9.幸福を突き放す
簡単に導ける選択肢は4つだ。
冷静に、その場に立ち止まり状況を整理する。
はぐれたか、化粧室へ行ったか、突然昔の友人に会ったか、――――何かに巻き込まれたか。
第一にはぐれた場合。
いやそもそもこんな場所ではぐれるという状況がありえない。ここは毎日通っている道、しかも駅前だ。確かに人は多いが、流されたり埋もれたりするほどではない。同じように立ち止まって探している人間がいればまずわかる。…だが念の為、雪葉の携帯に電話をしてみた。
第二に化粧室へ行った場合、ないし第三に昔の友人に会った場合。
それなら彼女はそうすると確実に俺の元へ一言連絡してくるはず。自由な奴とはいえ突然いなくなった時に俺がどう思うかわからないような人間ではない。…だが念の為、雪葉の携帯に電話をしてみた。
「…出ねぇ」
となると、最後の選択肢。
何かに巻き込まれた――――?
その後も何度か電話をかけてみるが、音沙汰なし。
本格的に嫌な予感がして、それでもあくまで動じることなく頭を働かせる。
どういうことだ。突然雪葉の姿が消え、連絡すら取れない状態ということは。
どれだけ緊急度の高い理由であっても、彼女自身の意思でそこを離れたならば必ず彼女は俺に連絡を寄越してくる。それがないならば、即ちそれは"彼女は連絡すらできない状況"に追い込まれているということ。
これがどういうことか。
彼女は今、自由を奪われているということになる。
端的に言えば、誘拐の類か。でも、こんな人目に付きやすいところで、一体誰に?
これが単純な無差別犯罪に巻き込まれたものとして――――いや、これだけの人ごみの中だ。路地裏に差し掛かっていたわけでも、一人でひ弱そうに歩いていたわけでもない。もっと狙いやすい奴はたくさんいるだろう。
それよりは、雪葉という人間に絞って狙いを定めたと考える方がまだ理屈が通る。
なぜか。
そうだ、先日―――井口南の奴らは、俺が彼女と2人で歩いているところを見たじゃないか。しかもあいつらはまだ、俺への恨みを燻らせているはず。
「…チッ」
もしこれで井口南に彼女がいなかったら?
他の学校か、あるいはもっと別の可能性を考えなければならなくなる。その時は最悪、警察へ行く選択肢も入れるべきだろう。
だがまずは、駅から離れ井口南の方角へと足を向ける。そこらの人目につかないような暗がりへ連れ込んでいる可能性もある…が、それにしたってあいつらは学生。そんなところよりもっと安全な場所を、奴らは知っている。そう、自分達の学校だ。
一旦脅してしまえば連れて行くのは簡単。井口南は幸か不幸か駅からそう遠くない立地にあるので、俺を呼び出す餌にするにしろ雪葉本人に恨みを晴らすにしろとにかく何か事を起こすなら学校まで戻った方が奴らのストレスは軽減されるはず。
―――だがあくまでこれは、一番理論的に考えた場合、の話だ。
馬鹿は何をしでかすかわからないという問題はいつだって俺にとって頭痛の種だった。そもそも雪葉が連れ去られるなんてことが既に想定外の事態だったわけだが、こうなったらせめてその後だけでも俺の予想通りであってくれ、と祈りつつ、井口南へと走って行く。その間もずっと雪葉に電話をかけ続けたが、結局学校に着くまで応答はなかった。
幸いにして学校の中にはもうほとんど生徒はいないようだった。誰にも咎められることなく校門を通り、体育館へ直行する。弱小だからと偵察を怠らなくて良かった。場所はしっかり覚えている。
体育館の電気はついていた―――が、そこからは何の音も聞こえない。どこの部活も活動していないようだ…部活動、は。
扉は全て閉まっている。窓は開いているようだが高いところにあるので、中が覗けない。
しかし、近くまで来てみれば体育館の扉に僅かな隙間が開いているのを見つけることができた。
息を潜めて耳をそばだてると――――声が、聞こえた。
会話の内容までは生憎わからないが、男女の声が聞こえる。そして時折聞こえる反抗的な女の声は―――間違えるはずもない、雪葉だ。
良かった、ここにいてくれた。それに何を言っているのかはわからないが攻撃的な彼女の喋り方からして、まだ徹底的に痛めつけられたというわけではないらしい。反抗するだけの余裕と自由はあるわけだ。
そういうことなら、もはやこれ以上時間を無駄にする理由はない。
閉まった扉に手を掛けて、開けようとした瞬間…
