愛を知った日
※卒業後描写あり(デュースの進路(?)については後日判明したため捏造になっています)
※エース寮長・デュース副寮長の描写あり
『恋とは、特定の人に強く惹かれ、また切ないまでに想いを寄せることを指す。』
文字の上でなら、そんな曖昧な感情の定義など幼い頃からとっくに理解していた。
だから自分の彼女へ向けるこの気持ちが"恋"なのだろうということにも、早々に気づいた方だと思う。
ケイトなんかは「リドル君ってちゃんと恋できたの!?」などと失礼極まりないことを言ってきていたが、辞書で定義されたその言葉を自分に落とし込む作業なら、むしろ得意分野とすらいえることだった。
どんな明るい星より煌めいて、どんな強い炎より燃え上がる。
"強く惹かれる"なんて言葉を反芻するより先に、体が引き寄せられている。
"想いを寄せる"なんて言葉では足りないほど、彼女のことで思考を奪われてしまう。
最初は言うことを聞かない厄介な異世界からの訪問者、とそんな意味で目をつけていたはずだったのに。いや、逆にそこで彼女に"目をつけてしまった"のが悪かったんだろう。
制服の着こなし、マナー、勉強、生活習慣に至るまで、彼女はこの学園の生徒としてとにかく未熟だった。入学早々に自分が少なからず迷惑をかけたという自覚もあり、ボクは何かと彼女に世話を焼くようになっていた。
そんな日々の積み重ねが、彼女をボクの"特別"に仕立て上げてしまった。
ボクにとって"文字の上でしか理解できない"はずだった感情が自分に宿ったことには、少々意外性を覚えていた。
それにどうせ恋をするなら、きっとその前に何かとてもドラマチックな出来事が起こるのだろうとも思っていたので、そんなささやかな予想を裏切られたことにも正直驚いた。
そう、ボクはあまりに"自然に"彼女に恋をしてしまっていた。
その感情は、ほんの些細な日常の上にある日突然現れたのだ。
ボクを見る度、何度注意しても廊下を全力で駆けてくる彼女の笑顔を見ているうちに。
知らない世界に突然放り出されて心細かったろうに、それでも未来を信じて生き抜こうとした彼女の努力を知るうちに。
これまでずっと、他人に敷かれたレールに乗ることだけが正しいと信じてきた。そんなボクにとって、何度脱線してもその度に自分の手で新たなレールを作ってみせるその細腕は、どんな剛腕よりも強く見えた。
そしてそれを思い知った時、ボクは彼女に対して"憧れ"という感情を抱いていることを自覚し────同時に、その憧れこそが"恋"なのだと気が付いた。
ボクより小さいのに、彼女のその心映えはなんと大きく見えるのだろう。
ボクよりずっと弱くて頭も悪いのに、彼女のその姿はなんと眩しく見えるのだろう。
恋という感情は、そんな憧れに浸っていた日々の隙間で偶然見つけたものだった。
だから、彼女もまたボクに恋をしているのだと知った時は素直に嬉しかった。
「リドル寮長…あなたのことが、好きです」
分不相応なのはわかっています、気持ちだけ伝えたかったんです。
彼女はそんな時でさえ、その恋心を秘めていようと怖気づいていたボクの背中を強く叩くように凛々しく立っていた。恥じらいも後悔もない、ただ自分がそう思ったのだから素直に伝えたのだ、そんな彼女のまっすぐな気持ちが十分に伝わる表情をしていた。
ああ、ボクはいつも彼女から学んでばかりだ。表面的な学問や魔法のことを教えることはできても、人としての在り方はどうしたってこの小さな女の子には敵わない。
「…キミに、何かを教えてもらう日が来るなんてね」
ボクも好きだよ、彼女に遅れて自分もそう気持ちを率直に伝えると、当の彼女は相当驚いていたようだった。驚いて、顔を真っ赤にして、それまでの威勢はどこへ行ったんだいと尋ねたくなるほど「えっ、うそっ、そっ、りょうちょ…が、えっ」とどもり始める。
そんな様ですら、愛おしくて。
ボクらは狭い学園の中で、短い学生生活の中で、できる限りの時間を共に過ごした。
周りからは「学園一の秀才と学園一のポンコツが付き合っている」と揶揄われることも少なくなかったが、そういう時は大抵ボクより先にエースとデュースが相手をひれ伏せさせていた。
「…私は気にしてないんですけど、リドルさんにとっては確かにあんまり良くないですよね、私みたいな出来損ないと付き合ってるなんて…」
今日も例によってあの二人が他寮の生徒と暴力沙汰を起こしたと聞いて頭を痛めていたところで、彼女が心配そうにそう言った。
「キミは何を言っているんだい。ほら、顔をお上げ」
そうだよ、キミは何を見当違いのことを言っているんだ。
