1.幸福の終わり
好きな女がいた。
別に最初から好きだったわけじゃない。かといって大きな理由があって好きになったわけでもない。
ただ、些細なきっかけで彼女を"知る"必要ができて、色々と探っているうちに。
好きに、なっていた。
中学2年の時の冬だった。迂闊なことに俺は隠していたはずの本性を、ろくに知りもしない女に知られた。
もはや下手な工作は通用しないと早々に判断し猫被りをすることはやめたが、彼女の反応は意外と淡々としていた。俺の性格の悪さを非難するでもなく、恐怖に怯えるでもなく、関係ないと言いながら興味本位の疑問をぶつけてくる。
気味が悪い。
俺が知る"人間"の反応とまるで違うそいつの反応に、俺の警戒心は強まった。同級生の見慣れない一面を見て少し高揚している、あるいは単純にこんなに性格が悪い人間を見たことがないせいで距離感を計り間違えている、といったところか。
好奇心は猫を殺す────とはよく言ったもので、どちらにしろこうなった以上こちらとしても彼女のことを探り、弱みを握るなり脅威がないことを確認するなりしなければならない。
そう思った俺は、クラスメイトや俺を気に入っている教師を使いながら、猫を殺す準備を始めた。
まずスペックは…あー、並。相当に成績は良い方らしいが、結局はそれもこの小さな学校の学年規模の中での話だ。運動もできないわけではないようだが、強豪と謳われる部活動員が多いうちの中学では全く目立っていない。
次に人当たり。こちらも受けた印象としてはそつなくこなしている、という評価のしがたいものだった。ある程度仲の良い奴はいるようだが、彼女は俺が受けた第一印象通り、いつ誰といても、どこか冷めた顔をしていたのだ。自分が他者とは違う特別な存在だという勘違いから世界を俯瞰したような気になってしまう、なんて現象はこの時期特有のものらしいが、こいつのこの顔もそんな類のものだってことなんだろうか。
確かに全くのバカには見えないが、取り立てて警戒すべきような事由も見当たらない。
程なくして俺がそいつに下した判断はそんなものだった。
だが。
探るその過程で、どうやら向こうもこちらを気にしているらしいということに気づいた。
関心のなさそうなことを言っていたが、やはり俺の変貌ぶりに些かの警戒は抱いていたようだ。あるいは利用されるリスクを恐れ、先手を打とうとしているのかもしれない。
対抗してくるわけでもなく、逃げ去るわけでもなく、陰から様子を伺い来たるべき時に備える、という方法は実態のわからない相手に対する策としては俺もそれなりに有効なものだと考えている。成程、使える頭は一応持っているというわけだ。
とすれば、これはもしかすると…使いようによっては有能な駒になるかもしれない。
ちょうどもう少し自分の身辺を整えた方が良いだろうかと考えていたところだったということもあり、俺は見極め段階からそいつを手駒として登用する段階へと、歩を進めることにした。
ファーストコンタクトの段階から彼女が俺を一目置いているのは確実だ。正直そこに含まれる感情はあまり良いものではないだろう…が、そもそも好意と嫌悪は表裏一体。向けられている評価が良かろうが悪かろうが、そこに"評価"がある限り特別な意味を持たせるのは容易い。
恋心という反吐が出るほど強いくせに曖昧な感情は、それだけに転がしやすい性質を持っている。その入口には必ず"関心"が存在しているからだ。良い感情であろうと悪い感情であろうと共通しているのは対象への関心。それがある限り、必ずどこかに恋心へと転落していく穴がある。
それが、俺が彼女に恋心を装って近づいた理由だった。駒になるなら使い倒し、ならないのなら離れていけば良い。転がしやすいと同時に消失させやすい(冷めた、とか言って振るだけだから簡単なことだ)のもまた、この恋心というものの利点だった。
─────そうして、俺達は仮初めの恋人関係を結ぶこととなる。
…のだが、俺はどうやらここでもこの女について計算ミスを犯していたらしい。
彼女は最初から、俺に本当はその気がないことに気づいていた。
どれだけ好きだと囁いても、顔色ひとつ変えない。
どれだけ手を差し出しても、肩を寄せても、触れることは許されない。
確かに彼女は笑っていたが、確かに彼女は隣にいたが、俺と彼女の間には厚い壁があったのだ。
