7月20日、私はひとりでダイアゴン横丁へと向かっていた。トランクと、昨日パトリシアと一緒に買ったお土産のクッキーを持って、漏れ鍋から魔法界へ続く通路を開く。
アイスパーラーへ向かうと、そこには既に悪戯仕掛人の4人がのんびり座りながらサンデーを食べているのが見えた。
「みんな!」
声をかけると、揃いの笑顔をこちらに向ける4人。
「久しぶり、元気そうだね」
「お母さまを一晩で説き伏せるとは、やるねえ」
「来れなかったらどうしようって、僕心配してたんだ…」
「で? どんな嘘をついたんだ?」
ニヤニヤしながら挑発してくるシリウスに、チッチッと指を振る。
「私は嘘なんてついてないよ。なーんにも。ただジェームズが"勉強会をする予定だ"って言ってくれたから、そうらしいですよ〜って言っただけ」
「なるほど、確かに予定がたまたま狂うことなんてよくあるもんな」
「ホグズミードの許可証は大丈夫だった? 実質遊びに行くみたいなものだろう、お母さんが厳しい人だっていうのはジェームズ達から聞いてたけど…そういうのは許してくれるのかい?」
「もちろん。"社会見学に伴う保護者の許可をホグワーツの格式に則って形式的に求めてます"って言ったら何も疑わずサインしてくれたよ」
気分良く首尾を報告すると、4人はケラケラと笑い出した。
「社会見学! そりゃ良いや!」
「君、腕の良い詐欺師になれるぞ」
ちゃっかり私もアイスを頼んで、全員が食べ終わってから移動することにした。漏れ鍋の暖炉を借り、私達は煙突飛行粉を手に取る。
「イリスはこれの使い方、知ってる?」
「うーん、本では読んだことあるけど、実際に使うのは初めて」
「じゃ、僕の後に続いて。シリウス、イリスがヤバそうだったらサポートしてやって」
「はいはい」
そう言うと、ジェームズは傍にあった鉢から粉を一握り掴み、暖炉の中に放り込んだ。威勢の良いエメラルドグリーンの炎が、暖炉いっぱいに一瞬にして広がる。ジェームズは臆する様子もなく炎の中に入り、「ポッター家!」と叫ぶ。
すると、炎はジェームズを呑み込んだ。フッとその姿が消え、次の瞬間には炎も、ジェームズの姿もなくなっていた。
「ま、こういう要領だ。肝心なのはあんまり動かないこと。それから、発音だけには気を付けること」
シリウスが「簡単だろ」と言って、鉢を私に回した。
「手、震えてるよ」
少しだけ緊張しながら粉を掴むと、ピーターが心配そうに余計なことを言ってくる。ドキドキと心臓の音を聞きながら、私は粉を暖炉の中に投げつけた。
ゴウッ、と緑色の炎が巻き起こる。
「熱くない?」
「熱くないよ」
「痛くない?」
「痛くもないよ」
もはや私の言葉に返してくれるのはリーマスしかいなかった。でも逆にこのメンバーの中で発言を信じられる人なんてリーマスしかいなかったので、私は勇気を出して暖炉の中に入る。
温かかった。あんなに眩しかった炎も、体を撫でているそよ風のようだ。
「…ポッター家」
あまり息を強く吸い込みすぎないようにしながら、私ははっきりと発音した。
その瞬間、私の体がぐいっと捻れた。どうやら炎ごと、回転しているらしい。
目を開けるのも体を動かすのも怖かったので、私はこの安全ベルトのないジェットコースターが終わるのを必死に耐えながら待った。今どうなってる? 私の手足、ちゃんとついてる?
