「どうするつもりなの」
「誰にも言わない。いつもより早めにリーマスを叫びの屋敷に入れさせて、ジェームズ達は────大抵リーマスが完全に狼になった後の真夜中に後を追うんだけど────もう少し遅い時間に行かせる。あいつらには、いつも通り大人しく過ごしてもらう」
「誰にもって…リーマスにも言わないつもり?」
「当然だ」
「スネイプは絶対に来週の満月、暴れ柳に来るよ」
「だから僕が…リーマスを先に行かせた後、ジェームズ達が来る前にあいつと決着をつける」
「ひとりで?」
「そうだ」
ホグズミードから戻った後、私達はホグワーツの隠し部屋に入り、2人きりで話し込んでいた。
私が「さっきのことで、話がある」と言ったら、彼が私をここに連れて来てくれたのだ。誰も知らない、誰も入って来ない部屋に。
さっきのこと…とは、もちろんシリウスが最後に漏らしたリーマスの秘密だった。
彼はあろうことか、一番教えてはならない暴れ柳の止め方をスネイプに伝えてしまった。
次の満月は来週の水曜日。スネイプは確実に、その先のトンネルを通ってしまうだろう。
その先には完全に狼となり果てたリーマスがいる。
飢えている。暴れている。そんなところに未成年の魔法使いがひとりで放り出されたりなんてしたら、どうなることか────確実に、リーマスが人殺しになってしまう。
優しいリーマス。なりたくもない人狼にされて、迫害されて、人権を奪われて、それでも人を襲わずに怯えて生きてきたリーマス。
シリウスのあの言葉は、そんなリーマスと、そして彼を守るために3年もの歳月をも費やした彼自身の友情を全て破滅させる言葉だった。
冗談なんかじゃ済まされない。
そんな度胸があれば、なんて話じゃない。
スネイプはこの時を2年も待っていたのだ。みすみす見逃すわけがない。
「どうしてあんなことを言ったの」
「耐えられなかったんだ。リーマスを────まるで、グレイバックみたいな狂った人狼と同じように扱われて」
「それで秘密を教えてたら本末転倒でしょ。何のためにあなた達は彼を守ってきたの? 私が初めて必要の部屋に行った時、私にさえ杖を向けてきたあなたは一体どこへ行ったの?」
シリウスは完全に苛立っていた。頭に血が上ったあまり"つい"零してしまっただけなのだと、自分の発言が完全な失言だったことは自覚しているらしい。
それでも、もう出てしまった言葉は取り返せない。
「私、何度も言ったよね。もうやめてって」
「だから一度は杖をしまったじゃないか。それなのにあいつ、君のことを────」
「私のことを侮辱したからって、それを免罪符にするつもり?」
「そうじゃない。そうじゃないけど────」
わかってる。
今はきっと、他でもないシリウスが自分のことを責めているんだろう。
だからこそ、彼は来週、「誰にも知らせず、ひとりでスネイプを待ち伏せする」と言った。
リーマスに言ったら、彼を怯えさせてしまうから。
ジェームズ達に言ったら、加勢すると言い出してしまうから。
シリウスは自分の失敗に、自分ひとりで向き合うつもりだった。
でも、それではシリウスも含めて全員が危険に晒される。
もし決闘が長期戦になったら?
もし暴れ柳を大人しくさせる前に誰かが大きな怪我を負ってしまったら?
もしスネイプがシリウスを出し抜いてトンネルを通り抜けてしまったら?
