幸福の種
※ヒロインの先輩(「彼女の幸福論」3、9話登場)と、先輩に想いを寄せる可哀想な後輩の話。後編です。
※「あとがき」にお目を通していただいた後に読まれることをお薦めします。
※本編ヒロインは出てきません。
※いつも以上に倫理観が欠如しています。
一目惚れをしたと伝えた。
そしてこれは見境のない悲観ではなく、冷静な推測として、まず断られるだろうと思っていた。
目の前にいるのは、とても綺麗な女の人。ボクとそう背の変わらない、3年生の先輩。
学校の中でも一番と言われるほどの美人に、同じように告白しては振られた男子生徒も数知れないと…入学してから1ヶ月ちょっとの間だけで、何度もそんな噂を聞いていた。
そんな人とボクが釣り合うわけがないと、誰が見たってそう思うだろう。
「わあ、ありがとう。…でもごめん、付き合えない」
ほら、やっぱり。
わかっていたけど、はっきり言葉にされるとやっぱり少しヘコむ。
ボクの挙動は他の人から見ると結構オーバーらしい。主観的にはちょっとのショックと諦めが顔に出たくらいだと思っていたけど、目の前の綺麗な先輩はボクの反応に随分と驚いたように、そして申し訳なさそうにしながら、
「釣り合うとか釣り合わないとかはわかんないけど…私、まだ君のことよく知らないからさ。そんな不誠実な気持ちで簡単に付き合えないんだ。ごめんね」
そんなことを言った。
そうですよね。先輩は絶対、ボクのことなんて知らないと思いました。
うちのキャプテンと仲が良いという話は聞いているので、もしかしたら存在くらいは認知してくれているかも、なんて期待を寄せたこともありましたけど。
でも認知していたって、話したこともないはずの後輩から突然「好きです」なんて言われたら、普通気持ち悪いって先に思いますよね。スイマセン。
ああ…それなのにこちらのことも気遣って、優しくごめんね、と繰り返してくれるこの人は、きっととても────
────"優しくするふり"が上手なんだろうなあ。
「桜井〜」
憧れの先輩に告白して秒殺された翌日、部活が始まる少し前にキャプテンに呼ばれた。
「はいっ! スイマセン!」
「いやこれ部活関係ない話やからそんな委縮せんでええよ…。なあお前、昨日アイツに告ったんやろ」
アイツ────今吉さんが指しているのは例の先輩のことだとすぐにわかったけど、軽い調子でそう言ってくるその声色に、「ワシとアイツほどの仲があればわざわざ名前を言わんでもみんなわかるやろ」という言外の距離感の近さを感じさせられたような気がした。
「────ハイ。スイマセン」
「せやから謝らんでええって。話進まんやろ」
「でも…先輩は、今吉サンと…」
「あー、え、まさかまだそんな噂回っとるんか。念押しするけど付き合うてないで。確かにちょっと訳あって恋人のフリをしてた時期もあったけどな、ワシとアイツは一生ただのクラスメイトでしかないわ」
今吉サンは、ボクが謝った理由を「人の彼女に告白するなんて」と責めているからだ、と思ったみたいだった。
ボクはどちらかというと、先輩が"クラスメイトの今吉サン"と結託した上でボクを諦めさせようとしているんだと思って、"そこまで話を広げてしまったこと"への謝罪をしたつもりだったんだけど…まあ別に、そこでわざわざ勘違いを正すような勇気はなかったので、今吉サンの言葉の続きを待つ。
…そもそも、先輩が今吉サンと恋人の"ふり"をしていたことがあったことも、それが全部嘘で"最初からただの友人でしかない"ことも、ちゃんとボクは正しく認識している。
「そうやなくて、純粋な善意でちょっと相談したいことがあってな」
「相談…?」
「おん。桜井、まだ"一目惚れした"程度の淡い憧れで済んどるなら、アイツは諦めた方がええと思うで」
それはどういう意味だろう。
ボクには高嶺の花でとても手が届かないから、身分違いの恋なんて止めろって言いたいのかな。
