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昔から、周りには大人っぽいと言われてきた。
曰く、何をしてもあまり驚かない、アクシデントへの対処が冷静、表情筋が死んでいる、等々。最後のもののように、もはや"大人っぽい"という賛辞に隠した悪口なのではないかと思われるようなことも、何度か言われたことがある。

皆は私のことを大人っぽいって言ってくれるけど、私からすれば皆の方が子供っぽいだけのことだった。一体どうして箸が転がっただけで笑えるのかわからないし、どうして事前に予測していた雨が降っただけでそこまで騒げるのかもわからない。

でも、勘違いしないでほしい。
私は一度だって、自分から進んで"大人ぶりたい"なんて思ったことはなかった。皆の方が子供っぽい、なんて見下すようなことを言っておきながら、本心ではそれを羨ましいと思ってもいたのだ。私だって、箸が転がっただけで笑いたいし、通り雨に打たれて叫び声を上げてみたい。全てを諦めて受け入れて、何にも心を動かされないこの状態が"大人"だと言うのなら、そんな乾いた肩書きなんて要らないから、私は一生子供のままでいたかった。

それなのに、私はどうやら感情より理性の方がずっとずっと先行するタイプだったようだ。そればっかりは私の希望でどうこうできる話じゃないというのに、気づけばいつだって、ちょっと遠巻きに眺められる"大人っぽい子"と言われていた。私はただ、皆と同じものを見て、同じように心を浮き立たせたいだけなのに。

────そんなわけなので、突然異世界に飛ばされて、そこが魔法士を育成する"男子校"なのだと言われても、幸か不幸かさして驚きはしなかった。…いや、さすがにそれは嘘だ。来た時にしこたま驚いて、一晩かけてなんとか事情を呑み込んだ。

突き詰めて考えてしまえば結局のところ、それは元の世界で使う"科学"が"魔力"というコスパの良いリソースに変換されただけのことだった。そこで過ごす生徒達の様子はなんら昨日まで突き合わせていた顔と変わらないし、ちょっとくらい「ハジメマシテ」の数が増えたところで、私にとってたいした障害にはならない。

そういった気の持ちようで、私は無力かつ無知でありながらも、割と早々にこの学校にも生徒にも馴染めた…と思う。昨日の敵はなんとやら、入学(転入?)してから矢継ぎ早に降り注いできた問題を解決していくうち、その過程で揉めた人達とも今ではそこそこ良い関係を築けていたのだ。
その中で最大のメリットを挙げるなら、やはり寮長クラスの人達とのコネクションを構築できたことだろう。トップを味方につけてしまえば怖いものはない。時折私がこの世界の異分子であることについて陰口を叩く声は聞こえていたものの、目立って何か加害されるということはなく、むしろこんな自分の境遇を思えば、それこそ驚くほど私の周辺環境は温かく整えられていた。

「相変わらず筆記試験の点数は良いな」

ある日の授業中、もはや"相変わらず"であることが当たり前にまでなった最高評価の小テストを返される。授業の担当は、私達1-Aの担任でもあるクルーウェル先生だ。
────これもまた、味方につけた人達のお陰。実技試験についてはそもそも参加資格すらない以上、グリムの底力に頼るしかないのだが、筆記試験についてはリドル寮長とアズール寮長の力をちょちょいと借りるだけで────あーら不思議、白紙のプリントが一気に模範解答へと様変わりする。

「お前に魔力がないことがつくづく惜しまれる。こっちの世界でも十分生き延びられるほどの素地は持っていると思って良いぞ」
「ありがとうございます」

この先生はとても厳しく、でも公平で、何よりどこまでもスマートな人だった。他にも何人か大人の姿は見ていたけど、この人が一番私の思い描く理想の"大人"に近い気がする。落ち着いていて、頭の先から足の爪先まで綺麗で、自然とこちらの背筋を正してくれるような人。

日頃から「年の割に達観してる」とは言われてきているものの、こうして本物の大人と接していると、まだ自分は子供なのだと思い知る。まるで仔犬を見るような眼差しに当てられると、まだ自分は子供でいて良いのだと…ほんの少し、安心する。

