その名前を私は知らない



"彼"が私の前に現れるのは、大抵数日に一度。連日やってくることもあれば、3日程空くこともある。どういうタイミングで日取りを選んでいるのかは知らないし、そもそもタイミングも何もなく、単に気分でふらりと立ち寄っているだけのような気もする。

それでも、マレウス・ドラコニアという…本来ならば常にすぐ傍に何人もの護衛をつけなければならないほどの要人は、頻繁に私の住処であるオンボロ寮を不定期で訪ねてくるのだった。

最初は彼の素性を知らず、「偉そうな人だなあ」としか思っていなかった。彼の優れた容姿についてグリムに話した上で、そういえば彼の名前すら聞いていなかったことを思い出した折、あの子が「じゃあツノ太郎」と勝手に命名をしたので、なんとなく私も彼の秘密を暴こうとしないまま"ツノ太郎"と呼び続けていた。

それがまさかあのディアソムニアの寮長で、茨の谷の次期王だったなんて、露ほども考えたことがなかった。とある学園行事の最中に偶然が重なって彼の本来の肩書きを知ることとなったのだが、その時の私の驚きようといったら。私はその時オンボロ寮にいたのに、植物園で昼寝をしていたレオナ先輩にまでその声は届いていたらしい(真偽は定かではないが)。

それでも、ツノ太郎は「ツノ太郎のままで良い」となぜかその名を慈しむように受け入れ、こうして今も夜が更けるとここを訪ねて来る。

「今日は良い夜だな」

その日はちょうど満月だった。元の世界より心なしか大きく見える月を背に、美しい妖精がオンボロ寮の敷居を跨ぐ。

「いらっしゃい、ツノ太郎。まさか今日来るとは思ってなかったよ。今日は寮長会議があるから、その後夜までスカラビアで宴をするってカリム先輩が言ってたけど」
「…今日は寮長会議があったのか?」
「え」

こんな感じで、彼はいつも孤立していた。肩書きのない一般生徒が単純に魔力量の多いツノ太郎を畏怖していることは当然として、なぜか同じ立場の寮長軍団からも(全く悪意なく)疎外されていたのだ。いつも誰も「マレウスを呼ぼう」と言わないせいで(どうやらこれは誰もが「誰かが呼んでるだろう」とお見合い状態になっているせいらしい)、彼は毎回こういった会合の日時を知らされずにいた。本当に、よくそれでディアソムニアは回せていると思う。副寮長のリリア先輩の力が大きいのかもしれない。

「また僕だけ呼ばれていないのか…」
「まあまあ、規模は小さいけど、そういうことならうちでパーティーやっていこうよ。今日は調理実習があったから私、ケーキを焼いてるんだ。グリムがまだ全部食べてなければ余ってるはずだし、紅茶もコーヒーもモストロラウンジの廃棄品を譲ってもらったから良いのが揃ってるよ。…あ、廃棄品って言っても消費期限が切れたとかそういうのじゃなくて、単にまとめ買いして余った分をバイト代の一部として分けてもらったっていうだけだから…」
「お前は本当によく喋るな」

そう言いながらも、ツノ太郎は機嫌を直して私について来てくれた。

…実は、私は元々そこまで口数が多いわけではない。そう言ったら、彼は驚くだろうか。

「苺のタルトか」
「そうなの。トレイ先輩が育てていた苺をこの間持たせてくれてね。入学した直後にケーキ作りは散々やってきてたから、むしろタルトは得意分野だったんだ。でも周りの子はクッキーとかマフィンとか、小さなものを作るばっかりだったから、私のが一番目立ってたんだよ」
「それは良かったな」

私は本来、どちらかと言うと無口な方だった。単純に喋るのが面倒だったし、相手の顔色を窺いながら適切な話題を選ぶのも苦手だった。だから初対面の人と当たり障りのない話をするならまだしも(「趣味は」とか「好きな食べ物は」とか、表層的なことを訊いておけば良いからだ)、二度目以降に相手と会った途端、私は"とても愛想の良い聞き役"となってしまう。要は、いわゆる"陽キャの皮を纏った隠れコミュ障"というわけだ。

