6.不幸が牙を剥く
「雪葉って花宮君とどういう関係なの?」
クラスメイトの則本さん───通称ノリちゃんにそう尋ねられたのは、三好君と別れてから3ヶ月が経とうかという、夏の終わりの頃だった。
相も変わらず私と花宮は微妙な距離感を保っている。昼休みやバスケ部がオフの日の帰り道など、空いた時間に何をするでもなく一緒にいるだけ。話はするけど、わざわざ会う約束を取り付けたりはしないし、まして触れたりなどは決してない。
私と縁を切らないと言った花宮の真意はわからないままだけど、黙ってそれに甘んじ続けているうち、私は自分がこの距離に慣れてきているのを感じていた。
────さて、改めて目の前の彼女に意識を戻す。突然の質問に完全に怯んでしまった私のことを、彼女はこの上なく真剣な目で見つめていた。
「どういうって………中学の時からの知り合い…」
それは正に的を射た表現だったはずなのに、彼女はまるで納得していない顔。
「…それにしては、親しすぎる。てか雪葉と同じ中学の子から聞いたんだけど、2人は中学の時付き合ってたんでしょ?」
ああ、痛い情報が流出してる。別に隠してたわけじゃないからバレるのも時間の問題ではあったのだけど、何の関係もない人から突然その話を持ち出されるのは少し複雑な気持ちだった。
「いやー、でもほんとに一時期だし…」
「1年くらい続いてたって聞いたけど」
「……でも、手も繋いでないし…」
「1年も付き合って!?」
まぁ、そりゃ信じられないよね。
実は私達、最初からお互いのことが好きでもなんでもなくてね…などという真実はとても言えるわけがないので、曖昧に笑って濁す。…もっとも、好きでもなんでもなかったはずの私の気持ちは途中から違ってしまっていたけど。
「驚くのも無理ないけど本当だよ。なんかうまくいかなくて別れて、そのまま卒業して……最近になってやっと気まずいのがなくなって、普通に喋るようになったって感じ」
「え…ねぇ、まさかその普通に喋るようになったのって三好君と別れたのと何か関係…」
「ないない」
軽く否定する私に対し、彼女はううんと難しい顔をして唸る。
そんな様子を見て私の頭には一つの予想が浮かんだ。
「…ねえノリちゃん、もしかして花宮のこと好きなの?」
「えっ!」
言った瞬間飛び跳ねて驚き、一瞬で耳を真っ赤にするノリちゃん。…言葉より先に顔が答えを出してくれたようだ。溜息をつきたい気持ちを堪えなんとか笑顔を捻り出す。
「な、なんでわかるの…」
「めちゃめちゃ私と花宮の仲を気にしてくるから」
「だ、だって雪葉と付き合ってたら流石にもう見込みないなって思って…」
「付き合ってないから、安心して頑張って」
頑張って、なんて無責任に言ってしまってから少し後悔した。
言うまでもなく彼女が好きなのは表宮の方。人当たりが良くて爽やかなバスケ少年に恋をする気持ちはよくわかるけど(もちろん私の好みではなく、ただの客観論として)、もし彼女があの蜘蛛のような本性を知ったらどんなに失望するだろう。
(ちなみに表宮っていうのは、私が花宮の二重人格を区別するためにつけた心の中の渾名である。優等生面した方が彼の表面、つまり表宮。性悪な方が彼の裏面、つまり裏宮。)
仮にそれでも好きだと言うなら、その時こそ私に何かを言う資格はない。私は彼の本性を目の当たりにして行動する勇気を失っているわけだから、同じ状況下において彼女が行動するというのなら私はその時点で負けだ(…と思いつつ、私は一体何の勝負をしているんだろうと自分の思考に首を傾げた)。
しかし彼女が何も知らずに恋をして、彼の本当の姿を知った時に深く傷つくようならそれは出来れば避けたいと思った。
「…花宮のどんなところが好きなの?」
「えっと、あの…誰にでも優しくて、正義感があって…バスケに真摯に取り組んでるところ…」
……つくづく思う。あの男はよく自分の性格と正反対の自分を完璧に創れるな、と。
彼女が言うのは表宮そのものだ。裏宮の存在には露ほども気づいていない。
これは、下手に足を突っ込むより早々にその希望を砕いた方が良いだろうか………?
