51話




「…そんなに泣く前に僕のこと呼んでください」
「だってその時テツヤ、絶対練習中だったでしょ…」
「終わり次第行きます」
「やだよ、そんな本命男に泣かされて間男に縋りつくみたいなシチュエーション…」
「それは僕に対しても結構失礼だと思います」

季節は巡り、再び春を迎えた。

なかなか予定が合わず3ヶ月以上会えずにいた私とテツヤは、久々にいつものマジバで報告会を開いていた。そこで、WCの時自分の情緒が大崩壊した話を聞かせると、すかさずテツヤのお説教タイムが始まってしまい、今に至る。
ちなみに誠凛はというと、火神と木吉の抜けた穴を結局埋めきれず、WCの出場自体が叶わなかったそうだ(ちなみに優勝は言わずもがな洛山だった)。そのため誠凛の選手も、めぼしい学校の試合は観戦しつつ、それ以外の日程や時間帯は通常通り練習を行っていたらしい。

悲しい時に頼って良いと言ってくれる人がいるのはありがたかったが、あの時私は初めて"ひとりになりたい"と思った。
誰かの存在によってこんなにも心を乱されるというのなら、いっそ誰もいない世界に行きたいと。

だからテツヤのことは呼ばなかった。間男がどうとか、練習がどうとか、本当はそんなことはあまり考えていなかった。ただただ、私はひとりで泣いていたかった。

「思ったより重症でしたね」
「本当だよ…。泣くことこそもうないけど、なんかあれからすごく会いたくてしょうがないんだよね。もう衝動が理性ぶっ壊して口からまろび出そう」
「会いたいなら会えば良いと思います、って意見は変わりませんけど、衝動が口から出てくるのはちょっと怖いのでやめてください」
「冷静に拾ってくれてありがとうね…」

1年前、連絡先を全て削除した上で携帯を替えてしまって良かったと思った。
そうでもしなければあの日、私は自分との約束を破って氷室に電話をかけていたかもしれない。

「良いじゃないですか、あの時は黙って出て行ってごめんなさいって素直に言えば。その上で好きですってちゃんと言えば」
「簡単に言うけどさ、もう私完全に氷室君がどこにいるかわかんなくなっちゃったからね」

そう、時は4月。
氷室達はとっくに卒業して、新たな道を歩み始めている頃だった。
秋田にいるのか、そもそも日本にいるのかすらわからない。アメリカの大学に進学する可能性だって、彼の場合は十分にありえた。

「わかりませんよ、意外とその辺歩いてたりするかもしれないじゃないですか」
「そんな天文学的に低い確率のこと言われても…」

マジバの机に頬杖をついて溜息をつくことしかできない私の前で、高校3年生になったテツヤは良い意味でずっと変わらない無表情を貫いている。どうでも良いが食事量はもう少し増やした方が良いと思った。

「そっちはどう? 新入部員、来てる?」
「今のところ5人ですね。それですら一昨年の"WC優勝"の評判が効いてるだけって感じですし、その中心だったメンバーがもう他に誰もいないとなると…これ以上はどうなることか…」
「去年は誠凛、結構厳しい局面が続いたもんなあ…。でもルーキーの中に、またとんでもない子がいるかもしれないよね」
「はい。僕もそう信じてます。今年こそはきっとまた返り咲いてみせますよ」

…いつ見ても眩しい子だ。
自分は影だ、なんて言っているけど、影は光があるからこそ輝くもの。彼がいるところにはいつも、強い強い光もまた存在しているのだ。

未来が視える私の隣にいてなお、未来の不確実性を誰よりも信じていた子。
今同じ未来がわからない身となって改めて、彼の言葉に込められた覚悟の重みを思い知る。

「だから冬子さんも、きっとまた氷室さんと会ってください」
「うん…じゃあもし本当に会えたらその時こそちゃんと全部言うね…」
「約束ですからね」

空になったトレーを私の分まで処分してくれたテツヤは「ほら、帰りますよ」と足の重い私に声を掛ける。

「はあ…せっかくそこそこ成長してたと思ったのに、なんかまた改めて全部ゼロに戻っちゃった気分…」

WCから既に3ヶ月以上経っている。なのに私の心はまだ未練にまみれていて、むしろ去る前より強くその恋慕の情を主張してきていた。

「…大丈夫ですよ」

だというのに、テツヤは明るくそう言った。

「冬子さんは確実に変わってます。去年までの冬子さんだったら、"もしもう一度氷室さんに会えたら言えなかったことを言う"なんて、絶対に言ってくれませんでしたから。冬子さんはもう、普通に希望に満ちた未来を描いて、普通に未来を信じて、泣いたり笑ったりしながら…普通に、生きてますから」