そんな私がツノ太郎相手の時にだけこんなに饒舌になってしまうのかと言われたら、それはひとえに"ツノ太郎の方が聞き上手だった"というそれだけのことだった。

彼は私の────いや、人間の文化や価値観に異常なほどの興味を示す人だった。相槌自体は「ああ」とか「そうか」とか簡単なものなのだが、「お前の世界ではそれはどう扱われていたんだ?」とか「そこでお前はどう思ったんだ?」とか、一息つくとすぐにその話題を深堀りしてくるので、自然とこちらの口数も多くなる。振られる話に応えるなら簡単だし、彼がどんな話に興味を持っているのかもわかってくるというもの。
ツノ太郎がオンボロ寮に通い始めてからそろそろ3ヶ月が経つ。
その頃にはもう私は、"彼の興味を惹けそうな話"を随分と弁えられるようになっていて、そのせいで、訊かれるより先にペラペラと何でも話す癖がついていた。

「…よくできているな。甘すぎず、酸っぱすぎず…良い味だ」

ツノ太郎は、いつもやたらと私の作ったものを美味しそうに食べてくれていた。いつか「ツノ太郎って本当においしそうに食べるよね」と出来心で言ったところ、「昔僕が食していたものは到底食べ物と呼べる代物ではなかったからな」と言われてしまった。彼ほどの人がそんな酷い食事をとってきていたなんて、一体茨の谷の食文化はどうなっているんだろう。

「今日はね、錬金術ですごく綺麗な宝石を作れたんだ。あんまりにも可愛かったから、ツノ太郎が来るまでずっとそれをペンダントにしようと試行錯誤してて。良かったら見てくれる?」
「もちろんだ」

ツノ太郎が優雅に笑いながらそう言ってくれるので、私も心を高揚させながらテーブルの隅に置いていた小さなペンダントを彼に見せる。

「サファイアか。美しい」
「ありがとう。今日は他学年との合同授業だったんだけど、私のペアがヴィル先輩だったの。だから行程が完璧なのはもちろん、すっごく見た目にも拘ってて…私もびっくりしちゃった。これ、ちゃんと本物だよね?」
「本物だな」

ツノ太郎は優しい眼差しでペンダントを見つめ、それから同じ視線で私を見つめた。

「お前は魔力もないのによくやっているな」

その言葉に、じんわりと心が温まる。
できるだけ表に出さないよう努めてはいるものの、私はやはり自分がこの世界の異分子であることをどうしても悲観的に考えずにはいられなかった。いつ元の世界に戻れるかわからない、かといってこの世界で生きて行く手立ても今のところない。

そんな状況に、孤独感を覚えないことがあるだろうか。

ひとりぼっちが寂しかった。無力な自分が嫌いだった。
でも、この人と話していると、なんだか全てが些末なことのように思えてしまう。それはきっと、彼が見ている世界が異様に大きいからなんだろう。彼にとっては私の抱えている問題などそれこそ問題とすら言えない程度の軽いものなのかもしれない。だからこそ、私は彼の何気ない言葉にいつも救われていた。

「ありがとう、ツノ太郎。私、結構自分でも頑張ってる方なんだ」
「ほう? 聞いたところによれば、この間の小テストの結果は散々だったそうだが」
「うっ…耳が早いことで…」

この不遜な態度も、慣れてしまえば全く気にならない。むしろお陰でこちらも気を遣わずに済むので、彼と過ごす時間はとても楽しかった。
私なんかの話で笑ってくれるのを見ると、もっと笑ってほしいと願いたくなる。
私が落ち込んでいる時の優しい言葉の包容が、とてもむず痒く感じる。

もっとツノ太郎と一緒にいたい。毎日だって、ここを訪ねてきてほしい。
彼の傍にいると不思議と勝手に心拍数が上がっていくこの現象が、私はとても好きだった。

だから────。

「そろそろ寮に戻るとしよう。もてなしに感謝する」

そう言って、彼があっさりと帰ってしまうこの瞬間が、私はとても嫌だった。

「もう帰っちゃうの?」
「ああ、戻ってまだ寮内で審議していた会議資料に目を通さなければならないからな」
「そっか…そうだね、それなら仕方ない」

今度はいつ来てくれる?

