3.不幸が生まれる



そもそも花宮と初めて出会ったのは、中学2年生の夏のことだった。

当時たまたま仲の良かった女性の先輩がいて、その日たまたま先輩と一緒にバスケ部の人に会いに行ったら、そこにたまたま花宮がいた────簡単に言えば、ただそれだけのこと。

バスケ部の練習する体育館へ行くことになったのだって、下校時に先輩と会って「せっかくだから帰りにお茶でもしようか」となったところで、彼女の友人であるバスケ部のマネージャーに呼び止められたという偶然が原因だ。「ごめん、私急用で先生に呼ばれてて! キャプテンにこの書類、渡してもらって良いかな!? 確かあんた、キャプテンと同じクラスだったよね!?」とだけ大声で言い走って、ファイルに綴じられた部員のデータが書き込まれているらしい書類一式を先輩の手に押し付けると、職員室の方向へと去ってしまったのだ。

「…あーもう、あいつはほんと勝手に…ごめんね、これだけ今吉君に渡してからでも良い?」
「もちろんです」

苦笑いをする先輩に素直に付き従い、昇降口に背を向けて体育館へと足を伸ばす。
授業以外では赴くことのない体育館の様子は、やはりどこか違って見えた。傾けられている熱意の差だろうか、太陽が沈みかけているのになんだか温度が高く感じられる、ような気がする。
先輩は邪魔をしないようにとこっそり扉を開き、静かに中の様子を窺った。後について私も首だけ伸ばすと、ちょうど休憩中だったらしいバスケ部の面々はそれぞれ体育館の壁際で汗を拭いたり、飲み物を飲んだりしているところだった。集中力が散漫な中での部外者の来訪は余程目立つことだったらしく(あるいはその先輩がとても綺麗な人だったので、存在自体がもう目立っていたのかもしれない)、私達は忍ぶように扉を開けたというのにそれでも部員達の視線が一瞬にして一気にこちらへと集まってきた。
先輩は好奇の視線をものともせずにきょろきょろと体育館の中を見回し、やがて1人の男子生徒を捉えたところで動きを止めた。
 
「今吉君、マネージャーさんからの頼まれ物。マネージャーさんがちょっと急用できたって言うから、私が代わりに請け負ってきたよ」
 
先輩がそう言うと、声をかけられた相手の男子生徒は「ああ」と完全に理解した顔をしてこちらへ寄ってきた。黒髪で、糸目の男の人。今吉君、と呼ばれているからこの人がバスケ部のキャプテンか、なんて思いながら私は先輩の後ろから不躾になりすぎないよう気を付けながら今吉さんの顔を眺めていた。
 
「おお、ありがとうな。…そっちの子は?」
「藤枝雪葉ちゃん。私のお友達。これからカフェに行くところだったから一緒にいるの」
「そーか、それはワシのせいで回り道させてすまんかった。…おーい、花宮!」
 
今吉さんは爽やかに私達に謝ると、奥の方に声をかけて1人の男子生徒を呼んだ。間もなくして、呼ばれた男子がやってくる。

今吉さんと同じ黒髪だけど、彼のはもっとさらさらとお行儀良く流れる黒髪。太い眉と意思の強そうな瞳が特徴的で、そしてとても綺麗な顔をした人だった。
 
「これ、部員に配っといてくれるか」
「はい、わかりました。あ、君────藤枝さんだよね。先輩も、わざわざありがとうございます」
 
今吉さんからの指示を快諾し、にっこりと私達2人に微笑みかけると、彼は再びコートへ戻って行く。突然名前を呼ばれたところで私は彼のことを知らないので、驚きにあらゆる反応を置き去りにしてしまった。
 
「流石やなぁ花宮、同期の名前はちゃんと覚えとるんか」
「あれ、雪葉ちゃん、知り合いじゃないの?」
「いえ、全く」
「それはそれは…まめな子がいたもんだ…」
 
そう、全く知り合いなんかじゃなかった。でも彼は、200人近くにもなる同学年の生徒全員の名前を全員把握していた。今にして思えばそのくらい、彼ならやって当然のことだと思うのだが、当時はかなり驚いたことを覚えている。私なんて、自分のクラスにいる生徒40人の名前にだってあまり自信がなかったというのに。

