翌日、リーマスは無事にグリフィンドール寮に戻ってきてくれた。
シリウスも同様だ。私はその場に直接居合わせなかったけど、1限の授業で「背中の傷は綺麗に消えた」と彼が言っているのが聞こえた。
────シリウスが暴れ柳の突破法をスネイプに教えたことについて、リーマスがどう思ったのかは知らない。そしてその後、2人がどんな会話をしたのかも知らない。
ただ私は、遠くから────悪戯仕掛人が4人揃っていつものように楽しく笑い合っているのを、眺めているだけだった。
「────ねえ、大丈夫?」
リリーが我慢できないといった風にそう声を掛けてきたのは、暴れ柳事件が起きてから3ヶ月余経った頃────イースター休暇中のことだった。
今年5年生の私達は、学期末にOWL試験を控えていた。それはこれまでの試験と違い、学外から試験官を呼んだ上で、過去学んできたことの集大成を披露する場となっている。この結果によっては来年度受けられる科目も変わり、それによって進路にも大きな影響を及ぼすので、私達は今年、人生におけるひとつの大きな分岐点に立たされているといえた。
それに向け、イースター休暇が明ける来週から再来週にかけて、進路指導も行われる。それぞれの寮監────つまり私達の場合はマクゴナガル先生と個別面談を実施し、将来の職業について相談することになっていた。
そのため5年生は今、休暇を楽しむどころかOWL試験対策に加え、魔法界にある職業と自分の適性をすり合わせる作業に追われていた。全員がどことなく慌ただしい空気にいる中、私はリリーに声をかけられるまで、ぼーっとしたまま教科書を1ページも繰らずに窓の外を見ていたことに気づいていなかった。
「…え?」
「え、じゃないわよ。最近あなた、おかしいわ。ずっと上の空っていうか…どうしたの?」
「あー…」
OWLのこと、進路指導のこと、シリウスのこと、スネイプのこと、何人いるかわからない敵のこと────様々な"悩み事"が私の頭を瞬時に駆け巡り、霞のように消えていく。
この3ヶ月、リリーに言われた通り、私はあまり現実世界に集中できずにいた。
もちろん試験や将来のことなど、みんなと同じ悩みも抱えている。
ただ、私はどちらかというと、年明けに起きた一連の────ホグズミードでシリウスとスネイプが喧嘩をしてから、暴れ柳事件が起きるまでの間のことで、頭がいっぱいになっていたのだ。
シリウス達とは、変わらず仲良くしている。適度に雑談に混ぜてもらったり、適度に食事を一緒にとったり────適度に対スリザリンの作戦会議をしたり。
ただ、シリウスとはずっと微妙な関係のままだった。話すし、笑うし、一緒にもいる。でも決して2人きりにはならないし、お互い"あの日"のことには一言も触れない。
あえて"今まで通り"にしようとしているのが、(おそらく互いに)バレバレだった。
なんなら、シリウスが私に「好きだ」と言ったそのことすら、今ではなかったことのようになっている。好意らしい好意を向けられることはあれから一切なくなり、彼はあくまで"他の3人と同じ距離から"私に話しかけることを意識しているようだった。
もちろん、バレンタインには言われた通りチョコレートを贈った。でも私の方も、"4人に同じもの"を贈っていた。シリウスだけを特別扱いするようなことは、一度もなかった。
私達どちらもが、迷っている。
シリウスは言っていた。自分の価値観をもう一度見直すと。
私の言葉を受けて、私の変わっていく姿を見て、自分も同じように自分を再構築したいと言っていた。
そして私も私で────改めて、自分の言っているところがどこまで正しいのだろうかと、ずっと考えていた。
そもそも"絶対的に誰にとっても正しい意見"など存在しない。だからこそ人は"自分の意見"を創り、"自分にとっての正しさ"を見出す。
だというのに、私は今、シリウスにかけた言葉が"私にとってもちゃんと正しかった"のか、わからなくなっていた。
