人のいない寝室は、やけに静かだった。さっきもリリーと2人きりの部屋にずっといたけど、あの時は暖炉や時計の安心できる物音が微かに響いていた。
今はそれが全くない。完全な沈黙の中、月明かりだけを頼りに、シリウスと私は彼のベッド脇に向かい合って座っていた。
「本当は、今日みたいな色々あった日じゃなくて、もう少し落ち着いてから呼びたかったんだけど…」
シリウスが最初に言ったのは、そんな迷いの言葉だった。
「でも、ああいうことをした以上、一刻も早く"僕の本当の価値観"を伝えないといけないって思ったんだ。先週も言ったけど、今日のことは僕の根本的な思想とは少し違った、単純な"復讐"だ。それとは切り離した上で、誤解されてしまう前にちゃんと話しておきたかった。エバンズもいたのに、悪い」
「ううん。それとこれとは別だって言うのなら、リリーもそれはわかってくれる子だから」
シリウスは神妙な顔で頷く。
「…この期間、自分で言った通り…自分の考えを、もう一度改めた。自分自身と向き合った。まあ…色々しながら、僕は僕で、"僕"という存在を模索した」
何をしたのかは、今の時点では聞かないことにした。
長い話になりそうだ、と思った。
「────その上で、はじめに言っておかなきゃいけないことがある」
改まって、彼は私の目をまっすぐに見つめた。
月光が、彼の横顔を白く照らす。意思の強い、灰色の瞳。彼の薄い唇が、若干震えていた。
「僕はやっぱり、スリザリンを好きにはなれない。スリザリンと名の付くものを見れば吐き気がするし、どうしても偏見を持たずに見ることはできない」
私は黙っていた。
────そこはきっと、どれだけ考えても変わらないだろうとわかっていた。
「…確かに僕はスリザリンを憎まずにはいられない。それは多分…君の言う通り、一生相容れない部分だと思う。僕はスリザリンの奴らと手を取り合うには、少し歪んだ環境に身を置きすぎた」
1月の時点で既に彼はこう言っていたのだ。考え直したい、君と縁を切りたくない────縋るようにそう言いながらも、それだけは曲げなかった。
だとしたら、それはきっと彼の心に根差す最も太い芯なのだろうと思う。
でも、私はあの時のように絶望してはいなかった。
わかりあえないのだろうか、と苦しみを覚えることはなかった。
だって、シリウスの顔が────半分明るいその顔が、今まで見た中で一番真剣な表情を見せていたから。
わかりあえないと諦めたのなら、もっと気楽な顔をしているはずだ。気楽な顔をして、わかりあえない"私"という存在を軽んじてみせたっておかしくない────それこそ、1年生の時のように。
だからこれはきっと、あくまで前置きに過ぎないはず。そう思って、私はそのまま続きを促した。
「だから、スリザリン出身者や、スリザリンの生徒、そしてスリザリンの精神に賛同している者とはきっと友好的な関係を築くことができない。これが第一の結論だ」
「…うん」
「相手がスリザリンの者であるなら、必ず僕は警戒する。信用もしない。でも────」
でも。
私は、その先が聞きたかった。
シリウスがスリザリンへの抵抗感を拭えないであろうことは予想していた。
それでもなお、今日こうして改まって話をするというのなら────「スリザリンは嫌いだ」というわかりきった事実の"その先"があるはず。
「でも、だからって誰でも彼でも"敵"と決めつけて、先に杖を抜いて突き付けるような真似はしないと誓う」
私は黙ったまま、続きを促す。
「僕は確かに、スリザリンを蔑視していた。スリザリンこそ見下すべきものと思って、ジェームズと一緒に…まあ、もう今だから言うけど、何の悪さもしてないスリザリン生に絡んだこともある」
肩をすくめながらシリウスは言った。
深い後悔や過去の自分を否定している様子はない。