それが────そう、そんな希薄なものが、私と花宮真という男の、なんということのない出会いだった。
 
そんななんということのない出会いが…そんな希薄な縁が、確かなものになったのは────その年の冬のことだった。
 
雪でも降るのではないかと思うほど寒い日、私はクラスの掃除を終えた後、ひとりでゴミ出しをしていた。教室のゴミを両手に持って、白い息を吐きながら旧校舎の裏にあるゴミ集積場へと向かう。
旧校舎は特別授業でしか使われないこともあり、普段から人があまり寄りつかず、いつも静かで薄暗い。しかしその日は珍しく、校舎の脇の陰になっているところに人影が見えた。同じようにゴミ出しに来た他クラスの生徒だろうか。
 
「………?」
 
いや────何か変だ。
話し声が聞こえる。ゴミ袋を持っている様子もなく…ううん、そんなまどろっこしいことを考えるまでもない。
校舎の影に隠れるように立つ男女2人。対峙して、女の子が男の子に手紙を差し出している。
間の悪いことに、私は告白の場面に立ち会ってしまったようだった。
 
「あの、返事はいらないので……!」
 
健気なことを言って男子に手紙を押しつけ、逃げるように私のいる方とは反対側に駆けていく女子。こちらに顔を向けていた彼女が誰かということまでは結局わからなかったのだが、制服のリボンが自分と同じ色に染められていることから、同じ学年であることだけは辛うじて把握した。念の為茂みに隠れながら、彼女が完全に去るまで息を潜めて待つ。
 
こちらに背を向けている男子は終始何も話していなかった。女子の姿が見えなくなったところでやっと手紙を興味なさそうにぶらぶらと振りながら、集積場の目の前まで歩いて行く。

────その顔が見えた時、私の記憶が一瞬にして半年前に立ち返る。
 
その男の子は、確かにあの体育館で出会った、花宮真その人だった。
 
でも、初めて会った時に見せていたあの爽やかな笑顔は、どこにもない。
冷たい顔には恐ろしいほど何の感情も浮かんでいない。

確かに私が彼と直接顔を合わせたのはあの一瞬だけのことだから、どちらが彼の本性かなんてわかるはずがない。しかしそれでも、今私の視界の先で非人間的な顔をしている彼が本当にあの時の彼と同じ人物なのだろうか────と悩んでしまうくらい、あの時の彼の笑顔は完璧だった。
 
私が戸惑っている間に彼は集積場の、色々な場所のゴミ袋ばかりを集めた大きな大きなゴミ箱の前でぴたりと立ち止まった。何をするのかと思いながら見ていると、おもむろに上開きになっているゴミ箱の蓋を開け────たった今、女の子から貰った手紙を、破り始めたのだ。
 
「……!」
 
躊躇いのない動き。最初からこうするつもりだったのかと思うに十分足るほどの余裕を感じる。
花宮は手紙を小さくちぎってすべてゴミ箱の中に放り込むと、何もなかったかのように蓋を閉め、こちらに歩いて来た。
 
機械みたいな顔だ。人間らしさが欠片もない。自分の行動に迷いがないのは良いことだが、彼の場合その思い切りの良い決断は確実に彼女を傷つける方へ向いていた。
 
やがて彼は私の隠れていた茂みの脇を通り過ぎた。そこで私の存在に気づき、初めて表情を────ぎょっとしたような表情を浮かべる。
 
「…ひどいことするね」

目が合った時、私はどうするのだろうと思っていた。できれば見つからないままにやり過ごして、もっとずっと後日に、結局あの時の冷たい顔はなんだったんだろうと、"別のクラスの優等生花宮君"の笑顔を見ながらぼんやりと考えていたかった。

しかし、思ったより言葉はするりと私の喉を通り過ぎる。
それがひどいこと、とはなかなか我ながらピンとこない言葉選びだとは思ったが。
だって私はあの2人のことを何も知らない。もしかしたらこの男がさっきとった行動は文脈的に考えて当然のことだったのかもしれないし、そうでなくたって彼のとった行動の断片だけを見てその善悪を判断する資格などないのだから。

「何のことかな」
 
花宮の、取り繕うような、笑顔。一瞬にして貼り付けられた親愛の情は、確かに半年前にも見たものと同じ顔だった。
それを見た瞬間、私の背筋が総毛立つ。まるで幼い頃にテレビの中で見た、冴えない一般人が世界を救うヒーローに一瞬で変身する様のような。あるいは物語の序盤で誰よりも親身になってくれた友人が、全ての悪の根源だったと判明した時のような。
そんな、急性と意外性に溢れていながらも、どこかで"やっぱりな"と伏線を回収したような気持ちを────いわゆる、高揚感のようなものを、覚えてしまった。
 
