幸福のはじめ
1月1日、早朝の6時。
私はひとり、家の近くにある神社の前でマフラーに顎を埋めながら凍えていた。いや、凍えていたなんて生温い表現ではいられない。私はひとり、死の瀬戸際に立たされていた。
待って、本当に死ぬ。
────今日は元々、いつものバスケ部のメンバーと一緒に初詣に行こうという約束をしていたはずだった。集合時間は朝の5時半。
そもそも、どうして私があの悪ガキ5人組のお守をしなければならないのか、と寒さのせいでいつもより少し沸点の低くなった頭で苛立ちを募らせる。元々私は花宮と2人でお参りに行くはずだったのに。
「花宮、元日初詣行こうよ」
「嫌だ、人が多いだろ」
「早朝ならそうでもないじゃん。ほら、あのうちの近所の小さいところで良いから」
「なんで俺がよりによって神様に願い事しなきゃいけねえんだよ。俺と神様とか一番縁遠いだろうが」
「あ…うん…自覚はあるのね…」
2学期の終業式、一緒に帰りがてらそんなことを提案したのは私の方だった。
花宮と付き合い始めてから1年近くが経つ。付き合うまでになんやかんやと大変な経験を重ねてきていた私達は、いざくっついてみれば驚くほど穏やかな日常を過ごしていた。
誕生日にはサプライズで素敵な靴を贈ってもらったこともあった。バレンタインに下手くそな手作りのチョコレートをあげたら、ホワイトデーにはなんと前から気になっていると言っていた猫カフェに連れていってもらってしまった。ちなみに当日の様子について補足すると、猫と花宮の組み合わせがここまで異様なものになるとは思っていなかったというところに尽きる。彼としては私が行きたいところ(かつ彼が私を放置しておけるところ)としてベストなところをチョイスしたらしく、確かに猫そっちのけで漫画ばかり読んでいたのだが、なぜか猫の方が花宮にやたら懐くのだ。おそらくではあるが、猫の方はきっと花宮のことを"なんだかでこぼこの多い猫タワー"くらいにしか思っていなかったのだろう。だって花宮、人間が相手にさえならなければ驚くほど全てに対して無関心だし。
…とまあ、だいたいどのイベントもそんな温度感で過ごして、気づけば1年が経とうとしているわけである。
一応翌日のクリスマスは、家の近所にあるちょっと洒落たレストランで背伸びして食事でもしようか、という約束もしてあった。しかしクリスマスが終わった直後にやって来るのがお正月。いちいち記念日だなんだと騒ぐ方ではなかったが、せっかくイベントがあるなら乗っかっておきたいという年相応の心も持っていた私は、思い出しついでに初詣のお誘いをかけたという次第だった。
そう、本当に私はただ思い出したから言った、それだけだった。
それだけの、軽い気持ちだった。
なのに。
「なになに、新年早々デートのお約束ですか〜? ね、ね、俺らも混ぜて」
どこからともなく現れた原が、小学生並の勢いで私達の会話に割って入ってきた。
「なんでお前まで来るんだよ」
条件反射のように文句を言う花宮。というかまだ「行く」という返事はもらっていなかったはずなのだが、これは…一応私の誘いは承諾されたということで良かったのだろうか。
「ほら、俺達今年受験生じゃん? やっぱ年始めの験担ぎはやるだけやっときたいなーって」
「勝手にやってろよ」
「花宮とおんなじ神社に行けばなんかご利益ありそうだなーって!」
「ねーよ」
ぐいぐいと食い下がる原を跳ねのける花宮だが、そこはさすが3年続いた仲というべきなのか、原はどれだけ言われても全くへこたれなかった。
「…オイ、ところで本音はなんだ」
最終的にイライラが最高潮に達した花宮がそう言ったところで、原はけろりと「マドンナと花宮がカレカノっぽくしてるところを見たい。んで邪魔したい」と白状した。
「はあ…んなこったろうと思った」
「まあまあ、俺達だって別に本気で邪魔するつもりなわけじゃないから。ただちょっと息抜きに他人の幸せもらっときたいなって程度で」
それはアシストのつもりなのか、瀬戸。全く助けになっていないのだが。
「それで、元日は何時に集まるんだ?」
話を全く聞いていない古橋の言い方にも、もうここまで来れば慣れてしまう。
「お…俺は一応止めたからな…」
山崎の制止が機能しないことだって、わかっていた。
────つまり、もう彼らが「私達に同行する」と言い出した時点で、もう誰もそれを止めることなどできなかったのだ。花宮がここでマジギレすれば話は別だったかもしれないが、生憎彼はそこまで子供ではなかった。
「はあ…わぁったよ、当日は霧崎神社に5時半。遅れた場合は自己責任だからな」
────長くなってしまったが、そういう経緯で私は1月1日、5時20分には既に神社の前で待機していた。そして現在、6時である。
いや、40分って。
この極寒地帯に40分って。地獄か。私が何をしたと言うんだ。
先程からずっと花宮に電話をかけているのだが、まあこれが出ない。そのうち携帯を持つために手を晒すことですら辛くなってきてしまったので、私は成す術もなくただ立ち尽くしていた。
…もうこれ、帰った方が良いかな。
花宮から約束をすっぽかされたことなどなかったので、少しだけ気持ちが落ち込む。あの男は誰よりも不義理なようでいて、意外とそういうところはしっかりしていると思っていたのに。
────まさかとは思うが────また他校の誰かに絡まれでもしたのだろうか?
