18.幸福から不幸へと



下校時刻は過ぎてるとはいえ校門前はさすがに人目につきすぎる、そう言って俺達は移動することにした。
向かった先は、電車で数駅先まで行った先の、小さな公園。

────そこは、2年前に俺達が嘘の恋人関係をやめたところだった。

「…………」

雪葉はブランコに小さく腰掛けた。錆びついた鎖の軋む音が耳に痛く、俺はそれから逃れるようにブランコの前を通り過ぎると、傍にあったベンチに座った。ブランコの座面と垂直に置かれたベンチからは、彼女の固い表情を浮かべた横顔が見える。横髪に遮られてよく見えないその目は、じっと地面を見つめていた。

どちらも、何も言わない。
心のどこかではきっと俺が口を開かなければ何も始まらないとわかっていたものの、未だに"今更何を話せと?"と往生際の悪い自分が足掻いている。
 
「……花宮」

結局、先に言葉を発したのは雪葉だった。目を合わせないまま、微かにブランコを揺らして俺の名を呼ぶ。

「瀬戸はね、花宮が私を守ろうとしてあえて遠ざけた、って言ったの。私も理性では、そう考えるのが一番しっくりくるってわかってる。だってあの時花宮が私を拒絶したのは本当に突然だったし、花宮だけじゃなくてバスケ部の皆が私を避け始めたし、かと思えば私が困ってる時は手を差し伸べてくれるし────」

健太郎に余計なことを言いやがって、と苛立ちが一瞬募ったが、確かに俺はあまりに杜撰過ぎた。雪葉はきっと、健太郎のその言葉がなくとも同じ結論に至っただろう。

そして、同じようにその結論を疑っただろう。

「────でも、私の本能はそれを認めなかった」

「だから」、と彼女は言葉を続ける。

「だから、花宮自身の口から聞きたい」

瞬きを数回、それから彼女に倣って地面を見つめてみる。当然乾いた砂の他には何も見えやしなくて、仕方なくまた焦点の合わない目で雪葉の横顔を眺める。

自分のザマがあまりに間抜けということは心の奥底で理解していたが、彼女がここまで歩み寄ってきたことでそれはすっかり表層に露呈したようだ、と思った。彼女を拒絶することで得ようとしていた彼女の安全や自分の自信、どちらももはや意味をなしていないのに、何をどうしてここまで意地になっていたのか(もはや意味をなしていないからこそ意地になっていた、ということもやはり頭の中では理解していたが)。

「────お前が理性で理解した通りだよ」

…ああ、そうだな。
俺はもっと早くにこの"間違い"に気づくべきだったんだろう。

彼女を拒絶するという選択自体は間違っていなかった。
ただ、その後が問題だったというだけで。

理論でどう完璧なシナリオを構築しようが、現実世界で語り始めた途端予定していた結末を紛失し、道がどんどん思いがけない方向へと逸れていってしまう…なんてことは、物書きなら誰でもが経験したことのある事象だ。肝心なのは理想から離れていくシナリオを、どう軌道修正するか。辿る道は違って構わない、狙った結末へと着地させることこそが大切なのであり────俺が本来、得意とする領分のはずだった。

思えば柄でもない恋情なんて煩悩を抱いたことで麻痺していたんだろう。
彼女を拒絶するというシナリオ分岐が発生した時、俺はそのイレギュラーに柔軟な対応をすることができなかった。

彼女を拒絶しても良い。一旦近づけてしまうというミスはあったものの、あの状況では彼女を拒絶するほかなかった。
ただ、拒絶する為にあんな暴言を吐くならば、その後彼女がどんな危険に晒されても直接的には不干渉の姿勢を貫くべきだった。直接は関わらず、静観を決め込んだふりをし、彼女に危害を及ぼそうとする者を徹底的に潰せば良かったのだ────それこそ、彼女に手をかけようなんて発想が、できなくなるくらいに。
逆に下手に干渉をするならば、そもそも彼女にあんな風に暴言を吐くべきではなかった。

彼女を守るという結末を貫く為に、俺は彼女を拒絶した時点で"彼女を拒絶し続ける"ことにまで固執し、彼女の安全を直接確認し、守りたいという自分の欲望を御することができなかった────それが、俺の致命的なミスとなった。

