ラブレター
拝啓
緑風の候、主殿におかれましてはますますご清祥のことと、お慶び申し上げます。
────と、こんな風にずっと堅苦しく書くのも雅だが、僕と主の間柄だ、今更他人行儀な文をしたためても、君はきっと、昔山で遭難して勝手に野草を食べた時のような、あんな顔をするのだろうね。
いきなりこのように筆を執ったことに、大した意味はないよ。
ただ、この間加州と部屋を掃除していた時、この筆入れを見つけてね。
思い出したんだ、これは主が初めて僕に与えてくれたものだった。あの頃はまだ、"ものを贈る"という行為が君にとってどんな意味を持つのか知らなかった。栄誉や信頼の証、あるいは友好関係のしるしとして刀の贈与が行われることなら、僕達も自分の身をもって経験している。でも、あくまで僕達は、贈る者と受け取る者の間に挟まれた"受け渡される『物』"。それを行う人間達がどんな感情を持っているかも知らないし、常に仕える主に忠実であろうとはしていたけれど、刀によっては文字通りお飾りとしてしか見られなかった者すらいる。物の受け渡しは、それを行う"人"同士がその関係性を"目に見えるもの"で表すための行為だ。"贈る"こと自体に意味はないし、そこに感情が介在することなんてもっとない。
だから君は、どういうつもりで僕にこの筆を贈ったのだろうと、しばらくは不思議でならなかったよ。僕は出陣しないで物書きでもしていろ、とでも言いたいのかと思ったくらいさ。あの時は、素直に喜べなくて、すまなかった。
まだお互いに、人として未熟だった。だから、あれは君なりの、精一杯の歩み寄りと優しさだったんだろうと、今ならよくわかるよ。僕が詩を詠むことを好んでいたから、"日常"がもっと豊かになるようにと、そう想ってくれていたんだね。お陰で僕は、人の営みの楽しさを知ることができた。────君に、人の心を教えてもらった。
今でこそそう素直に言えるけれど、でも、君がそんな気遣いのできる子であるにも関わらず、ずっと塞いでいたことの理由まではしばらくわからなかった。
本丸が立ち上がり、僕が最初の刀として選ばれた当時、君はまだ学生だった。僕が"人"として未熟であることはもちろん、君もまだ、人間の歴史あるいは人間の一生の中では未熟な方だと、そう自称していたことを覚えている。
本当は感受性が豊かで、優しかった君は、だからこそ世間の悪意を常に疎んでいた。進学へのプレッシャー、将来への不安、親御さんや友人との付き合い方、「みんな悩んでることだよ」なんて言っていたけど、もし本当に"みんな"がそれに悩んでいたなら、まるで世界でたった独り誰にも相談できず思い詰めるような、そんな表情は要らなかったはずなんだ。
君から見えたのは、果てしない孤独だった。
何があっても笑わない、涙を溢さない。ただ仕事として、歴史を守る。
僕から見たらまだまだ幼い、子供の主君。その采配に疑問を持ったことだって何度もあったよ。そのせいで、衝突したことも数知れなかったね。いや、あれは衝突と言えるのかな。僕が意見をしたら、君ってば、まるで自我のない人形のように「じゃあ、歌仙の言う通りにしましょう」と言うだけ。まだ"物"寄りの意識しかなかった僕も、そんな君の固く結ばれた唇に気づくことなんてなかったから、実質僕が君の意見を食い殺してしまっていたんだ。
「君には自分の意思がないのかい?」
「…私のような素人の意見より、戦場を見てきた貴方の方が余程的確な采配を下せるはずです。私は戦果を上げられて、その上で私の元に来てくれた刀達が必要以上に傷つかなければ、なんだっていいんです」
なんだっていい。無責任な言葉だな、と思った。だから僕も、それ以上そんな"無責任な"君には歩み寄ろうと思っていなかったんだ。
知ってたかい? 初めて僕と君とで集めた資材を使って作った刀である平野は、僕よりずっと"人"が持つ感情を宿すのが早かったから、そんな僕と君の距離感にずっと戸惑っていたんだそうだ。
今でこそ「主君がいない時には歌仙さんがこの本丸の主導者ですね」なんて言われているけどね、僕は最初から、本丸の主導権は僕と君、2人で担ってきたと思っているよ。
僕は、君の半身だ。君と僕、人と刀、その両方が揃って初めて一人前になれる。
色々一緒に経験して、"心"からの言葉を交わすようになって、そう共に笑い合ったあの瞬間は、ずっと僕の目に見えない宝物だよ。
