5.幸福を解き放つ
則本を脅したあの日から、雪葉との距離が明らかに開いた。
元々彼女の方からこちらへ来ること自体が稀だったが、今はそれ以前の問題として最初から拒絶されているような空気を感じる。
まあ大事なオトモダチを1人失わされたのだから当然の反応だ、わかってはいるので無理にそこを詰めようとは思わない。
少し時間が必要だと思う…多分、互いに。
「花宮最近例の子と一緒に帰んないね。遂に愛想つかされた?」
放課後、ハンバーガーショップでバスケ部の連中とつるんでいると、一哉が何の前触れもなく面白そうにそう言った。
前々から空いた時間を雪葉のために使っていた俺の様はこいつらもよく知っていた。多分、こいつらにとっては「また花宮がなんかしようとしてる」くらいの軽い認識だったのだろう、今まで彼女と一緒にいる俺の言動について大したことを言われたことはない。
だからそんな一哉の口から雪葉の話が出るなんて珍しいことだった。
もちろん別にその質問だって沈黙を埋めるためのたいした意味もない軽口なんだろうとは思う。なのに、今の言葉は俺にとって若干皮肉を含んだ真理にすら聞こえた。愛想を尽かされた、…という表現は、もしかしたらあながち間違いではないのかもしれない。
何も知らないこいつの言い方に若干苛立ったが、返事をせずに黙々とシェイクに口をつけた。
「えーと、なんだっけ、名前」
「藤枝雪葉、だろ」
「そーそー雪葉ちゃん。花宮を唯一飼い慣らした猛者。てか瀬戸は同じクラスとか言ってなかった? 俺今だから言うけど前からめちゃ気になってたんだよね〜、どんな子?」
「うん。普通の子だよ」
「うっわ何もわかんねー」
「超絶可愛いの? それとも超絶頭良いの?」
「普通に可愛い方だし普通に頭良い方だと思うけど、別にあれくらいならその辺に転がってるじゃんって感じ」
「ますます不思議だな。そんな普通の女に花宮が執着するなんて」
他の奴らは俺を完全に置き去りにして楽しそうに話している。色々とつっこみどころはあったが、下手に口を挟む方が面倒なことになるのは目に見えていたので、尚も苛立ちを抑えながら黙っていた。
────そんなこんなで何も変わらないまま数週間が経とうかという頃のこと。
学校には何やら不穏な噂が流れ始めた。
「三好君さ、雪葉と付き合ってた時に一瞬浮気の噂が流れたじゃん? あれ、あの時のことだけじゃないらしいよ」
俺としては今更すぎる事実だったが、もう何ヶ月も前の話が蒸し返されることに対してはなんとなく嫌な予感がした。どこから漏れたのか…どうせ性懲りもなく女漁りをしていたところを誰かに見られでもしたんだろう、と思う。
三好が大人しくしていれば良いが、これを聞いて雪葉を逆恨みするようなことがあれば面倒だ─────そう思った3日後。
「健太郎、今日のミーティング前に話しときたいことがあんだけど」
3限の授業が終わった後、つい先程顧問から渡された情報を伝えるべく健太郎の…つまり雪葉の教室へ向かった。健太郎は眠そうに顔をこちらに向けたが、その近くにあるはずの雪葉の席には誰もいなかった。
「あー、来週のやつね。おっけー。でもその前に一つ報告」
「報告?」
「藤枝、さっき三好に連れてかれたよ」
さっと、血の気が引いた。
健太郎の顔が歪んだような気がしたが…違う、これは俺の視界が歪んでいるだけだ。
「なっ……ど、どこへ」
「さあ、そこまでは」
なんで止めなかったんだとか、もっと早く言えとか、そもそもそんなに冷静なのが腹立つとか、言いたいことは色々とあった。
でもそんなもの、焦りと怒りの前にたちどころに消えていく。
雪葉が三好に連れて行かれた。この、タイミングで。
…良い話なわけがない。
「っ…話は後だ」
「はいはい、行ってらー」
健太郎の声を背中に受けながら教室を飛び出す。
これは流石に想定外だった。
噂の回るスピード、三好のクズさ、雪葉の事なかれ主義……その全てを、きっと甘く見ていた俺の落ち度だ。
考えろ。どこだ。
三好が雪葉を連れて行くなら─────確実に2人きりになれるところを選ぶ。ここから一番近い、万一にでも人目につかない、こんな短い時間じゃ誰からも用のない、……………屋上か。
階段を三段飛ばしで駆け上がりながら屋上の扉の前に立つ。