「笑顔が随分と上手だけど、それは練習したの? それとも頑張ったのはあの鉄面皮の方?」
 
例えば、告白していた彼女はとんでもない悪女で、彼氏がいるのに花宮をたぶらかそうとしたんだとか。それで花宮は心を鬼にして、頑張って顔を厳しくして、彼女の申し出を切り捨てた────なんてそんな結末があるのなら、私は花宮を尊敬するんだけど。
 
「…何を見たんだい?」
「女の子があなたに告白してるとこ。それからその子の渡した手紙を、あなたがびりびりに破いてるとこ」
 
見たものを訊かれ、素直にそう答える。
すると、花宮の笑顔が少しだけ変化した。

涼しげな目元は卑しく細められ、優雅に弧を描いていた唇からは野性的な犬歯が覗いている。
花宮は歪んだ笑みで、私を見下ろしていた。
 
「見てたなら知ってるだろ、あいつ返事はいらないって言ったんだ。なら読むだけ無駄ってもんだ」

興味も、良心でさえも感じられない冷酷な口調。表情は確かに笑っているのに、寒気がするほどそこには"情"と呼べるものが感じられなかった。
こんな人間は、初めて見た。わざとクールを気取っているわけでもなく、かといって調子に乗った勘違い男というわけでもなく、ただただ本心からあの告白を羽虫にまとわりつかれた程度に疎み、追い払ったのだ。

「…返事がいるって言ったら読むの?」
「返事が変わんねえから読まない」

なんて横暴なんだろう。なんて残酷なんだろう。そしてなんて────ああ、清々しい人なんだろう。

揺らぐ気配すらない悪意の塊を見ながら、その一貫した意思を美しいと思ってしまう自分がいた。しかしそのことが、私に純粋な疑問を思い起こさせる。 
彼の仮面を剥がしたのは私かもしれないけど、それにしたってこんなに簡単に素顔を晒して良かったんだろうか。

花宮真君と言えば品行方正な優等生でみんなの人気者で有名だ、というのはあの夏の日以降に知ったこと。実際あれから廊下なんかで何度も顔を見かけたけど、いつどんな瞬間に見ても彼の笑顔は完璧で、柔和な雰囲気が崩れることなんてなかった。
現に私が彼の悪魔のような顔を見て大きく動揺したということからも、それだけ彼が普段の天使のような顔を作ることに心を砕いているのは明白。はぐらかす余地だっていくらでもあったろうに、親しいわけでも利害関係にあるわけでもない私に本心を見せる意図とは?
 
「…つーかなんだお前、勝手に首突っ込んできて説教でもするつもりか?」

黙って彼の表情を窺っていると、花宮の方から探るような問いかけが降ってきた。
説教。私が、花宮に?

「いや別に、関係ないし」
「……へえ、お前も十分冷たいじゃん」

私の答えに、花宮は嘲るような笑い声を寄越してくる。
冷たい、のだろうか。よく事情も知らず、物事の一片しか見ていない分際で説教をすることが道徳的だとは、私にはとても思えないのだが。

「無差別な優しさはただの押し売りだし…それに私、あなたみたいに裏の顔とかもないから…」
 
そう、だからこれは私にとっては、変な正義心を発揮する必要がないと判断したという、ただそれだけのこと。
しかし花宮にとっては少しそれが癪だったらしい。不愉快そうに鼻を鳴らして、私のことを改めて睨みつけた。
 
「…別に言いふらしても良いんだぜ、俺のこと」
「えー、それこそ何されるかわかんないから良い…」
「ふは、んなみみっちいことするかよバァカ。言ったとこで普段の俺から想像もできないこんな顔、誰も信じねえってだけだよ」

成程。それは確かに道理かもしれない。私だってきっと自分の目で見ていなかったら、誰かから「実は花宮君って性格悪いらしいよ」と言われたところで「お、妬みで嘘の噂でも流し出したか?」程度にしか思わなかっただろう。

だからあっさり私の前で本性を現してみせたんだろうか。下手に取り繕って「あれはなんだったんだろう…」とモヤモヤした気持ちをずっと抱かせるより、いっそ仮面なんて取り去ってしまった上で"言いふらしても無駄なのだ"ということを理解させた方が、彼にとっての障害発生リスクも低下することだろう。おまけにあまり頭の足りない相手であれば「彼の本当の顔を知っているのは私だけ…」なんていう変な心酔者だって生まれてくれるかもしれないし。