その問いは、いつになっても掛けることができずにいた。
私が彼の訪問を迫るなんて面倒なことをしてしまえば、途端に彼は私の前から姿を消してしまうような気がしたのだ。

ここ数ヶ月の交流でよくわかったことがある。彼は、とても自由な人だった。

だから私はその日も、笑ってツノ太郎を見送った。
なぜだか、彼がいなくなった後のオンボロ寮は、やけに静かに思えるようだった。










「それお前、ドラコニア先輩のこと好きなんじゃねーの」

エースからそう言われたのは、その翌日の昼休みのことだった。
仲の良いエースやデュースは、私とツノ太郎が頻繁に会っていることを知っている。だからその日もなんとなく沈黙を破るための与太話として昨日のことを語っていたのだが────。

「ツノ太郎といるとね、なんだか嫌なことも全部忘れて、すごく温かい気持ちになるんだ。だから逆に帰る時がとっても寂しくて。次にいつ来てくれるかもわからないし、毎日お迎えする準備だけはしてるんだけどさ…」

気を許している友人の前でも、私は饒舌だった。
でも、それはあくまでそれに足るだけの濃密で長い時間があったお陰。ツノ太郎との距離の詰め方とはまた少し違った種類のものだった。

あの人といると、不思議な安心感がある。言葉ひとつかけてもらえるだけでなんだか嬉しいし、なんなら気まぐれで家を訪ねて来てくれた時のあの姿を見るだけで、「ああ、また一緒にいられる時間ができたんだ」なんて、まるで子供のようにはしゃいでしまう。

「でも、好きだとかそういうのは…考えたことなかったなあ…」
「マジで? つーかそもそもあのマレウス・ドラコニアとしょっちゅう会ってるって時点で俺は異常だと思ってるけどね」
「意外と話せる人ではあるが、自分からはなかなか近づこうとは思わないからな…」

エースの隣では、デュースも腕を組んでうんうんと頷いていた。

「でも、デュースはツノ太郎と話したことあったよね? 面白い人だなあとか、可愛い人だなあとか思わなかった?」
「面白い…というか、なかなか独特なセンスの人だとは思ったが…。可愛いとはあまり思えなかったぞ。デカかったし」
「だから、そこで可愛いとかトンチンカンなこと思ってる時点で、お前はあの人を特別視してるってことじゃん」
「えー…」

そう、なのかな。
でも確かに考えてみると、ツノ太郎と一緒にいる時のあの「このまま時間が止まっちゃえば良いな」なんていう感覚は、他の人では得られない気がする。それに時間が止まれば良い、なんて、改めて考えるとものすごいことを言っているのではなかろうか。

でも、これが恋って言うの?
なんだか昔読んだ少女漫画とは少し違う状況のような気がする。確かに彼と一緒にいる時間は私にとって何より大切だし、彼という存在そのものがそもそも他の人とは少し違った特別なものだ。
例えば相手に対して盲目的に「格好良い…!」なんて叫んでときめくようなあの感覚は、私にはない。他の人と親しげに話しているから嫉妬した、なんてこともない(まあうちは男子校なのでそもそもそういう機会がないだけかもしれないが)。

それとも、この安心感と楽しさも"恋"の一つの形なのだろうか。

「それにさ、ドラコニア先輩もしょっちゅうお前のとこに来てんだろ? それって結構向こうも満更でもないっていうか…案外お前に既に惚れ込んでたりしてな」

エースはニヤニヤした顔で、私達のこの不思議な関係性に探りを入れてきた。

でも…それもどうなんだろう。
嫌われてはいないと思う。でも、それこそ恋と片づけるにはあんまりにも淡泊すぎる気がする。

だってよくわからないけど、好きな子が相手だったらもう少しそれっぽい態度を見せてくるものじゃない? 毎日訪ねてくるとか…デートの約束をするとか…好意らしい言葉を吐いてみるとか…色々と方法ならあるはず。
でもツノ太郎の訪問はいつだって突然で、不定期で、そしてだいたい私の話を一方的に聞いて笑ってるだけ。"人の子"として関心を持たれているのだろうとは思っても、そこに"女性"としての意識があるかと言われたら…正直、ないだろうというのが本音だ。

「さすがにツノ太郎はそういうんじゃないと思うなあ」
「えー、じゃあお前もっと頑張れよ。ドラコニア先輩のこと"ツノ太郎"なんて呼べんのなんてお前くらいだし、やっぱ妖精の国の次期王様には異世界から来た異邦人くらいの肩書きがあるくらいでちょうど良いと思うんだよね」
「…エース、本音は?」
「浮いた話が周りになくてつまんねえからお前に一発やらかしてほしい」