手の中の携帯が、着信を知らせてきた。
「!」
表示を見ると、雪葉から。
なるほど、あいつは単に囮に使われただけで、俺が本命だったということか。何にせよあいつ自身に恨みの感情をぶつけられたわけじゃないのなら良かった、と思いつつ、扉を開きながら応答する。
「…………あ、花宮君? 今どこー?」
……つくづく、頭の悪い奴。
俺が既に目の前にいるとも知らずに、有利を確信している余裕そうな声。
「…………花宮君、今ここぉ」
返事をしながら扉を開けて中の様子を視認する。そこにいたのは先日駅前で絡んできた3人と、雪葉。
雪葉は横向きに転がされている。目に見える怪我はないが、自分から転がったわけではないだろう。多少の暴力は加えられたか。
…俺の、せいで。
「……はなみや………」
「えっ、嘘花宮もう来たのかよ!」
「はや、つかきも! 特定して来たわけ!?」
「んだよ、やっぱカノジョ助けに来んじゃん」
頭の悪い奴らが頭の悪そうなことを喚いている。
だが、俺の頭の中に意味のある言葉は流れてこない。全てが雑音に聞こえた。
今、目に入るのは雪葉だけ。脳が処理する情報は、雪葉が傷つけられたということだけ。そして傷つけた元凶は――――俺自身、ということだけ。
「まぁ待ち時間が省けてちょーど良かったわ、彼女を痛い目に遭わされたくなかったら――――」
何かを言いかけた雪葉の一番近くにいた男を、間髪入れずに殴り飛ばす。
「がっ…!?」
男は前回俺が手出しをしなかったことから今回も反撃らしい反撃をするとまで思っていなかったのだろう、完全に不意打ちを食らった人間の顔をして床にばたりと倒れこんだ。
バカだな、お前ら。
俺への恨みはよく理解してるし、試合ならいつでも受けて立つ。ただコート外では例外だ。ましてギャラリーに危害を加えるってんなら俺も"見えないラフプレー"に興じる気はねぇんだよ。
残りの奴らは倒されたその一人を見て、一瞬怯む様子を見せた後一斉に向かってきた。だがもはや、そんな遅すぎる行動を待つ気はない。真っ向から受ける気も、ない。
一人一人、確実に潰していく。
面目もリスクも関係ない。俺は久しぶりに、純粋な怒りというものを感じていた。
それは目の前にいる奴らにというより――――自分自身に対するものだと、無意識には理解していたのだが。それから目を逸らして、あたかもこいつらだけが悪いのだとでも言うように、一方的な暴力を振るう。
「うっ…も…やめ……ッ」
「ごめ……なさ…」
やられた奴らのプライドなどもはやあってないようなもの。
誰も、もう歯向かっては来なかった。冷たい体育館の床に伸びて、息絶え絶えに降参する。ただそれを見たところで何も感情は動かなかった。満足も、安堵も、更なる苛立ちすらもない。ただただ、虚無感だけが俺を支配していた。
俺は雪葉の前に跪くと、彼女の手足を縛る縄を解いた。…縛り跡が、残ってしまっている。
「花宮…」
雪葉が不安げに俺の名前を呼んだが、それには一切応えず彼女の手を引いて体育館を後にする。
男どもはもう何も言ってこなかった。あるいは、もう何も言えない状況になっていた。
「ね、どこに行くの…?」
問われても、答えない。
向かったのは、更に駅から遠ざかる方向にある、学校の裏手の小さな公園。夕方の寒い時間とあって子供すらいないその公園のベンチに、雪葉を座らせる。
「ちょっと、何なの?」
雪葉は道中何度か「ごめん」と「ありがとう」を繰り返していたが、俺はここに来るまで一言も口を開かなかった。そのことが、彼女の神経をそれなりに擦り減らしたらしい。戸惑いと若干の不満を混ぜたような声で、俺がどういうつもりでいるのかと尋ねられる。
「怪我したのはどこだ」
――――口を開けば、余計なことが漏れそうだったから。
彼女の声に応えてしまえば、俺がどれだけ焦っていたか、心配したか、そしてもっと早くにこの事態を予測しなかったことを後悔したか…全てバレてしまいそうだったから、俺は必要最低限のこと以外は絶対に言わなかった。
「今見えてるところくらい」
雪葉は一旦不満げな表情を引っ込め、俺の一方的な問いかけには慣れているといった様子で制服の袖を少し捲ってみせた。
手首の縛り跡。頬も少し腫れている。足首は靴下で見えないが同じように跡がついている可能性はある。縛られたところは擦れていて、血が滲んでいた。
