32



「行ってきまーす!」
「あ、おい聖花、忘れ物!」
「んげ」
 
お兄ちゃんから受け取ったのは筆箱。あー、昨日課題をやったまま机の上に放置しちゃってたんだ。
 
「ったく、最後くらいしゃんとしろよな」
「逆にお兄ちゃんはなんで春休みなのにこんな時間から起きてるの」
「春休みだからだよ」
 
わけわかんない。どうせバスケか勉強なんだろうと思って、遅刻しそうだった私はそれ以上お兄ちゃんに取り合わず家を飛び出した。
 
「おはよー!」
 
昇降口で緑間に会う。走ってきたお陰で時間には余裕で間に合ったということだ。元気良く挨拶すると、緑間は私が靴を履き替えられるようすっとその場をどいてくれた。
 
「珍しいな、宮地がこの時間に来るのは」
「ちょっと昨日夜更かししちゃって」
「課題でもやっていたのか」
「そんなとこ」
 
2人並んで教室に向かう。その途中にある廊下の掲示板には、先週行われた最後の実力テストの上位者名簿が掲示されていた。
 
『1位 宮地聖花』
 
「…最後に1位を取ったな」
 
掲示を見て、緑間がそんなことを言う。
名簿が貼り出されたのは昨日の放課後。たまたま遅くまで教室に残っていた私はその結果を見て、廊下に誰もいなかったのを良いことにひとりガッツポーズをした。

そう、1年かかってしまったけど、私は遂に学年1位の結果を出すことができた。

「頑張った半分、運が良かった半分かな」

そのことを報告したら、お兄ちゃんは珍しく嬉しそうに笑ってくれた。「良かったな」って言って、頭を撫でてくれた。
これまでずっとずっと頑張ってきた私にとって、それが最高のご褒美だったことはもはや言うまでもない。
 
ただ、緑間の名前は今回も10位以内のところにある。ということは、相変わらず私達の間に差はそうないということ。慢心なんてしてられない。一晩喜んだあとは通常営業に戻り、また気を引き締めて頑張る毎日が始まるだけだ。
 
「1位はそう簡単に取れるものではない。…俺自身、お前より得点したことはないしな。驕る気持ちは確かに褒められたものではないが、自分の実力を認めること自体は悪いことじゃない」
「ふふふ、褒めてくれてるんだ」
 
あんまりにも回りくどいけど、これは要は"1位取れてすごーい!"ということ。引き締めていた気を一瞬緩めて、正直に賛辞をくれた緑間に「ありがとう」と礼を言う。
 
「……何もない私でも、少しは胸を張れるかな」
 
そうやって頑張って頑張って、いつか何かを掴める日が来たら、どんどん成長して変わっていく緑間や高尾の隣だって―――自信を持って歩けるような人になれるかな。
 
「何を言っている? お前に何もない…?」

すると、緑間は本気でわけがわからないといった顔で首を傾げる。

「努力を続けるということは、誰にでもできることではない」
「………」
「お前には努力を続ける熱意や信念がある。そしてその努力から生まれた確かな学力という結果もある。本当に何もない奴は、自分が何もないことにすら気づけないのだよ。幾つもの才能を持ち、しかしそれに満足しない貪欲さまでもを持つお前のことを、何もないなどとは俺は思わない」
 
まるで、そんなことは当たり前だと言うように。
1+1の答えを、授業中に聞かれたとでも言うように。
緑間は、不思議そうな顔すらして私にそう言ってくれた。

日頃誰かを認めたりなんてしない緑間の、嘘のない言葉。
それを聞いて、単純な私はずっと抱えていたこのコンプレックスが少しだけ軽くなるのを感じてしまった。
もちろん心に蔓延るこのモヤモヤとして気持ちが、急になくなるわけはない。そう言ってもらったからっていきなり自分に自信が持てるわけじゃないし、それでもどこかに劣等感は残ってる。

だけど。
 
「………緑間ってさぁ」
「?」
「……なんでもない、好きだよ」
 
この気持ちをうまく表現する言葉が見つからなくて、そんな適当な言い方で濁す。
多分、一番簡単な言葉で言えば"嬉しい"とか"ありがたい"とか、そういう感情なんだろう。でもなんだかそれだけでは足りないような気がして、悩んでみても結局適切な言葉が見つからなくて。むしろ雑な言葉になってしまったことは反省してるけど、でも、今はそれで許してほしい。

