「どうしよう…私、なんで簡単にオーケーしちゃったんだろう…」
「むしろ喜んで受け入れてたように見えたけどね」
1月のホグズミード行きの日の朝、私は頭を抱えてこれからどうしたら良いのかと本気で困っていた。寝室から出る勇気さえ出ないまま、あーとかうーとか言葉にならない呻き声を出す私を、リリーともう1人のルームメイトのメリーは笑いながら見ていた。
シリウスのことが好きだったシルヴィアは、10月に私とシリウスがデートしたらしいと聞くや否や、今まで以上に私に冷たく当たってくるようになっていた。同じ空間にいるだけで何かバイ菌が移るとでも言いたげに、それこそ本当に眠る直前の瞬間まで寝室に寄りつかなくなってしまったのだ。
メリーはグリフィンドール生にしてはおっとりとした子で、この問題に対してうちの部屋では唯一中立の立場にいる子でもあるので、シルヴィアにも私にも肩入れしないまま、現状を黙って見ていた。だから今も、ただ客観的に見て私の挙動が面白いから笑っている、というだけ。リリーのようにハッキリ味方になるでもなく、かといってシルヴィアのように敵意を見せてくるわけでもない。メリーは私にとって、"無難な関係"を築いている相手だった。
「良いんじゃない? この間ホグズミードに行った時はイリス、ハニーデュークスのハロウィン限定パックを買い逃したって後から騒いでたでしょ。まあ、あなた達の事情はよくわからないけど、今度は1月限定のニューイヤーパックが出てるみたいだし、せっかくならシリウスに買ってもらっちゃえば? 惚れた弱みで何でも買ってくれるよ、きっと」
のんびりとした口調でメリーが言う。
「うう…どうしよう…シリウスが私のことを好きって言った話、もう結構広まってる…?」
「次の日には、全校中に。レイブンクローの女の子が失神したらしいよ。なんでも1年生の時からシリウスにアタックしてたらしいんだけど、その時にはまだ"リヴィアのことは好きじゃない"ってハッキリ言ってたのにどうして、って叫んでたんだって」
「あ…」
どうしよう、私、その子のこと知ってるかもしれない。
1年生の時のクリスマス、不幸な偶然でシリウスが告白されている場面に立ち会ってしまったことを思い出した。
「あとは…そうだなあ、やっぱりシリウスのファンが騒いでるね。それからスリザリンの連中。"ブラック家"っていう名前には敬意を持ってるから、その長男がマグル生まれの女の子と付き合おうとしてることをよく思ってないみたい」
「やっぱり…?」
「うん。まあでも大丈夫だよ、シリウスは敵も多いけど、味方も多いもん。女の子達はともかく、男の子達はみんな応援してるっぽいよ」
のんびりしているようでいて、意外と情報通なメリー。淡々と、応援も反対もしないまま、周囲の事実を教えてくれた。
「ほら、しゃんとしなさい!」
いつまでも布団の中で包まっているいる私に、遂にリリーの一喝が浴びせられた。
「マグル生まれだからって軽蔑してくるような頭の悪い人達も、相手の顔だけ見てキャーキャー言ってる軽薄な人達も、みんなあなたに敵うわけないじゃない! それに約束は約束よ! 嫌になったら途中でまた大喧嘩でもして帰って来れば良いんだから、とりあえずおしゃれしてさっさと行くのよ!」
「えーん…リリーが怖いよ…」
そのまま私はリリーに布団から引きずり降ろされ、髪を整えてもらい、着替えやマフラーを巻くところまでお世話をしてもらってしまった。
「…ありがと、リリー」
「いいえ。楽しんできてね。────あっ、そうだ、これ」
そのまま送り出してもらえるのかと思いきや、リリーは私を一旦引き留めてきた。彼女は私のベッドサイドに置いていたブレスレットを取り、私に手渡す。
────それは、私が2年生の時にシリウスからもらった、赤いブレスレットだった。
