Swindler-2
※「Swindler」の続き
仔犬が仔犬じゃなかった(かもしれない)。
「────本当は先生と5歳も離れていない…って言ったら、どうします?
あの日から、事あるごとに彼女の姿が脳裏にチラつくようになってしまった。
今日も彼女は何食わぬ顔で俺の部屋を整えに来ている。鼻歌すら歌いながら書類整理をする様が、時折10年分の年を重ねた立派な女性の姿に見えて仕方ない。
「…おい」
「あ、うるさかったです? すみません」
「いや…。……何か良いことでもあったのか」
「トレイ"先輩"からいただいたホールケーキを丸ごと食べられてしまった自分の胃袋に感動してるんです」
「……そうか」
…確かに、この年になってホールケーキ丸ごとはキツいからな…。
彼女が「俺と5歳も離れていない」などと言ったせいで、「先輩」という言葉でさえとってつけたようなお飾りに聞こえてしまう。
彼女の様子は、あれから全く変わっていない。授業は殊勝な態度で受けているし、他の学生と接している姿もごく自然だ。
しかし、ここにいる時だけ────笑顔が増えたような気がする、と思うのは…俺が自意識過剰なだけだろうか。
何も他の奴と話している時に肩肘張っているというわけではない。ただ、ここにいる時の彼女は"より自然"にくつろいでいるように見えた。こんな風に、年齢を疑わせるような発言が当たり前に出てくるのも、ここでのことだけだ。
客観的に見れば、彼女は見事なまでにちゃんとした高校生に"擬態"していた。
だからこそ、ここにいる彼女の違和感が、余計に浮き彫りになる。彼女にここにいられると、なぜか"教師"として客観的な目線を向けられなくなってしまう。
「先生? コーヒー淹れましたけど、飲みます?」
今日もきっかり、作業を始めてから2時間。気を遣わせない程度の軽やかさで休憩を促してくる彼女の横顔が、またも一瞬だけ一回り年を重ねた大人の女のものに見えてしまった。…目が疲れているんだろうか。
「…ああ、いただこう」
「どうしました? なんだかひどくお疲れみたいですね」
…仮にも生徒だぞ、と主観丸出しになってしまう自分の思考を諫める。
いくら授業中のいかにも"仔犬"然とした顔と、今見せる"大人"びた顔にギャップがあるからって…。
「さっきそこのソファベッド、軽く掃除しておいたんです。15分程度仮眠でも取られたらどうですか? "生徒"には見せられない書類もあると思いますし、私、その間は席を外しますから」
…いかん。不覚にも、感情が揺れてしまった。
「────彼女のプロフィールですか?」
「はい。よく思い返すと、まだきちんと見ていなかったと思って…」
どうにも彼女に翻弄されて仕方ない。彼女の気遣いと、細やかな仕事ぶりに、心を乱されて落ち着かない。
このままでは、生徒に陥落するなどという、教師としてあるまじき失態を犯してしまいそうだ。
そう思った俺は、翌日の日暮れ後に学園長室を訪ね、改めて彼女が入学した際に記載したという個人情報を開示してもらえないか頼むことにした。
別に、そこで年齢がわかったからといって何かが変わるわけではない。しかし彼女があの時ちょっとした冗談を言っただけだったのなら(本当はちゃんと十代の子供だったのなら)、自分が彼女を無理に大人として見てしまっていただけなのだと反省することができる。それさえわかれば、明日からはちゃんと"仔犬の一人"として、年相応に接することができるようになるだろう。いくらなんでも、その程度の自制心は持ち合わせているつもりだった。
でも、もしあの言葉が冗談じゃなかったとしたら…?
「そういえば私もろくに目を通していませんでしたねえ…。クルーウェル先生、意外とそういうところマメですから、安心して彼女を預けられますよ、ホント」
いい加減なことを言いながら、学園長は中身を確認することもなく本棚から"オンボロ寮"とテープの貼られたファイルをこちらに寄越してきた。
中に入っている資料は2枚。監督生たる彼女と、彼女が連れている猫の分だ。
俺は何より先に、彼女の"生年月日"欄に目を走らせた。
頼む、十数年前に生まれたと書いていてくれ。
縋る思いで祈りながら、羅列された数字を見る────と────。
「…………嘘だろ」
ああ、なんて悪夢だ。
────彼女の生まれ年は、本当に俺と"数年"しか変わっていなかった。
いや、まさか。
こんないつまでも残るような資料に本当のことを書く馬鹿がいるか?