それとも、ただのクラスメイトって言ってるけどやっぱり今吉サンは先輩のことが好きだから、ワシには敵わんで、って言いたいのかな。
それとも────
「……見た目通りの"キレイ"な人じゃないから怪我をする、って忠告してくれてる…んでしょうか…?」
おずおずと、第三の選択肢を口にしてみる。
その時の、今吉サンの顔。
なかなか奥を見せてくれない目が、瞳までよく見えるほど大きく見開かれてる。
ぽかんと口すら開けて、完全に時が止まったみたいに見えた。
「…お前、アイツの何を知っとるんや」
そうして言われたのは、ややもするとちょっとした叱責にも聞こえるような言葉だった。どこからどう見ても綺麗な人に「キレイじゃない」なんて失礼なことを言ってしまうなんて、確かに友人の立場からしたら「お前に何がわかる」と言われてしまっても全くおかしくない話だった。
思わず反射で謝りかけて、いやでもこれはそういう意味じゃないだろう、とぐっと呑み込む。
今吉サンは、多分気付いてる。
まだ入部してから1ヶ月しか経ってないけど、この人の"人を見る目"がずば抜けて優れていることはすぐにわかった。
だからきっと、今のボクの言葉だけで"ボクが何かを知っている"ことを悟ったんだろう。だからこんなに、真剣な顔をしているんだろう。
「見た目通りも何も、一目惚れやったんと違うの?」
「あ、そうです、はい」
「入学してからだって…まだ1ヶ月程度しか経ってないやん。見た目以外の何かを知る機会なんてあるか?」
「そうですね、入学してからは確かに全然…あ、でも…その、ボクがあの人のことを好きになったのって、もっと前のことなので…」
「はあ?」
今度はちょっと余裕のある困惑を見せる今吉サン。
目が再び細くなり、口は逆にもう少し大きく開かれたけど────その表情は、どこか楽しそうだった。
「…ちょっと面白そうやん。もっと前って、それいつからの話になるん?」
「ええと…あれは…」
そうだ、あれは去年の夏の話。
来年入学する高校を選ぶひとつのファクターにしようという意味で、バスケのIHの試合を受験勉強の合間に度々観に行っていた。
元々漫画の影響を受けて始めたバスケだったけど、実際にやってみるとすごく面白くて、自分に合っている、とも感じていた。
その時のコーチから「お前なら強豪校でも十分活躍できるよ」なんて言われたせいで天狗になっていたところもあったんだろう。だから、どうせ進学するならバスケの強いところが良いなぁ、なんて、そんなことを考えていた。
そしてある日遂に、ボクの目を引きつけて離さない学校が現れた。
それが、"桐皇学園高校"だった。
強豪校としてのイメージはあまりないし、実績や噂も聞いたことがない学校。
ギャラリーもどちらかというと相手の高校に注目している人が多いみたいで、目立つのは「翔一先輩〜!」と"バスケ"より"選手個人"に黄色い声援を飛ばし続ける女の子くらいだった。
でも、たまたま観ていた桐皇のバスケに、ボクは一瞬で目を奪われた。
速い。鋭い。攻撃的。
とてもチームとは思えないほどみんな勝手に動いているのに、なぜか連携が取れている。
個人技のぶつけ合いのように見えるのに、点を取って取らせない。
強い。
カッコいい。
後から調べたところ、桐皇はまだバスケ部としては未熟とすらいえる地位におり、その強さは近年急速に目立ち始めたことなのだということがわかった。
スカウトを熱心に行い、"ひとりでも勝てる"ような選手にスポットを当てているらしい。
こんなところに行っても、ボクみたいなひよっ子じゃすぐ埋もれちゃうかな。
一瞬そんな弱気が心を覆った。でも、それを上回る闘志がそんな弱音をすぐに蹴飛ばした。
ううん。負けない。負けたくない。