「それ付けていったら、きっと喜ぶわよ」
「付き合えないって言ってるのになんだか思わせぶりじゃない…?」
「大丈夫、むしろブラックは反省すると思うわ」
「?」
よくわからないまま、今度こそメリーとリリーに送り出され、私はとぼとぼと寝室を降りて行く。
シリウスは談話室の入口付近で待っていた。先に寮を出て行くグリフィンドール生が一様に私とシリウスを見ている。まだ付き合ってもいないのに、周りからの認識はすっかり"そういうこと"になっているらしい。"学校のカリスマ"と"稀代の優等生"のペアなんてそりゃあ目立つだろうなあと、今更ながらこの間シリウスに抱き着くという大胆な行動を取ったことを後悔する。
「お待たせ」
「いや、良いよ。────それ、付けてきたのか?」
シリウスはすぐに私のブレスレットに気が付いた。肖像画の裏を通り抜けながら、私は「うん。リリーが持って行くと良いよって」と素直に打ち明ける。
あんまり気のある素振りを見せるのもどうかと思ったんだけど、と言おうとした私は、隣を歩くシリウスの顔を見てその言葉を押し留めた。
彼はまるで苦いものでも口にしたかのような表情をしていたのだ。
「…エバンズのやつ、確かにジェームズに似てるな」
「どういうこと?」
どうしてここでジェームズが?
「君も気づいてただろ、このプレゼントは────まだ僕が君を今ほど意識してなかった頃、"グリフィンドールの象徴"として贈ったジョークグッズだ。傍目から見ればただの"素敵な女性向けプレゼント"だけど、僕らにとってはそうじゃない。あいつ、僕が本気で君を口説き落とそうとし出した途端こんな昔の冗談を引っ張り出すようなことしてきやがって────」
…成程、それでジェームズみたい、っていう表現になるのか。
確かにジェームズは、ここぞという時に茶々を入れるのが大好きな人だ。
デートにこそ相応しいアイテムを、そのデートに持って行く。それはとても自然なことなのに、いかんせんそのアイテムに込められた"意味"があまりにデートに相応しくない。そんな隠れた皮肉を、リリーは私に持たせたということになる。
それはつまり…。
「牽制されてるんだろうな、僕は。"そんなに君が簡単に落ちると思うなよ"…あるいは、"君が許しても自分が許さないぞ"…か」
「リリーがこれを持たせたのは多分、単純に昔のシリウスを揶揄いたかっただけだと思うよ」
シリウスの説明で、リリーが私にわざわざこれを持たせた理由はわかった。
紐解いてみれば、そこに込められた意味を読むことなんて簡単だった。「2年生の時はこんなに幼稚なことをしていたのに、今じゃその相手に本気で迫ろうとしてるんだから面白いわよね」っていう、それだけ。
「何度も訊くけど、シリウスって本当に私のこと好きなの?」
私もそんなリリーに同感だった。
数年前までは全くそんな気配すらなかったのに、今じゃ当たり前の顔をして「好きだ」、「付き合ってくれ」、「君を落とす」と言っているんだから。
正直まだこんな風に、シリウスの言葉を疑ってかかる時もある。
でもシリウスの言葉はいつも決まっていた。
「好きだよ」
「ふうん…いつから?」
「さあ? 気づいた時には」
「どうして?」
「それもよくわからない。気づいた時にはどうしようもなく好きになってた。…まあ、考えれば理由くらいはいくらでも出せるだろうけど、感情の前に理屈を並べたところで全部陳腐になる気がしたから、あんまり考えないことにしてる」
そういうものなのか。そして私はそんな漠然としたものを信じているというのか。
恋って、不思議だ。
「さて、じゃあ今日はどこから行こうか?」
ホグズミードに着くと、シリウスは面白そうな顔をして私の方を横目で見た。前回、あんなとんでもないことが起きたせいで最後の方に私が全く機能しなくなったことを思い出しているんだろう。ニヤニヤと嫌みったらしく笑う様が、腹立たしい。