その時私の心には、自分でも不思議なほど複雑な感情が滞留していた。もちろんクラスメイトが無駄に傷つく姿を見たくないという友人として当然の情もある。でも、恐ろしいことに裏宮を知っても彼女の気持ちが変わらなかったらどうしようとか、そもそも裏宮を知られたくないとか、そんな身勝手な欲望が先行しているのも感じる。
何が怖いって、そんな欲は花宮に執着していないと抱かないはずのものだということ。本能レベルで彼への未練がまだ残っていると、気づいてしまったこと。
自分は何も行動しないくせに、彼を好きになってしまったという純粋な女子のことは疎ましく思うなんて、ひどい自惚れだと思う。
――――こんな不安定な関係、いつ消えたっておかしくないのに。
「花宮とは仲良いの?」
「ううん、全然…喋ったこともないよ」
「そっか。今後告白のご予定は?」
「え、そ、そんな! 今は、まだ………」
今は、まだ。
そのうち、きっと。
「…だ、だから先立って雪葉にお願いがあって………」
「ん?」
「い、いつも…は、花宮君とお昼ご飯食べてるよね? ここ今度、私も入れてくれないかな…!」
*
なんだよく知らねえ奴を連れてきてお前ほんとめんどくせえな…という花宮の言外の主張が聞こえた気がした。
今私は 後ろにノリちゃんを従えて、いつも花宮とご飯を食べる中庭のベンチにいる。
いつも、といっても先程言った通り私達は別に会う約束をしているわけではない。他の友人との予定がない時…いや、もっと言えば気が向いた時になんとなく足を運んで、その時たまたまどちらかが先にいれば一緒に食事をする、という緩い習慣ができているだけだ。
だから私は心のどこかで今日は花宮がいなければ良い、なんて思っていたのだが、そんな期待も虚しく彼は先に来ており、今まさに購買のパンを開けているところだった。
「…後ろの彼女は?」
表宮の変身ぶりは見事なもの。「お待たせ」と言った私に振り返ってみせた瞬間のあの文句たらたらな顔は一瞬で引っ込み、"優しくて爽やかなスポーツ少年"が姿を現す。
「クラスメイトのノリちゃ…則本さん。花宮のファンって」
「ちょ、ちょっと雪葉!!」
後ろで彼女が怒っている。でも霧崎第一のバスケ部は色々な意味で強豪なのだ。純粋な強さ然り、ファンの多さ然り。
別にここでファンだと言ったところでそこに特別な感情が含まれているなどとは思わないし、むしろその辺りは初対面からハッキリ言うくらいでないとこの競争社会の土俵には上がれない…彼らはそれ程の人気を得ている。
「本当? ありがとう、嬉しいよ」
ほら、花宮はそんな賛辞には慣れていると言わんばかりに(白々しくも)笑ってみせる。彼女もその反応に安心したのか、自己紹介をするとご丁寧に私を挟んだ上で花宮の横に腰掛けた。
花宮と彼女は早々に打ち解けていた。私は基本的に黙ったまま、時折両者に求められた相槌を適当に打つのみ。
授業のこと、部活のこと、バイトのこと―――喋ったこともない、なんて言っていたそれが嘘のように会話は弾んでいる。花宮はともかく、ノリちゃんの社交性には些か驚かされた。会うまで顔全体に貼りついていた緊張の色は気づけばすっかり消え失せており、代わりに自然な笑顔が浮かんでいる。
「……あ、もうこんな時間!」
最初はどうなることかと思ったが――――結局あっという間に昼休みは終わりを告げ、予鈴のチャイムが鳴った。
「雪葉、教室戻ろ!」
「うん」
「あ、待って雪葉」
