Ad-o-les-cence
ウィンターカップが始まる少し前。
季節にして、夏の終わり。
俺はひとり屋上へと向かっていた。
懐かしい、一年と少し前の思い出。あの時俺達はここで全国行きを誓った。冗談みたいな顔して、でも半ば本気で日本一を語る仲間を横目に、俺はどこかそれを遠くに見ていた。
楽しもうと言ったその言葉に嘘はない。実際俺はいつだって楽しみながら走っていた。無理だってしたつもりはない。
それでも、絶望感というものはじわじわと、知らぬ間に俺を蝕んでいたんだと思う。気づいた時にはどうやら、俺は自分の力に天井をつけてしまっていたらしい。
一度膝を壊して、みんなの元を離れて、そうして自分と客観的に向き合った時、初めてそのことを思い知った。無意識のうちにまた敗北に晒されることを恐れ、足をすくませていたのだと。
それが、今は。
清々しい気持ちで空を見上げている自分がいる。
生きる価値がないとさえ思ったあの時と今、変わったのは…そう、俺は独りではないのだという、そんな些細な物の見方一つだけ。前へ踏み出せなかった俺の本心を見抜き怒ってくれた仲間の一言が、俺の人生を瞬時に変えてくれた。
背中を預けられる仲間がいて、心から頂点を目指せるだけの情熱がある。たったそれだけのことが、なんと心強いことか。たったそれだけのことが、それまでの俺にとってどれだけ得難かったことか。今は本気で、全てを懸けて、全国優勝を果たしたいと願っている────そう思えることの、なんと恵まれていることか。
「…にしてもちょっと冷えるな」
記憶の中の屋上は、肌寒さこそあったもののもう少し過ごしやすかった気がするんだが。堪え難いほど暑い日が続くと思っていたのに、気づけばここ数日で秋すら飛び越えて急に冬が来たように冷え込んでしまった。今は寒さと、誰もいないことによる寂寥感が身を切るように─────いや、誰かはいるぞ?
ぐるりと屋上を見渡した時、ちょうど出入口からは死角になる裏側のフェンスに人影が見えた。先客がいたか、と呑気なことを考えて、すぐにその状況の異常さに気づく。
待て、あの子、フェンスに登ろうとしていないか!?
そこにいた女子生徒は、スカートが風に翻るのも気にせず、彼女の頭より少し高いフェンスを越えようとまさに網から身を乗り出しているところだった。
「何してるんだ!」
反射的に良からぬ末路を想像し、駆け寄りながら大きな声を出す。女子生徒の背中がびくりと跳ね、ちょうどフェンスの縁を掴んだ手が離れた。
「危な─────」
間一髪、女子生徒がフェンスから足を踏み外して後ろに倒れこんだところを受け止める。背を抱きかかえるように腕を差し出したせいで、彼女の体はこの腕を支点にぐいんと仰け反り 見下ろす俺と視線がモロにぶつかった。
「……何しようとしてたんだ」
「…あんた、誰」
恨めしそうな彼女の声。表情も最初こそ驚きに満ちていたが、俺の厳しい声に呼応するようにすぐしかめ面になった。怒りというよりこれは、疎ましがられていると考えるのが正しそうだ。
「2年、木吉鉄平。たまたまここに来たらフェンスを乗り越えようとしてる女子がいたんだ、止めるのは当然だろ」
俺の腕を振り払い、自分の力で立つ彼女。手と制服はフェンスを掴んでいたせいで黒く汚れてしまっている。
「…あんた、バスケ部の奴か」
「知ってるのか?」
「去年、屋上でごちゃごちゃ叫んでたでしょ。変態集団だって噂になってたの、知らないの?」
「いやあ、バスケ部がそこそこ有名なのは聞いてたけど、部員ひとりひとりまでが有名だとは思ってなかったからさ」
悪名ほど轟くからね、と吐き捨てるように言われた。ぶっきらぼうな喋り方はどうやらデフォルトらしい。不機嫌そうな顔も、もしかしてただの真顔なんだろうか。
「ところで、なんでフェンスなんて越えようとしたんだ」
「なに、あんたはフェンス越えたらそのまま空でも飛べると思ってんの?」
「…人は生身じゃ飛べないと思うぞ」
真面目に答えたつもりだったのだが、なぜか彼女は呆れたように溜息をついた。
「ならわかるでしょ、落ちるつもりだったんだよ」
やっぱり自殺しようとしていたのか。
「そっか、じゃあ止められて良かったよ」
「別に自殺は見てるだけじゃ何の罪にもならないけどね」