まるで「当時の自分はバカだった」と、単純に振り返って嘲っているかのようだった。
「でも、君の言葉は真理だった。そういう行為そのものが、本来僕が嫌っているはずの"ステータスで相手の全てを知った気になる"ことだったんだ。どうしてだろうな、考えるまでもなくそんなこと、わかってたはずなんだけど…でも、愚かだった。言われるまで気づかなかったんだ。そして、言われて気づいた。何もスリザリンっていうステータスを持つ人間が全員"敵"になるわけじゃないってことに」
私にとっては"当たり前"だったことを、シリウスはここにきてようやく理解してくれた。いや、そんな言い方は傲慢かもしれない────シリウスにとってそれは、"当たり前"ではなかったのだから。当たり前だと思えない環境に、ずっと身を置いていたのだから。
私にとっては当たり前でも、彼にとっては難しいことだっただろう。何より嫌うスリザリンという"概念"の中で、"敵"と"敵にならない者"を選り分けるのは。
「これについては、そう思わせてくれた奴がいたからこそ確信が持てたんだけどな」
「…そう思わせてくれた奴?」
「…まあ、細かい話は置いとくとして…"ある人"が僕に、教えてくれた。"サラザール・スリザリンとゴドリック・グリフィンドール"は手を取り合えなかったかもしれないけど、"スリザリン寮に入っただけの普通の人間と、グリフィンドール寮に入っただけの普通の人間"なら、わかりあえる部分もあるかもしれないって」
…なんとなく"ある人"の正体を推測しながら、私はシリウスの話を聞き続ける。
「僕自身、そいつと話していく中でようやく実感が持てたよ。スリザリンは嫌いだし、ずっと抵抗感がある。ただ、スリザリンだからっていう理由だけで、関わる人間全てを軽蔑するのは愚かしいって…さっき言った通り。だから僕は、今までの行動を改めることにした」
シリウスの言葉には全く迷いがなかった。嘘をついている様子もなければ、冗談すら混ぜてこない。
彼は今、本気で"それまでの自分"を変えると宣言した。
「…もちろん、僕は闇の魔術には徹底的に対抗していく。今日のスネイプもそうだけど────あいつらみたいに、闇の魔術をお遊び感覚で行使して、ヴォルデモートについていこうとしている奴ら────"敵"とわかってる人間とは、これからも杖を交えるだろう」
「────…」
本当は、戦わないでと言いたかった。
しかしそこをぐっと堪える。それはただ単に私の"個人的な感情"の問題であって、"倫理的に許されるライン"の話じゃない。
「そして、それはスリザリンだけじゃない。君もいつか言ってたけど────何を考えてるかわからないのは、何もスリザリンに限った話じゃないんだ。レイブンクローだろうが、ハッフルパフだろうが、グリフィンドールだろうが、僕は僕の"敵"だと思った人間には容赦しない。闇の魔術に傾倒する者、マグルやマグルの擁護者を排除する者、それらにはこれからも反抗していく。────ただ、そこについても補足だ」
小さく頷いて納得しかけた私に、「まだ続きがあるぞ」と言わんばかりにシリウスは言葉を繋げた。
「君は"一方的に呪いをかけて笑っていられる僕が嫌い"って言っただろ」
「え? うん」
言った。
相手を無力化させて、動けなくしてもまだ追い打ちをかけて笑っていられるような人は、私が嫌う"一方的な虐めを楽しんでいる人"になるのではないかと思ったから。
でも、それについては後からずっと迷っていた。
そりゃあ、武器を持たない丸腰の、罪もない人に呪いをかけて遊んでいる行為は卑劣だと言わざるを得ないだろう。
じゃあ、武器を持っていて、邪悪な思想に染まっている人が相手だったら?
その人を相手に武器を奪って、無力化させた後、それで安心して背を向けるのか?
