17.不幸は消えていく
「雪葉!」
花宮の声が聞こえて、無意識に溜息が漏れる。情けなく地面に座り込んでいる私を見ても、花宮は笑うどころか心配そうな顔をして駆け寄ってくるだけだった。
「怪我は…」
「してないよ」
「柏田の奴らは?」
「いなくなった」
花宮は跪くと私の頭の先から足の先までを見つめて、それからほっと息をつく。
誰がどう見ても安心しているようなその仕草に、私はといえば少しだけ呆れていた。
「………これも"休戦期間"?」
明らかに、はっとしたような顔をされてしまった。何も考えずにここへやってきたというのが丸わかりだ。私からしたらちょっとした皮肉のつもりだったのに、花宮は深刻な顔をして俯いてしまう。
「……………花宮が昨日やられたの、私のせいだったんだってね」
言いながら、花宮の表情に変化がないか、そっと窺う。
本当に彼が私を疎ましく思っているなら、もう今となってはいよいよ私を庇う理由がなくなる。あとは私が誰に刺されようが焼かれようが、花宮には関係ない…どころか、ちょっと痛い目見るくらいの方が彼には愉快に思えることだろう。
それを、こんな風に命の危機に瀕してまでなお庇うなんて、彼の行動と主張にはあまりにも矛盾が過ぎる。
…いつもそうだ。
彼が起こす行動は必ず私を守ってくれている。
なのに、実際に見る彼の表情は、言葉は、必ず私を傷つける。
だからどっちなの、ってずっと迷っていた。クリスマスの夜が良い例だ、"花宮は私を守りたくてあえて突き放したんだ"ってあれだけ根気強く瀬戸達が説いてくれて、私もそれに納得したはずだったのに、いざ花宮の顔を見たら一瞬で気持ちが打ち砕かれてしまった。あんな冷たい顔を見てしまったらきっと、誰だって自分の考えはただの自惚れに違いないと思ってしまうはず。
だからいちいち私の感情は、誰かから話を聞く度、それを平気で覆す花宮の視線を向けられる度、両極端な結論に振り回されてきた。
でも今の花宮の表情は、いつもと全く違っていた。私の心を砕く鋭利な視線も、私の声を止める圧迫感もそこにはない。ばつが悪そうに立ち尽くす花宮の顔は、笑ってしまいそうになるほど頼りなく見えた。
今この瞬間初めて、理論と実態が一体化したような、そんな感覚。
ああ、やっぱり私が勝手に竦んでいただけだったのか。何度も花宮を前にして懲りることなく傷ついていた自分が本当に可哀想。だって今の私、花宮がうまく悪童の顔を作れていないっていうただそれだけで、こんなにも────
そう、こんなにも────苛立っている。
「私のこと、嫌いなんじゃなかったの?」
私を守ってくれているという仮説に確信を持てたところで、私は喜んだりなどできなかった。むしろこんなにも腹立たしくて仕方ない。花宮が私を突き放してこの場をすぐに立ち去らなかったという事実がその怒りに拍車をかけ、私は自分でも驚くくらい語気を強めていた。
そりゃあ、本当に私を大切にしてくれていたのだとしたら、信じるか信じないかは別として嬉しい。なんなら、それはありえないと切り捨てながらも心のどこかで願っていたささやかな欲望でもあったから。
でも、これをこんな形で示してほしくなんてなかった。彼が私を傷つけたくないと思ってくれているのと同じように、私だって彼に傷ついてなんてほしくないのだ。
ましてやそれが、私のせいだなんて。
「私のことが嫌いなら、大事な手じゃなくて私自身を差し出せば良いでしょ。私のことが目障りなら、他校の奴らに絡まれてる私を見ても、ただ笑って通り過ぎれば良いでしょ。私のことなんてどうでも良いなら……瀬戸と私がどうなろうが、花宮の干渉する理由なんてないでしょ」
あんなに悲しい嘘をついて、自分だけ傷ついて。悲劇のヒーロー気取りなのかなんなのか知らないけど、私はそんなの全然嬉しくない。
どうでも良いなら放っておいてよ。
どうでも良くないなら、一緒にいることくらい許してよ。
「ねえ花宮…あなたは何がしたいの?」
もう今更こんな矛盾だらけの言動を無視することなんてできない。これからどうするつもりなのか、私と向き合ってきちんと話をしてくれるまで、絶対に引き下がらない。
