3.幸福が死にゆく



部活が終わった後。キャプテンとしての仕事が残っていた俺がやっと帰れるようになったのは夜もとっくに更けた10時だった。制服姿でうろついていると補導されかねないので、できるだけ足早に帰路につく。

駅のホームで電車を待っていると、少し離れたところに同じ制服姿の男女が向かい合わせに立っているのが見えた。

…こんな時間に他の部活の人間がいるなんてこと、今まではなかったのだが………?

しかも、彼らの様子は明らかにおかしい。互いに身を乗り出すようにして、大きな声を出して言い争っている。

「意味わかんない! なんで私よりあんなブスの方が良いわけ!?」
「だから、そういうところがうんざりだっつってんだろ!」
「何それ答えになってない!」

…もはや頭を巡らせる必要もないほどわかりやすい応酬だった。そして反吐がでるほどつまらない縺れ方だった。

「わけわかんない…こんな一方的にフラれるとか許せない…」
「許す許さないの問題じゃなくて、俺はもうお前とはやってけないって言ってんの」
「だって! なんでよりによって雪葉なの!?」

────は?

突然飛び出した雪葉の名前に、思わず冷めた気持ちを忘れて顔を上げてしまう。完全に激昂している女が俺に気づく様子はなかったが、代わりにその言葉が止まることもなかった。

「意味わかんない! あんな地味で冷めてて何考えてるかよくわかんないような不気味な奴! たいして可愛くもないのになんで!」
「お前には一生わかんねーよ!」

…彼らが話題に出している人間が同じ名前の違う存在である可能性も疑ったが、よく見ればその女は雪葉と同じクラスの奴だった。それに女が言ったブスとやらの特徴もまぁ…雪葉を無理に悪く言うならそうなるだろうといえるだけのパーツを捉えている、気がする。

少なくとも可愛くないとだけはお前には言われたくねーけどな、ブース。

「とにかく、俺はもうお前には呆れたんだよ! 藤枝のことを好きになっちまったの! わかったら金輪際近づいてくんな、わかったな!」

頭の悪いキレ方をして、男はちょうど来ていた電車にさっさと乗って行ってしまった。「待ってよ!」と言う女の叫びも虚しく、電車は駅を離れてしまう。

「……絶対許さない……殺してやる……」

後に残されたのは、女の強い怨念だけだった。

「…………」

女の言葉に加え、男が発した藤枝という言葉のせいで、ほぼ彼らの仲を引き裂いた原因が俺のよく知る雪葉であることは確定した。

さて、それではこれからどうするか───────。








「─────花宮ってば」

肩を押されて我に返る。振り向いた先にいたのは怪訝な顔をした雪葉だった。よく晴れた昼下がり、暦上では夏の終わりを迎えてもまだ暑さの残る空気の中、首筋にじわりと滲んだ汗で髪が張り付くのを鬱陶しげに掻き上げるそんな仕草を見せながら、しかめ面のままこちらを見つめている。

「…あ?」
「あ、はこっちだよ。どうしたの、今日ずっと上の空じゃん」

俺の意識を占めていたのは言わずもがな昨日の夜の光景だ。

「…あー、寝不足」
「試合近いんだっけ」
「ん」

適当に相槌を打ち、思案する。さっき彼女を迎えに教室まで出向いた時、ちょうど端の方に女がいることに気づいた。名前は確か、則本…だったか。則本もクラスを訪ねてきた俺の存在には目を留めていたが、その時の様子からしてやはり昨日俺があの場にいたことまでは気づいていないようだった。

もちろんあの修羅場があったところで、則本が何か行動を起こすと決まったわけじゃない。そして俺からすれば雪葉に危害さえなければ誰があいつを憎もうがどうしようが知ったことはない。ただ黙って雪葉を逆恨みしてくれるだけならそれに越したことはないのだ。