ふと、自分の動きが止まる。
…確かに、その通りかもしれない。

恋心があまりに私を乱すものだから、全く実感を持てていなかった。
あまりに自然に"次会えたら"なんて言葉を受け入れすぎてしまったものだから、全く違和感を覚えなかった。

「それに、気づいてないかもしれないですけど…冬子さん、去年より格段にネガティブなことを言う回数が減ってますよ」

ひとりになりたいと思ったのは、それだけ誰かが周りにいる環境が私にとって当たり前になったから。
新入部員の中に希望を持たせてくれる子がいるかも、なんて言えたのは、それだけ私が未来の明るさを信じられるようになったから。

私が気づいていないところで少しずつ、あの頃の"私は特別でひとりぼっち"だと被害者ぶっていた私は遠ざかっていたと────そう、思って良いのだろうか。

「私………変われてる?」
「はい」

自信を持った声で、背中を押された。

「私が好きな私に、近づけてる?」
「はい」

もう一度、優しい肯定。

「氷室君に未練タラッタラだけど、大丈夫かな」
「よくわかりませんが、あんな別れ方をしたら未練がましくなる方が普通だと思うので…多分、大丈夫だと思います」

"普通"を渇望していた私を気遣ってか、今日の彼からはよく"普通"という単語が出てくる。
そしてそれに、確かに安心している自分もいた。

「……そっ、かあ…」
「なので氷室さんに会った時には遠慮なく告白してください。それから福井さんには早く連絡してあげてください」
「ええ…感傷に浸る間もなく畳み込んでくる…」

私は、変われてるのだろうか。
まだ自分ではあまりピンと来ないのだが…福井に連絡することが許されるくらいには、ちゃんと自分のことを見つめられるようになっただろうか。

「それから、会った時から思ってたんですけど」

いつもの通り、駅前までテツヤを送ったその別れ際に、彼は自分の首元をとんとんと指さした。

「そのペンダント、よくお似合いです」
「あっ…」

ありがとう、そう言おうと思って一瞬自分の首元に目を落とした瞬間、テツヤはもう人混みの中に紛れてしまっていた。視線の先にあったのは、水色の菱形のストーンがついた、ペンダント。

「…ありがとう」

言う先がなくなったのでとりあえずお礼を宙に放っておきながら、私は大学の方へと足を向けた。今日は土曜日、テツヤから練習後に少し話そうと誘われたので家を出てきたは良かったが、本来なら月曜日までの課題を2つほど処理しなければならない日だった。とはいえそこまで難しいものでもないので、家を出たついでに学校で済ませそのまま提出しようと思い、通学路をのんびりと歩く。

そうだな、テツヤにあれだけ言われてしまった以上、福井には本当にそろそろ連絡をしてみても良いかもしれない。その上でまだ私が椎茸人間だと思われたなら、きっと福井は正直に「出直して来い」と言ってくれるはずだ。
氷室は…もうもしかしたら直接会うことは二度とないかもしれない。でも、きっと彼はバスケを続けるのだろうから、その界隈を追っていればいつか間接的に見られる時が来るかもしれない。その時こそ泣かずに最初から最後まで見守っていられるよう、きちんと自律神経を整えておかなければ。

そんなことを考えながら、人気のない大学の門を潜る。
図書館へ続く道には、並木と呼ぶにはとても短い桜の木が道を挟んで対称となるように何本か植えられていた。
ああ、今年も綺麗に咲いている。

会いたいな、桜の精に。

儚くて、切なくなる風景にぎゅっと心臓を掴まれながらも、私は歩を緩めない。

この桜も、もうすぐ散ってしまう。あんなに淡く控えめに乗せていた薄紅を、青々しい緑に染めていってしまう。
別に夏の景色が嫌いなわけではないけれど、あまりに桜の命は短すぎるから。