ホグズミードに言ったあの日、シリウスに浴びせた数々の非難を思い出す。
「スリザリンだからっていう理由だけで嫌わないで」
相手のステータスだけで敵味方を判断するのではなく、相手をよく知って、自分と本当に合わないのかきちんと見極めてから付き合い方を考えて、と私は言った。
でも、その慎重さが時として手遅れになるほどの事故を招くこともまた、事実なのだと思わざるを得なかった。
"ステータス"とは、言わずもがな社会的地位や身分のことだ。確かにそれだけをもって人間性を判断し、一方的に攻撃することは良くないのだろう。
ただ、ステータスだってその"人間性"を構築するひとつの要素だ。スリザリンにいる者全てにスリザリンの悪性が備わっているとまでは言わないものの、スリザリンの悪性を目覚めさせる素質を持っている者の多くがそこに組み分けされたことは否めない。
現に、「スリザリンだからって悪人と思ってはいけない」と言っていたはずの私にでさえ、敵は増える一方だった。こちらが友好的な態度を取ろうとも、相手が先にこちらを恨んでしまえばそれで終わりだ。「悪い人じゃないかも」と考えている間に呪いをかけられてジ・エンド。
「無力な相手を一方的に虐めて楽しまないで」
スネイプがもう杖を取れなくなっているのにそれ以上攻撃しないで、と私は言った。
でもどうだ。その場では確かに無力化させられたかもしれないが、スネイプはその度に私達への憎しみを募らせて立ち上がるだけだった。
私はホッグズ・ヘッドの前で、もうシリウスがスネイプの手を裂いた段階で十分だと思ってしまった。だから制止の声をかけ、シリウスを止めようとした。
そうしたら、シリウスが最後に唱えた石化呪文は不完全となり────スネイプに言論の自由を与えてしまった。そのせいで彼はシリウスの逆鱗に触れ、結局リーマスという関係のない友人を危険に晒すことになってしまった。
もしあの場で私が止めずに、スネイプを完全に叩きのめしていたら?
命を奪えとは絶対に言わない。でも、抵抗する気力がなくなるところまで徹底的に追い詰めていたら?
そんなことを、考えずにはいられなかった。
「友人に危害を及ぼさないで」
これはもう、シリウスの短絡的な言動に腹を立てただけの単純な話だ。
傲慢で攻撃的で、すぐに我を忘れる。
────でも、後から思えば、それは私も同じことだった。
今回は結果としてリーマスを危険な目に遭わせてしまったが、何もあれはあの場限りの衝突ではなかった。リーマスはずっと侮辱され続けていたし、その分シリウス達の恨みも募り続けていたのだ。それがたまたま、あの日に爆発してしまったという、それだけのこと。
そしてそれを言うなら私だって、友人を守るために何度も杖を上げたことがあった。
最初の頃は確かに迷いもあったし、冷静に"正当防衛"といえる範囲を考えながら対処していた方だと思う。
でも、私は忘れていない。
去年の夏、オーブリーに対して抱いたあの底知れない憎しみを。
3ヶ月前、どこまでも利己主義的なスネイプに対して抱いたあの狂おしいほどの怒りを。
私だって────普段は理性で抑えているだけで、一枚薄皮を捲ればすぐにシリウスと同じだけの粗雑さが露呈するのだ。
────根本として掲げている、"一方的な差別・邪悪な魔法を楽しむ行為・友人に危害を及ぼす行為を嫌う"という私の思想自体は、今もちゃんと"私にとっての正しい思想"だ。
でも、果たしてそれをシリウスにまで当てはめて糾弾することが正しかったのか────私にその資格はあったのかと、最近はそう自問するようになっていた。
上の空になっていたのはそのせいだ。
リリーに意識を戻されたその時も、私は答えの出ないそんなことをずっとぼやぼやと考えながら、魔法界の職業に関するパンフレットをただ開いて置いているだけの状態にしていた。
「私ってどういう人間なんだろうって思って…」
