蕾のまま枯れる



あ、だめだ。
今恋に落ちた。

こんなにも鮮烈に恋を自覚したのは初めてかもしれない。

とにかく私は、
今この瞬間、
恋をしてそして、
失恋をした。








またね、ばいばい、といういくつもの声と足音が遠ざかっていく。こちらに向けられることのないそのBGMを別段煩わしいと思うことはなく、私はただ黙々と目の前の紙と向き合っていた。

2ヶ月後に控えた文化祭の企画書と予算案。本当なら文化祭実行委員長がやってくれるはずのものを、なぜかクラス委員長の私が肩代わりする羽目になっていた。どうしても忙しい、締切に間に合いそうにないと騒いでいるのを見ているうちにだんだんイライラしてきてしまい、気づいた時には私がやるよと言い出してしまっただけなので、自分が悪いといえば悪いのだが。

だいたい忙しいというその言葉に嘘はなかったのだろうが、高2にもなれば実行委員長が忙しいことだってわかってるんだから最初からやるなよと思う。
結局あいつらはみんな、当日ワイワイやって楽しければそれで良いんだ。なんとなくみんなでやった感を出して、騒げればそれで良い。薄っぺらな青春を美化していつまでも引きずって酔って、それを人生の糧にするんだ。

(…なんて、これは僻みなのかなぁ)

友達がいなかったわけではない。楽しい思い出がなかったわけでもない。ただ私は、ふと気を抜くとそんな彼らの営みをすぐに一歩引いたところから冷めた目で見てしまっていた。

(バカバカしい、って思っちゃうんだよな。あいつらの考え方は至って高校生らしい普通のものなのに)

イライラしながら費用の計算をしていると、もうとっくに誰もいなくなったはずの教室の後方で、扉ががらりと開く音がした。

「………」

どうせバカなクラスメイトが忘れ物でも取りに来たんだろう、と思い見向きもしなかったのに、扉が開いたきりそちらからは一切音がしなかった。足音でさえ聞こえないことを不審に思い、数秒おいてからやっと振り返る。

そして、私は自分の予想が最悪の形で外れたことに気づく。

「……赤司君」

そこにいたのは、この世で最もバカからは程遠いところにいるクラスメイトだった。

赤司征十郎。顔、頭、運動神経、カリスマ性、全てにおいて最高の素材を持つ人間。そのせいでどこか近寄りがたい雰囲気もあったが、見る限り彼は誰からも慕われているようだった。神がこの世にいるのなら、きっとそれはこういう生き物のことを指すんだと思う。
おまけに家は日本有数の名家で超絶お金持ち。許嫁とかもいるらしい。許嫁だよ、許嫁。役満も良いとこでしょ。

…ああ、嫌だなぁ。
今この状況で一番会いたくない人間だ。

「…ひとりで何をしてるんだ?」

彼が動きを止めていたのは、誰もいない教室で私がひとり作業をしていることに驚いたがゆえのようだった。
苛立ちは全て胸の内に隠し、余裕のある笑顔を貼り付ける。

「文化祭の企画書と予算案を作ってるところ」
「実行委員長は?」
「部活で忙しいみたいだから代わったの。それより赤司君はどうしたの? 忘れ物?」
「ああいや、先程まで先生と少し話していてね。荷物を取りに来たところだったんだが…」

言いながら、赤司は私の席まで歩み寄る。机に広げられた清書されていない企画書と、計算式だらけの予算案を見下ろし、何事かを考えている。

それから、おもむろに私の前の席の向きを変え、向かい合わせに座った。

「………赤司君?」
「手伝おう。見たところ、もう少し完成まではかかりそうだ。タスクが2つあるなら2人でやった方が早い」

というか、どうしてこれを君ひとりにやらせようとしたんだ彼らは、などと言いながら赤司は机の脇に積まれた過去の文化祭の書類に一通り目を通していく。
この話がクラスで出ていたホームルームの時間、赤司は生徒会の先生に呼び出されており教室にいなかった。だから、おおまかな企画だけいい加減に決まって「細かい規約の話とか必要なものとか…あとお金のこととか? そういうのはみんな昔の企画書とかに書いてあるからそれ真似して文書作っておいてよ」なんて実行委員長が言われて終わった話し合いという名の責任放棄があった経緯を知らない(その発言をした奴らに悪意があったわけじゃない…とは思う。ただナチュラルに、自分達がやることだという認識がないんだろう)。

