「始まった」と思った。彼らの"復讐"が。

周りにいる生徒は一様にこの騒動に目を向けていた。心配そうにしている者や、面白がって近づいている者もいる。私は冷静に辺りを観察しつつ、スネイプが立ち上がろうとしては何かに縛られたような動きでまた地面にへばりつく様を見ていた。

今のはきっと、妨害の呪いだ。
スネイプから3メートルほど離れたところに、彼の杖が落ちている。
きっとこれで迎撃、あるいは攻撃するつもりだったのだろう。杖を構えているのはシリウスとジェームズだけ。おそらくどちらかに杖を吹き飛ばされ、取りに行こうとした段階でまたどちらかに妨害の呪いをかけられた、といったところか。

スネイプが何事か叫んでいるのが聞こえる。汚い言葉や呪いの魔法など、遠くからでも聞こえるその声は、遠くに放られた杖を動かすこともなく、ただただ2人の暗い笑みを深めるだけだった。
リーマスはすぐ近くで本を読んでいる。ピーターはワクワクした顔で彼らの様子を見ていた。

悪戯仕掛人は、全員この復讐を受け入れているんだ。
先頭に立って杖を出すのはいつだってこの2人。リーマスとピーターは、後ろの方で静かにしているだけだ。

私は後方の彼らと同じように、静かに成り行きを見守っていた。

「この復讐だけはもう────取り消せない」

1週間前の、シリウスの言葉がガンガンと頭の中で鳴り響く。
これは彼らの問題だ。どちらにも非があって、どちらにも杖を上げるだけの理由がある。

本当は今すぐにでも止めたい。でも、その度にシリウスのあの悲しい顔が脳裏にチラついて、私はまだ何も手出しできずにいた。

すると、隣にいたリリーがすっと立ち上がり、大股でブナの木の下まで歩いて行った。

その後ろ姿に迷いはない。彼女はスネイプのあまりに歪んだ恋心も、シリウス達の思いも、彼らが互いに育てすぎてしまった憎しみも、何も知らない。
そうなんだ。何も知らない人から見れば、これはただの遊びに任せた弱い者いじめでしかないんだ────。

それをわかっていながら、私はまだその場に立っていた。唇を、噛み締めながら。

やめなさい!

リリーの鋭い声が響く。
その姿は凛としていて、正義感に溢れていた。おそらくこの場にいる誰よりも公平で、正当で、まっすぐな声だ。

「元気かい、エバンズ?」

ジェームズが紳士的なふりをしてリリーに声を掛けた。まるでスネイプなどどこにもおらず、ただ単に自分と彼女がたまたま廊下ですれ違っただけのような口ぶりだ。
今、彼の胸中にはどんな感情が渦巻いているんだろう。リリーへの想い、スネイプへの憎しみ、そしてあくまでそれを"エンターテインメント"として演出しようとする彼本来の奔放さ────。

「彼に構わないで。彼があなたに何をしたと言うの?」

打って変わって、リリーはジェームズに対して完全に嫌悪感を剥き出しにしていた。
まだスネイプとの友情が残っているからなのか、それとも単純に複数人が1人に呪いをかけている状況を不平等だと思っているのか────きっとそのどちらもだろう、と考える。

まだ、リリーとスネイプの友情の糸はなんとか繋がっているはずだ。
この5年間でどんどん細くなっていってしまった糸。ピンと張りつめていて、今にも切れてしまいそうなその糸は────それでも、まだ今はちゃんとリリーの心の中に残っているはずだった。

「そうだな…。むしろ、こいつが存在するって事実そのものがね。わかるかな…」

ジェームズの声は、その言葉自体の軽やかさとは裏腹に、どこか強張っているような調子だった。何も事情を知らなければ、その無理に低く繕ったような固い声音は、好きな女の子と話していることが原因だと思っていたかもしれない。でも私は、そこに確かな憎しみと怒りが見えるような気がしていた。
彼はこの一瞬、考え込むような素振りを見せた中で、おそらくこの5年間に起きた全てのことを思い返していたのだろう。その上で、彼らはもはやスネイプという"存在"を否定する段階にまで上ったことを、確信したのだろう。

しかしその言葉選びのせいだろうか。私には重すぎるその言葉で、何人かの生徒が笑っている声が聞こえた。

どうして笑えるの?
彼らの間にあったことを何も知らないくせに。

そりゃあ、スネイプはほとんどの生徒から嫌われていたかもしれない。
スネイプがいじめられるのを見るのは楽しいかもしれない。

でも、この状況を見て笑っていられるなんて異常だ、と思った。

一体今ここにいる何人が、スネイプから攻撃を受けてきた?
一体今ここにいる何人が、スネイプから侮辱されてきた?