ボクには、この人達にだって負けない力がある。シューターとして活躍するために磨いたこの速さと鋭さは、ここでだって通用するんじゃないだろうか。
いや、絶対通用するって、あの人達の目の前で証明してみせたい。
勉強も一応頑張らなきゃいけない、とはわかっていたけど、バスケをしたり絵を描いたり…そういった"勉強じゃないこと"の方が好きだったボクは、その日に志望校を決めた。
その1週間後くらいだったろうか、夏休み中のとある土日に、桐皇のオープンキャンパスが開催されるという報せを聞いた。
同級生を誘って、行ってみることにした。
桐皇学園は、とても綺麗な学校だった。まだ新しいのだろうか、あるいは最近改修されたのだろうか。いくつかの教室棟と、奥の方に体育館がいくつかあることを地図で確認し、まずは無難に学校紹介の講演でも聞きに行こうか、と小さな講堂へ向かって校舎内に入った時だった。
昇降口を通り抜け、壁を曲がった時。
目を奪われるような、美人がいた。
────それが、ボクの好きになったあの先輩だった。
「うわ、あの人めっちゃ綺麗じゃね?」
隣の友人も小声でそんなことを言っている。
「そ、そうだね…」
すごい、高校生、やっぱり大人だし綺麗だな。
高校生が、というよりその人がズバ抜けて美人だったということは、実は入学した後で知ったことだった。
まだ中学生だった自分にとって彼女は、たとえ1、2歳しか変わらないとしても、通う学校がワンステージ違うというそれだけで特別性を感じるには十分なほどの大人に見えていたのだ。
だからどのタイミングで一目惚れをしたのか、と訊かれたら、もしかすると"この時"だと言っても間違いではなかったかもしれない。
でも、その時はまだ、きっと今吉サン辺りに言わせれば"浅はかやな"と言われてしまうほどの淡い憧れしかなかった。
────そして多分、彼女に言わせても同じ言葉を思い浮かべられるんだろうな。その上で優しく「嬉しいよ」って冷めた感情を隠して笑われるんだろうな。
彼女は何やら昇降口の方を気にしているらしかった。何かを待っているのか、それとも既にそこにある何かを観察しているのか…中学生達に親切に道案内をしながらも、ちらちらと昇降口に視線を送っている。
「講堂なら、そこをまっすぐ行った突き当りを右に曲がったところだよ」
「お手洗い? すぐそこの廊下の左手にあるから! 急げ急げ!」
雰囲気はとてもクールなお姉さん、といった感じだったのに、人懐こい笑顔を振りまきながらまるで対等の存在のようにボク達を案内してくれる先輩は、男女構わずそのギャップで虜にしてしまっているようだった。他にも高校生はいっぱい歩いているのに、彼女の周りだけやたらと人が多い。
「すげえな、あの先輩。あんな先輩がいるならオレもここ通いたいな〜。クール系と見せかけて気さくな先輩? ってギャップ? 強いわ〜。な、桜井!」
隣の友人も惚けてそんなことを言っていた。
「いやボクは…あんな人とお近づきになろうなんて…」
「ほーら出た、その弱腰良くないぞほんと。そりゃ見た目だけ見たら近寄りがたいけどさ、見ろよあれ。どっちが中学生かわかんないじゃん。意外とオレらみたいな奴でもチャンスあるかもだぜ? 高嶺の花って言うには庶民的っつーか」
「無理無理無理! 十分高嶺の花だよ! っていうかボク、クール系とか元気な人とかよりもうちょっと…」
「あー、ふわっとした女の子っぽい女の子が好き、だろ? まったく、変なとこ頑固だよな〜。せっかく目の前に綺麗な人がいるのに好みのタイプの方を貫くとかさ」
…別に、そういうんじゃないんだけどな。
「ふわっとした子が好き」っていうのは確かに何回か言ったけど、それは弱虫でどちらかというと虐められっ子気質だったボクにも優しくしてくれた小学校の時代の同級生の女の子を、「あの子には親切にしてもらったなあ」ってあくまで"良い思い出"としてなんとなく思い出したからってだけ。それは"好き"とか以前の、単なる"感謝"に過ぎなかった。