しかしクラスメイトと共に中庭から校舎へ戻ろうとしたところで、花宮に引き留められた。
「何?」
「そういえば4限で先生からの伝言を貰ってたんだよ……っと、メモしてたんだけどどこ行ったかな…」
わざとらしく鞄の中を探るけど…うん、その動作はきっと嘘。
仕方ない。溜息をついて、私はノリちゃんに謝った。
「ごめん、先行ってて。メモ取るくらいならきっと長い話だと思うから…」
「え、う、うん、わかった。遅刻しないようにね!」
彼女が完全に去ったところで、花宮も鞄を探る動作をぴたりとやめた。それから私に向けた顔は、いつも以上に不機嫌そうな顔。予想通り、先生から伝言を預かっているなんて嘘だったというわけだ。どうせ2人きりになったところで私に文句を言いたかっただけに決まっている。
「…なんだあれ」
「爽やかで優しい花宮君と仲良くなりたいらしくて」
「迷惑」
「事前に言わなかったのはごめん。でも花宮と仲良くなりたいっていう純粋な気持ちを無碍にはできなくて…良い子だし」
「純粋な気持ちしか持ってないイイコチャンがこの世にいるわけねぇだろ」
「私は花宮ほどの悪人の方がこの世にいるわけないって思ってたよ」
花宮はふんと鼻を鳴らして私の皮肉を一蹴した。心底うんざりした顔で空なんて仰いでいる。
「…つーかあれ、ガチだろ。呑気に応援なんかしてて良い訳? 下手に協力なんかして俺に近づけさせたところでそのイイコチャンが傷つくだけだってのはわかるだろ」
流石にただのファンじゃないことは一目で見抜いていたらしい。ノリちゃんには悪いと思ったが、ここで彼女の気持ちを隠したところで無駄なことはわかっている。私は彼の言に突っ込むことなく淡々と自分の意見を述べるに徹することにした。
「いやあんまり傷つけるようなフり方をしてほしくないから今日連れてきたってのもあってね……」
「それは向こうの出方次第だな」
―――そう、たまにこいつは告白してきた子をこっぴどくフるのだ。
もちろんフる時だって一応表宮の仮面は被ってるから、言動そのものは優しい。でも例えば告白したのが誰かの悪口を言うような女子だったとすると、その子の"友人A"を引き合いに出し「Aさんから"君は男をステータスとしか思ってない、人の粗探しばかりしてはそれを吹聴する奴だ"…って聞いたんだけど、本当…? 気持ちは嬉しいんだけど、俺、自分もそういう風に思われてるのかって不安になっちゃいそうだから…」なんて弱者を装いつつ断る。するとあら不思議、その子はフラれただけでなく友人まで失うことになるのだ。
…見方によっては性格の悪い人間を斬るというのは必ずしも悪いことではない。しかし花宮の場合、それは正義感などではなく、半端に性格の悪い人間の方が陥れやすくて楽しいからやっているに過ぎない。彼の原動力はひとえに誰か一人でも多くを不幸にしてやりたいという気持ちだけだ。
ノリちゃんは見たところそんなに性格が悪いわけでもないし、花宮の罠に引っかかるようなネタもないとは思う。でも人間何があるかわからないのがその常だ、ということは目の前の男をもってよく知っている。下手に花宮に近づかせたら大火傷させられるおそれだって充分にあった。
だからせめてファーストコンタクトの時だけでも一緒にいて、"下手な近づき方"をしないように私がフォローできれば、なんて自惚れ甚だしいことを考えてもいたのだが…この様子じゃ、それさえ見抜かれているんだろう。
「…わかってはいたけど、付き合うって選択肢はないんだね」
「めんどくせえ」