そして一体今ここにいる何人が────悪戯仕掛人の腹の内に隠された本当の感情を、知っている?
彼らがこの5年をどう過ごしてきたのか知っていたら、とても笑ってなどいられないだろう。
それこそそんな状況で笑っていられるのは、同じ立場にいるシリウスくらいのものだ(ピーターも笑っていたが、彼の場合は完全に空気に呑まれているように見えた)。リーマスでさえ、笑うこともせず、永遠に繰られることのないページを見つめ続けている。

リリーは怒っていた。にこりともせず、ただ冷たくジェームズを見据えている。

「冗談のつもりでしょうけど、でもポッター、あなたはただ、傲慢で弱い者いじめの嫌な奴だわ。彼に構わないで」
「エバンズ、僕とデートしてくれたらやめるよ。どうだい…僕とデートしてくれれば、親愛なるスニベリーには二度と杖を上げないけどな」

このバカ。そんなことを言って、リリーが承諾するはずがないと、わかっていないわけがないのに。
スネイプと手を切れと、こんな闇の魔術に染まった奴と関わるなと、そう言いたいなら直接そう言えば良いものを。

「あなたか巨大イカのどちらかを選ぶことになっても、あなたとはデートしないわ」

当然、リリーはジェームズの卑怯な取引をあっさりと突っぱねた。

「残念だったな、プロングズ」

わかりきっていただろうと言わんばかりにシリウスが軽く言う。
スネイプなど、もはや蚊帳の外だ。

────しかし、それがいけなかった。

「おっと!」

一瞬全員の視線がスネイプから離れたその隙に、彼は自分の杖を取り戻し、ジェームズに向けて素早く呪いを放っていた。閃光が走り、ジェームズの頬が裂け、ローブに血が滴る。

「……」

ジェームズの顔から笑みが消えた。
これまで彼らの"遊び"に隠されていた本来の目的────"復讐"が、初めてその時顔を覗かせた。

ジェームズはスネイプの方を振り返ると、無言で杖を彼に向けて振った。その瞬間、スネイプは宙に浮かび上がり、まるで踝から吊るされたように逆さになって浮いていた。
めくれ上がったローブが顔にかかり、痩せ細った青白い両足と灰色に汚れた下着が剥き出しになる。

「────…」

あんな呪文、見たことない。

「セクタムセンプラは確実に邪悪な魔法に分類されるが────身体的にそこまで害のない魔法も、いくつかあった。それこそ、単に逆さ吊りにするだけのやつとか」

これだ。シリウスが言ってたのは、このことだったんだ。
これもおそらく、スネイプが考案した魔法に違いない。
直接怪我をさせるようなものではないが、仮にマグルにでも使ってみたとしたら──── 一瞬で、彼らを恐怖のどん底に落とせるだろう。

生徒達の多くが笑っていた。シリウス達など、大声で笑っていた。

私はただ、胸を痛めて"復讐"の光景を見ていることしかできなかった。

「下ろしなさい!」

リリーの声がまるで魔法のようにジェームズに突き刺さる。彼はそこでようやく「承知しました」と荒っぽく杖を振り、スネイプを地面に落とした。
もちろん、その程度で音を上げるスネイプではない(だからこそ、彼らの戦いは5年間ずっと続いてきたのだから)。彼は再びジェームズに呪いをかけようと杖を構えた。

しかし今度こそ、スネイプに反撃の機会は与えられなかった。
シリウスが「ペトリフィカストタルス!」と唱え、杖を構えていたスネイプを転ばせ、石化させる。

彼に構わないでって言ってるでしょう!

リリーの声はもはや悲鳴に近かった。
シリウス達への怒り、スネイプとの間に残された僅かな細糸。彼女の揺るぎない正義感。
それらが全て集まった今、彼女は杖を手にしていた。進んでスネイプに加勢する様子は見られないが、少なくともシリウス達と敵対していることだけは明白だ。

「ああ、エバンズ。君に呪いをかけたくないんだ」
「それなら、呪いを解きなさい!」

一瞬、ピリッとした空気が走る。三つ巴になった戦いの最中、生徒達がごくりと息を呑む音が聞こえるような気がした。

「────はあ」

結局、負けたのはジェームズだった。彼が呪いをかけたいのはあくまでスネイプだけ。リリーとまで呪いをかけあわなければならないとなれば、彼が折れるのは当然のことだった。

「ほーら」

スネイプに反対呪文をかけ、石化を解く。スネイプがようやく立ち上がると、ジェームズはどこか侮蔑的な声で笑った。

「スニベルス、エバンズが居合わせて、ラッキーだったな」

その時スネイプが何を思っていたのかは知らない。
ずっと恋焦がれ続けてきた女性の目の前で、最も嫌っている相手から醜態を晒されるような真似をされたことが腹に据えかねていたことは事実だろう。彼もまた、彼女との細い細い糸をなんとか補強できないかと────却ってそれが更に糸を細くしていることにも気づかずに、ただ力任せに引っ張ってきていたのだから。

しかし────彼が次に起こしたのは、ジェームズへの復讐などではなかった。

あんな汚らわしい"穢れた血"の助けなんか、必要ない!

プツン────………。

唐突に、リリーとスネイプを繋いでいた"糸"が切れた音が、聞こえたような気がした。

「どうして…」

誰にも聞こえない、私の声。
スネイプ、どうしてリリーにそんなことを言ってしまったの。

あなたが陰でそう言っていることを知っても、私は絶対にリリーに言わなかったのに。
リリーとスネイプの友情が続くことが果たしてリリーにとって本当に良いことなのか迷いながらも、それでもあなたの暗い秘密を守ってきていたのに。

そんなに嫌だった?
嫌いな奴との喧嘩で好きな女の子から守られることって、そんなにプライドが傷つくことだった?

