マクゴナガル先生に連れられて、校長室の前へと向かう。よく通りがかってはいたけど、ここで立ち止まるのは今日が初めてだった。入口に立っている大きなガーゴイルが、まるで私を威圧的に見降ろしているように見えて、無性に怖かった。
大丈夫、大丈夫。
こうなることは予想して、ちゃんと予行練習をしてきたんだから。
校長室の前には、ピーターとジェームズもいた。「やっぱり」という顔で、2人は私と先生を見る。ジェームズは澄ました顔をしてるけど、ピーターは顔を真っ青にしてガタガタ震えていた。
「皆さん、昨晩、ミスター・ブラックが呪いをかけられたことはご存知ですね?」
「はい」
3人揃って頷く。
「その件について、1人ずつ校長先生が話をお聞きになりたいと仰っています。私はこれから授業の準備で自室に戻りますが、呼ばれるまでの間はここで待っているように。話が終わったら順次談話室に戻ってよろしい。ではまずミスター・ペティグリューから。合言葉は"ドーブルの風船ガム"」
そう言うと、マクゴナガル先生は去って行った。合言葉に反応して、ガーゴイルがぴょんと横に退き、背後の壁が左右に割れる。奥は長い螺旋階段になっていた。────この上に、あの青い瞳の老人がいるんだ、と思うと、否が応でも背筋を冷や汗が伝う。
「ぼっ、僕が最初なの…」
ピーターが涙目で私達を見ていた。私は緊張した顔で「頑張れ」と言うことしかできなかったけど、ジェームズは気楽そうに床に座り込み、「楽しくおしゃべりして来いよ。ダンブルドアなら大丈夫だから」と言っていた。
絞首刑台を昇るように、螺旋階段に乗せられて階上へと上がっていくピーター。その後ろ姿が見えなくなったところで、私もジェームズの隣に腰掛ける(立っていると緊張感が増すような気がした)。
「さっき言った"ダンブルドア先生なら大丈夫"って、どういうこと?」
私達の味方だから罰することはない、とでも言いたいんだろうか。オーブリーが見つかっているのかどうかはわからないけど、客観的に考えれば確かに"シリウスが傷つけられた"という点において、私達は被害者側の立場にいる。
でも、私はあの青い目が少しだけ怖かった。まるで腹の中を全て見透かされているような、恥ずかしい気持ちになるから。
「ああ…それはね、あの人に嘘とかついても無駄ってこと。多少の悪戯ならお目こぼししてくれるお茶目な爺さんだけど────あの人には絶対敵わないよ。いやあ、まさか校長直々に出てくるとは思わなかったなあ。イリス、多分今朝の言い訳、ダンブルドアが相手じゃ通用しないからやめておこう」
ジェームズの言葉にくらりと眩暈を覚える。
嘘をついても無駄? あの言い訳が通用しない?
