「まさか、本当に大喧嘩して帰ってくるなんて

リリーはいつも通り、深くは訊かなかった。
談話室に戻ってきた私の顔は相当酷かったのだろう。そしてシリウスが部屋を出て行ってから時間を置いて私がひとりで帰って来たことも、リリーにある程度の事情を察せさせるための材料となったに違いない。自分が座っていたソファの隣に私を腰掛けさせ、水を取って来てくれる。

「────私、やっぱりシリウスと付き合っていけないのかなあ…」

ただ「喧嘩した」と、それ以上のことは言わなかった。言えなかった。
それでも、胸の内に留めきれない悲しみが言葉になって溢れ出す。

「よくわからないけど、でもそれって、あなた達がそれだけ本気でぶつかり合ってるってことでしょう? まあ…そうね、その結果永遠に別れることになるってことも…ありえると思うわ。でも逆にそれを乗り越えたら、あなた達は永遠に共にいられると思うの。決して"喧嘩したからって人間性が合わない"わけじゃないわ」

今度こそもうダメかと思っていただけに、リリーの「どうせいつもの小さな口論でしょ」と言わんばかりのキビキビとした声は私を安心させてくれる。
まだ、期待していても良いだろうか。
シリウスと一緒にいられる未来を、想像してみても良いだろうか。

実際のところ、「時間をくれ」という言葉に了承したは良いものの、その間に彼が何を考えどうするつもりなのかは全くわかっていなかった。ある程度の日数が経った頃にまた"呼び出されて話し合う"のか、それとも彼が私を信頼させるための何らかの行動を取ってみせるのか────正直、見当もつかない。

彼が何をしたがっているのかわからない。
彼が何を考えようとしているのかわからない。

「おーい、フォクシー」

その時、ちょうどホグズミードから戻って来たらしいジェームズに遠くの方から呼ばれた。…なぜか、そのすぐ後ろにシリウスを連れている。隠し部屋からは彼の方が早く出て行っていたはずなのだが────回り道でもして、寮までの道のりで合流したのだろうか。

「今パッドフットからちょっと話を聞いたんだ。それで、君にも相談したくて」

ヒヤリと背筋が凍る。シリウスから話を聞いた? 一体何の話を?

「リリー、ごめん。ちょっと行ってくる」
「行ってらっしゃい」

緊張した足取りでジェームズについて行き、5年生用の寝室に集まる私達5人。
シリウスの顔は、至っていつも通りに見えた。さっきまであんな残酷な言い合いをしていたとは思えないほど、涼しい表情をしている。

「次の満月の話、まだスネイプ対策がちゃんとできてなかっただろ?」

腰を落ち着けるや否や、即座にジェームズが言う。彼が一体どこまで知っているのか(あるいはシリウスの言葉通り本当に何も知らないのか)私にはわからなかったので、ただ黙って頷いた。

「クリスマス休暇中に話してたこと、パッドフットにも伝えたんだ。そしたら────まあ良いや、自分で説明して」
「ああ。僕も大方プロングズの…いやイリスもか、君達の意見に賛成だ」

クリスマス休暇中、私達は次の満月に"ジェームズかシリウスが校庭をうろつき、リーマスが獣の姿になった彼らを世話している姿を見せる"という新たな計画を進めることとなっていた。

シリウスは何の感情も浮かべずに、あくまで自然に私の名を口にした。その上で、当たり前のように「ジェームズからこの間初めてその計画を聞いた」というような口調で「賛成」と言ってのける。

「校庭を歩くなら、牡鹿より犬の方がまだ自然だろう。だから、当日校庭をうろつくのは僕が務める。この作戦を試すのは初めてだから、何かあっても対処できるよう、ムーニーにはいつもより早めに────つまり授業が終わった直後に、校庭に来てもらおうと思う

しかしその瞬間、私はシリウスが"自分の計画"をうまく"私達の計画"に練り込もうとしていることに気づいた。
あくまでメインシナリオは"定期的にリーマスが校庭に出ているのは、森に棲む獣と仲良くするため"というところに据えられている。でも、そのシナリオの隅に、彼は"ひとりぼっちの戦い"を忍ばせる気なのだ。

