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「まずウジウジし過ぎ」
家に帰って、お兄ちゃんは私の部屋へ直行する。そこで私をベッドに座らせると、「ちょっと待ってろ」と言うなり部屋を出ていき────3分後に、温めたココアを持って戻ってきた。
「吐け」の一言に操られるように(もはや抵抗することにも疲れていたことと、お兄ちゃんは緑間と違って松ちゃんのことを知らないし、この問題にはどう頑張っても関われないという皮肉めいた安心感があったことのせい)、私は今日あったことを洗いざらい話した。…そして、それに対する最初のコメントが冒頭のそれである。
「なんかやたら自分のこと責めたがってるけど、お前別に悪くねーから。悪くねーのにウジウジしてんの見るとほんと殴りたくなるから今すぐやめること。それからそんな地味すぎる嫌がらせ受けてたんなら早く俺に話せっつーの。…ったくマジでいっぺん轢くぞ」
罵倒のオンパレードにも、この時ばかりは言い返せない。俯く私の様子を見て、お兄ちゃんは大きな溜息をついた。
「…だから、お前は悪くねーんだって。まぁ緑間への言い方は確かに棘あったんだろうけど、お前は十分反省してるし、その上での謝罪を理解できないほどあいつもバカじゃない。度を超えた自責はただの卑屈だ」
「………でも、松ちゃんは」
「良いか、お前は根本的に勘違いしてる」
苛立った様子を隠そうともせず、お兄ちゃんは舌打ちをして私の言葉を遮った。
「お前が松芝ってやつを傷つけたんじゃない、そいつがお前を否定して、傷つけたんだよ」
「…………」
「人間の数だけ価値観がある、こんだけ人間がいればそんだけ価値観も存在する。成程お前の生き方が誰かにとって不快ってこともあるんだろうよ。それを不快だと思うことは責められねえし、お前のことをそいつが嫌うこと自体は別に悪いことじゃねえ」
一旦松ちゃんの気持ちに理解を示してから、「でも、」とお兄ちゃんの言葉は続く。
「それでお前を攻撃することはまた別問題だ。お前の持ち物を隠したり捨てたり、お前の人格や人生を否定する資格はそいつにはねえ」
…確かに、松ちゃんのやったことは良くないことかもしれない。
でも、私のしたことは?
私のしてることも同じように良くないことだとしたら、私が彼女を責めることはできない。
「……あのなぁ、なんかまだ不満そうだから言うけど」
そんな心の中の小さな反論は、すっかり見抜かれていたらしい。
「お前のしたこと…つーか生き方は、誰かに対する害意があるか? 例えば自分より成績が低い奴を見下したり、努力してる人間を嘲笑ったりしたことがあるか?」
「あるわけないよ」
「良いか、お前の生き方はお前の中だけで完結してる。誰かを責めて良いのは、責めたい対象の相手が自分か…あるいはまた他の誰かをその手で害してる時だけだ」
松ちゃんをバカにするとかして、直接彼女の心を傷つけたわけじゃない。
ただ彼女は私の生き方に反感を持っただけ。
私は彼女にも、彼女以外の人にも誰かを見下すような発言をしたことはない。
ただ彼女は私の出す成績という結果に納得できなかっただけ。
それは、私が彼女を害したわけじゃない。
それはただ、私と彼女の"価値観"が違っただけなのだとお兄ちゃんは言う。
片やたゆまぬ努力を重ねてもそれを見せびらかさないことこそが正しいと思う人がいて、片や努力というものは客観的に見て明らかでないと"していないことと同じ"と思う人がいる。その二者がわかりあえないのは、ある意味仕方ないことなのだと。
「努力をする、だがその姿勢は他者にひけらかさない────誰にも迷惑をかけず、誰をも巻き込まず、一人で完結した生き方をしてるお前にたとえ誰かが反感を持ったとしても、そいつがして良いことはせいぜい距離を取るか、勝手に嫌悪することだけなんだよ。ましてや嫌った相手の心の内も知ろうとせずに、その疎ましい表層だけを否定して攻撃するなんて以ての外だ」
努力もせずに何でも手に入れた。
お兄ちゃんのコネで男子に取り入った。
────松ちゃんは、私をそう非難した。
私のことを知らず、知ろうともせず、知らせようとした時すらそれを拒み、否定した。
それは、私にとって明白な"害"になるんだと。
「そいつがお前を嫌うことは諦めろ。却って歩み寄る方がそいつにとって惨い仕打ちになる可能性もある。ただ、そいつがお前にしたことは別に理解しなくて良いし、お前がそいつを傷つけたと自分を責める必要もない。お前は、何も悪くない」
「………そう、なのかなあ」
まぁ、自分の無意識な生き方ですら誰かにとっての凶器になるって視点自体は立派なもんだけどな、とお兄ちゃんは最後に付け足した。