たまに一緒に出かけたり、試合の応援に来させたり…時間の使い方は学生の恋人然としていたと思うが、俺達の間に流れる空気はそのせいで随分と淡泊なものだったと思う。
もちろん、実情を考えれば互いにそれで良かったはず。
何しろ俺は雪葉を利用することしか考えていなかったし、雪葉は俺の傍である程度言うことを聞くことであえて自己の破滅を防いでいたわけだから。
だから、そこには感情なんて必要なかった。
そういう意味では、彼女は賢かったと思う。俺がいくら甘い顔をしても絆されることなく、かといって不自然なほどの警戒を露わにするでもなく、俺との関係を持続させていたのだから。
それでいて彼女は、そんな風にひどく受動的に俺と付き合っていながらも、俺の観察を怠らなかった。
行動や会話のパターンから俺の性格を把握し、自分を守るために効果的な選択をとり続けた。ある時は俺の言うことに素直に従い、ある時は自分の主張を押し通す。
彼女は特別頭が良いわけじゃない。
ただ彼女は、よく考える女だった。
感情や主観に流されず、事実を見つめ冷静に理論を構築する女だった。
もし……もしも彼女に惹かれた理由というものがあるとするなら、俺はそういう彼女の節々に見える賢さに興味を持ったんだと思う(あるいは最初はそんな彼女への対抗心が芽生えたことからの執着だったような気もするが、今となってはそこにあまり差異はない)。
そしてもしも俺がどこかで間違っていたのだとするなら、きっとそれは、例え"駒"扱いでしかなかったとしても、誰か特定の人間を傍に置き続けたことなんだろう。そしてその相手を、"関心"を持って選んでしまったことなんだろう。
そうだ、関心さえそこにあれば簡単に転がり落ちる穴があると言ったのは他ならない俺だったじゃないか。
会話を重ねるうちに。惰性で隣にいるうちに────いつしか、そんな彼女の隣にいることに居心地の良さを覚えている自分に気づいてしまった。時間を共にすればするほど、彼女のことをもっと知りたいと思っている自分にも気づいてしまった。
最初は小さな関心でも、最初は小さな間違いでも、一度自覚してしまえばその感情は徐々に膨らんでいくもの。
人の不幸こそを喜びとしていた俺が、人の幸せを願うとはなんたる皮肉なことか────。ああでも、気付いた時にはもう手遅れで、俺は彼女にとって少しでも世界が生きやすいところであれば良いと、柄にもなく思うようになってしまった。
気持ちが悪い、でも拭いきれない────まるで胸の中に異物が詰まっているような感覚を抱きながら、俺は彼女の隣に居座り続ける。この整理しきれない感情に名前をつけてしまうことを無意識に避けながら、俺は彼女の名前を呼び続ける。
そんなぬるま湯に何も考えず浸っていたのが悪かったんだろう────この関係の終わりは、突然やってきた。
「別れよう」
それは、突然の宣告だった。
始まったものはいつか終わる。それはわかりきったことだったのに、雪葉の苦しそうな顔を見ていることに耐えきれず、ある冬の日、俺は寒さを忘れてその場に立ち尽くしていた。
雪葉は最初からわかっていたはずの"利用関係"に耐えられなくなったのだと言っていた。
要は、愛想を尽かされたのだ。
"彼女の幸せを"なんて気持ちの悪いエゴを建前に、俺は結局自分の幸せを追っていただけだった。人の幸せを願うようになったなんてとんでもない、何も俺の生き様は変わっていなかった。だって俺は、雪葉を不幸にして喜んでいたのだから。雪葉の不幸を、幸せだと思いこんでいたのだから。
もし、素直に伝えていたら何か変わっただろうか。
わかってもらえなくても、わかってもらえるまで、雪葉のことが好きなのだと訴えていたら、いつか雪葉は、自分を利用することをやめろと言ってくれただろうか。そんなできもしない"もしも"が無意識的に頭を過ぎるから、また俺を苛立たせる。
歪んだ自分には人の愛し方がわからない。
でももう、やり直すことさえ、許されない。
それがひどく、悲しかった。
「……………」
駅のホームで電車を待っていると、聞き慣れた男女の声が耳に入ってきた。視線だけ向けると、予想通りの姿を捉える。
雪葉は、これ以上ないほどつまらなさそうな顔をして、隣の男と会話をしていた。その男は胡散臭い笑顔を浮かべる三好なんとかっていうやつ。2ヶ月くらい前から雪葉と付き合ってるらしいが、俺は正直それを面白く思っていなかった。