趣味の悪い冗談でも言われたかのような顔をした緑間は、教室に入るまで私のことを睨んでいた。
 
――――3月吉日、今日は終了式だ。
 
 

 
 
「来月から2年生かー」
 
なんの感慨もなさそうな言い方で高尾がのんびりと吐いた。終了式の日は午前中だけで終わり。簡単なHRで春休み中の課題と始業式の連絡だけ伝えられ、解散になった。
 
今日はこれから私の家で勉強会。春休みの課題をさっさとやっつけてバスケに打ち込みたい、という高尾の希望である。もちろんそれに嘘はないだろうけど、その前にうちにはお兄ちゃんという家庭教師がいるもんだから、それを体よく使ってやろうって魂胆が見え見えだった。
 
「聖花ー、2年からはうちの正式マネになってくれってー」

帰り道、高尾は何の前触れもなく私にそう言った。この時期は新入生を迎える準備やインターハイに向けた新体制作りとかでいろいろ忙しいんだそうだ。マネジメント面での人手が欲しいと、ここ最近は毎日のように嘆いている。

「え、無理だよ。私さつきちゃんやリコさんみたいなことできないもん」
「いや別にあんな特殊技能、全然マネの必須スキルとかじゃないから」
 
そりゃ私も皆の支えになれるならなりたいって思うけど……。
 
「私にはきっと青春全てをバスケに捧げることはできないよ。半端な仕事しかできないなら、身を引きます」
 
何度も言ったような気はするけど、私はお兄ちゃんを───そして今では隣の2人を介してバスケを好きでいるだけ。私自身が彼らのように人生を懸け、その想いの全てを尽くせる物に出会うまでは、きっと何に対しても私は私の満足できる力を出せないような気がする。そんな半端な覚悟で彼らの傍にいたって、迷惑なだけだ。
 
…そう感じさせるほどのものを、私はこの1年見せつけられてしまったから。
 
まぁ去年の夏合宿みたいな、感情が一切介入しない期間限定の家政婦役なら引き受けさせてもらいたい、とは思うけど。
 
「そこまで重く考える必要────」は無い、と言ってくれるつもりだったんだろう。でも高尾はそこで何かに気づいたように一旦言葉を止め、それから「気が変わったらいつでも歓迎するからな」とだけ言ってその後それについて言及することはなかった。
 
「おう入れ。しごかれる覚悟はできてるな」
「宮地さーん、今日はよろしくお願いしまーす!」
 
私の家に着き、玄関の扉を開いて迎え入れてくれたお兄ちゃんに対し、初めて来たくせに勝手知ったる様子で靴を脱ぐ高尾…と、その後から静かに丁寧について行く緑間。後ろから見てると2人の違いがあまりにも極端すぎてなかなか面白い。
 
「つかお前ら別にどっちもバカじゃねーだろ。頼まれたから引き受けたが家庭教師なんか要るのか?」
 
集まったのはお兄ちゃんの部屋。最初は私の部屋でやろうかと提案したんだけど、「聖花の部屋に男を入れてたまるか」というお兄ちゃんの無茶苦茶な抵抗にあった為こっちになった。
 
「要りますよー。真ちゃんと聖花はともかく、俺もう1年の勉強全部忘れてるんで」
「よーし留年してやり直してこい」
 
そんなお兄ちゃんの罵倒にもすっかり慣れっこな高尾は適当に笑って数学の教科書を取り出した。担当の先生によって課題の範囲は若干違うらしく、開かれたページは私達が指定された範囲と異なる部分だった。
 
「うちのクラスよりちょっと進度遅いんだね」
「数学の太田、無駄話多いんだよ〜。とりあえずここの範囲やっつけるから、聖花と真ちゃんは先やってて」
 
でも実際始まってみると、勉強全部忘れた、なんていう割に高尾は自力で問題を進めていた。それを見て安心したらしいお兄ちゃんも、時折こちらの様子を確認しつつ自分の入学前の課題をこなしていくのみ。
そうして沈黙が続くこと2時間。
 
「…そろそろ休憩したいっす」
 
そう言ったのは、やっぱり高尾だった。
 
「まだ2時間だろ」
「いやなんか…沈黙が重くて」
「勉強中の沈黙が軽くてどーすんだよ、沈めるぞ」
 
口論が始まっちゃったものだからその重い沈黙とやらもどこかへ飛んでいってしまった。緑間が小さく溜息をつくのと同時に私の集中も切れ、「くぁ〜っ」と伸びをしながら後ろに倒れ込む。
 