じっと花宮の目を見つめる。彼は迷うように視線を泳がせていたが、やがて毅然とした態度で私の目を見返した。すっと立ち上がり、冷たい目で私を見下ろしてくる。
「良いか、何度でも言ってやる。俺はお前が嫌いだし、今こうして駆け付けたのは俺のせいでお前が傷つくっていう…そういう関わり方ですら虫唾が走るからってだけだ。俺は俺を傷つけたいなら雪葉を傷つければ良いって思ってるような馬鹿な奴らの勘違いを潰したくて仕方ねーし、そもそも俺が原因でお前に何らかの影響が及ぶことすら俺にとっちゃ我慢なんねーんだよ。とにかく俺はお前と完全に縁を切りてぇんだ、わかるか」
そこまで嫌われていたなんて…
………………
…とは、流石に思えなかった。
突けば突くほど彼の理論には穴が空いていくようだ。だいたい彼と私に繋がりがあると他の人間に思わせたくないなら、それこそ昨日のうちに私の名前を出されても鼻で笑って、喧嘩を受けてしまえば良かったじゃないか。
「さすがにそれは嘘…でしょ」
確かめるように呟く。花宮の顔色は変わっていなかったけど、すぐに反論が返ってこないあたり思い当たる節はあるようだ。
「花宮の影響で私が怪我をすることが…そんな関わり方ですら嫌だっていうなら、むしろ徹底的に無視をすれば良いじゃん。私が例えば"あなたのせいで私は怪我したんだけどどう責任とってくれるの!?"とか言っちゃう系女子だったらともかく、私がそういう…自分からあえて花宮に害を加えたがる人種じゃないのは花宮の方がわかってるよね」
矛盾のないように、考えながら言葉を紡ぐ。黙ったまま聞かれているのが、まるで私の仮説は正しいという答えになっているような気がしていた。
「花宮、いつもそう。私の身に何か困ったことがあった時、まず私の全身を上から下まで見るの。それから私の表情を窺って、それから必ず私自身に"大丈夫か"って確認するの。怪我がないか、もう危険は去ったのか、絶対私の口から言わせるの」
さっきだってそうだった。花宮はここに来るなり真っ先に怪我はないか、って訊いてきて、私の頭から足までを観察してた。
「……もし私のことが目障りで、花宮と私を関連づけてる奴らの思考が気に入らないっていうそれだけなら…本当にそれだけなら、私の"今の安全"なんかどうだって良いよね、だって"何が起きたのか"、"どうしてそんなことが起きたのか"だけ確認すれば済むんだから」
花宮は、自分にとって無駄な情報だとわかっていながら人の安否を気にしてしまうなんて、そんな優しい人間じゃない。無駄なことは絶対しないし、無意識の行動に時間も思考もとらせたりしない。
井口南の奴らに捕まった時だってそう、花宮は自分を助けるためだなんて言ったけど、本当にあの場を自分の手で切り抜けることだけが目的なら、その後で私の怪我の手当てまでする必要はなかった。
…ううん、それより…花宮が本当に私を駒としてしか見てなかったなら、もっと前からおかしい点はあった。
例えば井口南の奴らに2人一緒に絡まれた時。花宮は相手に気づくなり私を逃がそうとした。お前は関係ないから今だけでも離れてろ、と。
それだけなら"2人一緒にいるところを見られて、私が彼女と勘違いされたら面倒=その後の(体育館拉致事件のような)展開を予測して回避しようとした"という理論が成り立つかもしれない。
でも、それだと"その後"の彼の行動に矛盾が生じる。
あの日以来、花宮は私を1人にすることを頑なに嫌がっていた。危ないから、俺の隣にいろと。
────私が一緒にいると厄介なのに、私を傍に置きたがるなんて、どう考えても合理性に欠ける。
念の為 ここで仮に、彼が私をその後も傍に置き続けたことについて、更に屁理屈を重ねてみる。
つまり"一度他校の奴らの目に留まってしまった以上、私を彼から離すことは諦め、逆に彼の目の届くところに置いておいてこれ以上のトラブルが起きることを防ごうとした"から傍に置くようになったのだと仮定するのだ。
すると今度は、実際井口南の奴らとトラブった後、ああもあっさりと突き放されたことの方に矛盾が生じる。
傍に置こうと決められていたはずなのに、今度は一緒にいることを嫌がるなんて、いよいよその行動に一貫性がなくなるではないか。