要領の得ない答えを、のっぺりと返す。リリーは首を捻っていたが、結局私は将来どんな職に就こうか迷っているだけだと思ったようだった。
「あなたは優しくて、平等で、勇敢な人よ」
「ウン…ありがと…」
優しいのは弱虫なだけだ。
平等なのは日和見なだけだ。
勇敢なのは無鉄砲なだけだ。
いつもは嬉しいはずのリリーの誉め言葉が、今日はなんだか妙に痛かった。
「それともなあに、まだブラックのことを考えてるの?」
「えっ…」
思わず窓の外から目を離し、リリーを見る。彼女は深い緑色の瞳をまっすぐ私に向けていた。「やっぱりね」という声が聞こえたような気がする。
「ここ最近、あなた達、変よ」
「…いつも通りにしてたつもりだったんだけどなあ…」
「そのいつも通りが"いつも通り"過ぎて変なの。まるで1年生の時に戻ったみたいよ。互いの顔色を窺いながら、当たり障りのない関係を続けてる感じ。他の人からどう見えてるかは知らないけど、私からすればあなた達の間にある違和感はかなり大きいわ」
やっぱりリリーには敵わないな、と思う。
「…ホグズミードでシリウスと喧嘩したって言ったじゃん」
彼女には隠し通せないと思い、ぽつりぽつりと経緯を話し始める。
「私はさ…元々差別とか、虐めとか、友達を傷つける人とかは絶対許さないって…この主張だけは自分のラインとして守ろうって決めてたんだけど」
「そうね」
「スリザリンだからって理由で寮の全員を敵視したり…特にスネイプを一方的に攻撃したりするシリウスの言動が、どうしてもそのラインに触れるような気がしてて…。だからずっと、私は自分の気持ちがわからなかったのね」
「なんとなくそんな気はしてたわ」
相槌を打ちながら、リリーも机に頬杖をついて私の話に耳を傾ける。
「それをこの間本人に言ったのが、その喧嘩の原因だったんだ。あなたがこれからもそういうスタンスを変えないなら、私はあなたのことを絶対好きになれないって」
「それで、ブラックは?」
「少し考える時間が欲しいって言われた」
「時間か…。まあ、確かにね…」
リリーも、シリウスがどんな家で生まれ育ってきたかは知っている。元々魔法界の確執なんて何も知らなかった私達も、今やこの世界に生きて5年目。いい加減、お互いにスリザリン信者の極端な純血主義思想が残す禍根の根深さは理解していた。
シリウスが刷り込まれてきた"純血こそ正義"という思想。それに抗うあまり、必要以上に純血思想の体現者たるスリザリンを嫌うようになった過程は、なんとなく想像ができたのだろう。その価値観を矯正するのに時間がかかることは、彼女にとっても当然のことだと思えたようだった。
「ただね、私が悩んでるのはそこじゃなくて」
「うん?」
「…私があそこでシリウスに言ったその言葉が、本当に正しかったのかなって…最近思うようになったの」
リリーはすぐにその意味するところを掴めなかったようだった。
「どういうこと?」
「確かに"スリザリン"って名の付くものを見るなり攻撃するとか、そういうのはやめてほしいと思ってるよ。でも────現実、スリザリンには敵が多いのも事実でしょ。ほら…私も含めて、彼らってかなりスリザリン生には嫌われてるから」
「まあ…うん、否定はしないわ」
「だから、"攻撃"はしなくても"警戒"は必要なんじゃないかなって。シリウスのスタンスは、社会を見れば私よりずっと現実的なのかなって…思うんだ」
「なるほどね」
「スネイプのことも……ごめん、リリーの前でこんなことを言うのは嫌なんだけど…」
いつもスネイプの話になると言い淀む私。リリーはいつものように笑ってそれを受け流した。
「そうね、4対1でセブを虐めるのは酷いことだと思うわ。でも私も、セブはセブで彼らに執着しすぎだと思うの。聞けばこの間、何があったか知らないけどセブが暴れ柳で怪我をしそうになったところをポッターに救われたっていうし…」
その事件に内包された真実を知る私は、あまりそれを疑われないよう短く「うん」とだけ頷いた。