何よりあのジェームズが「敵わない」とあっさり言うなんて────。
「あ、でも大丈夫だよ。多分根掘り葉掘り聞かれることはないと思う。あの人はだいたいのことをもう既に知ってる。嘘をついても無駄っていうより、嘘をつく必要がないってこと」
「で、でもそれじゃ…」
「今の時点でダンブルドアがどこまで知ってるかは知らないけど、オーブリーはシリウスに謎の呪いをかけた。対して君は、ただヤツを石にして備品をぶつけて青あざ作っただけ。どう考えても悪いのは向こうだから、大丈夫」
何度か大丈夫、と言うジェームズはすっかりリラックスしているようだった。
「…落ち着いてるね」
「そりゃ、僕らは常習犯だからね」
「校長室呼び出しの?」
「そ」
ニヤリと笑ってみせるその顔に、思わず一瞬だけ力が抜ける(でもまたすぐに強張った)。
「でも、僕らもひとつだけ、絶対にダンブルドアに秘密にしてることがあるんだ」
「何?」
嘘が通用しない、既に物事を全て知っている────そんな相手に、隠し通せることがあるんだろうか。そう思って尋ねると、ジェームズは小さくウィンクをした。
「動物もどきの研究さ」
その時ちょうど、螺旋階段の上からヨロヨロとピーターが戻って来た。顔が青ざめていて、今にも吐きそうだ。
「大丈夫…?」
「う、うん…。ほとんど何も訊かれなかった…」
「ダンブルドアは何を気にしてた?」
「セクタムセンプラ…」
やっぱり先生の関心事はそこになるのか。まだジェームズのように手放しで「大丈夫」とは思えないものの、彼の言うことがあながち見当外れというわけでもないらしいことがわかり、私もようやくそこで息をつくことができた。
「次はジェームズだって」
「オッケー。じゃ、2人とも、また後で」
ジェームズはそう言うと、今度は遊園地のジェットコースター乗り場に向かうような軽快な足取りで階段を自ら駆け上がった。
「ご、ごめん、僕ちょっと緊張しすぎて気分が悪いから…先に戻ってるね…」
「うん、気を付けて」
とても引き留められるような状態じゃないピーターを送り出し、私はぽつんとひとり座りこむ。
────ひとりになると、また不安が胃の中で膨らんだ。
どうしよう、オーブリーにしたことを訊かれたら。
ピーターがセクタムセンプラのことしか言及されなかったのは、単に彼があの騒動にほとんど関わっていなかったせいかもしれない。オーブリーに復讐をしたのは私だ。私がやったんだ。
でも、シリウスへのあの仕打ちに対して、"いつもの"減点や罰則のような処分で済ませるのはあんまりだと思った。私が彼を攻撃したのは決して褒められたことではないと思うけど、そもそもの加害者はオーブリーの方なのだ。
…そう言い聞かせて、なんとか気持ちを落ち着かせる。
やがて、早起きした反動で眠たくなってきた頃、ジェームズがようやく戻ってきてくれた。ピーターと比べてかなり長い時間話していたのは、やっぱり彼がそれだけ"オーブリーへの復讐"にも噛んでいたからなのだろうか。
「何を話した?」
「セクタムセンプラ。あとオーブリーの話もチラッと出たけど、ダンブルドアはイリスを責める気はなかったよ」
「オーブリーのことも、オーブリーを攻撃した私のことも、やっぱりもうバレてるんだ…」
「そりゃ、ダンブルドアだからな。そこは仕方ない。でも言ったろ、君が責められることはないって」
ここで待っててあげるから、とジェームズが背中を押してくるので、私は躊躇いながら螺旋階段に乗った。石の階段はグルグルと回りながら上へ上へと私を運んでいく。
ああ、ダンブルドア先生に一体私は何を訊かれるんだろう。
そして何を話せば良いんだろう────。
着いた先には、樫の扉があった。グリフィンを象った真鍮のドアノッカーがあったため、それを打ち鳴らす。
「どうぞ、お入り」
優しい声がした。その声に私は逆に恐怖を感じながら中へと入る。
そこは、広くて美しい円形の部屋だった。不思議な音があちこちから聞こえる上に、見たこともないような魔法の道具もたくさんある。
私はぐるりと室内を見回して────懐かしい、組み分け帽子が置かれているのを見た。