別に僕は、この本丸の主導権を欲していたわけじゃない。かといって、「君には僕がいないと駄目だ」と言いたいわけでもない。
このことを話そうとすると、少しだけ長くなるんだけど…そうだね、せっかくの機会だし、昔話をしよう。
最初は、君の采配を信じられなかった。
君が、君の力で顕わにしていく刀のことを信じられなかった。
きっとそれは、焦りや不安のせいだったんだ。
この時代に顕現して、歴史を守るという大きな役目を背負った。それはとても意味のあることだと思ったのに────そんな役目を全うするための主が、君のような小さな女の子だったから。物は見た目だけで判断するものじゃないと、刀の頃からよく見て知っていたはずなのに、僕は人としての心を手に入れたことで、逆に見えなくなっていたんだ。
心という、とても簡単に揺れ動いてしまうものが怖かった。
だから、何を感じても、何を見ても、動じないように気をつけていた。
当然、"歴史"を守る以上、僕達の知っている時代に飛ばされることもある。どれだけ変えたいと願う過去があっても、それは全て"過去"。変えてはならないし、変えられそうになってしまったら、罪なき人を手にかけるようなことがあっても躊躇ってはいけない。
心は、要らないものだと思っていた。人間の姿で顕現されたのは、単に己が本体を己で操る方が戦いやすいためだと思っていた。審神者が誰しも戦えるわけではないから、刀剣男士が戦えればその分本丸という自陣の母数を増やすこともできるし。
だから、それ以上に"人"である必要性を感じていなかったんだ。
実際、君にも心らしいものを感じていなかった。僕達と顔を合わせても機械的に挨拶をするだけ。出陣時以外ではその"顔を合わせる"ことすらしようとしていなかったし、笑顔も怒り顔も、当然泣き顔も見たことがなかった。
でも、一度だけ君が泣いているところを見たことがあったな。
普段から死んだような顔をしている君が、それでもすぐに気づくほど、いつにも増して塞いでいたような気がしたから、気になって様子を見に行ったら────それまでずっと僕達よりよっぽど"人でない"ように思えていた君が、「僕達の期待に応えられていない」と泣きじゃくっているんだから、驚いたよ。
その涙の理由は聞いてもわからないと思い込んで触れないようにしていたけど、あの日呟かれた「ごめんなさい」っていう言葉は、今でも鮮明に思い出せるんだ。
"人"の期待に圧され続けていた君は、勝手にまたそれを背負い込んで、不相応なほどに高い目標に届かないことを嘆いているのかな、って、後からそう考えた。君はそのせいで、心を失ってしまったのだから。他者と、周りの環境。君にはどうしようもないもの達が、いつも君を苛んでいた────そしてそれは、ここに来てからも同じだったんだ。そのことを知るのに、随分と時間がかかったよ。
だからあの時はただ戸惑って、戸惑う自分の心の動きにもついていけなくて、ただ泣きじゃくる君を無様に見ていることしかできなかったんだ。
あの時、平野に「気分転換にどこかお出かけされてみてはどうですか」と言ってもらえたのは、本当に救いだったな。どこか、と言っても、僕達が共に行ける場所なんて戦場か、いつも懇意にしている万事屋くらいしかないから、どこへ行っても彼女の気を逸らすことなんてできないだろうと思っていたんだけど────。
「海に行きたい」
そう、君は言っていたね。
どうして海なんだろう、って思った。
僕は知らなかったんだ。"見る"ために行く海の美しさを。日に照らされて熱くなった砂の感触も、静かな浜辺に打ち寄せる波の音も、全部、書物の上でしか知らなかった。詩を嗜む者として未熟だと、今の君なら素直に笑ってくれるのだろうか。
海に着くなり君は、僕に遠くへ行くように言った。これから言うことは、僕に聞かれたくないと言って。
でも、僕が離れている間に主に何かがあったら大変だ。だから、実はあの時、姿だけ見えないところに行って、声は聞こえてしまう距離で待っていたんだよ。
そうしたら、君がいきなり叫び出した。