(それを聞いて少しだけほっとしてしまったこの腐った心根を隠すために、)私はわざと大きな溜息をついた。
「…じゃあ私、授業行くから。今後ちょくちょく彼女を連れて来てもちゃんとうまくやってね」
「二度と連れてくんな」
花宮の憎まれ口を背中に受けながら、私は教室に戻る。
ああ嫌だ、本当に花宮に執着するのをやめたいのなら、本気で花宮への特別な気持ちを消したいと思っているのなら、ノリちゃんのことをもっと真剣に応援できるはずなのに。花宮に彼女でもできれば、気を張ってまでこの微妙な距離を保つ必要もないのに。
花宮が彼女を好きになるわけないと知って、安心なんかしている自分がいる。
(自分が好きになってもらえるわけでもないのに)
花宮を純粋に想っている彼女を、応援したくないと思う自分がいる。
(彼女の協力してほしいという願いを拒絶する勇気だってないのに)
そんな自分がむかついて仕方ないのに、どうしてこうも心というものはいつだって理性の言うことを聞いてくれないんだろう。
同じ私という人間の一部のはずなのに、どうしてこうも思うようにならないんだろう。
────そんな私の葛藤をよそに、彼女は花宮に想いを馳せ続けた。
あれからすぐに私の仲介がなくとも花宮と話すことができるようになったという彼女は、毎日毎日見た目の格好良さ、話した時の優しさ等々よく飽きないものだと言いたくなるほど私に吐露してくる。
性格が悪いことだとは自覚しているのだが、私はそれを聞いても彼女の言うことは全てが薄っぺらだ、としか思えなかった。だがもちろんそれは"彼女が花宮の表面しか見ようとしない薄っぺらな女だ"、と言いたいわけではない。
花宮は絶対に自身の深いところまで彼女を踏み込ませはしないだろうし、彼女が何を考えどう行動したところで花宮がそう思っている限り彼の表層を破ることは不可能だ。だから、花宮のことを知らないからといって彼女にはなんの非もない。
私が私自身の性格の悪さにうんざりするのは彼女の発言が薄っぺらいと思うことではなく、薄っぺらい彼女の発言を聞いて安心している―――そんな自身の傲慢さを思い知ることだった。
ああ、花宮は"こっち側"にノリちゃんを招く気はないのだ…と思ってしまう自分が、そしてそれで安心してしまう自分が、憎かった。
――――しかしそんな私の汚い気持ちと白々しい自己嫌悪など知る由もないノリちゃんは、1ヶ月程経つ頃 遂に告白したいと言いだした。
「…この間、花宮君に誘われて試合を見に行ったの…」
勇者だな。
「花宮君、格好良かった…。相手チームの人が何人か怪我しちゃって時々試合止まっちゃったんだけど、まるで最初から誰がどこに動くかわかってるみたいに花宮君、ボールを持って行くんだね…すごい…!」
怪我しちゃって、ねぇ…。
原因はわかっている。霧崎第一は相手チームのメンバーを"そうとはわからないように怪我させる"のが大の得意だ。ラフプレーだとは気づかれず、ただ不慮の事故と見せかけ、人の体と想いを壊していく。
…実際、私はその行為にだけは賛同できないでいる。彼が壊しているのは相手の長い年月をかけて積み上げてきた夢だ。彼が挫いたものは相手の人生そのものにも影響する。そして何よりその行為は花宮自身をも傷つけているのではないかと、私は疑っていた。
「そうしたら、試合終わった後に花宮君、私に気づいてくれて…話しかけてくれたの!」
「良かったね」
試合後でおそらく気が立っていただろうに…花宮はどういうつもりだ…?