壁にはずらりと肖像画が並べられている。きっと昔の校長先生達なんだろう、と思っていると、ダンブルドア先生の「イリス、こっちにお掛け」という声で目の前にいる老人に視線を引き戻される。
ダンブルドア先生は近くで見ると、意外と背の高い人だった。相当な年のはずなのに、背筋がしゃんとしていて、表情も輝いている。まるで体だけ老いた少年のようだ、と思った。
「失礼します、ダンブルドア先生」
私は言われた通り、ふかふかの肘掛け椅子の端に座った。
ダンブルドア先生は背もたれの高い椅子に座り、机の上に両肘を立てて手に顎を乗せ、じっくりと私を見つめる。
「緊張しておるようじゃの?」
優しい声が、私の恐怖を溶かす。
────でも、恐怖の代わりに私の胸を満たしたのは新たな不安だった。
この先生、怖い。
ジェームズの言った通りだ。この全てを見透かすような瞳。
この人には嘘をついても意味がない。この人の前では、小手先の知恵も力も全てが無力だ、と本能で悟った。
「ああ、どうかリラックスしておくれ。わしは昨日の痛ましい事件について、友人の君の意見を聞きたいだけなんじゃ」
「クッキーを食べるかね?」と小さな皿を差し出されたが、私は「いえ…ありがとうございます、結構です」と断った。
この人が、"例のあの人"が唯一手を出せなかった人。
人はみんなダンブルドア先生を尊敬し、希望の象徴として見ている。
でも私は、今だけはそれが無性に怖かった。
"例のあの人"がどれだけ残酷で非情な人なのか、噂でしか聞いたことがないけど────"歴代最悪の魔法使い"と対等に渡り合える人が、目の前にいて微笑んでいるのだ。
畏怖だ。これは圧倒的な力の差を前にどうしても感じさせられてしまう、畏怖の念だ。
「さて、それではイリス────。早速じゃが、昨日の晩、シリウスがバートラムに呪いをかけられた場面に君も居合わせたんじゃな?」
「…はい、先生」
「マダム・ポンフリーは"見たことのない呪いによる裂傷"じゃと言うておった。またピーターやジェームズは、バートラムが唱えた呪文は"セクタムセンプラ"という名だったと────君も同じ呪文を聞いたかね?」
「はい、先生」
「君は、その魔法を知っておるかね?」
「いいえ、先生」
ダンブルドア先生は「ふむ」と言って顎髭を撫でた。
嘘じゃない。私はセクタムセンプラについて、本当に何も知らない。
「そうなると────残念ながら、やはり生徒が自ら編み出した魔法と考えざるを得なくなるのう…」
「生徒が編み出した魔法?」
咄嗟に思い出したのは、2年生の春のこと。
その時は、校庭で派手に爆発音を鳴らしたシリウスとジェームズが、フーチ先生に怒られては大爆笑しながら戻って来たところに出くわしたんだっけ。その時確か2人は、「呪文を開発していた」と言ってた。
あれは結局、動物もどきになるために必要な呪文を練習していたのだと後から知ったけど────じゃあ、生徒が新しい呪文を生み出すことは、本当にできるんだ。
「でも、誰が────」
「わからぬ。しかし、セクタムセンプラという魔法は我々教師陣の誰もが知らない魔法じゃった。かといって、長く闇の手で隠匿するにはその呪いはあまりにも派手すぎる。必然的に、最近新たに編み出された魔法ではないかという推測が浮かび上がるんじゃ」
例えばそれが、"悪意のなかった生徒がたまたまデタラメな呪文を唱えたら、思いがけず人を傷つける呪いになってしまった"という不幸な出来事だったら、許されるかどうかは別にして────それはあくまでただの"不幸な出来事"だったといえるだろう。
でももし、誰か────闇の魔術に長けている生徒が、悪意を伴って"人を切り裂くための呪い"を作ったのだとしたら?
────そして私の予想は、更に今の仮説を上回る。
もし、その呪いを作ったのが────生徒じゃなかったら?
学校内に流れる、"生徒が死喰い人になろうとしている"という噂。
実際、誰がそんな噂を立てているのかは知らない。スリザリンというイメージについてしまった一方的な悪意のある噂だと一蹴している人も多くいた。
でも────もし、本当に、学校内に例のあの人と内通している人がいたとしたら…?