学園一の秀才と学園一のポンコツ? キミ達は一体何を見てそう思うんだ。
試験の結果がどうでも良いというわけじゃない、でも、それだけでしか人を測れないとはあまりにお粗末が過ぎるね。
「キミのことを知らない他の生徒が何と言おうが、僕には一切関係ないよ。キミが魔法を使えないのは、魔法のない世界から来たんだから当たり前のことだろう。キミが試験で良い点を取れないのは、皆が幼い頃から既に習っていることまで一から勉強をしなければならないからだろう。キミが毎日努力をしていることは誰よりもボクが知っている。そしてそのボクが、キミの努力を誰よりも尊いものとして認め、尊敬すると言っているんだ。キミはボクの言葉を差し置いて、他の人間の言葉に惑わされるのかい?」
この煌めきを知らない人間に何を言われたところで、痛くも痒くもない。怒りすら湧かない。
彼女の試験などでは測れない強さを知らないままでいるなんて、ただひたすらに哀れだと思う。
彼女は顔を上げてくれた。そして、「寮長の仰ることなら」と、冗談めかして笑ってくれた。
そう、その笑顔がボクは何より大好きだったのだ。
だから、彼女の心の隙間に時折入り込む闇を振り払うのはいつだって僕でありたいと思っていた。
この先もずっと、彼女の笑顔を守り続けたいと、そう願い続けていた。
────────────この先も、ずっと、って?
自分の恋心がいかに浅はかで盲目的だったのか────それを思い知ったのは、ボクがNRCを卒業して1年が経とうかという頃だった。
その頃には、彼女はもう4年生になっていた。
そしてそのまま、卒業を控えていた。
────元の世界に、帰れないまま。
「────4年しかいなかったのにやっぱりここに帰ってくると我が家って感じがするなあ」
「トレイくん、なんかそういうのジジクサいからやめた方が良いよ」
「え、そうなのか…?」
今日は半年に一度の、OBも招かれるお茶会の日だった。ハーツラビュルの寮生でない彼女も、案の定この日だけは寮生と同じ扱いを受け、皿を運んでいるところだった。
卒業後、ボクの後を継いで寮長になったのはエースだった。入学時からその寮長と仲が良く、また寮内の揉め事にも何かと手を貸してくれていた彼女がお茶会に参加することに、もう眉を顰める者はいない。皆が当たり前のように彼女を歓迎していた。
「ユウ先輩〜! フラミンゴが一匹いません!」
「え、待って、それならさっきサバナの2年の子が鏡の間の前で迷子のフラミンゴを発見したって連絡くれてたから聞いてみる…とりあえず他の子が逃げないようにちゃんと見ておいて!」
他寮とのネットワークも相変わらず強いようで安心した。スマホでおそらく当のサバナクロー生に連絡しているらしい彼女の電話が終わるのを待ってから、肩をちょんちょんとつつく。
「はいはい、何事でしょ…って、リドルさん! ご無沙汰しています、お元気そうで何よりです」
一瞬驚いた様子を見せたものの、すぐに表情を引き締めハーツラビュルの古い伝統に則り、スカートの裾をつまみながら片足を一歩引いて深く礼をする彼女。
卒業後も、彼女とはずっと連絡を取り続けていた。
でもここは全寮制のエリート養成学校、その日々の忙しさはボクが一番知っている。
かくいうこちらも、卒業後は弁護士資格を取るために民間の大学院の法曹養成課程へと進学していたため、合間を縫って彼女と話す時間を作りながらも、直接会いに行くことまではできずにいた。
半年ぶりに会う彼女は、また一段と大人びた美しい女性になっていた。
もう今の彼女に、入学当時の子供っぽさはない。
努力を積み重ねた今の彼女は、NRCの生徒として相応しい、そして何より格式高いハーツラビュルの元寮長から見ても申し分ない品格と威厳を備えていた。
────きっと、校内でももう魔法が使えない"だけ"の彼女を"ポンコツ"と揶揄する者はいないのだろう。唯一の欠点となりうる魔法についても、彼女といつも一緒にいた魔獣がそんな今の彼女の"無二の相棒"と称されるに値するだけの実力で以て補っているはず。知のユウと力のグリム────そんな風に2人を呼ぶ噂が、風に乗ってこちらにも届いていた。
「リドルさん達のご到着に間に合わずすみません、あと4分42秒後には全て滞りなく準備が完了する予定ですので────」
「ユウちゃんってば、すっかりリドルくんみたいになっちゃっても〜」
「俺らが早く着きすぎたのが悪いんだ。フラミンゴも今から迎えに行くんだろう? なんなら俺らも手伝うから、ゆっくり丁寧に仕上げてくれ」
「いえ、それも含めての4分42秒ですので、ご安心ください」