だから、きっと私は毎回その刹那に思い出すのだろう。
2年前の、あの出会いのことを。

ざあっと、その時一際強い風が吹いた。
ああ、そうだった。あの時も確かこんな強い風が吹いて、思わず目を瞑ってしまって…。
髪を押さえながら目を開けたら、そこには目を疑うような美人が立って────立って────。





立って、いる。





桜の精が。





記憶の中の姿じゃない、今、目の前に、一人の男性が────同じように驚いた顔をして、立っていた。





「水影、さん…?」





彼は、何度も夢に見た幻と同じ姿格好で呆然と私を見つめていた。
風が吹いたタイミングで図書館からちょうど出てきたところだったらしい。自動ドアがいつまでも閉められず、閉じようとしてはすぐセンサーに引っ掛かり開くという忙しない動作を繰り返していた。





「氷室君…なの…?」





艶やかな黒髪。片目は隠れているが、見えている方の瞳はきらきらと春の陽光にきらめいている。色っぽいなきぼくろに、筋の通った鼻。薄いがとても形の整った唇。
全部全部、記憶の中の彼と同じだった。

同じだったのは姿かたちだけじゃない。思わぬところに人間がいた、という素直な驚きが出ているその表情まで、あの時と全く同じもの。
違うところといえば、服装くらい。あの時はパリッとした白いワイシャツに黒いスラックスを履いていたが、今はラフな白い無地のTシャツにデニムを履いている。

…夢を、見ているのだろうか?

「水影さん…」

それか、脳が勝手に幻でも創り出してしまったのだろうか。それほどまで病んでいるのだろうか、私は。

「水影さん」

そりゃあ会いたいとはずっと思っていた。でも、実体のない幻を見せられたところで、私の気持ちなんて満たされるわけが────

「水影さん!」

彼は手に持っていた鞄をどさっと地面に落とすと、真っ先に私に駆け寄ってきた。
そして、いつかの秋の日と同じように、強く強く私を抱きしめた。

────触れ、られる?

「会いたかったです…ずっと…会いたかった…!」

鍛えられた高身長の体に包まれて、私はまた息ができなくなる。しかし今度は苦しいと背中を叩いてみても、離してくれる様子はなかった。なんとか顔の向きを変えて呼吸だけはできるようになったところで、改めて目の前の非現実的といって余りある現実を直視する。

氷室が────ここに、いる。
なぜ?
これは本当に、本物なの?
夢なら早く覚めてほしい、起きた時どれだけ絶望するかなんて、考えたくない。
それともこれが夢だというなのら、もう二度と覚めなくて良い────。

「どうして黙っていなくなったりしたんですか…。俺…ずっと探してたんですから…。そうだ、俺、怒ってるんですからね!! 福井さんだって心配してて…あのアツシでさえ一緒に探してくれたのに…いつまで経ってもあなたは見つからなくて…」
「ちょ、ちょっと待って」

濁流のように勢いよく出てくる言葉の数々に翻弄されながら、ひとまず私は氷室を制止する。改めて背中をぽんぽんと叩いたところでようやく自分のしていることに気づいたのか、氷室はぱっと離れた。

「…すみません、つい」
「それは良いんだけど…その、あなた…本物の氷室君?」

バカなことを訊いているのはわかっている。でも、確認せずにはいられなかった。
確認したところで確証などないとわかっていても、それでも。

どうしてだろう、遠くから見た時にはあんなに氷室という存在を近くに感じて狂おしいほど恋しくなったというのに。
今こうして目の前に彼がいるのを見てしまうと、逆に実感が湧かずに遠い存在のように感じてしまう。

「本物です。本物の氷室辰也です」
「なんでここに……」
「ずっとあなたを探していました。…まあ今日ここにいたのは偶然なんですけど…というか俺、この大学に入学してて…」
「えっ、同じ大学!?」

