にいられるわけがない。あなたの隣にいるべきじゃない」
何かの冗談かと一瞬思ったが、彼女の涙を見てその疑いが晴れる。
彼女はそんなに器用な人じゃない。嘘がつけるほど、嘘のために泣けるほど、浅はかじゃない。
単純に知らなかっただけなのだ。
彼女がそこまでの想いを秘めていたことに、僕は全く気付けなかった。
あなたの隣にいるべきじゃないと思っていたのは、僕の方だった。
目先の利益を追うことしかできず、悲観的で、何をするにも人の何倍も努力をしなければならない僕。対して、物事を大局的に見ることができて、どんな場所でも前向きで、ひらめきに長けている彼女。人としてどちらの方ができているかなんて、見るまでもないことだと思っていた。
「アズール先輩は、私にとって星のような人でした」
「────星?」
「たくさん同じような星がある中でもいっとう輝いていて、誰かの指標になったり、誰かの足元を照らしてあげたりするような存在でした。誰のものにもならないのに、誰かのためになっている、優しい存在でした。だから────ダメなんです。それを私ひとりが閉じ込めてしまおうなんて、願うだけ分不相応なんです」
いやいやと首を振りながら、彼女らしくない泣き言が止める間もなく連ねられる。
そんなにも抱え込んでいたのか。そんなにも悩んでいたのか。
それを僕は────失うまで、察することすらできなかったのか。
いつも僕はそうだった。自分のことばかりで、彼女が何を考えているのか知ろうともしなかった。憧れるばかりで、そんなにも熱い想いを向けられていることなんて考えもしなかった。
だって、僕も彼女と全く同じだったから。
彼女がそんなことを思っているなんて、想像もしていなかったから。
「────僕もそうだった、と言ったらどうするんですか」
「え…?」
憧れていたのは僕の方だ。手に入らないと諦めていたのは僕の方だ。
好きになってしまったのは────僕の方なんだ。
だから、その言葉を吐くなら、僕の方であるべきだ。
「僕は、あなたに傍にいてほしかった。何も言わずにいなくならないでほしかった」
それが子供の駄々だとわかっていても、止められなかった。
どうしてもっと早く言ってくれなかったのかと、見当違いも甚だしいことを思った。
どうしてそんな素振りを見せてくれなかったのかと、我が身に跳ね返ることを思った。
「戻ってきてください。勝手にいなくならないでください。隣にいてください」
「だ…ダメです」
「何がダメなんですか」
「アズール先輩の隣にいる資格が、私にはないです。先輩にはもっと綺麗で優しい、完璧な人が────」
「いいえ、だからそれじゃあ僕の方がダメなんです」
綺麗な人なら、たくさん見てきた。
優しい人なら、たくさん見てきた。
でも、どれだけ着飾られた美人を見ても、細やかな気遣いのできる人を見ても、僕の心は全く動かなかった。
「だって────それはあなたじゃない」
もっと綺麗な人だって、もっと優しい人だって、この世界にならいくらでもいる。
それでもダメだった。もてはやされる数多の女性達を見る度、何かが僕をせっつくのだ。
でも、あれは彼女じゃないだろう、と。
化粧をする暇もなくあちこち忙しなく走り回る彼女。
誰かを思いやる前に世の正論を空気も読まずにぶちこんでしまう彼女。
僕の目を引いたのは、僕の心を惹いたのは、そんな不器用すぎる彼女だった。
だからこんなにも身を削って探した。他の誰でもない、他の誰も代わりにならない、ただひとり────彼女のことを。
「迷いがあるのなら、僕が全て燃やしてやります。だから────」
引き寄せようとした手が、震えていた。視界がぼんやりと滲むのは、まさか涙を溜めているせいなのだろうか。
「────だから…あなたの心を全て、僕に預けてくれませんか」
本心からその言葉を吐くのは、初めてのことだったかもしれない。
精一杯の虚勢を張って告白する僕を、彼女は呆然と見つめていた。
きっと本当にスマートな奴だったら、もっとロマンティックで上手な言葉を吐けたのだろう。
きっと本当に誠実な奴だったら、彼女の細い肩を一心に掻き抱けたのだろう。
でも、僕は臆病だから。こんなところでさえ、グズでノロマだから。
暗い海の底で蹲るだけのタコが、空を照らす星になんてなれるものか。
相応しくないのは、僕の方だ。星のように輝いているのは、あなたの方だ。
間抜けに突っ立ったまま、掠れる声で拒絶されることを恐れながら、僕は返事を待つ。
彼女は表情を取り戻すと────その大きな目に涙をたっぷり溜めて、がら空きになった僕の胸に飛び込んできた。
「!」
勢いに押されながら、彼女を支える。背中に手を回しても良いのかわからず手を宙に浮かせていると、嗚咽した彼女の声が体内に反響する。
「…いつか返されちゃうんですか」
「…え?」
「預けるって…いつか、私の心、返されちゃうんですか…。もらっては、くれないんですか…?」
知らず再び及び腰になっていた僕に、彼女の弱々しい声が重なる。
「もらっても…良いんですか」
「返されるくらいなら…こんなところまで来ないでください。探さないでください。連れ戻そうとしないでください。今すぐここで、帰ってください…!」
その声は、だんだんと大きなものになっていった。そして彼女の声が響く度、そこに募っていたのであろう覚悟が重くのしかかる。
心が重くなっていくと同時に、彼女が消えてからの数年がようやく脳裏に蘇る。
僕は何のためにここに来たのか。
拒まれる時のことなんて考えていなかった。困らせるかもしれないなんて心配している暇はなかった。
ただ、会いたかった。
その小さな肩を引き寄せたかった。
その煌めきのあるところまで流れて行きたかった。
消えてしまう前に、朝が来てしまう前に。
「あなたが欲しい」
やっと、行き場を失っていた手を薄い背中に回せた。そっと力を込めて、小さな星を抱き寄せる。
「私も…私も、たくさん格好良い男の人を見てきました」
「はい」
「運動が得意な人だってたくさんいましたし、厚意に対価を求めない人の方なんてそっちの方がよっぽど多かったくらいです」
「まあ、そうでしょうね」
「でも、誰もアズール先輩にはなれなかった。アズール先輩は、どこにもいなかったんです」
「…………」
「先輩」
「なんですか」
「私を…連れて行ってください。そしてもう二度と、離さないでください」
返事をする代わりに、背中を抱く腕に力を込める。
流れ着いた先は、彼女という星。いくつもの星々が輝く中で僕達はその日、同じ星座になった。
コブクロの「流星」から着想を得た話です。アズールが文字通り流れ星になって落ちてきたよ☆って話です。
多分この方法なら簡単に両方の世界を行き来できるので、監督生が無理にツイステッドワンダーランドに居座る必要はないんですけど、ロマンが欲しかったので永住してもらうことにしました。
あとツイステッドワンダーランドに帰る時も本当は海から帰らせたかったんですけど、現実的に考えて海面の月を追うのって無茶だよなあ…と思ったので、翌日辺りに監督生の部屋の鏡とか使って帰ることになると思います。親への置手紙とかもちゃんと書いて。でもその辺まで描写に入れるとロマンが欠けるのでやめておきました。
最後の最後に雰囲気ひっくり返すようなメタ発言を落としてすみませんでした。
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