「…悪いよ、赤司君忙しいでしょ、ひとりで大丈夫だから」

赤司は私の言葉に動きを止め、こちらをまっすぐ見た。綺麗な赤い目。どきりと心臓を掴まれたような気がしてしまい、思わず目を逸らす。

「…前から君のことが気になっていたんだ」

それからなんの前触れもなく発されたのは、そんな言葉で。

「…は!?」

え、なにその突然の…え、なにこれ?
混乱してろくに返事もせずにいると、赤司はあからさまに狼狽している私の様子にすぐ気付いて緩やかに笑った。

「いやすまない、今のは言い方が悪かった。そういう意味じゃない」

普段あまり笑わない赤司の笑顔は、思ったより子供みたいだった。

「なんと言ったら良いのかな…君はいつも、人当たりが良くて誰にでも優しいだろう。今だって、君がやる必要のない仕事を善意で引き受けている。それは本当に素晴らしい美徳だ…と思うと同時に時折、決して君の本意じゃなかったのでは、とも思うんだ」

赤司とこんなに長く話すのは初めてだった。
さっきも言ったけど彼は私とは違う次元にいる人間だ。私は彼の横顔をよく見ていたけど、彼は私のことなんて認識していないと思っている。

「一般論として、余計な仕事が増えることが本意だと言う人間の方が少ないのはわかっているよ。ただそうじゃなく…そう、誤解を恐れずに言えば、君はもう少し性格が悪いのではないかと思っていてね」

だから当然私は、赤司という人間のことを何も知らない。そして赤司も、私という人間のことを何も知らない────と、思っていた。

「…結構言うね」
「もちろんこれはただの推測だ、突然失礼なことを言ってすまない。だが…だからこそ、失礼とわかっていても疑問が拭えなかった君という人間の性質に興味がある。この年でどんな場面でも本性を隠しながら生きていけるような器用な人間はそういないからね」

過去のデータの無駄を省き、暗算で予算案を組みながら赤司は淀みなく器用に喋り続けた(というか断ったはずなのに、とんでもない方向から会話が始まってしまったせいで結局なし崩し的に手伝わせてしまった)。
なるほど、つまり彼が私の手伝いを申し出たのは、善意というより人間観察が目的というわけだ。

「一応訊くけど、その推測の根拠は?」
「些細なことだよ。あまり要領を得ない発言をしたクラスメイトに対する君の返答が少し早口になっていたとか…他人のミスをフォローする直前、君が深く呼吸をしていたとか」
「………」
「例えば人は苛立つと早口になりやすい。また逆に例えば、苛立った時に深呼吸をして一拍置いてみるのはその怒りを抑えるのに有効だ。君のなんてことのない言動には、賢いがゆえに短気で、同世代の人間を敬遠している人間の性格が滲んで見えたんだ」

…よく見ていらっしゃる。
赤司の言葉に間違いはない。私は確かに自分の置かれたこの環境が好きじゃない。イライラすることばかりだし、なんだか周りを見ていてもすぐに冷めてしまう。

「…考えすぎだよ。そんなことないって」

でも、だからこそ、この笑顔は私の処世術として守らなきゃいけないものだと思っていた。だってどう足掻いたって私がこの環境から抜け出すことはできない。冷めたところで、イライラした気持ちを何かにぶつけたところで、私の居場所がなくなるだけなのだから。

