50話
季節は冬を迎え────WCの時期がやってきた。
バイトを終えた私はその足で、近くの会場へと足を運ぶ。敷地内には屋外でも一定数の人が集まっており、縁故者やバスケファンと思われる普通の服装や同じ学校の生徒と思われる学生の制服、そして観戦に来た選手達のジャージ…と区分けのしやすい格好でそこかしこに人溜まりを作っていた。
まだ今日は二回戦が行われる日。準々決勝くらいまで来ればある程度名の知れた学校しか残らなくなるのでわかりやすいのだが、まだまだ参加校の多い現時点では情報量が多すぎるので、いちいち観戦している時間もなくなってくる。なので今日もただ雰囲気だけ感じに通りがかったつもりで、さして対戦予定を確認することもしていなかったのだが────。
「今どうなってる?」
「急げよ! 陽泉が90点リードしてっから!」
「それ急ぐ意味あるか? もうこれ陽泉の勝ちで決まりだろ!」
そんなことを言いながら観客席に駆け込んでいくジャージ姿の少年を見て、はたと足が止まった。
…今、中では陽泉の試合が行われているのだろうか。
それはほぼ、無意識の行動だった。
通りすぎるはずだった足は敷地内へと向き、我に返った頃には私は会場内の観客席に立っていた。
ワーワーと声援や野次が飛んでいる。冬だというのに建物の中は熱気に溢れ、着込んだコートを暑く感じるほどだった。
キュ、キュ、バン! ドスン!
ああ、バスケの音がする。
私は空席を探すこともせず、ただ試合の様子を確認したい一心で柱の傍の空いたスペースに向かっていた。
同じように立ち見をしている人もいたため最初は少し見づらかったが────少し体の位置を調整してコートを見渡すと────。
────いた。
滑るようにコートを駆け、指先にまで神経の通った美しい動きでシュートを決める、────氷室が。
紫原もいる。相変わらず会場全体を威圧するような重い空気で相手選手を威嚇すると同時に、それでも闘志を燃やして突き抜けてきたボールをいとも容易くはたき落としているのが見えた。
その傍に控えているのは劉。紫原からのパスを受け、俊敏に名前も知らない新レギュラーの選手にボールを繋いでいる。
一挙に1年前の思い出が蘇った。
氷室の手を握って送り出したこと。
福井が毎日試合結果の報告をしてくれていたこと。
紫原には────本当に困らされた。準々決勝の日の朝に事故に遭うなんて、本当に洒落にならない。
あの時私が信じたチームは、今もなおその信頼に応えてくれているかのように輝いて見えた。
スコアは第4Q中盤にして90-00。去年は誠凛に惜しくも敗れたが、今一度彼らは無失点の伝説を築き上げようとしているのだろうか。
対戦相手の学校が強豪校であることは一目見ればわかった。選手の雰囲気、パスワークの巧さ、シュートの精度の高さ。見ればわかるのだが────その完成度がどれだけ高かったところで、"うちの"イージスの盾には通用しない。
雰囲気が攻撃的で鋭いというのなら、こちらも防御力を上げるまで。パスワークが巧いというのなら、こちらもその都度カットしていくだけ。シュートの精度が高いというのなら────こちらも、そのシュートを阻止し攻撃に転じるまで。
言葉で言うほどそれが簡単ではないことなど、とっくに理解している。
しかし私は目の前の、まさに奇跡としか言いようのない光景のこともよく知っていた。
あの時は、テレビ越しでしかなかったけれど。
録画されて、もう終わった後の顛末を見ているだけでしかなかったけれど。
────この時の私は、"未来に繋がる今"を見ていた。
紫原がボールを持ち、相手側のゴールへと突き進む。ディフェンスを薙ぎ倒しあっという間にゴール下まで辿り着くと、そこで待ち構えていた3人の選手を前にし、氷室へ高いパスを出した。
完全に紫原に気を取られていたその3人は、静かに背後に滑り込んできた氷室の動きに反応できていなかった。吸い寄せられるようにボールは彼の手元へ収まり、彼はそれを────何度見ても息を呑む、重力さえ無視しているかのように流れるような動作で、軽やかに放った。
92-00。スコアが動いたことを知らせる音が響くまでの一瞬の間、あれだけ賑わっていた会場内が静まり返る。
誰もが魅せられている。彼の流麗な舞に。
誰もが畏れを感じている。彼らの巧みな連携技に。
ああ────彼は今も、バスケと踊っているんだ。バスケと、恋をしているんだ。
手の届かない空をそれでも掴もうと、蹴った地を二度踏まないようにと、彼はずっと舞い続けている。誰から見てもその存在が目立っているのは明らかだったが、私の目から見る彼の姿は────地上の何よりも、美しいあの時のままだった。
「────…」
心臓が、うるさい。
体が、熱い。
好きだ。どうしたって好きだ。
だってあんなもの、好きにならない方がどうかしてる。
別に何か派手な展開があったわけでも、ドラマチックなプレーがあったわけでもない。
だというのに、私の目からは涙が零れていた。
綺麗な人。何よりも美しくて、優しくて、強い人。
思い出になりかけていたその人が、今目の前であんなに躍動して命を燃やしている。そんな当たり前のことに、私は今、自分でもわけがわからないほど心を動かされてしまっていた。
程なくして長いホイッスルが鳴った。気が付いたら、試合は終わっていた。
今そこにいる。誰よりも好きだった人が。
声をかけられるところに、一言かけてしまえば触れることだってできる場所にいる。
ずっと会いたかった人が、恋しかった人が、すぐそこにいる。
私は一歩踏み出しかけて────そして、その場に留まった。
彼は今、彼の人生を歩んでいる。そこに私はもう要らない────だって、自ら切り捨てたのだから。
十分だったじゃないか。この目でもう一度彼のことを見ることができたのなら。
彼が笑ってバスケをしていてくれる、そのことだけでもう、私には十分なはずだ。
いつもだったら、人がある程度捌けるまでその場で待っているところだったが、この日ばかりは、私は誰よりも先に会場を出た。
思いがけないところでの一方的な邂逅は、思った以上に私の心を強く動かしてしまった。
良かった、元気そうで。
良かった、楽しそうで。
良かった────彼の日常が、変わっていなくて。
私は泣きながら家に帰った。良かった、良かった、と心の声は何度もそう言うのに、どうしても切なさが消えてくれないのが辛かった。
涙は家に帰ってからも止まってくれなかった。彼の姿を見ることができたそのこと自体は確かに嬉しいはずなのに、どうしても悲しみが溶けてくれないのが苦しかった。
辛かった。
苦しかった。
卒業パーティーの時に彼を置いて秋田を去った時なんかより、今の方がずっとずっと切なかった。
どうして────どうして? 時が経てば少しずつ薄れていくのだと思っていたのに。
そうしたら、いつか大人になった彼を見ても、その隣に誰か他の人がいても、ちくりと心を刺されるくらいで笑っていられると思っていたのに。
季節も気持ちも移ろいゆく中で、どうして恋心ばかりがこうもままならないのだろう。
私の幼かった恋心は、いつの間にかこんなに大きく成長してしまっていた。
どうして? 薄れるどころか、この気持ちはどんどん濃くなっていくばかりだ。
会わなかったから気づかなかった。求めなかったから知らなかった。
知らない間に、こんなにも────こんなにもますます、あなたのことを好きになっていたなんて。
このまま涙と一緒に流れてしまいたい。いっそこの苦しさに絞め殺されてしまいたい。
冬が峠を越せば、新しい春が来る。
だというのに、私の心はまるで2年前のあの春に戻っていくかのようだった。
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