レギュラスは兄の姿を見るなり、今度こそ侮蔑的な視線を向けて厨房を出て行ってしまった。
後に残されたのは、私とシリウスだけ。どう見ても険悪な雰囲気に、しもべ妖精達が時折心配そうにこちらの様子を窺っている。
「どういう意味だ、レギュラスの思想を否定しない? あいつは純血主義者だぞ!」
「わかってる、そうじゃなくて────」
「君は純血というステータスだけで意味もなく差別をする人間が嫌いだって言ってたじゃないか!」
「だから違うって────」
「レギュラスの話を聞いたら君も闇の帝王のファンになったってか? そういえばあいつが入学した時から君はあいつのことを気にかけてばっかりいたな!」
「だから────話を────聞いて!」
ああ、どうしてこの人を前にするといつもこんなに大声を出さなきゃいけなくなるんだろう。私達を遠巻きに眺めていたしもべ妖精の何人かがビクッと肩を跳ねさせ逃げ出してしまった。
「シリウス、あなたレギュラスの話をちゃんと聞いたことある!?」
「レギュラスの話を聞いたことあるか、だと!? 一体僕らのことを何だと思ってるんだ! 兄弟だぞ!! 同じ教育を受けて、同じ思想を植え付けられて、同じように闇の帝王が正しいと刷り込まれてきたんだ! そしてあいつはそれを正しいものとして受け入れた! あいつの思想なんて、誰よりも僕が一番知っている!」
ああ…そうだった。
この人は"強い"人だった。
彼は私みたいに、善と悪が併存するなんて、移ろいやすい思想を持っている人じゃない。
彼は彼が信じたものだけを"善"と見なして、決して揺らがないその信念の下に動ける人だった。
「そうだね。ごめん。そうだった」
今更すぎることを訊いてしまった、と後悔した瞬間、私の気持ちもいくらか落ち着いた。
私の思想はシリウス達────つまり生まれなど関係なく、魔力さえあれば等しく扱われるべきというそれと同じだ。
ただ、だからといって私と彼の思想が全く同じというわけじゃない。
私はそこまで自分を信頼しきれない。自分の考えていることが100%正しいと、胸を張っては言えない。
「レギュラスは、正しい世界とは"絶対的権力による支配"だって言ってた」
「知ってる」
「そもそも、私はそれに諸手を挙げて賛同したわけじゃない」
「でも────」
「聞いて。私は決して、純血主義による差別を認めない。生まれがどうでも、魔力があろうとなかろうと、人の命を軽んじる"行為"を許すつもりはない」
「なら────」
「でも、私は本来、個人の思想には善性と悪性の両方が宿ってると思ってる。私のこの考えだって、誰にとっても正しいものとは言い切れない。だってもし私の考えが本当に正しいのなら、グリフィンドールとスリザリンの対立なんて生まれなかったはずだから」
「それはあいつらが────」
聞いて、と言っているのにいちいち口を挟んでくるシリウスに苛立ちを感じながらも、私は努めて冷静に話を続けた。
私は喧嘩をしたいわけじゃない。ただ、要らない誤解を解きたいだけなのだ。
「そう。それはあの人達が、レギュラスと同じように"純血の者のみが真の魔法使いだ"って信念を持ってるから。思想が対立する限り、私達はわかり合えない。それはわかってる」
だからこそ"絶対的正義"などという都合の良い言葉が実現しないということを、どうしてこの賢いはずの人がわかってくれないんだろう。
「でも、"行動"の伴わない"思想"を、"わかりあえないから"っていう理由だけで侮辱することはできない。私の思想が誰かにとっての悪になるなら、誰かにとっての思想が私にとっての悪になることだって当たり前にあるんだから。誰かが心から信じている何かを、"考え方の違い"だけで真っ向から否定するなんて、それこそ傲慢な人のすることだよ」
シリウスの眉がぴくりと動く。
「3年前までは"洗脳"されきって、"間違った思想"を"正しい"と思い込んできた奴がよくもそんなことを言えるな。確かにひとつの思想の中には善も悪も混在するんだろうさ。でも、決して許されるべきでない、悪性の強すぎる思想も世の中には存在するんだ。あるいは、昔の君みたいに"間違ってる"と自分でわかってる思想を今更否定できず、"正しい"と信じ込むことしかできないバカもいる。そういう奴らがいるからこそ、僕達が声を上げるんだ。僕達の正義に1人でも賛同してくれるように、僕達の正義が本物の正義になるように」
────本当に、この人は強いな。
迷いがない。揺らぎもない。自分を信じ、まっすぐに生きている。
レギュラスの話を聞いた時より、今こうしてシリウスと対峙している時の方が、遥かに私の心は乱れていた。
それは友人の言葉だからなのかもしれないし、あるいは"ずっと憧れてきた人"の言葉だからなのかもしれない。
私には、こんな風に"人を巻き込む"度胸はない。
私には、こんな風に"本物の正義"を信じる強さはない。
自分の弱さを痛感し、そして改めて彼の強さを目の当たりにし、私はやりきれない思いを抱えていた。
シリウス、あなたのことは好きだよ。尊敬もしてるよ。
でもどうして、自由と平等を掲げるというのなら、"弱い者"のことを少しも考えてくれないの?