「ハニーデュークス」
「お、今日は最初で良いのか? でも確かに、帰りにまた人間じゃなくなっちまったら買えないもんな」
「……シリウス、本当に私のこと好きなの?」
付き合える努力をする、なんて言った割に、シリウスの態度は全く変わっていなかった。私の恥ずかしい思い出を平気で何度も思い返させて、ひとりで勝手に笑っている。
「好きだよ。言ったろ、ずっと前から好きだったって。本人にそれを伝えたくらいで今更僕の態度なんて何も変わらないよ。それともプリンセスはチョコファッジみたいに甘〜くて優し〜い王子様みたいな彼氏が欲しいのかい?」
「もっと要らない」
「そうだと思うよ」
軽快に笑いながら、それでもシリウスはハニーデュークス店の扉を開ける時、私を先に中へと通してくれた。
「今度は何が目当てなんだ?」
「ニューイヤーパック。今度はメリーの分も買わなきゃいけないから、大荷物になりそうだな」
「なんか前回から増えてないか? っていうか同室の奴らに配るんなら、ディケンズは良いのか? なんかよく知らないけど喧嘩したままなんだろ?」
何も見ていないようでよく見ているシリウスは、すぐにそんな鋭い指摘を寄越してきた。
そこまで鋭いならどうぞ、その原因まで言い当ててくださいという気持ちなんだけど。
「シルヴィアは修復不可能。あの人、シリウスのことが好きだから」
「あ、そ」
「やっぱり寝言でシルヴィアの悪口も言ってなかったし、私の"優等生っていうステータス"に嫉妬してたわけでもなかったね」
あれはまだ3年生の時だっただろうか(そう思うと、私達の関係って周りから見るとその時からこんな感じだったってこと?)。バレンタイン直前にシリウスと2人で話しながら談話室に戻った時、すれちがったシルヴィアにあからさまな無視をされた。
シリウスはその時、まるで私に原因があるかのような言い方をしていたけど────とんでもない、シルヴィアが私を嫌っていたのは、他でもないシリウスのせいだった。
「"ステータスで判断してくる奴にろくな奴はいない"。少なくともそれは間違ってなかったろ」
「まあ、そうかもしれないけど」
そんなことを言いながら、混みあった店内でなんとかニューイヤーパックを3箱買い込む。お菓子の箱は意外と大きく、重みもあり、店を出る頃には既に私の両腕はすっかり塞がってしまっていた。思った以上の大荷物だ。残念だけど、この後の買い物は控えないと…というかまず歩く時に人にぶつけないように気をつけないと────。
すると、片手に下げていたビニール袋が急に軽くなった。隣を見ると、シリウスがあっさり私の荷物を肩代わりして持ってくれていた。
「…紳士的アピールのつもり?」
「好意だよ、なーんの下心もない、純粋な好意。ほら、そっちのもう片方の袋も貸しな」
「シリウスに優しくされるのって怖いんだけど」
「いつも通りにしても優しくしてもそんな顔をされてるんじゃ、僕は一体どうしたら良いんだよ」
言葉こそ悲観的なのに、今日の彼は明るかった。もし本当に私のことを好きでいてくれるなら、こうしてまた2人で一緒に歩いている時間を、私が思っている以上に楽しんでくれているのかもしれない。
それなら────これを彼がただの優しさだ、と言って笑ってくれるのなら、私は素直に甘えることにした。
「ありがとう。お礼にシリウスの分も買えばよかったね」
「良いよ、このくらい。来月のバレンタインに期待してる」
「嫌というほどもらえるじゃん」
「君から以外のものに興味はないんでね」
あまりにもあっさりとそんなことを言うものだから、また私だけが心を乱してしまった。顔が熱い。まったく、どうしてそんなに平然としていられるのか。これが「ずっと前から好きだった」が故の冷静さだっていうの?