「…────怖いよ! いきなり歴史を守るなんて! まだ学生だった私にそんな責任を押し付けて! 人の心がわからないって、自分で言っちゃう神様と一緒に戦えなんて! いくら道具だったって言っても、今はもう意思があるんだよ! 危ない目に遭ってほしくないし、怪我をしたら、采配を取ってた自分のせいだって思っちゃうし! 私はあの子達と仲良くなりたいのに、それさえ"主だから一線を引け"って言われるなんて、どこまで政府は私を孤独にしたいの!」
────それは、君が初めて口にした"本音"だった。
その声を聞いた瞬間、僕は鮮烈に自覚したんだ。
この子は、主である前に、幼い女の子なんだということを。これじゃあまるで、今まで仕えていた主君の娘のようだ、と。
危ない目に遭ってほしくないと言われても、僕達は戦うために遣わされた、"たまたま意思の宿った"道具であることに変わりない。むしろ意思の疎通が直接取れて、やりやすいとすら思っていたのに、彼女にとってはそれが枷なのだという。
仲良くなりたいなんて、その必要性をどこに感じるのだろうという疑問もあった。元より対等な立場ではない"人"と"道具"なのに、むしろ彼女の方が主として、家臣たる僕達に期待をかける立場なのに、どうしてそこで自らを責め、自らに有利となるはずの"線"を消そうとするのだろう。
でも、ひとつだけ引っかかるものがあった。
「どこまで私を孤独にしたいの」という────主がずっと嫌っていた、"孤独"という言葉。涙混じりに叫ばれたそれを聞いた時、僕の揺らがないはずの心が、激しく痛んだ。胃がぐにゃりと捩れたように苦しくなり、無意識に拳と唇に力を込めていた。
そして、僕の未発達な心は、そのままそれを声に出していた。
「っ────……僕は主に期待なんかしていない! 主が僕に期待をするべきなんだから! 怪我をしたら治してくれれば良い、君にはその力がある! そして僕達にも、折れる前に撤退するくらいの頭はある! どうして主は全てひとりで背負おうとするんだ! 誰もひとりで歴史を守れなんて言っていない! 主には重過ぎるその任を、共に全うするための僕達であるはずなのに、なぜ僕達を頼ろうとしない! なぜ僕達に任せようとしない!」
聞くな、と言われていたのに、主の感情は頂点に達していたらしい。聞かれていたことを怒るより先行して負けじと言い返すその様は、皮肉なことにとても"人間らしい"ものだった。
「だって…だって! わからないんだもん! 人間の怪我はそんなにすぐ治らないの! 頭ではわかってる、治癒の力を使えばすぐに治ってくれることなんて! でも、私は、私と一緒に戦ってくれる人が苦しそうにしているのを見たくない! 傷だらけの仲間を見ていることしかできないなんて、己の無力さが情けなくなったって仕方ないでしょう!」
「驕るのも大概にしてくれ、主! 主は戦えない、でも治癒の力がある! 戦場に出る以上僕達が怪我をすることは当たり前で、怪我をした僕達を治せる主のことを既に頼りにしているんだ! どうしてそこまで自分を卑下する、僕達に戦える力を与えることは、主にしかできないんだから!」
「それなら、どうして私だったの!? もっと霊能力を持っていて、采配も上手で、神様との会話が上手にできる子は、もっともっとたくさんいたはずなのに!」
「でも君が選ばれた、それは事実だ! そして僕達は、そんな君についていく覚悟を決めた! 僕達の覚悟を、僕達の意思を、無視するって言うのかい!? どうして僕達は君を慕っているのに、それを透明化させてまでわざわざ自ら孤立しようとするんだ!」
いつの間にか、遠ざけていた僕達の距離は縮まっていた。最終的には主が僕の胸倉を掴んで泣き叫ぶので、僕もそんな主の圧を押さえながら、まずは落ち着かせようと座らせることにする。
しかし、どうにもお互いまだ力加減がわからなかったらしい。僕の力はとても強かったようで、主はすてんと砂の上に尻もちをついてしまった。
「あ────…」
謝ろうと口を開きかけた瞬間、主は僕の足元を目一杯の力で払い、僕のことまで地面に転がした。
「〜〜〜〜! この、子供が!」
取っ組み合いにこそすらならなかったものの、僕達はそのまま砂の上を転がり回った。雅さの欠片もない、醜い争いだった。────それと同時に、それは僕達が初めて本音をぶつけ合った瞬間でもあった。
そうして、いつの間にか僕達は海辺にまで来てしまっていたらしい。打ち寄せてきた波がばしゃりと全身にかかる。冷静になれたのは、そこまで来てのことだった。