その相手がいつ立ち上がるとも知れないのに。その相手がまだ武器を隠し持っているとも知れないのに。
「────本当は、君の価値観に全面的に共感したかった。でも、この部分だけは無理だった」
まるで何かを恐れているように、シリウスの眉がぐっと中央に寄った。
「反論があれば言ってくれ。あえて攻撃的な言い方になるのをわかった上で、言う。────君は少し、現実に対して日和見過ぎる」
ああ────やっぱり、そうだったのか。
「闇の魔法使いに対しては、瞬間的に無力化させた程度では絶対にその闇を取り払うことができない。なぜなら僕らだって、一度や二度闇の魔法使いに破れたところで、決してそれに屈さないからだ。だから僕は────ホッグズ・ヘッドで君に止められて一度は杖をしまったけど────きっと同じことがあったら、また徹底的に叩きのめそうとすると思う。相手にまだ戦う意思がある限り、こちらへの敵意がある限り、こちらもそれを全力で折りに行く。そして学生のうちからこんなことを言うのはアレだけど…仮に向こうが僕を殺そうと言うのなら、僕だって相手を殺すつもりで敵対するつもりだ」
ぐ、と胸に重いものが詰め込まれたような気がした。
シリウスの意見は、ある意味私の迷いを晴らしてくれる言葉だった。
そうなのだ。結局光と闇は、どちらかがどちらかを完全に呑み込むまで、勝手に消えるということはないのだ。下手に恩情なんてかけている間に、一気に足元を掬われてしまう。
こればかりは、ホッグズ・ヘッドでの私の行動が甘かったようだ。もしかしたらシリウスの方が正しかったのかもしれない、とずっと悩んでいた私に、彼の言葉がやっと答えをくれた。
ただ────その上で、思う。
まだ実感のない"命を懸けた戦い"。彼はそれすらも想定していると言った。
何度か思ったことがある。シリウスは、私よりずっと大人で、世の中の残酷な"現実"を知っていると。
今もそうだ。私より遠きを見て、私より広きを見ている。
彼は備えているんだ。卒業して、この安全な箱庭から追い出された後の、過酷な世界に向けて。────闇の魔法使いと戦う未来に向けて。
だからこそ、彼の言葉が重かった。
ただでさえ「彼に戦ってほしくない」なんて甘ったれたことを考えている私なのだ。"命"まで持ち出した彼の言葉に、素直に頷けるわけがない。たとえそれが、先程と同じように個人的な感情によるものだとしても。
私が反応を見せなかったのをどう思ったか、シリウスは一旦言葉を切った。
まだ論点は残っている。最後の1つ、と言ってシリウスは言葉を続けた。
「────友達を危険に晒す真似をする人間が嫌い。これは僕も同感だ。そして、半年前、リーマスを危うく人殺しにしかけてしまったことについては、今も深く悔いている」
「……」
「昔からどうにも、ブレーキが壊れやすいんだ。これは僕の欠点だと自覚しているんだけど…小さい頃に大事な人と呼べる人が少なかったからなのかもしれない。数少ない"守りたい"と思えた人に対して、異常に執着してしまうんだ。その人のためならなんだってするって気になって────だから、安い挑発にも乗っちまうし、度が過ぎた行動を取ることもある」
否定はしなかった。
そして同時に私は心の内で、「私も同じだ」と思っていた。
「これについても────うん、直していかなきゃいけないとは思ってる。もっと大人にならないとってね。でも────こればっかりは性格の問題だ。理性でどうこうできる話じゃない。努力はするけど、改善には時間がかかるだろう」
よくわかる、と思ってしまった。
「だから、ここまでの話を踏まえて君に問いたいことがある」
シリウスの話は唐突に終わった。ずっと私に据えられていた彼の目が逸らされることはなかったが、改めてあの胸の奥まで見透かされるような視線を向けられ────私は、自然と背筋を伸ばす。
「僕の出した結論はこの通りだ。君にとって納得のいかない部分もあるかもしれない。でも、半年もの時間をもらって、僕は改めて僕のあるべきスタンスを再認識した。その僕と────やっぱり相容れないと思うのなら、確かに僕達は一緒にいるべきじゃないだろう。いつか僕は君を"日和見な理想論主義者"と呼んでしまうかもしれないし」