学園長の管理が杜撰だから良いようなものを、もしこれを見るべき者が見たら一発で…最悪、退学にすら追い込まれることになってるぞ。
しかし逆に、こんなところに虚偽の記載をする馬鹿がいることこそ考えづらいのも事実だ。
生年月日はいちいち考えて書くようなプロフィールじゃない。手癖でつい本当のことを書いてしまった、と考える方がまだ理に適っている。
「どうかしました?」
「いえ…あー…思ったより字が汚いなと思って…」
「ああ、それね。実はあの時ほとんど時間がなくて、かなり急かしてしまったんですよ。彼女もわけがわかっていなかったみたいで、ほとんど走り書きみたいになってましたね」
…なるほど、年を誤魔化す時間もなかったということか。
変なところで合点がいってしまったことに堪え切れず、深い溜息をついてしまった。
彼女が言っていたことは冗談なんかじゃなかった。
彼女は本当に────周りの仔犬どもと一回りも年の離れた"大人の女"だったのだ。
どういう原理で容姿が退行したのかは知らない。その辺りを解明するためには、彼女がやってきたという異世界との関係を調べることから始めなければならないのだろう。
ただ、事実は俺の前に澄ました顔で鎮座していた。彼女の経歴に、偽りはないのだと。
不意に、再びあの時の彼女の妖艶な笑みが蘇る。
「そんなに私の年齢が気になるなら、自分の目で確かめてみたらどうですか? 魔法のキスでなら、本来の姿に戻るかもしれないですよ。ま、その"本来の姿"があれば…の話ですけど」
時間が経ったせいで記憶が混乱しているのだろう、その女子高校生の顔が、急に(中身の)年に合わせた大人の顔で思い出されてしまった。ほっそりと美しく成長した彼女の姿が、見たことなんてないはずなのに鮮明に思い描けてしまった。
その後、俺は年齢のことだけを調べに来たことが怪しまれないようきちんと全ての項目に目を通し(年齢以外にはさして気になる項目はなかった。というより、情報があまりにも少なすぎた)、ファイルを学園長に返した。
「何か有益な情報はありました?」
「そうですね…。趣味のところとかなんて、少し歩み寄っても良いかと思いましたよ」
「それは良い。きっと彼女も喜びますよ。随分と先生に懐いてるみたいですし」
「はは…」
そりゃあ、懐くはずだ。
高校生のノリについて行けないと言っていたあの言葉が、ようやく現実味を帯びてくる。
年が近いところで言えばサムも候補に挙がるのだろうが、彼女の性格的に考えれば、俺の方が余程彼女の"ありのまま"の姿と似通っているはず。きっと本当に────自意識過剰などではなく、彼女は俺の傍にいる時が一番安らげていたんだろう。
彼女の過去についてはまだ知らないことばかりだが、少なくとも元の世界に絶望していたことと(元の世界について話そうとする時、いつも彼女の目が胡乱になる)、仮初めとはいえ学生生活を人並みに謳歌していることだけならわかる。働いていたというのなら、大方そこの就労環境が劣悪すぎて生きることに疲れてでもいたんだろう。
そんな中で、突然再び明日のことなんて何も考えなくても良い"学生"という身分に戻ることができ、それと並行して等身大の"大人"としていられる場所も確保できたとなれば────なるほど、彼女があくまで"学生"として優秀な成績を収めながらも、毎日楽しそうに教師の雑用を手伝っているという違和感も解消される。
彼女はきっと、どちらの顔も欲しかったのだ。
今の自分の顔も、過去の自分の顔も。
そして俺は、突き付けられた事実に頭を痛めながらも、心のどこかで"彼女のどちらの顔をも知っている"ということに、確かな優越感を覚えてしまっていた。
そう、俺は────自分でも気づかないうちに、彼女のそんなチグハグとした在り方に、すっかり惚れ込んでしまっていたようだった。
さて、彼女の素性がハッキリしたところで、ひとつの問題が顕在化した。
これから俺はどうやって彼女と接していけば良いのかということだ。
外はもうすっかり暗くなってしまっていた。また、余計な考え事の増える時間がやってきてしまったというわけだ。
彼女に惚れたというその事実が許されるようになったのは、ある意味幸いしたかもしれない。しかしだからといって、すぐに"学生"の彼女に迫るのは、いくらなんでも節操がなさすぎるというものだろう。
せっかく2人きりになれる時間はたっぷり確保されているのだから、その時間だけでも秘密の"大人の時間"を共有しようか? いや、でもそもそも彼女は俺の気持ちに応えてくれるのだろうか────?