「俺は────お前を守りたかった」

雪葉は顔を上げた。俺の顔を見るその表情は、未だ疑いが拭えていない。それどころか、まるでこちらが未知の外国語でも喋ったかのような────そのままの言葉を聞き返したい、そんな顔だった。

「ふは、その顔…すげぇバカっぽい」

あまり大きい声では笑えなかった。あまり、心から馬鹿にすることもできなかった。

「……私を、って………なんで?」

雪葉は本気で戸惑っている。無理もない、3年以上、俺の善意を信じずに悪意だけを信じさせてきたのだから。

「…………そりゃお前、惚れてるからなんじゃねぇの」

本当ならまだ言うはずのなかった言葉。もう隠し通せないだろうと判断して口にしてみたところ、思った以上に滑らかに唇から滑り落ちてきてくれた。

「…………」

さっきまで戸惑いの表情を見せていた雪葉が、完全に機能停止した。

「……は?」

可愛げの欠片もない、そんな声。自分に言われていることがそもそも理解できていない────どことなく怒りに似た感情を浮かべている顔を見ていると、せいぜい考えていることはそんなところだろうな、と彼女の心中を慮る。

「…で、なんだっけ、お前が聞きたかったこと」

続いた俺の言葉に雪葉の背中が跳ねる。我に返ったのか、それでも俺を笑わせるには十分なほど狼狽してみせ、狸でも見るような目を向けながら警戒心丸出しの声を出す。

「惚れてる…って、私に?」
「他に誰がいんだよ」
「……なんで?」

素直すぎる疑問に、自然と眉を寄せる。もっと他に聞きたいことがあって来たはずなのに、今の自分の発言でその全てがひっくり返ったんだろう。"私のどこが好きなの?"とは今までにも何度か聞かれた経験のある疑問ではあるが、こいつの場合"愛されてることを実感したい"という心理よりは"本気で自分に惚れられる要素があるとは信じがたい(しかも俺に)"と考えているとみた方が正しそうだ。
気づかれないよう仕向けていたとはいえ、そこまで信用なかったか。

「くだらねー質問しかしねぇんならもう帰るぞ」
「えっ、いや……ごめん…でも一つだけ良いかな」
「あ?」
「…頭大丈夫?」

無言でベンチから立ち上がり、踵を返す。雪葉は慌てて駆け寄り、俺の怪我をしていない方の腕を掴んだ。

「ごめん、あまりにも今までの言動と今の言動が一致してなくて」
「一致はしてただろ、お前のこといつも連れ回してたし」
「それはなんかこう、何かに利用するつもりだったのかな…って…」
「………」
「す…少なくとも中学の時はそうだったじゃん」

否定はしない。それは確かな事実であり、高校に上がってから近づいた時も何かの目的があって近づいた体を装っていたくらいだから。

「あの時はそうでも、今は違うんだよ」
「じゃあ……井口南の奴らに連れてかれた日…ひどいこと言って私を拒絶したのは…」
「俺の傍にいたら、お前がどんな危険に晒されるか────お互い身を以て知ったろ」

彼女の瞳が揺れる。瞬きを数度、それから息を呑んで、視線を落とした。

「その後すぐ他の女の子と付き合ったのは?」
「他にもお前に手を出そうとする奴がいたら、そいつらの視線が逸らせると思って」

彼女の唇が歪む。酷いことするね、といういつか彼女自身の口から発せられたことのある言葉が聞こえてきそうだった。

「原君とか、他のバスケ部の人も遠ざけたのは?」
「俺だけじゃない、お前は"霧崎第一バスケ部"っつー存在から離れる必要があるだろ」

一つ一つ、彼女の抱いていた疑問を溶かす。そうだ、これも考えれば当然だったのかもしれない。いくら彼女を拒絶して遠ざけてみても、彼女自身に"俺に対する疑問"が残っている限り、俺達の関係を完全に断つことはできなかったのだ。

理論と事実で物を考える人間に対してならば、理論と事実で俺の傍にいてはならないという結論を出させなければならない。

「クリスマスに誘ってきたのも、私にキスをしたことも、三好君や則本さんとトラブッた時に助けてくれたのも、全部私のことが好きだからって言うわけ?」
「だったらなんだよ」