やがて、体の回転が唐突に止まった。今まで無理に動かされていたものが急に止まったので、がくんと前のめりにつんのめる。慌てて右足を強く踏み出した衝動で、暖炉の格子に思い切り膝を打ち付けてしまった。
「痛っ!」
思わず叫んで、それから辺りを見回す。
────そこは、誰かの家のようだった。
マグルの住宅街にもよくありそうな内観だけど────どことなく、グリフィンドールの談話室に似ている気もする。えんじ色の壁紙に、金色に縁どられた深紅のソファが3台。中央にはガラスのテーブルが据え置かれていて、チェスセットと空のグラスが3つ置いてある。奥にはキッチンとダイニングも見えた。どちらも綺麗な調度品がたくさん置かれていて────目の錯覚だろうか、その全てが妖精の粉のようなきらめきを放っているように見えた。
「イリス、無事着いたみたいで良かった!」
「着いたのは良かったから早く出てくれ。リーマス達もすぐ来るぞ」
ジェームズが手を取ろうとこちらに駆け寄ってくれた。その手を取ろうとした瞬間、後ろからドン、とシリウスが飛んできた衝撃を受けてしまい、ジェームズの手を取り損なった私はまた格子に膝をぶつける。
「痛っ…ちょっと、来るなら言ってよ」
無茶なこととはわかっていつつ、文句を言う。
私のすぐ後に飛んできたらしいシリウスと2人で収まるには、ここの暖炉は少々狭かった。シリウスが動きにくそうにモゾモゾとしている。
今度こそジェームズの手を借りて、灰を暖炉に落としてから床を踏んだ。
「ようこそ、ポッター家へ! 今父さんと母さんも来るよ」
ジェームズの言葉通り、ほどなくして去年見かけたフリーモントさんとユーフェミアさんが現れた。
「久しぶりだね、イリス。シリウスはクリスマスぶり」
「お久しぶりです」
「お世話になります」
シリウスの言葉は丁寧だったけど────私のお母さまに対する慇懃無礼な態度とは全く違う、純粋に"尊敬する年上の人"への親しみのこもったあいさつだった。
さすがジェームズを育てただけある。この狂犬からまともなあいさつを引き出すなんて。
「ああイリス、会いたかったわ! また一段と美人になったわね」
「そんな…ユーフェミアさんこそ、変わらずお綺麗で」
「お上手だこと!」
ユーフェミアさんはジェームズそっくりの笑い方で私の言葉を(本音なんだけどな)吹き飛ばした。
後ろの暖炉からリーマスとピーターも現れる。これで、全員が揃った。
「せっかくだから今日は庭でランチをしようって、朝からユーフェミアと準備していたんだ。ジェームズ、お前には朝からちゃんと言って聞かせたはずだけど…ダイアゴン横丁でつまみ食いはしてないだろうね?」
「してないよ」
さらっと嘘をつくジェームズ。大きいサンデーを食べていた4人は全員、素知らぬ顔をしていた。私ひとり、ジェームズをキッと睨みつける。あの時はたまたま私が最後だったから小さなアイスをひとつ注文しただけに留まったけど、私が他の人より先に着いていたら間違いなくあの大きいサンデーで今頃お腹いっぱいになっていただろう。どうしてそういう大事なことを言っておいてくれないのか、この人は。
家を出ると、夏の爽やかな風がさあっと髪を空になびかせた。何の障壁もなく地平線まで広がる大きな草原を見て、私の口から感嘆の声が漏れた。
「わあ…すごい…」
「これ全部、ジェームズの家の庭なんだ」
シリウスがこっそり耳打ちしてきた。
「えっ、地球全部ジェームズの家のものなの!?」
あまりの驚きに、ついバカ丸出しなことを叫んでしまった。ジェームズが「え、地球全部?」と困惑したような声を出す。シリウスはお腹を抱えて笑っていた。
「あ…いや…すごく広いお庭なので…まるで地球全部がここに収まってるみたいだなって…あはは…」
フリーモントさんが「ありがとう、我が家は土地だけは広くてね。この庭も、見晴らしの良さを気に入ってるからあえて何も置いていないんだ」と私の醜態をフォローしてくれた。
まるで絵の中の世界に飛び込んだみたいだ。右も左も、終わりのない草原。草は明るい命の緑。綺麗に刈り揃えられていて、こんなよく晴れた日に寝転んだらとても気持ち良さそうだ、と思った。
頭上には抜けるような青空が広がっていた。大きくて立体的な入道雲が、夏を感じさせる。
「すごいね。魔法使いのお家ってみんなこんな感じなの?」
「まさか」
私の問いに答えたのはシリウスだった。私と同じように涼やかな風を浴びて目を細めながら、同時にどこかそれを羨むような口調で言う。
「この家は特別だよ。おじさんが自分で開発した"スリーク・イージーの直毛薬"がバカ売れして、そのお金の一部をこういう素晴らしいことに使ったのさ」
「でも、シリウスの家もお金持ちじゃなかったっけ?」
「…僕の家には、父があらゆる安全対策を施してる。マグルはおろか大抵の魔法使いにも探知されないよう、ロンドンのあまり治安が良くない区画の一部に紛れさせたんだ。ブラック家の金の使い道なんて、ろくでもないことばかりなんだよ」
…簡単に訊いてしまったことを後悔した。シリウスがどことなく羨ましそうにジェームズの話をしていたのは、これほど解放感に溢れた彼の家と、自分の住まわされている誰にも見つけてもらえない暗い屋敷を比べたからだったんだ。
「さあ、こっちにいらっしゃい。サンドイッチをたくさん作ったの」
気まずくて仕方なかったので、その時ユーフェミアさんがテラスに私達を呼んでくれたのは本当にありがたかった。「ごめん」「気にしないよ。この話は終わりにしよう」と短く交わして、私達はユーフェミアさんの声に誘われるがままテラスへ行く。
屋根がついているお陰で、日差しからは守られながらも心地良い風だけが体の芯まで通り抜けていく。水色とピンクの縞模様の、まるでビーチにいるかのようなクロスがかけられた大きなウッドテーブルの上に、5枚もの大皿(私が両手を広げてようやく端まで届くくらいの大きな皿だ)にこれでもかというほどのサンドイッチが乗せられている。
「おいしそう…」
「いっぱい食べてね」
ユーフェミアさんの作るサンドイッチは絶品だった。
実は私は、サンドイッチというものをほとんど食べたことがなかった。朝のトーストは良いのに、ランチのサンドイッチはいけないらしい。リヴィア家のよくわからない格式のせいで、サンドイッチは"庶民の食べるもの"と言われ続けていた(たいした伝統もないくせによく言う)。
そのお陰で、余計にこの料理がおいしく感じる。
パンがふわふわ。優しい小麦の味と同時に、トマトの酸味と卵の甘味がふわっと口の中に広がった。タマゴサンドだ!