「私はずっと、花宮は私のことなんて道具だとしか思ってないって思ってた。だからこの間拒絶された時も、本当に愛想をつかされたんだって信じてた。瀬戸達は、花宮は私を大事にしてるって言ってたけど…そんなこと、信じられなかった。だってあなたの善意は信じちゃいけないって、私の知り合ってからの3年間の経験がそう警告してきたから」
いい加減最初のショック状態からは抜け出し、体にも力が入るようになっていた。校門のど真ん中でいつまでも座り込んでいるわけにはいかないと、足に力を込めて立ち上がる。遠ざかった彼の顔が再び近づき、物言いたげな表情がよく見えた。
「でも────でも、状況が、もう私に花宮のことを疑わせてくれない。事実として花宮は、私を守ってくれてる。…ねえ花宮、花宮は私に、嘘をついてるんじゃない…?」
どきどきと激しく脈打つ心臓の音が、どうか聞こえませんように。私はまるで一世一代の勝負を仕掛けるような気持ちで、彼の目を見つめていた。
これだけ理論的な確信があってもまだ博打のような気がしてならないんだから、花宮という男のかける呪いは恐ろしい。
「…………」
花宮は黙っていた。少しの間、私達は一言も発さずに見つめ合う。
都合が悪くなると口を閉ざすのは、彼の悪い癖だ。いつも世界の全てを見通したような顔をしているくせに、いざ思い通りにならない事態と直面するとするに子供が不貞腐れたような顔を晒す。
こうやって私の疑問がはぐらかされる(と言って良いのかすらわからないほど稚拙な方法ではあるが)のは何度目だろう。私に対する言動は不可解なものばかりなのに、素直にそれを疑問として口にすると、彼はいつもそっぽを向いてしまう。
いつだったか、本当に私の質問に答える気があるのかどうか訊いたことがあったっけ。
あれはそう、寒くなり始めた頃の屋上で、2人並んでお昼ご飯を食べていた時。まだそんなに昔のことじゃないはずなのに、懐かしく思えてしまって────同時にとても悲しく思えてしまう。
なんでそんなことを訊いたんだっけか、と少しだけ頭を巡らせて、
「お前さ…なんで俺と一緒にいるわけ」
花宮の、心底不思議そうな声を思い出す。
思えば、あれも随分唐突な問いだった。花宮の隣に迷わず向かうようになった私の心の変化に一瞬で気づき、お得意の詰問口調で空気を冷やしたのだ。
「勘繰るのが面倒になった、からかなぁ」
今となってはなぜだかわからないけど、あの時の私は花宮への気持ちを認めたことでどこか高揚していたんだと思う。自分と向き合ったことでどこか強くなった気になっていたんだと思う。
「花宮が私にしたこと、言ったこと、その真意は未だに全然わかんない。私をまた何かの駒にしようとしてるのかなあとも正直疑ってる。でもそれが何なのか考えたところでわかんないから、それならまあもう諦めて付き合ってやろうかな、的な」
あの時の花宮の顔、面白かったな。私は私で大きな賭け事をしている気分だったから それを笑う余裕はなかったけど、今思い返すと彼の意表をつかれた顔というのは割と貴重なものだった。
「考えてることも言動の真意もわかんねえような奴の隣に、よく自分から行こうなんて思ったな」
「それしか選択肢がなかったとも言うんだけどね。そういうの、いつ教えてくれるの」
例えば簡単なものなら、去年クリスマスに突然誘った理由とか。
そうでなくとも、中学の時はあっさり離れておきながら、高校に上がった後のこのタイミングで再び彼が強引に私を傍に置きたがるようになった理由とか。
あるいはいつだったか三好君への気持ちを非難された時に訊いた、あなたは心からの"好き"という気持ちを理解しているのか、とか。
────今思えば全ての始まりとなった、私にキスをした理由、とか────。
花宮の頭の中を見せてくれる日はいつか来るんだろうか。
私に向けた不可解な言動の理由を打ち明けてくれる日はいつか来るんだろうか。
そう思って尋ねたら、彼は呆れたように
「…お前がいつか、俺から離れる時」
と言ったのだった。
「────…」
そこまで思い返して、私は一つのことに気づいた。