「────さて、先週から通告していた通り、今日の放課後より個人面談を開始する。対象者の名前と時間は廊下に掲示されてある通りだ。場所は俺の部屋だが────少し教室棟から離れているから、時間には十分注意すること」

その日は、そんなお知らせを最後に授業が終わった。
個人面談。成績や普段の素行面などについて話し合い、今のお悩み相談から将来の進路相談まで面倒を見てもらうというイベントだ。私の順番は、この1時間後────このクラスの、トップバッターだった。

「何聞かれたか後で教えて」
「持って行った方が良いものとかもあれば、聞いておいてもらえると助かる」
「うん、わかった」

エースとデュースと短い会話を一言二言交わし、私は一度オンボロ寮に戻って荷物を置いた後、教室棟を通り抜けて先生方の部屋がある研究棟へと向かった。

定刻になったことを確認し、扉をノックする。

「どうぞ」

先生は顔を覗かせた私に「ああ、きっかり時間通りだな」と優しい笑みを浮かべ、椅子を勧めてくれた。

「どうだ、学校生活は。少しは慣れたか?」
「はい、お陰様で。友人や先輩方にも非常に良くしていただいています」

本来であれば10分ちょっとしか要しない個人面談だったが、私の場合は色々とイレギュラーな存在だということで、30分の枠を設けてもらっていた。そのためか、先生はわざわざ用意してくれていたらしい熱い紅茶を、カップに注いで私の前に置いてくれる。

「成績、素行、どちらも問題なし。"一般的なNRC枠"で判断するなら、10分どころか10秒とかからずに面談を終了しても良いところなんだがな────…お前の場合、そうは言っても何かと面倒事も多いだろう」

先生はテーブルを挟んだ向かい側のソファにゆったりと腰掛けて、私を気遣わしげに見た。

「いいえ、学園の奨学金制度のお陰で金銭的な援助も受けられていますし、それこそ友人や先輩方のお陰で生活も非常に快適に送らせていただいているんです」
「送らせていただいてる…ねえ…」

何か癇に障ることを言ってしまっただろうか。自分の発した言葉を反芻しながら、思案顔の先生の目を見つめる。

すると先生は一口紅茶を喉に流してから、今度は探るような視線で私と向き合った。

「────お前のその処世術はどこで身に着けた?」
「…はい?」
「先程も言った通りだが、成績も素行も立派なもの。誰に言わせても"優等生"って評判が出てくる。お前の言動は、異世界から来たとはとても思えないほど"出来すぎている"。それが"素のお前"だと言うなら何も文句はないが────どうにも、時折お前が息苦しそうに見えてな」

何が言いたいんだろう。また「子供のくせに」と思われたんだろうか。この人はそういう目で私を見ないと思っていたのに。
素も何も、普通に生きていたらそうなってしまったんだから仕方ないではないか。

昔からそうだった。「大人っぽいね」と言ってくれる人はまだ優しい部類。同世代や年下の子は割と私を好意的な目で見てくれていたが、年上の人からは「マセたガキ」となじられることも少なくなかった。
要は私は、乾いた気持ちで人生を送っている割に、それが"背伸びをしている"と思われる程度の不自然な大人び方しかできていなかったのだ。

だから私は大人が苦手だった。子供に混ざって年相応にはしゃぐことはできないくせに、大人と共に出来上がった社会を生きることもできなかったから。どちらの世界からも、私は締め出されていたから。…そう思っていたら、今回遂に"世界そのもの"から弾き出されてしまった。今更ながら、何と悲惨な人生なのだろう。

「…ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。息苦しさは感じたことがないのでなんとも言えないんですが、何かご不便をおかけしているようでしたら────」
「そうだな、ならまずその無理にへりくだった言葉遣いでもやめたらどうだ」
「…無理、に見えてるんですか?」
「そうだな、"大人になろう"と引っ込んでる部分と"子供のままでいたい"と出っ張った部分がやたら混在して、お前の中にちょっとした歪みが生じているように見える」