だが────気になるのは、則本の性格と昨日の表情。直接関わったことはないので確たることは何も知らないが、クラスの違う俺の元にも則本の話はよく入ってきていた。…要は、そのくらい目立つ人物だということ。自尊心が高く負けず嫌い。恋愛はステータスで、彼氏は自分の価値を高めるために存在するものと確信している。いわゆるカースト上位にいるような派手で目立つ女、というわけではないが、とにかく世界の中心に自分を据え置かないと気の済まないようなタイプだ。そんな女が彼氏にふられたという事実だけでも本人にとっては認めがたい屈辱だろうに、ましてその理由が歯牙にもかけていなかったはずのクラスメイトに奪われたからだなんて言われて、果たしてそんな女王様が黙っていられるだろうか。
実際、昨日の則本の顔はおよそ普通の善良かつ幸福な女子高生には浮かべられないような憎悪がありありと見えていた。下手をしたら本当に殺しかねない。俺が言うのも変な話だが、この年頃の子供ほど勢いだけで生きているような生き物もいるまい。

「………」
「…何?」
「……お前ってほんと間抜けな面してんな」

何も知らずに涼しい顔しやがって。
雪葉は大して気分を害した様子もなく、「そりゃ花宮と比べればね」とその顔によく似た涼しい声を返してきた。

事態が動いたのは数日後のことだった。

様子を窺い続けていたもののあれから則本が動く気配はなく、また彼氏ともなんとか正式に別れたらしいという噂も耳に入っていたので、杞憂だったかと安心し始めた頃。

昼食時、いつもより遅れてやってきた雪葉の後ろに、他でもない則本の姿があった。

「……!」

ああ、杞憂なんかじゃなかったのか。
やはりこいつは、あの怒りを忘れていなかったのか。

則本は恥ずかしげに雪葉の背に隠れながらこちらを見ている。

「…後ろの彼女は?」

ひとまず、知らないふりをして訊いてみた。

「クラスメイトのノリちゃ…則本さん。花宮のファンって」
「ちょ、ちょっと雪葉!!」

怒ったような顔をする則本。

「本当? ありがとう、嬉しいよ」

……成程、目には目をということか。

十中八九、この女が俺のファンというのは嘘だ。おそらく彼氏にふられた腹いせとして、雪葉の男を代わりに奪ってやるとでも言うつもりなんだろう。俺に気があるふりをして近づき、落とし、雪葉との仲を決裂させる。安直ながら確かにダメージを与えられる戦法だ。

……俺達が、まともな人間だったらな。

まぁ普通はここまでつるんでいながら未だ互いに警戒し合っているとはそう思わないだろう。俺と雪葉は確かに誰よりも近いところにいて、だからこそ誰よりも互いを疑っている。そこにあるのは甘酸っぱい青春でも安心できる信頼感でもなんでもない。故にそこに誰かが友情や恋情を割って入ろうとしたところで、そんなものでは俺達の歪な関係を崩すことはできないのだ。

「……あ、もうこんな時間! 雪葉、教室戻ろ!」
「うん」

当たり障りのない会話をしながら時間を潰すのにも飽きてきた頃、ようやく予鈴のチャイムが鳴った。
本心を言えばさっさと俺の視界から消えろ、といったところなのだが、飛んで火に入った虫を逃す道理はない。

「あ、待って雪葉」

弁当箱を片付け立ち上がろうとしている雪葉を呼び止める。

「何?」
「そういえば4限で先生からの伝言を貰ってたんだよ……っと、メモしてたんだけどどこ行ったかな…」

雪葉を引き留めるためにありもしないメモを探す。彼女はすぐに俺の嘘に気づき、女に向かって手を振った。

「ごめん、先行ってて。メモ取るくらいならきっと長い話だと思うから…」
「え、う、うん、わかった。遅刻しないようにね!」

女が去った後雪葉を見ると、彼女は不満げな顔をして立っていた。俺の目的がわからないまま授業に遅れそうなことに文句でも言いたいんだろう。

「…なんだあれ」

繕っていた笑顔も優しい声も全て取り払い、不機嫌な気持ちを隠すこともなくぶつける。そんな変貌ぶりになどすっかり慣れている雪葉は、ただ肩を竦めて小さく溜息をつくだけだった。