「関係ないだろ、目の前で人が死のうとしてるところを黙ってなんて見てられるか」
彼女は心底嫌そうな顔をした。
「お節介」
言われ慣れているそんな言葉、今更堪えたりなんかしない。それよりも、何よりも、ここにいる名前も知らないこの子を死に追いやった原因の方が気になって仕方なかった。
「お節介ついでに、話してくれないか。なんでそんなことをしようとしたのか」
彼女の表情は変わらなかった。嫌そうに唇を薄く開けて、品定めするように視線を揺らす。
それでも立ち去ろうとしないところに一応会話を続ける意思はあるものとみて、黙って待っていた。
「…別に、理由なんかないよ。ていうか理由がないのが理由」
しかしようやく出て来た答えは、とんちのように不可解なものだった。
「…理由がないのが理由?」
「木吉、って言ったっけ。あんたはなんの為に生きてるの?」
難しい問いだ。同じような問いを自分にかけた記憶はあるが…答えを出す前に、俺は救い上げられてしまった。理由など求めずとも生きていたいという欲が、生き残ってしまった。
「…強いて言えば、生まれてきちゃった以上は楽しみたい、っていう自分の素直な気持ちの為かなぁ」
「…そんな人間の顔してるよ、あんた」
それを言ったら、彼女は全く楽しくなさそうな顔をしている。
「────生きる目的がないんだよね。生きるのも死ぬのも私にとってはおんなじなんだよ。だから死のうと思って」
「いや、でもさ、そもそも生きる目的なんて要るのか?」
「それを要らないって言うなら、それこそ死んじゃダメだっていうのはおかしくない? 生きる目的がない、生きる意味がない、それってつまり生きながら既に死んでるようなものじゃん」
理解できないわけではないが、だからこそその意見はあまりに閉塞的だと思う。すると俺が納得していないことをすぐに察したのだろう、彼女はそう間を空けずに再び口を開いた。
「…無気力に生きていくって結構しんどいよ。良いことは何も起こらないのに、周りの人に嫌われたとか、失敗が続いたとか、そういう些細な悪いことが知らない間に積み重なって、気づいた時にはもう息が詰まってるんだから」
「良いこと、何もないのか?」
彼女は二度言わせるなと言わんばかりに俺を睨みつける。
わかるよ、気持ちはわかる…でも、それは本当は、わかってはいけない気持ちのはずなんだよ。
「…残念だな」
「大人しく見送ってくれる気になった?」
「なるわけがあるか」
不満げな顔だが、そこに動揺や迷いはない。内容はともかく会話だってまともにできている。つまり彼女の死という結論は、パニックに陥った末の錯乱行動でもなく、絶望の末の唯一の逃げ道としてでもなく、あくまで幾つもある選択肢の中から極めて冷静に選ばれた(あくまで彼女にとっては)合理的な最適解だったというわけだ。
死にたいというより、生きていたくない。
なるほどそれは確かにしんどい。
でも同時にそんなこと、とても容認なんてできない。
だって俺には彼女の無気力の理由が、ただ"些細なきっかけ"がなかったせいに過ぎないと思えてならなかったから。
「なあ、お前はどうしたら死ぬのをやめてくれるんだ?」
「やめるつもりはないんだけど」
「じゃあ何が起きたら"そんなつもり"になってくれるんだ」
「だからそれは無理って」
「教えてくれ、どうしたらやめてくれる」
「……人生が楽しくでもなれば良いんじゃないの、知らないよそんなこと」
「どうしたら人生は楽しくなる?」
「ああもううるさいな、そんなことできるなら教えてよ!」
────ああ、良かった。
質問を続ける俺を煩わしく思ったか、少しだけ声を荒げる彼女。
俺はといえばそれを聞いて、まだ彼女が生きることを諦めていないのだと安心してしまった。
彼女は"そんなことできるなら"、と言ってくれた。つまり楽しいことを"したくない"んじゃなくて、"できない"だけなんだ。楽しいことに興味がないんじゃなくて、楽しいことが何なのかわからないだけなんだ。
大丈夫、彼女はまだ生きてくれる。死にたくないと、思ってくれる。
だってほら、まだ心のどこかで、生きることを諦めないでくれている。死なない道を、残してくれている。
「よし、じゃあ楽しいことしようぜ!」
それが嬉しくて、俺は特にアイデアもないままに気づけばそんなことを言っていた。
