愛の夢



転入してから1ヶ月くらいが経った頃、偶然校舎の中で迷ったことがあった。
初めてピアノを弾く彼女と出会ったのは、ちょうどそんな時だった。
「音楽の先生が教頭だかに頼まれて、放課後にピアノを弾いてるんだってさ」とクラスメイトが言っているのを聞いたことはあったものの、実際に見たことはなかった。そもそもそのピアノが置かれているのはホームルーム教室のある棟からは少し離れたサロンの中。明るく開けたそのスペースは、放課後は教員や学校が招いた来客などが使っていることの方が多く、逆に生徒が寄り付くことは稀だったのだ。

だから、その日俺がそこに現れた時、俺以上に彼女の方が驚いているようだった。

「……どうしたの?」

演奏を止め、俺に話しかける彼女。黒いマーメイドラインのロングスカートがよく似合う、美しい人だった。

「…すみません、図書館へ行こうとして、迷ってしまって…」
「ああ、棟をひとつ間違えたのね。図書館なら隣の階段をひとつ降りて目の前にある通路を進んだ右手にあるわ」
「そうでしたか…ありがとうございます」

うちの学校では、音楽は高校一年生の選択授業としてしかカリキュラムが組まれていない(芸術という授業で、他の選択肢としては美術か書道があるらしい)。なので音楽の先生は他の科目に比べて生徒との接点が少なく、二年になってから入ってきた俺が会ったことがないのも当然といえることだった。

「…あの、先生」
「ん?」
「それでその…もう少し…聴いていても、良いですか。…ここで」

先生は花が咲いたように笑った。

「どうぞ」

それから俺は毎日のように、部活前の短い時間にサロンへと通うようになった。

彼女とは、ほとんど会話をしなかった。最初の日に話をしたきり、基本的には俺が黙って彼女の傍で演奏を聴き、黙って立ち去るだけの日々が続く。
彼女は元来口数が少ないらしく、俺が現れたことに気づいても、曲と曲の合間でも、何か言葉を発するということが基本的になかった。

でも、その代わり音色はとても豊かだった。
あまり音楽に詳しいわけではない、それでも、彼女の演奏は本当に美しいと思った。壊れそうなほど繊細な高音のトリル、全てをかっさらうほどダイナミックなアルペジオ、地の底で唸るような低音のアクセント、音のひとつひとつに役割があって、それが繋がることで壮大な物語を見ているような、そんな気持ちになった。

彼女はまた、気分によって弾く曲の雰囲気をがらりと変える人だった。明るい曲ばかりの日、激しい曲ばかりの日、いつだったか暗く重い曲が続いた日に「今日は何かあったんですか」と聞いた時に「昨日測ったら体重が3キロ増えてたの…」なんて返ってきたこともあった。

口で喋らない代わりにピアノに喋らせているんですね、と言った時には、うまいことを言うわね、と笑ってくれたのを思い出す。俺の好きな、花が咲いたような笑顔だった。

「────室ちんさぁ、いつも部活前どこ行ってんの?」

ある日ロッカールームで着替えながら、アツシが気怠げにそんな疑問を投げてくる。

「たまには迎えに行こうかって教室行ってもいっつもいないじゃん。の割に遅刻はしないしさぁ、なんかやってんの?」
「うん。……ちょっとね」

別に秘密というわけではないけど、話してしまったらあの音が消えてしまうような気がして、そんな風に濁してしまった。

「なんかアヤシ〜」
「そんなことじゃないって。それより早く行こう、アップ遅れるぞ」
「へいへい」

部室棟から体育館に移動していると、遠くの棟の通路を歩く彼女の姿が目に入った。思わず立ち止まってしまったせいで、前を向いて歩いていなかったアツシが思い切り俺にぶつかる。

「いてっ」
「あ、すまない、怪我はないかい?」
「ないけどさ、なに突然立ち止まって。なんかあった?」

さっきまでの俺の目線を辿ってアツシがきょろりと通路へ目を向ける。

「音楽の先生くらいしかいないじゃん。名前忘れた、なんだっけあの人」
「アツシ、彼女を知ってるのか?」
「いやだって俺音楽とってるし。…あ、確かでも、そろそろ辞めるって聞いたな」

──────え?