それは俺が雪葉のことを好きだから、ということではなく、それ以前に三好は女を食うことしか頭にない下半身男だったからだ。本人はうまくやっているつもりらしいし、実際うちの学校の奴らは誰もあいつの本性を知らないらしいが、少しの偶然にさえ恵まれればそんなことはすぐ耳に入る。
雪葉はどうしてあんな奴と付き合ったのか…あれほど警戒心と猜疑心の強い女が、付き合う相手の本性を知らずに2ヶ月も浮かれているだろうか……そんな疑問が過ぎったことはまだ記憶に新しい。
俺と雪葉の関係が切れたのはもう随分前のことだが、俺の気持ちは腹立たしいことにあまり変わっていなかった。いや…変わっていないどころか、その感情のやり場がないせいで胸の内で膨らんでばかりのような気さえしている。
そのせいで彼女らの関係がどうしても気になるし、そのせいで俺の思考が囚われることも気に食わない。仕方なく俺はここ1ヶ月程、それとなく雪葉に三好の危険性について警告するタイミングを窺っていた。もっとも三好の本性を知ってなお近づこうとするならもう俺の出る幕はないが、できることなら彼女が傷つく結末は見たくない。
さて、どうしようか─────。
「じゃあまた明日、同じ時間に、駅で」
「うん、気をつけて」
「藤枝さんも気をつけてね」
反対側のホームに先に電車が来た。雪葉は三好を見送ると、
「…はぁ」
と深い溜息をつく。
その様子は、とても彼氏がいなくなったことが寂しい…なんて甘ったるいものではなかった。やっと荷物を降ろせてせいせいした、というような雰囲気に、つい笑みが漏れる。
「とても愛しの彼氏を見る顔じゃねーな」
彼女が自分のホームに並び直したところ、そこは自分のすぐ近くだったので声をかける。雪葉は別段俺の存在に驚く様子もなく、ただいつもの淡々とした口調で肩をすくめた。
「…別に、関係ないじゃん」
「ああ関係ねーよ。ただ感想言っただけだし…つまんなさそー、って」
雪葉の顔を見ていれば、そしてその性格を考えれば、彼女が三好を本心から好いているわけじゃないことは明白。
なのに彼女がそんな無意味なことをする理由がわからなかった。無駄を好むタイプではないだろうに。
「いつまでそんなくだらねえ遊び続けんだよ」
「遊びじゃないよ」
「へえ、じゃあお前は本気で三好のことが好きだと」
「…うん」
彼女の首肯など、鼻で笑って一蹴してやる。ああ、嘘が下手な奴。
するとその反応に腹を立てたのか、雪葉は不満げな顔をして反論してきた。
「花宮こそ、そっちの方が楽ならそうすれば良いのに」
「そっちって?」
「その悪魔みたいな顔。下手に二重人格作ってもしんどいだけじゃん」
その時ちょうど来た電車に乗り込む。俺が本性を曝す気がないことなんて彼女だってとっくにわかっているはずなのに、未だにそうやって時折彼女はこの話を口にする。まるでそれが俺の弱点だとでも思っているかのように。
「何を言ってるんだい? 俺のことを悪魔だなんて…悲しいなぁ」
もっとも俺は、俺の本性よりも三好の本性を雪葉に気づかせたいのだが。声の通りやすい電車内に移動したことで若干声色を変えながらも、俺は耽々と"タイミング"を狙っていた。
「俺のことなんか良いんだよ。今は君の話をしてたんだから」
「私?」
「うん。三好君、格好良いよね。優しいし、女子からの人気も高いだろ?」
「そうだね、私にはもったいない」
「そうかな、雪葉も人見知りはするけど実は親切だし、可愛いし、お似合いだと思うよ」
「花宮みたいな人に褒められると照れるなー。でも突然どうしたの? 三好君の話をするなんて珍しいよね」
言葉を重ねるうち、流石に違和感を抱いたらしい。突然三好の話ばかり好んでし始めた俺の様子を見て、探られていることに気づいたのか彼女の顔にはあからさまな警戒の色がさす。
「そうかな? 多分2人が一緒にいるのを見たことなかったから、面と向かっては色々聞けなかったのかもしれない」
「まぁ、それはそうかもしれないけど…」
言葉を濁す雪葉。それから彼女の口数は目に見えて減った。
…雪葉の真意がわからない。自分がバカであることを心得ている聡明な彼女は、下手に繕うことより潔く沈黙することを選ぶ。最初から疑われているなら、黙秘はそこからの新たな疑念材料にはなりえないとでも言うように。
ということはつまり、雪葉が三好と付き合っていることには何かの"目的"があるということ。
その目的とはなんなのか。俺では果たせないことだったのか。