鞄の中から消毒液とガーゼを出し、雪葉の手首に静かに当てる。縄は十中八九綺麗なものなどではないし、血が出てしまっている以上菌が入っている可能性があった。
「っ………」
手首に触れた瞬間、雪葉が小さく顔を歪めた。染みるだろう。痛いだろう。
俺のせいで、こんな要らない苦痛を味わわされて。
「我慢しろ」
「…用意、良いんだね」
「………」
「あの、助けてもらって…ごめん」
細い手首。こんなの、少し力を入れたらすぐに折れてしまう。
他の部分だってそうだ。あんな風に無造作に転がされて、固い床に頭を打ちつけられて―――
「……他には?」
「え?」
「他に、何かされてねぇか」
「う、うん…特には」
もしあれが無理やり乱暴に倒されたなら、肩や腰も打っているんじゃないだろうか。
「…花宮、あの…迷惑かけてごめん、来てくれてありがとう。私、これからもう少し強くなって花宮に頼らなくてもこういうの対処できるようになるから――――」
安心させるように言う雪葉の力強い声が、逆に俺を苛む。
誰だよ、傍にいれば守れるなんて甘ったれたことを言ったのは。
明日も明後日も隣にいられるなんて気持ち悪い未来を描いたのは。
どれだけ夢を見たところで結局これだ。俺がいるせいで、俺がいたところで、こいつは最後には俺のせいで傷つく。
誰かの悪意を肩代わりして俺がこいつを傷つける分には大丈夫だって思ってた。俺を最初から敵だと思っているこいつは、誰よりも俺に対する耐性があるからと――――そう、嵩を括っていた。
バカなのか、俺は? こいつに向けられた悪意を自分で背負うことで精一杯で、他でもない俺自身に向けられた悪意をこいつに逸らしてしまうなどという最も愚かしい行為を見逃してしまった。
「もう良い」
だからその時雪葉の言葉を遮ったのは、ほぼ反射でのことだった。
なぜもっとこの問題に早く向き合わなかった。単純すぎて考える価値もないと勝手に判断していたのか。
この間駅前で絡まれた時から一考すべきとは認識していたはずだ。俺個人の問題に彼女自身まで巻き込んではならないと、あの時確かに自覚したはずだ。
それなのに俺は、この問題を先延ばしにしていた。彼女を守れるだなんて根拠のない傲慢な過信を徹底的に疑おうとまではしなかった。
――――それはきっと、自分の中では自分が一番卑劣な人間だと思っていたから。
自分だったら、コートの外には争いを持ち出さないから。ムカつく相手がいたとして、そいつ自身を自分の手で潰すことだけを考えているから。
だから――――ああいや、もはやこうなっては全てが言い訳だ。
俺じゃこいつは守れない。こいつを傷つけるのは俺だけじゃ済まない。
やり直せない。隣にいられない。
まともな人間の幸せを願うことの分不相応さに気づくというたったそれだけのことのために、雪葉をこんなにも危険な目に遭わせてしまった。
幸せのごっこ遊びに付き合わせて不幸にさせるのは、これで二回目だ。一度目で不幸というもののなんたるかを知ったはずなのに、性懲りもなくまた彼女を幸せから遠ざけてしまった。
もう遅いのはわかっている。
でももう、目の前のこれが答えだ。
「な…何、突然」
雪葉は俺の自分に向けた怒りを彼女へ向けた怒りだとでも思ったのだろうか、戸惑いを露わにしその真意を尋ねた。
ああ――――もっと、うまくやっていれば。
こいつにこんな顔をさせることだって、なかったのに。
「別に突然じゃねえよ。ずっと機会を窺ってた」
いけないことだったんだ。やり直そうなんて、そう思うことがそもそも許されないことだったんだ。
当たり前すぎる事実に取り返せないところまできてようやく気付いた憤りから、思った以上にその場しのぎの嘘はすらすらと口から出てきてくれた。
「ったく…ちょっとは利用価値があるかと思って傍に置いてみれば、何を勘違いしたんだか彼女面しやがって…。最終的に他校の奴にカモられて面倒事しか持ち込まねえときたんじゃ、もういよいよお前を使う意味はねえだろ」
悪童が聞いて呆れる。そもそも自分という人間が存在するだけで周りを傷つけるというそんな簡単なことにすら、気づかなかったなんて。あらゆる可能性を片端から潰し、最終的にどう足掻いても自分の思い通りにしかならないシナリオを作る――――それが俺の得意技だったはずなのに。
どうして、そこまでして一緒にいたがったんだ。
どうして、そんな当たり前のことから目を逸らしていたんだ。