「あの、ダンブルドア先生」
「ん?」
「その…新しい魔法は、本当に生徒が編み出したんでしょうか…?」
おずおずと、もうひとつの選択肢について尋ねてみる。ダンブルドア先生は一度瞬きをしてから、にっこりと笑った。
「マクゴナガル先生の言った通りじゃな、イリス。君はとても賢い」
「あ、ありがとうございます…」
突然褒められてしまったので、わけもわからず顔が熱くなっているのを感じながらお礼を言う。
「確かに可能性のひとつとして、邪悪な大人が可哀想な生徒に吹き込んだ未知の呪文ということもあるじゃろう。…だからこそ聞かせておくれ、イリス。君にとっては勇気のいることじゃろうが────。バートラム・オーブリーは、あの場でどのようにシリウスを傷つけ、そしてその後、君はどうしたのかね?」
────ああ、やっぱり訊かれるんだ。
もう私は、下手な言い訳をすることなどとっくに諦めていた。
ジェームズの言葉と、そして今目の前にいるダンブルドア先生本人を見て、作り話をする気など到底起きなかった。
彼の言った通りだった。
ダンブルドア先生に嘘をついても無駄なのだ。
「呪文をかけられた瞬間のことは、見えていなかったのでわかりません。ただ突然後ろから"セクタムセンプラ"という声が聞こえて、シリウスは一瞬で体中を鋭いナイフで刻まれたみたいにズタズタにされました。ジェームズが治癒魔法をかけてくれたんですが、それだけじゃ効かなかったみたいで、結局今朝になっても傷痕が残ったままでした」
「バートラムの様子はどうじゃったろうか? 無理に高揚している感じや、逆に虚ろな様子だったりしたら…なんでも良いから、君の感じたことを教えておくれ」
「……」
つい、押し黙る。
高揚も虚ろも、確認する前に私は彼に呪いをかけてしまった。
オーブリーが何を考えていたのか、どこでその呪文を知ったのか、一切聞かずに彼を攻撃してしまった。
「…すみません、確認できませんでした」
「イリス、わたしは昨晩君がしたことを、責めようとは思っておらぬよ。君は友人を傷つけられ、非常に怒っていたんじゃな」
「…はい」
「そして、バートラムが何を言うより、何をするより早く石にしたんじゃな」
「………はい」
「なるほど。では、バートラムが目覚めるまでこの件は謎のまま、ということになる」
ダンブルドア先生は微笑んだままだった。その青い瞳に見つめられることがどうにも怖くて、私は目を逸らす。
「…すみませんでした。先生方を呼ぶこともなく、身勝手な真似をして」
「そうじゃのう。生徒同士で争いが起きてしまい、ひとりが医務室で一晩過ごさなければならなくなったことは、わしも悲しく思う。そしてイリス、君の行動も決して褒められたものではない、と言わざるを得まい」
「…はい」
「しかし、その行動に救われた者も確かにおるんじゃ。イリス、君が誰かを傷つけたことを決して忘れてはならぬ。しかし、その時4人の友人に厚い友情を示したこともまた、覚えておいた方が良いじゃろう」
ダンブルドア先生の言葉に、つい目を瞬いてしまった。
私が誰かを傷つけたことは忘れちゃいけない。
でも、友達を助けたこともまた────覚えておいた方が良い。
誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪になる────。
私はその時、ずっと心に溜まっていた迷いが唐突に吹き出したような感覚に陥った。
「話はよくわかった。ありがとう、イリス。セクタムセンプラの呪いについては先生方に調べていただくことになるじゃろうし、シリウスもじきに回復する。安心して朝食を食べておいで」
「はい。────あの、ダンブルドア先生」
「何かね?」
もし、もし────先生がこれ以上本当に私に何も言うことがないと言うのなら。
────逆にこちらから、訊いても良いだろうか。
私の迷いを。私の、この不安定な立場の話を。
「ひとつ相談に乗っていただいても、よろしいでしょうか?」
ダンブルドア先生は嬉しそうに笑った。
「もちろんじゃよ、イリス。生徒の相談には誠意をもって応えるのが教師の務めじゃ」