「先生」

翌日、サロンにはいつも通り彼女がいた。奇しくもその時弾いていた曲は、俺が初めて彼女に会った日に聴こえていた曲だった。

演奏が終わった後、彼女に話しかける。俺の表情に何か普段と違うものを感じたのか、彼女は目をぱちくりとさせていた。

「あの…後輩から聞いたんですけど、ご退職されるって…本当ですか」

彼女はそれを聞いて合点がいったように優しく目を細めた。

「そうなの、実は結婚することになって」
「結婚…」

ぐっと息が詰まる。退職すると聞いた時に予想していた理由だったけど、彼女の口から聞くその言葉は思った以上に俺に衝撃を与えた。

「短い間だったけど、毎日聴きに来てくれてありがとう。プロになる夢は諦めちゃったけど、あなたのお陰で少しだけそれに似た気持ちを味わえたわ」

そう言って、彼女は椅子から立ち上がり深く礼をした。まるで、ステージの上で奏者が観客に礼をするように。彼女の動きはとても優雅で、勝手に胸が締め付けられる。

「先生、俺…」

何を言うか決めていなかったのに、言葉だけが先行する。彼女はそんな俺のことを黙って待っていた。

「……好きでした。先生の、演奏」

なんとかそれだけを絞り出す。思い出なんて、それしかない。会話だってほとんどなくて、何より俺は先生の名前すら聞かなかった。知っているのは、彼女の優雅な指の動きとそこから溢れる美しい旋律だけ。

それなのに、今こんなにも苦しいのはなぜなのか。

「…ありがとう」

彼女は笑った。いつもの花の咲くような笑顔で、でもこの時だけはどこか────困ったような笑顔だった。

「いつ、ご退職されるんですか」
「……もう、明日からは来ないの」

もうずっと前から準備はしていて、月末である今日に合わせ退職するんだという。道理でアツシは既に知っていたわけだ、担当クラスの生徒にはある程度の段階で報告していたのだから。

もう、明日からは来ない。
明日からはここに来ても、彼女の音が聴こえない。
だって彼女は結婚するから。
知らない人と、知らないところで、幸せになるから─────

「………」

喜ばしいことだと、わかっているのに。

「…せっかくだから、何かご要望があれば弾きましょうか」

彼女はそう言って、鍵盤に美しい指を乗せた。

「……愛の夢を」

リクエストを伝える俺の声は、小さく震えていた。
それは初めて会った時に彼女が弾いていた曲。愛しうる限り愛せ、と情熱的に囁く曲。

「さっきまで弾いてた曲ね。じゃあ、今日の演奏はあなただけに捧げます」

伝えたいことはもっと他にあった気がする。したいことも、もっと他にあった気がする。しかし同時に、俺達はこれで良かったのだとも思う。

最後だと思っているからだろうか、彼女の演奏は今までで一番美しく聴こえた。美しくありながら、ひどく切なくも聴こえた。

終わらなければ良いのに。このまま終わりなんて来なければ良いのに。

願いは虚しく、一瞬で彼女の曲は終わってしまった。彼女との時間は、終わってしまった。

「…ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」

部活の時間が迫っている。もう、行かなければならない。

「………お幸せに」
「…いつか、あなたも素敵な人を見つけてね」

優しい彼女の声が、耳の奥で反響する。無理やり笑顔を返してサロンを出た瞬間、目頭が熱くなった。

思い出なんて、彼女が奏でる曲しかない。会話だってほとんどなくて、何より俺は先生の名前すら聞かなかった。知っているのは、彼女の優雅な指の動きとそこから溢れる美しい旋律だけ。

でも、そう、確かに俺は──────
好きでした、先生。








彼女はきっと、その視線に気づいていた。









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