「────…」
「────…」
2人して、黙り込む。
そして、僕達は互いに涙を流しながら────大笑いした。
「なんだ、歌仙は私に期待してなかったんだ」
「君の方こそ。僕達のことを嫌っているのだと思っていたよ」
「そこで0か100かしか選べないところ、付喪神って感じだね。意外だったな」
「僕もだよ。君の変に行間を読むところ、とても人間らしい気がする」
初めて、互いの心の内を曝け出した。彼女は蓋をしていた感情を。僕は、初めて知った感情を。
びっしょり濡れたせいで落ち着いた僕達は、浜辺の波がちょうど足にぶつかるかぶつからないか、そのくらいの距離を海と保ち、日に照らされて宝石のように輝く青を見つめていた。空と海の境界線を眺めながら、ぽつりぽつりと、少しずつ、お互いの本音を、ずっと忘れていた、あるいは知らなかった気持ちを打ち明け合った。
────それからだった。主の采配に力強さが加わるようになったのは。
しばらくの間、必ず僕を隊長の座から動かさなかったことには、「たまには他の刀を隊長に据えないと、本丸全体の練度は上がらないよ」と進言したものの────……、もう、僕の言葉を鵜呑みにする主はいなくなっていたらしい。
「ううん。私は歌仙に隊長を任せたい。歌仙なら、戦場と本丸…離れている場所でも、私の考えること、やってほしいこと、してほしくないこと、全部わかってくれるでしょう。他の男士にもそれを教えていってあげてほしいの。中には私の意見を素直に聞くことが難しい子もいるから…。"この本丸"の方針は、私が決める。でも、それを伝えるのは、歌仙にお願いしたい。……これって、職務放棄かな」
やれやれ。そう言われてしまったら、断ることなんてできないじゃないか。
僕は幾振りもの刀を連れて、様々な時代の様々な戦場に赴いた。主が戦いにおいてどう動いてほしいのか────ああ、そうだよ、僕が誰よりも一番理解していたから、それをずっと伝え続けた。
そうしているうちに、政府や他の本丸からも弱小と揶揄されていたうちの本丸は、精神的にも、物理的にも、随分と強くなった。
「君もかなり素直にものを言えるようになったね」
「歌仙が、海に連れて行ってくれたからだよ。────あの日の波は、とっても綺麗だったから」
どう考えても、思い出に残っているのはその前の言い争いの方。でも、"綺麗"な記憶として残っていたのは、確かに海を眺めながら静かに語り合った時間の方だった。
本丸に来てから、数年経ってしまったけれど。
でも、その頃から、僕は君を心から信じられるようになった。
「初めに私のところへ来てくれたのが歌仙で、本当に良かった」
「何を言っているんだい、君が僕を選んでくれたんだよ。────僕を選んでくれたのが君で、こちらこそ良かった」
「…私達、2人で今の本丸を作ってきたんだね。この本丸は私と歌仙、2人の本丸だ」
「主はあくまで君だけどね」
「うん。わかってる。その責任は、ちゃんと持ってるよ。でも、歌仙がいなかったら今の私はいない。過敏に揺れてしまう私と、揺れない心を持つ歌仙。重たいことを言うかもしれないけど────私の足りていない部分を補って、今の私の半分を作ってくれたのは、歌仙だと思ってる。本当に、ありがとう」
身に余る言葉だった。あれだけ毎日苦しそうにしていた主が、花のように笑って僕を己が半身と言ってくれる。そのことがどれだけ嬉しいことか、そのありがたみを感じられるくらいには僕も成長していたらしい。
それ以来、僕は誇りと信頼を持って「この本丸は、僕と主の2人で作ってきたんだ」と言うようになった。共に歩み、共に成長し、"ちょうどいい具合"に君の繊細さと僕の図太さを分け合って、を2人で一人前になったから。
そう、2人の本丸という言葉は、そういう意味でずっと心の奥で大切に持ち続けてきたんだよ。
かけがえのない、守りたいと自ら思える、大切な主。
そして、そんな僕の背中を見て育ってきた刀達も、同様に君を大切に想っていた。
君が成人してから、更に10年経つ頃。
その時にはもう、君の表情の陰りはすっかりなくなっていた。
疎む世は、ない。
君に重荷を背負わせる者は、いない。