「爽やかで優しい花宮君と仲良くなりたいらしくて」
「迷惑」
「事前に言わなかったのはごめん。でも花宮と仲良くなりたいっていう純粋な気持ちを無碍にはできなくて…良い子だし」

その様子に嘘は見えない。どうやら本気であの女を大事なオトモダチだと思っているらしい。

「純粋な気持ちしか持ってないイイコチャンがこの世にいるわけねぇだろ」
「私は花宮ほどの悪人の方がこの世にいるわけないって思ってたよ」

ふんと鼻を鳴らして雪葉の皮肉を一蹴する。そんなことはわかってるが、あの女に関してのみ言えば紛れのない敵意や悪意があることに違いはない。なのにこんな呑気なことを言っているのが面白くなかった。
俺のことは必要以上に疑うくせに、他の奴にはそのセンサーが働かないのか。

早めに縁を切らせたいが、まだ女の行動が読みきれない今の段階からこちらが先に動いてしまうのは得策じゃない。思い込みの浅い計算がうまくいくはずないのだ。

だからとりあえず今は、警鐘だけを鳴らしておこう。

「…つーかあれ、ガチだろ。呑気に応援なんかしてて良い訳? 下手に協力なんかして俺に近づけさせたところでそのイイコチャンが傷つくだけだってのはわかるだろ」
「いやあんまり傷つけるようなフり方をしてほしくないから今日連れてきたってのもあってね……」
「それは向こうの出方次第だな」
「…わかってはいたけど、付き合うって選択肢はないんだね」
「めんどくせえ」

雪葉はまた溜息をついた。今度は本当に呆れ返っているような、大きな溜息。

「…じゃあ私、授業行くから。今後ちょくちょく彼女を連れて来てもちゃんとうまくやってね」
「二度と連れてくんな」

去りゆく雪葉の背中にかけた言葉は、珍しく本心だった。








その後、俺の主張なんて端から聞くつもりのない雪葉は何度となく則本を連れて来るようになった。そればかりじゃない、則本はだんだんと1人でも俺を訪ねることができるようになってしまった。復讐心ひとつのためにそこまでできる行動力は素直に感心するが、則本の場合そこに頭が追いついていないのが残念だった。

「雪葉とはいつからの付き合いなの?」
「雪葉ってどんな子?」
「雪葉が三好君と付き合った時、どう思った?」

この女、必ず言葉の始まりに雪葉の名をつけないと窒息する病気でも持っているんじゃないだろうか。それでひっそり探っているつもりなのか知らないが、私があなたに近づいているのは雪葉が目的ですとあえてアピールしているようにしか思えない態度には早い段階でうんざりしていた。憎さ余って雪葉に恋をしてしまったというのならそう言ってくれ、まぁお前じゃあいつは絶対手に余るけどな。

「…随分と、雪葉のことを気にしてるんだね」
「う…ん、まあね。花宮君と仲良いから、気になるよ」

気になってるのは雪葉じゃなくて俺なんだと、遠回しに言われた。これで世の男どもはきゅんとでもするんだろうか、生憎俺にはその辺りがよくわからない(興味もない)。

「花宮君って、雪葉のこと好きなの?」
「…どう見える?」
「好き、なのかなって、思うよ」

三角座りで膝を抱え込んでいる則本は、首を傾げながら上目遣いで隣に座る俺を見つめた。さらりと頬にかかる横髪が憂いを帯びた表情の演出に一役買っている。

「まぁ…付き合いは長いからね、それはたまに言われる。則本さんこそ、好きな人はいるの?」
「……実はね、この間まですごく好きだった彼氏がいたんだけど……別れちゃって」

俯きながら小声で話し出す則本。追及をはぐらかすために質問を投げたに過ぎなかったのだが、これはこれで面倒な展開になりそうだ、と思った。

「…そうだったんだ。ごめんね、無遠慮なことを訊いてしまった」
「ううん、良いの。もう私も引きずらないで次の恋を探さなきゃ…って思うし。でも…ショックだったなぁ。他に好きな子ができた、ってフラれちゃって」
「へえ…」