どうして差別を嫌うなら、スリザリンの人を執拗に攻撃するの?
スリザリンという概念が嫌いだって、昔言ってたっけ。だからその概念に染まった生徒も嫌いなんだって、よくわからない言葉を続けていた。
よくわからないよ。
だってそれじゃあ、「マグルにも魔法が使える優秀な人がいるとわかってるけど、11年もの間魔法を知らずにマグルの生活様式に染まって来たマグル生まれが嫌いだ」って言ってる人と同じだよ。
シリウス、ねえ、気づいて。
あなたのその強さが、眩しさが、少なからず誰かを傷つけている可能性があるということを。
「レギュラスの意見に賛成したわけじゃないことはわかった。君が君なりに考えて、物事を多面的に捉えようとしてることもわかった。ただ、いつか必ず選択の時は来るぞ。ホグワーツにいると麻痺しがちだが、外では今や魔法戦争勃発中だ。闇の魔法使いはあらゆる手を使って仲間を増やし人々を篭絡しようとしてくる。その時、君の優しさが仇にならないかが、僕は心配だ」
随分と皮肉をこめて「優しさ」を強調された。
わかってるよ、私の"優しさ"が"弱さ"だなんてこと。
「イリス、もうレギュラスに関わるのはやめろ。君があいつのことを気にしてるのはわかってるんだ。────好きになったのかとさえ、思ったことがある。でも僕は、君にだけはそっち側に行ってほしくない」
シリウスはなぜか悲しそうな声をしていた。
珍しい。いつもの彼ならここで「君が闇の魔術に小指一本でも触れようものなら僕は躊躇いなく君に杖を向ける」くらい言っても良さそうなものなのに。
シリウスが、私を"心配"?
それはそれは────それこそ"お優しい"こともあるものだ。
最初は怒り。それから不安。自信の喪失。
この短時間でシリウスと、そして自分に対して抱いた様々な負の感情が、私の胃の中を駆け回る。その感情は徐々に混ざり合い────そして、悲しみへと帰結する。
そりゃあ、まだ信じ切れないのかもしれない。
入学までまでぺらっぺらで薄い、透明の布のような存在だった私が急に「レギュラスに賛同しない」って宣言したところで、その意見がまた簡単にひっくり返ることを懸念されるのは、仕方ないことなのかもしれない。
でもね、シリウス。
私は一生懸命考えて、それで"私のライン"を引いたんだよ。
そこは譲らないって、初めて自分で決めたんだよ。
あなたみたいな"ひとりよがり"な人に、心配なんてされたくない。
あなたみたいな"自分こそ正義"な人に、ただ従順についていくだけなんて嫌だ。
私は私の意思で、私の居場所を決めたい。
選択の時が来るなら、私は自分の判断で"善"と"悪"を決めたい。
あなたに、「そっち側に行ってほしくない」なんて今更すぎるお願い、されたくない。
ああ、この人はわかってくれていると思っていたのに。
私が何に重きを置いていて、何を思ってレギュラスに近づいたのか、これっぽっちもわかってない。
レギュラスに賛同していないことがわかった?
ううん、あなたは本質的なところでは何もわかってない。
だって本当にわかっていたなら、「僕達の正義が本物になるように」なんて傲慢な言葉、出てこない。
多面的に見ていることがわかった?
でもあなたはそれを決して好意的には捉えてくれなかった。
だって本当に私を信じているなら、「優しさが仇になる」なんて言葉、出てこない。
レギュラスのことが好きになった?
それこそ、バカ言わないで。そんなことがあるわけないでしょう。
私の目の前にはこんなに強い光があるのに、闇に惹かれることなんてあるものか。
「────私が誰と関わるかは、私が決める。選択の時が来たら、私が判断する。いつまでも1年生の時と同じ、中身のないリヴィア家のご令嬢だと思わないで、シリウス。私は必要とあれば、誰にでも杖を上げる覚悟がある」
シリウスが言うとばかり思っていた言葉を出してくれなかったので、代わりに私が言うことにした。心がズキズキと痛むものだから、どこかで傷口から血を出してあげないと心が張り裂けてしまいそうだった。だから私は唇から毒を吐き、シリウスを置いて厨房を出る。
「リヴィア様、お料理ができておりますが…いかがされますか?」
「シリウスが全部持って行ってくれるから彼に任せてもらえる? たくさん作ってくれてありがとう」
帰りがけ、しもべ妖精がおずおずと大皿に乗せた料理を指さして言ってきたので、お礼を言って通り過ぎた(ちょっと関係ない子にまで冷たくしすぎたかな、と後悔した)。
────ねえ、シリウス。
私のことを理解してくれてるならさ、私を理解しようとしてくれてるならさ。
もっと私のことを、信用してよ。
4年生になった私の変化を、誰よりも認めてよ。
そんな身勝手で筋違いな想いをどこにぶつけたら良いのかもわからないまま、私は談話室へと戻った。もう必要の部屋に行く気なんて、到底起きそうにもなかったから。
ああ、どうして彼のことを考えると、いつもこんなに心が苦しくなるんだろう。
境遇が似てるのに思考が正反対だから? あまりの眩しさにくらんで惨めになるから?
もうわからない。わからないよ。
────逃げるでも立ち向かうでもなく、私の方から彼を"突き放した"のは、これが初めてのことだった。
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