思わず遮ってまで大きい声を出してしまった。
まだ事態を受け入れられていない私に対し、氷室は早々に状況を呑み込んだらしい。
泣きそうな顔をして、笑っていた。

「きっと会えると思っていました。今日この時じゃなくても、いつかどこかで、必ずもう一度話せると信じてました」
「そんな、こと────」

ついさっき、私はテツヤに向かって「氷室と再会するなんてほぼありえない」と言ったばかりなのに。無意識に水色のペンダントに手をやり、そのことを思い返しながら、目の前の奇跡をまじまじと見つめてしまった。

「────そうだ。俺、水影さんに会ったら渡さなきゃいけないものがあったんです」

するとその動作を見た氷室が、情報量の多さに未だ混乱している私をよそに、デニムのポケットを漁り小さな"何か"を取り出した。

「これを」

掌を広げて見せられる。そこにあったのは、小さな"片方の"イヤリングだった。
水色で、菱形のストーンがシルバーチェーンの先についている。

それは、今私がつけているペンダントトップと同じパーツで────確かに卒業パーティーの日に私が彼から贈られたもの…の片割れだった。

「それ…どうして…」
「会場に落ちてました。ずっと返そうと思って、持ち歩いてたんです」
「ずっとって…1年間も!?」
「はい」
「だってそんな…自分で言うのもあれだけど、私…あなた達に何も言わずに秋田からいなくなったんだよ…? なのに返そうとしてくれてたって…そんな奇跡みたいなことが起きるって、本当に思ってたの…?」

私なんて、まだ彼がここにいることすら信じられないというのに。
彼はずっとこの日が来る時を待って、毎日ポケットにそんな小さなアクセサリーを入れていたというの?

「俺はあなたと初めて出会えた"あの日"の方こそ、ずっと奇跡だと思っていました」

氷室の声は、少しだけ震えていた。

「だから、決めたんです。あなたとの出会いが奇跡だったというのなら、俺は何度でもその奇跡を起こしてみせるって。たとえあなたが俺の前から勝手にいなくなったとしても、その度に俺はあなたを探して会いに行こうって」
「…どういう、意味?」

この奇跡のような出会いを何度でもって、それじゃあまるで────。

「俺はあなたに恋をしたんです、水影さん」

全ての思考が、その言葉に奪われた。
全ての感情が、その音色に奪われた。

それは、何度も夢見ては蓋をしてきたものだった。
そうであれば良いと願って、その度にそんなことを願うなんてと否定してきたものだった。

氷室が、私に────恋をする、なんて。

"好き"という言葉なら何度も聞いてきた。
その度に私は、"私という存在が肯定されている"のだと思い、その言葉を都合の良いように…自分が一番傷つかない方向に、勝手に解釈していた。

でもそれがまさか、"恋"から来る言葉だったなんて、思いもしなかった。思ってはならないと、決めつけていた。

「好きです、とはずっと言ってたんですけどね。一向に本意が伝わらないようなので、もうこう言うしかないと思ったんです」

しかも、私が彼の"好き"をどう捻じ曲げていたかまで、全て筒抜けだったようだ。

「ちょっ…と待って…。追いつかない」
「良いですよ。俺は1年も待ってましたから。数十分でも数時間でも待ちます」
「そ、そういう意味じゃなくて…。え、じゃあなに、あなたは本当にずっと私を探してたの? 好きだから?」
「そうですよ、当たり前じゃないですか」

"当たり前"がわからない。
あれ、さっき私テツヤに"普通になれてる"って言われたばかりだった気がするんだけど…?

「卒業パーティーで置き去りにされたあの日から、俺はずっとあなたのことを探していました。もちろんバスケや受験もあったので、人生の全ては賭けられませんでしたが…繋がらないとわかっていても、あなたに電話をかけ続けました。タイガはもちろん、東京に行った福井さんにも連絡して、少しでも情報があれば教えてほしいとお願いしていました。アツシはキセキの世代のみんなに連絡を取ってくれると言ってくれました。それでも誰も何も知らなくて────」

必死になって、空白の1年間でとっていた行動を報告してくる氷室。
私の存在など、とっくに小さな記憶の一片になってしまっているとばかり思っていたのに────彼のこの1年はむしろ、私を中心に回っていた。

福井はともかく、紫原まで動かしたほどの彼の気迫は、一体どれ程のものだったのだろう。
まさか自分が彼にとってそこまで大きな存在になっているなんて思っていなかった私は、完全に面食らってしまっていた。
それと同時に、火神や紫原からの連絡を受けていたはずのテツヤがどんな気持ちで情報を遮断し続けてくれていたのかにも思いを馳せる。

