8.不幸は増殖する



その日は部活が終わるのを待ってろ、と花宮に命令されてしまったので、放課後になった後 窓から体育館の見える第二図書館の端の席で授業の課題を進めていた。

―――三好君の暴行未遂事件が起きてから2ヶ月が経ち、暦は12月になっていた。
私と花宮の関係はといえば、その日を境にまた元の位置にまで戻っていた。ノリちゃんは相変わらず私を怖がっているようだし、私だって花宮のノリちゃんへの言動を許容したつもりはないけれど、こればっかりはまぁ…私が薄情だったのかもしれない。
2ヶ月も経てばノリちゃんとの友情にも諦めがつき、花宮への抵抗感も消えていた。花宮を避ける理由がなくなったと気づいた辺りで彼の方からまた暇潰しの誘いの声がかかるようになり(やはり私の心情を察していたのだろう)、私達はまた緩くつるむようになった。
所詮私にとってあの出来事は、その程度のことだったというわけだ。友人を失わされた、なんていう被害者意識さえ消えてしまえば、代わりに花宮の身勝手な行動にも"ああ、いつものね"と冷めた気持ちを抱けるくらいの余裕が生まれる。

もちろん、彼を避ける理由がないからといってわざわざ近づく理由もない。
だから頭の片隅ではいい加減、どこかでこの"良くないこととわかっていながら呼ばれるがままについて行く"状況はどうにかしないと、と思っているのだが――――とにかく、現状は自分の愚かさを自覚しつつ花宮の元へ行くのをやめられずにいるというわけだ。

さて、話を戻そう。
花宮にそんなふざけたことを言われたのは昼休みのことだった。本当に突然のことで、理由に何の心当たりもなかった私はただ困惑するばかり。例えば三好君を警戒して…と言うなら、屋上での事件は既に3ヶ月前の話だし、単に何か話がある…と言うなら昼休みのうちにできたはず。

もちろん、最初はわけのわからない命令なんて聞けないと断ったのだが、花宮の様子は何だかおかしかった。なんというか、いつもみたいに理詰めで私を負かしてくるわけでもなく、かといって力ずくで頷かせるわけでもなく(尤も花宮はコート外では決して手を出さないけど)、ただ一本調子で待っていろとそれだけを言うのだ。

気味が悪くて最終的に受け入れてしまった自分を、彼らを待ちながら3時間程経過した頃に後悔した。

長い。部活動の時間は、とにかく長い。
連絡もとれず、目的も様子もわからず、ただひたすら誰かを待つ時間というのは実に退屈だ。

課題も終わり、日も暮れ、下校する生徒もいなくなって。
そろそろ眠くなってきた頃にようやく体育館の電気が消えた。

苦痛でしかなかった待ち時間だが、ようやく変化が現れたことで少しだけ気分が持ち直す。授業プリントや参考図書を片付け校舎を出ると、体育館の扉口の方を窺う。
程なくして、制服姿の男子生徒達が中から出てきた。全員バスケ部の部員だろうか。

ほとんどの者が私を素通りして帰っていく中 花宮の姿を探していると、数人の男子が私の姿を見て駆け寄ってきた。黒、紫、そしてオレンジといった色とりどりの頭髪の男子の姿に、(普段あまり見た目で人を判断しないようにとは心掛けているものの)流石にぎょっとしてしまう。しかし立ち去ろうにもその退路すら塞がれてしまい、結局私はまごまごと情けなく立ち尽くすことしかできなかった。
途方に暮れていると、紫頭が軽快に口火を切った。

「ねえ、お前がマドンナ?」

………はい?

「おい原、突然そんなこと言ってもわけわかんねーだろ」
「あー、それもそっか」
「というか花宮がいないと何を説明したところでわかってもらえるとは思えないんだが」

私を囲んでやいやいと話し出す男子達。状況はさっぱりわからなかったが、私の耳はなんとか黒髪の男子が言った"花宮"という単語を拾った。
――――つまり、花宮が私を呼び出した挙句この時間まで待たせた理由には、彼らが関わっているというわけか。