あの日、それを言われた時はなんて意地悪なことを言うんだろうと相変わらずの様子に呆れ返ったものだったけど。
もし、もしも────
彼が私を大切にしてくれているという、今私が立てているそんな仮説に沿って考えるのなら。
全ては私を守るために動いてくれているという、そんな甘い妄想を恥ずかしげもなく語るのなら。
花宮が沈黙したそれらの"理由"を解き明かすことが、彼の嘘を暴くことに繋がるのかもしれない。
……どうやらあの日逃げるために使われた言葉を、逆手に取れる時が来たようだ。
花宮の揚げ足を取るなんて、一歩間違えば大惨事になりかねないことは重々承知していた。
でも、今のこの状況は花宮も流石に予測していなかったはず。そもそもこの男は自分の優勢が危ぶまれるリスクなら完璧にヘッジしてくるが、(いや、ここで完璧にヘッジできるが故に)"自分が完全に劣勢に立たされるリスク"を十分に考慮しないきらいがある。
私に真実を伝えまいとして発した彼の性悪根性な発言がこんな形で生きるなんて、誰が予想できただろう。
花宮が確固たる意志で私を突き放したのに、その私がまた花宮の前に立ちはだかる未来なんて、誰が言い当てられただろう。
"私がいつか、花宮から離れる時"。
そのトリガーが、こんなところで発動するなんて、誰が考えられただろう。
原因はどうあれ、私と花宮は一度決別した。
つまり私は今ここで、真実を知る権利を正式に手に入れた。
口を閉ざす彼を追い詰める、最後の武器を手に入れた。
「……花宮、約束覚えてる?」
こじつけだと一蹴されたって良い。
彼の言葉を聞く理由が、今は1つでも多く欲しかった。
「………」
花宮は答えないまま、私を見つめていた。
「……私がなんで花宮の隣にいるのか訊かれた時、もう色々諦めたからだって言ったでしょ。…その時同時に私、花宮に聞いたよね。私があなたに対して抱えてる疑問に答えてくれる日は来るのかって」
彼の顔が僅かに歪む。全てを理解したように「あぁ…」と嘆息する姿には、流石としか言いようがない。今の流れだけで、私の言いたいことを呑みこんでくれたらしい。
「あなたは、私があなたから離れた時に教えてくれるって約束した」
本当は、花宮が幸せになってくれたら自発的に離れるつもりだったのだけど。
だって私の幸せは、花宮の隣で、彼の人道に悖るすらいえる生き様を見守ることだったから。
簡単な"好き"という言葉に収めるには、この感情は少しばかり暗いかもしれない。
簡単な"幸せ"という概念に当てはめるには、この願いは少しばかり歪かもしれない。
それでも、私は私なりに、まっすぐ彼のことを見つめてきたつもりだった。
どう足掻いても不幸にしかなれない彼のことを、それでもどうにか報われますようにと寄り添ってきたつもりだった。
自己満足と言われたら本当にその通りだと返すしかない。もとより人間の幸せなんてエゴの塊でしかないとは思っているが、私はまさにその体現者のようなものだ。
色々並べてはみたものの、別に"彼の幸せが私の幸せなの!"と言いたいわけではない。
人の幸せをそのまま自分の幸せと呼べるほど、私は善心にまみれていない。
ただ私は、彼がひとりで不幸に堕ちていくのを見ていられなかったという、ただそれだけのきっかけで傍にいることを望んだ。多分、そこに綺麗で恋心なんていうものはあまり含まれていないと思うけど、それでも私にとっては、それが一番確実で純粋な想いだったのだ。
私が真に関心を持っていたのは、"花宮真"というどこまでも屈折した人間の在り方そのもの。要は彼の幸せという結末に幸せを感じるのではなく、彼が幸せになるまでの過程に幸せを見出したかったのだろう。
だから────だからね、花宮。
あなたが幸せになるために私が障害になってしまうというのなら、仕方ないのかもしれないけど。
あなたが私を離したその理由が、必ずしもあなたの為ではないというのなら。
「私に隠し事をするのは、もう終わりにして」
もう、互いに意地を張るのはやめよう。
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