よくわからない。
10月以来、私はシリウスを見ると勝手に心拍数の上がる体になっていた。理由はわかっている。恋心という感情を向けられ慣れていないせいで、緊張しているのだ。
私だって、シリウスのことは特別だと思っているし、友達としては好きだ。
でも、そこに下手にこんなドキドキとした気持ちが混ざってしまうと、まるで私まで本当にシリウスに恋をしてしまったんじゃないかと錯覚してしまうこともあって────正直なところ、私はあまりそれを良いことだと思っていなかった。
好きだと言われただけでこちらも好きになった、という単純な話にはあまりしたくない。
もちろんそれで良いと思う人がいるなら、その人はそれで良いと思う。それは個人の思考の自由だ。
ただ私には、ヘンリーの申し出を即座に断っておきながら、シリウスの告白には2ヶ月以上経っても明確な返事を返していないという状況がある。その差がある以上、私がシリウスに単純ならない感情を持っているのはわかっていた。
だからそこに、ちゃんと理由をつけたかった。
きっと、私も心の底ではシリウスを"友達の意味を越えて"好いているんだろうとは思う。
まだそれを私が受け入れきれていないというだけで。
こんな風に流されて好きだと勘違いしたくなかった。
私は私の意思で、私からシリウスを好きになりたかった。
「あ、そういえばこの間時計が壊れたんだ。ついでだからダ―ビッシュ・アンド・バングズに寄って、修理に出してきても良いか?」
「もちろん」
基本的な魔法道具が揃っているダ―ビッシュ・アンド・バングズ魔法用具店。魔法のかかった機械も多く並べられているので、見ているだけでも楽しいお店の1つだった。
シリウスが店内を見ている間、私も勝手に商品を見て回る。ポッポッと良い香りのする煙を一定間隔に吐き出す銀の壺、針が15本もついている時計。用途はよくわからないけど、だからこそ面白い。ちょうど店を一周する頃、シリウスも用事を終えたようだったのでそのまま2人で店を出た。
「どうする、そろそろ休憩するか?」
「三本の箒?」
「いつもそこじゃつまんないな…。そうだ、この機会にホッグズ・ヘッドに行ってみるのはどうだ? 僕もまだ行ったことがないんだけど、なかなか趣があって面白そうなところだぞ」
「面白いっていうか…ちょっと不気味じゃない?」
「叫びの屋敷には勇敢にも散策に行ったのにか?」
2年前のことを今更持ち出されても。それにあれは、リーマスのことを調べるという目的があったから行っただけであって、その疑念がなければあそこにだって行かなかった。
「事情があれば行くけど、基本的に私はアングラには近寄らないの。優等生だから」
「あー、狼人間の調査は進んでやるし、なんなら今まさにアングラの化身の隣を歩いてるから忘れてたけど、そういえば君は優等生だったな」
シリウスは実に愉快そうに皮肉を吐いてくる。
「じゃあ今すぐ帰ろうか? "安全地帯"の談話室に」
「わかった、わかった。僕が悪かったよ」
そう言いながらも、三本の箒を素通りしてちゃっかりホッグズ・ヘッドの方へ向かおうとしているのだから、たちが悪い。とはいえ彼と一緒でいる限り大抵の場所は安全だろうと思っているので、私も言葉通り引き返すことはせず、気づかないふりをしてついて行った。
2人で郵便局の前を通り過ぎ、その次の横道に入ろうとした時だった。