「賢いのは見た目通りなんだね。あなたのその面白い二重人格のことは、誰か他に知ってるの?」
「それを知ってどうする」
「私があなたの嘘に合わせなくて良い相手はいるのかなって思ったから」
 
花宮自身がそんなスタンスなら、きっと私の他にも知っている人はそれなりにいそうだ。だったら何かが変わるのかと言われればそういうわけではないのかもしれないけど、その時の私は、それこそ秘密を共有する仲間ができるみたいな気持ちだったのかもしれない。
そう、私は花宮の徹底された二重人格を"他人の面白い秘密"くらいにしか考えていなかったのだ。
 
私のそんなのらくらとした言葉に、花宮は若干驚いたような顔をしていた。
今思えば、彼はもっと恐れてほしかったのかもしれない。逃げて二度と関わらないか、あるいは無意味に立ち向かって使い潰されるか…とにかく何らかの形で花宮に利益をもたらす行動をとることを、彼はきっと期待していたんだろう。恐怖も敵意もなく、まるでこれからも友人として付き合っていこうとしているように聞こえる私の言葉は(そんなつもりなどなかったが)、きっと彼にとって奇妙に映ったに違いない。

「…なんか変なこと言った?」
「お前、まだ俺に何か突っかかる気か?」
「いや…突っかかるというか基本的に関わるつもりはないけど…。でも夏といい今日といいどっちも偶然関わりが発生したじゃん? あと1年学校にいるなら今後もそういうことあるかもしれないし」

今度会った時に、花宮の本性を知っている人しかその場にいなければ、変な気を遣うこともなく楽に喋れるんじゃないだろうか。私が。
そういう意味で私の提案は(当時の私基準では)合理的なものだったのだが、花宮は相変わらず魂を抜かれたような顔をして私を見つめていた。

「………なんつーか、お前バカだな」

…失礼な。そう頭では思いつつ、この賢い人の前では確かに私なんてバカ以外の何者でもないのかもしれない、とも思った。
それならバカついでに、もう1つ訊いても良いだろうか。

「…ねえ、花宮」
「なんだよ」
「なんでそんなことしてるの?」

言葉が足りないと怒られても仕方ないような私の質問は、それでもこの賢い男には十分だったらしい。花宮は少しだけ鬱陶しそうな顔をして私を睨み、それから意味もなく空なんて仰いでみせた。

なんでそんなことしてるの────。
人間誰しも、暗い本音や醜い感情はそれなりに隠して生きていくとは思っている。しかし花宮のそれは、もはやそんな人間の基準値なんてとうに超えるほどの悪意に見えたのだ。あの女子の手紙を破いていた時だってそう、今私と対峙している時ですらそう、目の前の生き物を全て価値のないものと蔑み、自分の命ですら浪費対象でしかないと考えているような、底なしの闇を抱えているように。
そこまで突き抜けた闇はもはや隠すべき人の汚点などという生易しいものではなく、彼の確立した"個性"となりうる。人を愛せない人。人に価値を見出せない人。そういった名のついた個性となってしまえば、もはやその毒は隠す必要なんてないんじゃなかろうか。

それなのに彼は、普通隠し通せやしないはずの闇を完全に美しい絹のヴェールで覆って、さも楽しそうな顔をして生きている。誰よりも優しく、誰よりも愛に溢れ、誰よりも人として完成された人間として逆方向の個性を確立しているのだ。
人よりずっと黒い感情を、人よりずっと白い皮で隠している────そんな極端な処世術を、それこそを、彼は無意味だとは思わなかったのだろうか。

難しい理屈を並べてはみたものの、要は「そんな突き抜けた悪人顔してるんならいっそそういうキャラ立ちさせれば良いじゃん、なんでそんなめんどくさそうなことしてんの?」である。
バカついでに尋ねたそんなバカな疑問は、バカには到底やる気の起きない二重人格生活を送る天才への、素朴な疑問だった。
 