則本の件で俺はあいつを傷つけた。それはあいつにとって紛れもない事実だ。だから、ここで俺が突然現れたところであいつはそれを良しとしないかもしれない。
でも。
一度、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
…ここで冷静さを失ってはいけない。もちろん感情のままに突っ走っても三好程度の男なら肉体的にも精神的にも勝てる自信はある。でも、雪葉のことと今後の自分自身のことを考えた時─────ただ腕力に頼るのは、賢い方法とはいえない。
音を立てないようにして扉を開ける。
「馬鹿で無能な女ども、付き合うなんて言葉に惑わされて、自分だけのものみたいに驕って─────…俺がお前みたいな奴だけのものになるわけないだろ!」
三好の怒鳴り声が聞こえた。
よし、ビンゴだ。
そのまま気配を殺して屋上に足を踏み出し、そっと辺りの様子を伺いながら歩を進める。
三好は、扉口の対極に見えるフェンスに向かって何やらかを叫んでいた。距離と風の音のせいで、声は途切れ途切れにしか聞こえない。
「────そこまで自分本位にしか生きていけない下種の望みなんて何も叶うわけがないだろう!」
俺が移動する気配は、激昂している三好にはわからなかったらしい。フェンス沿いに歩いて近づくにつれ、全貌が明らかになっていく。
「──────!」
声を出すのを、必死で抑えた。
まだ2人との距離は30メートル近くある。でもそれだけ近づければ十分でもある。
──────三好は、雪葉を襲っていた。
雪葉は無抵抗で…いや、というより既に虚しい抵抗をした後の諦念のような表情を浮かべ、三好の乱暴を見過ごしている。
本当は今すぐに三好の息の根を止めたいくらい、怒りの感情がふつふつと湧き上がっていくのを感じていた。
しかし、激情に駆られた時ほど冷静にならなければならない。今あいつを暴力でねじ伏せるのは簡単でも、そんなことは馬鹿のすること。
考えろ、その先を。
見失うな、俺の目的は──────
「……まずいもの見ちゃったなぁ」
「!?」
三好は勢い良く振り返った。
雪葉を拘束していた手が離れ、彼女は力なくその場に座り込む。
「お、まえ…!」
笑顔を作る。たまたまその場に居合わせたかのような唐突さと、あくまで物事の全容を知らない体を装った穏やかさを顔に浮かべて。
「三好さぁ、好きな子につい手を出したくなる気はわかるんだけど、さすがにそれはまずいと思うな」
「は、花宮─────ち、違う、これは藤枝さんが……!」
「雪葉が何をしたかは知らないけど、何をしたにしても性的な手段に訴えるのは卑劣じゃない?」
反論など許さない。最後まで喋らせるつもりもない。
元々出来の悪い頭のくせに慌てている、そんな奴には万に一つの勝機もない。
「俺、最近の悪い噂もさ、三好は良いやつだって知ってたから信じないようにしてた。でも…流石に友達が辱められようとしてるのを見過ごすことはできない」
「……何、する気だ…」
「まず雪葉から離れてもらって良いかな。それに、他の女の子にも。俺、悪いけどこういう卑怯なこと…許せない質なんだ。もう二度と彼女に近づかないって約束してくれるなら、俺は何もしないよ。でも、もし三好がまだ彼女に何かするって言うんなら────」
ポケットから携帯を取り出し、三好の前で小さく振ってみせる。それだけで言いたいことを理解するくらいにはまだ頭が回っていたのか、それとも単に武器を出してくるとでも思っていたのか、三好はぎくりと身を竦ませた。
「…さっきの、雪葉には申し訳ないけど写真を撮らせてもらった。もし三好がこれからもこういうことをして、抵抗できない女の人を苦しめるようなら、俺はこれを警察に持ってくよ」
それはもちろん、真っ赤な嘘。
どれだけ冷静に考えても、それがどれだけ有用で効率的な手段と理解していても、自分の手元に彼女の苦しむ姿を残すことを、許せなかった。
詰めが甘いと笑う自分がいる。情を捨てろと罵る自分もいる。
でも、元より俺の目的は彼女を必要以上に苦しませないことだけだ。それを守るためならこの甘さは矛盾しないはず。
そんなことを自分に言い聞かせながら、ありもしないデータを口にして三好を追い詰める。