未練がましく彼女に別れを告げられた思い出をリフレインしながら、俺は電車を降りた。
ここから大通りを歩いて5分。彼女とは、家の近くまで同じ道を帰ることになる。
「ねぇ、さっきの、本当はなんのつもりだったの?」
改札を出るなり雪葉は強い口調で尋ねてきた。俺も表情を作ることや、彼女に歩調を合わせることをやめる。
電車を降りるまでこの話を持ち出さなかった彼女の考えには、素直に感心した。繕った顔しか見せない俺に聞いても無意味だということを、彼女は経験則で知っている。
「さっきの?」
「三好君の話ばっかりしてきたの。あなたは人の恋愛話なんて面倒なことに自分から首突っ込まないでしょ。恋愛沙汰なんて一番面倒なんだから」
そしてその指摘も実に的を射ていた。特段頭が良いわけではないということは散々強調してきたが、学習能力はそれなりにあるのが彼女の特徴のひとつ。俺の思考パターンを読み取った上でのその結論は、正解と言わざるをえなかった。
そろそろ良い頃合いになってきたことだろう。
雪葉の方から三好の話をぶり返してきたこのタイミングでなら、雪葉の真意を聞いた上で警告を発し、彼女の決断を促すことができそうだ。
「…三好といつまでも付き合ってる理由を教えてくれたら教えてやるよ」
まずは彼女の狙いを問いただす。嘘をつかれるかもしれないが、嘘に慣れていない雪葉の挙動ならすぐに看破できる。
「……恋愛ってどんなものかなーって思ったからだよ」
でも、雪葉は嘘をつかなかった。
恋愛というものを知りたかった、と彼女は言った。
…………それは、俺との関係では知ることができなかったということ。
確かに俺達は純粋な恋心で結ばれたわけじゃなかった。俺は彼女を利用していたし、彼女は自分を守るためにあえて俺の傍にいた。
そんな状況じゃ、恋愛なんて知ることができなかったというのも頷ける。
…でも。
でも、それならよりによって三好じゃなくたって。
それにどちらにしろ今の雪葉が恋愛をしているようには見えない。
彼女は彼女の目的のために三好を利用しているだけであって、三好が好きなわけではなかったのだ。
…残酷だ、と思う。
三好に対してではない。彼女は彼女自身を傷つけていることに気づいていないわけだし、それに──────…
俺じゃ、だめだったのか。
そんな子供じみた嘆きが心の奥から聞こえたような気がした。
「…カワイソ」
「花宮には言われたくないかな。…で? 私が情報を差し出したら…なんて変な条件出してくるからには、そこまで三好君に固執する理由もちゃんとあるんでしょ? どういうつもりかちゃんと教えて」
三好の話ばかりした理由。
それは、三好の女癖の悪さを告げ口し、彼女が果たしたがっている"恋愛を知りたい"という目的は叶わないどころか彼女は傷つくだけだということを伝えること。
「………」
立ち止まって雪葉の顔を見下ろした。淡々とした言動の割にきらきらと輝いている瞳。小さな顔には疑問の表情が浮かんでいる。
別れてからあまりこうして近くで見つめる機会もなかったが、見る度に目を離すことが惜しいと思ってしまう。
………………もし、もしもう一度。
もう一度、俺が隣に立つことができたら。
傍にいて、守ることができたら。
恋愛を知るという彼女の目的を、三好なんかじゃなくて、俺が果たせたら。
………………………それを、許してもらえるとしたら。
俺はここで一つの賭けに出ることにした。
三好への警戒心を抱かせることなら簡単だ。だから俺は、その先を得に行く。
………拒まれたら、俺の負け。
でも、受け入れられたら───────…
その時は、俺はもう一度彼女を、
雪葉の後頭部に手を添える。そのまま声なく彼女に顔を近づけた。
「────────え」
もう焦点も合わないほどの至近距離、彼女が戸惑ったように喉を震わせたのがわかった。
雪葉の唇に、そっと自分の唇を重ねる。
たったの一瞬。すぐに顔を離し、平常心を装って笑ってみせた。
「……………こういうつもり」
雪葉の顔は赤かった。突然のことに何の反応もできていない。とはいえこれ以上ここにいたところで俺自身もぼろを出しかねないと思い、早々に踵を返した。
「じゃーな、また明日」
………俺はその日、再び雪葉を…いや、今度こそ雪葉を、幸せにすると決めた。
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