こちらは表情を変えないように気を張るので必死だった。まるで初めてシリウスからその作戦を聞いたかのような顔をして、興味深く聞くふりをする。

「当然、そうなったら同じようにスネイプにも、確実に僕らの戯れが見える場所から校庭を見張らせるよう仕向け、逆にそれを見せたら、今度はすぐにムーニーが暴れ柳のトンネルを抜けるまで、確実に見えないところで足止めし続ける必要がある。幸い水曜の最後の授業は魔法生物飼育学…スリザリンとの合同授業だ。やつはきっと、授業が終わった後日がくれて月が昇るまで、校庭近くに身を潜めるだろう」

そこでシリウスは一旦言葉を切った。不自然にならない程度の間だったが────次に私の顔を見た時、私は彼の表情に重いと言って有り余るほどの覚悟を見たような気がした。

だからイリス、授業が終わったらすぐ、スネイプを校庭に足止めしておいてくれないか。僕は一旦教室に戻ったふりをしてから、こっそり抜け道を使って校舎の外に出て犬に変化し、森を通ってムーニーに会いに行くから。そしてその後、ムーニーがトンネルを通ったことを確認するまで、今度はなんとか姿の見えないところであいつを足止めしてほしい」

────スネイプの足止め役を私に託したのは、確実に意図あってのことだろう。
もしその役をジェームズやピーターが担えば────スネイプは勝ち誇った顔で「いくら僕の邪魔をしようとしたところで、もう僕はお前達の秘密を知っている」と、暴れ柳のことを語り出してしまうはず。

その点私なら、全てを知っている。私はこの場において、スネイプが何を言おうとも冷静に対処できる、唯一の存在だ。
それこそ「私達のことを勝手に疑って探ろうとしないで」とさえ言えば、簡単に彼を足止めできるのも利点だった。

「どうしてイリスなんだ? 彼女は確かにいつだって僕らに協力してくれてるけど、あんまりリスクを負わせるのは────」

即座にリーマスが抗議の声を上げた。しかしシリウスはそれでさえ予想していたというように、片手を挙げて制止する。

「まずプロングズの場合は、ムーニー云々を語り合う前に呪い合戦になる。結局ムーニーに対する疑念がうやむやになったまま、お互いに減点と罰則を食らって終わりだ。そしてワームテールじゃ、きっとスネイプを足止めできない。あいつはお前のことを完全に見くびってる。愚かなことに、自分より格下だと思ってるんだ────ワームテールに声をかけられて、素直に足を止めるとは思わない」

言葉にこそピーターを気遣う素振りが見られたが、それは暗に「彼は役に立たない」と言っているのと同じことだった。少し悲しそうな顔をしながらも、「そうだね」と頷くピーター。
ジェームズもそれには文句が言えないようだった。スネイプを見ると杖を出さずにいられない病気を持っているのは、何もシリウスだけじゃない。

「その点、こいつはエバンズと仲が良いっていう利点もあるし、スネイプが確実に無視できない存在だ。状況を思い通りに持って行く天才でもある。だからイリスには、授業が終わった後適当な頃合いを見てあいつに近づき────」
「人気のないところで話したい、とでも言ってちょっと校庭のはずれまで連れて行けば良いかな? それで、あなた達が遊んでいるところを視界に入れさせた後は、リーマスが暴れ柳に行く前にさっさと校舎に押し戻すって感じ?」
「そういうこと」

奇妙な感覚だった。お互いに"お互いの本当の狙い"がわかっていながら、"まるで初めて打ち合わせをする"ようなふりをして話している。
私はシリウスを遠ざけると言いつつ、「次の満月の晩の対策については協力を惜しまない」とも言った。彼もきっと本当はひとりで作戦を遂行させたかったのだろうが、さすがに悪戯仕掛人という仲間までをも欺いてスネイプを阻むのは困難だと考えたようだ。

「さっすがホグワーツベストカップル、阿吽の呼吸だね」

"本当に何も知らない"ジェームズが簡単に冷やかしてくれた。私は何食わぬ顔で「だからまだそんな関係じゃないってば」と笑ってみせたが────その時ばかりは、シリウスの顔を見られなかった。

