[本日の予定:流れるような美しい黒髪。優しく涼しげな目。色っぽい泣きぼくろと儚げな薄い唇。どこかで見た記憶のあるその精霊は、なぜだか今日、今更になって私の前に現れるらしい。場所は使われていない教科準備室のような狭いところだった。]
[進捗:000%]

8話




朝から憂鬱な日だった。春の終わりと共に忍び寄ってきていた梅雨の匂いと私の感情がシンクロでもしているかのようだった。皮肉なのが、そんな季節なのに今日に限ってはよく晴れているというところだ。

昨日視た今日のビジョンには、信じられないものが映っていた。

─────私は、またあの精霊と出会うことになる。

彼が陽泉を編入先に選んだこと自体はどうでも良い。困るのは、学年も性別も違うはずの彼がまたこの無駄に広い学校の中でよりによって私と再会するような羽目になるというただそれだけである。

しかも場所が薄暗い教科準備室だなんて。何をどうしたらそんな所へ行くことになるのかなんてわからない。だが、何度も試みて一度も私は未来を変えられた経験がない、ということは何かがあって今日そのわけのわからない場所へ行くことになることだけは決まっている。

なんだか、新学期が始まってから重い気持ちで登校する頻度が増えた気がする。既に何度目か知れない溜息をつきながら教室に入ると、唯一の癒しがぼけっと窓の外を眺めている姿が目に入った。

「おはよう」
「おう、なんだ元気ねえな。椎茸でも生やしそうな湿気り具合だわ」

言ってろ、と唇を突き出して反抗し、福井の後ろの自席につく。

「なんかあったのか?」
「悪い夢見た」
「あー、ドンマイ。どんな夢よ」
「もう忘れたよ。なんか怖い人が出てきたような気がする」
「夢ってそういうとこあるからアレだよな。後味の悪さだけ残るっつーか」
「そうそう」

うんうんと頷いて、それから福井はおもむろに制服のポケットに手を突っ込んだ。何事かと見ていると、取り出してみせたのは小さな飴玉。まるでイラストに出てくるような、赤い包みの両端をくるくると捻った丸い形の飴だった。

「そんな冬子にこれをやろう」
「わ、可愛いキャンディ。くれるの?」
「おまじないみたいなもんだよ。怖い夢は全部閉じ込めて食っちまえ、ってな」

意外とロマンチックなことを言うものだ。ロマンチックというか、ファンタジックというか。

でも、そういう考え方は嫌いじゃない。私は素直にそのおまじないを受け取った。

「ありがとう…でもなんでこんな可愛いの、福井が持ってるの?」
「対紫原用兵器。ただ今朝は使わずに済んだから残ってたんだ」
「あー…お疲れ」

彼の表情を見るに、今のところ紫原攻略はうまくいっているらしい。IHの方も地区予選は今のところ順調…というか予選については全て通過するのが前提で、むしろ夏休みに入ってからの本戦対策の方を意識し始めているのだそうだ。無事出場が決まれば大阪へ行くのだ、とも聞かされている。

元々バスケが好きではないので、ドキドキしながら彼らの勝敗を気にする…ということこそなかったが、それでも福井が最後まで楽しくプレーできますようにと願わずにはいられなかった。

貰った飴は、甘いいちごミルクの味だった。










結局、放課後になるまでいつもと違う出来事は起こらなかった。氷室と会うビジョンの中ではまだ太陽が高い位置にあったような気がしたので、正直昼休みあたりでイベントが発生するのではないかと思っていたのだが、この季節じゃ外の明るさなんてなんの参考にもならないということらしい。確かに放課後になっても真昼と同じくらい日差しは強かった。

どうする、ひょっとして今日はこのまま帰れるのだろうか。いやしかしこの妙ちきりんな力を手に入れてからここ十数年、一度も未来が外れたことなどなかった。今日だってどうせどこかで「水影さん、ちょっと良い?」────ほらぁ、来たぁ。

私を呼び止めたのは、担任の化学教師だった。

「申し訳ないんだけど、このレポートをA棟の化学教科準備室に置いてきてもらえないかしら? 私、この後緊急で理科教科担当の会議が入っちゃって準備室に寄る時間すらないのよ」

なるほど、氷室と会うあの部屋は化学準備室だったか…。
覚悟なら日中に決めた。にっこり笑ってレポートの束を受け取り、ホームルームクラスの並ぶ棟からひとつ離れた特別教室棟(A棟)へと向かう。

さて、次に氷室と会った時、どんな顔をしたら良いだろう。というか彼はそもそも、私のことを覚えているだろうか。昨日視た限りでは彼となんらかの会話をすることにはなりそうだが、彼が私のことを覚えていようがいまいが、あんな密室で2人きりの状況になったら会話をしない方が不自然というもの。

