あなたの知らない物語
彼女のことが、好きだった。
今まで海の中の世界しか知らなかった自分にとって、陸の世界のあらゆるものが僕の関心を引いた。火や紙や、そして────異種族間での、交流の仕方など。
そんな中で、殊更僕の関心を引いたのが、異世界から来たという小さな少女だった。
こちらの常識も、普通なら誰もが持っている魔力も、何一つ持たない無力な稚魚だった。
それでも彼女の瞳から光が消えることはなかった。
新しいものに目を輝かせ、未知のものにも恐れることなく、どんな困難をも勇敢に乗り越えていく。
彼女の行動は、無力であるが故のことなのか────どこかいつも、こちらの予想を遥かに上回るような突拍子もない(あるいはあまりに無謀な)ものばかりだった。
その様を見ているのが、どうしようもなく面白かった。
予定調和を乱されることが楽しいとは、我ながら倒錯した趣味だとは思っている。
でも、せっかくこの世界に生を受けたのだ。僕は残念ながらあまり動じない性質のようなので、そんな僕のことですら驚かせてくれるような存在に興味を持つのは、必然のことだった。
────僕は、とても小さなこの生き物に、惹かれていた。
でも、彼女はそうではなかったらしい。会えばいつだって礼儀正しく「こんにちは、ジェイド先輩」と声をかけてくれるが、決してそれ以上踏み込んでこようとはしなかった。彼女が破天荒な振舞いを見せるのは、いつだって彼女自身が窮地に陥った時か、彼女が心を開いている数少ない友人の前でのみ。
いくらなんでも、自分が周りからどう評価されているかは、わかっているつもりだった。
"何をされるかわからない先輩"、"その目を見てしまったが最後、逆らえない"。そんな評判を聞いて一般的な危機感を持てる程度には、彼女は"普通"の人間だった。
面白い人だと思って観察していたのに、肝心なところだけ面白くない。
どれだけ他意なくお茶に誘ってみても、勉強を教えましょうかと申し出ても、彼女はいつだって僕とどこか一線を引いていた。
「お茶会、素敵ですね! トレイ先輩がケーキを焼いたってさっき連絡をくださったので、良かったら先輩も一緒にハーツラビュルに行きませんか? 寮長には私が掛け合ってみますから」
「勉強を教えてくださるなんて、親切にありがとうございます。エースやデュース達と勉強会を開く予定になっているので、もしご迷惑でなければ一緒に講義をしてくださいませんか?」
彼女は決して、僕と2人きりの時間を作ろうとはしなかった。
わかっている。彼女はわかりやすく、僕を警戒していた。それでもなお、こちらの気持ちを害さないラインは弁えているようで────警戒しているくせに、彼女の笑顔はいつも宝石のように眩しかった。
「ジェイド先輩、お疲れみたいですね。紅茶でも淹れてきましょうか?」
僕のことが怖いというのなら、そんな風に労わないでください。
「この間先輩が勉強を教えてくださったお陰で、小テスト満点取れました!」
僕と距離を置きたいというのなら、そんな風に笑顔を見せないでください。
彼女は一人前に危機管理ができる人間だった。それでも、基本的には人懐こくて情に厚い、"ただの優しい人間"だった。────そんな彼女の自由な在り方が、僕の心を蝕んでいく。
きっと彼女は、色々な友人と等しく楽しい時間を共有したいだけなのだろう。誰か一人に深入りすることはせず、どんな人とも同じ距離感で────例えば静かに読書をしたい時にはリドル君を呼び、ぱっと盛り上がりたい時には1年生の仲が良い友人を呼んでいたりというような────多様な"楽しいこと"に対して、"それを心から楽しめる人"を選びながら付き合っていく性分のように見えていた。
だから、僕がそんな中で彼女の"特別"に収まることは、とても難しいことだった。
彼女が誰かひとりを特別に据えるなら、それはきっと、僕が彼女に対して感じているものと同じか、あるいはそれ以上に鮮烈な印象を与える人物でなければならないのだろう。当たり障りのない関係だけでは落ち着けないような、もっと、彼女の貪欲な興味を惹くような────。
「ジェイドぉ、オレ、小エビちゃんと付き合うことになった」
────フロイドからそう言われたのは、彼女への恋心を自覚してから3ヶ月は経とうかという頃だった。