「まあ…イリスなら大丈夫…か…」

リーマスも不承不承納得したらしい。それを確認して、シリウスは話を続ける。

「そういうわけだからムーニー、僕との"戯れ"が終わったら、君は即刻叫びの屋敷に行ってくれ。そしてプロングズとワームテール、君達はいつもより少しだけ遅く叫びの屋敷に行ってほしい。ムーニーには少しばかり我慢させることになるけど────…念には念を、だ。仮にムーニーがただ"森に用があるから毎月外を出歩いてる"んだと信じ込ませられたとしても、すぐに校庭を一切警戒しなくなるっていうわけじゃないと思う。少し時間を置いて、完全に全員が寝静まった頃を見計らってから、いつもの場所へ集合してほしい」

完璧だった。
"リーマスには早めに叫びの屋敷へ行かせ、ジェームズ達には遅めに後を追わせる。その間にできたいつもより少し多い時間で、シリウスが直接スネイプと対決する"。

彼が先程言った計画が、全て自然に溶け込んでいる。
やはり彼は天才だ、と思った。事情を知っていても全く違和感のないシナリオだ。
更に当日の最後の授業が魔法生物飼育学という、"リーマスを早めに叫びの屋敷に入れて守る"ことのできる科目だったことも幸いしたのだろう。

運は、私達に味方している。

「まあ、念を入れるに越したことはないからな」

一番無鉄砲なジェームズが同意したことで、作戦は決まった。
ちらりとシリウスを見やる。ちょうど彼もその時私の顔色をこっそり窺っていて────なんとなく、言葉はないながらに「本当の目的を達成させよう」という互いの意思を改めて確認し合ったような、そんな錯覚に襲われた。

勝負は来週の水曜日。その根底にどんな経緯があれ、シリウスと私は今までのどんな時よりも、友の尊厳を守るために結託していた。





しかし、事態は思わぬところで急変した。





それは、満月の晩────翌週の水曜日のことだった。
魔法生物飼育学の授業はいつも刺激的で面白い授業だと思っていたが、今日ばかりはそんな悠長に構えていられる余裕はなかった。自分が緊張していることを感じながら禁じられた森の前に集まり、こっそりスネイプの動向を窺い続ける。

その日扱った魔法生物は"火蟹"だった。

「火蟹の特徴は、まずリクガメに似ていながら足が蟹足になっているところだ。それから、甲羅には見ての通り、宝石が散りばめられている。綺麗な生き物だからペットとして飼う魔法使いも多いが、魔法省の認可が必要となるので注意するように。それから、基本的に彼らは温厚だが、怒らせると尻尾から火を吹くので決して攻撃してはならないよ。ではこれから、火蟹の飼育方法について学んでいこう────」

ケトルバーン先生の説明を半分聞き流しながら、私は定期的にスネイプの様子を見つつ、リーマス、シリウスとアイコンタクトを取り続けていた。今回の作戦は、授業後に私達3人がどれだけうまく連携を取れるかが肝要となる。

一通り火蟹についての説明を受けた後、スケッチと飼育方法についてまとめたレポートを提出するよう課題が出され、生徒達は三々五々に別れた。
シルヴィアが当てつけのように、「リリー、メリー、一緒にやりましょう!」と声を掛けている。リリーが困ったように「えーと…」と私の方を見たが、「大丈夫だよ」と目で合図し、私はここぞとばかりにシリウスとリーマスに声をかけた。

ナイス、シルヴィア。
今日ばかりは私を仲間外れにしようとしてくれて助かった。ついでにその結果、私がシリウスと組むことになったものだから、こちらを見て物凄く悔しそうにしている。性格が悪いことを言うようだけど、今までのことを考えるとちょっと胸がすく思いだ。

「暴れ柳のトンネルの死角になりつつ、先生達にも見つからない場所は?」
「あの辺とかじゃない? 湖のほとりの────」
「ああ、わかった。じゃあ僕とムーニーはあそこで落ち合おう」
「それなら私は反対側に行くよ。校舎の方に誘導しつつ穏便に話し合いをする