「あ、花宮ー! 早く早く!」

少し遅れて現れた花宮は、なんだかやけに憔悴して見えた。練習後で疲れたと言うような人間ではないので、これは単純にこの紫頭の彼の言動に呆れていると考えるべきか。

「…ったく、ほんとにめんどくせぇ…」

そして花宮は私の隣に立ち、なぜか彼らに向かって私のことを紹介し出した。

「こいつが藤枝雪葉。…おら、これで満足したか?」
「はい質問! カノジョはどうやって花宮を懐柔したんでしょう!」
「一哉、明日の筋トレ倍な」
「げぇ、勘弁……」
「ちょ、ちょっと花宮」

紹介されたと思ったら突然訳のわからない質問を飛ばされ、そして更に訳のわからない掛け合いを見せられている私の身にもなってほしい。なんとか2人の会話を制止し花宮の方を伺うと、私の疑問なんて全てわかりきっているはずの花宮は大きい溜息をついた。

「…こいつらが、お前と会わせろってうるせえんだよ」

そして返ってきたのはそんな言葉。思わず私は彼らを改めて凝視してしまった。
…みんな、私のことなんて興味なさそうな顔をしてるんだけど。

「花宮が唯一心を許してる奴がいると聞いて気になったんだ」
「見たとこフツーの女子なんだけどな」
「だから聞いてんじゃん、どーやって懐柔したのって」

紫頭が私にずいっと顔を近づけた。髪に隠れてその目はよく見えないが、なんとなく、気配で好奇の意識を向けられていることは察する。

しかしその瞬間、花宮は私の肩を乱暴に引き寄せ、紫頭と距離を取った。

「会わせろって望みは叶えただろ。これ以上こいつから何かを引き出すことを許す義理はねえ」
「それはつまり、何かを知られたらまずいってことか?」
「康次郎、俺は二度は言わねえ」

花宮の怒った声に、黒髪は両手を挙げて降参の姿勢。
聞きたいことは色々あるが、今は黙っていた方が良さそうだ。

「カノジョから何か聞くのがダメなら、花宮から直接聞くのはアリ? どうしてこの子を選んだのかめっちゃ気になるんだけど俺」

この子を、選んだ。

紫頭の質問には多分の含蓄があった。花宮が私を選んだというその言葉を、彼がどういう意図で発したのか、初対面の私にわかるはずもなく。

「なしに決まってんだろ。ほらもう帰れ」

ぐるぐると考えている間に、花宮は3人ともを学校から追い出してしまった。

「…なんだったの、今の」
「話聞いてただろ、あいつらがお前に会わせろってうるせえから会わせただけだ」
「質問は2つ。なんで彼らが私に会いたがるようになったかっていうのと…もう一つ、どうして昼休みとかじゃなくてこんな遅い時間まで待たせる必要があったの?」

きっとぐだぐだと質問しても花宮は答えてくれない。だったら私は、簡潔かつ優先すべき疑問を並べ、彼の答えに期待をした。

「……一つ、俺達がよく行動を共にしてるのは周知のことだ。俺の本性を知ってる奴からすれば、誰か特定の人間としょっちゅう一緒にいるのは不自然でしかねえ。二つ、………俺は俺の時間を邪魔されるのが嫌いだからだ」

一つ目の理由はよくわかった。つまりこれは、"花宮の素を知る彼らだからこそ"私に会いたくなったというわけだ。
それで花宮を懐柔したとか、花宮にしても私を選んだとか、そういう言葉になったのか。

しかし、二つ目の理由は……なんだ、俺の時間って。授業中や部活中は当然自由なんてないし、登下校や昼休みのような自由時間でさえいつも私を隣に置いているのに、"俺の"時間なんて存在するのか。

「つまり、私と2人の時間を大事にしたいなぁってこと?」

なんだかよくわからない理由だと思ったので、からかうつもりでそんな風に言ってやった。何か俺の時間だ、だいたいの"俺の時間"は"私も一緒の時間"じゃないか。
どうせ花宮は「バカなこと言ってんな、気色悪い」って吐き捨てるんだろう。そう思って彼の顔色を伺ってみると、驚くべきことに花宮は黙って私を睨みつけているだけだった。