────向こう側から、スネイプがやってくるのが見えた。どうやら1人のようだ。
「お、愛しのスニベルスがいるじゃないか」
ちょうどホッグズ・ヘッドから出てきたところ…なのだろうか? こんな時でさえ本を読んでいる彼はまだ私達に気づいていない。シリウスはちろりと舌を覗かせ、実に楽しそうに囁いた。その気になれば、すぐに彼は荷物を全て捨てて杖を出してしまうだろう。そう思った私は、同じように小声で彼を牽制し、そっと彼の右腕に手を乗せた。
「シリウス、ダメ」
「でもあいつが僕らに気づいたら、あいつはすぐさま杖を抜くぞ」
「そしたら私がなんとかするから」
今更シリウス達とスネイプのいがみ合いを止めるつもりはない。これはもうお互いに憎しみ合っていないと生きていられない生き物だと、いい加減諦めた。
ただ、こんな往来で呪い合戦になるのは御免だ。
スネイプはきっとシリウスの言葉通り、私達を見ればまず杖を抜くだろう。そうしたらシリウスはどうする? そんなの、"攻撃呪文"を唱えるに決まっている。
だから彼には杖を抜かせたくなかった。
そんなことになるくらいなら、私が杖を抜いて"防御呪文"をかける。ついでに"監督生"の名にかけてスリザリンからいくらか減点…は良くないか(この問題はどっちも悪いから)、とりあえず"正当防衛"を成立させる。
いくら嫌いだろうが、憎かろうが、時と場所くらいは考えてほしい。
どうしても避けられないというのならともかく、必要のないところで必要のない揉め事を起こしてほしくない。
…こういうところなんだよなあ、私がシリウスに対して躊躇ってしまうのは。
どうしてそう事を荒立てたがるのか。どうしてそう、人を攻撃したがるのか。
その時、スネイプがこちらに気づいた。眉を吊り上げ、唇を歪め、シリウスを見てから私に視線を移し、余計に憎しみの感情を露わにする。
「よう、スニベルス。ひとりでホグズミード散策か? それともイマジナリー・エバンズでも隣に引き連れて歩いてるつもりになってるのか?」
「シリウス!」
今のはリリーにも失礼だ。あまりに軽率な挑発に苛立ったのは、スネイプだけではなかった。
「お前こそ、こんなところに何の用だ」
「見ての通り、監督生様の荷物持ちだよ」
スネイプは思いっきり侮蔑的な視線を私に向けた。
そして、ローブから杖を抜くような動作を見せるが────その瞬間には、もうシリウスが杖を抜いて呪文を放っていた。
「エクスペリアームス!」
「シリウス!」
シリウスの声と共に、遥か後方へと飛んで行くスネイプの杖。
私の抗議の声などまるで聞こえていないかのように、彼はスネイプだけを見ていた。
当然、スネイプは自分の杖を取り戻すために、再び路地の奥へと走って行く。
「グリセオ!」
そうして背を向けたのがいけなかった。シリウスの次の呪文がスネイプの足元に当たり、彼はその場でつるんと滑って転んでしまう。
もろに顔から地面に転んだスネイプは、鼻血を出していた。それでもなんとか杖を拾い上げ、荒い息を吐きながらシリウスに向き合う。
「ほう、それでもまだ闘志を失っていないのは────」
「セクタム────」
「ディフィンド!」
スネイプが何事か呪文を叫ぶ前に、再びシリウスの鋭い呪いが直撃する。スネイプの右手がぱっくりと裂け、思わず彼は杖を取り落とした。