「穏便に」というところに力を込めると、シリウスはあからさまに苦々しげな顔をしたが、リーマスはいつも通りの単なる軽口と思ったのか、困ったように小さく笑うだけだった。

授業は16時まで。この時期の日没もちょうどだいたい16時なので、月が空にハッキリと表れるのはおよそ1時間後と見ておく。いつもならリーマスは月が出るギリギリ前に(辺りが完全に暗くなってから)叫びの屋敷へと行っているそうだが、日没の早い冬の時期はいくら"早めに"と言っても、そこまで余裕を持って動けるわけではなかった。

人間状態のリーマスを確実に見せた後で迅速に無事に叫びの屋敷に隠し、シリウスを暴れ柳の前に配置する。
難しいことだが────やってできないことはないはずだ。

授業の残り時間は20分。だんだんと辺りが薄暗くなっていくにつれ、私の体も冷え込んでいく。
時が近づいている。今日この日を乗り越えられるかどうかは、私とシリウスに懸かっている────。

その時だった。

「なあ、今ならチャンスなんじゃないか?」
「ああ、そんなにブラック家から消えたいんなら、文字通り全部燃やして消してやろうぜ」

風に乗って、そんな声が聞こえた。

「!?」

ブラック家、という言葉が聞こえ、バッと声のした方を見る。

────2人のスリザリン生(名前だけなら知ってる。メイソンとスターキーだ)が、火蟹をスケッチするふりをしながら、それにこっそり杖を向けていた。その光景を見た私は、瞬時に彼らが何をしようとしているのか悟り────反射的に、びりりと背筋に電流が走っていくのを感じた。
火蟹に攻撃を仕掛けて、尻尾の先にいるシリウスに事故を装った危害を加えようとしている────!

シリウスはリーマスと話し込んでいて、背後の悪意に気づいていなかった。
ケトルバーン先生は遠くのグループのスケッチの様子を観察しており、こっちを見てもいない。

「シリ────」

何を言うより、杖を出すより、早かった。

メイソンが杖を向けて何事か唱えた瞬間、赤い閃光が火蟹に向けて発射される。

バーン!

予想以上の轟音が鳴り響いた。
火蟹の尻尾からはジェット噴射でもされたのではないかと思うほどの業火が噴き出し、後ろにいたシリウスの背中を火に包む。

「キャーーーーー!!!!」

一瞬、シリウスが炎に呑まれたように見えた。何人かの女子生徒の悲鳴が聞こえ、近くにいた生徒が反射的に退散する中、私とリーマスは即座に立ち上がって杖を構え、同時に呪文を唱えた。

「アグアメンティ!」
「アグアメンティ!」

私達2人分の杖から射出された水を被り、炎上していた背中はすぐに沈静化する。
しかし、シリウスは「ぐっ…」と痛みに顔を歪めており、ローブと制服は焼け焦げて破れ、火傷を負った背中が剥き出しになっていた。

落ち着いて! みんな、落ち着いてこちらに来なさい! ミスター・ブラック、君はいますぐ医務室に────
「大丈夫、です…!」

シリウスが歯を食いしばりながらケトルバーン先生の手を振り払おうとした。しかし余程背中が痛むのだろう、その動きは非常に鈍く、先生に半ば抱えられるような形で強制的に校舎の方へと連れられてしまう。

彼が先生を拒もうとした理由はわかっていた。
そんなことをしたら、この後の作戦が決行できなくなってしまう。

否応なしに焦ってしまう。どうする。シリウス抜きで、スネイプを止めることなんてできるのか。
メイソンとスターキーの、まさかここまでの大事になるなんてというような表情で呆然と立っている様が無性に腹立たしかった。しょうもない家柄の問題なんかで平然と人を傷つけて、自分のしたことの大きさにさえ気づかず、カカシのように突っ立っているだけの能無しが────。