もう、だからこういう勘違いさせるような反応はやめろと…火種を蒔いたのは私か。

「…帰ろう、もう私がここにいる用はないんだよね?」
「ああ…」

演技の上手な花宮は、何か言いたげに歩き出した。私は黙ってついていきながら、浅ましい本能と格闘する。

そろそろ、自分の気持ちから目を逸らし続けるのにも限界が来ている気がした。







「あ、マドンナ」

翌日、HRが終わりお手洗いへ行こうと廊下へ出ると、昨日の紫頭が教材を持って隣の教室から出てきたのが見えた。彼はそれなりに人のいる中から私の姿を目敏く見つけ、相変わらず由来のわからないあだ名で呼んでくる。

「おはよう、えっと…ごめん、名前聞いてなかったよね」
「原一哉。つかマドンナ隣のクラスだったんだ」
「そうみたいだね。っていうよりそのマドンナって何?」

原は私の問いを受けて実に楽しそうに笑った。この顔はよく知っている。花宮が、誰かの不幸を笑っている時の顔。

「あんたは花宮のマドンナだから」
「………花宮とマドンナほど似合わない言葉の組み合わせもなかなかないよね」

苦し紛れに、そんな軽口を返す。

花宮のマドンナ、その意味するところをどう捉えるべきか、私は悩んでいた。
マドンナとは憧れの女性を指す言葉。花宮が本性を見せた(必要性のある部活のメンバーを除いて)唯一の女である私の存在を面白がって比喩的に"マドンナ"と言ったのか、あるいは花宮が何かまた都合の良いことを言って"私が花宮にとってのマドンナである"という認識を抱かせたか…どちらにせよ、何かしらの誤解は生まれていそうなのだが。

「でもそーっしょ、花宮、あんたのこと相当気に掛けてるし」
「? 気にかけてる…って言っても、あなた達は私のこと知らなかったんじゃないの?」
「うん知んない。でも花宮が"雪葉"っていう女子のことをめちゃくちゃ気に入ってるっぽい…って事実だけは知ってたから、むしろ俺らはずっとアンタのことが気になってた」

……一体、花宮は私のことをどう彼らに伝えていたんだろうか。

「なんでマドンナは花宮と一緒にいんの? アイツお世辞にも楽しい人付き合いができるとは言えないじゃん」
「…原君達はなんで?」
「俺達にはバスケがあるから」

…説明できるつながりがあることが、羨ましいと思う。
私はどうして花宮と一緒にいるんだろう。誘われるがままとはいえ、今私が花宮の傍にいるのは最終的には私の意思による選択の結果だ。そしてそれは、ちゃんと考えれば"花宮とは適切な距離を置かなければいけない"という私の主義とは反することでもある。
どうも私には矛盾が多いということは前々から感じており、またそれは単に自分の欲望を抑えきれていないからだとも薄々自覚していた。

理性では花宮は私のことなんて好きじゃないんだから近くに寄ってはいけない、と言うくせに、少しでも傍にいたいし私のことを見てほしいという本能が私の足を毎日花宮の元へ差し向ける。
負けた理性はせめてもの警告として"好きだということは感づかれるな"と叫んでおり、そして"好きだということを自分自身でも隠せ"と言い聞かせる。

私の歪んだ言動はそれが理由だ。

そしてそれはもちろん、とても誰かに話せるようなことではない。

「私は…なんでだろうね、気づいたら一緒にいるのが当たり前になってたから」
「あー、蜘蛛の巣に引っかかったんだ」
「つまり私は蝶々?」
「そーそー、きれーきれー」

全く心のこもっていない相槌に、私も堪えきれず笑い出す。
基本的に相手を軽んじているような雰囲気が目立つ彼への警戒は未だに解けないものの、それでもこうして当たり障りのない話をする分には楽しかった。

「でも長く一緒にいる気がないんなら早いうちに離れといた方がいーよ。そのまんま流されてると気づいた時にはバージンロード歩かされてるから」
「極端だね」
「まじまじ、あいつはあいつにとって価値のない人間を傍に置いたりしないってのは、マドンナもわかってるっしょ?」

…わかるけど、でも。

「ま、俺は花宮のこと別に嫌いじゃねーし、アンタがどうなろうと関係もないけどね」

原はそこまで言ってから、「じゃ、次俺移動教室だから」とあっさりこちらに背を向けて去ってしまった。

「……好き勝手言ってくれるなあ」

そんな私の小さな不満は、誰の耳にも届かずに空中で霧散した。



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