「えっ…………」
「雪葉に謝れとは言わない。でも、金輪際近づかないことならできるよね?」
三好は疑うことなく俺の笑顔を信じた。何度も頷き、縋るように俺の制服の裾を掴む。
「わ…わかった、近づかない! 近づかないし…もう何もしないから……そのデータを消してくれ……!」
「それは俺が判断することだよ。三好が卑怯なことをしない限りは俺もこの写真は絶対に警察に出さないんだからね。どうだろう、これは公正な取引だ」
「にっ、二度と彼女に話しかけたりしないから…だから、頼む!」
もうこれ以上この場にいるのが耐えられないとでも言うかのように、三好はそれだけ叫んで逃げるように屋上から出て行った。
もはや笑顔を浮かべる必要はない。今更ながら胸糞の悪さが去来し、小さく舌打ちをする。
完全に三好が消えたことを確認してから雪葉へと向き直った。彼女は呆然とした表情のまま虚ろに俺を見上げている。
…自分がショックを受けているという事実にショックを受けているような、そんな感じだ。
同時に見える、少しの安堵。
それはなぜここに俺がいるのか疑問に思いながらも、彼女の本能が俺を"味方"と定義したということを意味する。
…そんな顔をするくらいなら、最初からあんな奴について行かなければ良かったのに。
俺の計画を狂わせるな。お前は、俺の関与しないところで不幸せになるな。
「無様だな、お前」
「………花宮」
曖昧な笑みを浮かべる雪葉。その唇の動きに呼応するように、彼女の目からは静かに涙が流れる。
俺は座り込んだ雪葉の目線に合うようにしゃがみ込み、怖がらせないように、逃げる隙を常に与えながらゆっくりと手を伸ばした。
「………痛いこと、されてねえな」
抵抗はされなかった。逃げることも、目を逸らすことさえも、なかった。
壊してしまわないように、そっと目の下の雫を拭う。それで雪葉は初めて自分が泣いていることに気づいたらしい。少し目を見開いて、そして唇を噛み締めてその顔を歪めた。
ようやく表情と感情が戻ってきた。それを見て、思わずほっと息をつく。
…どうやら俺の気も相当張っていたらしい。
「早く服着ろバカ」
会話になりそうな雰囲気が生まれたので、改めて自分の状況に目を向けさせる。言われてから雪葉は鈍い動きでシャツのボタンを留めた。
「…なんでいるの」
「4限をサボるつもりで屋上に来たらお前と三好が揉めてんのが見えたんだよ。そんなことよりお前、なんで三好についてった」
俺の大雑把な嘘に気づいた様子はない。雪葉はむっとした顔を隠しもせず、俺から目を逸らした。
「…元凶が私だって思われてるのは、わかってたから」
「ついて行けば何をされるかもわかってただろ」
でもそれは初めてじゃない。前回三好の部屋で迫られた時はうまくかわせたという過去がある。
きっとその余裕が、仇となった。
なぜならその時とは、状況も感情も全く同じなんかじゃないから。
「………前家に行った時は大丈夫だったし、今回だってもう少し、冷静に対処できるつもりだった……」
あまりにも予想通りの答えが返ってきたことが不満だった俺は、間髪入れずに雪葉の頭をはたいていた。
「バカ、前回はそりゃ大義名分でも恋人だからって諦めがあったからだろ。今回の三好はただの犯罪者だ。状況は変わって当たり前なんだよ。利用するつもりならそこまでちゃんと読めバカ」
雪葉は呆然としていた。
やはりこいつはどこか麻痺している。
さっきのはただの暴力だ。そこには否定的な目的と負の感情しかない。理不尽な憎悪を間近で見せつけられ、そこに対抗する術もなくただ身を任せるしかない絶望感。そこに恐怖がないわけがない。
雪葉は確かに馬鹿ではない。でも喧嘩が強いわけでもなければ、あんな風に誰かに肌を見せたこともない。ごくごく普通の、少女なのだ。
「バカバカって………」
「なんだよ、怖かったならそう言えよ」
雪葉は静かに目を伏せた。
「…言わない」
さっきまで感情が麻痺していた様子を見せていたくせに、急に強情な口調になった雪葉。それを怪訝に思うと同時に、思い出したのはさっき三好が彼女に言い放っていた言葉。
─────そこまで自分本位にしか生きていけない下種の望みなんて何も叶わない!