あまりにリスクが大きすぎる。ひとりで対処できる問題じゃない。
彼はそれだけのことをした。これはどうしたって、もう擁護できない問題だった。
「スネイプがしつこいことに苛立ってた気持ちはわかるよ。私だって、いい加減にしてって何度も思った。でもシリウスは、理性を失うのがいつも早すぎる」
「あいつがそうさせるんだ、顔を合わせるなり杖を出して、隙さえあれば呪おうとする。それにあいつはスリザリンで────」
「この際だから言うけど、私、あなたのそういうところ嫌い」
ホグズミードの帰り道からずっと、温度を下げ続けていた心の言葉。
それがシリウスにとって何より鋭いナイフになると知っていながら、私はもう…言わずにはいられなかった。
私がシリウスを受け入れきれない理由。
私がシリウスを特別に思っていると自覚していながらも、それを"恋"と呼べない理由。
「────え」
「私、何度も言ったよね。一方的な差別をする人も、楽しんで誰かに呪いをかける人も嫌いだって。そして何より、友達に危害を及ぼす人が一番嫌いだって」
「そ、れは────」
シリウスは言葉を失っていた。私より遥かに背の高いはずの彼が項垂れている様は、なぜだかいつもより随分と小さく見えた。
「最初に言った時は確かに"マグル生まれを差別する人が嫌い、闇の魔術をおもちゃのように使う人が嫌い、あなた達を害するものが嫌い"────そういう意味で言ったけど、さっきのシリウスは、立場が違っただけで完全に私のラインを越えてた。スネイプと敵対したのだって、元々は彼がスリザリンを支持してたからでしょ。スリザリンにいるからってだけで嫌って、遊びのように呪いを連発して、もうやり返す力が残っていなかったあの人に更に追い打ちをかけて。気づいてた? あなた、スネイプが弱ってるのを見て、笑ってたんだよ。まるであなたが嫌ってるスリザリンの一部の方々みたいにね」
シリウスは何も言わない。私の言っていることは、彼にとっても覆せない真実のようだった。
「私はずっとスリザリンにいるからっていう理由だけで人を嫌いにならないで、ってお願いしてたよ。でも、あなたはサラザール・スリザリンの────あなたにとって受け入れられない思想ばかりを聞いて育ってきたから、スリザリン寮そのものに対して嫌悪感を持ってしまうこともある程度は仕方ないんだ、って自分を納得させてきた。あなたの物言いに嫌気が差すこともあったけど、あなたのことは人として好きだったし、尊敬もしてたから、口であれこれ言っても決してあなた自身のことは否定しなかった」
私の価値観が全て正しいとは思わない。
シリウスにとって、スリザリンとはその存在自体が"敵"だった。
彼の価値観を否定するもの。彼の受け入れたいものを拒絶するもの。
そんな敵が目の前にいたら、相手"個人"のことなんて考える前に、刷り込まれた"集団への嫌悪感"が先立つのはある種当然のことだと思う。
だから、私は自分の意見として「スリザリンだからって嫌わないで」と言うことがあっても、「あなたの価値観は間違ってる」とは一度も言わなかった。言わないようにしてきた。
でも、その結果があれになるというのなら、もう私は"私の価値観"に基づいて、彼の価値観を否定せざるを得ない。
「スネイプと憎み合うことだって、基本的には何も言わないつもりでいた。私が侮辱された時に代わりに怒ってくれたことも、ありがたいことだと思ってる。でも────あなたがそうやって、これからもスリザリン生を"スリザリンだから"っていう理由で傷つけて、相手を無力化させてもまだ攻撃して、それでも平気で笑っていられるようなら────私はもうあなたとは二度と"人として"付き合えない」
シリウスは唇を噛み締めて、床を見つめていた。
「来週の満月の晩のことに関してだけなら、必要とあれば協力は惜しまない。それは"リーマスのため"だから。でも、あなたが今の私の意見を聞いてどう思うか────どう行動するかによっては、私はあなたのことを────もう、友達とさえ────思えなくなる」
できることなら、こんなことは言いたくなかった。
ここに来るまでに何度も考えた。
今まで築いてきたシリウスとの時間。何度もぶつかりながら組み直してきた友情。
好きだと言ってもらえて嬉しかった。私だって、好きだった。
そんなかけがえのない時間を、友人を、"自分の価値観"なんていう、つい数年前にようやく完成したまだ脆いばかりの基準で切り捨てることが本当に正しいのだろうかと、ずっと迷っていた。
自分の価値観と友情を天秤にかけては、そもそもその2つは比べて良いのかと何度も考え直した。
そして、最後にひとつのことに気づいた。
友情という名を免罪符にして、"友人のやることなら"となんでも許容していたら、"自分"がまたなくなってしまう。
"自分"のない私に、果たして価値などあるのだろうか?
今はまだ、"闇に魅入られた者への敵対心"という共通の認識があるから良い。
でもこの先────こんなことは考えたくないけど、もし仮に彼らのうちの誰かが闇の魔術に手を染めた時、"自分"を失った私は"友達だから"という理由でそれを受け入れるのだろうか?
"今の私"は、そんな"自分のない私"を許せるだろうか?