私の脳裏に、一瞬で井口南や柏田の連中の顔が過る。もう私をダシにしてやられっ放しになることはないだろうとは思うが、いや、でもあの歩く呪い製造機のことだ、どこかで怪我をして病院に運ばれたという線だって────。
私は一度神社の方を振り返り、それから急いで家路についた。
向かう先は、ひとまず…花宮の家だ。
どうか中にいてくれますように。無事でいてくれているなら、寝坊しただけだった、なんてオチだって構わないとすら思っていた。
緊張しながら、もはや感覚のない指でインターホンを押す。
応答は、ない。
「…うそでしょ…」
携帯を再度見るが、今までの電話やメッセージへの反応は何もないままだった。原達からの連絡もない。いよいよ私の不安が胸の内で爆発してしまいそうなほどに膨れ上がる。
どうする。考えられる場所が多すぎて絞れない。学校…はこの時期なら閉まっているはずだ。病院…はそれこそ数が多すぎる。それに、一番最悪なのは名前もないような路地裏で倒れている場合だ。もうそうなったら最後、私には絶対に探せない。
花宮の家の前をうろうろしながら、最も可能性の高い居所を考える。
最近花宮が難癖つけられてた学校、どこだっけ…?
引退してもなお恨まれ続けている彼の境遇を私が一番恨みながら頭を回していると────唐突に、花宮の家の玄関が開いた。
「!?」
なんとか体を横にすれば滑り込めるだろうかという程度に開かれた扉の向こう。そこにいたのは────。
「…ど、どうしちゃったの…?」
ぜいぜいと肩で呼吸をしながら顔を真っ赤にしている、花宮だった。
「体調が悪かったなら昨日のうちに言ってよ」
「悪化…させる…つもりなんか…なかったんだよ」
「ああもう、喋らなくて良いから」
それから15分後、私は近所のドラッグストアで風邪薬やら冷えピタやら、自分が熱を出した時にもらったら嬉しいものを全て買い込んで、再び花宮の家に戻っていた。
初めて入る、花宮の部屋。とても簡素で、想像していた男子高校生の部屋とは全く違っていた。バスケのユニフォームが壁に飾られているところを見て、不覚にもきゅっと心臓が切なくなってしまう。
────花宮は、高熱を出して寝込んでいた。
目を覚ました瞬間、一応「これはマズい」と思ったのだそうだ。せめて私にだけは連絡しようとし、携帯を開いた瞬間、そのディスプレイに酔って吐いたと言っていた(そして同時に携帯の電源が切れてしまったとも)。
かといって、直接現地で状況を伝えるわけにもいかない。何せ、玄関のドアを開けるまでに3分近くも要するような容態なのだ。それにまず外に出られる状態なら、彼は真っ先に神社なんかより病院に行っていたことだろう。連絡なんて、後からどうにでもなるのだから。
熱を測らせたら、40度近くもあった。そんな数値を見たのは、小学生の時にインフルエンザに罹って以来のことだった。…まさか、インフルエンザのウィルスでももらったのだろうか。それなら市販の風邪薬なんて効くわけがない。私は慌てて救急車を呼ぼうとしたのだが、花宮がまるで死に際の馬鹿力のように携帯を持つ私の腕を止めるので、ひとまず夜まで様子を見る、ということでなんとか落ち着くこととなってしまった。
…これで、良いんだろうか。
苦しそうな花宮を見ていることしかできない私は、さっきまで自分だって死にそうだと散々思っていたことなどすっかり忘れ、上気した彼の横顔を不安いっぱいになりながら見つめていた。
「…珍しいこともあるもんだね、花宮が熱を出すなんて」
「言ってろ」と言いたかったのだろうが、花宮はよくわからない呻き声しか出せないようだった。
「少し落ち着いたら、病院に連れて行くよ。さっきも言ったけど、夜までにもっと酷くなるようなら、今度こそ迷わず救急車を呼ぶから。お母さんは今仕事だよね? 一応一言連絡入れておきたいから、携帯借りるね」
一生懸命、自分が風邪を引いた時のことを思い出しながら、できる限りのことをする。汗を拭いて、冷えピタを貼って(ひんやりとしたゲルが触れた瞬間、花宮の唇から、ようやく息らしい息が吐き出された)、上半身だけでもなんとか着替えてもらう。食事は…どうせ作ったところでろくに食べられないだろうし、ひとまずゼリー飲料だけベッド脇に置いておくことにしよう。