優雅に微笑む彼女の後方から、自分の頭を越えるほど大きなケーキを運んできたデュースが見えた。ボク達の到着に一瞬慌てた顔を見せたが、そこは流石副寮長といったところか、すぐにいつもの"優等生らしい"キリッとした表情に戻り、ボク達の前のテーブルにケーキを置く。
「お久しぶりです、先輩方! 今日のケーキは自信作なんです!」
3年前、小さなケーキひとつ作るだけでも慌てていたのが嘘のようだ。あれからトレイにケーキ作りの業を根気強く習い続けていた彼は、今やハーツラビュルいちケーキ作りの巧い寮生になっていた。
「へえ、タルト生地にシフォンケーキを乗せて…その上に苺を並べてるのか。独創性に溢れてて良いな」
「デュースちゃんほんと卵使ったお菓子好きだよね〜」
後輩の成長、それ自体は何の懸念もなくただ嬉しいと思った。
自分がいなくともしっかり伝統を受け継ぎ、更にそこに新たな風を吹き込んでくれる────そんな彼らは、外から見ているからだろうか、何の迷いもなく頼もしいと言えるほど大きく見える。
そう、だから────だからこそ、これだけはどうしても気になってしまっていた。
「次の試験を無事クリアしたら君らも卒業だね」
きっかり4分42秒後、フラミンゴも全員捕まえた上で始められたお茶会の席で、ケイトがしみじみとそんなことを言う。
「進路はもう決めてるのか?」
同じ席でケーキを取り合っているエースとデュースを見ながら(どちらのピースの方が大きいかなんて、そんなことで揉めている彼らの"変わらない"部分を見ているのは微笑ましかった)、トレイがケイトの言葉を受けて尋ねる。
「ああ、オレはそのまま公務員になろうと思ってます。一応目処は立ってるんで、あとは試験をちょちょいっと終えれば一生安泰っすね」
「僕はNRCで教師になります! …体育の教師の方が向いてるって先生方にはいつも言われるんですけど、僕は…錬金術も面白そうだなって思ってて」
「いやオレもお前は絶対風になった方が良いと思う。錬金術とか1年生の時は赤点ばっかだったじゃん」
「だからこそだろ! 死ぬほど努力してやっと教科書通りの宝石を作れるようになったあの感動を、みんなにも教えてやりたいんだ!」
要領の良いエースと、真面目なデュース。
2人とも、変わらないところはそのままに、でも確実にこの4年の成長を自分のものにして、新たな未来へと踏み出そうとしている。
────じゃあ。
「ユウちゃんは?」
この会話にもニコニコと笑っているだけで参加してこない彼女に気を遣ったつもりだったのだろうか。ケイトが、ボクの隣に座ってケーキを上品に口へ運ぶ彼女に同じ問いを重ねた。
「私は………そうですね、まだここっていうのは決まってないんですけど、普通に就職しようかなって」
「…そっか、結局元の世界に戻れる手段は見つからなかったんだね」
嫌なこと訊いちゃってごめんね、と謝るケイト。
彼女は「今後どこかで見つかるかもしれないですし、うまくこっちで生きながら探していきますよ」と笑顔で返していた。
元の世界に戻る手段が見つからない、という話はずっと聞いていた。
もちろん、"もう二度と戻れない"という宣告を受けたわけではない。
ただ今は見つからないという、それだけなのだ。
そしてそれだけの希望が、彼女を却って苦しめていた。
いっそ二度と戻れないとはっきりした方が、もっと潔く諦められただろうに。
彼女は今もまだ、元の世界へ戻る手段を探しているのだという。
「まあ身分なら学園長が保証しておいてくれるっていうし、ユウの成績なら就職自体は問題ないだろ」
エースは軽い調子でそう言うけれど。
彼女は4年経ってもまだ、"どちらの世界の住人"にもなれずにいた。
そんな状況下でも笑顔を失わない彼女のことを心底尊敬する。あの日抱いた恋心は、今も褪せない。
でも、だからこそ思う。
そんな彼女が心細くなる夜、何もできないボク自身の無力さが腹立たしいと。
「もしユウちゃんがまだ元の世界に戻る手段を見つけられてなかったらどうする?」
────それは、ここへ来るほんの少し前、ケイトが僕に尋ねてきたことだった。
「どうする、って…」
「いや、さすがのユウちゃんでもさ、3年以上経ってどっちつかずって状況はキツいんじゃないかな〜って俺思うんだよね」
「そうだな。元の世界への未練もあるだろうし、戻る手段が完全になくなったわけじゃないんなら、きっとユウはこれからも無意識にそれを探し続けるんだろう」
トレイもケイトと同じ意見のようだった。そして、ボク自身もそれはずっと思っていたことだった。
…でも、ボクに何ができる?