「今日の授業はここで中止! ミス・リヴィア、みんなのレポートを回収して後で私の部屋に持ってきておくれ!」

ケトルバーン先生のキビキビとした指示は、一番近くにいた私に向かって出された。

「イリス」

無理やり先生に連れて行かれるその直前、シリウスが私にそっと声をかけた。

「悪い、計画は────」

それが限界だった。呼吸するだけでも苦しそうなのに、ケトルバーン先生が「ほら、急ぐよミスター・ブラック! 火蟹の火は30分以内に治療しないと永遠に痕が残るんだ!」と彼をあっという間に連れ去ってしまったせいで、それ以上の会話なんてできなかった。

その時のシリウスの顔。
まるで、今にも泣きそうな顔をしていた。

きっとホグズミードでの出来事があってから、ずっと彼はこの日のことだけを考えていたんだろう。
自らの失言。私の詰問。

きつく自分を責めたはずだ。彼は本当に、ひとりでスネイプを迎え撃つつもりだったのだから。

失態があったことは事実だ────しかし、彼は友達を守ろうとした。その友情に嘘はない。

それなら、私のやることはひとつだ。

意図的にグリフィンドール生から先にレポートを集め、ジェームズとピーターにひとまず計画の延期を告げることにする。

「シリウスが動けなくなった。作戦は来月に持ち越そう」
「でもフォクシー、僕がシリウスの代わりを務めれば────」

案の定、ジェームズが急いで代役となることを申し出て来たが、私はスネイプだけでなく、悪戯仕掛人も足止めしなければならなかった。

「ううん、ジェームズ。今日はやめておいた方が良い」

何があっても、今日のスネイプと悪戯仕掛人を鉢合わせさせてはいけない。

「シリウスがあんなことになって、多分────私達…特にリーマスは焦ってる。わかるでしょ、リスクが大きい分、この計画は慎重に進めなきゃいけないんだよ。シリウスが欠けて、ただでさえ体調が悪いはずなのに要らない動揺までしてるリーマスを下手に外に放っておいたら、私達の誰もどうなるかわからない。体勢が整ってない状態で失敗なんてしたら、それこそ後々面倒になるだけだよ。今回はとりあえず私が、リーマスが安全になるまでスネイプを足止めするから、あなた達はいつも通り後からこっそり叫びの屋敷に向かってあげて」

早口でまくしたてると、"焦ってる"ことに思い当たるところがあったのか、ジェームズはうっと言葉を詰まらせた。それから校舎に消えていくシリウスと、まだ杖を手にしたまま呆然と立ち尽くしているリーマスを交互に見て、溜息をつく。

「…そうだな。ムーニーが機能しないんじゃ、意味がない」

ピーターはそもそも私の意見に反対する気がないようだったので、私は彼らのレポートを回収した後、「じゃあ、いつも通りに」と言ってリーマスの元へと駆け寄った。

「リーマス、計画は延期しよう」

スネイプに気取られないよう、こっそりと耳打ちする。リーマスは私に話しかけられた瞬間びくりと肩を跳ねさせたが、計画の延期と聞くなりほっとしたような、それでいて悔しそうな────とても複雑な表情を浮かべた。

「ひとまず私だけは予定通りスネイプをここで足止めして時間を稼ぐから、リーマスは私の姿が見えなくなったらすぐに暴れ柳に行って。ここならトンネルの入口の死角にもなると思うから」
「…わかった。ごめん」
「なんでリーマスが謝るのよ。悪いのはメイソンとスターキーだよ。いつか絶対復讐して────」

言いかけて、止める。
そうだった。私はついこの間、それが原因でシリウスを責めたばかりなのに。

私だって、同じじゃないか。
私だって、大事な人が傷つけられたら何を考えるより先に復讐することを考えてる。

────でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
今はそんなことより────この後のことを考えなければ。

リーマスの後、スリザリン生からもレポートを回収する。私はここでもわざと回収の順番を操作して、スネイプを最後に回すことにした。

「ブラックは大丈夫だろうか? かなりひどい傷だったね…」

スリザリンの中では、早いうちにヘンリーに声をかけておいた。彼はシリウスを心配するような言葉を私に掛けてきたが、レポートはまだ固く掴んだままこちらに引き渡そうとしない。好意を利用しているようで申し訳なかったが、案の定彼は私と話す時間を望んでいるようだったので、この時ばかりは私もそのまま彼の会話に乗って更に時間を稼ぐことにした。