あいつは、雪葉を責めていた。
雪葉が何を望んでいたかは知らない。三好が雪葉自身の何を知り、何に憤っていたのかも知らない。
でも、自分の行動の結果を無条件に受け入れ、感情のどこか麻痺している雪葉だからこそ、そんな三好の怒りは素直に吸収されたのではないだろうか。
私のせいで起きたことなのだから、花宮の言葉になど甘えない、と。
「…さっき撮ったっていうデータ、消してほしいんだけど……」
「そもそもそのデータもねえよ」
「………え?」
「そんな写真、最初から撮ってない。信じられないんなら携帯、好きに見れば?」
雪葉に携帯を投げて渡すと、警戒しながら彼女は写真フォルダを見ていく。本当にそんなデータは存在しないので、いくら探したところで出てくるはずもないのだが、雪葉は色々な可能性を考慮しているらしい。そこでも俺の言葉は疑われていることに少し呆れるような思いを抱きつつ、白旗の印に両手を小さく挙げた。
「…流石に、よくつるんでる女のレイプ未遂の光景なんて俺でも気分が悪くなる。三好のことはあれだけ脅せれば十分だったし、わざわざ写真なんて撮んねーよ」
「…私、花宮のこと避けてたんだけど」
そうだな。三好のことを散々悪く言う前に、他ならない俺がお前を傷つけてたもんな。
わかるよ。
傷つけたり庇ったり、俺の行動はお前にとっては不可解なことだらけなんだろうな。
わかるよ。
「避けてても寄んなきゃいけねえ時くらいあんだろ、なんだ、まだバカって言われ足りねーのか」
だからそう、これはちょっとした計算ミス。
大局に支障はない、いわゆるちょっとしたサイドストーリーのようなものだ。
今日ここで俺が去ったら、その後はまたそれまでのように、俺を避ける彼女の意地に気が済むまで付き合ってやる算段だ。
────そう思って、ここへ来たんだから。
「…私が傷ついたって良い、って思ってたんじゃないの」
そうだよ。
俺の知らないところで知らない奴に傷つけられるくらいなら、その前に俺がお前を傷つけるから。
善意を信じていた相手から悪意を向けられるくらいなら、最初から善意なんてないと思われてる俺がお前に悪意をぶつけるから。
「助ける理由なんかないくせに」
お前は何も知らなくて良いんだよ。
これは全部俺のエゴだ。俺はお前を守りたいのに、幸せにしたいのに、真っ当なやり方なんてもうとっくに忘れてしまってるから、こんなやり方でしかできないだけなんだ。
だから誰にも理解されないそんな理由、お前はまだ知らなくて良い。
いつか知らせても疑われないくらいの距離まで近づけたら――――降りかかる火の粉を全部払ってやれる日がもしも来るなら、その時初めて全部話してやるから。
「…もう大丈夫だから…部活、遅刻するよ。行きなよ」
雪葉はただ悔しそうに、そして苦しそうに唇を震わせ、なおも俺を突き放した。
三好の言葉に、思ったよりこいつは影響を受けてしまったようだ。意地になって、心を閉ざそうとしている。
その姿は、とても小さく脆く見えた。
こいつが決して強くないなんてことは最初からわかっていたこと。なのに、いつも俺の前で気丈に振る舞っている姿ばかりを見てきたからだろうか、このままこうして誰にも頼れないまま一人で泣かせることだけはしたくないと、思ってしまう。
「お前が怖かったって言うまで行かねえ」
それこそ大局を考えれば、本当は放っておいたって良かったんだ。
雪葉は本当は、まだあの裏切り女のことを引きずっていたはずだし、本当はまだ俺に対して怒りを感じているはずだから。その冷静な感情を持っている間は、俺達は干渉しあうべきじゃない。
だが、計算を度外視した俺の感情が────それを良しとはしなかった。
こんなの全く道理に適っていない。頭の中の声はそう言っているのに、だ。
「なんで………」
「普段ムカつくくらい気の強い女が怖がってるブッサイクな面拝むくらいしねえと、割に合わねえ」
「……………………っ」
強がる雪葉のその虚勢は、そこで瓦解した。一度は止まった涙が再び彼女の目から流れ出す。指先で濡れた頬を撫でる俺を、雪葉は目を閉じて許容し続けた。
雪葉は感情が麻痺してるんじゃない。
行動の結果をなんでも自然に受け入れているわけじゃない。
全てを戒めとして、受容することを自らに強要しているだけなのだ。
だから目を瞑って力を抜いた姿は、こんなにも無力だ。
「…本当、バカな奴」
こんなんだから、守りたいと思ってしまった。
柄でもないとわかっていながら、幸せになってほしいと思ってしまった。
悪いな、何も話せないような俺が、お前みたいな奴のこと好きになったりして。
悪いな、お前を傷つけることしかできいない俺が、それでもお前を手に入れたいなんて願ったりして。
自分が何をしてるのかはちゃんとわかってる。
それでもなお、俺はその望みを手放せなかった。それほどまでに、彼女のことが好きだった。
だから俺は雪葉の頬から指を離し――――そしてそのまま、そのあまりに小さな体に腕を回した。
「……!」
一瞬、抱きしめた腕の中が震える。
それから恐れるようにゆっくりと、俺の背に細い腕が伸びてきた。応えるように、いっそう力を込める。
あぁ、気持ち悪い。
見返りも何も考えずにこんなことをしている自分が。背に腕を回されてほっとしている自分が。
「花宮…………」
「…あ?」
「ありがとう……………」
こんなに無力で、馬鹿で、呆れるほどに小さいくせに……彼女のこういうところが俺を惹きつけて、離さない。
彼女の張っていた意地で隔たれていた俺達の距離が、元に戻っていくのがわかる。
「……………バカだな」
それでも、それだけが今の俺が言える精一杯の言葉だった。
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