日和見な理想論主義者、という言葉がグサリと刺さる。
確かにそれは、ついこの間まで私が考えていた"立派な優等生のご意見"だった。
「でも────もし、まだ手を取り合う余地があると思ってくれるのなら────僕がブレーキを壊しそうになった時には、君に止めてほしいんだ」
「────…」
それは、完全なる"共存"の提案だった。
彼の結論は全く私に媚びていない、十分に本音といえるものだった。
スリザリンへの偏見は治せない。でもだからって、あからさまな態度に出して蔑視することはしない。
無力な相手に対する一方的な攻撃を否定することには賛成する。でも相手が闇の魔法使いである場合、そこに容赦はできない。
それを踏まえて、もし彼が"無鉄砲な行動"を取ろうとしていたら、私にそのブレーキ役を代わってほしいと。ブレーキを利かせられるように、いつも隣にいてほしいと。
私は、改めて自分の"ライン"を定義する。
ステータスだけで相手を差別する人が許せない。
でも、それが"思想"であるうちは自由だ。レギュラスが純血主義でありながら実際に私達に手を挙げてこない以上、私も彼を明確な"敵"とみなさなかったことと同じ。
それにこれはいつか思ったことでもある────スリザリンの"悪性"ばかりを刷り込まれてきた彼が、その抵抗感を拭うのは並大抵のことではないと。ある意味、彼のスリザリンへの憎しみは"あって当たり前のもの"なのだと。
だったら、それが"行動"として出ない限り、私は彼の思想を受け入れることができるのではないだろうか。
そして、邪悪な魔法を楽しんで使う人も許せない。
これについては、まずシリウスが自分の言葉で「闇の勢力には徹底的に対抗する」とハッキリ明言した。
そこに派生する"無力な人に一方的に攻撃する人"への嫌悪感だが────これについては、むしろ私の方が価値観を矯正してもらったような気持ちだった。
世の中には、一度無力化しただけでは全く意味のない人もいる。
ラインを引くべきは私だった。杖がなければ無力というわけではない。怪我を負わせたからそれ以上攻撃してはならない、なんてそんなことは言っていられない。
ジェームズも言っていたではないか。外の世界は大変だと。
そんな世界を生きて行かなければならないのなら、今のうちからそのくらいの覚悟はしておかなければならないのだろう。たとえ、実感がないとしても。
最後に、友人を傷つける者を許さない。
これは…シリウスの欠点がたまたま裏目に出たね、と笑うしかなかった(もっともここで笑えるのは、ジェームズのお陰でなんとか事が無事に収まったからに他ならないが)。
心配するまでもない。シリウスは、誰よりも友情に厚い人だ。
きっと私と同じか、それ以上に友人を傷つける者を許さないだろう。
私は、リーマスの秘密をスネイプに教えてしまった後のシリウスの顔をまだ覚えていた。
悔しそうで、苦しそうで、痛そうな顔をしていた。
あの時彼が自分をどれだけ責めていたかは、それだけ見ればすぐにわかった。
欠点のない人間なんていない。
彼の無鉄砲で傲慢さの隠し切れないところには、何度も眉をひそめてきた。
でも、そのブレーキを私が担っても良いと言うのなら。
彼の短所を「それは良くないところ」と、これからもハッキリ言って良いのなら。
────むしろ私にも似たようなところがあるので、逆に同じ場面では協力を願い出たいところだ、と思った。
「どうだろう。…やっぱり、君には────」
「────私が同じように復讐で頭がいっぱいになった時は、止めてくれる?」
「え? ああ…もちろ…え?」
シリウスは先程までの真面目一辺倒な態度はどこへやら、完全に戸惑った様子で声を裏返していた。私は思わず自分の顔に笑みが浮かぶのを感じながら、もう一度同じことを尋ねる。
「そういうことなら、私、シリウスの悪いと思うところは全部指摘していく。暴走しそうになったら、杖を取り上げようが呪いをかけようが、どうにでもして止めてみせる。だから、シリウスも、私が度を過ぎた真似をしようとしていたら────止めてくれる?」