「どうしてあんなことが起きたのか、わかるかい? 火蟹が火を吹くって言ったって、ちょっと叩いたくらいじゃビクともしないだろう?」
「…メイソンとスターキーがけしかけてるのを見ちゃったんだ。シリウスを狙って」

下手に濁すよりも本当のことを言った方が会話を延ばせるだろうと思い、率直に事実を告げると、ヘンリーはハッと口を手で抑えた。

「まさか…うちの寮生が、ブラックを…?」
「シリウスって、そっちじゃ相当悪者扱いされてるみたいだね」
「あー……ああ、ここで嘘をつくのも不誠実だな。確かにスリザリン生の中にはブラックを憎んでいる奴が多い。7世紀も続いた尊敬すべき純血の血族から、よりによって最も敵対していたグリフィンドール生が出たことを恥だと思ってるんだ」

彼の態度は潔かった。下手に嫌悪感を露わにするでもなく、かといってそんな一部の生徒に迎合しているわけでもない。淡々と事実を述べるだけに留めているヘンリーの態度は、彼の複雑な立場を考えれば最も"公平"なものだった。

「僕は当然その行為に加担したわけではない。ただ、同じ寮の者が君の友人を傷つけたことについて、本当に申し訳なく思う。代わりにならないのはわかっているが、謝罪する」
「ううん、ヘンリーが悪くないのはわかってる。…むしろあなたは、私にとって…グリフィンドールとの溝を少しでも埋める、架け橋みたいな人だと思ってるから」

そこだけは時間稼ぎのことを忘れ、本心から絞るようにそう言うと、彼はぎこちなく微笑んだ。私との時間を延ばしたいという魂胆が透けて見えているのは事実だったが、だからといって、彼がシリウスを全く心配していないというわけでもなさそうだ。彼は本当に申し訳なさそうに、そして不安げにシリウスのことを案じてくれている。

「早く彼が良くなるよう、祈ってるよ。もっともブラックは、僕らみんなのことを等しく嫌ってるから…余計に嫌味のように聞こえてしまうかもしれないけど」
「伝えておくね」

私はそこでようやくレポートを受け取った。────好意的に接してくれたのは、ヘンリーただひとりだった。

「スネイプ、レポートちょうだい」

そうして最後に、スネイプが暴れ柳に背を向けられるような方向から声をかけた。
彼は今すぐにでもここを離れたがっているようだった。侮蔑的な視線は相変わらずだ。

「遂にお前達の化けの皮が剥がれる日が来たな」

レポートを突き出す彼の様子は、まるで自分の書いたものに私が触れることでレポートが汚染されるとでも言いたげだった。
僅かな苛立ちを覚えるが、しかしここで冷静さを失ってはいけないと言い聞かせ、毅然とした態度を装う。

「暴れ柳に近づくなんてあなた、本気で言ってるの?」

今のところ、スネイプの意識は完全に私に向いている。
気取られないよう慎重に視線をずらすと、リーマスが他のグリフィンドール生に紛れて、校舎の方へと向かって行くのが見えた。
あと少しで、リーマスをトンネルの奥へと隠すことができる。

「ああ、本気だ。僕はこの為に2年間もお前達のことを見てきたんだ」

もし時間が想いの強さに繋がるというのなら、シリウス達は3年間リーマスを守り続けてきたよ。

「だったらいい加減、シリウスの言いそうなことなんて予想がつくでしょ。暴れ柳が動きを止めるなんてウソ、今時赤ちゃんだって信じないよ」

わざと挑発するような声で言い、スネイプの神経を逆撫でする。
私に意識を集中させろ。私を見ろ。リーマスのことを、一瞬でも良いから忘れろ。

「どうだかな。実際この2年で何度か、僕はあいつがあの辺りをうろついてるのを見ている。それに…暴れ柳は、非常に貴重で繊細な植物だ。育成や治療のために何かの方法を使って生育者が動きを止めているのは間違いない」

────鋭い推察力だった。それは私もかつて同じように考えたこと…道理は通っている。
そう、暴れ柳が一切動きを止めないなんて、そちらの方が余程根拠の薄い出任せなのだ。そんなこと、少し考えれば誰にだってわかってしまう────。