ああ嫌だ、会う前から劣等感がちくちくと胸を刺す。できれば私のことなんて覚えていなくて、当たり障りのない挨拶だけしてさっさと退散したいものだ。

建て付けの悪い化学準備室の扉を、足先で器用に開けてみせる。教室の中は既に電気がついており、そして─────

いた、桜の精霊。

氷室辰也は、数ヶ月前に初めて会った時と変わらない美しさでそこに立っていた。

目が合った瞬間、彼の表情が驚きに満ちる。小さな研究椅子に座っていたところをがたんと勢いよく立ち上がり、その形の良い唇を嬉しそうに持ち上げた。

「水影さん!」

ばっちり名前まで覚えられていたようだ。レポートを抱えながら微笑む私の顔の、なんと情けないことか。

「…久しぶり、氷室君」
「覚えていてくれたんですね、嬉しいです…っと、すみません、手伝いますね」
「良いよ、あとはそこに落とすだけだから」

氷室がこちらに駆け寄るより先に、机の上にレポートをどさどさと置く。

「ここに通うことになったんだね」
「はい。それが決まった時からあなたにもう一度お会いして、改めてご挨拶をしたいとずっと思っていたのですが…」
「学年も違うし生徒も多いし、流石に特定の人と会うのは難しいよね」
「ええ、だから今日会えたのが奇跡のようです」
「大袈裟だな」

そんなことないですよ、と微笑む氷室。最初こそ少しの感情の乱れはあったが、彼の言動は全てが洗練されており、優雅で、流麗だった。

「ところで、なんでこんなところにいるの?」
「ああ…実は担任が化学の山村先生なのですが、明日のクラス配属の前に色々と説明したいからここへ来るようにと指示されて…先生を待っていたところなんです」

成程、と納得したところで、ひとつ彼の発言が引っかかる。
担任が化学の山村先生…ということは、だ。

思い出したのは、先程うちのクラス担任が発した言葉。「この後緊急で理科教科担当の会議が入っちゃって」─────つまり、山村先生もその会議に参加しているということになる。

「…今、理科担当の先生はみんな緊急会議に入ってるから、もう少し待たされることになると思う」

氷室は形の良い眉を少しだけ顰め、「そうですか…ありがとうございます」と礼儀正しく返した。

「ここで待つ? 山村先生ならうるさいことは言わないから、1時間くらいどこかほっつき歩いてから戻るのでも大丈夫とは思うけど」
「いえ、下手に慣れないところをうろついて迷っても困りますし、待ちます」

真面目なことだ、と感心しながら立ち去りかけて、ふと足を止めた。

待って、これ、私はここで去って良いのか?
個人的には、さっさとどこかへ行きたい。可能性として、氷室の方も私とこれ以上一緒にいることを望んでいない場合もある。

ただ、一般論として転校初日でそれこそ校舎内も自由に歩けないような後輩をひとり残してしまうのは、些か冷たいのではなかろうか? 慣れない地で心細い…と思っているかはともかく、身動きのとれない状態でいつ戻って来るともしれない相手を待ち続けるのはなかなかの苦痛が伴うことが考えられる。私は別にひとりが苦ではないし、それこそいつ戻って来るのかわからないなら本でも読んでぼけっと過ごすのだが…生憎、私は自分の感性が世間一般のものと同じとは思っていない。

「……待ってる間に話し相手、いる?」

判断に迷った私は、結局結論を彼に委ねることにした。

返ってきたのは、彼の嬉しそうな笑顔だった。

「水影さんさえよろしければ、ぜひ」
「…私なんかじゃ暇潰しにもならないと思うけど、むしろそれでも良ければ」

初対面の時と相変わらず、彼の言葉はするすると人の心の隙間に入り込んでくるようだった。苦手だなぁと無遠慮に思いながら、私は机を挟んだ彼の向かい側の椅子に腰掛ける。

「氷室君はどこから来たの?」
「ロスです」
「アメリカ?」
「はい、小さい頃から親の仕事の都合で」
「帰国子女か、じゃあ余計にこっちの生活は慣れなくて大変じゃない?」
「ええ、未だに買い物も満足にできません」

はにかむように笑う氷室からは、買い物ひとつできない姿なんて想像できなかった。長くアメリカにいたという割には日本語(しかもある程度砕けているとはいえ、日本人でさえ難しいとぼやく敬語)にも一切不自然なところがないのだ。高スペック人間とはこういう人のことを言うんだな、なんて低スペック丸出しな感想を抱きながら整った彼の顔をぼんやり見つめる。

「水影さんは、ずっと秋田に?」
「ああ…ううん、秋田に来たのは去年。それまでは東京にいたんだ」
「へえ…東京なら俺も何度か旅行に行ったことがありますよ。雷門とか、銀座とか、箱根とか」
「箱根は神奈川」

あれ? と首を傾げる氷室。その仕草が少しだけ可愛く思えて、つい笑ってしまう。

「私は逆にアメリカに行ったことないなぁ。ロスって確か、ディズニーもUSJ…アメリカじゃジャパンじゃないか、USH? もあるんだよね?」
「ありますよ」
「東京と大阪がひとまとめになった街かぁ…………」