「ひとつだけ、理解して欲しいことがあるんだ。僕だって、僕の大切なものが害された時には全力で報復する。────そこだけは君と同じなのだと、今は難しくても…どうか、理解して欲しい」
ホッグズ・ヘッドで揉めた後、リーマスの秘密を明かしたシリウスを糾弾した時、彼は自分の完全な非を認めた上で、私にも理解を求めてきた。友達を大事にするあまり、暴走してしまう傾向があることを。その点においては、私も同じなのだと。
今ならそれが、よくわかる。
なぜか知らないが私のストッパーはいつもジェームズだった。これは全てタイミングの問題に過ぎなかったのだが、とにかく彼が私を止めてくれていなければ、私だってシリウスと同じように度が過ぎる攻撃を一度ならず相手に向けていたかもしれない。
それを、今度は彼に担ってほしかった。
彼には、私の傍にいてほしかった。
「もちろん。でも────」
「1月は言い過ぎてごめん。あの後、私も色々考えたんだ。シリウスの行動は、厳密に考えると私の"ライン"を必ずしも越えてくるものじゃないかもしれないって。確かにスリザリンだからっていう理由だけですぐ攻撃に走るのはやめてほしいって思ってたけど、それはもうしないって約束してくれたし。…それに、無力な人に攻撃を続けることの是非は、むしろ私の意見の方が変わった。無力化させても攻撃を止めちゃいけない人がいるっていう"現実"を、私はちゃんと受け止めなきゃいけないと思う。その上で、最後のあなたの欠点────これを私に補わせようとするなら、私はそれを受け入れる。だから、その上であなたにも、私を同じように補ってほしい」
そして、私はようやく結論の出せたこの言葉を、シリウスに告げた。
「────好きだよ、シリウス」
好きだった。
どうしても、好きだった。
特別であることは最初からわかっていた。きっと友人以上の感情を抱いているのだろうとも気づいていた。
それでも、受け入れきれない"ちょっとした問題"があったために、私はいつまでもそれを"恋"と呼べずにいた。
だからこそ、1月のホグズミード帰り、私は素直にそれをシリウスに伝えたのだ。
そうしたら、なぜか私の方が迷ってしまった。
シリウスにかけた言葉は正しかったのだろうかと。
正しいと思った部分もあるし、逆に誤っていると再認識させられた部分もあった。
迷いながら、彼の欠点を改めて考えた。
傲慢。無鉄砲。頭に血が上りやすい。
そりゃあ、そんな性格では敵も多くなるはずだ。戦う数も増えるし、それだけ怪我もする。ホグワーツ内ですらこんな状態なのに、卒業してしまったらきっと、彼の存在はこれまで以上に闇の魔法使い達にとって格好の標的となることだろう。
────それが、無性に怖かった。
心配だった。戦ってほしくない、怪我をしてほしくない。
ずっと笑って、学生の時のように楽しいことをして、幸せに生きていてほしい。
その願いに気づいた時だった。
私はもう、頭で考えるまでもなく、どうしようもなく彼のことを好きになっていた。
好きになってしまったと気づいた後で、「私の許せないラインを越えている」と覆せない事実をシリウスから告げられたらどうしよう。スネイプに復讐するのは「話が別」と言っていたけど、やっぱり根本的に人を攻撃することが楽しいのだと結論づけられてしまったらどうしよう。
そういう意味で、私はこの"話し合い"の時が来ることを密かに恐れていた。
でも、そんなものは杞憂だった。
彼は、私に歩み寄ってくれた。
いや、決して意図的に歩み寄ったわけではないのだろう。彼は私の意見を聞いて、ただ真摯に自分と向き合ってくれた。そうして出た結論が、たまたま"私の基準で許容できる範囲内"にすっぽりと入ってきてくれた。
だったら、もう私の答えに迷いはない。
シリウスが好きだ。
スリザリンをどうしようもなく嫌ってしまう悲しいところも、友達のためにすぐ熱くなりすぎてしまうところも含めて、全部好きだった。
「────えっ」
シリウスは、私の告白をすぐには受け入れられないようだった。
「今の────本気か?」
「なに、自分が言ってきた時はあんなにいやらしく焦らしてきたくせに。私の気持ちは疑って、何度も言わせるつもり?」