「────ただ何も考えず思うままに生きるより、自分の思う通りに世界を動かす方がよっぽど楽だろ」

一蹴されるかとも思ったが、花宮は思いのほか親切に答えてくれた。

「教えておいてやる、藤枝。俺は信頼だの努力だの未来だの────そういう盲目的に浮かれきった偽善心が何よりも嫌いだ。だが不幸なことに、世界はそんな胸糞悪いモンこそが正義とされている。だから俺は正義を演じるんだよ。俺が嫌うものを潰しても俺自身が潰されないように。俺が嫌うものを壊しても、俺自身は笑って生きられるように」

…そしてその答えは、思ったより歪んでいた。歪んでいるけど、一直線にまっすぐな信念。
成程そんな考えは確かに大方の人には受け入れられないだろう。自分の欲望を忠実に叶えるとどうしても最後には自身が破滅することを、この賢い人は知っている。だから自分が破滅せずに欲望を叶える方法を、彼は探した。探した結果が、それだった。

自分の嫌いなキラキラしたものを身につけて、キラキラした顔をして生きていく。
その裏で、そんなキラキラしたものを片っ端から台無しにしていく。

訊いてみて良かった。彼の考えは、想像以上に凡人には理解しがたいものだったのだ。
その善悪を判断する資格は相変わらずないのでコメントは控えておいたが……ただ、そこまで徹底して自分のしたいこととすべきことを区別し、どちらも実行できる才能は素直に羨ましいと思った。
 
「ま、今日のことは俺の失態だった。今後のことはお前の好きに任せるよ」
 
私が何も言う気がないと悟ったか、最後にそう言って花宮は去って行った。
…任せるも何も、最初から私は言いふらす気などないと言っているのに。
 
しかし花宮はそんな私の意思など知らない。言わないと言ったところで当然それが本心かはわからないので─────まぁ要は、その後私はマークされていた。私の好きに任せるなんて最後まで出任せも良いところ、最初から花宮は私を放置するつもりなどなかったのである。
 
もちろんあの花宮のことだから、表立って絡まれたりなどしない。ただ、行く先々でなんとなく、動向を探られているのは感じていた。
 
対する私も私で、花宮のことはそれなりに気にかけていた。あれから裏の顔がひょっこり覗いたりしないか、あるいは何か私に復讐しようとしたりはしていないか、と思いながら過ごしていたのだが――――彼の猫被りっぷりはそれはもう見事なものだったのだ。あれでは誰も彼の裏の顔など疑わない。疑いようがない。
しかし私はそれに感心すると同時に、居心地の悪さを感じていた。彼のその顔が演技と一度わかってしまってから、それが完璧であることを実感する度に寒気が走るのだ。気持ち悪い。あの嘘の笑顔の下でちろちろと覗く真っ赤な蛇のような舌が何を呟いているかを、無意識に考えてしまう。
 
そんなことを考えていたとある日、私は遂に花宮から、放課後の誰もいない教室に呼び出されてしまった。
おそらく私が彼のことを探っていたのなんて、彼からしたら筒抜けも良いところだったんだろう。道理で彼の姿をよく見るなあとか、彼と仲の良い生徒と話す機会が増えたなあとか、そんな所感を持ったわけだ。私が花宮を探る為に利用していたそれらの要因なんてどうせ全て、最初から何もかもを察していた彼がそうさせてくれていただけに過ぎないんだから。
 
「俺のこと追いかけんならもっとうまくやれねーの? 目障りなんだよ」

開口一番から花宮は仮面など剥ぎ捨ててきてくれた。そのお陰で私の張っていた気も緩み、肩をすくめながら言い返すだけの余裕も戻ってくる。

「────うまいやり方教えてよ。私のことも見張ってるくせに」
 
もちろん、見張られているという指摘だって確信や証拠があって言ったわけじゃない。ただ、なんとなく、花宮を見ているうちに…いや見せてもらっているうちに、探られているなと逆に悟っただけのことだ。
例えば私が花宮を見張ることができた原因となった"花宮の姿をよく見ること"だって、"花宮と仲の良い子が話しかけてくるようになったこと"だって、逆に言えば彼が私を見張っていたからこそ可能になったこと。他にも、例えば花宮のことを殊に気に入っていた先生が最近私のことも気に入っているようだ、とか、私と同じ小学校から上がってきた何人かの女の子と続けて付き合っていたらしい、とか、そういう私には利用しきれないような些細な変化だってあった。
 