正直、タイプがどうとかそういうのはない。
あの回答は、「桜井、お前どういう子がタイプなの?」って訊かれた時、無難に納得してもらえるような"ボクがいかにも好きになりそうなタイプ"を口にしただけのこと。
まともな初恋すらしたことがなかったボクは、一体どんな人のことを好きになるんだろう。
クラスの女の子達はみんな可愛いし優しいと思ってたけど、だから好きになるかと言われるとそんなことはなくて。
だからきっと、そんな"友情"を越えた感情を抱くには、もっとそれ以上の…年の差なりそれこそ性格のギャップなり、ボクの知ってる"女の子"のイメージをぐるっと覆すような意外性が必要なんじゃないかな。
そんなことを考えながら、誘導された通り廊下の突き当りを右に曲がり、講堂へと向かう。
学校説明の進行を担っていたのは、今吉サンだった。
その時は「あ、あの人この間IHで見た人だ。バスケ部の人がなんで学校説明をしてるんだろう」なんて疑問も持ったけど、今思えば今吉サンは生徒会の役員。そういったイベントに駆り出されるのはある意味当然のことだった。
でも、ボクがこれまでに唯一見た今吉サンの姿は、試合中の…殺気に満ちた気配を振り撒く、好戦的な顔だけ。穏やかな声色で淡々と桐皇について説明してくれているその時の今吉サンの様は、なんだか別人のようにすら見えて────それが、とても格好良いなあ、と思った。
堂々としていて、場面に応じて顔を使い分けられて、上手に世を渡っていける人。
どんな場でも自分に自信を持っていたいのに、普段はどうしても気弱になってしまう。
プライドを傷つけられることには我慢ができないくせに、口を開くとつい最初に謝罪の言葉が出てきてしまう。
冷静にことを見極めようとしても、まず慌ててしまうせいでなかなか落ち着けない。
壇上で大勢を前にしながら、臆する様子など微塵も見せず長台詞を吐く今吉サンはその時のボクにとって、自分にないものを全て持っている人のように見えた。
それこそさっきの美人な先輩に抱いたものと同じ、それもある種の"憧れ"だったんだろう。
"プライドを傷つけられてから"ようやくエンジンをかけるんじゃなくて、ボクも物事の本質を的確に見抜いて、自分の実力をその"存在"だけでわからせてやれるような人になりたいな。こんな格好良い姿で立っていたいな。…なんて。
まあ、そんな風になれるまであと何年かければ良いのかわからないけど…学校説明の最後に付け足された「…以上が本校に登録されとる部活です。ちなみにワシはバスケ部におります。もし入学した時には改めて体育館でお会いしましょ」という言葉は、いつまでもボクの中で鮮明に残り続けた。
良いなあ。
やっぱりこの人と…いやこの人達とバスケができたら、きっと楽しいんだろうなあ。
「次どーする? 部活の体験入部もあるみたいだし、進路相談もできるみたいだな」
講堂を出た後、隣の友人は校門前で配られていたパンフレットに目を通しながらそう言ってきた。
「あ、あの…もし嫌じゃなかったら、ちょっとバスケ部見に行ってみたいなあって思うんだけど…」
「お、もちろん良いよ。桜井はバスケ部だし、そりゃ気になるよな。じゃあその間オレは野球部見学に行って来るから、30分後くらいにまたここで集合しようぜ」
「うん、わかった」
そんな話をしながら、一度校舎を出る。向かう先は、敷地の奥の方にある体育館。
…だったはずなんだけど、初めて訪れる校舎内でボクは見事に迷ってしまった。
あれ、第一体育館はこっちって標識がさっき立ってたと思うんだけど…。
ボクが迷い込んだのは、学内のちょっとした森? 林? わからないけど、運動部の人どころか人間の気配なんてとても感じられない自然公園っぽい場所だった。
さ…さすが私立高校…敷地の使い方が贅沢…!