「ねえ、もう良いでしょ」
スネイプが劣勢なのは明らかだ。この状態じゃ杖さえまともに取り上げられまい。下手に不完全な呪いをかけられて逆に厄介な症状を負わされても困る。"喧嘩"の範囲で終わらせるなら、今が確実に潮時だ。
そう思ってシリウスに声をかけたのに────彼はなんと、笑っていた。
舌舐めずりをして、次はどんな呪いをかけてやろうかと言わんばかりに杖先をスネイプに向けたまま、彼はこの状況を楽しんでいた。
彼らが理解しあえないのはもうわかっている。でも、弱っている相手を一方的に虐めて楽しむことは、私のラインを越える行為────私が許さないと決めている行為だった。
さっきまでの楽しかった気持ちが急速に冷めていくのを感じる。
「好き…なのかもしれないんだけど…。でも、ちょっと引っ掛かるんだよね」
「どこが?」
「うーん…例えば、スリザリンの人に対する一方的な敵意とか、無鉄砲で攻撃的な言動とか…そういうのを見ちゃうと、こう…なんて言ったら良いんだろう」
「せっかくドキドキしてても気持ちが冷める、みたいな?」
────クリスマス休暇中の、リーマス達との会話が蘇る。
今まさに、私はその状況に陥っていた。
楽しい、嬉しい、ドキドキする────そんなキラキラした感情が失せ、苛立ちが募る。
「ペトリフィカストタルス!」
案の定、わざとシリウスが術をかけずに様子を窺っている間に、スネイプは杖をまともに掴めないまま指先だけで杖を挟んで唱えた。しかしそんな不完全な魔法がまともにかかるはずもなく、シリウスが杖を一振りしただけでその閃光は地面へと跳ね返される。
「スニベリー、本物の魔法を教えてやるよ。良いか? こう唱えるんだ────」
「シリウス!」
「────ペ、トリフィカストタルス!」
呪文を唱える直前、私が大声を出したせいでシリウスの詠唱に一瞬変な間が空いた。しかし効果はしっかり現れてしまったようで、スネイプは鼻と手から血を流したままバタンと後方に倒れた。
────いや、呪文はこちらも完全には効かなかったらしい。詠唱が乱れた魔法はスネイプに身体の自由を僅かに残した。とはいっても、指先をぱたぱたと動かして、目をギョロギョロと私達交互に向け、「クソ共、僕はお前を絶対に許さない────!」と騒がせることくらいしかできなかったが。
「口を塞いだ方が良いな────」
「エクスペリアームス!」
またシリウスがスネイプに杖を向けようとした────その瞬間、私の我慢は限界を超えた。シリウスに向かって呪文を唱え、彼の杖を取り上げる。彼の杖は、まっすぐ私の手元に回収された。
まさか自分が魔法をかけられるとは思っていなかったのか、シリウスは一瞬唖然とした顔をし、それから怒ったように私を見た。
「どういうつもりだ」
「もうやめて、って何度も言ってるでしょ」
「まさかこいつの味方をするって言ってるんじゃないだろうな?」
それを言われて、また私の気持ちが一段と冷え込む。
この人は、何もわかっていない。
何度も言ったじゃないか。
私は一方的な虐めを楽しむ人間が嫌いなのだと。
たとえそれが憎しみ合っている人間同士の小競り合いだとしても、スネイプにいくつもの怪我を負わせ、動きを止めた時点で"勝敗"は決したはずだ。
シリウスは彼を殺す使命でも負っているのか?
再起不能なまでに傷つけないと生きていけないとでも言うのか?
