蜘蛛の糸を切らないで



※社会人






不定期に、夜眠れない時期が訪れる。
何がトリガーになるのかはわからない。間隔も決まっていないので予測ができない。

ただその時期が来ると、言い知れない不安感と無力感、それから絶望が募る。そうして制御のできない涙がぽろぽろと溢れ、胃がぎゅっと収縮し、体が思うように動かせなくなる。

そのまま何をするでもなくただ無益に時間が流れて行くのを見過ごしながら、死にたくなるほど眩しい朝日がカーテンの隙間から漏れ入るのを待つのだ。

原因はわかってる。
上司からのプレッシャー、同僚の陰口、成果が出せない自分への嫌悪感、将来への不安…そうした"社会人なら当たり前のこと"を乗り越えられない私の弱さが悪いのだ。
誰もがこれに耐えている。ある人は戦って、ある人は受け入れて、ある人はそれすらやる気に変えて、みんな頑張って生きている。

なのに、私にはそのどれもができない。
「どうしてこんなこともできないんだ」
「今日中にやれと言っただろう!」
「みょうじさんってほんと仕事できないよね、もはや給料泥棒っていうか…」
「ムカつくよね、なんで私達があの人の尻拭いさせられなきゃいけないんだか」
少し気を抜くと、彼らの怒号と不満がリフレインする。真面目にやっているつもりでも、自分の最大限を出しているつもりでも、そこに見える結果が伴わなければこの世界ではゴミクズにしかならないのだ。
どんなに必死になってもゴミクズ以上になれない私。いっそ死んだ方が社会のためになるだろうに、死ぬ勇気すら持てなくてただただ無駄な命を持て余す。

明日が来るのが怖いな。
明日になったら私はまた、この社会の荷物だって思い知らされて、誰の役にも立たずに足ばかり引っ張って、誰からも、自分にさえも嫌われながら生きていかなきゃいけないんだ。

嫌われるの、怖いな。
自分なんていなくなれば良いと誰かに思われることが、こんなにも怖い。

私は強くなれない。
私は、私のことを好きになってあげられない。

こんなに死にたいのに、生きていたくないのに、それすらできない。

ああもう、いっそ誰かが私のことを殺してくれたら良いのに─────

「ただいまー」

ベッドの上で枕を濡らしていたら、ふと家の奥からそんな間延びした声が聞こえてきた。リビングの扉をがちゃりと開ける音、コンビニかどこかのレジ袋をかさかさと机に置く音、それから、耳慣れた足音。

それは、4年前から同居している人間が帰ってくる音だった。

時計を見ると、朝の4時を示している。出張に行く、と出かけて行った彼を見送ったのは2日前。確か帰ってくるのは今日の夕方だと聞いていたと思うのだが…予定が早まったのだろうか。

どちらにせよ、こんな酷い状態では会いたくないな、と思った。こんな惨めな気持ちの中で顔なんて合わせたら、疲れている彼に余計気を遣わせるのはわかっている。それに、正直人と喋るのが煩わしいというのもあった。

息を殺して、寝たふりをする。彼の足音が近づき、扉を静かに開ける音がした。

「………」

そっと、中の様子を窺っているようだ。目を閉じて、彼が出て行くのを待つ。

しかし彼は、部屋の中へと足を進めた。枕元にまで近づく気配がする。布団を深く被っているので涙の跡は見えないはずだが、それでも私は身動き一つせずに彼が立ち去りますようにと強く願った。

「……なまえ」

衣擦れの音。彼の声は、耳元で聞こえた。
しゃがみこんで、布団越しに私と目線を合わせようとしているらしい。起きていることを、そして私が泣いていることを確信しているような口調だった。

「………」

少しの間、無視をする。彼が立ち去る気配はなかった。

「……なんでこんなに早く帰ってきたの、俊」

仕方なく、布団を剥いだ。俊の涼しげな目と視線がぶつかる。

仮にも仕事を終えて疲れているはずの同居人、もとい恋人にかける言葉としてはあんまりだろう。わかっていても、棘をしまうことはできなかった。

「仕事が終わったからだよ。…帰ってこない方が良かった?」
「今、人と会えるコンディションじゃない」
「見ればわかる」
「なら」
「でも、一番に会いたくて」

出て行って、とは言わせてくれなかった。俊は、まだ濡れている私の頬を指の背で優しく撫でる。

「どんなに疲れててもさ、お前に会うと元気出るんだ。…だからごめんな」
「…なんで謝るの」
「お前が誰にも会いたがってないのわかってて、自分の我儘を優先させたから」