まったく、この男子高校生め。私は肩をすくめて溜息をついた。

ツノ太郎とは今の距離感が一番心地良いんだ。彼女になりたいとは思わないし(まともに付き合っていけるとは思えないし)、まあ…向こうが私のことを好きでいてくれたら…そりゃあ、嬉しいけど…。

その日の授業終わり、私はエースのせいでずっと「今夜ツノ太郎は来るのかな」という考えを振り払えずにいた。
別に何かを期待しているわけじゃない。ツノ太郎が私のことを好きだなんてやっぱり信じられないし、私のこの気持ちも恋なんてものではないと思う。

でも、じゃあ…毎晩彼がいつ来ても良いようにってお茶やお菓子の用意をしていたのはどうして? 彼に笑ってほしくて色々な話を雄弁に語ってみせていたのはなぜ?
ツノ太郎との時間が他の人と過ごすものと全く違うって思っているなら…それは、どう違うっていうの?

昨日放置してしまっていた掃除や洗い物を片付けながら、私はひたすらツノ太郎のことを考え続けていた。

そりゃあ、綺麗な人だとは思うよ。優しいし、強いし、賢いし、ステータスだけを見たら十分に好きになってしまえそうな要素が詰め込まれている。
でも、私は彼のそんなところを見て付き合っているわけではなかった。ちょっと偉そうなところや、意外と人間界のことに興味津々なところが子供っぽかったり…そんな"等身大"な姿が、好きだったのだ。…あれ、好きって言っちゃってる。

私って…実はツノ太郎のことが好きだったの…?

いやいや、でも"好き"にも色々あるじゃない。
尊敬の好きかもしれない。もしかしたら、もう少しだけ距離を縮めて親愛の好きかもしれない。

特別だからって、なんでもかんでも恋愛になるわけじゃない。
心の中で今更エースにそんな文句を垂れつつ、ちょうど玄関周りの誇りを取り払ったところ、突然玄関のチャイムが静かな廊下に鳴り響いた。

「!!」

この時間、このタイミングでの訪問。人影は一人、この学園の誰よりも大きなシルエット。

間違いない、来たのはツノ太郎だ。

音と訪問者の衝撃でびくりと体が跳ね、反射で手に持っていた陶器の大きな花瓶を思い切り床に叩き落としてしまう。

ガッシャーン!!

ものすごい轟音が鳴った後、あたふたと花瓶を拾い上げようとした時────。

「…何をしているんだ」

控えめにドアを開けて、ツノ太郎が訝しげに割れた花瓶と私を交互に見つめた。

「あー…その、手が滑って」
「珍しいな」

そう言うと、彼はペンも使うことなく割れた花瓶を綺麗に元の形に戻し、元会った場所に返してくれた。

「ツノ太郎こそ、連日で来るなんて珍しいね」
「ああ、今日は少しお前と話をしたい気分だったんだ」

都合は良かったか? と訪問してから尋ねてくるツノ太郎。その相変わらずの勝手さに、私はつい笑ってしまう。笑ってしまうと同時に────予想外の邂逅を必要以上に喜んでいる自分がいるようだった。

綺麗な緑の瞳。艶のある黒髪。首が痛くなるほど見上げないと、その視線は合わない。
昼間エースに変なことを言われたせいで、今の私は彼の顔を見るだけで妙にドキドキしてしまっていた。

違う。これはそういうのじゃない。

なぜか一生懸命自分に否定の言葉を言い聞かせながら、私は彼をいつもの談話室まで案内する。

────お前と話をしたい気分だった、かあ…。

元廃墟だったこの建物は、ツノ太郎のお気に入りスポットだった。元々はそんな理由で、彼はここを訪ねていたものだったのに。
どうして今日に限ってそんなことを言うんだろう。こちらはできるだけ彼のことを意識したくないのに、思わせぶりな言葉がどうしても頭の中でリフレインする。

「今日ちょうど新作のクッキー缶を買ったところだったんだ。一緒に開けよう」
「ああ」

隣にいるけど、決して触れ合わない距離感。それが一番心地良いって、確かに昨日まではそう思っていたはずなのに────今は、なぜだかひどくもどかしい。

談話室の明かりをつけ、ツノ太郎がいつもの椅子に座ったところで、私はキッチンからクッキー缶を出し、同時にお湯を沸かして紅茶を淹れる準備をする。
ツノ太郎のあの発言には全く他意がないはずだ。彼は純粋に人として私のことに興味を持っているっていう、ただそれだけのこと。わかってる。わかってるのに────どうして私はそこで、期待をしてしまっているんだろう。