それらへの答えは、全て否だった。
思い出したのは、リリーのこと。
子供の頃、仲が良かった"誰よりも親しいセブルス"が、闇の世界へ行こうとしているのを見て、涙を流しながら止めていたリリー。でも彼がリリーの言葉を受け入れずにそれでも邪悪なものを弄ぶというのなら、もうスネイプとは手を切ると彼女は言った。
それから、ダンブルドア先生の言葉も。
「君がこの先、君が思う正義を掲げ、君が思う正しい行いをするために、その柔軟さは是非持ち続けていてほしい。色んな意見を吸収して、対立するはずの思想にも理解を示して、そうやって何度も脳の粘土を捏ねなおしながら、君だけの形を作ってほしいんじゃよ、イリス」
────たとえそれが友達を相手にしているとしても。
いや、友達だからこそ。
私は、私が作った"私という形"を壊してはいけない。
私は、私が信じた"私の価値観"を裏切ってはいけない。
今の私は、リリーと一緒だ。
向こうへ行かないで。私が許せなくなるその境界線を、越えないで。
でも、それを受けて判断するのは相手のすること。
向こうへ行くのも、境界線を越えるのも、相手の自由だ。
そして、スネイプのように────シリウスも、私の言葉を聞いてなお自分の意見を曲げないというのなら、私達はきっと、本当にわかりあえない。
そう考えると、これは始めから答えが決まっていることのようにも思えた。
だって、少なくとも私は、自分の価値観を変える気がないんだから。
自分の価値観を優先した。自分が作った"自分"を覆さないと決めた。
だったら、シリウスだって同じことなのではないか?
彼にとって"スリザリンと名のつくものは最初から敵"という価値観。
"敵が現れたら、たとえ相手がもう戦えない状態になっても、徹底的に叩きのめせ"という価値観。
その価値観は、彼が"彼"として生き残るために不可欠なものだったのかもしれない。私が甘いことを言っているだけで、彼の方が余程物事を達観しているのかもしれない。
でも、だったら、そう諭してほしかった。
私が納得できるだけの、"彼の正当性"を教えてほしかった。
「────少し、時間をくれないか」
痛いほどの沈黙の後、彼はそう言った。
「…何のための?」
「…確かに僕はスリザリンを憎まずにはいられない。それは多分…君の言う通り、一生相容れない部分だと思う。僕はスリザリンの奴らと手を取り合うには、少し歪んだ環境に身を置きすぎた」
一生相容れない。
その言葉に、強く頭を殴られたような気がした。
やっぱり、わかりあえないのだろうか?
私の価値観は結局彼にとって"偽善"でしかなくて、彼は────これからも、ああしてスリザリンと名の付くものを徹底的に痛めつけ続けるつもりなのだろうか?
私とシリウスは────リリーとスネイプのようになってしまうのだろうか…?
覚悟を持って言ったはずなのに、返ってきた答えに愕然としてしまう。ただそんな私の表情を見て、彼は「でも」とすぐさま次の言葉を続けた。
「でも────君の言っていることが一義的に間違っているとも思わない。僕には確かに"僕の価値観"があって、それが自分にとって一番正しいと信じて動いてるけど────でも、僕だって自分が誰から見ても全て正しい人間だと妄信してるわけじゃない。流石にそこまで傲慢なつもりはないんだ」
だから、と彼は必死な声で訴えた。
だから、時間をくれと。
「僕も、もう一度ちゃんと考えたい。君の言っていることを。僕のしてきたことを。何が善で何が悪なのか────。もちろんこれは、君に媚を売るためにいきなり自分の価値観を変えようとしてるとか、そんなつもりじゃない。そんなその場しのぎの…弱腰で、薄っぺらな気持ちで言ってるんじゃない。でも────僕は、まだ君に嫌われたくない。君と縁を切りたくない」
シリウスがこんな風に及び腰になっているところを見るのは初めてだった。自分がそこまで想われていることをずっと知らなかった私は、彼の言葉をどう受け止めたら良いのかわからずに、ただ黙って聞き続ける。
「僕は君の言葉からいつも新たな気づきを得ていた。どんどん変わっていく君を見て────だからこそ好きになった。今まであれだけ強情に"正義"を翳しておきながら、嫌われそうになった途端急に"時間をくれ"だなんて、情けないことを言ってるとは思うよ。自分がどれだけ無様なのはわかってる。でも────君の豊かな言葉を聞いておきながら、君の変わっていく姿を見ていながら、自分だけ意地を張ってこのままただ縁を切るのは嫌なんだ。気づくのが随分遅くなったけど…僕も一度、変えるべき価値観と────いくら考えてもやっぱり変えられない価値観を、ちゃんと整理したい。君のように、僕もちゃんと"僕"を再認識した上で、君ともう一度話をしたい」
────正直、シリウスからそこまでの"譲歩"が出てくるとは思わなかった。
もちろん、だからって彼の考えが必ず変わるとは限らない。シリウスは、そこまで愚かではない。