と、感動している場合じゃない。
どうしよう。これ、完全に迷ってます、よね…。
道を聞こうにも人がいないし、引き返すにもここまでいくつも細い道を選びながら進んできてしまったので、どう戻れば良いのかもわからない。
困ったなあ。電話でさっきの友人に助けを頼んでも良いんだけど、「学校内の森で迷って」としか説明ができないし…。
心細くなりながら、涙を堪えてひとまず元の場所までなんとか戻ろうと踵を返した時────。
「おー、遂にやったやん。これさっき撮ったんやろ? ならまだあの女、その辺にいるはずやわ。後で先生連れて探しに行こうや。こんなんあったらもう即アウトやで」
────人の声が聞こえた。
しかもその声、知ってる。
さっきまで講堂で聞いてた────今吉サン、バスケ部の主将の声だ。
もちろん知り合いなんかじゃないけど、少なくとも得体の知れている人が相手なら勇気を出して話しかけられるかも。そんな期待を持って声のする方へ向かう。
森だと思っていたのは、小さな裏庭のようだった。周りを木々に囲まれているせいで一見近寄りがたかったけど、踏み入れて見るとちょっとした花壇やベンチなんかも置かれた憩いの場のようなつくりになっている。
木の陰からこっそり、少し離れたベンチの前に立っている今吉サンの様子を窺う。
今吉サンはそこで────これまた、"こっちが一方的に知っている人"と会話をしていた。
あ、あのベンチに座ってる人。
さっき昇降口で見たすごい美人の先輩だ。
今吉サンも背が高くて格好良い人だから、そんな2人が対峙している姿は遠目からでもとても絵になっている。
うわぁ…話しかけづらい…。
「ったく、たったこの1枚のために私のローファーが完全にダメになったんだからね! ヤバいでしょ、他校生が生徒の下駄箱特定して生ゴミ突っ込むとか正気の沙汰じゃないわ」
「ストーカーする時点で正気やないけどな。それにしても、写真からでさえ臭いが漂ってきそうな凄惨さやな」
「他人事みたいに言うけど、弁償する気くらいはあるんでしょうね? 動かない証拠を掴むために私がどんだけの間地味すぎる嫌がらせに耐えてきたことか…」
「もちろん。ローファーでも新品の制服でも教科書でもなんでも買ったるわ。ストーカーの執念を肩代わりしてもらった恩はデカいからな」
「いや全部それ今更過ぎて要らないから…ってあえて選んでるでしょ、この性悪。そもそも自分についたストーカーくらい自分で撃退しろっての。なんでわざわざ私がその女の標的になって嫌がらせ受け続けなきゃいけなくなったのか、未だにほんと謎すぎる…」
「彼女のフリしてその執念を肩代わりしてあげようか、って言うたのは自分やん」
「あ、それも! 私はちゃんと最後まで仕事したんだから、恋人ごっこしてた時に流れた噂の揉み消しくらいは自分でしっかりしてよね」
「ハイハイ、女王様の仰る通りに」
声を出す勇気を持てないまま、ボクはただ2人の会話を聞いていた。
…そして、それにひどくショックを受けた。
まず話の内容からして異常だ。
詳細はわからないものの、今の会話の要点をまとめるとこうなる。
今吉サンに他校の女子のストーカーがついてたということ。
その子を撃退するためにあの先輩が今吉サンの恋人のふりをして恨みを買ったということ。
靴箱に生ゴミを入れられた証拠写真を撮った(そして、その証拠を手に入れるため、ずっと同じような嫌がらせを受け続けていた)ということ。
当時のボクは、2人のことを何も知らなかった。
だからこそ、その話がとても怖かった。
恋人ごっこ、ってことは元々は恋人じゃなかったんですよね。
え、恋人じゃないのにストーカーのターゲットなんて危ない身分を代わってあげるんですか?
しかも女の子が?
男女の立場を逆にした話ならたまに友達からも似たようなものを聞いたことがありましたけど、それだっていつも"彼氏のふり"をしていた友達が刺されたらどうしようってすごく怖かったし…。女の子がストーカーの恨みを買うなんて、更にリスクが高い…っていうか普通にどっちにしろ命が危なくないですか?