「あなた達の立場に関しては私は非干渉を貫くって言ったでしょ。どっちの味方もしない」
「じゃあ、干渉しないで見てろ」
「でも、もう彼は完全にあなたに負けたでしょ。魔法もろくに使えない、体も自由に動かせない、そんな状態で更に何をしようって言うの? そんなのは喧嘩じゃない、ただの一方的な加虐行為だよ」
私の静かな怒りを受けて、シリウスの表情から全ての感情が消えた。
どうやらこちらが本気で怒っていることは伝わったらしい。それをどう受け止めたのかはわからないが────彼はそのまま黙って大人しく杖をしまった。
「石化は解除しないぞ。すればこいつはまた襲ってくる」
私もそれについては言葉を返さなかった。本当なら石化魔法も解除してほしかったが、そうすればシリウスの言う通り、手負いのスネイプが不完全な魔法(不完全な魔法は時として、却って厄介な呪いとなることもある)を乱射してくるだろう。"一方的な加虐行為"を残したまま去ることには心の底から抵抗感を覚えていたが、だからといってまた"対等な喧嘩"を始めれば良いというものでもない。
────お互いに、もう少し理性というものを学んでほしかった。
「────穢れた血め!」
去り際、背後からスネイプの最後の侮辱の言葉が聞こえた。
穢れた血。
それが私のことを指しているのは間違いない────が、私は自分がそう呼ばれたこと以上に、スネイプが"その言葉を使った"ことにショックを受けていた。
死喰い人候補の生徒と一緒にいても、決して"穢れた血"という単語を発さなかったスネイプ。それは彼の心の中にいつもリリーがいるからであり、スネイプがたとえ誤った道に進もうとしているのだとしても、そこにあるリリーへの愛情だけは本物だと…だから、そんなリリーを侮辱することにもなる"その言葉"だけは使わないと、信じていたのに────。
そうか、彼はこうして、"リリーに見えない"ところではとっくに"私が許せない"人と同じところへ行ってしまっていたのか。
あれだけリリーを泣かせておいて、まだそれでも足りないというのか。
しかし今の彼はどちらにしろ動けない状態だ。私からも呪いの一発をお見舞いしてやりたいところだったが、今回は既にシリウスがやりすぎなほど彼に攻撃している。
いつか万全な状態で向き合った時、今度は私が"喧嘩"を売ろう────そう思って、隣にいるはずのシリウスを何気なく見た時だった。
────そこに、シリウスはいなかった。
「!」
慌てて後ろを振り返ると、ちょうど彼はスネイプが倒れているところにしゃがみこみ、顔面を一発強く殴ったところだった。
バキッと、痛そうな音が鳴る。
「シリウス! もう良いから今日は────」
「彼女を────侮辱するな!!!」
ダメだ、何も聞こえていない。
私は再び杖を抜いて、2人とも傷つけないまま距離を取らせる魔法を考えながら路地を進んだ。
その時だった。
「何度でも言ってやる! 穢れた血! その穢れた血に惚れ込んだお前も同罪だ! この魔法界の恥さらしが! 純血の名家の名を汚し、あまつさえ人狼ともつるんで────」
スネイプの言葉を聞いた瞬間、さっと血の気が引く。
人狼。
彼が何を指してそう言っているのかは瞬時に理解した。
やはりスネイプはまだ諦めていなかった。3年生の時から、2年間もずっと、ずっと────私達の尊厳を貶めるたったひとつの大きな秘密を、追い続けていた。
「なんだと!?」
シリウスに関してはもうもはやどの言葉に反応して怒っているのかわからない。
ただ、直感的に思った。
このままシリウスとスネイプを会話させてはいけない。
シリウスは完全に激昂している。我を失っている。
こんな状態で挑発を続けられれば、何を言い出すか────。
「知ってるんだぞ! お前の仲間が満月の晩に必ずいなくなることを────! 一体どこにあの野蛮な獣を放っているんだ! 今まで何人襲ってきた!」
「ああ、教えてやろうか!」
「シリウス! やめて!」
「そんなに気になるなら満月の晩、暴れ柳に来てみれば良い! 木の幹のコブさえつつけばお前が探している場所に辿り着くだろうさ! その先で見てみろよ────何が起きているのか!」
────私の声は、届かなかった。
言った瞬間、シリウスがハッと我に返る。
しかし、もう遅かった。スネイプは、必要なことを聞いてしまった。
次の満月の晩、スネイプは確実にリーマスの正体を突き止める。
「────まあ、お前にそんな度胸はないだろうけどな」
最後にそう吐き捨てて、もう一度スネイプの動かない体の真ん中を思い切り蹴ると、シリウスは路地を出て行った。私は無言でその後を追い、無言で彼の隣に並び、無言でホグワーツへと帰った。
ホグズミードに行く時あれだけ温まっていた私の気持ちは、もう冷え切って氷の塊のようになってしまっていた。
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