謝ってくる割に、俊の表情は笑っていた。

「でもお陰で疲れが吹っ飛んだわ。ほんと魔法使いみたいだな、お前」
「……やめてよ」

だってもし本当にそんな力があるなら、私はこんなに自己嫌悪で沈まなくても済んだはずなんだから。頑張って帰ってきてくれた人に、こんな酷い言葉をかけずに済んだはずなんだから。

「…疲れを吹っ飛ばすどころか、疲れさせてばっかりなんだけど。今だってそうだよ、明日が来るのが怖くて、結果の出せない無価値な自分が嫌いで…そんな自分勝手な感情で、俊に酷いこと言った。謝らせちゃった」
「なまえ」

俊は、優しく私の名前を呼んだ。

「無価値とか自分が嫌いとか、たまに言ってるの聞くけど…そんなの、なまえの一側面にすぎないだろ」

布団の中から私の手を取り出して、両手で包み込む。外から帰って来たばかりの彼の手は、ひんやりと冷たかった。

「責任感が強いのも、感受性が豊かなのも俺はお前の良いとこだって思うけど、それで自分を責められるのは辛いな」
「………だって」
「確かに思うようにできなくて、結果が出ないこともあるんだろう。それで良い顔をしない奴もいるかもしれない。でも、それだけがお前の価値じゃないと思うんだ」

珍しく、よく喋る。
そのせいで名前を呼んだ時と同じ優しい声が、絶えず耳に流れ込む。
ぐずぐずと泣き続ける私を安心させるように、彼の手はとんとんと私の手を撫で続けた。

「だって現に俺は、お前の顔見ただけで安心してるよ」

唯一無二の価値がなきゃ、そんなことできないと思わないか? と無理やり同意を求めてくる俊。

「…いくら俊が私に価値があると言ってくれても、外の世界では"結果を出せるかどうか"だけが人の価値を計る尺度で、そうすると私はどうあがいても無価値なんだよ。どんなに頑張っても朝は来てしまうし、どんなに頑張っても私はゴミクズ以上にはなれない」

言いながら、自己嫌悪感が強まるのを感じる。
こんなに優しくしてもらっているのに、なんでこんなことしか言えないんだろう。こんなに元気づけてくれているのに、なんですぐ立ち直れないんだろう。
それでも傷ついた私の"何か"は、涙を流すことをやめてくれなかった。ぼろぼろと泣き続けて、くだらない鬱屈とした愚痴を吐き続ける。

「…偉いな、なまえは」

それなのに、彼は嫌な顔ひとつしなかった。慈しむように目を閉じて、私の手を自分の頬に当てる。

「偉くない」
「偉いよ、それでも頑張って生きてるんだから」
「死ねないだけ」
「それでも良いよ。生きててくれて嬉しい」
「……俊はおかしいよ。なんでそこまで言ってくれるの」

仕事帰りで疲れてるだろうに。疲れてるところでこんな真っ暗な気持ちで寝込んでる同居人の相手なんて、面倒なだけだろうに。何を言っても自分を卑下することをやめない私に、呆れていたっておかしくないのに。

俊は目を開けて、私を見た。それから少し気まずげに視線を逸らす。

「…いや…え、それ訊く…?」
「そりゃ訊くよ。私にそんな風に言ってくれるの、俊しかいないもん」
「……うん、まぁ言っちゃえばそれが答えだとは思うんだけど…。でも、みんな普段からは言わないだけでちゃんとなまえのこと好きだと思うよ。友達とか、家族とか」
「わかんないじゃん…。もう私、世界中の人から嫌われてる気しかしない。自分が役立たずで、無能で、ただ無駄にエネルギーを消費してるだけの肉塊にしか思えない」

ほんの一瞬、沈黙が降りた。私ももう言葉が出なくて、このまま彼の手を払おうか、なんて酷いことを考え出す。
するとそれを見透かされたのかどうなのか、ぎゅっと手を強く握られた。驚いている間にそのまま手を引かれ、起き上がるように誘導される。