数分後、ティーカップを2つとティーポット、それから真新しいクッキー缶を持ってツノ太郎の前の席に座った。

「今日はどんな一日だったんだ?」
「ええと、普通だったよ」

なんだかうまく話せない。普段自分がどれだけくだらないことばかり並べ立てていたのか、それが思い出せないのだ。おかしいな、彼がどんな話題になら関心を示してくれるのか、それはわかっているはずなのに…。元来の性格が、こんなところで出てしまった。会話の引き出しに一斉に鍵をかけられたような気分だ。どこからどの話を持ち出したら良いかわからないし、今何かを言おうとしたら途端に舌がもつれてしまいそう。

どうしよう。ツノ太郎の顔が直視できない。彼は至って平常に紅茶を一口飲んで「美味いな」と言ってくれたけど────「ありがとう」と答えた私の声は、少し上擦っていた。

「…なんだか今日は様子がおかしいようだが」

目敏いツノ太郎は、いつまで経っても俯いてモジモジしている私の変化をすぐさま口にした。

「そ、そうかな…」
「口数が少ない。不注意で花瓶を割る。それに…なんだか、顔も赤いようだ。体調が優れないのか?」

ああ、顔を覗き込んでこないで。

ドキン、ドキンと心臓の鼓動がやたらはっきりと聞こえるようだった。
今この空間にいるのは私とツノ太郎だけ。そんな当たり前の事実をなぜかこの瞬間唐突に自覚してしまい、私は余計に混乱するばかりだった。

どうして? エースに変なことを言われたから? でも、たったそれだけのことで急にこの人のことを意識してしまうの? 私って…そんなに軽い女だったっけ?

ツノ太郎に何も言えない代わりに、脳内の私はやたらとうるさく自分に話しかけていた。でも、どの疑問にも私は答えてあげられない。ただ事実として、私は今────彼と共に過ごしているこの時間に、とてつもなく高揚してしまっていた。

「それにさ、ドラコニア先輩もしょっちゅうお前のとこに来てんだろ? それって結構向こうも満更でもないっていうか…案外お前に既に惚れ込んでたりしてな」

そんなこと、ないよ。だって彼は"オンボロ寮"目当てで"自分の気が向いた時"だけここに来るんだから。

でも────今日は私に会いに来てくれたんだって。
寮長が忙しいことは、リドル先輩なんかを見ているからよくわかってる(レオナ先輩みたいな例外もいるにはいるけど)。そんな中で彼は合間を縫って、こうして昨日に引き続き今日も会いに来てくれた。そう、昨日も来てくれたのに、だよ?

自分みたいな凡人が彼の目に留まるとはとても思えない。分不相応だってことくらい、ちゃんとわかってる。
それなのに、ここでも私の冷静な判断を邪魔してきたのはエースだった。

「ドラコニア先輩のこと"ツノ太郎"なんて呼べんのなんてお前くらいだし、やっぱ妖精の国の次期王様には異世界から来た異邦人くらいの肩書きがあるくらいでちょうど良いと思うんだよね」

私自身は普通でも、私が持ってるステータスは特別なもの、確かにそれはそうだ。
だからツノ太郎は私のことを気にかけてくれてるのかな。

ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、ツノ太郎と付き合ってみた未来を想像する。

お互いに暇を持て余した、柔らかな昼下がり。一緒に植物園を散歩したり、街にお買い物に出てみたり、普段は立ち入らせていない私の自室でまったり寄り添って過ごしたり────。

…なんだか、それってとても素敵なことなのではないだろうか。

特別な人が、私のことも同じように特別に思ってくれている。
ツノ太郎の手、とっても綺麗。触れてみたら、やっぱりごつごつと骨ばってるのかな。
ツノ太郎の体、とっても大きい。あの胸に飛び込んでみたら、きっと良い匂いがするんだろうな。

────いや、だから私、何を考えてるの?

「つっ…ツノ太郎はさ」

このまま自分とばかり会話していたら、いよいよ気がおかしくなりそうだ。この胸が詰まる感覚の正体はわからないけど、それでも何かしら言葉を発することで少しは心の貯水タンクの容量も減るのではないかと思い、私は何も考えないまま彼に声を掛けた。

「その…好きな人とか、いるの?」

私の馬鹿ーーーーーーーーー!!!!!!!