彼女の代わりに元の世界に戻る手段を見つけられるならボクだってそうしてやりたい。
実際勉強の合間ではありながらも、あらゆる本や研究者の知見を聞いて、この世界と彼女の故郷たる異世界を繋ぐ方法について調べてきた。
本当は、もう探すのをやめて、と言ってしまいたかったのだけれど。
でも、ボクの我儘でそんなことを言ってしまったら、きっと優しい彼女を困らせてしまうから。
「だからさ、リドルくんがはっきり言っちゃったほうがむしろ幸せなんじゃないかなって思うんだよね〜」
「何を?」
「結婚しようって。元の世界に戻れるようになって、もしその時どうしても戻りたいならそれはその時に話し合うとして、まずはボクと一緒にこっちの世界の住人になろうよって」
ケイトはこともなげにそんなことを言ってきた。
正気で言っているのか?
「…ボクに、そんなことが言えるわけないだろう」
学生時代は、ただ一緒にいられればそれだけで幸せだった。
ボク達の人生は全てあの狭い敷地の中で完結していた。
だから、この幸せを疑うことすらしなかった。
その先のことを、考えようとしたことなんて、なかったんだ。
卒業したら彼女はまたひとりで知らない世界へ放り出されてしまうなんて、そんな簡単なことになぜもっと早く思い至らなかったのだろうと、卒業するタイミングで思ったことがある。
でも、答えは簡単だった。
ボクがそれを考えたくなかったのだ。
この小さな幸せを、少しでも長く続かせられるようにと────そんな幼稚なことにばかり専心してしまっていたせいで、彼女の今後のことまで考えてやれる余裕がなかったのだ。
そんなボクに、今更何が言えるというのか。
それに何より、ボクは幸せな家庭というものを知らない。
ボクはずっと、お母様の言うことに従うことだけが正義だと思っていた。
でも、それを幸せだと思ったことはなかった。
顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしていた両親。
少しでも言いつけに背けば、ボクにもその怒りの矛先は向いた。
そんなボクに、今更何ができるというのか。
誰かと結婚して、幸せな家庭を作るなんて。
狭苦しいルールのない、自由で笑顔に溢れた場所を、ボク自身が生み出すなんて。
そんなこと、できるわけがないじゃないか。
もちろん、彼女のことは今でもずっと大好きだ。
でも、だからこそ、ボクは彼女を幸せにしてやれない。
だからボクは、彼女の手を振り払うこともできないまま────彼女の強さにずっと甘えたまま、まるで贖罪のつもりとでも言うように元の世界へ戻る方法を探し続けていた。
元の世界へ戻る方法さえ見つかれば。
彼女の手を離さなければならない"状況"さえあれば、ボクもきっぱり諦められるかもしれないからと。
「リドル」
ああ、こんな気持ちでいるボクは、一体これからどんな顔をして彼女に会えば良いんだろう。
すっかり足が重くなってしまったボクに声をかけたのは、トレイだった。
「ユウがもう昔のユウじゃなくなったのと同じように、お前ももう昔のお前じゃないよ」
それはどういう意味だろう、考える前にトレイは言葉を続ける。
「お前はただ、自分の思ったことを素直に言えば良いんだ。それでその後ユウがどう言うかは、お前じゃなくてユウが考えるから心配するな。何も意見を言わせてもらえなかった小さなリドルも、自分の意見に逆らう者の首を全て撥ねていた暴君のリドルも、もうここにはいない。今のお前なら、大丈夫だよ」
思ったことを、素直に言う…?