「…ねえ雪葉、花宮君、あんなに格好良いんじゃきっとすぐに彼女できちゃうよね…?」
「いや…うーん、それはないんじゃないかな…」
「ううん、ありえない話じゃない! だから意識してもらうためだけにでも告白しようかなって思って!」
彼女の目は闘志に燃えていた。告白が成功する自信があるというわけでもなさそうだが、とにかく何か行動を起こしたくて仕方ない、そんな感じだ。
ちなみにこの1ヶ月、ノリちゃんが毎日花宮のことを嬉々として話してくれる割に、花宮からノリちゃんの名前を聞く機会はほとんどなかった。
文句さえ言わないことに不信感を覚え、一度こちらから「最近ノリちゃんはどう?」と訊いてみたことすらあるのだが、花宮はそれに対して冷たく「…あいつうぜぇな」と言うのみでそれ以上は何も語ろうとしなかった。
口にするのも疎ましい程に印象が悪いのか、それとも何かまた考えがあって敢えて私には何も教えてくれないのか―――真意はいつもの如くわからないが、どう考えてもノリちゃんの告白がうまくいくとは思えない。
「…もし意識してもらうためだけに告白するっていうなら、もう少し様子を見るのはどう? 花宮は今ノリちゃんのこと仲の良い女の子って認識してると思うし、このままアピールだけ続けて成功する確信を得てから告白するのでも遅くはないと思うよ」
「そんなことしてたら今年が終わっちゃうよ! 善は急げっていうし、今せっかく仲良くなれてるんだからこれもチャンスだと思う!」
「や、でも2週間後にはウィンターカップの予選も控えてて気が立ってると思うし…タイミング的にはあんまり良くないかと…」
「そんなこと言ってられないよ!」
おっとこれは思った以上に情熱的だ。余程先日の試合が刺激的だったんだろうか。まあ、普段制服を着てのんびり爽やかに過ごしているところしか知らない相手の、闘志を剥き出しにして走る姿を見たらそのギャップに囚われてもおかしくはないか。
大事な試合を控えている相手の都合を全く気遣わないほど盲目的だったというところには若干驚かされたものの……まあ、その利己的な思考をどうこう言えるほど私は出来た人間ではない。
「だからお願い、ついてきてくれない…?」
―――ああ、花宮よ、どうか何事もなく終えてくれ…。
残酷な私は結局最後まで彼女を制止できず、花宮が応えることはないとわかっているのに、彼女を花宮の元まで連れて行ってしまった。
「……………………」
校門の前で私を待っていたらしい花宮は、私の隣にいる彼女を見て些か驚いたようだった。彼女は花宮の視界に入ると単身彼の目の前まで乗り込んでいき、対する私は姿は見えても声が聞こえない程度に離れた場所にスタンバイする。
彼女はすぐに想いを告げたようだ。花宮が少し目を見開いたのが見える。それから花宮の口が少しの間動き─────ん、今こちらを見た?
それから2人は暫く話し合い─────そして、彼女は走って去ってしまった。
思ったより早かった。わかってはいたが、フラれたんだろう。
小さく溜息をつき、花宮がこちらに向かって悠々と歩いてくるのを私は黙って待っていた。
「…だから言ったろ、二度と連れてくんなって」
「泣かせてないでしょうね」
「泣くよか始末悪いかもな」
「…嘘でしょ」
泣くより悪いって何をしたんだろう。姿だけは私の位置からもずっと見えていたから、暴力を加えたとかそういうことではない(まず花宮はコート外では手を出さないけど)。
泣くより悪いこと…つまり、悲しませるより酷いこと…と考えて、私の頭には嫌な予感が浮かんだ。
「…まさか、素でも出したの?」
悲しみより酷いこと────それは"恐怖"ではないだろうか。
悲しみは一時的な感情だ。フラれた傷なら時間が癒してくれる。
しかし本能に刻み付けられた恐怖は訳が違う。恐怖は消えない…どころか、一度覚えたその記憶は断続的にフラッシュバックする。
そしてこの男は自分の人間性が人の恐怖心を喚起することを心得ている。自分の存在自体が、容易に他人に傷をつけることを心得ている。