「…俺の周りをうろつかれると、気になんだろ」
 
────しかし私の追求に答えず、花宮が言ったのは思いがけないそんな台詞。意味がわからず、私は眉をひそめて彼のことを見返す。
 
「…どういう意味?」

花宮は苛立った様子で頭を掻いた。それからもったいぶって息を吸い────

「っあー、認めたくないけど、お前のことが好きなんだよ」
 
突然、告白された。
あまりにも脈絡がなさすぎて、私は完全に固まってしまう。
 
え? 花宮が私のことを、好き?
いやそう来るとはさすがに思っていなかった…。
 
「半年前からずっと気になってた奴に本性知られて、嫌われたかと思えば目の端でうろちょろしてるし…でも俺はお前のこと…好きになった奴にこれ以上失望されたくねえんだよ。頼むから、あんまり俺に近づかないでくれ」
「…じゃあもしかして、私のことを見張ってたのは……」
「……見張ってたんじゃなくて、無意識に目で追っちまってたんだよ! 悪いか!」
 
吹っ切れたとでも言わんばかりに大きな声を出す花宮。
私はといえば、彼の言い分を聞いて──────
 
「………嘘だ」
 
十分冷静な判断を下せるくらいには、驚きから立ち直っていた。
 
「う、嘘なわけあるかよ、こんな勇気出して言ったのに────」
 
まあ、このくらいでは動じないか。
でも私は、花宮が私のことを好きになるはずがないと、わかっていた。
 
「花宮さ、私のこと好きとか言いながら他の女の子と付き合……引っかけてたよね」
 
同じ小学校の子と付き合ってた────と言いかけて思い留まり、言い直す。あれは付き合っていたなんてものじゃない、ただ引っかけてただけだ。
 
「…それは、お前のことを忘れたくて………」
「ん、じゃああんまり賢くない子を狙ってたのは私に似てるとでも思ってたのかな」
「……悪いかよ」
「ううん違うよね、私の情報が欲しかったんだよね」
 
だってそうじゃなかったら、本当に半年前から気になっていたという私の存在を忘れる為に他の女と付き合ってたなら、あの集積場の前で告白した子のことも振ったりしないはず。
 
「私のこと、気になってたっていうのはなんで?」
「それは…初めて見た時に…気づいたら……」
「先輩と一緒に部活中お邪魔した時? でもこないだ集積場の前で会う時まで、私、花宮の存在を今みたいには感じてなかった」
「それはお前が俺のこと気にしてなかったからだろ。俺がお前を見張ってるとお前が気づいたのは、あくまでお前が俺のことを意識していたからだ」
 
うーん…やっぱり賢い人は違うな。私の直感的な言い訳じゃ歯が立たない。
でも、だからこそ、そんな頭の良い人が、私のような人間を初めて見た時から好きだったなんて戯れ言は口にしないと思っていた。まして彼は性格の悪さが一級品の悪魔。一目惚れなんてしているようじゃ、悪魔は務まらないんじゃないかと思う。
 
「じゃあ何、私のことが好きで? それであなたは────付き合いたいとでも言うの?」
「そんなことは望んでねえよ。…ただ、お前が俺を意識してくれる可能性があるなら……」
 
付き合って、近くで観察しつつ、利用してポイ…かな。
 
これは下手したら弱みを握られるよりも傷つくな。というか私はかなりバカにされているらしい。そりゃあこの人よりはバカだけど。
 
「意識する可能性なんてないし、迷惑なのはこっちも一緒だからもう探らないでください、お互い縁を切りましょう………って言ったら?」
「…………………従う」
 
これも多分嘘。彼はそのわかりにくすぎる偵察を続けるし、その偵察が続いていると私がわかれば(つまり、わかるほどに私も彼のことを気にかけてしまえば)契約違反だとまた怒られるのかな。
 
どうやら私があの日つついた藪からは、蛇なんて可愛いものじゃなくキングコブラが出てきてしまったようだ。予想以上に厄介だ。
 
「…じゃあ良いよ、付き合おう」
 
―――だから結局私がその時そう言ったのは、多分こちらも引けなくなっていたからなんだと思う。そのくらい単純な理由だったはず。
花宮は驚いていた。いや、驚いた顔を作っていた。
 
私にあった選択肢は2つ。
1に花宮と付き合う。
2に花宮の言う通り彼を探るのをやめ、知らない間に私の情報を与える。
 
それだったら形だけでも付き合って、彼に弱みを握らせない大義名分だけでも欲しいと思った。賢い彼を出し抜くなんてとてもできなさそうだけど、黙って探られるだけよりはましなはずだ。
 