「だからって、シリウスの言葉を鵜呑みにするつもり? あなたに味方するわけじゃないけど、シリウスはあなたに危害を加えるためにならどんなことだってするし、どんなことだって言うよ。どうするの、木の幹のコブが暴れ柳を更に凶暴化させるスイッチだったら」

言いながら、心が痛む。「どんなことだってするし、どんなことだって言うよ」。そんなこと、シリウスに対して嘘でも言いたくなかった。

「そうだな…普段のブラックの言葉ならひとつも信じなかっただろうが、あの時のあいつの顔…あれだけは本気だった。それに、暴れ柳の幹のコブを突くなんて、咄嗟に出る嘘にしては細かすぎる。信じる価値はあると思う」

その言葉がやけに流暢なのは、これから自分のしようとしていることに少なからず高揚しているからなのだろうか。2年間も待ち続けた敵の弱点をようやく暴けると、数々のリスクをもってしてもなお、そんな風に浮かれているのだろうか。

スネイプは私にレポートを押し付けると、駆け足で暴れ柳の方へ向かって行った。
私も慌てて後を追う。どうかやめさせなければ。でも、あまり必死になってもシリウスの言葉の信憑性を高めるだけだ。

頭を回せ。シリウスの言葉は虚言であると信じさせ、その上でスネイプを暴れ柳から遠ざけるには、どうしたら良い?

「ねえ、そんな無茶なことしないで。暴れ柳が仮に大人しくなるとしても、そこに近づくまでに怪我を負ったらどうするの!?」
「フン、今更善人ぶる気か? リヴィア。ただ怖いだけなんだろう、僕が真実を知ることが」
「確かに私はあなたの味方じゃないよ。でもこの間のホグズミードでは、シリウスの方を止めたでしょう! 必要以上に誰かが傷つくなら、私は相手が誰であろうとそれを止める!
「よく言う、それまでは黙って見ているだけだった癖に」
「あなた達が対等な間は口を挟む気なんてないもの。でも、あなたが怪我を負ったらリリーが悲しむ。私は別にあなたのために言ってるんじゃない、リリーを苦しませたくないから、バカな真似を止めさせようとしてるだけ!」

結局、私の切り札はリリーしかなかった。
スネイプとの利害が一致するところが、彼女しかなかったのだ。

案の定、スネイプは一瞬足を緩めた。その隙に私は彼に追いつき、回り込んで正面から彼の憎悪に歪んだ表情を見据えた。

────その時には、もう私達は暴れ柳の枝がギリギリ届かない程度の距離にまで来ていた。リーマスはちゃんと、叫びの屋敷に着いただろうか。
このまま彼を校舎内に引き戻せるならそれが一番だ。でもそれができないのなら、力ずくでも────。

────イモビラス!

────そう思った瞬間、私の動きは強制的に止められた。

「!!!」

────しくじった!

スネイプはずっと杖を持っていたんだ。レポートを提出した時から、ずっと。だから見落としていた。私は自覚のないままに、ずっと自分が先に杖を抜くことばかり考えていた。

彼は最初からこうするつもりだったんだ。私、あるいは悪戯仕掛人の誰かが妨害しに来ることなんてとっくに考えていて、だから初動を少しでも滑らかにできるよう、最初から杖を用意していたんだ。
指先ひとつ動かせない。私はさっきのメイソンとスターキーのように、何もすることができないカカシのように突っ立ったまま、スネイプを睨むことしかできなかった。

前にも言ったはずだ。リリーのことを知ったような口を利くな
「少なくとも今なら、あなたよりはリリーのことを知ってるつもりだけど。気づいてないの? そうやってあなたが卑怯なことをする度に、彼女の心が離れていくことに」
うるさい!