その後どうするかは、ユウが考える…?
でも、じゃあ、それが正しいとして…ボクとこれからも一緒にいてほしいと言ったとして…それで、ボクはちゃんと彼女を幸せにできるんだろうか?
「ボクは…笑顔に溢れた幸せそうな家族を…遠くで見ることしかできなかったんだよ。ただボクが一緒にいてほしいからってそれだけで彼女を巻き込んで、もし自分の家庭のような…あんな寂しい居場所しか彼女に残せなくなってしまったら…」
「あはは、ユウちゃんがそんな居場所に留まるわけないじゃん」
トレイの言葉をうまく呑み込めずにいた僕を笑い飛ばしたのはケイト。
「リドルくん、家庭ってひとりで作るものじゃないんだよ。オレはリドルくんのおうちがどれだけ…その…あー、なに?」
「"厳しかったか"、だろ」
「そうそう、厳しかったかは知らないけど、少なくともリドルくんとユウちゃんが一緒にいた3年間はずっと傍で見てきたからわかるよ。リドルくんとユウちゃんがいる場所は、どんな寒いとこでも、どんな暗いとこでも、いつもあったかくて明るかったんだ。いつも難しそうな顔してるリドルくんがあんなに楽しそうに笑ってるの、オレいつも珍しいなーって思いながら撮ってた」
「俺は一応盗撮はやめろって言ったからな」
「いやでもレアなもんはやっぱ残しときたいじゃん! …てなわけでね、リドルくんのご両親がどうしてそうなったのかはわかんないけど、オレ、リドルくんとユウちゃんが2人で作る家庭だったらきっと拍子抜けするくらいゆる〜い家庭になるんだろうなって思ってるよ」
…本当に、そうなのだろうか。
幸せな家庭を知らないボクでも、ちゃんと幸せを彼女に与えることができるのだろうか。
「てかそもそもリドルくんはどうしたいの? ユウちゃんに帰ってほしい?」
「そんなわけないだろう…できることなら、ずっと一緒にいたいと思うに決まっている」
「うんうん、じゃあまずそれ言ってみよ!」
「ユウがそれを承諾するかどうかもわからないしな」
「トレイくん、今それはさすがにシンラツ…」
物語の中で見た、温かい家庭。
帰る場所があるという幸せ。大好きな人が隣にいるという幸せ。
ボクにとっては奇跡のようなそんな幸せが、本の中にはいつも当たり前にあった。
どこか手の届かないものだと思っていたが、良いんだろうか。
ボクのようなまだ未熟な人間が、彼女と共に歩む人生を望んでも。
「私は………そうですね、まだここっていうのは決まってないんですけど、普通に就職しようかなって」
「…そっか、結局元の世界に戻れる手段は見つからなかったんだね。嫌なこと訊いちゃってごめんね」
「いえ、今後どこかで見つかるかもしれないですし、うまくこっちで生きながら探していきますよ」
「まあ身分なら学園長が保証しておいてくれるっていうし、ユウの成績なら就職自体は問題ないだろ」
目の前では、卒業後彼女がどうするかという話で持ち切りになっている。
────お前はただ、自分の思ったことを素直に言えば良いんだ。
────リドルくん、家庭ってひとりで作るものじゃないんだよ。
頭の中で、トレイとケイトの言葉が再び聞こえてきた。
それはボクに────あの時自分からはできなかった"初めての告白"をする勇気を、与えてくれた。
「────帰らないでほしい」
自分の口から出た言葉に、テーブルについていた全員がしんと黙る。
周りのテーブルから聞こえる賑やかなざわめきが、遠くに聞こえるようだった。
「…え?」
彼女が、ボクを見た。
トレイとケイトは何か察したのだろう、揃って小さな微笑みを浮かべながら、ケーキを食べることに集中しだした。エースとデュースは突然の僕の発言を全く理解できなかったようで、固唾をのんで僕達2人を交互に見ている。
「…ボクを、選んでくれないか」
事前に考えた言葉ではなかった。学生時代にはプロポーズの真似事をさせられたこともあったが、あの時ほどの余裕が今はない。
本でインプットした知識をアウトプットするのとも違う。任務を遂行させるために"その場に相応しいであろう"言葉を用意するのとも違う。
心のままに言葉を紡ぐというのは────やはりまだ、ボクには少し難しいらしい。