────今まで全く言われたことのない角度からよくわからない分析をされてしまい、私はつい戸惑いを顔に出してしまった。その反応が面白かったのか、先生はふ、と小さな笑みを漏らす。

「自分は周りより大人であるべきだと律する必要はない。かと言って、周りより多少反応が鈍いことを責める必要もない。もちろん、ある程度のマナーとして場面ごとに言動を使い分ける必要はあるだろうが────お前、そもそも"大人っぽい"って言われることに義務感を覚えてやしないか?」

大人っぽいって言われることに…義務感を?
どうしよう。そんなこと、全く考えたこともなかった。だって私はただ普通に生きていただけで、それだけで周りが勝手に「大人っぽい」って言ってきただけなのであって────だから私はきっと自分が大人っぽいんだろうって…そう、思って…。あれ? もしかして、それが「大人っぽいって言われることに義務感を覚えてる」ってこと?

「ほら、そうやって16歳らしく狼狽えることもできるじゃないか」
「あ…」

伊達に表情筋を殺して生きていない。「16歳らしく」なんて言われたのは、初めてだった。
ずっと自分の中に違和感があったのは、そのせいだったのだろうか? 周りから言われる「大人っぽい」という評価に、いつしか自分から合わせにいくようになっていたからなのか────?

「お前はきっと、ただ理性的で、論理的で、人よりちょっとばかり感情が表情に出にくいだけの"子供"だよ。年を食えば立派な淑女になることだろうが、今からなんでも我慢して、なんでも受け入れる必要はない。お前はもっと、あるがままのお前を好きになって、甘やかしてやれば良いんだ。────さて、それを踏まえた上で、何か困りごとは?」

ちかちかと、目の前で星が瞬いているようだった。
私の様を見て「子供だ」なんて言う人が、まさかこんなにも身近にいるなんて。

私のこの性格を、「大人っぽいね」とも「大人ぶりやがって」とも言わず、「それが"子供"の私のあるがままの姿」だなんて────そんなことを、言う人がいるなんて。

子供らしいって、なんだろう?
例えば、きっと場に相応しくないからと呑み込んできた日常の小さな不満を、我慢せずに吐き出したりすることは、子供っぽい言動になるのかな? "大人"の手を煩わせるまでもないと思ってきていたそれをぶつけても、この人は…嫌な顔を、しないかな?

「────実は、制服のサイズがちょっと合ってないんです」
「男子用の制服で仕立てているからだろうな。明日寸法を測り直そう」
「それから、実技演習の授業に参加できないのが悔しいです」
「そうだな…魔力の込められた武器でも発注しようか。戦闘訓練自体ならお前にも参加可能なはずだしな」
「あと…食堂のメニューが味の濃いものばかりで、少し胃もたれします」
「ははは、一生徒の意見だけでメニューを変えるのは難しいかもしれんな。でもまあ、上には伝えておいてやる」

次々と出てくる"子供じみた不満"に、クルーウェル先生はひとつひとつ真摯に向き合ってくれた。時に当たり前だと言わんばかりに頷きながら、時に楽しそうに笑いながら、一度も嫌そうな顔なんて見せずに、私の愚痴を受け止める。

「なんだ、意外とちゃんと物を言えるじゃないか」
「…私って、そんなに年不相応な振舞いをしていましたか?」
「年不相応というより…そうだな、言いたいことを全部呑み込んで、諦めてるように見える。元の世界でどういう人生を送ってきたかは知らないが、周りがお前に"大人"の役割を求めてるんじゃないかって、ちょっとした違和感を覚えただけのことだよ」

そう言う先生の口調は、低くゆったりとしていて────またこの感覚だ────ああ、自分はまだまだ子供なんだと、本心からそう思わせる響きを持っていた。

「他にはないか?」
「はい…今のところ」
「よし、また何か気になることがあれば何でも言いなさい。ここはお前が"子供"でいて良い場所だ。ちゃんと"大人"はたくさんいるから、安心しろ」