「……そうか、考えすぎか」

赤司は案外すぐに納得した。

「もし本当に君がこの環境に違和感を覚えるような人間だったなら────」

それからそう言葉を続けて、変なところで切る。

「…だったなら?」

思わず、顔を上げて後悔した。

赤司の顔は、恐ろしいくらい挑戦的だった。
射抜くように光っている瞳。優しく細められているはずなのにぞくりと鳥肌がたつ。僅かに歯を覗かせて微笑んだその口角は、不敵に吊り上っていた。
お互い座っているから目線はそう変わらないのに、つい見下ろされているような被支配感を覚えてしまう。

「…いや、性格の良い君には関係のないことだよ」

………納得したなんて、とんでもない。

この人間は本当はわかっているのだ。
私という人間の、薄っぺらい嘘を。私という人間の抱える矛盾を。わかっているから、こんな挑発をしてくる。わかっているから、遠慮なくその嘘を剥がしに来ている。

だめだ、だめだこんなの。
だからこの人間とは近づきたくないんだ。
まして2人で会うなんてそんなこと、絶対にしたくなかったんだ。

だって彼はあまりに違いすぎる。この世に生きる私の周りの人間の、誰とも全く違う。

イライラするような感覚のズレがない。最も効率的でパフォーマンスの良い答えを常に導き出せる彼の姿には、私の理想とするものが全て詰まっている。彼は無駄に騒がない。彼はバカみたいに笑わない。彼は刹那的な感情では動かない。いつも考えて、先を見据えて、堂々と歩いている。

そう、私は彼と関わりたくなんてなかった。
横顔を見ているだけで終わらせたかった。
だから自分から話しかけたこともなかったし、今日彼が手伝うと言ってきた時も断ろうとした。

だってそうじゃないか。

そうだよ、だって私はずっと彼のような人間に憧れていた。

自分の能力以上に他者の能力を引き上げることができるなんてそんな人間離れした存在を、唯一尊敬していた。

だからこれからも手の届かない存在でいてほしかった。この憧れを、尊敬を、

────恋なんていう、俗物的な感情に堕としたくなかった。

「……予算案はこんな感じでどうかな、一応今可能な限りでは最も効率的だと思うんだが」

はっと、彼の手元に意識を戻される。そこには美しく整えられた数字の表が出来上がっていた。項目、費用、確かにその全てが過去の類似企画の内容よりコンパクトになっている。しかし見る限り無理なところはなく、むしろ削減した費用は新設項目(内装などの設備面)に回されており、
「企画内容自体はこの程度の費用でも十分運営可能だと思って、今年は少し内装装飾を豪華にしたらどうかと思ったんだ。見た目が華やかなスペースはそれだけで目を引くし、噂にもなりやすいからね」
という赤司の言葉通りの未来が期待できそうだった。

「…すごい、ありがとう」
「細かいところは実際に買い出しをしながら検討しよう。どこまで君の仕事になるのかはわからないけど…可能な限り俺も手伝うよ」

赤司の声は優しかった。さっき一瞬見せた挑戦的な表情なんてもうどこにもいない。

「…………赤司はさ」

やめておけば良いのに、そんな彼の紳士的な顔を見ていたらつい疑問が口をついてしまう。

「本当は性格悪い、なんてことないの?」

赤司は少しだけ意外そうにしていた。何をそんなに驚かれることがあるのか、と考えている間に彼の答えが先に届く。

「…どうかな。少なくとも俺は、お前と俺は根本では同じタイプの人間だと思っているよ」

お前。
赤司が普段言わないようなその言い方が、耳に残る。発言の内容もかなり衝撃的ではあったが、私にはそれよりまずその喋り方の変化こそが答えのように思えてしまった。

「ついでに、こちらからも一つ良いかな」
「なに?」
「これからはぜひ、今のように赤司…と呼び捨てで俺のことを呼んでくれ。お前にはそちらの方が似合っている」
「……!」