人がごった返していそうだ、と考えただけで吐き気がする。そんな私の様子を見て何かを察したか、今度は氷室が声を殺して笑っていた。

そんな彼の顔を見ているうちに、だんだんと私の中で彼への印象が変わってきていることを感じた。
浮世離れした精霊かと思っていたが、意外と表情がころころと変わるし発言も地に足ついている。消えてしまいそうに儚いのはどうやらその容姿だけのことらしい。会話の節々から意思の強さを感じる。

だからといって苦手意識が払拭されるかと言われればそうではないのだが、少なくともこの時間を夢と混同することはなさそうだ、と思った。

「お休みの時とか、暇な時は何をしてるの?」
「そうですね…バスケが大好きなので、よくストリートバスケに通ってました」

…なんというか、そうだな、うん…。
…こんなことなら、浮世離れした精霊であってほしかった。

「じゃあ、もしかして陽泉を選んだのもバスケで?」
「そうですね…確かにそれが一番大きい理由です」
「そうなんだ。うちの高校強いもんね、来月もIHで大阪行きがほぼ確定してるし」
「ええ、それに合わせて一度試合観戦に行こうかと思っていて」
「おお…熱心だ」
「とはいっても、もちろん観光も兼ねてるんですが」

どうして私の周りはこう、バスケをやる人ばかりなんだろう。バスケ自体に恨みはないが、こうなるとむしろ私の方がバスケに恨まれている気がする。

「楽しんできてね。それで冬のWCの時にはぜひ選手として出場してよ」
「努力します、良い報告ができるように」

驕るタイプにはとても見えない彼の満更でもない様子を見るに、これは結構な実力者なのかもしれない。
体格も良いし、服の上からでもよく鍛えられているのがわかる。それに机の上に置かれた手はボールハンドリングに長けているだろうと容易に想像できるほど大きかった。成程、バスケ選手向きだ。

「水影さん…?」
「言われてみれば立派なスポーツ選手の体つきだなって。ごめん、不躾にじろじろ見てしまった」
「いえ、ただそんな風に言ってもらえるのはちょっと照れますね」
「またまた、言われ慣れてるんじゃないの?」
「そんなことないですよ、アメリカじゃもっと大きな選手はたくさんいますから」
「そういうものか…。でも、大きいだけが能力じゃないしね」

─────その瞬間の氷室の顔を、私は忘れない。

なんだろう、安易な表現だけど、獲物を狩る肉食動物のような目と言えば良いのだろうか。口角は穏やかに上がったままだったけど、射抜かれるような視線に一瞬どきりとしてしまった。何か鋭いものを内包したような、張り詰めた空気。それは経験したことがないけど、殺気と呼んで良いのだろうか、なんて想像させるほどのある種の痛みを伴うものだった。

大きいだけが能力じゃない。
目に見えるステータスだけが全てじゃない。

彼の視線は、表情は、そんな隠された爪をちらりと覗かせているようだった。

「水影さんは、何かスポーツをされているんですか?」
「してないよ、何も」
「そうでしたか。詳しそうに見えたので、てっきり何かされているのかと」
「ああ、いや…」

マネージャーをしていたことがあるので、とは言えなかった。

「…友達が、ここのバスケ部にいるから」
「そうなんですね、何という方なんですか?」
「福井健介。副キャプテンだから、バスケ部に入るなら話す機会もあると思うよ、良い人だし困った時は頼ってみて」
「福井さんですね…ありがとうございます、心強いです」

氷室の表情は既に柔和な紳士のものに戻っていた。だというのに私の心臓の脈拍は未だに若干速い。

だから、その時準備室の扉が開いてくれたことに、私は心から安堵した。

「待たせてごめんよ、氷室君…と、君は?」

山村先生は初老の男性だった。小さな丸眼鏡をかけて、長い白衣を身に纏い、息を切らしながら教室に入ってくる。

「3年の水影です。斎藤先生に頼まれてレポートを置きに来ていました、お邪魔してすみません」
「ああいや、氷室君がひとりで退屈してなかったなら良かったよ、ご苦労様。これから私は彼にオリエンテーションをする予定なんだけど、君も良かったら一緒にコーヒー飲んでく?」
「いえ…私はここで失礼します。またね、氷室君」
「ありがとうございました、水影さん」

氷室の笑顔に見送られ、準備室を後にする。

彼のことは苦手だ。
人を簡単に褒めたり、性格に合わせた対応を的確にしてくることですぐに心の中に入り込んでくる。きっとどんな人ともうまく関係を作り、人望を集めるんだろう。私には何一つ備わっていない力だ。他人を受け入れるより疎むことの方が多く、受け入れられるより疎まれることの方が多い私にとって、誰とでもうまくやっていくという性格は異質かつ脅威的なものでしかなかった。
誰とでもうまくやるなんて不可能だ。ああいう外面の良い人間は、内心で何を考えているかわかったものではない。関わるだけ損をするのがオチだ。

だというのに私は、彼のさっきの鋭い視線が忘れられずにいる。できるだけああいう(私にとって)異質な存在とは関わりたくないのに、そう思うと同時にあの表情が気になってしまっている。

それがまた怖いなぁと、単純に思う。
どちらにせよ、もう今度こそ彼には会いたくない。色んな意味で、あまり思考を掻き回されたくなかった。



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