「いや、だって…」
「"考える時間をもらった"のは、あなただけじゃないよ。私も色々考えた。考えて、迷って、あー…リリーにも相談したなあ。そうやって色々悩んだ結果、やっぱり好きだなあって思ったの」
「そもそもあなたが引いたライン自体は正しいと思うの。ただ、ブラックのやっていることがラインを越えてるのか越えてないのかは、私にもわからない。そしてあなたも同じように"越えてるともいえるし越えてないともいえる"って思うのなら、もうその判断はブラックに任せちゃえば良いわ」
「それで…それを聞いて、このなんかモゴモゴ迷ってる状態の私はどうしたら良いと思う?」
「その時はその時。ブラックの話を聞いて、改めてあなたがどう思ったかによって、今後の付き合いをゆっくり考えれば良いのよ。どうせ好きになる時なんて頭で考えるより先に好きになっちゃうものなんだから」
リリーの言った通りだった。
シリウスの話を聞いてみたら、私の答えは思った以上にクリアに出てきてくれた。
どうせ好きになる時なんて、頭で考えるより先に好きになっちゃうものだった。
「じゃ、じゃあ…」
「あ、でもスネイプの問題だけは相変わらず非干渉ね。これだけはどっちも同じくらい悪いと思うし、私はこれからもあなた達の"味方"はしない。でも、それ以外のところは────十分、納得した。あなたは私のラインなんて越えてなかったし、あなたさえ許してくれるなら私は────」
「許すも何も、僕は君がずっと好きだって言ってるじゃないか!」
身を乗り出して、シリウスが私の言葉を遮った。綺麗な顔が間近に迫り────それは月光に輝く美しい顔に気圧されているのだろうか、それとも単純に好きな人の顔だからなのだろうか────私は、どうしても心臓の鼓動が速まることを止められずにいた。
「好きなんだ、イリス」
「…うん」
「僕と、付き合ってほしい」
「…よろしくお願いします」
照れておかしな表情になってしまった顔を隠すように目を伏せて答えると、シリウスがまるでどこかの真っ黒な大きい犬のように吠えた。
直後、ドタドタと複数人の足音が近づいてくるのが聞こえる。
「あ、ほら、こんな夜遅くにうるさくするから────」
「パッドフット!」
「うまくいった!?」
「わ、2人とも笑ってる! 仲直りできたんだ!」
「バカ、仲直りなんてもんじゃないぞ、2人は恋人になったんだ!」
「シリウス、イリス、おめでとう!」
────悪戯仕掛人の、3人だった。
私達は2人、ぽかんとして祝福に舞う3人を見る。
まさかこんなにすぐやって来るとは思わなかった。
「お前ら、聞いてたのか…?」
「いや、全然。でもこんな真夜中に、パッドフットの雄叫びが聞こえないわけないだろ」
ジェームズがしれっと答えた。
「あーあ、良いなあ。僕なんて今日エバンズに思いっきりフラれたばっかりなのに」
「そりゃおまえ、友達のための復讐と自分の恋愛、どっちを優先するんだよ」
「まあね、背に腹は代えられないな。パッドフットもフォクシーに拒絶されるかもって震えながら今日杖を上げたわけだし」
「人を臆病者みたいに言うな」
すっかりいつも通りの様子で笑い合っている4人。
もみくちゃにされながらも、一瞬シリウスと目が合った。
その時、彼はにっこりと────あの眩しい笑顔で、笑ってくれた。
「────さて、と。じゃあこれはこれ、それはそれってことで」
散々シリウスをくすぐっていたジェームズは、ようやく満足したのかたっぷり10分経った後に彼から手を離した。
「パッドフットとフォクシーが仲直りできたのはめちゃ嬉しい。本当は悔しいけど、まあ嬉しいってことにしとく」
「本音漏れてんぞ」
「ただ、昼間に僕らがやったことについて、エバンズにかなりダメージを与えた自覚もある」
ジェームズが出したのは、リリーの名前だった。彼の好きな人だから、というのもあるかもしれないし、単純に私の親友として心配してくれているのかもしれない。
リリーは大丈夫だったろうか。スネイプに呼び出されて談話室の外に出て行ってしまったあの後ろ姿が、脳裏に蘇る。散々泣いて怒った後なのであれ以上無駄に感情が乱されることはないと思うが、スネイプがまた余計なことを言っていなければ良い、と思う。