彼は何度も言っていた、会いたいなら会えば良いと。好きなら好きと言えと。
テツヤは知っていたのだ。氷室がずっと、私に会いたがっていたことを。

「IHやWCに出場すれば、どこかであなたが見に来てくれるかもしれないって思ってました。会えるかもしれないって思って、会場をくまなく探したりもしたんです」
「WCの二回戦なら見に行っ────」
「じゃあなんでその時会いに来てくれなかったんですか!」

…こんなに怒っている氷室は初めて見たかもしれない。録画されたテレビの中でなら一度だけ、紫原を殴っている場面を見たことがあるが、あの時もこんな風に一言さえ満足に言わせてもらえない程の威圧感を纏っていたのだろうか。

さっきは待つと言ってくれていたのに、彼はすっかり私を置いて行ってしまっていた。

「あ、会ったら私…ちょっと壊れちゃいそうで…」

いつまた牙を剥かれるかわからないと、恐る恐る問われたことへの答えを返す。氷室は怒っていた。怒っているのに、今にも泣きそうだった。

「壊れる…?」
「そう……その……だって…」

ああ、私も彼のようにするりと「好きだ」と言えたら良かったのに。
まだよく信じられない。氷室が私のことを好き? なんで? いつから?
既に処理できないほどの情報が一気に押し寄せてきているというのに、私の頭にはまだ疑問ばかりが残っている。

「…俺のことが、好きだからですか」

すると、紡げなかった言葉の続きは氷室の方から浴びせられた。

「…!?」
「………水影さんが、俺のことが好きだからこそ逆に離れたんだって…知ってるんですよ」
「………まさかとは思うけど、その出所って…福井健介とかいう馬鹿じゃないよね」
「…そうです」

福井の馬鹿!
なんで言っちゃうの! そりゃフォローを雑に任せた私も悪かったけど! そんなところで本心がバレてたらそりゃあ氷室だって探しに来るでしょうよ!

「でも…この1年であなたが心変わりしてるんじゃないかって…ずっと怖かったんです。もし出会えたとして、その時あなたの隣に別の男がいたらどうしようって、何度も考えました」

…1年という歳月を考えれば、十分に可能性はあっただろう。
でも、私は実際他の誰にも魅力を感じなかった。むしろ誰かと知り合えば知り合うほど、過去に恋をしたただひとりへの想いを募らせるばかりだった。

「…もしそうなってたら、どうしたの?」

でも、そんなことを氷室は知らない。
もし本当に…まだ信じられないが…私のことをそんなにも求めてくれていたのだとして、蓋を開けてみたらその相手が他の人間と一緒にいたなんて結果を見せつけられたら、彼の1年はどうなってしまうのだろう。

「奪い返してみせます。絶対に」

氷室の声は────私が大好きな、あの時折見せていた攻撃的な口調になっていた。
獲物を絶対に仕留める。それが自分より格上だろうが格下だろうが関係ない。全力を以て、勝ちに行く。そんな時の声だ。

「一度は俺のことを好きになってくれたんでしょう。言いましたよね、俺は何度でも奇跡を起こしてみせるって。その時あなたがどんな人といようが、俺は必ずあなたにもう一度振り向いてもらいます」

そこに、迷いはないようだった。

「それだけ、あなたのことが好きなんです」

────ずっと、私は彼にとってたいした存在ではないと思っていた。
引きずるのは自分だけで、彼の方は離れてしまえば早々に私のことなど忘れてくれるものだとばかり、思い込んでいた。

だって私だったら、1年もの長い時間、どこにいるとも知れないたったひとりの人を探し続けることなんて、とてもできない。
自分の前から何も言わずに消えた人のことなんて、追い続けられない。

きっと私だったら、早々に諦めていた。
見つかるわけないと。見つかったところで、今言われたようにその人にはもう別の良い人がいるだろうと。
そんな悲しい妄想に取り憑かれるだけで、彼のようにあらゆる人手を頼ってまで見つけ出そうなんて、思いもしなかっただろう。