「ありがとうございます。あの────私、ずっと迷っていることがあって」
「差別問題の件かね?」
何から話そうか、と考えるより先に、核心を言い当てられてしまった。
肯定も否定も忘れ、唖然とした顔でダンブルドア先生を見ると、私のその顔が面白かったのか、彼はクスクスと笑った。
「ご────ご存知なのですか?」
「幸い耳はまだ元気でのう。君にとってはあまり嬉しくないかもしれぬが────とあるひとりの女子生徒が一生懸命、色々な者から"思想"を聞こうとしているという話は、わしの元にも届いていたのじゃよ」
再び、ジェームズの言葉が蘇った。
「あの人はだいだいのことをもう既に知ってる────」
それは何もこの件のことだけじゃなかった。
ダンブルドア先生は、本当にあらゆることを知っているのだ。
「…あの、私…スリザリンは、みんなが言っているほど悪い人達の集まる寮じゃないと思うんです」
「一部の人が言うほど、じゃな」
「はい。…確かに純血主義とか、マグル差別とか…そういうのは嫌だなって思うんですけど、でも…"スリザリンだから"っていう理由だけで敵視するのは、そういう人達と同じことをしてるんじゃないかって────」
「わしもそう思う」
ダンブルドア先生は時折相槌を打ちながら、私に話の続きを促した。
「それで────私、ある純血主義のスリザリン生に聞いたんです。その…」
「どうして純血こそ正義と考えるのか、どうしてヴォルデモートを支持するのか、ということをかね?」
「はい」
「それはそれは…勇気のあることをしたのう、イリス。それに答えたその生徒も誠実な子じゃ。本当ならその優秀な子の名と話の詳細な内容を聞きたいところじゃが────君もその子も他言したくないじゃろうから、そこはわしもマナーを守って節制することにしよう。イリス、その子の意見を聞いて、君はどう思ったのかね?」
────少しだけ、躊躇う。
レギュラスの言葉を聞いて感じたことを、どれだけ伝えて良いのだろうか。
例のあの人────ああ、やっと正しい名前を聞けた。ヴォルデモートという、ダンブルドア先生の最大の敵を崇拝する生徒の意見に理解を示したと、他ならないダンブルドア先生本人にするなんて────なんだか、それこそ私が闇の魔術に手を染めないか心配されてしまいそうだ。
「──── 一理ある、と思いました」
それでも、私は本心を打ち明けることにした。
話はそこで終わりじゃなかったから。私の迷いは、そこにあるわけじゃなかったから。
「ほう?」
ダンブルドア先生は興味を示したように、少しだけ顔をこちらに近づけた。
「純血主義に賛成するわけじゃありません。私は闇の魔術が苦手です。差別をする人も、誰かをいじめて楽しむ人も、好きになれません。ただ────その人の思想が"思想"である限り────つまり、何の行動も起こさないただの"意見"の域を出ない限り、あらゆる意見には正当性も不当性も、両方あると思ってしまったんです。私はその子の意見には────確かな正当性があると、思ってしまいました」
力による統治こそが強い世を作る。
歴史と伝統が伴う"家の名"には、強い魔力が宿る。
正しく全ての人を導くためには、それに相応しいほどの力を持った人間が必要となる。
レギュラスの思想は、共感こそできないものの、歴史を振り返ってみても決して一義的に間違っているとは思えなかった。
「平等で公平な視点をその年で持てるというのは、素晴らしい美点じゃよ、イリス」
ダンブルドア先生は優しくそう言ってくれる。
でも、ここでも話は終わらないのだ。
私の迷いは、その先にある。
「ありがとうございます。でも────私は、迷いました。どんな人にも必ず善性と悪性があって、どんな意見にも必ず正当性と不当性がある。だからこそ私は、確かにどんな人にも、どんな意見にも耳を傾けて、共感ではなく────理解を示そうと思いました。でも、私はまだ子供です。自分の意見すらハッキリしていないのにあれこれ全部受け入れていたら────私自身が嫌っているはずの、私が今"誤っている"と判断しているはずの闇の道へ、いつか落ちてしまう日が来てしまうんじゃないかって…。それを、迷っています」
