If(あいつを選んで良かった)
ふと、夜中に目を覚ました。
時計を見れば夜中の3時。普段なら絶対に起きない時間だ。一度睡眠が途切れてしまうとなかなかその後寝付けず、翌日のコンディションにも差し障る。望まないハプニングに思わず溜息が漏れた。
…もしかしたら、緊張しているのかもしれない。
明日は自分にとって人生で一番大切な日。気負っているつもりはなかったが、その意識が知らないところで自分の心身を張り詰めさせていたのかもしれない。深く眠れなかった理由もそれなら理解できる。…もっとも、納得はできないが。
目が覚めてしまった以上仕方ない、と渋々身を起こす。何か温かいものでも飲んで、軽くストレッチしてから再び眠ろう。そう思ってひんやりとした床に足をつけた。
その時、本当にタイミング良く携帯の明かりがついた。寝ている間は音を切っているので、今起きなければ気づかなかったことだろう。画面を覗き込むと、『着信 宮地なまえ』と表示されている。
…宮地?
「…はい」
『えっやばい出た! なんで!? 寝てないの!?』
時間を忘れるほど元気な声が、受話口の向こうから聞こえてきた。夜中にこのテンションは正直胃もたれがするといつだったか一度伝えたこともあるのだが、彼女は笑って「じゃあ私と話す前には胃薬飲んどいて」などと言うだけだった。
「…偶然にも今起きたところだ」
『そんな偶然もあるんだね。もしかして今晩に限って通知切ってなくて、着信音で起こしちゃったんじゃないかって一瞬焦ったよ』
「いや、それはない。それよりどうかしたのか」
『特に用はないんだけど。…うん、私も実は、さっき起きちゃって』
胃もたれするはずの声は、なぜかその時ばかりは弱々しかった。いつも強気な彼女がそんな素振りを見せるのは長い付き合いの中でも珍しく、つい本能的に心配してしまう。
「…体調は」
『元気だよ』
「…じゃあ、不安か」
『それも大丈………いや、ごめん…やっぱりちょっと不安かも』
言い終わるより前に、本音がほろりと零れ落ちた。掬い上げることもできずに、彼女の漏らした不安はぽたりと宙に落ちて消える。
「………そうか」
『あのね、不安って言ってもあれだよ。迷ってるわけでも、ましてや後悔してるなんてこともないんだよ。私は自分の選択は正しかったって自信を持ってるし、絶対これは私を幸せにしてくれるとも思ってる』
「………ああ」
その機微は理解できる、と言ったら信じてくれるだろうか。自分も同じ気持ちだ、と言ったら受け入れてくれるだろうか。
『でもね……私、大丈夫かなぁって…。私はちゃんとやれるかなぁって…ちょっと心配になる。ちょっとだけね』
未来は不確かだ。どれだけ正当性や幸福を確信していても、確約はされていない。意識をどんなに強く持っていようと、一歩先ですら見えない道の前では常に不安が顔を覗かせてくる。
「…大丈夫だ」
『………』
「お前はこれまでずっと、“ちゃんとやって”いただろう。それはこれからだって何も変わらない。万一変わることがあったとしても、それはその時になってからまた考えれば良いことだ。俺はお前とならそれができると思ったし、だから、お前とこれからも共に歩むことを提案した」
『………』
彼女は少しだけ沈黙した。それから、小さく吹き出した。
『提案って。プロポーズって言ってよ』
「辞書で引け、同じ言葉が載っている」
『乙女辞書では意味が全然違います〜』
「…なんだその辞書は」
長い人生を共にするパートナーを、まだこの二十代という若さで選ぶ…その精神的、あるいは社会的な重さはわかっているつもりだ。根拠もなく大丈夫だなんて言うことが、いかに無責任でいい加減かということだって理解はしている。
でも、そんな理屈を超える感情があるのだと、知ってしまったから。
『…明日、楽しみだね』
「……ああ」
『私達、本当に結婚しちゃうんだね』
「……そうだな」
『花嫁さんのドレス姿見て泣き出すお婿さんってシチュエーションめちゃめちゃ憧れてるから、明日はそんな感じでよろしくね』
「…善処はしよう」