雪葉の声は震えていた。少し怒ってもいるようだ。あまりに勝手な俺の言動に苛立っているのだろうか、まぁ当然のことだ、と思った。

「…これでも、半端なことしたって…思ってる。お前のことを守りたいと思って近づいたのに、結局それが一番危険だと気づいて拒絶して────かと思えば未練たらたらなこのザマ晒したわけだからな」

思えばそれは半年以上も前のことになるのか。
そうだ、あの時は三好のせいで毎日憂鬱そうな顔をしていて────どう見たって幸せとは程遠いその様子を、なんとか変えられたらと思ったんだ。中学の時の失敗を覆せたら、今度こそ彼女を幸せにできたら────そんな思い上がりが思い上がりであることに気づいたのは、それから随分経った後のこと。

俺はやっぱり、彼女を不幸せにすることしかできなかった。

その後のことについて彼女がどこまで健太郎から話を聞いているかは知らない。クリスマスの日なんかは一哉達とも会っていたというし、俺がどれだけ彼女を遠ざけた後に酷い姿を見せていたか、もしかしたら事細かに聞いているのかもしれない。

そんな自分の醜態全てを、後悔していた。

「俺と離れたところでお前が完全に安全になるわけじゃねぇっていうのは昨日わかった。ただ、だからといってまた今まで通り傍にいたらそれはその危険を余計に増やすだけだ」

何度でも言うが、俺は雪葉を遠ざけるという自分の判断自体は間違っていないと考えている。彼女が大切だというなら彼女と一緒にいてはいけない。
ただ、必要のない嘘で彼女を傷つけて、思ってもいない悪意をぶつける必要がなくなったことで少し心は軽くなっていた。

本心を伝えるというのも、時によっては悪くないのかもしれない、と思うほどに。

「だから今まで通り、俺はお前に近づくつもりもないし、お前も俺の傍には来ないでくれ。お前に手を出そうとする人間がいなくなるように徹底はする、が────少しでも危険を察知したら、すぐに俺に連絡しろ」

俺がどれだけ雪葉のことを案じているか素直に話したら、こいつはもう少し自分を守るための行動をとるようになってくれるだろうか。雪葉が傷つくということがどれだけ俺を苦しめているか知ったら、こいつはもう少し俺に守らせてくれるだろうか。

距離をおいても、関係を断っても、守ることならできるはずだ。

「俺はお前の為ならどこへでも行くし、どんな奴でも絶対に潰す。お前の為に俺が動かないなんて思うな、お前のせいで俺が傷つくなんて考えるな。お前に何か危険があったとするなら、その原因は全て俺にある。責任は取らせろ」

ここまで言っておきながら、悪童という生き方をやめられない自分に腹の底から笑いがせり上がってくる。結局一番大事なのは自分というわけだ、彼女をここまで必死に守りたがっているのも、惚れた女に対する自分のエゴでしかないのだから。

雪葉は何かを考えているようだった。俺の命令を静かに聞いて、肯定も否定もせずに俯いている。

「それ以外は関わる気なんてないから安心しな。こうやって話すのも今日が最後…になると良いな」

柔らかく、掴まれた腕を振り解く。今度こそ彼女に背を向けて、足を踏み出した。

「疑問は全部消えただろ。じゃ、幸せになれよ」

ざり、と砂を踏む音がやけに大きく聞こえる。皹の入った腕がずきずきと痛む。彼女に隠していたこと、彼女に偽っていたこと、その全てを話したことで、今度こそ終わりなのだと────もう二度と、彼女と向き合って話すことはないのだと、思い知った。

でも、これが最善の道だと思う。今までの自分は"彼女が嫌い"だったから、守ることも、幸せを願うことも"矛盾"にしかならなかったが、今の"彼女を好いた"自分なら彼女を守ることも、幸せを願うこともできる。どうせ来月からは3年生になり、その1年を乗り越えれば卒業だ。その後はお互い本当に干渉することなく生きていくことになるだろう。