良いじゃないですか、あの時は黙って出て行ってごめんなさいって素直に言えば。その上で好きですってちゃんと言えば。

脳裏にテツヤの言葉が蘇る。

「…黙って出て行って、ごめんなさい」

彼に会わないことで自分が成長できるなんて、なんて勘違いをしていたんだろう。
彼の気持ちも考えず、彼が何をしようとしているのかも知らず、勝手に思い出にしようとしていたなんて。

「会いたかった…。ずっと、私も会いたかった。WCであなたを見た時、思わず声をかけてしまいたいと思った。でも私…勝手にあなたを置き去りにしてしまったから…今更そんなことできないと思って……だから、遠ざけ続けてたの。でも、本当はずっと会いたかったんだよ…」

ああ、本当にどこまでも私は自分勝手だ。
私は悲しい結末を恐れて、この感情を今という器に永遠に閉じ込めようとしていた。
私は、"未来へ進まないという未来"を選んだ。

選んだ、はずだった。

────そんな未来を、今度は彼が────変えてくれた。

「────好きだよ。今も、ずっと」

言っている間にぽろぽろと涙が溢れ出す。
ずっと言いたかった。伝えたかった。あなたがこんなにも好きなのだと、いっそ叫んでしまいたかった。

春には出会いのことを。
夏には花火大会のことを。
秋には初めて知った恋という感情を。
冬には雪の下でその手を包んだことを。

季節が巡る度、そこにあなたの面影を見ていた。
そこにあなたがいなくても、私はずっとあなたのことが好きだった。

ずっと許されないと思っていた身勝手な言葉。それを身勝手だと思うことこそが身勝手なのだと知るまでに、こんなに時間がかかってしまった。

氷室は優しく微笑んだ。春の穏やかな風によく似合う、儚い笑みだった。

「あなたが恋を怖がっているのはよく知っています。先の見えない未来に不安を感じるのも、よく知っています。でも、俺はそれでもその未来をあなたと一緒に歩みたいです」

イヤリングを掌に包んだまま、彼は私の手を取った。久々に感じるその温もりに、ずっと冷えていた心が溶けてゆくのを感じる。

「あなたが見えないはずの未来をそれでも恐ろしいものだと思ってしまうなら、俺にそれを…否定させてくれませんか。──── 一緒に、未来を変えませんか」

手を離した後、イヤリングは私の手に移っていた。
あの日バラバラになってしまったイヤリングが、やっと完全な形で戻ってきた。

────私の魔法使いは最後の魔法を────"独りで諦める未来"が"誰かと共に信じる未来"に変わる魔法を、かけてくれた。

たった今未来を描き替えて見せた彼の前で、どうしてこれ以上変わらないなどと言えようか。
ずっと長い間私との再会を信じた彼の前で、どうしてこれ以上信じられないなどと言えようか。

もう私に残されていた答えは、私が望んだ答えは、1つしかなかった。

「────私も変えたい。信じたい。…あなたと、一緒に」

今度こそ、後悔のない選択を。
自分を好きになれる、自分の心から望んだ、選択を。

「この後、お時間はありますか? 良かったら、この1年の話を聞かせてほしいです」
「うん、話したいことたくさんあるよ。あのね、この近くに高校時代通ってたカフェによく似たお店があって────」

週明けのレポートなんて、どうでも良いや。

氷室と並んで、私は来たばかりの大学を後にする。

「あ、花びらついてますよ」

道端でずっと立ち止まっていたせいで、風に乗せられた花弁が私の髪についていたらしい。氷室は歩きながらそっとそれを取ってくれた。

「────…」
「…捨てないの?」

彼が花弁をいつまでも掌に乗せたまま、愛おしげに見つめているものだったから────私はつい、そう尋ねた。

「…後で桜の押し花の作り方、教えてもらえませんか」
「ん? ん、そりゃ良いけど…」

歩きながらも、私はずっと夢を見ているようだった。
こんな奇跡を起こせるなんて、そんなの人間になせることじゃないだろう────と思いかけて、隣の氷室を盗み見る。

ああ、そうだ。
そうだった。

最初から私は、精霊に恋をしていたのだ。
奇跡を当たり前に起こし、見えない未来を明るく信じ続けられる、あまりに眩しい精霊に。



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