もちろん、その時に驚きが全くなかったといえば嘘になる。しかし僕は心のどこかで、あんな破天荒な少女が結ばれるのであれば、それは自分の片割れの外ないのではないだろうか、とも思っていた。
「…そう、ですか。おめでとうございます」
フロイドも彼女に随分と執心していることは知っていた。幼少期から苦楽を共にしてきた仲なのだ。面白いものを共に面白いと思い、つまらないものを共につまらないと思う。周りからよく「リーチ達は顔こそ似てるけど、あんま中身は似てねえよな」なんて言われていたが、僕達の根幹は同じだった。未知なるものへの興味、自分を飽きさせないものへの執着。
直接聞いたことがなくともわかる。
フロイドもきっと、自分と同じタイミングで彼女に恋をしていた。
「あの子、可愛いよね〜。一生懸命さが空回りするとことか」
ええ、よくわかります。
「学校の生徒にビビッてんのか知らねえけど、うまくやり過ごしながら一線を引いてるとことか、意外と強かだなって思うし」
本当にその通りですね。
「オレ、ずっと小エビちゃんの傍であのコロコロ変わる表情、見てたいなあ」
目を細めて窓の外を見ている片割れを前に、僕は曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。
そんなこと、僕だってわかっていた。僕だって同じことを感じ、同じものを求めていたのだから。
でも、憶病な僕は行動に移すことができなかった。フロイドのように、自らの欲求に素直なまま周りを巻き込んで大きなことをしでかすことなど、とてもできなかった。
だからきっと、彼と僕の間に彼女が差を見出したのは、そこにあったのだろう。
もし、もし────。
僕ももっと早く彼女に気持ちを伝えていたら、結末は変わっただろうか。
なんということのない日常が僕にとっては特別なのだと理解してもらえていたら、この気持ちも少しは報われる余地があっただろうか。
それでも、もはやこうなっては全てが後のまつりだと言わざるを得なかった。
行動したのはフロイドだ。彼が僕に持っていないものを全て持っているのは事実。そして、彼女が欲したものがそんな"僕にないもの"だったというのなら、きっと最初から、僕に彼女の隣に立つ資格などなかった。
それでも僕は、彼女に恋をし続けた。
恋心とは、どうにも自分の気持ちで制御できるものではないらしい。彼女がもはやフロイドの番なのだとわかっていても、彼女を見る度に世界が一回り明るく見えるようだった。フロイドと話しているその笑い声ですら、まるで耳元で鮮明に聞こえる鳥の囀りのように聞こえた。
「あ、ジェイド先輩! この間フロイド先輩と一緒にクッキー作ってみたんです、良かったら食べてみてくれませんか?」
彼女はフロイドを付き合ってからも、僕に変わらない態度で接し続けてきた。当然だろう、だって彼女の中ではただ"フロイド"が特別になっただけで、僕は最初からその辺りにいる凡夫と変わらないのだから。
それでも。
「ありがとうございます、おいしくいただきますね」
僕は、彼女との思い出がひとつでも多く欲しかった。
一線を引かれていたって構わない。むしろそのくらいの距離を取ってもらえる方が、こちらも何の気兼ねもなく近づけるというもの。
「今度フロイド先輩とショッピングに行くんですけど、ジェイド先輩も良かったらどうですか?」
「おや…でもせっかくのデートなのに、僕がお邪魔してしまってはご迷惑ではありませんか?」
「とんでもない! フロイド先輩ともよく話してるんです、『ジェイド先輩さえ嫌でなければ、3人で仲良くしたいね』って」
3人で、か…。
それでもきっと、そこに疎外感があることは否めないのだろう。
僕は一生、片割れと楽し気にすごす彼女の横顔しか見ていられない。
わかってはいても、断れなかった。
そうやって僕達は、"先輩"と"後輩"という隔てられた距離感のまま、小さな思い出をいくつも積み上げていった。
お互いにNRCを卒業してから約3年後。
フロイドと彼女の結婚が決まった。彼女は結局、元の世界に帰る手立てを見つけられなかったらしい。あの飽き性のフロイドが真剣な顔で「それならこっちで、オレとずっと一緒にいて」と言ったその覚悟に、彼女は応えたのだそうだ。
周りにはそれを祝福する声が満ち溢れている。当然僕も、にっこりと笑って2人の門出に惜しみない拍手を送った。
大切な片割れと、ずっと大好きだった人が結ばれた。