花宮はにやりと歯を見せて笑った。
「ちょっと脅したらすぐ尻尾巻いて逃げてったよ。パンピーは根性ねーな」
何様のつもり、と軽く言ってやるつもりだったのに、声がうまく出なかった。
ノリちゃんを振るという花宮の選択はある意味予想していたところもあった。できれば穏便に、とは思っていたものの、正直それもあまり期待はしていなかった。私にできることはせいぜいノリちゃんが必要以上に傷つくことがないよう、ケアに徹することくらいだと思っていた。
でも、まさか花宮がそんな手段をとってくるとは思っていなかった。
表宮のまま彼女を振る方法なんて星の数ほどあったはず。彼がわざわざ自発的に素を見せようと思うなんて、一体どんな状況になればそんなことになるのか。
「…なんで、そんなことしたの」
何が、花宮をそこまでさせたの。
花宮にとって素顔を晒すことはリスクでしかない。特に学校関係者にはできる限り隠したいもののはず。それを破るということは、余程の事情があったとしか考えられない。
私には、むしろそれが恐ろしかった。
「別に理由なんてねーよ。ただいけ好かなかったってだけだ。それよりお前────」
全く納得できない理由で丸め込んだつもりなのか、花宮はさっさと私の質問を片付け逆に言葉を投げてきた。
「あの女とはもう付き合うな」
しかしその言葉は到底────
「…は?」
理解のできないもので。
「…いや、意味がわかんないんだけど」
花宮がノリちゃんと付き合おうが付き合うまいが、それはどうだって良い(いや良くはないが、あくまで私の都合でどうこう言えることではないという意味で)。しかしそれと同じ道理で、私がノリちゃんと関わることだって花宮には関係ないことではないか。
「なに、私彼女に逆恨みでもされた?」
「された」
いやされたってあなた普通に言うけども。
「素直に私に忠告してくるくらいなら最初からそうならないよううまいことやってほしかった、って言うのは我儘なのでしょうか…」
「我儘だな」
即答を続ける花宮に、否が応でもこちらの苛立ちは募る。
例えば私と花宮がこっそり付き合っていたとか、そうでなくても花宮が私のことを好きだったとか、彼女がフラれた原因に"私"が関わっていたのなら、確かに私が恨まれることもあっただろう。
しかし今回私は彼女の失恋には無関係のはず。普通にフるだけでこちらが恨まれる道理はない。
つまり、それでも私が逆恨みされたというのなら、それは花宮が余計なことをノリちゃんに吹き込んだことが原因、ということになる。
そしてその余計なことが何であれ、花宮がそれを"うっかり"言ってしまったということはない。必ず確信のもと、ノリちゃんが私を恨むようけしかけている。
だから私は余計に混乱するのだ。
まず花宮がノリちゃんに私を恨むようそそのかす理由がわからない。そしてどういう方法でそんな風に仕立てたのかもわからない。
加えて、なぜそれをわざわざ私にこんな風に忠告してきたのかもわからない。
何か理由あって私とノリちゃんの仲を引き裂きたかったとして、この性悪がそれを私に言ってあえて警戒させる必要はないはずなのだから。
「…どうせ全部計算ずくだろうから訊くけど、何の為に私とノリちゃんを仲違いさせるようなことしたの?」
中間の考えは全て端折り、核心の疑問だけをぶつける。花宮は器用に片方の眉を持ち上げ、私を見下すいつもの表情を浮かべた。
「お前が今後もあの女と俺をどうにかさせようと思ったら面倒だから、もう根本からその原因を断とうと思ったんだよ」
もしフラれてもなお、ノリちゃんが花宮のことを諦めきれないと言ったら。
もし私が彼女にこれからも協力したいと思ったら。
それは、今後何があってもノリちゃんに応える気のない花宮にとってはただの厄介事だ。
だから、元から断った。そう、私とノリちゃんの友情という"元"を。