考えてみて、「やっぱりスリザリンは全員敵だし、そんな敵を完璧に粛清することこそが自分の正義なのだ」と結論づけられてしまったら、彼はきっと素直にそう言って、諦めるのだろう。私達はその時こそ、本当に袂を分つのだろう。
でも、彼はそれまでに猶予が欲しいと言った。
歩み寄れるところがあるなら歩み寄りたいと。変えられる価値観があるなら変えたいと。
そして、きっと状況的に言えなかったのだろうが────その"考察"の過程で、私の価値観の中に彼にとっての"誤り"があれば、それも指摘して、こちらからの歩み寄りも求めようとしているのではないだろうか、とも思った。
彼は本気だ。
本気で、"話し合い"をしようとしている。
────それならば、私の答えはひとつだ。
「…わかった、待ってる。もちろんそれまではできるだけ今まで通りにする…けど、あなたの"その側面"に対しては明確に、今この瞬間から、私は"敵意"をもって接するから」
誰よりもわかりあえていながら、誰よりも似た境遇にいながら、根本には正反対のものを持ち続けてきた私達。
きっとこれが最後のチャンスだ。私達は本当に、"恋人"として互いを唯一の存在にできるのか。それとも、"無難な友達"に留まってしまうのか。あるいは────"わかりあえない敵"になってしまうのか。
まるで藪から蛇を出してしまったような気持ちだった。
きっとこれがジェームズだったら、私は今までみたいに「スリザリンだからっていう理由だけで攻撃しないで」とだけ困った顔をして言いながらも、その悪い面には目を瞑って、"良い友達"で居続けたことだろう。
もちろんそれはジェームズを軽んじているわけじゃない。彼だって大切な友達だ。ただ私は、"友達"に対して自分の価値観を"正義"として押し付けるつもりはなかった。そこまでは、強くなれなかった。
でも、それが"恋人"なら話は別だ。
誰にも替えられない唯一の人。自分の身を一心に捧げ、心から愛する人。
その相手に彼を選ぶのなら、この"違和感"を放置してはいけない。私の"ライン"を曖昧にしたまま、自分にも相手にも不誠実な態度で愛を嘯くことは…やはりどうしてもできない。
「…ちゃんと話せるようになったら、また改めて…声をかける」
「うん」
「ただ…ひとつだけ、理解して欲しいことがあるんだ」
懇願するような口調で、シリウスは私を上目遣いに見てきた。
「理解して欲しいこと?」
「…確かに、今回はやりすぎた自覚はある。特にリーマスの件については完全に僕の許されざる失態だ。頭に血が昇ってた。自分を制御できなかった。君に止められてもなお、僕はそれを聞き入れられなかった。それは認める」
殊勝に自分の非を語るシリウス。もしかして、その点については反省していることを理解して欲しい、と言いたいのだろうか?
「でも、その気持ちは────今の君にも、共通していると思うんだ」
「…え?」
あんな自棄になって、理性の欠片もなくなった状態を、理解しろと?
私の表情から「理解なんてできるわけがない」という意思を悟ったのか、シリウスは悲しそうに目を伏せた。
「…去年の夏のことだよ」
「…何の話?」
「…僕がオーブリーに呪いをかけられた時の君の話を、退院してから改めてジェームズに詳しく聞いた。君は自我を失っていて、あそこでジェームズが声をかけていなかったらもっと酷い目に遭わせていた可能性があった、と聞いた」
「……!」
言葉を、返せなかった。
即座にあの時の感覚が、まるで昨日のことのように蘇る。
友人を傷つけられた怒り、憎しみ、どう傷つければ相手に一番ダメージを与えられるか、それだけを考えて────。
確かに私はあの時、周りが見えなくなっていた。
「もちろん君なら僕なんかよりもっとうまくやったんだろう。ジェームズが声をかけなくても、君はきっと…そうだな、オーブリーを殺したりはしなかったはずだ。その元々の原因だって、何の非もなかった僕に突然呪いをかけてきた卑劣なやつに下した正しい制裁といえる範囲であって、今日の僕みたいに"喧嘩の延長でヒートアップした幼稚な戦争"とはわけが違う。それはわかってる。────でも、友達を…まして僕の場合は好きになった子のことまで侮辱されたんだ。それに対して抱いた憎しみは、決して"ステータスで相手を判断し、娯楽気分で攻撃する"ような甘っちょろい悪癖なんかと比べられるものじゃない。僕だって、僕の大切なものが害された時には全力で報復する。────そこだけは君と同じなのだと、今は難しくても…どうか、理解して欲しい」
シリウスはそれだけ言って、部屋を出て行った。
ひとり取り残された私は、今彼に投げた言葉のうち、一体そのどれだけに正当性があったのだろうかと、考えざるをえなくなっていた。
自分の思想に固執していたのは、一体どちらだったのだろう?
我を忘れて感情的になっていたのは…一体、どちらだったのだろう?
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