そんなことをぐるぐると考えながら、自室に戻るべく廊下を曲がった時、すぐにまた分岐している道の奥で、暗がりの方に何人かの生徒がたむろしている姿が見えた。
まるで円を描くようにこちらに背を向けているその様は、時折見るいわゆる"弱い者いじめ"の構図そのままだった。何か問題行動が見られるようなら躾けなければならないと、(元々そちらの方に用はなかったが)あえてその生徒達の脇を通れるよう少し遠回りをすることにした。
すると────。
「随分と偉そうな顔してくれてるじゃねえか、ああ? 魔法も使えない雑魚のくせに」
「どんな気分だ? 魔法が使えないばっかりに先輩達や同級生にまで情けをかけられる気分はよ」
「せっかくだからこの機会に俺達が魔法を教えてやるよ! おら、そこに這いつくばれ!」
嫌な方の予想が当たってしまった。
案の定、生徒達はぐるりとひとりの生徒を取り囲んでおり────ああ、しかもこれは最悪だ────囲まれていたのは、他ならない彼女だった。
彼女はその素性の割に、大方の生徒からは好かれていた。不相応なやっかみもほとんど受けていないと言っていたし、(今思えば大人だからこそなのだろうが)"誰とでもそつなく、適度な距離感で接する"ということに関しては非常に長けていた。
それでも、万人に好かれるというのは無理な話。見たところ、囲っているのは最も血の気の多いサバナクローの生徒のようだったが────成績優秀で上級生や教師からも気に入られている彼女をやっかんでいるだけだということは、すぐにわかった。
「……」
誰もまだ、俺の存在には気づいていない。まだ少し距離はあるが、大声を出してやめさせようとした────その時。
「ねえ」
彼女の凛とした声が、寒々しい廊下に響く。
「本人に魔力がなくても、魔力が込められた道具を使うことなら猿にでもできるって、"センセイ"に教わらなかったの?」
彼女は静かにそう言うと、ポケットから何かの模様が書かれた紙を1枚取り出した。そしてその紙を小さく千切って床にバラ撒くと────小さな紙屑は、みるみるうちに大きな煙となって辺り一帯を包み込む。
────呪符による魔法代行。
魔力が込められた媒体に何らかの手を加えることで(この場合は"紙"を"千切る"行為がそれだ)、威力は弱いながらも魔法の効果を発揮する、初歩的な魔術。
基本的に魔法士としての素質を持っている者しかこの学園には存在しないため、期初の授業でチラリと触れた程度の、そんな基礎魔術を覚えている生徒がいるとは思っていなかったが────彼女は確かに、俺が教えた"魔法"を使っていた。
あっという間に黒煙が彼らの視界を塞ぐ。
「なんだこれ!」
「うわっ、何も見えねえ!」
「おい、足踏むなよ!」
パニックになっているらしい男子生徒数名の声が聞こえる中、彼女がけろりとした顔をして煙の中から走り出てきた。頬に少しばかりの煤がついているが、俺の顔を見るなり「あ、先生! ちょっとガラの悪いガキに絡まれちゃったので、匿ってください!」と────なぜか笑顔を浮かべながら、そう言った。
「…────すぐそこの教室に入るぞ。仮に見つかっても俺がいればあいつらも手出しはできないだろう。しばらく一緒にいてやる」
「校務中なのにすみません、お願いします!」
バタバタと慌ただしく、手近な教室に入り込み、念のため内側から鍵をかける。
2人でそっと扉に耳をつけていると、遠くの方で「クソ、見失った!」「あいつ魔法使えないんじゃなかったのかよ!」という悔しそうな声が聞こえ、そして────静寂が訪れた。
「はあー…。まさかあんな古典的な絡み方をされるとは…。すみません、お陰様で助かりました」
ほっと安堵の溜息を漏らす彼女。
「…よくあの場で咄嗟に呪符を使えたな」
「護身用に持ち歩いてるんです。呪符の生成はリドル寮長が手伝ってくださったので、精度もバッチリなんですよ。魔法が使えない弱者は、弱者なりにせめて逃走ルートくらいは確保できるようにしておかないと」
強かな言葉に、つい呆気に取られる。
知らなかった。彼女が絡まれるなどという場面を想像すらしたことがなかったから────まさか、自分自身でその可能性を考え、それに備えてこんな周到な準備をしていたなんて。
「それもこれも、先生が期初に呪符のことについて触れてくださったお陰ですね。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げられ、慌てて冷静さを取り戻す(それでも、俺の脳裏にはまだ不良に対して毅然と立ち向かう彼女の好戦的な笑みがこびりついていた)。
