16.幸福を維持する



翌朝、片腕をギプスで固定しながら登校し朝練に現れた俺を見た部の連中は、口を開けて呆けた顔のまま驚きを伝えてきた。

「どっ……どーしたんだよ!」
「………1ヶ月でコートに戻る」

詳細を説明するのすら面倒で、それだけ答えてから練習メニューを公開する。2軍の奴らはざわめきながらもそれに従い練習を始めたが、当然黙っていないのがレギュラー連中。

「お前が誰かにやられるとは思えないし、当然道でこけるとも思えない。何があった」
「健太郎」
「あー…なに、要は…あぁ、愛の負傷」
「…健太郎」

代わりに説明させようと健太郎を呼んだら余計にややこしいことを言ってきた。案の定康次郎達は頭でも打ったんじゃないかという顔をして(間違ってはいないが)俺を不審そうに見る。

「折れた?」
「いや、皹」
「来年のIH予選には?」
「間に合う」
「んじゃいーや。お大事にー」

しかしそれだけ確認すると本当に大事ではないと踏んだのか、一哉はさっさと練習に戻って行った。最後までこちらを気遣わしげに見ていたのはヤマで、それも俺が「1年、今のメニューが終わったら同じものを倍速でもう一度!」と指示出しに入ったのを見ると、渋々自分の練習に集中し出した。

結局、そこに残ったのは健太郎一人。

「花宮」
「なんだよ、お前も早く─────」
「昨日の、藤枝が原因でしょ」
「…………」

黙って健太郎を見ると、その顔はほぼ俺の肯定を確信しているようだった。

「…世話かけたな。柏田の連中は何か言ってたか?」
「これで済んだと思うなよ、って。てかそのことでこっちからもちょっと折り入って話したいことがあるからさ、放課後一回うちのクラス来てくんね?」
「それは良いが…そんな改まることなのか?」
「少なくとも朝練の合間にチロッと話して終われる内容じゃない」
「ったく…わかったよ」

思った以上に事態は面倒なことになっていそうだ。健太郎がわざわざ放課後に、自ら出向くのではなく俺の方を呼び出すほどの何かが。
簡単に考えればその内容はまたあいつらがここへやってくる可能性の高さに目を付け対抗策を打とうとしている、辺りが最も高い。そう、これで済んだと思うなよとまで言うのなら───あいつらは本当にもう一度やってくるのだろう────今度こそ、雪葉を道連れにして。

「つーかこれでわかったろ。藤枝は花宮の毒をこれまで散々食らったんだから、ちょっと離れたところでもう意味なんかないんだよ」
「うるせえな」
「傍にいてやる気になった?」
「……バスケに支障はないんだから関係ねーだろ」
「どーだか」

肩をすくめる健太郎を睨むと、「おお怖」と言って笑いながらコートに戻って行った。

…言いたいことはわかってる。俺が調子を取り戻したのは"雪葉に危険が及ぶことはなくなった"ことを半ば確信していたからだ。その安心材料がなくなった今、俺の調子が再び転落する可能性があるっていうんだろう。それが間違っていると大声で言えないのは、現に俺が負傷しているから。

舌打ちの音は、きっと誰にも聞こえなかったことだろう。俺は仕方なく、指示出しの為だけにコートへと戻った。







放課後、HRが終了した後俺は朝言われた通り健太郎のクラスに向かった。今日に限ってうちのクラスのHRは長引いてしまい、途中通り過ぎたクラスの生徒の大半がもう既に教室を後にしているのが見えた。

まあ、ちょうど良い。面倒な話をするなら人気のないところでするのが一番だ。健太郎のクラスの方からも人の声はほとんど聞こえないし、わざわざ場所を変えずに済むのは労力的にもありがたい話だった。

「け───」

名前を呼ぼうと口を開きながら、教室後方の扉から健太郎のクラスの様子を窺う。

────その瞬間、俺は目の前に広がる光景に絶句し硬直した。

そこにいたのは、雪葉と健太郎だった。

「花宮のことなんか、忘れさせてやる。俺は藤枝を利用しないし、わけわかんねえ理由で突き放したりしない」

健太郎は、雪葉にそう囁いていた。────彼女の顔を引き寄せ、これからまさにキスでもするつもりかというほどの、至近距離で。

「ね、俺と付き合お」

健太郎の陰に隠れてしまった雪葉の表情はわからない。彼女とどういう会話をして、どういう経緯でそんな状態になっているのかわからなかったが────雷に打たれたように固まってしまった俺の元に最初に戻ってきた感情は、純粋な"怒り"だった。

どういうつもりだ。

「瀬戸」

今にも唇が触れてしまいそうだった。健太郎は一方的に雪葉の後頭部に手を添え、何のつもりか知らないが小さな"既成事実"を作ろうとしている。

そんなこと、どんなつもりだろうが許すわけねえだろ。

腹の底から唸るように出た声に、2人はぱっと反応した。健太郎の手は雪葉から離れ、呆然としたような彼女の顔がこちらに向く。

「……花宮」

彼女の声は、今にもぷつりと切れてしまいそうなか細い糸のようだった。

「あ、何、もう体大丈夫なわけ?」

朝足を引きずりながら来ていた俺の様子を見て、今ももう少し遅く来るとでも思っていたのだろうか。健太郎の視線は俺の足元に向けられている。

「…どういうつもりだテメェ」
「どうもこうも、見たまんまじゃん」

雪葉から離れろと言った後、俺は健太郎が雪葉とどう接触していたのか実はよく把握していなかった。俺自身が彼女の前に姿を現すわけにはいかないと思っていたし、何よりレギュラーの、同じチームの奴なら─────俺を差し置いてまで彼女に邪な気持ちを抱くわけがないと思い込んでいた。