「え…今なんて…………」
「私は花宮の気持ちは嘘だと思ってる。でも、本当だって言うなら信じさせてほしい。私も、あなたのことは気になるから」
 
私のそれは嘘ではないけど、"気になる"の意味は多分花宮とは全然違う。
 
花宮のむず痒い表の顔と裏の顔の落差は見ていて面白いと思うし、何なら彼の一貫した思考回路にはある種憧れの念さえ覚えている。
ただ面白半分に知った秘密のせいで利用されるのは御免だ。部外者として見ているうちは彼の行動の善悪を断ずることなど決してなくとも、それが自分の身に降りかかるなら話は別。彼が私を傷つけたとしたら、それは私にとって明確な"悪"となるのだから。

どうしたって向こうが放っておいてくれないというのなら、自衛くらいはさせてもらいたい。
 
────そんな、お互いに邪な気持ちを抱えたままに、私達は付き合い始めた。
歪に付き合っていたのは約1年。彼女らしく彼の試合を応援に行ったり、たまには一緒に出かけたりもした。

しかし私は平然とした顔をして恋人ごっこをしながらも、彼が自分のことを好きだと信じるどころか、ますます自分は利用されるために付き合っているだけなのだと思い知っていく。
私の立場なんて所詮、部活における敵校を偵察したり、学校内外で彼を良く思わない人物を把握したりと、彼の人生のレールを快適に整備する為の雇われ職員に過ぎない。
 
花宮は1年をかけて本性を現しながら演技をするというとても器用な真似をして私に愛を囁いてきたが、どんな労力も虚しく、何をされたところで私には響かなかった。私に気持ちがないことなんて、彼の行動を見れば明らかなのだから。
だから私は花宮と手を繋ぐことすら許さなかった。ただ対面して、話すだけ。
 
そんな中身のない1年をかけて何か得たものがあるとするならば、彼はやはり性格が歪んでいるなという再認識くらい。 
日常生活において、彼の嫌いな"きらきらしたもの"はなかなか可視化されない。だから、付き合う前から彼の歪みを感じていたとはいえ、それは"そういう考え方をする人もいるのか"という根拠のない抽象的な認識でしかなかった。

────それが可視化され、私の彼への正しい認識が生まれたのが、付き合って1ヶ月くらい経つ頃、彼のバスケの試合を見に行った時だった。

発達途上にある少年達が、目の前のボールを追いかけ、隣にいる仲間と協力し、1つの勝利へと向かって全力で駆け抜けていく────その場にあるのは夢や希望、友情だの努力だの────どこをとっても花宮の嫌いなものばかり。

花宮は、そんな青少年達を潰すことに力を注いでいた。
可哀想な人。技術も頭脳も卓越しているのに、それを仲間の為でも自分の為でもなく、何の関係もない赤の他人の不幸の為だけに行使しているんだから。
 
もちろん私は、最初はそんな現実を見せつけられてもただ無感情に彼のスタイルを傍観していた。人の生きざまになんて干渉しない。好きなようにやったら良いと思う。誰かの行動が私にとっての"悪"にならない限り、私がそれを責める権利などないのだから────。
しかし時が過ぎ、何度も繰り返し彼の試合を見に行くようになると、だんだん私はそのさまを悲しく思うようになっていることに気づいた。

そう、この1年で唯一得たその再認識が、私の感情をも徐々に歪めていったのだ。

人を傷つけることしかできない人。人を苦しめることしかできない人。
花宮と会う度にそんな歪な感情を見せつけられる。花宮を知る度にそんな痛みを思い知らされる。

負の感情とはえてして伝播するもの。
私はいつしかその苦しみが日常化していくのを感じていた。

────そうして、私は1年が経つ頃に、花宮と別れた。

理由は簡単なもので、そんな毎日に耐えられなかったというだけのことだった。
 
恋人の好意を信じてはいけないという自分への制約。
優秀な素質を持っていながら、誰かを不幸にすることしかできない人を見つめる悲しみ。

耐えられない。
胸が苦しい。

このまま放って、我慢ばかりして、花宮とこんな関係を続けていたら────




────────彼のことを、好きになってしまいそうだったのだ。




望んで人の人生を潰しているくせに、常に報われず苦しそうにしている花宮。
人の不幸を愉しんでいるなんて言っておきながら、彼が幸せそうにしている姿なんて見たことがない。