ノリちゃんのことだけなら花宮はきっと余裕で避けられる。彼にとって何かが障害になるとすればそれは、彼女以外にも"邪魔者"がいた時―――例えばまさに、私がノリちゃんの恋路に協力し始めた時だ(もちろんそれだって花宮ならどうにでもできるのだろうが、煩わしさは単純計算で二倍になる。だったらもう、根本から彼女の入り込む隙を潰した方が楽だと考えるのは合理的だ)。
だから花宮は邪魔者を排除した。そんな単純で利己的な目的のために、私の友人を一人消した。
「…わかってはいたけど……」
なんて理不尽なんだろう。
なんて残酷なんだろう。
わかってはいた。似たような話を聞いたことだって何度もあった。
でも、いざ自分がその立場になると、冷静でいることがいかに難しいか思い知る。
「…花宮、あなたってやっぱり最低」
花宮は私の非難にも薄ら笑いを浮かべてみせるだけだった。
「そんなことする前にまず私に言えば良いでしょ、もう彼女とは関わりたくないって」
「最初から言ってただろ、迷惑だって」
「そこで止められなかったのは確かに私の力不足、ごめん。でも元より花宮なら私と彼女の仲を裂くなんて回りくどいことしなくても、完全に自分を諦めるようフることもできたんじゃないの? それとも私の買い被りすぎ?」
「これも言ったろ、あいつは気に食わなかったって。そんな無難なやり方じゃなくて何かしら傷を負わせないと気が済まなかったんだよ」
また、それ。
本性を引きずり出してでも、ノリちゃんのことを傷つけたいと思ったという花宮のその衝動が、理解できない。
一体彼女は何をしたっていうんだろう。
「ノリちゃんは何をしたの? 花宮にそこまで言わせる程の何を―――」
「お前が知る道理はねーよ」
花宮は、この世の全てが凍りつくような冷たい声で私を遮った。思わずその静かな圧力に怯んでしまった私は、ただ悔しさをこめて唇を噛み締めることしかできない。
人の友人を奪っておいて、それか。
────花宮が私に近づくのは、目的があるからだ。理由はわからないが、何らかの利用価値があるからに過ぎない。
最初から、情だの感性だの、そんな"普通の"理由で付き合っているつもりなんてなかった。
それでも。
「────ノリちゃんを傷つけたかったっていうのは、とりあえず事実としてわかった」
「………」
「しかもそこに私を巻き込んだってことは、きっと私のことも傷つける意図があったんだよね?」
それでも。
私は"こちら側"だからと、どこかで自惚れていたんだろう。
花宮の素顔を知っているから、理由はわからずとも彼はいつも私の傍にいるから、安心していたんだろう。
「………傷つけたい、って別に積極的には思ってねぇよ。今回はお前に恨みがあったわけじゃねーし」
花宮が私を潰すとして、傷つけるとして、それはもう少し先の未来のことなのだと────そう、無意識に思っていたのだろう。
「────ただ、傷ついても良いとは思ってた」
「っ────」
傷つくな。
花宮の思い通りになんて、なるな。
不意に、縁を切る気なんてないと笑った花宮を憎たらしく思いながらもときめいてしまった、あの日の光景が眼裏に蘇った。そんなに遠い昔のことじゃないのに、なんだかひどく懐かしく思える。
「────帰る」
帰る方向なんてほとんど同じなのにあえてそう言ったのは、暗にもうあなたの顔を見たくないから一人で帰らせて、と言いたかったから。ややもすればその発言だけで私の感情が彼に伝わってしまっていたかもしれないが、彼は何も言わなかった。ついてくるようなことも、しなかった。
花宮が私をなんとも思っていないことなんてわかっていた。わかっていたはずなのに、どうしても、胸がちくちくと痛む。
友人を傷つけた男に何を言われようが、気にする必要はないではないか。
友人と友人ですらいられないようにしてきた男の考えなんて、真に受ける必要はないではないか。
全部全部わかってる。
わかっているのに、ああもう、泣きそうだ。
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