しまった、つい。
赤司がさっき驚いたような顔をしていたのはそれが原因か、と今更思い知る。これじゃ彼が私をお前と呼んだのもただの意趣返しじゃないか。

「………食えないね、本当に」

だめだ、楽しい。こいつといるのが楽しくなってきている。

赤司は声を殺して笑っていた。そんなところまで上品だと思うと同時に、見たことのない心から楽しそうな笑顔を目の前にして、無意識に自分の手をぎゅっと握ってしまっていた。

「…さて、企画書の方もおおかたできたようだね」
「………お陰様で半分以上時間が削減できたよ、ありがとう」

もう、平静を装えているかどうかもわからない。今私、どんな顔をしてこの人と喋ってるんだろう。

「役に立てたなら良かった。それじゃあ帰ろうか。家はどちらの方面だい?」
「上りの電車で終点まで」
「なら、駅まで送ろう」

だって、こんなことになるって思ってなかった。赤司はずっと違う世界の人で、こんな、こんな風に隣を歩くことになるなんて思ってなかった。

私も彼も、ひとりで動くことが多いから。だから、なおさらこの感覚には違和感しかない。立ってみると、意外と背が高いんだなとか。陽光を受ける赤毛がひどく綺麗に輝いてるなとか。

そんな些細なことのひとつひとつが気になって仕方ない。

「普段はどんなことをして過ごしてるんだ?」
「たいしたことはしてないよ。まっすぐ帰る日が多いけど、映画を見たり買い物したりする日もあるし…」
「ひとりで?」
「ひとりだよ」
「仲の良い友人はいないのか?」
「………どう思う?」
「いないと思う」
「…なら訊かないでもらって良いかな」

赤司はまた、あの声を殺す笑い方で楽しそうに笑った。話しながら歩いているせいで、いつもより帰り道が長く感じる。ゆっくり歩いているはずなのに、運動した後のように心臓が強く脈を打っていた。

「赤司だっていないでしょ、友達」

やられっ放しが悔しくて、それから自分の心臓がうるさいのを誤魔化したくて、ヤケのようにそう言い返す。

「そうだね、俺には必要とされてこなかったから」

赤司はなんてことのないようにそう言った。

「生まれてからこのかた、友人というものの存在意義を教えられたことがないんだ。仲間とバスケをしているのは楽しかったから、強いて言うなら彼らを友人と呼ぶのが一番近いとは思うんだけど」
「つまり、友達はいらないってこと?」
「友達も、恋人も、いずれ不要になるものだ。ならば自分からわざわざそんな存在を増やそうとは思わないよ」

あっさりと、さっぱりと。彼にとってはそれは至極当たり前のことだというように。

「……やっぱり違うな」

住む世界が。見えている世界が。

「何がだ?」

でもそんなこと、とても本人には言えなくて。

「……今日はありがとう、また明日ね」

そこでちょうど駅に着いたことに、私は心から安堵した。無理に会話を切り改札へと入っていった私を赤司はたいして気にする様子もなく、「また明日」なんて優しく返す。

言わなきゃ良かった、あんなこと。
友達も恋人もいらないだろうなんてこと、赤司の立場を考えればわかってたはずなのに。理性では全部わかっていたのに。

だってずっと言ってきたじゃないか、赤司と私は違うって。同じ立場にあることなんて、望んだこともなかったのに。

胸が苦しい。あの笑顔が、あの声が、頭から離れない。私のことをわかったような口ぶり、ぞんざいな口を利いた時の楽しそうな表情、それが私にひとつの錯覚を抱かせる。
赤司も、私と同じ人間なんじゃないかって。

こんな不毛なだけの感情、抱きたくなかった。
憧れは憧れのまま、尊敬は尊敬のまま、そうやって違う世界の人なんだと思わせて欲しかった。

だめだ、こんなの報われないってわかっているのに、

今この瞬間、私は彼のことを、

好きになってしまった─────







「もし本当に君がこの環境に違和感を覚えるような人間だったなら────俺と一緒に来ないか」

ヘッドハンター赤司。恋愛感情はこれっぽちもないけど、かといって彼女を逃がす気もないと思います。当サイトの赤司君はなぜかいつも起業家。









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