─────ただ、健太郎だけならありえる。俺の思考を理解し、俺とほぼ対等にやりあえる奴。こいつなら、俺の怒りも憎しみも袖にして、自分のやりたいことを勝手にできる。

まさかそれがこんな形で現れるなんて思っていなかったが─────こいつは最初からそのつもりで、雪葉に近づくなとあいつらに言ったあの日に"特別感さえ出さなきゃ関わっても文句は言われないだろ"とわざわざ確認をとって来たのか。

「………ふざけんな」

俺のふつふつと煮えたぎる怒りに対しても、健太郎は涼しい顔を崩すことはなかった。

「てか、花宮には関係なくね? どこから見てたか知らねえけど、花宮は藤枝を捨てた、そうだろ。だったらその藤枝と俺が何をしてようが自由なはずだけど」
「それは……………」
「…否定できないだろ」

否定はできない。できないが、俺がどんな思いでその行動に出たのか、わからないほど馬鹿だとお前にだけは言わせねえよ。

「………………あのな、金輪際雪葉に近づくなって言ったのは、お前も例外じゃ───」
「花宮のそういう人権無視するとこ嫌いじゃないけど、いい加減見てて哀れだからもうやめね?」

…いい加減やめろって、それは最初からこのつもりで言ってたのか? 何度も"俺のため"であるかのように"藤枝の傍にいてやれば"と忠言してきたのは、自分が動くまでのタイムリミットでも知らせるつもりだったのか?
俺が雪葉と離れるなら、今度はお前が行くからって────そうとでも、言いたかったのか?

「ねえ…」
「良いから」

口を挟みかけた雪葉を制止したのは、健太郎だった。

「…雪葉、お前は帰れ」
「ちょっと、」
「なんでもかんでも自分の思い通りになるって本気で思ってんの? お前、そんな馬鹿だったっけ?」

情けない追撃しかできない俺の心を見透かすように、健太郎の馬鹿にしたような嘲笑が返ってくる。

「待って花宮、全然意味わかんない、なんで────」

完全に蚊帳の外に追い出された雪葉は戸惑っているようだった。火花を散らす俺達の間で暫し言い淀んだ後、

「………わかった。もう良い、帰る」

そう言って、俯いたまま教室を出てしまった。

「藤枝!」

彼女を止めようとして声を上げたのも、健太郎。

「行かせねえよ」

立ち上がった健太郎に尚も威嚇するようにそう言うと、思いの外健太郎は素直に座り直した。

「…どういうつもりか、最初から説明しろ」
「花宮こそ、もう少し頭冷やしてから考え直しなよ」
「お前、この期に及んでまだそんなこと────」
「花宮、離れたのは藤枝の為なのと同時に自分の為でもあるみたいなこと言ってたけど、そもそも花宮の幸せの為にすらなってないんだよね」

お前がいなくなったところで、その後ろには俺がいるだけなんだよ、とでも聞こえてくるようだった。
こいつのこの言い方じゃ、"雪葉から俺を引き離せば、雪葉は安全に一人になってくれる"と思い込んでいた、俺の前提がそもそも間違っているのだと言わんばかりだ。

「世界はお前が思ってる以上にお前の思い通りになんてなってくれないよ。そんなの、お前ならとっくの昔にわかってたと思ってたけど」
「っ………」
「てか良いの? 今あいつのこと一人にして。なんか校門前に他校の奴らいるぜ」

言葉を失っている俺をよそに────窓から外の様子を見た健太郎は、ふと他人事のようにそう言った。

「────は!?」

ついでのように言いやがったが今、こいつは自分がとんでもないことを言っているとわからないのか!?
急いで俺も窓辺に駆け寄り、外を見る。教室から見える校門前には────見間違えようもない、昨日俺を襲ってきた柏田の奴らが性懲りもなく"誰か"を待っていた。
そしてその状況を脳内で整理するより早く、雪葉の姿が見える。校門前に待機しているのが俺に用のある人間だと知ってか知らずか────歩調を緩めることすらせず、まっすぐそちらの方へ向かってしまう。

俺は思わず一瞬健太郎の顔を見た。そこにはいつも通り静かで、周りの何もかもに無関心な涼し気な表情があるだけだった。

行か、ねえのか?

ついそう言いかけて、呑み込む。
────何馬鹿なことを考えてるんだ、俺は。

こいつがどうとか、今はそんなことどうでも良いだろうが。
こいつの挙動が俺の想定を超えてきたところで、目の前にある事実はそれとは無関係だ。今俺が優先度を上げて処理しなければならないのは間違いなく、動かない健太郎より動いてる雪葉と柏田の方だ。

俺は本物の馬鹿か。

「っ…お前、後でじっくり話聞いてやるからな!」

負け犬のような言葉になってしまったことに情けなさを覚えながらも、俺は必死で感情を切り替えた。今怒りを向けるべきはこいつじゃない。ましてや俺自身でもない。
たとえ守れないのだとわかっていても、離れないといけないのだとわかっていても、目の前でみすみす傷つく雪葉を見逃すことだけは────それだけは、決してやってはいけない。

「最後のチャンスだと思うよ、自分の幸せが何なのか、藤枝の幸せが何なのか、もう一度考えなよ」

痛む足を無理やり動かして教室を飛び出す俺の背に、健太郎の────今度こそ最後の忠告が、降ってきた。

────あいつは、全く動く素振りを見せなかった。最後まで、バタバタと藻掻く俺の無様な姿を、淵の外から眺めているだけだった。



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