スネイプは大声を張り上げた。悲鳴に近い、苦しげな声だった。

「リリーだってわかってくれるはずなんだ…。本当はどちらが正しいのか…。学生のお遊びで良い気になって、チヤホヤされてヒーロー気取りをしてるようなポッターなんかより、ずっとずっと強い力がこの世にあることを…」
「ちょっと、スネイプ」
「僕は狭い世界の中で頭でっかちになっているようなバカより、ずっと強力な魔法を使える…。僕は人目を惹くことに躍起になって規則ばかり破っているバカより、ずっと多くの知識を持ってる…。リリーだって、いつか目を覚ましてくれるはずなんだ…。本当はどちらがより彼女に相応しいのか…

最後の方など、ほとんど独り言のようだった。譫言を呟く夢遊病者のような足取りで、スネイプは動けない私をその場に残し、暴れ柳へと近づいて行ってしまう。

「行かないで! ねえスネイプ、バカな真似はやめて!」

声は出るのに、足が踏み出せない。杖も取り出せない。
どうしよう。こんなんじゃ、助けも呼べない。

私、何もできない。

もっと早くスネイプの動きを封じれば良かったんだろうか。レポートの回収に時間をかけるなんて甘いことをせず、それこそ強制的にスネイプを昏倒でもさせてしまえば良かったんだろうか。

いや、それより前に、シリウスがホグズミードであんなことを口走ってしまった直後、あそこで忘却呪文でもなんでもかけておくんだった。

…そもそもそんなことになる前に、私が強制的に2人を引き離すべきだった。

ああ、私がバカだった。

綺麗事ばかり言って、現実を侮っていた。
シリウスにはあんなに偉そうなことを言っておきながら、結局私は何もできないんだ。

スネイプの私達への憎しみを、甘く見ていた。
スネイプのリリーへの妄執を、甘く見ていた。

何もかもが甘かった。やっぱり私は、現実をちゃんと認識できていなかったんだ。

後悔ばかりが胸の中を渦巻く。
先週シリウスに言ったことの一体どれだけが正しかったんだろうと、再びそんな疑問が首をもたげた。でも、私はいよいよそれに答えを返せなくなっている。

私の思想は、本当に正しかったんだろうか。
あそこでシリウスを傷つけるようなことを言ってしまって、私は本当に良かったんだろうか。

私は────────私は、一体何をしたかったんだろうか。

あまりの無力感に、涙が溢れ出てきた。滲む視界の中で、スネイプが枝の動きをかわそうとへたくそなダンスを踊るような動きをしながら、努力虚しく枝に打たれているのが見える。それでも彼は止まらなかった。きっと近くで見たら傷だらけになっているのだろう。だというのに────最終的に、彼が長い木の枝で暴れ柳のコブを的確に突くのが見えてしまった。柳の動きが────止まる。

もうダメだ、と思った。
ダメだった。私は結局最初から今この時まで、"教科書の上に書いてあるようなこと"しか言えない人間だった。そんなつまらないことしか、考えられない人間だった。

"敵"というものの恐ろしさを、もっと厳しく捉えるべきだったんだ────シリウスのように。

「お願い…もう…やめて…」

誰にも届かない呟きを発した、その瞬間。

「フォクシー!」

背後から、私の名前を力強く呼ぶ声が聞こえた。同時に何か呪文を唱える声が聞こえ、体に温かいものが流れ込み────私の体が、自由になる。
私はすぐに振り返った。

そこにいたのは、ジェームズだった。

「ジェームズ!! 助けて!」

反射的に、そんなことを言っていた。何も知らない彼に突然そんなことを言ったって、わかってもらえるはずがないのに────。

しかし、彼は全てを理解したという顔で頷いていた。

「スネイプは!?」
「さっき、コブを突いて中に入って行っちゃったの!」
「わかった、僕に任せて! パッドフットなら大丈夫、ムーニーも僕が守るから! 全部終わったら、また話そう!」

そう言うなり、彼は矢のように駆け出して行った。あっという間に暴れ柳の枝をかいくぐって根元まで近付くと、慣れた手つきでコブを突き、再び柳の動きを止める。
ジェームズはまるで風のような素早さで、トンネルの奥へと消えた。

私はその瞬間、体中から力が抜けて、そのまま膝から崩れ落ちてしまった。
とてもひとつにまとまってくれない思考と感情が、ただひたすら涙となって地面を濡らしていった。



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