でも、あの"なんでもない日"に抱いた恋心は、今もずっと輝きを失うことなくボクの心を燃やし続けている。
だから、下手に考えることはやめた。
この恋心のままに、思ったことを全て伝えよう。それがたとえどれだけナンセンスなものになってしまったとしても、ボクの本心がそう言いたいと思ったのだから、仕方ない。
「元の世界へ帰りたいというキミの気持ちを理解しようとは努めていた。でも…ボクが、嫌なんだ。帰ってほしくない。キミにはこの世界を、いや、ボクのことを選んでほしい。ボクの隣に、キミの新しい居場所を作ってほしい」
「リドルさん…」
「まだ学生のキミに結婚しよう、とまでは言わない。ボクもまだ弁護士としての資格を持っているわけではないから生活も保障できない。でも、どうか…いつかは帰ろうとするキミの手を引き留めてしまうことを、許してくれないだろうか」
「ここで結婚しようって言いきれないのがリドルくんらしいよね」
「こらケイト、今は黙れ」
トレイとケイトが小声でそんなことを言っているのが聞こえたが、ボクの意識は専ら彼女に集中していた。
彼女はボクの言葉を聞くなり目を見開いた。信じられないとでも言うように手で口を覆い、そして────
ぽろっ。
涙が、彼女の綺麗な目から一粒。
「えっ」
「ちょっ、泣いてる!?」
エースとデュースが揃って慌てふためきだした。その声を聞いて、他のテーブルからも「ユウ先輩が泣いてる!?」と声が上がる。
どうしよう。
彼女を泣かせてしまった。
トレイとケイトはああ言ってくれていたけど、それでも自分の言っていることがどれだけ自分本位かということには、さすがに自覚があった。
だからこそ相応の覚悟を持って言ってみたつもりだったのだが…。
「そっ、そんなに嫌だったかい!? すまない、泣かせるつもりは────」
ああ、やっぱりボクでは彼女を幸せにすることなんて────
「うれしい、です…」
────え?
「わたし…リドルさん…そんな風に言ってもらえると思ってなくて……いつかきっと離れなければならない時が来ると思ってて……」
しゃくりあげながら、彼女は何度も「リドルさんがそんなことを言ってくれるなんて」と繰り返す。
「お、落ち着いて。ボクの言ったことが嫌だった…んじゃ、ないのかい?」
「そんなことあるわけないじゃないですか!」
声を荒げる彼女の様子はまるで、まだじゃじゃ馬だった1年生の時に戻ったかのようだった。
「私はずっと、リドルさんのような素晴らしい人が自分の傍にいてくれることを奇跡だと思っていました。この世界のことや友達のことは好きです。でも、リドルさんにはきっと夢も将来もあって、その中に私はいちゃいけないと思っていました。だから、然るべき時が来たらいつでも笑ってお別れできるように────リドルさんの邪魔をしないままこの恋を諦めるにはこれしか方法がないと思っていたから、だからずっと帰る方法を探していたんです」
ちょっと、待ってほしい。
情報が多い。文字情報だろうが音声情報だろうがある程度は即座に呑み込めるだけの訓練をしてきたつもりでいたが────こうも予想外のところから来られてしまうと、処理するのに多少の時間を要する。
「つまり…キミも、ボクと一緒にいたいとは…思ってくれていた、と?」
「そうです」
「でもきっとボクがそれを望んでいないだろうと思ったから、身を引くために帰る手段を探していたと?」
「そうです!」
「どうして…どうしてそんな馬鹿なことをしようとするんだ…」
「好きだからですよ!」
泣きながら、彼女に二度目の告白をされる。
「好きだからです! あなたのことが誰よりも大切だから、あなたにとってそれが一番良いと思っていたから────!」
「そんなわけないだろう!」
思わず、彼女に負けないほどの大声を出してしまった。
こんなに大きな声で誰かを怒鳴りつけるのは久々だった。
「ボクがキミを手放したいなんて一度でも言ったかい!? ボクがキミを帰らせようとしたことが一度でもあったかい!? ボクはずっと、きっとキミよりも! キミの隣にいることを望んでいただろう!」
「じゃあどうしてもっと早く教えてくれなかったんですか!」