しかも何より怖かったのが、そんな異常な話をしている2人の雰囲気が不自然なほど"自然"だったこと。
笑いさえ交えながら話している2人。その内容は完全に犯罪行為にすらなりえそうなことなのに、その雰囲気はまるで趣味の話をしているかのように楽しそうだった。
なんだこれ。
怖い。おかしいよ。それとも何かボクが聞き間違いや勘違いをしていて、本当はそこまで物騒じゃないとかそんなこと、…で、あってほしいです…。
「────ん? 中学生か? どしたん、迷ったんか?」
完全に話しかけることができなくなってしまったボクに先に気づいたのは、今吉さんの方だった。遅れて先輩も、ボクを見る。
その笑顔はやっぱり、とても綺麗だった。
2人とも、さっきまでストーカー撃退の話をしていたなんて思えないほど…"そのままの表情"でボクに近づいてきた。
「えっと、あの、スイマセン!」
「この学校ようわからんよなー、ワシも来たばっかの頃はよく迷ってたわ。で、どこに行こうとしてたん?」
「そ、その…第一体育館に…」
「第一体育館なら今バレー部の時間やな。バレー部に興味あるん?」
「今吉、話逸れてるよ。第一体育館なら、その道をまっすぐ進んで最初の分かれ道を左に進んでみて。そしたらまた標識が立ってるから、それに従えばあとは一本道だよ」
会話を楽しみたがっている様子の今吉さんを緩く諫めながら、先輩が優しく口添えしてくれる。
それがまた、怖かった。
だってこの2人のボクに掛ける声、さっき2人きりで話してた時と全く同じだったから。
"部外者"にはとりあえず優しくしておいて、仲間内では本性を晒し合う、そんな性格の人なら今までにもたくさん見てきた。
でも、こんな人達は見たことがなかった。
他校生の迷惑行為についての話も、度を越した被害を受けている事実も、"迷った中学生に道を教えてあげる"時と全く同じテンションで話す人達なんて。
特に女性の先輩の方。
最初はすごく綺麗な人だなって思った。クールで美人で大人っぽいな、そんな印象を抱いた。
でも下級生を案内している姿を見て、ああ本当は気さくな先輩なんだな、なんて初見の印象を即座にひっくり返された。
ギャップのある人が素敵だって言われるのはわかる。
でも誤解を恐れずに言うと、"ギャップがある人"なんてそこら辺にいますよね。
だから、一度くらいギャップで印象をひっくり返されても「へ〜、意外だな〜」という腑抜けた感想しか持っていなかった。
でも────今、まさか二度目の印象転覆が起きるなんてことは、さすがに全く予想していなかった。え、ギャップってそんないくつも重ねられるものなんですか?
「すっ、スイマセン! ありがとうございます! 失礼します!」
ひとまずこの異様な場から遠ざかろうと慌てて駆けだしたボクの背に、「転ばんように気ぃつけやー」という今吉サンの声がかかる。
────異様な場から遠ざかり、木々に囲まれた安全地帯に戻った時。
ボクは結局すぐ第一体育館に向かうことなく、再び別の木の影からこっそりと2人の様子を窺った。
怖い…けど、気になる。
今まであんな怖い人を、見たことがなかったから。
単純に声が大きいとか、怒ってばかりとか、そういう意味で怖い女子は周りにもいた。
でもこんな────こんな優雅に、自分の身を平気で危険に晒して、ストーカー行為という当然許されるわけのないことを自らの手で駆逐しようと画策するような────そんなしたたかで頭の良い人を、ボクは今まで知らなかった。
「聞かれたかな、今の話」
「さあ? まああの怯えようなら聞いとったかもな」
「え、それ私結構ヤバい奴にならない? 男友達につきまとうストーカーを撃退する女子とか字面が最悪すぎるんだけど」
「まあ実際性格は最悪やしな。顔が良い分相当目立つで、その腹黒さ」
「あなたにだけは言われたくない言葉ナンバーワンだわ」
「はー悲し、こっちは事実を言うとるだけなのに。────そもそも、あんな名前も顔も知らん、うちに来るかもわからんような男子ひとりにちょこっと物騒な話聞かれたくらい、お前はなんとも思わへんやろ?」
────そして、ボクは、
「うん。関わる機会があるなら観察の余地もあるけど、見ず知らずの人間が自分をどう評価するなんて興味ないね」
────冷めた口調で、初めて無表情になってそう言い放つその女の人から、いよいよ目だけでなく心まで奪われてしまった。
この感情をどう表現したら良いのかわからない。
ただ、そう、まさに"心を奪われた"のだ。
顔が綺麗だったから、というのはもちろんあるかもしれない。