「つまり君は、もっと大人になって自分の意見こそが最も正しいと自信を持って言えるようになるまでは、ひとまず"闇"こそが"悪"だと潔く切り捨てた方が良いのではないかと迷っている…ということじゃな?」
私の要領を得ない迷いを、ダンブルドア先生は簡潔にまとめてくれた。
「はい」
そして、再びにっこりと笑う。
「イリス、奇遇なことじゃが、実はわしもな、イリスと同じ意見なんじゃよ」
「え…?」
「どんな人間にも良いところと悪いところがある。どんな思想にも明るい部分と暗い部分がある。だから、それこそ最初に君が言うてくれた通り、"表面的に見えるもの"だけで相手の全てを理解した気になってしまうことこそが最も愚かな過ちであり、そしてわしは君にそうなってほしくないと思うておる」
「…でも」
「おお、そうじゃな。まだ子供の君がそこまで"柔軟"で良いのか、ということじゃったな。────結論から言うと、わしはそれで良いと思う」
ダンブルドア先生は簡単に私のことを肯定してみせた。
呆気に取られてしまったのはこちらの方だ。「え、良いんですか」と気の抜けた言葉が口から出そうになって、慌てて閉じる。
「悲しいことを言うようじゃが…実は大人になると────かつてはあったはずの善性を自ら捨てて悪性だけに染められた人間や、より力の強い者に逆らえず、自分で不当だと思っている意見を正当だと言わされてしまう人間も、たくさんいることがわかってくるんじゃよ」
先生の今の言葉はどこかで聞いたことがあるもののような気がして────私は、厨房でシリウスと言い合いになった時のことを思い出した。
「確かにひとつの思想の中には善も悪も混在するんだろうさ。でも、決して許されるべきでない、悪性の強すぎる思想も世の中には存在するんだ。あるいは、昔の君みたいに"間違ってる"と自分でわかってる思想を今更否定できず、"正しい"と信じ込むことしかできないバカもいる。そういう奴らがいるからこそ、僕達が声を上げるんだ」
彼は知っていたんだ、そんな大人がたくさん闇の世界へ流れ込んで行っていたのを。
シリウスは、私なんかよりずっと大人だった。
だからあんなに自信を持っていられるんだ。だからあんなに強くいられるんだ。
彼はきっと────今私が悩んでいることを、もう何年も前にとっくに考え尽くしていたんだ。
「だから、人々は幼いうちに色々な思想を聞き入れて、理解するよう努めなければならぬとわしは思う。君自身が強くなって、君の何にも屈さない"善"を、君の自信に溢れた"正当な意見"を、"見極める"ために」
「見極める、ために…」
「そうじゃ、イリス。誰かの正義は誰かの悪であり、誰かの正しき行いは誰かの過ちなんじゃ。君がこの先、君が思う正義を掲げ、君が思う正しい行いをするために、その柔軟さは是非持ち続けていてほしい。色んな意見を吸収して、対立するはずの思想にも理解を示して、そうやって何度も脳の粘土を捏ねなおしながら、君だけの形を作ってほしいんじゃよ、イリス」
でも…その間にうっかり闇に引きずりこまれてしまったら、どうしよう。
ありえないとは言えない。ありえないって言いたいけど、知らない間に染まっている可能性を、私はまだ捨てきれていない。
シリウスの前では「最低限のラインは強く引けてる」なんて言ってみせたけど────今ダンブルドア先生の口からシリウスと同じ言葉を聞いて────"不条理な大人の世界"のことを改めて思った。
事情はどうあれ善性を捨てた人。不当とわかっていることを正当だと言わされた人。
大人になった私は、そういう人達にちゃんと立ち向かえるだろうか。
その時にもちゃんと、このラインは残っているだろうか────。
「先生、でも私…不安なんです」
「どこかで自分が誤っていると思っている沼にうっかり落ちてしまうことが、かね?」
「はい」
先生はまだ笑っていた。優しい瞳がキラキラと私を見つめ────今度は不思議と恐怖を感じさせない、温かなスープを流し込んだ時のような感覚が体に広がる。
「君には、最高の友人がおるじゃろう?」