「正直、5分も割いていない単元をちゃんと聞いている生徒がいるとは思っていなかった。ああいう場面には出くわさないのが一番だが、もしものことを考えて警戒を怠らないのは素晴らしい姿勢だ、Good────」
言いかけて、止める。
…自分の危機が訪れても、冷静に対処するその判断能力。
自分にできないことはきちんと弁え、できることの中でいつでも最善の手を打てるようにする予測能力。
魔力がないせいで"弱者"とカテゴライズされがちではあるが、彼女の人格を真に覗いた時、そこに"弱さ"は微塵も見られない。
彼女は強かった。彼女は賢かった。
最初から誰かを頼るつもりなどなかったのだ。それでも、ただやられはしないと屈強に立続けていた。生徒なら、すぐに教師や上級生を頼るなりなんなり、とにかく"他者"に救いの手を差し伸べる権利が当然にあるというのに、だ。
だから、そんな"自立した女性"を、"仔犬"とは────もう呼べまい。
「…? グッドガール、言ってくれないんですか?」
揶揄うようにこちらの顔を覗き込んでくる彼女は、俺がまだ彼女の本当の年齢を知らないとでも思っているのか、こちらの反応を試すような光をその瞳に宿していた。
…馬鹿か、こっちは今さっき、お前の本性を暴いたばかりだっていうのに。
俺は溜息をつき、魔法で小さな鈴を作り出した。
「…これを持っておけ」
「なんですか?」
「護身用のグッズだよ。それを鳴らせば、すぐ俺のところに通知が入る。今回は近くにいたからすぐ対応できたが、周りにお前を守れるだけの魔法士がいなかった場合、あの煙幕だけじゃ逃げ切れない可能性もあるだろ」
まるでクリスマスツリーに飾るオーナメントのような金色の鈴。両手でそれを受け取った彼女は、しげしげと興味深そうに眺めまわしていた。
「ありがとうございます。────でも、多分滅多なことでは使わないと思います」
「なぜだ?」
「だって、先生は大抵お忙しいじゃないですか。私、実は他にもあれこれと呪符を持ってるんです。今日はたまたま近くにいらっしゃったから頼ってしまいましたけど、自分の身くらい自分で守れますよ」
挑戦的な視線が、まっすぐに心を貫く。
あらゆることに冷静な判断を下すその非情さ。
何手も先を読み、人を気遣うその心根の優しさ。
今までは"生徒だから"という理由で自制してきた。
違和感を覚えながらも、一線は超えるまいと言い聞かせていた。
もうとっくに俺は彼女のことを子供だなんて思えなくなってしまっていたのに。
ただ、俺達両方に科せられた肩書きが、辛うじて足を踏みとどまらせてくれていただけだったというのに────。
しかし────。
先程知ってしまった、彼女の本当の生年月日────あんな簡単な4桁の数字が、俺の最後の自制心を壊した。
「────"レディ"を守ることは、"紳士"にとっての誉れだよ」
自分でも驚くほど、飛び出た声は深く、優しさと慈愛に溢れてしまっていた。
ああ────こんな簡単に、人は落ちていくものなのか。
こんな風に、誰かを想う日が来るなんて思っていなかった。
こんな風に、誰かを守りたいと思う時が訪れるなんて想像もしてみなかった。
「…先生?」
彼女は鈴を握りしめたまま、初めて真面目な声を漏らした。
機微に敏い彼女のことだ、俺の心境の変化にはすぐ気づいたことだろう。
「魔法のキスでなら、本来のお前が戻って来るんだろう?」
人気のない、暗い教室。
そこに見えるのは、窓から儚く差し込む月の光に照らされた、彼女の不安と好奇心が混じった表情だけ。
俺はそっと彼女に近づき、頬についた煤を落とした。
添えた手は、離さない。当然その異常な行動に気づかない彼女ではないので、俺の手に頬を摺り寄せながら、またしても蠱惑的な笑みを浮かべて俺をまっすぐに見上げた。
幼いその顔に似つかわしくない、大人びた表情が、否応なしに鮮やかな感情を俺の心の内にもたらす。
「────良いんですか? 生徒に手を出したりして」
そんな時でさえ笑みを絶やさないのだから、憎らしい。
憎らしくて、愛おしい。
「…仕掛けてきたのはお前の方だからな」
こんな風に保身の言葉を放ってからでなければ、好いた女の背に腕を回すことすらできない臆病者を、どうか笑ってほしい。
「さあ、本来の姿とやらを見せてもらおうじゃないか」
「…ふふ、先生ったら」
拒む様子のない彼女の後頭部を引き寄せ、俺はそっと潤んだ唇に自分のそれを重ね合わせた。
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