膝の上に顎を乗せる則本の声は小さく震えていた。

「私…何がダメだったんだろう。重かったのかな、それとも可愛くないって思われちゃったのかな」

性格悪いせいだってあれだけはっきり言われてただろ。
心の中ではそう思いつつ、一方で俺は則本の言葉がだんだん演技なのかどうなのかわからなくなってきていた。今まで散々白々しい言動を見せられてきていただけに、この女があまり役者向きでないことについては十分すぎるほど理解していたのだ。
それが、今はあまりにも自然すぎる。泣きそうな顔、揺れる声音、上がらない視線。どれもが一貫して、未練の感情を表している。

…一応、彼氏にフラれて傷つくだけの情緒は持っていたということか。

「…則本さんは、素敵な人だと思うよ」
「花宮君……」
「別れたばかりでこんなこと言うのは残酷かもしれないけど、きっと他にも則本さんの良さに気づく人はいると思うし、則本さんから見ても素敵だと思えるような人がきっといるはず。落ち込むことは悪くないから、ゆっくり休んでまた立ち直れそうな時が来たらその時頑張ろう?」

我ながら薄っぺらい言葉だ、と思ったが、則本がそれについて何か言うことはなかった。

「…ありがと、優しいね」

まぁ、腹の中で何を考えていたとしても俺を落とすつもりでここにいるならこの場面では礼を言う以外の選択肢はないわけだが。

「…私もね、早く次の恋がしたいなぁって思うの」
「うん」
「…実は、少し気になってる人はいるんだけど。…でも、別れたばっかりでそんなにすぐ次にいっちゃうなんて、節操ないかなって思って…」
「そんなことないんじゃない? 付き合ってるうちに他の人に目移りするのはあんまり良くないけど、切り替えって大事だと思うな」

…これは言わされたな。

「…花宮君は、そう思う?」
「うん」
「…へへ、そっか。じゃあ…もう少し時間はかかるかもだけど、好きに……なっちゃおうかな」

……余程鈍感じゃない限り、今の則本の言葉で察せない男はいないだろう。これだけのあざとい真似が似合うんだから(好ましいかは全くの別問題として)成程確かにこの女が自尊心ばかり高まるのもわかる気がする。要はそんな振舞いが許されるだけの素材を持ってしまったのに、肝心のそれらをコントロールする頭が全く追いついていないせいで、無駄にプライドだけが育っていってしまったのだ。

「…応援してるね」

まぁ、こちらとしても勝手に手の中に転がり込んで来てくれるんだから楽なものだ。騙されたふりをして心置きなく利用させてもらうとしよう。

「そういえば、則本さんってバスケは好き?」
「バスケ? うん、詳しくないけど…スポーツはなんでも好きだよ」
「本当? あのさ、実は今週末 うちで試合があるんだ。気分転換になる…かはわかんないけど、良かったら来てほしいなって」

さも今思いついたかのように、軽やかにそんな誘いを投げる。則本はまさか自分が誘われると思っていなかったのか、きょとんとしていた。

「え…?」
「あっ、ごめん、一方的に誘っちゃって…嫌だったらもちろん無理になんて言わないよ。おっかしいな…俺、こんなに試合に友達呼びたいって普段なかなか思わないから、つい勢いで……」

白々しい演技が好きなのはお前だけじゃないんだよ。俺の言葉でやっと特別扱いをされたことに気づいた則本は、ぶんぶんと強く首を振って試合の日時を聞いてきた。
まさか俺が自分と同じ演技をしているとは思うまい。向こうからしても火種に飛び入る虫を焦がすチャンスを得たくらいの気持ちのはず、断られるわけがないのだ。

お前のくだらない私怨に雪葉を巻き込ませはしない。それどころか、こいつを傷つけようと安易に近づいてきたことを心の底から後悔させてやる。



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