「イリス、こっちも食べてみなよ。母さんのローストビーフサンドは僕のお気に入りなんだ」
「オーフホヒーフ!?」
「イリス、落ち着いて。サンドイッチは逃げないから」
「"お母さま"がこのザマを見たらひっくり返るだろうな」
もの珍しさと確かなおいしさに私が喉を詰まらせていたら、みんなに笑われてしまった。それがちょっと恥ずかしかったけど、ユーフェミアさんがすごく喜んでくれているようだったので、私は構わずジェームズの勧めてくれたローストビーフサンドにも手を出した。
「お肉…とってもジューシーです…」
「すっげえ、世界一幸せそうな顔してるよ…」
「ホグワーツでもこんな顔で食事してるイリス、見たことないや…」
「解き放たれたイリスってこんな風になるんだな」
唖然としながらも、そこはさすが食べ盛りの男の子。喋ったり笑ったりしながらぱくぱくとサンドイッチを食べていたら、終わる頃にはお皿の上の料理は全てすっかり綺麗に消えていた。
「作り甲斐があるわ、こんなに食べてもらえるなんて」
ユーフェミアさんは嬉しそうだった。
「あ、お皿洗い、手伝います」
「良いのよ、全部魔法でできちゃうんだもの。それよりイリス、あなたもあちらでジェームズ達とキャッチボールしてらっしゃいな。それとも、一緒に編み物でもする? 私、この間ジェームズ達に言われて初めて魔法を使わずに靴下を編んでみたんだけど、とっても難しいのね、あれ…」
どちらも魅力的な提案だったので、夕食後に編み物をする約束をして、私はひとまず広い庭に駆け出してみることにした。
「イリスも混ざる?」
「じゃあ僕がリーマスと組むから、そっちは3人で組みなよ!」
「へえ、随分自信があるじゃないか、ジェームズ」
フリーモントさんが魔法で出してくれたクィディッチのゴールポストの前で、私達は対峙する。1人で2人分の戦力を持ってるジェームズと平均点のリーマス。ジェームズには及ばずとも十分飛行のうまいシリウスと、飛ぶのが苦手なピーターと私。でも私だって、1年生の時にジェームズに散々教わったんだから少しは上手になっている…はず。戦力差としてはなかなか良い配分になる…はず。
それから私達は日が暮れて、「子供達、夕食よ!」とユーフェミアさんに呼ばれるまでずっと飛び続けていた。間近で見るジェームズのプレーはやっぱり最高にクールだった。
一度勝負のことを忘れて「ねえねえ、あの直下降プレーやって見せて」とせがむと、彼は快く応じてくれた。50メートル以上の高みから一気に加速して、汽車より速いスピードで降りてくる。地面とぶつかるんじゃないか、とドキリと心臓が跳ねた瞬間、彼はまるで見えない糸に引っ張られたようにグンと箒を上に向け、再び空へと上昇した。
「すっごーい…間近で見るとこんなにドキドキするんだ」
「惚れた?」
「惚れない」
「そこは惚れてよ!」
冗談を言い合いながら、私達は家の中へと戻る。
夕食もとても豪華だった。チキンの丸焼き、野菜いっぱいのサラダ、玉ねぎスープ、そしてバケットには食べやすいようにとイタリア料理のアヒージョまでついている。
「すごい、ディナーもとってもおいしそうです」
「ありがとう、イリス。たくさん運動してお腹減ったでしょ、好きなだけ食べてね」
ランチのお陰で既にユーフェミアさんが料理上手なことはわかっていたけど、ここでもたくさんの料理をおいしくいただいた。いつもお腹の八分目までにしておきなさい、と教わってきていたのに、ここではつい欲に負けてお腹がはち切れそうになるまで食べてしまった。
「ごちそうさまでした、ほんっとうにおいしかったです」
ユーフェミアさんは嬉しそうに笑ってくれた。
その後は、彼女と2人で約束通り編み物をすることにした。悪戯仕掛人は「秘密の会合があるから」ともったいぶった言い方でジェームズの部屋へ行き、しばし家には静かな時間が流れる。
「────あの子は、ホグワーツでちゃんとやってる?」
かなりぎこちない仕草で編み棒を絡ませながら、ユーフェミアさんが私に尋ねてきた。私も編み物に関しては教養として教わっただけなので、そこまでうまいわけではない。2人で悪戦苦闘しながら指先の糸を棒から棒へと渡しているところでふとそんなことを訊かれ、私は手を止めて考える。