あと少し、あと少しだけ、耐えれば良「────私の幸せは!」

公園の背の低い柵の間を通り、外へと出ようとしたその時、後ろから珍しい雪葉の大声が聞こえた。

「花宮の────花宮の、傍にいることなんだけど!」

嘘とは思えない必死な声に、足が止まる。振り返ると、今にも泣きそうな顔をした雪葉がまっすぐ俺を見つめていた。

「私のこと守るとか…幸せを願うとか…いろいろ言ってくれてるけど………花宮がいなくなったら意味がないんだよ!」

ずっと何かを言いたげに唇を噛んでいたのは、このためだったのだろうか。そんなことを思わせる覚悟を決めた表情に気圧されるまま、俺はただ突っ立っていた。それを見て彼女は、俺の傍まで歩み寄る。離れたはずの距離が再び縮まった。

「井口南だって柏田だって怖くない! 狙われることなんて正直わかってた! そんなことより…私は、花宮に拒絶されることの方がよっぽど辛いし、怖いんだよ…」

当たり前のように言うが、俺からしたらそれは不審なほどにまっすぐな言葉だった。
俺の隣にいることを許容していた頃は、俺への同情故かと思っていたが────こんな風に、自ら俺を望む程の信頼を勝ち得た覚えはない。俺が彼女にしてきたことは、疑念と警戒を抱かせるような、そんな不誠実なことばかりだったのだから。

「……何、言ってんだお前」

理解しがたい彼女の真剣な表情に、そんな要領を得ない間抜けな問いを投げる。
雪葉は一瞬目を逸らし、それからまた俺の目を見た。

「─────好きだよ、花宮」

その瞬間、一陣の風が巻き起こったような錯覚を覚えた。視覚も聴覚もクリアになり、彼女の泣きそうな顔と震える吐息を受容する。

「え……………」

いつか、心の奥底で望んだ言葉。そしていつか望んではいけないと、諦めに変えた言葉。
ざわざわと全身が鳥肌立つ(それが抑えていた愛おしさだということに気づくのに、そう時間はかからなかった)。

でも、それこそどうして。
懐かれているのは知っていた。憎からず思われているのもわかっていた────だからこそ、遠ざけたのだし。

でも。

「…嘘」
「じゃない。怒るよ」
「……理由がない」
「ある」

少しムキになった雪葉の様子を伺い、本当に嘘がないか見定める。

「……疑ってるでしょ」
「……正直、俺に惚れてるって言われた時のお前の反応がよく理解できた」

頭大丈夫? とそっくりそのまま返してやりたい。雪葉はそんな俺の心情を理解したのか、強い眼光でこちらを睨みつけ、それから深い溜息をついた。

「花宮を好きになった時、きっと私にも危険はあるだろうって覚悟した。私みたいな無責任な奴には花宮の負うものを一緒に負うとか…そんなことはできないけど、巻き上がる炎を消せない代わりに、降りかかった火の粉を払うこともしないって────逃げないって、決めた」

口では簡単に言うが、熱い火の粉を被れば人は反射的にその痛みから手を振り払わずにはいられない。意思だけではどうしようもないことだってあるし、彼女はきっとそうやって自分を追い詰めたことを、いつか後悔する。

「忘れたわけじゃないだろ、井口南の奴らにされたこと。俺といたらあれ以上に酷い仕打ちを受ける可能性だってある」
「怖くないよ」
「他の学校の生徒から罵倒されることだって」
「承知してる」
「俺は…好きな相手にでも平気で嘘をつく」
「でもそれは、私を守る為の嘘だった。そうでしょ」

どれだけ俺が自分と一緒にいてはならないと説いても、彼女はそれを受け入れようとしない。

「……怖くないなんて、嘘だ。自分が原因じゃないことで人から後ろ指を指されるのだって、気分悪いだろ。いくら自分を守る為でも、嘘をつかれて傷つかねぇわけねーだろ」

そしてそれをわかっていながら、自分のこの生き方を変えられない俺に、彼女はとっとと愛想を尽かして良いはずだ。彼女の為に全てを投げ打てるのなら、悪童という名をまず捨てれば良いのに────それができない俺は、根本から腐っていて、だからこそ彼女の隣になどいてはいけないのだと思う。