どうせ誰かに取られてしまうなら、どうせ自分が選ばれることがないのなら、その相手がフロイドだった────これだけが、幸いしたのかもしれない。悲しみも嫉妬もないと言えば嘘になるが、それでもこの片思いが虚しく散っていくだけなのだとわかっているなら、彼女だけでも幸せになったことを喜ぼうと思えるくらいには…僕も、きっと大人になったのだろう。
本当は、今だってあなたに好きだと伝えたいけど。
本当は、今だってあなたに振り向いて欲しいけど。
それでも僕は、笑顔を繕い続けた。荘厳な教会の中で誓いのキスをする2人を見ている時も、披露宴を終えて新婚旅行へ出かけて行った2人を見送った時も、僕はずっと笑っていた。
そして、とうとう2人に娘が産まれたという報せが届いた時も────僕は、ありったけのベビー用の洋服や知育玩具をこれでもかというほど買い占めて、彼らの幸せを祝いに行った。
「わあ、こんなにたくさん…! ありがとうございます!」
すっかり"フロイドの妻"らしくなった彼女は、まだ毛も生え揃っていないような小さな赤子を僕に抱かせてくれた。
フロイドと彼女の子供。どちらも大好きな人で、どちらも僕の傍にいてほしいと思っていた2人が、揃って僕の元を離れ、こうして2人だけにしかなしえない愛の結晶を生み出した。
────ここに来る前は、正直嫉妬で何か失言でもしてしまうのではないだろうかと、不安に思っていた。
しかし、その赤子がぱちくりと目を瞬かせ、僕の頬を触った時────僕は、なんとも形容しがたい感情に襲われた。嫉妬もある。寂しさも、後悔もある。
未だに僕は「あの時フロイドより先に告白していれば」、「フロイドと付き合っていることになど構わずアプローチをしていれば」なんて考えていたくらいなのだ。そこに負の感情が伴わないわけなどない。
だというのに、フロイドによく似た髪の子供を、そして彼女によく似た瞳の子供を見た瞬間────僕は、それを"愛おしい"と思ってしまった。
2人のことをどちらも愛していたからだろうか。そこに僕の割り込める余地がないことにどうしようもない絶望感を抱きながらも、その赤子を憎むことが、僕にはできなかった。
それから僕は、まるで彼女に抱いていた大きな感情を発散させるかのように、彼らの幼子に目をかけるようになった。
稼いだ金のほとんどを小さな娘に注ぎ込み、意外と常識的な教育を施しているフロイドに替わって最大限に甘やかす。
────そうやっているうち、娘に物心がついて、そこそこ背丈も伸びた頃、僕はすっかり「良い叔父さん」になってしまっていた。
「もー、ジェイドってば甘やかしすぎー! こないだ小エビちゃんが新しいお洋服は一着だけ、って喧嘩しながら我慢させたのに、店ごと買い占めてきたら意味ねえじゃん」
フロイドは不満げにそう言っていたが、その後ろにいる娘のキラキラとした瞳を見ていると、つい思い出してしまうのだ。
────学生時代、新しいものに触れてはいちいち大仰にはしゃいでいた彼女のことを。
「ジェイドおじさん、こんなに私にくれるの!? ありがとう! 大事に着るね!」
それから更に幾年かが経ったが、僕の貢ぎ癖はどうにも治る気配がなかった。
その日も両手にたくさんのショッパーをぶら下げながら現れた僕に、娘は(教育の賜物だろう)嬉しくて仕方ないといった顔はそのままに、丁寧なお礼を言ってくれる。
「そうだ、お礼にさっきママとクッキーを作ったの。お紅茶も初めて私が淹れたから、ジェイドおじさんに食べてみてほしいな!」
「ジェイド先輩、お疲れみたいですね。紅茶でも淹れてきましょうか?」
「あ、ジェイド先輩! この間フロイド先輩と一緒にクッキー作ってみたんです、良かったら食べてみてくれませんか?」
────不意に、学生時代に彼女から掛けられたそんな無垢な言葉を思い出した。
もう今年で齢13歳になる彼らの娘。外見はフロイドに似ているようだったが、その性格は────悲しくなるほど、彼女によく似ていた。
「────そうですか、それはとても楽しみです。ありがたくいただきますね」
そして、出されたクッキーの味が、まるであの頃貰ったものと全く同じような味がしたように思えて────。
思わず、まじまじと娘の顔を見つめてしまった。
「? おいしく、なかった…?」
「いえ、とても上品な味がします。いくらでも食べられてしまいそうですね。お母様に教わったんですか?」