「あなたが言ってる"虐め"って、要は力のないマグルを一方的に痛めつけて弄んでるとか、そういう意味のことよね?」
「そう。だから…その、」
「良いわ、言葉を選ばないで」
「うん…ごめん。スネイプは元々シリウス達と対等な魔力を持ってるし、何もシリウス達の方から毎回一方的に仕掛けてるってわけでもない。私も4対1でスネイプとやり合ってるのは不平等だと思うけど…でも、それでもスネイプはシリウス達を攻撃することをやめないし、邪悪な魔法を使う人達ともつるんでる。スネイプは、あの4人と1人でも戦うことを"選んだ"んだ。それを見て、"一方的に虐めないで"って言うのは…なんか違う気がして」
リリーは何と言おうか考えているようだった。一方で一通り話し終えた私は、また溜息をついて、あの日シリウスに投げた言葉を何度もリフレインする。
「────私は基本的に、ブラックもポッターと同じ、傲慢で嫌な人だと思ってるわ」
そして、返ってきたのはそんな言葉だった。
「でも、そんな彼があなたの言葉を聞いて、自分の価値観を見直すって言ったんでしょう?」
一瞬悪口を言われるのかと思ってドキリとしてしまったが、どうやらリリーはそういうつもりじゃないらしい。「そうみたい」と曖昧な肯定を返し、リリーの言葉を待つ。
「じゃあもう上出来じゃない」
「…え?」
「自分の価値観を見直して、ブラック自身が"あなたの言ってることが正しい"って言うようなら、あなたがあの場でブラックに言ったことは本当に正しかったことになるし、逆に"僕は自分の価値観を曲げる必要がない"って言うようなら、あなたが今思ったその迷いを素直に話せば良いのよ。"確かに私の価値観を正確に測ると、あなたの行為は私のラインに抵触してなかったのかもしれない、ごめんなさい"って」
彼女はたいして表情を変えないまま、淡々と私の迷いを"どちらも"受け入れた。
「…それで良いの、かな」
「私はそう思うわ。そもそもあなたが引いたライン自体は正しいと思うの。ただ、ブラックのやっていることがラインを越えてるのか越えてないのかは、私にもわからない。そしてあなたも同じように"越えてるともいえるし越えてないともいえる"って思うのなら、もうその判断はブラックに任せちゃえば良いわ」
「それで…それを聞いて、このなんかモゴモゴ迷ってる状態の私はどうしたら良いと思う?」
「その時はその時。ブラックの話を聞いて、改めてあなたがどう思ったかによって、今後の付き合いをゆっくり考えれば良いのよ。どうせ好きになる時なんて頭で考えるより先に好きになっちゃうものなんだから」
実にあっけらかんとした結論だった。そして私は同時に、その言葉をどこかで聞いたことがあるような気がして────。
「────なんか難しいこと考えてるね、フォクシーは。頭で何を考えてようが、好きになる時はどうしたって好きになっちゃうものなのに」
そうだ。
あれは確か、シリウスに告白された直後のこと。どうしても実感が持てなかった私は、クリスマス休暇にジェームズ達に「本当にシリウスって私のことが好きなの?」と訊いた。
その時も、同じようにこうして迷っていたんだ。
まだあの時は、シリウスのやっていることは私のラインを"越える"行為だと思っていて────そんな彼を好きになれるだろうか、と理性的に考えていた私。そんな私にジェームズが軽やかに言ったのが、そんな言葉だった。
「…なんか、リリーとジェームズってたまに似てること言うよね」
「え、なに、今のポッターも言ってたの? 最悪」
「ジェームズは頭で考えるより先にリリーのことが好きになっちゃったみたいだよ」
「知らないわよ、そんなの。私は嫌い」
結局、そういうことになるのか。
迷いはまだ消えない。でも、私にはどうしたって、シリウスの返事を待つ以外のことはできないようだった。
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