リリー、シリウス、ジェームズ、リーマス、ピーター。
5人の顔が、浮かんで消えた。
「イリス、人という生き物は、得てして自分が思うておるより頻繁に間違いを犯すものなのじゃ。そしてその時肝心なことが、間違ったことをした時にそれを正してくれる友人がいるかどうかじゃ」
────間違ったことをした時に正してくれる友人。
まさに彼らのことじゃないか、と思った。
彼らは、私が間違っていたら────いや、私にとっては間違っていなくとも、"彼らにとって間違っている"と思ったら、すぐにそれを言葉にしてくれる。
「間違いを恐れるでないぞ、イリス。真に恐れるべきは、自らの過ちを誰も正してくれず、誤ったまま孤独に生きてしまうことなのじゃ。友を大事にしなさい。きっと君が経験した"友との戦い"は、いつか君が大いなる敵と相見えた時に君のことを支えてくれるじゃろう。記憶も魔法の一種なのじゃよ、イリス。友と支え合った記憶は必ず、君の窮地において君を助けてくれる。だから君も、友が誤っていると思った時には勇気を出して立ち向かっていきなさい。まことの友情とはそういうものじゃと、わしは思うておるからな」
そこまで言うと、ダンブルドア先生は「なんと、つい話し込んでしまったが…もうすぐ朝の授業が始まってしまう! さあ、イリス。今日はもうお行き。また迷うことがあったらいつでもわしのところへおいで」と言って、私に退出を促した。
「はい。────ありがとうございました」
なんだか、スッキリと胸の空いた気持ちだった。
今までずっと心の奥で淀んでいたものが、綺麗な水で洗い流されたようだ。
螺旋階段を降りた先では、ジェームズが言葉通り待っていてくれた。
「随分長かったな。相当あれこれ聞かれたのか?」
「あー、うん。そんなとこ」
そうか────私が迷っているのは、"今"だからこそなんだ。
誰の意見どの部分が正しいんだろう、誰の意見どの部分が間違ってるんだろう。
そうやって悩んで、迷って初めて"強い自分"ができるんだ。
強くなってから誰かを受け入れるんじゃない。
誰かを受け入れて、たまには受け入れないで、そういった粘土の捏ねなおしを続けて────ようやく私は完成するんだ。
もしその先で、今は間違いと思っている闇の魔術に惹かれてしまいそうな時が本当に来たとしたら────。
────隣にいるジェームズをチラリと見る。
「うん?」
「…ジェームズ、昨日はありがとう」
憎しみに任せて、オーブリーを脅し、傷つけ、さてこの後どうしてやろうかと思っていたところを、彼はあっさりと止めてくれた。興奮状態でろくにものを考えられなかった私に付き添って、最後まで冷静に落ち着いて、談話室まで一緒に戻ってきてくれた。
だから、そんな時が本当に来ても────きっと、大丈夫だ。
私には、"最高の友達"がいるから。
「僕は何もしてないよ。イリスまで怪我しなくて良かった」
「昨日、どれだけジェームズが大人っぽくて落ち着いてたか、リリーにちゃんと伝えておくね」
「あ、それはぜひよろしくお願いします、先生」
そのリリーだってそう。私とシリウスが喧嘩した時はいつも中立な意見を述べてくれる。リリーとスネイプが喧嘩した時、私がスネイプを非難することを言っても、それは事実だからと受け入れてくれる。
シリウスなんて、最初からずっとそうだった。自分の意見と私の意見をいつも無理やりぶつからせて、いつもこっちのお腹を痛くさせて────でも、最後には優しい顔をして笑ってくれる。
リーマスもピーターも、いつも私を案じて、私が困っている時には手を差し伸べてくれた。
みんな、私以上に私を理解してくれている友達だ。私が"私の嫌いな私"になりそうな時が来たら、彼らなら絶対に止めてくれる自信がある。
だから私は、ゆっくり焦らず生きていこう。
最初に引いたラインをこれからもずっと保てるように。
誰と関わるかを、"私"が決められるように。
何を選択するかを、"私"が判断できるように。
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