どうして今その話題を選んだの!? いや、確かに気になってたよ!? でも今じゃなくても良かったよね!?

話題を心のままに任せたのが悪かった。胸につかえて取れない衝立を取り去ってしまった結果、流れ出したのは"私は彼の特別になれる?"というあまりにもエゴが過ぎる言葉だったのだ。

だからどうしてそんなことにばかり気が行ってしまうのだろう。私はただ、ツノ太郎のことを────好きだって────何の"好き"かはわからないけど────ただ一方的に、そう思っていただけなのに。
彼とこんな話をするつもりはなかった。彼が"私"という"女性"に何かしらの感情を持っているはずがないとわかっていたから。そんな話、するだけ不毛だと思っていたから。

でも、今日ばかりは訊かずにはいられなかった。自分で出せる話題がない以上、彼の方に何か話してもらうしかない。そして、今一番私が知りたかったのが、その情報だった。

「随分と唐突だな」

ツノ太郎も、これには流石に驚いたような顔を見せた。完全に選択を間違えた。

「────好意を寄せている相手はいない」

────そして、返ってきたのはそんな答え。
しかし、言葉はそこで終わらなかった。

「そもそも僕には故郷に許婚がいる。恋愛をする必要もないし、そういう相手を作るのはむしろ彼女に失礼だろう」

かん、と何か軽い、しかしとても硬い何かが頭にぶつかったような気がした。

「ツノ太郎、許婚…いたんだ」

舞い上がっていた気持ちが急速に萎えていくのを感じる。
そりゃあ、そうだ。未来の王様なんだから、当然それに相応しいお相手がいる。異世界から来た身元不明の少女なんかに、それが務まるはずがないのだ。

…私、何を勘違いしていたんだろう。

ツノ太郎の特別になれたらなんて、一瞬でもそんな妄想をした自分を恥じた。
ツノ太郎のことが好きだなんて、一瞬でもそんな傲慢な感情を持った自分を呪った。

おかしかったのは、私の方だ。最初から、私だけがおかしかったんだ。

だって────私、この時になって初めて、ツノ太郎に────恋をしてしまっていたんだって、気づいてるんだから。
おかしいよ。ずっとつかえていた胸が一気に張り裂けて、血を流しているみたい。

息苦しさはなくなったけど、代わりにやって来たのはとんでもない痛みだった。

きっと私は今まで無意識に、感情に蓋をしていたんだ。好きという気持ちを抑えきれない代わりに、その"好き"の意味をわざと履き違えてみせることで、なんとかこの距離感を保ち続けようとしていたんだ。だって、この深夜の逢瀬だって"特別"であることに変わりはないんだから。

…ああ、そうか。
彼は私のことを"ただの人間"としか思っていなかったからこそ、こうして度々会いに来ていたんだ。だってそこに少しでも"女性"としての意識があったら、大切にしている許婚をよそに他の女と夜に会ったりなんてしないもんね。

そうか。そうだったのか。

「…それがどうかしたのか?」
「ううん、なんでもないよ」

私の声は、まだ上擦ったままだった。でもこれはさっきみたいな浮かれきった調子じゃない。後ろめたいことを隠そうとしているかのような、そんな違和感が声に漏れていることが、自分でもはっきりとわかった。

「…ツノ太郎、ごめん。やっぱりちょっと体調が良くないから、今日は少し休んでも良い? 寮の中は好きに歩いてくれて良いから」
「そうか。温かくして眠るんだぞ」

ツノ太郎は今日の私の不審な言動の全てを"体調不良"で納得してくれたようだった。
私はもう一度「ごめんね」と言って、まっすぐ自室へと戻り、そのままベッドに倒れ込んだ。

心から流れ出した痛みが、涙となって私の頬を伝う。
改めて思う。ああ、やっぱりあんなこと訊かなければ良かった、と。

何も言わずにいれば、今も私は"ツノ太郎のことが好き"と他意なく言って、少し離れた距離から楽しい話だけをべらべらと喋っていたことだろうに。
尊敬でも親愛でもない"好き"なのかもしれないと、少しでも迷ったのがいけなかった。そのせいで、私は────。

────恋を知り、そしてその瞬間に、恋を失った。









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