「…ったく、んじゃちょっと茶でも入れてこい」
 
一気にだれた空気はもはやどうしようもないと思ったのか、お兄ちゃんはまだ比較的元気そうだった緑間にそう言った。文句一つ言わずに緑間は「色々と必要な物はお借りします」とだけ言って部屋を出ていく。
 
「…いや、自分家で何後輩使ってんの!?」
 
緑間も緑間だ、キッチンの場所…はわかってもコップやらなんやらを探すには手間取るだろうに!
慌てて彼の後を追って私も部屋を出ていく。
 
案の定、キッチンでは緑間が困ったように立ち尽くしていた。
 
「コップはここ。麦茶はこっち。…ってあー、中身少ないなぁ…。仕方ない、アイスコーヒーも持って行こう」
 
冷蔵庫から冷やした麦茶と2Lペットボトルのアイスコーヒーを出す。緑間は私が指したところからコップを4つ取り出してくれた。
 
「ありがとう。私これ持ってくから先に部屋帰ってて大丈夫だよ」
「ああいや、俺が持って行こう。それから悪いが、その後御手洗を借りても────」
「ああ、それなら尚更こっちは私に任せて。お手洗いはさっき玄関入ってから通った廊下の右側だよ」
 
その時、緑間が何か言いたげな顔をしていたんだけど────どうせ気を遣って飲み物を持って行っていこうとしてくれてるんだろうと判断した私は、半ば強引に緑間の背を押してキッチンから追い出した。悪い、ともう一度律儀に謝って廊下の方へ行く緑間。気にしなくて良いのに、優しい奴だ。
 
トレイにコップを4つ乗せて、部屋に戻る。両手は塞がっているから肘を器用に使ってノブを押し下げようとした時──────
 
「兄貴の欲目みたいなこと言いたくはねーんだけど、高尾、お前聖花のこと好きだったんじゃねーの?」
 
─────そんなお兄ちゃんの声が聞こえて、思わず私は扉の前で全ての動きを止めてしまった。
 
私のこと好きだったんじゃねーの、って、……は?
高尾が? 私を? いやいやいやそんなまさか、だってあんなん友達としか思われてないのはっきりわかってたし、そんな誰か一人を特別に思うようなこと高尾に限って……………………………………いや、まじですか?
 
少なくとも聞き間違いでないことはわかっていたけど、私の頭は混乱し続けていた。あまりにもお兄ちゃんの問いは唐突すぎて(もちろん私が来る前から話していたのであろう2人にとっては何も唐突じゃないはずだけど)、私はその場に止まったまま部屋の中の声に耳をそばだてる。
どきどきと心臓が鳴っている。でもそれは期待とか、ましてや私も彼を意識しているからとかそんなんじゃなくて、単純な緊張のせい。

だって、私達の今の関係はずっと、友人としての情でしかないという"安心感"をベースにしてるって思っていたから。どれだけ一緒に過ごしても、どれだけの話をしても、私達は友情以外の感情を持ったりはしない。私が高尾を決して恋愛対象として見ないのと同じように、高尾だって私のことを恋愛対象には絶対見ない。

………と、思ってるんだけど………え、高尾は何て答えるのこれ………
 
「いや、別にそれはないっす」
 
って、ないんかーい!
下手に身構えてただけにずっこけそうになってしまった。と同時に、感じたのは安堵。
 
「あ、そりゃ人としてはめっちゃ好きっすよ。でも色恋とか下手にするよりずっと、今の関係でいる方が俺にとって楽しいんで。正直友達としての好きを越える気はないっすね」
 
どうやら彼も私と全く同意見だったらしい。だからここで人として好き、と言ってもらえたことは、単純にとても嬉しかった。ああ良かった、もう少しでとんでもない自惚れ野郎になってしまうところだった。
 
「それに──────」
 
でも、高尾の言葉はそこでは終わらなかった。まだ何か続きがあるのか、と私はずっと入室のタイミングを逸したまま盗み聞きを続ける。
 
「今は俺のことをどうこうするより、目の前の奴のことを見守ってたいんで」
 
目の前の奴を…見守る?
なんだろう、目の前の奴…って緑間かな。それとも私? いや高尾は友達多いからよくわかんないけど…。
それに見守るってなんだろう。仮に目の前の奴が私や緑間だとして、見守るって…うーん、文脈的に私や緑間に恋人ができるまではそれを見守ってやりたいみたいな親心…とか、そういう感じで言ってるのかな…?
 