「…は?」
「なんかどっか遊びに行ったり…そうだな、ここで話すだけでも良い。ここで会ったのも何かの縁だし、何もせず死ぬよりかは何かしてから死んだ方が良いと思うんだ」
その時の彼女の顔。呆れたような、何か言いたげな、でもなんだかむず痒そうな、とにかく感情がごちゃまぜになったようなその表情を、俺はきっと向こう3年は忘れないだろう。
「…意味わかんない。とりあえずとんだ偽善者だね、あんた」
「偽善かどうかはわかんねえけど…俺はただ、このままお前が死んじゃうのはもったいないなぁって思っただけだよ」
「……もったいない?」
「だって"何も楽しいことがない"って思うお前に、誰も"違う、それはちゃんと楽しいことだぞ"って伝えてやらなかったんだろ? 見方を変えるだけで楽しいって思えることが もしかしたらあったかもしれないのに、可能性すら何も知らずに死んで行くなんてもったいないぞ」
「…なに、だからあんたがその"ちゃんと楽しいこと"を教えてくれるとでも言うわけ?」
「おう、なにせ俺はなんでも楽しむことがモットーだからな」
彼女はわざとらしいほどに大きな溜息をついた。
「…あんたの言う"楽しいこと"が私にとって何一つ楽しくなかったらどうするの?」
「そしたら今度は、俺もまだ知らない楽しそうなことをする」
「それでもダメなら?」
「うーん…そうだな、俺の友達に片っ端から楽しそうなアイデアを聞いて回ろう」
「……あんた、よくバカって言われたりしない?」
「ええ…成績はそんなに悪くないつもりなんだけどなぁ」
その返事が既にバカだよ、と言われてしまった。
「どうしても私の結論が変わらなかったら?」
「…うーん、仮にそれでも死ぬって言うんなら、仕方ないから俺はあれだ、警察に通報する。…あれ、自殺を止めるのって警察で良いのか?」
「いや、そこまで粘るんならもう俺がお前を救う、くらい言いなよ」
「お前の苦労も何も知らない俺がそんな無責任なこと言えるわけないだろ」
「は? さっきは無責任に止めてきたくせに」
「あの場面で警察を読んでたら間に合わないだろ。それに自殺志願者を目の前にすることなんて初めてだったから、無意識に体が動いちまったんだ」
「…自殺志願者を脅す人間を見たのも初めてだけどね、私は」
「脅す? どこにそんな奴がいるんだ!」
「あんただよ」
呆れたように言われたものの、思い当たる節のない俺は首を傾げることしかできない。彼女はしばらくそんな俺を見つめて、それからもう一度大きな溜息をついた。
「…ああもう、わかったよ。じゃあこの場はあんたに預けてやる」
ほ、と安心感に体の力が抜ける。
「おう、そうしてくれると嬉しいな!」
「言っとくけど私、かなり卑屈だからね。きっとあんたのやることなすこと全てつまんないって否定するよ」
「任せろ、長期戦は得意だ」
「わかってるんだかわかってないんだか…」
言葉は相変わらずぶっきらぼうなままだが、どこか彼女の表情が和らいだような気がした。それに何より自殺をやめると言ってくれたことが、これから出会えるかもしれない楽しい出来事を少しでも信じてくれたことが嬉しくて、自分の頬の筋肉が緩む。
「お前、名前は?」
「みょうじなまえ」
「うん、良い名前だ。じゃあこれからよろしくな、みょうじ!」
握手をしようと手を差し出したら、怪訝そうな顔で睨まれた。しかし少ししても俺が手を引っ込めないのを見ると、観念したように彼女の手が伸びる。
「…いまどき握手で友達宣言とか…いやそれまででもあんたが変なのは十分わかってたわ…」
ぶつぶつ言いながら握られた手は、少しだけ冷たい。
「まぁ良いや。…木吉鉄平ね、覚えとく」
「お、サンキュー! じゃ早速明日の放課後バスケしよーぜ!」
「ねえやっぱりバカでしょ!?」
────生きる価値がないとさえ思ったあの時と今と、変わったのは…そう、俺は独りではないのだという、そんな些細な物の見方一つだけ。
だから彼女の中でも何か一つだけ、そんな変化が訪れてくれれば良いなと思う。
Ad-o-les-cence
<名>
1.青年期、青春
2.思春期
それはきっと、誰もが一度は通る道。
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