「だからイリス」
ジェームズの後を継いだのはシリウスだった。気遣わしげな声で、私の肩にそっと手を添える。
「巻き込んで悪かったとは思ってる。でも、エバンズのケアは僕らにはできない。本当はあいつのいないところでやりたかったんだけど────」
「うん、リリーのことなら私が全力で守るから」
何よりも友情を大切にしている彼らのことだから、私の言葉もきっとすぐに信じてくれただろう。
今の話は今の話として、いつかリリーにもちゃんと報告しようと思う。
でも、自分のことなんかより、まずは彼女が元気になってくれるよう努めるのが一番だ。
「エバンズがまた元気になったら、僕と改めてデートしてくれ」
「うん。ていうか夏休み、うち来る?」
「行きたい」
「なんでプロングズが答えるんだよ」
「良いよ、みんな来なよ。リリーも誘うから日程は調整するけど────」
全員まとめてお誘いをかけると、4人ともがわっと嬉しそうに笑った。それを見ていたら、私も嬉しくなって────今日の苦しみを一瞬忘れ、笑顔になる。
「じゃあ、今日はもう行くね。リリーも戻って来てるかもしれないから」
「ああ、また明日」
「おやすみ」
男子寮を出て、戻るのは自分の寝室。
5年生用の寝室には、もうすっかり眠り込んだ様子のシルヴィアとメリーと、枕を背もたれにしてベッドに座っているリリーがいた。
「リリー」
「おかえりなさい、出しなにブラックがあなたの方に近寄って行くのを見たわ。今まで一緒にいたの?」
「うん、まあ。それより…そっちはどうだった?」
詳しいことを話さず済むよう、先にこちらから質問を振った。
いくら彼女が私の幸せを願ってくれていると言っても、今日の今日でシリウスに対して良い感情を持てるわけがないことはわかっている。そんなシリウスと付き合うことになりました、なんて報告したら、リリーにまた余計な感情を背負わせてしまうことになりそうだ。
"リリーに遠慮して悪戯仕掛人との付き合いをやめることはしない"と、1年生の時から既に約束していた。だからそれと同じように、"彼女のためにそのうちの1人と付き合うことを諦める"つもりもなかった。
ただ、それとこれとは別。いくらなんでも、友人"だった"人を傷つけた人とその晩付き合い始めたことを黙っておくべき、という空気くらいは読めるつもりだった。
「…もう、意味のないことよ。全部今更。穢れた血と呼ぶつもりはなかったとか、なんとかかんとか。でももう、むしろそれでハッキリしたわ。私は私の道を選んだし、彼は彼の道を選んだの。そしてその道は、今日この時をもってはっきりと正反対に別れていったわ」
「そう。…率直な気持ちは?」
「呆れた。これだけね」
全てを諦めた様子のリリーは、気の抜けた風にそう言った。
疲れ切っていたのだろう。何年も何年も庇い続けて、引き留め続けて、その結果が全てを台無しにする"穢れた血"という言葉。
「お互い、子供のままじゃいられなかったわ」
「そう」
話すことはもう話し尽くしている。だから私も短い相槌だけを打ち、ベッドに入ることにした。
────内心、彼女の心の重りがひとつ消えてくれて良かったとすら思っていたくらいだ。
「イリスからの報告は? ブラックとは何か進展した?」
「うん、明日にでも話すよ」
「……私、なんだかすごく渇いた気持ちなの。明日でもなんでも良いから、あなたが幸せになれたっていう素敵な話でちゃんと満たしてね」
「わかった、頑張る」
ひどく忙しい1日だった。情緒が乱れに乱れて、ずっと張りつめていた気が緩んだ瞬間、どっと疲れが押し寄せる。
そういえばこの1週間、ろくに体も心も休まらなくて、今にも倒れそうだって思っていたんだっけな────そんな予想を遥かに超える出来事が続いたせいで忘れてしまっていたが、私は唐突に自分が極限状態の中を生きていたことを思い出し────そして、その瞬間にはもう深い眠りの底に落ちていた。
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