それから元の世界についていくつか話をされ(学園長とクルーウェル先生が共同でその道を探してくれているらしい)、最悪のケースとしてこの世界で卒業後生きて行く場合、どういった職になら就けるかということについてもアドバイスをもらい、たっぷり30分話し込んだ後に私は解放された。
────部屋のドアを閉めた途端、心臓の鼓動がそれまで一生懸命我慢していた反動だとでも言わんばかりに、ドキドキと早鐘を打つ。

どうしよう。
あの人を見ていると自分は子供のままでいられる気がする、以前からそう思っていたのは確かなのだが────。

別に私は大人なわけじゃない。ただ周りの子供より少しだけ情緒が欠落していて、それを見た他の人間から、良い意味でも悪い意味でも「大人っぽい」というレッテルを貼られたがために、その理想像に合わせた人間を作ろうとしていただけだった。

そのことに気づかされたこと、私を"子供"として見てくれていること。そんな些細なきっかけが、私の眠っていた感情を呼び起こした。あの眼差しとこちらに語り掛ける口調を思い出すだけで、安心感と高揚感の合間で心が揺れ動いてしまって仕方ない。

こんな気持ち、初めてだ。でも、なんとなくわかる。これはきっと────。

皮肉なことに、大人になんてなりたくないと思っていた私は、自分より一回りも年上の男の人に────恋をしてしまっていた。










クルーウェル先生のことを好きになってしまってから、早数ヶ月が経つ。
この間、私はというと────何も、アクションを起こしていなかった。

いくらなんでも、教師と生徒の恋愛が普通に成り立つはずがないことくらい、わかっている。私が先生を好きになってしまったのが「先生が私を年相応の子供扱いしてくれるから」という少しばかり捻くれた理由であるが故に尚のこと、この恋は叶うわけなんてないと思っていた。

「先生、課題用のプリント、集めてきました」
「ご苦労、そこに置いておいてくれ」

とはいっても、先生との時間を少しも増やそうとしなかったわけではない。ウィンターホリデー明け、クラス委員替えのタイミングがあった時、私は自ら委員長に立候補し、クラスの中で一番先生と近い距離を確保した。
見返りを求めているわけじゃない。ただ、私だっていつかは元の世界に帰る身。この儚すぎる初恋を前に、少しの"思い出"を自分の中に残すくらい、許されても良いだろう。

「お前はどこのクラスの委員長より精力的に動いてくれるから助かるよ」

そんな些細な感謝の言葉が、誰のお礼よりも嬉しい。

「最近は少しくらい肩の力を抜けているか?」

誰のことも平等に見ているだけだとわかっていても、"自分"に向けられる言葉が面映い。

「…はい、先生のお陰です」

顔、崩れてないかな。表情、緩みすぎてないかな。
話していることなんて"教師"と"生徒"の枠を超えないただのありふれた会話だというのに、今の私にとっては何よりも特別な時間に思えた。

先生、あのね。
新しく仕立て直した制服は私の体にぴったり合っていてとっても動きやすいんですよ。
対人演習の時に支給された武器が日本刀だった時は、笑っちゃいました。
食堂のメニューに素麺が入るなんて、誰が想像したと思いますか?

ねえ、先生。
聞いてほしい話、たくさんあるんです。
先生に恋をしてから、なんだか私、今までよりずっとおしゃべりになったみたいで。

「先生」
「なんだ」
「…最近、ちょっとしたことで心が動くんです」

季節は巡り、再び夏を迎えようとしていた。
私はその日、提出用課題のプリントを集めて先生の部屋を訪ねていたところ。

部屋に掛けられた淡いブルーのカーテンが、春の終わりを告げる風に優しく揺れている。先生の淹れる紅茶はアイスティーに変わっていて、グラスの中で氷がからんと楽しそうな音を立てた。

────きっと少し前の私だったら、風が吹くことにも、氷が溶けることにも、全く目を向けていなかっただろう。だってそれらは全て自然が当たり前に起こす現象。そんなところに"優しい"だの"楽しそう"だの、感情を持たせる方がナンセンス。