『ありがと。じゃあ寝るよ。……ごめんね、付き合わせて』
「いや、俺も良い気分転換になった。……おやすみ」
こんな気持ちになる時が来るなんて、出会った頃からは想像もできなかった。こんなに明日が待ち遠しいと思う日が来るなんて、出会う前までは知らなかった。
何も変わらないと、さっき確かに自分は言った。しかし何か新しいことが明日から始まるのだと…そんな漠然とした予感を抱えながら、再びベッドに入る。
羊の数を数える間も無く、瞼は重くなっていった。こうして次に目を開けた時は、そうだな、彼女の要望通り、泣く努力をしておかなければならないかもしれない。
そうして迎えた翌日、家を出ようとしたちょうどその時に家のインターホンが鳴り響いた。
玄関を開けるとそこに立っていたのは高尾。いつもの変わらない憎たらしい笑顔で、俺を見ていた。
「よう、準備できてるか?」
「ああ」
「なまえは先に式場入ってるってさ。あっちの送り役はもちろん宮地さん、今は現地で俺らをお待ちかねだ」
「………宮地さんは、何か言っていたか」
「そりゃもう、今朝は一段とキレッキレ」
きゅっと無意識に唇を噛みしめる。彼女の決断を否定するようなことは一度もしなかったが、最後まで心配そうな眼差しを向けていた宮地さんの横顔を、俺は今日の日までもう随分長いこと見続けてきた。
“あいつみたいな奴とだけは付き合うなよ!”
知り合って間もない頃、宮地さんが自分を指してそう言っていたことを思い出す。確かに自分はとても理想的な後輩だったとはいえない。折り合いも良くはなかった。認められないのは、当然かもしれない。
「でも大丈夫。お前が来るの、楽しみにしてるってさ」
高尾はそう言って、俺の背を押しながら歩き出した。
「…ま、正確にはお前を見て喜ぶ妹の姿を楽しみにしてる、ってとこだろうけど」
「…………信憑性の高い話だ」
向かう先は、彼女と話し合って決めた新しい式場。秀徳高校の傍にある、中庭の綺麗なところだった。
中に入り、チャペルや披露宴会場を通り過ぎて見えづらい通路の先にある新郎用の控え室へと進む。聞けば彼女は先に来て今は向かい側の新婦控え室にいるそうだが、段取りとしてはこれから着替える自分より後に支度を終えるようになっているらしい。
「おう、来たな」
控え室近くのスペースでは、宮地さんがコーヒーを飲みながら待っていた。
「おはようございます宮地さん」
「ここにいたんすか宮地さん。てっきりもう親族控え室に移動したもんだと思ってました」
「最後の過保護だからな。朝一でこいつの面構えちゃんと見といてやろうと思って」
絶対最後になんない気がする、と言う高尾の呟きが背後で聞こえた。
「……お前に、任せて良いんだな」
彼女のことを。
彼女の未来のことを。
人の未来を任されるというのは、なんと重たいことなのだろうと思う。しかし同時に、そんなに重たいものを任せようと言ってくれるこの人の らしくない表情を、自分は嬉しく思いながら見ていた。
「………はい」
宮地さんはしばらくこちらを睨んでいた。何よりも…もしかしたら自分自身よりも大切な彼女を任せることは、俺が思う以上に彼に覚悟を強いているのかもしれない。
「一度しか言わねえからよく聞け」
「………?」
「……あいつの選んだ相手がお前みたいな奴で、良かったよ」
「!」
じゃーな、と最後に吐いて、宮地さんは親族控え室の方へ去ってしまった。後に残された俺と高尾は顔を見合わせ、それから彼の残した言葉の意味を反芻し、少しだけ…笑ってしまった。
「良かったな、あんなこと言ってもらえて」
「…ああ」
白いタキシードに着替え、髪を整えてもらう。今日だけは指のテーピングも外すことにした。
着替えが終わり、担当プランナーやスタッフとの軽い打ち合わせをしながら彼女の支度が終わるのを待つ。俺1人でもできる事前準備がひと段落した頃に控え室へと入ってきた高尾は、俺の姿を見るなりひゅうと口笛を吹いてみせた。
「様になってんじゃん」
「茶化すな」
「マジマジ。つかそろそろなまえの方も準備終わるってさ。行こうぜ」