「……クリスマスの件、俺はまだお前を恨んでるからな」
「まあまあ、まだ本人すら無自覚なうちくらい応援したげても良いじゃないっすか」
「俺は絶対認めねえって最初から言ってんだろ!」
 
………んん、クリスマス…?
 
「そこで何をしているのだ」
「ひいっ!」
 
なんだか身に覚えのあるような単語が聞こえたが、その意味を噛み砕くより先に後ろから緑間の声が聞こえてしまい、私の思考は一気に中断された。戻って来ていたことに気づかなかった私は突然声をかけられたことで情けない叫びを上げてしまう。
 
「…あ」
 
さすが空気読めない王。緑間の声と私の声、両方ともが部屋の中にはっきりと聞こえたのだろう、室内の会話は途切れ、不自然な沈黙が訪れてしまった。
 
「……はぁ………緑間ってほんと…緑間だよね…」
「何のことだ」
 
観念して部屋に入る(扉は緑間が気を利かせて開けてくれた)。お兄ちゃんは警戒するように、高尾は面白がるようにこっちを見ている。
 
「…今の、聞いてたか?」
「なに、聞かれたくない話してたの? 下ネタはお断りだよ!」
 
仕方ないので聞いてなかったふりをする。この2人にそんな芝居が通用するかはわからなかったけど、まぁ本当に聞かれたくないことだったんなら無理にでもここは乗ってうやむやにしてくるはず。
 
「……俺は下ネタは言わねえ」
「宮地さんそれは健全な男子高校生として問題があると思います!」
 
案の定、2人はそう言って即座に別の喧嘩を始めてしまった。唯一きょとんとしている緑間を座らせ、みんなの前にコップを置く。もう少し聞いていたかったんだけど、どうにも私には意味のわからない話になってきていたところだったし諦めよう、とこの話題は私の頭の中からも締め出すことにした。
 
「おら、それ一口飲んだらまた始めろ。今度は3時間は口利くなよ」
「ええー! 宮地さん、それは厳しいっす!! せめてその半分!」
「ざけんなよさっきより短いじゃねーか! お前らもう2年後には受験も終えて卒業してんだぞ、今のうちに勉強癖つけろやコラ!!」
 
お兄ちゃんに怒られぶつぶつと文句を言いながら教科書を再び開く高尾。今度は古典の教科書だった。現代語訳の宿題が出ている古典は、数学のように問題を解くのに筋道立てながら集中して進める必要がないこともあってか、高尾の調子もなんとなくさっきより軽い。
 
「俺も聖花のように大事にしてほしい…」
「お前みたいなんと聖花が同格になるわけねーだろ、バカが」
「私もお兄ちゃん大好きだよ!」
「え…今そういう流れでした…?」
「諦めろ、もうこいつのこれは今更だ」
 
口利くな、と言われたにも関わらず、それからはなんとなく喋りながらの時間が続いていく。元々寡黙な緑間は置いておいて、高尾が喋れば私も乗ってしまうし、そうするとツッコんでくれるのがお兄ちゃんしかいなくなるので、必然的に黙れない空間ができてしまうのだ。
そんなことをしていれば時間の経過に対して進捗が鈍いのは当然で、結局一段落つく頃には日もすっかり暮れて夕飯時になっていた。そろそろ外出していた母さんも帰ってくるだろう。
 
「夕飯食べてけば?」

帰り支度をする2人をのんびり見ながら、私はそう言った。でも高尾と緑間は同時に首を振る。

「や、それはさすがに悪いから帰るわ。また明日よろしくな〜」
「明日もくんのかよ」
 
お兄ちゃんは不機嫌そうに言ったけど、今度は私達3人で揃って首を振った。明日も会うのはそうだけど、最初から私の家に来るのは初日だけと決めていたのだ。
本当は全教科の宿題を片づける段取りを組んで、そこから苦手な範囲を教えてもらい最初に潰しておく…っていうのが今日の目標だったんだけど、まあ見事にそんなものは打ち砕かれたな、というのが高尾の言。ただ決めたことは仕方ないので、明日からは図書館で待ち合わせして3人だけでやる予定だ。
 
「いえ…さすがに連日お邪魔するのはご迷惑なので、明日からは図書館にでも…」

だというのに。

「図書館であんなぐだぐだする方が迷惑だろ。10時きっかりに来い」
 
……思わず、お兄ちゃんの顔を見上げてしまった。相変わらず不機嫌そうだったけど、でもそこに無理してたり気を遣ったりしてる雰囲気はない。というかお兄ちゃんは私達に気は遣わない。