でも、そんなことより────
彼女の"気さくさ"が決して演技じゃないらしいということは今吉サンとの会話の様子から推測しつつも、そこに決して"善意"や"親切さ"がないことに、気づいてしまった。
単に性格が悪い人、というわけじゃないんだろう。
でも、決して優しい人、というわけでもないんだろう。
わからない。ボクの周りは、わかりやすい人しかいなかったから。
見たままと同じ本性を持つ人。
見たままのものとは真逆の本性を持つ人。
彼女はそのどれとも違っていた。
見たままなのに、その"見たまま"に辿り着くまでの思考や感情が、何も見えない。
顔の造形がどうとか、そんなことはどうでも…良くはないかもしれないけど、とにかくボクの心を生まれて初めて強く惹きつけたのは、彼女のそんな
"人を人とも思わないような冷たい顔"
だった。
去年のオープンキャンパスの時、実は2人の会話を聞いていましたスイマセン。
そう正直に話すと、今吉サンは大きく笑い出した。
「ははは! あーやっぱな! 気づいた時におったっちゅーことは、その前からもずっとおったんやろうなとは思っとったわ! でもまさかその後の話まで聞いとったとはなあ…つーかあの時の中学生、お前やったんか」
「はい…スイマセン…」
「あーそういやあの時もえらい腰の低い子がおるなあとは思ったわ…バレー部の方に行ったと思ってすっかり忘れとった」
「いえ…あの時は体育館に行くことしか考えてなくて…その時間がバレー部の時間だなんて知らなかったんです…」
「で、結局アイツの能面見たっちゅーことか」
アイツの能面は確かにレアやな、と納得したように今吉サンは頷いた。
今吉サンでさえボクから直接この話を聞くまで、あの日の"中学生"がボクだったことに気づかなかったくらいなのだ。先輩が昨日ボクのことを"知らない"と言いきったのもやはり当然のことだったんだ、と改めて思う。
「アイツの笑顔で落ちるヤツは多いけど、笑顔をスルーして能面の方に惹かれるタイプは珍しなあ。…でもそれ、ほんまに好きなん? 話聞く限り、お前がそこでアイツに抱いた感情はそれこそ"未知への興味"の域を出んで。確かにそれを"憧れ"と勘違いする輩は多いけども、や」
「はい…多分、恋とかそういう…綺麗な感情じゃないと思います、ボクも」
そう、一目惚れと言ったのは、それが一番"適切"な言葉だと思ったから。
恋をしたわけじゃない。憧れなんて温い感情じゃない。
確かに先輩と似たタイプの今吉サンのことなら、"バスケ"を通じて憧れ…というか尊敬している。
でも、あの先輩は確かにあの日あの瞬間、ボクにとって"特別な存在"になった。
"友情"を越えた感情を抱くには、ボクの知ってる"女の子"のイメージをぐるっと覆すような意外性が必要なんじゃないかな。
あの夏の日、遠くで見つめたあの表情こそが、求めていた"意外性"なのだと本能で悟った。
今まで見たことのない人。とても綺麗なのに、それだけじゃ終わらない人。
何を考えてるんですか? 何を感じてるんですか?
もしかしたらボクには到底理解できない難しいことを考えているのかもしれないけど、それならそれで、素直にその難しい話を聞かせてほしいと思う。
あの人のことをもっと知りたい。あの人の傍で、今吉サンみたいに対等に話してみたい。
でも、どうすれば?
どうしたら、ボクはあの人に関心を持ってもらえる?
どうしたら、ボクはこの自分でも名前の付けられない感情を処理できるようになる?
そう考えた時、思い至った言葉があった。
ああ、そういえば────
関わる機会があるなら観察の余地もあるけど、見ず知らずの人間が自分をどう評価するなんて興味ないね。
────彼女の、あの言葉。
「────今吉サンの言う通り、ボクは先輩の考えていることに"興味"があるだけです。でも、その好奇心を満たすには、一定の関心を惹かないといけません。だから────まずは、関わる機会をなんとしても増やさないといけないんです」
彼女の言葉になぞらえて"評価"と言ってしまうのは少し怖いけど、少なくともボクがあの人をどう思っているかだけでもまず伝えなきゃ。
オープンキャンパスの時の話をするのはあまりに長すぎるし、逆に距離を置かれる可能性もある。だったらどうすれば良いか。
簡単だ。ボクがこの感情を"憧れ"と勘違いしてしまえば良い。
憧れを持ったまま純粋な気持ちで何度でも近づいて、観察してもらえば良い。
観察してもらって、関心を持つに値すると思ってもらえれば、その時きっと初めて彼女の心の言葉を聞くことができるだろう。