でも、今の私には世界がやたらと色づいて見えていた。世界はこんなにも心地良い音を奏でているのだと、初めて知った。そのことに気づいたら、思わず口にせずにはいられなくなって────そんな変化のひとつひとつが、いちいち甘酸っぱくて、心地良い切なさを寄せる。

「それは何よりだ。お前も随分と丸くなったものだな」

ほら、先生。
聞こえます? 先生がそうやって笑うだけで、私の心臓がこんなに早鐘を打つ。
まるで心臓が先生を呼んでるみたい。先生、好きです、振り向いて────って。

でも私は"弁えた子供"なので、そんなことは言いません。

「別に元々尖ってたわけじゃないんですけどね」
「確かにな。物の言い方は逆に前より確実に尖ってきている」

私の"成長"を楽しんでいる先生の笑い声が、そのまま耳を赤く染めていく。
この穏やかな時間が、好きだった。
この和やかな会話が、好きだった。
先生と一緒にいられるのは、私が"生徒"だから。だったら、叶わないとわかっていても、この気持ちも立場も大切にして、秘めたる恋を楽しもう。

そう、思っていたのに────。

「今日はそんな仔犬にひとつ、朗報がある」
「なんですか? もしかして文房具の値下げセールとか────」
「お前が元の世界に帰る方法がわかった」

え。

「どういう────」
「来週の新月の日、鏡の間にある一番大きな鏡が異世界と繋がるようだ。かなり昔の魔導書に、以前そうやって別世界を行き来していた者がいたと書かれていた」

先生の口調は、私の戸惑いなど全く意に介していないんじゃないかと思うほど、軽快だった。
だというのに、その表情は────ひどくチグハグで────まるで、私の心の内をそのまま映し出しているかのようだった。
ああ、どうせ"知らないふり"をするのなら、もっとうまく隠してくれたら良いものを。










一週間かけて、私の盛大な送別会が行われた。今まで関わってきた人のほとんどが、別れの言葉や餞別の品を贈ってくれた。花や菓子、ペンや絵など────物は多岐に渡っていたが、だいたいそれはもっと熟した女性にこそ相応しいのではないだろうかと思われるような、大人びた柄や色合いのものだった。

これが、この世界で────いや、どの世界でも共通している、私のイメージ。

「いつもお前が落ち着いて対応してくれるから助かったわ」
「ほんとほんと。俺なんて最後の方、お前のことも教師だと思って接してたもん」
「わかるわー」

そう言って親しげに私の肩を抱く友人の笑顔には、なぜだか何の色もついていないように見えた。恋を知る前の、無機質な私の世界。子供からは大人と言われるのに、大人の仲間には入れてもらえない。つまらなくて、息苦しくて、目の前の景色はまるでキュビズムの絵画を見ているかのよう。

「ユウ」

薄い酸素を吸いながら笑顔を振りまいていると、急に聴覚がクリアになったかのような錯覚に陥った。
先生だ。先生の声が、私を呼んでいる。

きっとこれが、最後の会話なんだ。そう思って振り返ると、豊かな白と黒に赤を差し込まれた、何よりも鮮やかな人がそこに立っていた。

────なぜだか、先生の顔を見ただけで泣きたくなってしまった。胸がぎゅっと締め付けられて、熱い。永遠にその顔を見ていたいと思うのに、目を合わせるのが恥ずかしくて、実際に視線を向けられたのは、少し緩められたネクタイの結び目がやっとだった。

「お世話になりました、先生」

最後まで当たり障りのないことを言って、当たり障りのない笑顔を向ける。

「────お前がいないと、寂しくなるよ」

寂しい、だなんて────。そんなの、ただ"クラスにとって"そうなのだと────先生もまた、当たり障りのないことを言ったに過ぎないと、ちゃんとわかっているのに────少しでもこの別れが惜しまれるものだったと思うだけで、嬉しくて、切なくて…「帰りたくない」なんて勢いに任せた言葉が、口から零れ落ちてしまいそうだった。