つまり、お兄ちゃんは心から彼らを招いてくれている。
 
「………あ、あざす! お世話になります!」
「では明日…よろしくお願いします」
 
2人も驚いた様子で、でもそれをすぐに承諾して帰って行った。後に残された私はなおも間抜けな顔でお兄ちゃんを見つめる。
 
「…なんだよ」
「いや…意外すぎて……。絶対迷惑だと思ってたから……」
 
ぼそぼそと言う私に返ってきたのは大きな舌打ち。と、私の頭を撫でる大きな手のひら。
 
「お前の大事な友達なんだろ。それに俺も知らない仲じゃねーし」
 
ああ、お兄ちゃんほんとイケメン。ツンデレだからわかりにくいけど、私の大事な友達でありお兄ちゃんにとっては大事な後輩だから、って言いたいのが見え見えだ。
 
「お兄ちゃん」
「あ?」
「好き」
「知ってる」
 
その瞬間思わず不気味な笑い声をぶふふと漏らしてしまい、せっかくの告白(茶番)劇はまさかのお兄ちゃんの鉄拳で幕を下ろすというとんでもないバイオレスエンドに終わった。でも気にしない。痛くないから。
 
─────そしてその日の夜、私は久しぶりに夢を見た。
 
私はどこにでもいる、ごくごく平凡な女子高校生だった。どこにでもあるような家に住み、才能だって平々凡々。特筆すべきことのない私は、それでも幸福感を胸いっぱいに抱いて生きている。白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるなんてただの空想の中のことだとわかっているから、安いシングルサイズのベッドに身を横たえながら考えるのは、明日の勉強のこと。
 
…あれ、遠くから何か聞こえる。あれは…車のエンジン音? 
 
なんだろう、そう思ってベッドから身を起こした私は窓を開けて外を見る。誰が来ようが寝たふりなんかしてやらない。好奇心の赴くままに様子を窺っていると、やがてその物音の正体が見えてきた。
 
あれは………リヤカーだ。人を乗せたリヤカーが、こちらに向かって爆走している。
 
だんだんと近づいてくるリヤカー(よく見るとリヤカーを引いているのは自転車だった)を見た私はなぜだか早く自分の存在に気づいてほしいと思った。だからそのまま軽トラに向かって大きく身を乗り出す。
 
「!!」
 
と、勢い余って私の体は窓からするんと外に投げ出された。窓枠をつかむことも、もちろん体の重心を戻すこともできず、落ちていく私。
でも、私はそのまま地面にぶつかったりはしなかった。
 
さっきまであんなに遠くにいた軽トラ。その車両は今や私の真下にまでつけていて、荷台に乗っていた2人の男の子が私を受け止めてくれていたのだ。
 
「ったく、ほんとにお前後先考えないよな」
 
呆れたような顔をして溜息をつく1人。顔はぼやけていてよく見えないけど、私のことをよく知っているようなその口ぶりに、私は気づけば安心していた。
 
「だから窓から落ちるような羽目になるのだよ。運転手が間に合ったから良かったものの」
 
もう1人には小言を言われてしまった。でも、こちらも不思議と嫌な気持ちにはならない。その口調からは、自分でも驚くくらい明確な優しさが感じられた。
 
「俺が間に合わないわけねぇじゃん?」
 
次いで、運転席から楽しそうに笑っている男の人の声が聞こえた。軽妙なのに、どこか落ち着く響きだ。
 
そうして私を乗せたリヤカーは、再び発進する。
 
「ねぇ、これ─────」
 
どこへ行くの? と、聞きかけてやめた。
 
「どーした?」
「ううん、なんでもない」
 
この人達と行くところなら、どこだってきっと楽しいはず。それならむしろ知らずに向かって驚くくらいで、ちょうど良い。
 
荷台の上は風を切って気持ち良かった。
 
物語に出てくるお姫様なんかじゃなくて良い。いつかの夢で見ていた王子様なんていらない。
ただ私は、この王子様というにはあまりにもいろいろと足りていないこの人達といられることが、何よりも幸せだった。夢の中でさえ私を幸せいっぱいに満たしてくれる人達。そうしてそんな幸せな自分のことも、前より少し、好きになれそうだと思った。
 
 
 







 
 
 
 
「───────おい、聖花起きろ、朝だぞ」
「んぅ…でもやっぱり王子様見てみたい気はするよね……」
「んなもん来たら秒で追い返すわ」


Fin.



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