きっと彼は本当はバスケが好きなんだと思う。一生懸命な人のことも、尊敬しているんだと思う。
その愛の表現の仕方を、彼は知らない。暴力的な形でしか、バスケとも人とも向き合えない。

誰よりも恵まれた才能を持っていながら誰よりも恵まれない感情に苛まれる人。
どうしてこんなにも、息苦しそうにしているのだろう。どうしてこんなにも、辛そうにしているのだろう。

彼が誰かを傷つける度、そして彼がそんな本性を隠して演技を続ける度、私は胸の痛みを感じていた。気づいた時には、他の誰のことも考えられなくなっていた。

彼の好意なんて信じちゃいけない、きっとこの感情は彼によって作り出されたものだから―――でも、ああ…きっとそんなことを考え出した頃には、もう全てが手遅れだったんだろう。
好きだと一番思ってはいけない人を、好きになってしまった。
私は彼の計略通り、絆されてしまっていたのだ。
 
────ならばせめて、気づかれては、いけない。
 
そんな気持ちで、私は中学3年の冬、受験を控えたある日の夕方、花宮を家の近くの公園に呼び出した。
 
「…もう十分わかったんじゃない」
「何がだ」
「私は、花宮の歪んだ性格のこと、誰にも話したりしないよ」
 
花宮は心底わけがわからないという顔で、公園のベンチに座る私を見下ろした。確かにコーヒーを買いに行ってもらった直後にする話ではなかったかもしれない。でも、もうこれ以上、1秒だって一緒にいてはいけないと思った。
 
「それにもうすぐ卒業するし。言っても意味ないじゃん?」
「……何言ってんの、お前」
「別れよう。もう良いでしょ。秘密を守る為に花宮が私を探る必要はないし、そんなに私に利用価値があるとも思えないし、なんなら秘密をばらされないように対抗できる私の弱みもいつくか手に入れたよねきっと」
「おい、雪葉」
「嘘だらけの割には楽しかった。バカな私とバカな恋人ごっこしてくれて、ありがとう。もしまたどこかで会ったら、そうだなぁ…集積場で会った日あたりの態度でお互い話せたら、私は一番嬉しいかな」
 
一方的にまくしたてて去る。反論の機会を与えたらきっとまた、良いように言いくるめられてしまう。
 
私はそれ以降、花宮のことを卒業まで避け続けた。
花宮からは、何の連絡も来なかった。私に恋をしている設定を演じる必要がなくなったから、もう関わる必要だってないって判断したんだろう。本当に、こっちさえ切ってしまえばあっさりと消えてしまうようなご縁だったのだ。
 
でも、それで良い。
これで終わりだ。
私のこの恋なんだかなんなんだかわかんない気持ちも、終わりだ。
 
 
 
 
 
 
 
「それが、これだよ」
 
いざ高校に上がってみれば、花宮がいるもんだから驚いたのなんの。
私のお願い通り、花宮は無駄に話しかけて来ることはなかった。でもこちらがあからさまに避けることをやめたせいか、会えばそれなりに会話はするくらいの仲には戻った。
 
会って話をする花宮の顔に仮面はない。でも、私のことを好きだなんていう戯言を言ったりもしない。
文字通り、あの1年は"なかったこと"になっていたのだ。私にとって、それは何より安心できることだった。
 
しかしその一方で私はもう人を好きになるという気持ちがわからなくなっていた。花宮のことが好きだと思ったあれは、本当に花宮の書いたシナリオを演じさせられただけだったのだろうか。それとも――――少しでも、本心から彼に恋をした瞬間も、あったのだろうか。
 
今でも彼のことは思い出す。胸が痛くなり、わけもわからず涙の出るあの想いは他の人じゃ感じられない。
でも、好きになったところで利用されるだけなのに。好きになったところで私には何もできやしないのに。こんなに辛くて、バッドエンドしか予測できない感情が、"好き"なんていう幸福な感情であることがあろうか。
 
…だから私は、好きという気持ちを知りたがった。
 
誰か他の人とも向き合ってみよう。それができれば、私のあの気持ちは恋じゃなくて、花宮の演技に騙されていただけ、あるいは利用されまいとする意思の強さが生んだ執着に過ぎなかったといえる。
 
誰かのことを、好きになりたい。
花宮のことは好きじゃなかったんだと、自分に教えてやりたい。
 
――――しかしそんな虚しい願いは叶わないまま、気づけば私は高校2年生になっていた。



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