「おいで」

俊はそう言って、私を立ち上がらせた。うまく動かない私の体を優しく引っ張りながら部屋を出て、明かりのついたリビングでぎこちなくソファに座るのを手伝ってくれる。

「明日の朝までとっておこうかと思ったんだけど」

机の上には、コンビニのレジ袋。ごそごそと中を漁って、取り出してみせたのは新発売のチョコレートケーキだった。

「これ、ネットですごい評判良くてさ。見たことある?」

もちろん。買おうかものすごく迷った商品だ。

「一緒に食べようと思ってほら、2つ買ったんだ。今紅茶淹れるから待ってな」
「…私がやるよ。俊は座ってて…ていうか、もう寝なよ。疲れてるでしょ」
「疲れてるからこそ、チョコっと座ってホッとしたいんだよ。チョコケーキとホットの紅茶を飲みながらね」

うまいことでも言ったつもりなんだろう、満足げなウィンクを投げて、彼は台所に立った。
私がやるよ、なんて言ったくせに、相変わらず私の体は重くてうまく動かない。手を引いてもらわないと家の中ですらろくに動けないなんて、いよいよ本当にこの体はただの肉の塊と化したらしい。

自己嫌悪に苛まれながら俊の背中をぼうっと見つめる。白いシャツと灰色のパンツスーツ。ずっとバスケットをやっていた彼の体はこの年になっても引き締まっていて、綺麗だった。

好きだなぁ、と思う。

決して非凡な才を持っているというわけではないのに、努力家で、粘り強くて、意外と勝負師で。派手な成果を出すというよりは、こつこつと実績を積み重ねて認められていくタイプだ。本当にすごいことだと思う。
きっと何度も折れかけたことがあったのだろう。もうダメだと膝をついた時もあったのかもしれない。
それでも、彼は一度も諦めなかった。バスケでも仕事でも、彼は絶対に自分からは投げ出さなかった。何度でも挑戦し、何度もやり直し、そうして今も一生懸命生きている。

強い人だ。
きっとこういう人が、真に社会に必要とされるべき人なんだ。

「はい、お待たせ」

そんな私の卑屈な考えを断ち切るように、俊は明るい声を掛けて湯気の立つマグカップを2つ机に置くと、私の隣に腰掛けた。それからフォークを1本こちらに渡し、ケーキの容器の蓋を開ける。

「いただきます……ん、うまいぞこれマジで」
「……俊はさぁ」
「うん?」
「………私と一緒にいてよくこの根暗が移らないよね」

気を遣ってくれているだけだとわかっていながら、つい正直にそう言ってしまった。いつもはあまり感情を表に出すタイプではないが、私が落ち込んでいる時、彼はいつも明るく振舞ってくれている気がする。それが申し訳なくて、それと同時に不思議でもあって。
俊はおかしそうに口を歪めて、それから本当に笑い出した。

「むしろなまえが必要以上にネガティブだから、相対的に自分がポジティブになっていくような気がするよ。別に元から明るいわけでもないんだけどな」
「………そっかぁ」

遅れて、私もケーキの蓋を開ける。一口運んでみると、濃厚なチョコレートの味が舌の上に広がった。

「…おいしい」
「だろ? これは買って大正解だったな」
「ありがとう…」
「どういたしまして」

もう一口食べてから、紅茶にも手をつけた。砂糖の入っていないアールグレイの優しい香りが嗅覚を満たす。一気に体中が温かくなったような気がして、思わずほっと息をついた。

聞こえるのは、ちくちくと時を進める秒針の音。それから、かたんとカップを机に置く音。しばらくは会話もなく、ただケーキを味わうだけの時間が続く。

「────なまえは役立たずなんかじゃないよ」

半分くらいケーキを食べた頃、おもむろに俊がそう言った。まるでそれまでの話の続きのように切り出されたが、私はまともな反応を返せずただ黙ったまま彼の方を見る。

「俺さ、暇があればだいたいお前のこと考えてるんだ。今何してるかなぁとか、帰ったら一緒に何しようかなぁとか。だから今日も新発売のケーキを2つ買って、始発を待たずにタクシー使って帰ってきた」