ちゃんと、ってなんだろう。
「…はい、やってます」
とりあえず、無難に返しておくことにした。でも私の躊躇いは見抜かれていたらしい、ユーフェミアさんは「ふふ、あの子が規則破りで有名なのはよく聞いてるわ。そのくせ成績だけ良いのも嫌というほど聞かされてるの」と言って笑う。
なんだ、バレてたのか、と私も微笑みを返すと、なぜかユーフェミアさんの笑顔は一瞬で萎んでしまった。
「でも、あの子…ああいう性格でしょう? あなた達みたいなお友達ができて本当に嬉しいんだけど、それだけ恨みも買ってないかって心配で…」
「ユーフェミア」
編み物に集中するふりをしながら、不安を漏らすユーフェミアさん。彼女の肩に優しく手を乗せたのは、フリーモントさんだった。
「大丈夫だよ。学生のうちはケンカすることだって当たり前さ。こうして元気に友達を連れて帰って来てくれる、それで十分じゃないか」
フリーモントさんは────もしかして、知ってるんだろうか。
ユーフェミアさんの質問を受けてまず思いついたのが、スネイプの顔だった。
会う度に杖を突き付け合う2人。ジェームズは彼だけでなく、何人かのスリザリン生と"そういう関係"になっていた。スリザリンというだけで敵視して、相手を苦しめる呪いこそ使わないものの────確実に、彼らの醜態を晒してやろうという"度を過ぎた悪戯心"がいつだって覗いていた。
でも、それを話してしまったらユーフェミアさんはとても心配しそうだ。2人とも、私のお母さまと比べるとかなり年をとっている。ジェームズは1人息子だし、それはとても大切に育ててきたんだろう。
みんなから愛される子になりますように、と願っているに違いない。
フリーモントさんがジェームズのホグワーツでの行動を正しく知っているのか、それともただ男の子の勘で彼に少なからず敵がいることを想像しただけなのかはわからない。
だから私は、いつも通り"上手に"答えておくことにした。
「ジェームズは人気者ですよ。クィディッチもうまいし、そりゃあ先生に怒られてるところもたくさん見ますけど…その分、私達生徒のことはいつも笑わせてくれます。ケンカをしてるところも見ますけど、ジェームズは絶対に人を"傷つける"魔法は使いませんから。私、ジェームズ達のこと、大好きです」
言葉は選んだけど、これは全部本音だ。
だってそうでもなきゃ、私は今ここに来ていなかったんだから。
ジェームズと直接腹を割って話したことはないけど(というか、あの中で腹を割ったのなんてシリウスだけなんだけど)、それでも私は断言できる。私はあの4人のことが大好きで、一緒にいたい仲間だって思ってるってことを。
「イリス…」
ユーフェミアさんの瞳が潤んでいた。フリーモントさんも「ありがとう」と言ってくれる。
良いご両親だな、とこちらの心まで暖かくなった。
「イリス! 来て来て! シリウスがマグルのパーツを何か持ってきたらしいんだ! ちょっと使い方教えてよ!」
その時、2階からジェームズの大声が轟いた。
「え、今私、ユーフェミアさんと編み物してるんだけど」
届くかどうかもわからないくらいの声で文句を返すと、ユーフェミアさんが「続きは明日にしましょう。あの子、言い出したら利かないんだから…。お風呂は上にあるわ、タオルも自由に使って」
「あ…ありがとうございます」
作りかけの靴下を2足分、一緒にカゴに入れてから、私は2階に向かった。
こんなに"居心地の良い家"があるなんて知らなかった。"家庭"って、こういうものなんだ。"家族"って、ああいうものなんだ────。
「これこれ! 何かの一部の部品だと思うんだけど…わかる?」
「それ、公衆電話の受話器…。シリウス、どこからぶち抜いてきたの…普通この部分だけ落ちてたりなんかしないよ…」
「コーシューデンワ? 知らないよ、落ちてたんだから」
「これどうやって使うのかなあ」
「それだけじゃ使えません、残念ながら」
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