人を人とも思わないような顔をする人。自分の身ですら簡単に差し出せる人。
そんな人に近づくなんて、迷惑をかけてしまうかもと思う以前にこちらが火傷して終わってしまうだけかもしれないけど。
「────アイツはああ見えて結構人見知りするし理想も高いから、仲良うなるのは難しいと思うで。ワシでさえ5年かけてようやく"心を開いて話せる友達"になったくらいやからな」
「そしたら、ボクは10年かけて先輩に告白し続けます」
なんせ、初めてだったんだから。
こんな風に誰か1人の存在に心を乱されるのは。
こんな風に誰か1人のことを知りたいと思ったのは。
スイマセン、こんなのただのひとりよがりな我儘なのは十分わかっています。
もしボクが"人を人とも思っていないような顔"と言ってしまったあの表情が…例えばただの"慣れない中学生の相手が続いて疲れが出た"なんていう偶然から出たものだったとしたら…その時こそ、土下座してでも謝らないといけないかもしれない。
でも、目の前の今吉サンが、暗にボクの推測の正しさを証明してくれていた。
この人が何も言わないということは、きっとボクは"許された"ということ。
手を引かなくて良いと、そのまま続けてみろと、言われている気がする。
「…ほんまに、負けず嫌いやなあ。桜井は」
「…スイマセン」
「いやいや、それは美点やと思うで。ま、ハイリスクハイリターンの勝負やけどな、時間かけて知り合ってみい」
「はい」
あわよくば今吉サンからも何か聞けないか、と思ったけど、さすがにそれは無理そうだった。この人こそ下手に突くと蛇どころか大きなコブラが出てきてしまいそうなので、やめておく。
だからボクは、翌週も先輩に告白した。
好きですと。付き合ってくださいとは言わないので、知り合うための時間をくださいと。
────その言葉に嘘はない。
綺麗な人だなって思ってるし、好きか嫌いかで言われたら当然好き…というか、嫌いになるほどのことを知らないし。
そう、まだボクはこの人のことを何も知らない。
そして今回、ボク自身もボクのことを全然知らずにいたことに気づいた。
好きなタイプが"ふわっとした子"?
違います、全然違う。
それは単に、人がある意味"当たり前に持っている"親切心に親しみを持っているだけだ。
ボクが本当に惹かれたのは、とても一目見ただけでは理解しきれないような複雑な人だった。
人が持っている心を持っていない人。
人の持っていない心を持っている人。
それはまだ、直感に過ぎないけれど────それでも、それこそボクの"興味"を惹くには十分すぎる理由だった。
「…あの、今吉サン、その…話ついでに1つ、気になることを訊いても良いでしょうか?」
「ん? ええよ」
「今吉サンは……その、先輩のこと好きだったり…しないんですか? 負けないです、って言いたい気持ちはあるんですけど…さすがに今吉サンが相手だと無」
「いや絶対ない」
「あっ、はいっ、スイマセン!」
「ないけど…まあ、今んとこアイツの中で一番仲良いのはワシやろうからな。恋でもただの興味でも、アイツの気を惹こうと思ったらまずはワシを超えてくれんとアイツの"特別枠"に収まるのは難しいと思うで」
「ひえっ…」
────これはまだ、"興味対象"の思考と感性の歪みが完全に想定を超えることを思い知らされるより、ずっとずっと前の話────。
…前編で「イドの幸福にイイヒトは出てきません」なんてドヤ顔で言ってしまっただけに、なんだか桜井まですごく嫌なヤツみたいになってしまいましたね…。スイマセン…。
桜井に対しては全く嫌なヤツだとか歪んでるヤツだとかは思っていません。
ただ彼は"人並みに好奇心旺盛"で、そして"人よりちょっと負けず嫌いなだけ"だと思っています。
そんな人間にあの人喰い女を会わせたせいでこんなことになっただけです…。
今後お互い"観察対象"、"興味対象"の域を超えたら、なんやかんやでくっつく…のかな?
ちょっとこの2人の"幸福論"を咲かせるのはまだ時期尚早すぎて、私もうまく結論づけられずにいます。
桜井が粘り勝つか、先輩が先に飽きるか。
個人的には「結局先輩と今吉がお互い一生つかず離れずにいることを選び、桜井も一生"観察対象"を抜け出せない」説が一番濃厚だと思っているのですが、それはあまりに桜井が報われないのでこれ以上続けるのはやめておきます。今のところは、ですが。
自己満足にお付き合いいただきありがとうございました。
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