「えーと…あとできることはなんだろ…吐いても良いように黒い袋を持ってきたし、薬の準備もしたし…」
ひとつひとつ口に出しながら、その間もずっと花宮の様子を窺い続ける。
彼は目を閉じて浅い呼吸を繰り返しながら、何度も咳きこんでいた。
「…かった………んだ…」
そのうち、彼の咳の合間に何か意味のある言葉が含まれているらしいことに気づいた私は、急いで彼の口元に耳を寄せた。
「どうしたの? 痛い?」
すると、彼は一瞬だけ目を開き、涙目になって私を熱っぽく(実際熱はあるのだが)見つめた。
「わる、かった……。おまえと……はつ、もうで…いく…つもりだったんだ…」
────それは、謝罪の言葉だった。
私と初詣に行くつもりだったのに、約束を守れなくてごめんと。
「そんなこと…」
そんなこと、言わないで。
普段なら絶対に出ない弱気な発言に、こちらまで苦しくなってしまう。
体調が悪くなってしまったのなら、仕方ない。連絡を入れようとしてくれていたことだってもうわかったのだから、いよいよ私に彼を責める理由はなくなった。
不安を紛らわせたい一心で「昨日のうちに言って」と文句を言ってしまったことを後悔した。
彼はもしかしたら、密かに私と今日会うことを楽しみにしてくれていたのかもしれない、そう思ったからだ。
私のあの40分なんて、彼が苦しんでいた時間に比べたらなんてことない。
それに────。
「まともに新年を迎えることすらできないなんて、どこまでも私達っぽいと思わない?」
冗談めかしてなんとかそう捻り出すと、花宮が吐息に紛れて微かに笑ったような気がした。
────今この時、一斉に新年のお祝いを伝え合っているのであろう世間の人達。
そんな中で隔絶されて、こんな時でさえ苦しみばかりを共有している私達。
花宮の辛さは花宮にしかわからないし、その辛さを"私達らしい"と表すことが不謹慎であることも理解しているが、少なくとも私は心配こそすれ、この状況を恨んだりなどはしていなかった。謝られるようなことなんて、何もない。
少し状況は違うが、私は彼が苦しんでいる時にこそ傍にいたいと思ってこの手を取ったのだ。
だから、これで良い。今年も私は、そうやってあなたの隣にあり続けるから。
────結局、花宮の容態は夜になる頃には落ち着いてきた。ゼリー飲料がなんとか喉を通るようになり、吐き気も収まってきたところで、そろそろ親が戻って来るからと言って無理やり帰された。
「…後日、埋め合わせはするから」
「わかったわかった。とりあえず明日病院に行ってくれたらもうそれで良いから」
本当は最後までついていたかったのだが、救急車を呼ぼうとした時と同じ鬼気迫る表情で追い出されてしまったので、私はまだ心の中に不安を残したままひとり家路についた。
────まったく、ひどい年明けだ。どこまでも────私達らしい。
後日、花宮はインフルエンザに罹っていたことが判明した。すぐ傍にいたはずの私だったが幸いにもそれが移ることはなく、新学期には元気に顔を合わせることもできた。
ちなみに原達は、初詣の約束をした夜の時点で「絶対来るな殺す」と改めて殺害宣言をされていたらしい。これについては、花宮はそこまで子供じゃないと思っていた私が甘かった。あの4人は花宮が苦しんでいることなど全く知らず、4人で勝手に楽しく別の神社に詣でていたらしい。後から花宮がインフルエンザに罹ったと聞いた時の爆笑ぶりときたら…もう、呆れるしかなかった。
そして花宮の"埋め合わせ"については、プラネタリウムデートで手を打たれることとなった。いかにもなデートスポットではあるが、お忘れなきよう言っておくと、花宮のテーマはあくまで"私がひとりでも楽しめるところ、イコール花宮が私を放置していても問題のない所"である。少しでもあの時の萎らしさに同情したことを後悔した。
「お前が楽しそうにしてりゃそれで良いんだよ。どうせ俺とお前が一緒に楽しめるもんなんてねえんだから」
…それでも一応、私が楽しめるように、とは考えてくれているらしい。
年が明けても、歳月が経っても、何も変わらない花宮の不器用すぎる優しさに、私は気取られないようこっそりと笑みを漏らしてしまった。
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