ほんとに、そうなのかなぁ。
私は、私の生き方を変えなくても、良いのかなぁ。
「俺はお前が努力してることを誰よりも知ってる。そして誰よりも努力してることを誰にも言わないからこそ、誰のことも見下したりしないことも知ってる」
お兄ちゃんは私の頭をまた乱暴に撫でた。髪がぐしゃぐしゃになってもお構いなし。視界が髪で隠れるくらい、撫でてくれた。
「だから、自分を嫌う誰かの為にお前までが自分の人生を否定するな。さっきも言ったろ、価値観は人の数だけあるって。自分のことが嫌いな人間だってたくさんいるのに、いちいちそれに合わせてたら自分がわかんなくなるぞ。多分これからも、お前の生き方が気にくわないって奴はたくさん出てくる。その度に俺の言葉をきちんと思い出せ。自分の生き方は自分で守るんだ、良いな」
「…………自分の生き方は……自分で…」
自分がわかんなくなる、それは、怖いことだと思う。
今だって自分のやりたいことがわからないのに。
人に努力をひけらかしたくない、そう思う自分を殺して、松ちゃんに合わせて生き方を変えてしまったら、誰よりもまず私自身が私のことを嫌いになってしまいそうだ。
「大丈夫。お前の今の生き方、俺は好きだから。お前のことが嫌いな奴以上に、お前のことが好きな奴がいるから。自信持て、な?」
思わず涙がほろりと零れた。
傷ついた心が癒されたとか、そんなんじゃない。ただただ、無条件に自分を愛してくれる人の言葉が、とても温かく胸の中いっぱいに広がったのだ。
「……松ちゃんのことも、こうやって大丈夫って認めてくれる人、いるかなあ………」
お兄ちゃんはああ言うけど、私はやっぱり松ちゃんのことを責められない。
高校に入って、急に成績が落ちて、頑張っても結局ついて行けなくて………それは私にだって十分起こりえたことだったし、もし私がそうなった時、やっぱり上位の人を羨ましいと思わずにはいられなかったと思うから。
「……………いるよ、きっと」
松ちゃんのことなんて何も知らないお兄ちゃんは、私を慰める為だけにそんなことを言った。
「………そうだと良いなぁ…」
傲慢なのはわかってる。
わかってるけど、そう願わずにはいられなかった。
人はきっと、自分を認めてくれる誰かがいてくれないと、とても寂しくて辛い気持ちになってしまうと思うのだ。今の私のように。
「……ほら、一通り泣いたら次は緑間と仲直りする為の言葉考えとけよ。お前テンパると全然喋れなくなるんだから」
そうだ、松ちゃんのことだけじゃない。緑間のことを思い出すと、救われた気持ちがまた沈み込むみたい。
「うっ…おっしゃる通りで……」
「さっき高尾がメール寄越して来たぞ、今日の部活中の真ちゃんの様子がおかしかった、聖花と揉めたらしい、って」
高尾にまでご迷惑をおかけして…というかそんなことまでお兄ちゃんにいちいち報告入れるなんてまるで幼稚園や小学校の先生みたいだ…。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「あ?」
「こんな…一人に嫌われたとか、一人と喧嘩したとか、そんな小さいことでこんなに悩んでる私って…幼いのかな」
きっとこんなこと、生きていたらたくさんある。そんなこと、頭ではわかってる。
いちいち人に嫌われたからってウジウジするなんて確かにおかしいのかもしれない。私は特別心が弱い子なのかもしれない。
そう思って訊いてみたら、お兄ちゃんはふんと不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「高校生なんてそんなもんだよ。狭い世界の中でやれ誰に嫌われた、誰に何を言っちゃった、っていちいち立ち止まって迷うもんだろ。今のうちにぐだぐだ悩んどいて、大人になった時にちょっとしたことじゃ動じないような強い奴になれれば良いじゃねーか。今はそうやってぴーぴー泣いとけ、それも大事な勉強だ」
…自分だって高校生のくせに、悟ったようなことを言われた。お兄ちゃんもさすがに背伸びしすぎたことを言ったと思ったのか、とってつけたように「…と、俺は思いながら今生きてる」って言い足した。
…そうか、高校生なんてこんなもんか。
そう思ったら、少しは心が楽になった。
明日はちゃんと、緑間に謝ろう。高尾にも謝らなきゃいけないかもしれない。
松ちゃんとは…きっともう話せないけど、きちんと前を向いて生きていこう。
決意を新たに、いれてもらったココアをがぶ飲みする。その様子を見たお兄ちゃんはあからさまに引いたような顔をしてたけど、でもその雰囲気は、とても優しかった。
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