俊はこっちを見ない。恥ずかしそうに耳を少し赤くして、囁くように小さな声で言葉を繋げる。

「仕事で辛いことがあっても、お前が泣きながら頑張ってるのを見ると、俺もまだやれるぞって思うんだ。…ああいや、泣くまで頑張れって言ってるわけじゃなくて、お前がいてくれるから頑張れるっていうか…お前に胸を張れる俺でいたいなって思うというか…」

何を言いたいんだかわかんなくなってきた、と首の後ろを掻く。ケーキを机に置いて、ぎゅっと両手の拳を握り、こちらに向き直る。

「とにかく、会社の奴らだかなんだかわかんないけど、お前に価値がないみたいなこと言ってる他の誰よりも俺はお前のこと知ってるし、その俺がなまえには誰にも負けない価値があるって言うんだから、そっちの方が信憑性高いと思わないか?」

今や真っ赤になって照れながら、しかし真剣な目で彼はそう言った。
普段は全然そんなこと言わないくせに。普段は全然、喋らないくせに。

「…あー、やっぱ恥ずかしい。いつもこんなこと言わないから余計こんがらがるな…」

温かい紅茶のせいだろうか。それとも、甘いケーキのせい?
わからないけど、俊の言葉は先程ベッドの中で聞いていた時より自然に私の体に染み込んだ。納得したわけじゃない、立ち直れるわけでもない。それでも、彼の言葉が嬉しいと思った。

「…俺、目は良い方なんだ」
「知ってる」
「なまえを選んだ自分の目にも、自信を持ってる。だから誰にも、お前自身にも、お前が無価値だなんて言わせない」
「…………俊」
「なんて、ちょっと格好つけすぎた…よな」

俊みたいな人なら、私よりずっと素敵なパートナーだっていくらでも見つけられそうなものなのに。

「…俊なら、もっと良い人だっていると思うけどね」
「何をもって良い人って言うのかはわかんないけど、少なくともコンビニのケーキを一緒に食べて、たまに泣きながら愚痴を言い合って、一緒に朝を迎えたいって思えた相手は今まで生きてきてお前一人だけだったよ」

ぐ、と胸が詰まる。
何も生産できないのに消費だけする自分が嫌いで、食事のできない日もあった。
何も事態は好転しないとわかっていながら、涙が止まらない夜もあった。
朝が来るのが怖くて、眠れなかった。動けなかった。

それを彼は、私と一緒に叶えたいと言った。いとも簡単に、あっさりと。

「だから、これからも一緒にいよう。俺を逃げ場所にして良いし、どれだけ泣いても喚いても良い。仕事だって辞めても良いよ。生きてさえいてくれたら、なんだって良い」

言ってから、俊はまた顔を赤くした。見るからに慌てた様子で「やべ今のなんかちょっとアレみたいになった、ちょっと待ってそういうアレならやり直したい」と独り言を並べ立て出す。

私はといえば、照れる余裕もなくまた泣き出してしまった。よくわからないけど、なんだって良いと言ってくれた瞬間、スイッチが切れたような感覚に陥ったのだ。張っていた気が緩み、体がだらりと脱力するような、そんな感覚に。
泣き止んだと思ったらまたぼろぼろ泣き出した私を見て、俊は焦っている。私はそんな彼に黙って寄りかかり、その広い背中に腕を回した。

少しだけ驚いたようだったけど、彼は黙ったまますぐに抱きしめてくれた。温かい体温が、規則正しい脈拍が、触れた体に直接伝わる。馴染み深い彼の匂いが、優しく私を包み込む。

「…体…動いた…」

錆びた鉄のように固かった筋肉が、弛緩しているのを感じる。紅茶とケーキと、それから彼の言葉と態度が、凝り固まった私を溶かしてくれたようだ。

明日への恐怖が消えたわけじゃない。問題は何も解決していない。未来への不安だってずっと残っている。
でも、今この瞬間だけだとしても、彼の存在が私を少しだけ強くしてくれた気がする。なんとか明日を生きる力を与えてくれた気がする。

「良かった」

わけもわかっていないだろうに、俊は私の独り言にそう返してくれた。

「俊」
「ん?」
「ありがとう」
「…うん」

彼はもう、元の無口な彼に戻っていた。
私ももう、元の私に戻れたと思う。

カーテンの外では、朝日が昇っていた。









蜘蛛切らないで
精神的に脆い彼女の話。
地獄のようなこの世界の中で、彼の言葉は彼女を掬い上げる一本の糸のようでした。









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