「そうなの! ママね、お菓子作りがとっても上手で!」
ああ、よく知っていますよ。
でもあの頃はまだ不慣れだったから、たまに消し炭のようなものを持って来られた時もあったものだった。あくまで彼女は徐々に時間をかけて、その腕を上げていったのだ。そして僕は、一線を引かれていながらも、彼女のそんな成長を常に見続けていた。
…あれから、そんなに時間が経つのか。
過ぎ去ってしまった悔恨の念を噛みしめながら、よく知った味を喉の奥に押し込む。娘は本当に僕がそのクッキーを喜んでいると思ったのか、再び顔を輝かせ────僕にはあまりにも眩しすぎる笑顔でぴょんと向かいの椅子に飛び乗った。
「ねえ、私、ジェイドおじさんが服を買ってきてくれるのとっても嬉しいけど、今度は私もおじさんとお買い物に行きたいなあ! 私はまだお洋服を買えるお金を持ってないけど、ジェイドおじさんに似合いそうな服を選んでみたいの!」
「僕と…ですか? でも、お父様やお母様と一緒に行った方が楽しいのでは…」
「ううん、もちろんパパもママも大好きだけど…私、ジェイドおじさんとも仲良くしたい! パパ達とよく言ってるんだあ、ジェイドおじさんはパパ達にとっても大事な人だから、4人で仲良くしたいねって!」
「今度フロイド先輩とショッピングに行くんですけど、ジェイド先輩も良かったらどうですか?」
「おや…でもせっかくのデートなのに、僕がお邪魔してしまってはご迷惑ではありませんか?」
「とんでもない! フロイド先輩ともよく話してるんです、『ジェイド先輩さえ嫌でなければ、3人で仲良くしたいね』って」
────こんなところにまで、"あの頃"の面影が残っている。
何も言い出せなかった僕。何も行動できなかった僕。そんな僕のことなど歯牙にもかけず、片割れを選んだ彼女。そして、その愛を貫き通し────自分達の要素を半分ずつに分けて生み出された、彼らの宝物。
時の流れは残酷だった。まるでこれでは、僕だけが進みゆく時間の中に取り残されているようだ。
この娘を見ていると、どうしても学生の頃の────淡い片思いをしていた、あの切なさが思い出されて仕方ない。この瞳を見ていると、どうせ何もできやしないというのに、その奥の光を求めたくて仕方なくなってしまう。
…随分と馬鹿なことを考えているものだ。この子は"彼女"じゃない。そもそも13歳などという子供を前に、もう30歳をとっくに超えた自分が昔の拗らせた恋心を重ね合わせること自体が許されないのだ。こんな想いは、筋違いにも程がある。
「娘がとっても喜んでました。クッキー、完食してくださってありがとうございます」
物凄い量を作ったのに、たくさん食べるところは変わっていないんですね、と、娘が自室に戻って行った後、彼女が改めて紅茶を淹れなおしてくれた。フロイドは今、娘と一緒に遊んであげているらしい。ここにいるのは、僕と彼女の2人だけだった。
「いえ…とてもおいしかったですよ。あなたの教え方が素晴らしいんでしょうね」
「ふふ、相変わらず褒め上手ですね」
少しだけ年を取った彼女は、それでも十分に魅力的だった。髪を伸ばし、化粧を施し、自分の体のラインに合ったワンピースを着こなしている。学生の頃はどちらかというと大雑把で粗野な言動が目立つようだったが、今ここにいるのは紛れもない"淑女"だった。
そんな変化を前にしても、思う。
心底自分は、この人のことが好きなのだと。
彼女の娘を見て、かつての胸を焦がされるあの想いが再燃するほどに。
「────監督生さん」
「はい?」
好きです。今でも、あなたのことが好きです。
「…いつまでも、フロイドと…娘さんと、お幸せに暮らしてくださいね」
その日、僕は何度目か知れない"嘘"をついた。
もし、誰かと結ばれる理由を"運命"だと仮定するなら、きっと僕の運命は彼女の手元になかったのだろう。だからもう、僕にできることは何もない。
もし僕が何かの物語の主人公だったなら、きっと彼女の隣にいたのは僕だった。でも、彼女の物語の中に、僕はいなかった。
ただ、それだけのことだった。
「ありがとうございます、ジェイド"先輩"」
彼女は最後まで、僕と一線を引いていた。
フロイドだけは、きっとジェイドの気持ちを知っていた。
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