先生。
先生、好きです。
大好きです。

「これ────良かったら、受け取ってください」

言いたいことを全部呑み込んで差し出しだのは、一週間前からサムさんに頼んでおいた小さな青い花束。片手に収まってしまうほど小ぶりなその花の名は────"私を忘れないで"、または"真実の愛"を意味する、勿忘草だった。

この気持ちを伝えようと思ったことはない。伝えたところで意味のない言葉なんて、最初から口にするつもりはなかった。
でも、これでこの人と会えるのも最後なのだと思ったら────どうにかして、自分の存在をこの人のどこか…どこかほんの少しのスペースだけで良いから、刻みつけたいと思ってしまった。

「今までのお礼のつもりです」

らしくなく、手が震えている。
お礼のつもりだなんて、綺麗なことを言えるようになったものだ。周りの友人達は「やっぱ監督生って気が利くな」とか「クルーウェル先生に花を贈れるのなんて監督生しかいねえよ」なんて言っているみたいだったけど、違う。違うんだ。

これは、大人になりきれなかった"16歳の私"の、精一杯の告白のつもりだった。
空気なんて読まない。感情だって殺さない。"最低限のマナー"だけは守る代わりに、掌いっぱいの我欲を詰め込んで、大好きなこの人に押しつけてやりたかった。今までたくさん我慢した分、最後の最後にこんな回りくどい告白をすることだけでも、許してほしかった。

「────綺麗だな。俺の部屋に飾ったら、きっと何よりも映えるだろう」

先生は、抑えた涙が再び溢れてしまいそうになるほど優しい声でそう言った。
彼はその花の意味を、きっと知っている。だってそうじゃなければ、私は最後まで、この大人にこんな困ったような顔をさせることはできなかっただろう。

ああ、もしも私があと10年遅くこの世界に飛ばされていたなら、この淡すぎる初恋の形ももう少し変わっていたのだろうか。どれだけ大人ぶってみたって、私が"未成年"で"生徒"である限り、この人には届かないのだ。

「それじゃあ────しっかりな」
「はい。先生もどうか、お元気で」

────早く大人になりたいなんて、初めて思った。

新月の闇が周囲を完全に覆った、真夜中。
日付を跨いだ瞬間、目の前の鏡が唐突に光り出す。
元の世界に帰る道が、開かれた。

この光の中を通れば、もう二度とここには戻れなくなる。
色がなくて、酸素が薄くて、心のときめくものが何もない世界へ、私は再び戻されてしまう。

自分がこの世界の異分子である以上、こうなった時には必ず帰らなければならないと言い聞かせていた。この世界に居場所はないと、今が良くても卒業後路頭に迷うことはわかっているのだからと────そう、ちゃんとわかっているつもりだった。

それなのに。
私のこの世界での最期を見届けてくれているこの人の気配を感じると、理性より先に感情が動いてしまう。

帰りたくない。帰ってまたあのモノクロの狭い世界を生きていくより、この世界で────どれだけ不自由になるのだとしても、この人の傍にいたい。

涙はもう、下瞼のポケットの許容量を超えようとしていた。視界が滲む中でなんとか振り返り、クルーウェル先生の────大好きな人の姿を、もう一度網膜に焼き付ける。

先生、帰りたくないよ。
私、先生の傍にいたい。たとえ隣に立つ資格が与えられないとしたって、週に一度、事務的な用事で訪ねることしかできないとしたって、それでも私は、あなたの小さな仔犬でいたい。

「────ちゃんと、"大人"になるんだぞ」

そんな私の迷う背を押したのは、先生の残酷な別れの言葉だった。
先生は最後まで、私を"子供"扱いした。
笑っている。私の贈った小さな花束を胸元で持って、柔らかく目を細めている。

「っ────…」

結局それ以上は何も言えず、"子供"の私の体は、光に包まれた鏡の中へと吸い込まれていった。

────どうかお願い、私の気持ちを乗せた小さな勿忘草。私の気持ちが先に枯れてしまうまで、その青を散らせないで。私が大人になるその日まで、ささやかに咲き誇り続けて。









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