他の審神者はよく、審神者に就任する時、現世と断絶されることを嘆いている。他の時間軸への干渉を避けるためにそういう措置が取られるのは仕方のないことと言われているけど、審神者にも過ごしてきた時代や世界があり、家族や友人がいる。突然死んだことにされるなんて、たまったものじゃないと怒りや悲しみに震える気持ちは、今の僕ならわかる。
でも、主に限ってはその措置が功を奏したようだった。親や友人にもう少し感謝を伝えたかったという小さな後悔は残っていたみたいだけど、他人や定められた環境からの圧から解放され、新たな環境で新たな関係を築き、自分の意思で再開した人生の方が、彼女には合っていたらしい。
君の成長は、とても著しかった。
どうしても反りが合わない刀に対して「僕が間に入ろうか」と言った時、君が「ううん。相性が悪いのはどうしようもないから。私から彼に行うのは、主としての采配を下すだけ。あとは、彼と相性の良い子と楽しく過ごしてくれたら良いよ」と答えたんだ。
いろんな性格の刀と、たくさん、たくさんの話をしたからこそ出せた結論。話し合いそのものを怖がっていた君が、少しだけ寂しそうに、それでもきっぱりとそう言ってくれたことに、僕はとても安心したよ。
全ての人に好かれなきゃ、全ての期待に応えなきゃ、と焦っていた君の肩は、その時にはもう羽が生えたように軽くなっていた。
「────僕の"隊長"としての役目もそろそろ終わりかな」
主が生まれて40年くらい過ぎた頃には、そんなことを言った日もあった。
でも、主は首を振った。
「歌仙は、私の運を拓いてくれた人。歌仙は、私の縁を繋いでくれた人。歌仙は、私の奇跡そのもの。だから、どれだけ私が上手に物事を整理できるようになって、誰とでも適切な距離で付き合えるようになったとしても、歌仙は私の特別な神様。だから────ずっと、隣に並んでいてほしい」
その日に見た主の目は、今まで見てきた中で一番澄んでいたよ。
そう、とても綺麗だった。あの日の海を思い出すくらいに。
だからこそ、その後の"新たな日常"には堪えるものがあった。
だって、主が元の世界で生きていた時代の人間は、戦も知らず、衣食住にも困らず、治療の制度も整っていたから…100歳くらいまで生きても特に驚かれない、なんて言われていたから。無意識に、それが当たり前の概念なんだと学習してしまっていた。
それなのに、主は僕に「隣に並んでいて」と言ってから1週間も経たないうちに、急な病を患ってしまった。
政府から、すぐに医療専門家が集められた。でも、主の病気は治せなかった。
神の瘴気に充てられてのものなら、彼らが治せないはずがない。現世の病であっても、一通り治療するための備えがある。それでも、駄目だと言われた。
理由は、よくわからない。瘴気を確認し、その上で現世の病も併発しているから、とても複雑な病になってしまっているのだと簡単に説明された。どちらか片方ならば治すことができても、合併症が複数発症する例は少ないらしく、政府の医療機関では手を尽くしても治療できないという結論だった。
かといって、瘴気という"現世では理解されないもの"を患っている以上、現世の病院に送るわけにもいかない。そもそも主は審神者になるにあたり、現世との縁を切っているのだから、今更延命するために死んだ人間を返すことなどできない。物の道理として、そのくらいなら僕にでもわかった。
主の余命は、3ヶ月と言われた。
審神者が死亡した後、そこにいた男士は、別の新米審神者に引き継がれるか、一斉刀壊の後解体されるか、そのどちらかを選ぶことができる。
僕達は全員、刀壊を選んだ。元々ベテランの男士が新米審神者の下にくだる事例はトラブルの種になりかねないので推奨されていない事項ではある。
ただ、僕達はあまりに短い時間しか共にいられなかったにも関わらず、今までのどの主よりも濃密な時間を過ごしてきた。"心"があったから。"個人"として尊重され続けていたから。もう、"受け渡し"のためだけに使われる道具ではないのだと、全ての刀が学んでしまったから────。
全ては僕達で話し合って、納得の上で決めたこと。
だから僕達の余命も、3ヶ月となった。
終わりの見えている本丸に、出撃命令は出ない。そもそも審神者が采配を取れない状況下で、遡行軍に対し連続の敗北を喫せば、その本丸がある地域への敵軍の進出増加や、下手を打てば本丸そのものへの襲撃が行われる可能性がある。