行こうぜ、と言ったくせに高尾は新郎控え室を出るなりどこかへ行こうとする。
「どこへ行く」
「俺の役目はここまで。あとは夫婦水入らずで感動のご対面しといて。俺は挙式の時まで楽しみにしながら時間潰してくるから」
おい、と声をかける前に高尾はさっさといなくなってしまった。追うわけにもいかず、仕方なく新婦控え室の前で立ち尽くして待っていた。
…心臓が、いつもより早く脈を打っている。
体感ではかなりの時間待っていたが、実際は1分程しか経っていないだろう。ほどなくして、スタッフが新婦の支度もできたからと入室を許可してくれた。
感覚のない足を踏み出し、中に入る。こちらに背を向ける彼女は、2人で選んだ白いウェディングドレスに身を包み、学生時代に一度褒めたことのあるスタイルをより華やかにアレンジした髪型をしていた。
ぱっと、彼女が振り返る。
「……………!」
言葉を、失った。
まるで色褪せた世界の中で彼女だけが鮮烈な彩りを放っているようだ、と思った。見慣れたはずの顔なのに、誰か知らない人に見える。知らない人に見えるはずなのに、胸に温かいものがこみ上げる。
「…ねえ、涙は?」
「………宮地だ…」
「なにその反応、え、どしたの、宮地だよ」
間抜けな声を聞いて、どっと安心してしまった。体が急に重力を取り戻し、世界にもちゃんと色がつく。
「どう、馬子にも衣装?」
「ああ…」
涙は出なかった。だが、涙を流す新郎の気持ちは、なんとなくわかるような気がした。
「綺麗だ」
宮地は喜ぶでも照れるでもなく、怪訝そうな顔で俺を見つめた。
「…大丈夫? お腹痛い?」
「絶好調なのだよ」
「それなら良いんだけど」
この後は、親族への挨拶が控えている。あまり感慨に耽っている暇はない。彼女と2人揃って、当日の確認をしてもらう。それから向かうのは、チャペルだ。
「高尾は?」
「挙式が始まるまで適当に時間を潰すそうだ」
「じゃあ万一お兄ちゃんが暴れ出したらちゃんと止めてね」
「……暴れるのか?」
「うそうそ、お兄ちゃん喜んでくれてるから。大丈夫」
彼女の笑い声を聞きながら、先程の宮地さんの表情を思い出す。
「……そのようだな」
「ん? お兄ちゃんとはもう話した?」
「ああ、少し」
「それなら良かった」
その後彼女が言うには、宮地さんは昨日彼女に対しても「あいつを選んで良かった」と伝えていたらしい。俺自身も同じことを言ってもらったのだと言うと、彼女は更に笑みを深めた。
「覚えてる? 私らが高一の時は、仲良くするのですら苦い顔してたのにね」
「当時は俺達自身もこんなことになるなんて思っていなかっただろう」
「そだね」
未来のことなんて何一つ考えずに、特別な感情なんて全く知らずに、いつも3人で無駄な時間ばかりを過ごしてきたあの頃。あの頃の俺が今の俺を見たらなんと言うだろうか。
「……これは嬉しいサプライズだったな」
まるでそんな俺の自問に応えるようなタイミングで、彼女は言った。
「もしタイムスリップができたとしても、私は絶対昔の私にこのことだけは教えてやんない。この幸せな気持ちは多分、今の私にしかわかんないから」
「……ああ、そうだな」
スタッフが、チャペルへの入場を促す。この先には両家の家族と、それからこの後未来を誓う場所が待っている。
「…じゃあ行こ、緑間」
彼女が俺の名を呼んで、そっと手を出した。
「…お前も緑間になるだろう、宮地」
「今の言葉めちゃめちゃ矛盾してるのに気づいてる?」
「…慣れた呼び方をすぐに変えるのは難しいな」
差し出された手を、優しく握り返す。
俺達はそうして2人、歩き出した。
「っていう真ちゃん視点の夢をなぜか俺が見ちゃったんだけどこれどういうことだと思う?」
「良い病院紹介しようか」
「…頭の?」
「ううん、皮膚科」
「皮膚診てもらってどーしたいの!?」
「いや最近ちょっと吹出物が目立つから薬もらおうかなって思って」
「話聞く気ゼロ!」
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