「だから言ったじゃん、私にとって怖いのは、花宮がいなくなっちゃうことだって」
「そんなこと…」
「それで、私にとっての幸せは、花宮の傍にいること。これもさっき言ったよね」

彼女自身の幸せの定義を尋ね、それに沿う行動を取ってみろとは健太郎の言だった。ああ────今思えばきっと健太郎は、雪葉の気持ちを知っていたんだろう。だから、互いに好き合っているのに無意味に距離を取って、無意味に傷つき合っている俺達の姿が、滑稽でしかなかったんだろう。
(そうか────じゃあ健太郎が取ったさっきの行動は────その本意は────)

「なんで、そこまで────」

さっき雪葉には"くだらない"とぶった切ったばかりの疑問が、間抜けにも口をつく。
雪葉は少しの間考えて、それから茶化すように笑った。

「…こんなに人格破綻してる人を、一人にしたくない」
「……同情のつもりか」
「まさか。情けでどうにかできる人間だなんて思ったことないよ。そうじゃなくて…」

眉をひそめる俺に対し、雪葉は笑みを静かに消した。真剣な表情の中でも、こちらに向ける眼差しは痒いほどに優しい。

「一人にしたくないって思っただけ。同情でもないし、まして私が花宮を変えようなんてそんなおこがましいことも考えてない。ただどうしたって気になって、幸せになってほしくて、それを傍で見ていたいと思うだけ」

俺なんかよりずっと、謙虚で献身的で、誠実な気持ちだと思った。
だからこそ────俺のせいで傷ついた時、俺に拒絶された時、彼女はどんな気持ちだったんだろうと思う。

「花宮も、私のこと好きって言ってくれたよね、信じても良い?」
「……」
「幸せにしたい、って思ってくれてたんだよね?」
「………」

俺は何も答えない。答えられない。
しかしその沈黙を突破する術を、彼女は既に持っていた。

「あなたが私のことを嫌いで、不幸になってほしいと思ってるなら話は別だけど……」
「………思ってねえ、けど」

咄嗟に否定してしまった俺の言葉に、雪葉はにっこりと笑う。

「…じゃあ、一緒にいようよ」
 
私達2人の為に、と、彼女は言った。

「────ここまで言って、俺は自分の生き方一つ変えられねぇんだぞ。今はどうでも、いずれ俺はお前を不幸にする」
「だからそれは全部花宮の尺度でしょ。見当違いの"私の為"なんて言葉、使わないで。それにそんな簡単に変えられるほど、あなたの生き方は軽くない…ってことくらい、私にもわかるよ」

守りたい、幸せにしたい、救いたい────そんなことを言って、もしかしたら救われていたのは俺の方だったのかもしれない。

彼女の幸せという言葉を信じて良いんだろうか。
危険があるとわかっていてなお、幸せなんていう曖昧な感情を貫いて良いんだろうか。

「…幸せに、してくれるんじゃないの」

祈るような雪葉の目。
別れを決意してきたはずの俺は、今や彼女から視線を逸らすことすらできなかった。

「………………本当に、良いのか」
「あなたと出会った2年前からずっと考えて、考えて、考え続けて…それから出した結論だよ。大丈夫」
 
彼女は俺なんかよりずっと強かった。こんな場面ですら笑顔を浮かべる彼女に、もはや返す拒絶の言葉はない。

────全身から力が抜けるようだった。ほっと息をつくと、まるで張りつめていたような空気までもが一気に弛緩した感覚を覚える。急にざわざわと揺れる木の葉の音が耳につくようになり、夕日の眩しい光が目に刺さるように思えた。
 
「────バカだな、お前。俺が会った人間の中で一番バカ」
「じゃあ花宮はせっかく賢いのにバカな女が好きな体質なんだね」
「言ってろ」
 
────迷って、諦めて、それでも引きずって…面倒な道ばかり踏んだ末に俺が出した結論は、そんなものだった。

誰もが描くような"幸福"にはとても当てはめられない、俺達の歪な幸せの形。
でも確かに────お前の言った通りだったよ、健太郎。
これは俺達にしか定義できない"幸福"だ。

どれだけそれが哀れに見えても、どれだけそれが"不幸"に見えても、それこそが俺達の求めていた"幸福"だったんだ。



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