そんなしょうもないプライドのために、何年も何年もかけて一生懸命縒り合わせてきた糸を簡単に切ってしまったの?

────もう、戻って来ないよ。

その場には、完全な沈黙が降りた。その場に純血主義者がいなかったことも影響してだろう、スネイプが発した言葉は、確実に生徒達にショックを与えていた。

一番最初に立ち直ったのはリリーだった。

「結構よ」

その声は冷え切っていた。友情も、温情も、正義も公平さも────それまであった何もかもの感情を一切捨てた冷たい声が、スネイプに向けられている。

「これからは邪魔しないわ。それに、スニベルス、パンツは洗濯した方が良いわね」

彼女が誰かを直接侮辱する言葉を使うのは初めて聞いた。
ただの意趣返しなのか、それとも────これで完全な"決別"だと、そういうつもりか。

「エバンズに謝れ!」

吠えたのはジェームズだった。脅すようにスネイプに杖を向けている。

「あなたからスネイプに謝れなんて言ってほしくないわ。あなたもスネイプと同罪よ」

リリーはヒステリーを起こすまいと必死になっているような顔で、ジェームズにも大声を張り上げた。

「えっ!? 僕は一度も君のことを────なんとかかんとかなんて!」

流石に心外だと思ったのか、ジェームズがショックを受けたような顔で叫んだ。
しかしリリーは容赦なく、唖然としているジェームズに畳みかける。

────まるで、もう今はいないスネイプに対して抱いた嫌悪感を代わりにぶつけるかのように。

「格好良く見せようと思って、箒から降りたばかりみたいに髪をくしゃくしゃにしたり、つまらないスニッチなんかで見せびらかしたり、呪いをうまくかけられるからといって、気に入らないと廊下で誰かれなく呪いをかけたり────そんな思い上がりのでっかち頭を乗せて、よく箒が離陸できるわね。あなたを見てると吐き気がするわ」

一体、そのうちのどれだけが彼女の本音だったのだろう。
いや、もしかしたら全てうっすらとは思っていたことだったかもしれない。

でも…私にはなんだか、リリーが"今はとにかく喋っていないとすぐにでも泣き出しそうな状態"に見えてしまい────彼女の吐く悪態が、なぜか悲しく聞こえてきた。

リリーはそれきり、彼らに背を向けて足早に去って行ってしまった。
ジェームズが何度もリリーを呼び止めるが、彼女が立ち止まることは決してなかった。

「…あいつ、どういうつもりだ?」
「つらつら行間を読むに、友よ、彼女は君がちょっと自惚れていると思っておるな」

ジェームズとシリウスは、まるでなんということのないいつもの冗談のようにそんな言葉を交わし合っていた。それでも、その表情が硬いことにはすぐに気づいた。

彼らはリリーと争いたかったのではない。
ただ、スネイプに復讐をしたかっただけなのだから。

ジェームズはひとつだけ、小さく悲しげな溜息をつくと、再び顔を上げた。

「よーし、よし」

杖を上げ、今度こそ忘れ去られたかのように放置されていたスネイプを再び逆さ吊りにする。

「誰か、僕がスニベリーのパンツを脱がせるのを見たいやつはいるか?」

────もう、良いだろう。

大衆の前で"スネイプの魔法"を本人にかけ、笑いものにするという目的は達成した。
リリーとスネイプの友情もこれで終わりだ。

スネイプの自尊心など、もう欠片も残っていないだろう。
彼がこの5年間でしてきたことを後悔するとは思えないが(悪戯仕掛人が自分達の行いを後悔しないであろうことと同様に)、それでもスネイプが失ったものの大きさを考えれば、ここが妥当なところだと判断した。

────何より、リリーが心配だ。

私は誰も注目していない中で、そっと杖を取り出した。
やんややんやの喝采の中でジェームズが杖を再度振ろうとした時、私は「エクスペリアームス」と呟く。

その声は、きっと誰にも届かなかっただろう。
私の存在は、きっと誰にも知られなかっただろう。

ついでにシリウスにも武装解除呪文をかけておいた。

彼ら2人の手から、杖が放り投げ出される。誰もいない固い地面に、2つの杖がボトリと無機質に落っこちた。

その間にスネイプがまた攻撃してくるだろうか、と私は木陰からスネイプにも杖を向けたが────彼は呆然自失していた。おそらく、最後にリリーに放った言葉が今更になって返ってきたのだろう。反撃するどころか、全く動く様子を見せない。

もうきっと、これ以上の呪いはいらないはずだ。

私はそのまま、誰にも気づかれないように校舎へと戻って行った。

「今の、誰だ?」
「さあ。あんまりやりすぎると僕達が困ったことになるって考えた優しい誰かが、僕達に水でも被せてきたんじゃないのか」

杖を回収しながら、シリウスとジェームズがそんなことを話しているのが聞こえた。



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