理由はとても事務的なものだったが、それは言ってしまえば……僕達に与えられた最期の休暇だった。
だから僕達は、毎日主のところへ行った。
日を変え、時間を変え、様々な刀が主と話をしていたね。────嫌だな、流石にその会話の内容に聞き耳を立てるほど野暮ではないよ。
でも、君は1日の終わりに必ず僕を呼んでくれた。
「何か話をしてほしいの」
「どんな話が良い?」
「なんでもいいよ」
話題は、他愛もないものばかり。
「今日は昼餉も夕餉もほとんど食べられなかったと聞いたけど…お腹は空いていないかい?」
「…よくわかったね。この時間になって、少しだけ…」
「何か作って来よう。食べたいものはあるかい?」
「なんでもいいよ」
主に作る料理は、全部僕の気まぐれ。
────いつだったか、主が同じことを口にしていたことを思い出した。
戦略会議の時、僕に采配は任せる、あとは"なんでもいい"と言っていた君。
あの時は投げやりな言い方だったし、何より自分に自信のない君があまりにもおどおどとした様子でそう言うものだから、僕はすっかり呆れてしまっていたんだ。これも謝るべきかな、と思ったんだけど、きっと今の君なら笑って「それは事実だったんだから、謝らないで。反省するのは私の方だよ」と言うんだろうね。
でも、命の終わりを見据えた君の言う「なんでもいい」は、なぜだかとても心地良く聞こえた。
僕と話せるのなら、なんでもいい。
僕と食事をできるのなら、なんでもいい。
僕と────顔を合わせて笑えるなら、触れられるなら、名前を呼べるなら────あとは、なんでもいい。
「何を選んでも変わらない」ではなく、「何が選ばれたって嬉しい」という、希望の声だったからかな。僕は君の、「なんでもいいよ」という言葉が、すっかり耳に馴染んでしまったみたいだ。
だから、主。
僕もたまには、君が言ったことと同じ言葉を言わせてくれないかい。
君の手を引いて、歩きたい。
名前を呼んで、話をしたい。
君がかつて僕にそう望んでくれたように、僕も君が隣に並んでくれるなら────あとはもう、なんだっていいんだ。
君は、僕の最も鮮烈な運命だった。
君は、僕の最も縁深い人だった。
君は────僕の、奇跡だった。
だから────。
どうか、行かないで。
もう、そんな些細なことですら叶わなくなってしまうなんて、本当なのかい?
だって君は────さっきまで笑って、「また明日ね」と手を振ってくれたじゃないか。
その「明日」が日に日に減っていることは、君だって知らないわけじゃないだろう。
それとも、襖を閉めた後に泣いているのだろうか。僕と同じように。
笑えない君があんなに笑顔を浮かべて。泣けない僕がこんなに涙脆くなって。
心とは、とても不思議なものだね。
思い出すのは君との美しい思い出ばかりだというのに、脳はそのことでいっぱいなはずなのに、目の前の君を見ていると、とても苦しくなってしまうんだ。
────だから、こうして手紙を書いたんだよ。
きっと面と向かってしまっては、涙に溺れて言葉が出ないと思ったから。
これは「明日」がなくなる最後の日、君に渡すための最後の贈り物であり、最後の言葉だ。
僕が君のことをどれだけ愛していて、大切に想っていて、失いたくないかという話。
そしてそれ以上に、出会ってくれたことへの嬉しさと、過ごした日々の楽しさと、2人で1人、一心同体となって乗り越えてきた…当時は苦難だったけれど、今はもうすっかり酒の肴になってしまった面白い話を、ここに綴っている。
出会う前の君のことは知らないけれど、だからこそ、出会った後の君のことは、できる限り幸せにしたいと…そう思って、僕はずっと傍にいたよ。
「明日」がなくなった後も、傍にいる。触れられなくとも、隣にはいられなくとも、この心はずっと共にあると約束しよう。
だから、主。
今日も、少しだけ話をしようか。
どうせ「なんだっていい」と言われてしまうのだから、限られた「今日」、擦り切れていく時間、その限りを使って君に触れて、名前を呼んで、そして────そんな小さな奇跡を、語り合おうじゃないか。
まだ、願いも祈りも届く距離にいてくれるのだから。
この文が届くまで、少しだけ猶予があるから。
君と僕で、なんでもない夜を、過ごそうよ。
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