そうだ、最初から身の程を知らない理想だったわけだ。
この俺が、他人を傷つけることしかできない俺が、
「もうお前、いらねえから」
誰かを幸せにしたいなんて、そう思うこと自体がもう彼女にとっての不幸でしかなかったというのに。
「な…んで、そんな」
「二度も言わせんなよ。馴れ馴れしくしてくんのがウザいし、今後もお前のせいで厄介なことばっか起きそうだからもう今のうちに切るってだけだ」
「で、でも、最初に近づいてきたのは花宮の方じゃ…」
「バァカ、さっき言ったろ、少しは利用価値があると思ってたって。中学の時と同じだよ、俺が生きやすくなるような使い勝手の良い人間を探してた時にちょうどお前がいたから――――…なのに、期待外れも良いとこだわ」
こいつとの関係なら、中学の時の同級生って大義名分があったから楽だっただとか、俺の言動をドライに割り切ってくるところは素直に評価してただとか、彼女を傷つけるお決まりの鋭利な偽りの言葉は皮肉なほどたっぷり溢れ出てきた。
「…それにしては、随分思わせぶりだったんじゃない? 面倒だってそんな嫌そうな顔をするくらいなら、最初から私とはそれなりの距離をとって接すれば良かった。違う?」
そんな時でさえ、よく考えるこの女の言うことは正論だ。
俺のその場凌ぎの言葉の矛盾を正確に突いてくる。そんなところがまた好きだと思ってしまう自分に、心底嫌気が差す。
これを言ってしまえば、二度と本当に今まで通りの関係に戻すことはできないとわかっていた。
でも、"今まで通り"じゃやっていられないと気づいた時点で、俺にはもう選択肢など残っていなかった。
「そりゃ、お前を試してたからな」
つまり、この幸せのごっこ遊びが全て本当に"ただのゲーム"だったのだと…本音を隠すためについた嘘を本物にしてしまうしかなかった。
雪葉の気を引くことがスタート、俺の優秀な駒になることがゴール。
気のあるふりをしてみせたのは、その過程におけるハードル要素に過ぎない。仮に雪葉それに引っかかって面倒な女に成り下がったらゲームオーバー。
要領は簡単だ。その奥底にあった本当の願いなんて、今更言えるわけがない。
そう。
そのゲームの始まりは、全ての過ちの始まりでしかなかった。
好きだなんて慣れない感情を持つからこうなった。誰かを壊すことしかできない俺に許される感情ではなかった。
策に絡められていたのは、俺の方だ。
「…じゃあ、助けに来たりなんてしないでよ…」
「さっきお前を助けたのは…お前を助けたっつーより、俺を助けたって言った方が正しいんだけどな。試合中のトラブルならどうとでも言い訳できても、一見無関係のお前が俺のせいで犯罪に巻き込まれたなんて広まったら後々厄介だろ。俺の手の中に収まるうちに事態を把握して対処して、後で俺自身が困ることのないように整えておく必要がある。だから俺が自ら出向いてあいつらを潰した。その結果としてお前を助けることと同義になった、ってだけのことだ」
ほら、俺を恨め。軽蔑しろ。傍にいるなんて二度と言うな。
「この間屋上でお前が俺に抵抗するのを諦めたって言い出した時からどうしてやろうかとは思ってたんだけどな。今日のではっきりわかったわ、お前はもはや俺にとって面倒な存在でしかない」
身を切るような嘘を、どうか無駄にしないでくれ。
俺に誰かを傷つけることしか許されていないのだとしたら、このただ一度だけはどうか傷ついてくれ。
「意思持つ信者は厄介なだけだ。二度と俺の前に現れるな」
らしくないとは、最初から思っていた。
それでも自分の恐ろしいほどに愚かしい我儘を、妄信していた。
でも、それとももうお別れだ。
俺は初めて抱いた恋情という感情に、3年近く引きずってきたこの執念深い感情に、やっと蓋をする覚悟を決めた。
「ま、待って、花宮」
半年前に、あの駅のホームで会ったりしなければ良かった。
変な気を起こしてキスなんてしなければ良かった。
「………わっ…私は!!! あなたの全てが嘘だと言われても…私は、何も変わらないから!!」
後ろから雪葉の悲痛な叫び声が聞こえてくるが、一切立ち止まらず俺は彼女を置き去りにした。
そうだ、俺達は何も変わらないんだよ。
変えられないから、一緒にいられないんだよ。
悪かったな、今までずっと。
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