「ボクが"幸せ"を知らなかったからだよ! ボクの手でキミを幸せにできる自信がなかったんだ!」
「そんなもの! 私がいくらでも教えます!」
────キミに何かを教えてもらう日が来るなんてね。
好きだ、と言われた時、そう返したことを思い出す。
あの時ボクは、今までボクの知らなかった感情を教わった。
恋という感情を。誰かに惹かれることの、切なさを。
「私の家族はものっっっっっすごく平凡でした! でも私はそれが何より幸せでした! そしてリドルさんと一緒にいた時間も、比べられないほど幸せでした! もしリドルさんが私と同じように幸せの形を描いてくれているなら、私は絶対にリドルさんにそれを教えられます! リドルさんさえ私の手を取ってくれるなら、私は絶対にリドルさんを幸せにできます! だから、そう思ってくれているなら────そう、言ってください!」
言葉を、返せなかった。
彼女はあの頃と同じ────眩しいのにずっと直視していたいと思わせるようなその光で、ボクの心を温かく包んでくれた。
彼女の努力する姿を見て何度尊敬の念を抱いてきただろう。
彼女の立ち上がる強さを見て何度憧憬の念に焦がされてきただろう。
ああ、あの頃から何も変わっていない。
あの時もそうだった。勝手に自分の恋心を閉じ込めようとしていたボクに、彼女はこうやってまっすぐな言葉で大きな風穴を空けてくれた。
それを見て、ボクは恋をした人がこの人で本当に良かったと、そう思った。
今もそうだ。やはりボクはこの人がたまらなく好きで、そう思えるようになった自分のことを誇らしくすら思えている。
だというのに、あの頃と少しだけ────何かが、違っていた。
ただ見ているだけじゃ足りないと。
その小さな手を取りたいと。
幸せをもらうだけでなく、与えるわけでもなく、共に創りたいと────
そんな風に思うのは、初めてだった。
「ボクは…キミの手を…取っていたい。ずっと」
言葉通り、泣きじゃくる彼女の小さな手に自分の手を重ねる。
「どうか、この先も傍にいてほしい」
「ええ、よろしくお願いします」
ぱちぱちと、小さな拍手が起きた。
そこでようやく我に返ると、その出元はトレイとケイトだった。
見れば、庭中の人間がボクら2人の言い合いを見守っていたらしい。トレイとケイトに続き拍手の音はだんだんと大きくなり────瞬く間に、ボクらは祝福の拍手の音に呑み込まれていた。
「やっぱユウちゃんかっこいーねえ」
「てことはお前、元の世界に戻るのもやめるってこと?」
「リドルもよく言えたな」
「2人の子供に勉強を教えるのが楽しみだな」
「デュースの場合は子供の方に教えられそうだけどな」
「なんだと!?」
学生時代と同じ、賑やかに囃し立てる仲間の中でひっそり笑うボク達。
どうしたって彼女には敵わないと思うその心は今も変わらない。
でも、さっき抱いた違和感────あれはなんだったのだろう。
ボクが知っている恋心とは、少し違っていた。
これを成長と呼んで良いのかはまだわからないが、知らない間に、ボクはまた彼女から新しい心を教わっていたらしい。
『愛とは、対象をかけがえのないものと認め、それに惹かれる心の動きや気持ちの表れのことを指す。相手を慈しむ心や相手のために良かれと願う心、何にも増して大切に思う心のこと。』
その時ふと、恋の項目の隣に並んでいた"愛"という言葉の定義を思い出した。
惹かれるだけじゃない、切なくなるだけじゃない、誰かと共に育んでいくようなその感情は、恋すら知らなかったあの頃のボクにはまだ早いと頭の隅に追いやっていたものだ。
────ああ、もしかしたら、これがそうなのだろうか。
そうだとするなら────ボクは、一生をかけてこの小さな愛を育てていきたいと思う。
彼女と、共に。
ゴスマリ以来リドルには救われてほしい以外の感情を持てなくなってしまったので、この場で救われてもらうことにしました。
あとはついでにトレイも救いたかったです。リドルに何も言えなかったあの頃のあなたはもういませんよって。
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