47話




陽泉を出た後、私はその足で空港へと向かっていた。
朝のうちに、親にはきちんと話をしておいた。母親にはだいぶ渋られたが、結局折れてその日中の東京行きを許してくれた。

翌日には、既に新居として決めていた小さなワンルームのマンションに腰を落ち着けていた。家具や何やらが揃うのはここから一週間くらいかかると言われているので、それまではこの狭い部屋をせいぜい広々と使うとしよう。

更にその翌日には、携帯を買い替えた。最新機種のスマホの使い方がよくわからなかったので、初期設定を店舗でやってもらって以降、あまり触っていない。データ移行や電話番号の引継ぎなども提案してくれたが、私は写真データだけUSBに移しておき、それ以外のデータは全て削除するようお願いした。
────確認できただけでも10件以上のメールや着信履歴が残っていたが、私がその中身を確認することは終ぞなかった。

差出人を見れば、内容もだいたいは想像がつくというもの。
福井はきっとあの場では上手に私の不在を取り繕ってくれたのだろう。でも、彼は────氷室は、それでも黙っていてはくれなかった。
それが嬉しいような…苦しいような。

まあでも、私の中に占める彼の比重と彼の中に占める私の比重はきっと天と地ほどの差があるはずだ。私が彼のことを引きずっている間に、彼は案外早く私のことを忘れてくれるだろう。

とにかく人の心配をする前に、まず自分自身が彼のことを早く忘れければと思い、私は春休みを利用して積極的に外に出るようにしていた。

秋田にはなかった、東京の喧騒。高いビルに人の往来、それからとにかく新しいもので飾られた色とりどりの街並み。
こうしているとやはり、つい先日までいた場所のことよりずっと前の────私が向き合うべき幼かった頃の私のことばかりを思い出す。このカフェで赤司と散々部の戦略について話し合ったなあとか、あの服屋はさつきちゃんに半ば引きずられながら行ったなあとか、その通りはキセキのみんなと口喧嘩しながら歩いてたなあとか…まだ上手に人に擬態できていた時の思い出が溢れている。そしてそれらが全て壊れた後、私はその思い出から逃げるようにこの場所を去った。

これからは、擬態するのでもなく、逃げるのでもなく、きちんと向き合っていかないといけない。
言葉の上で言うのは簡単だが、私にできるだろうか。

ほんの少しそんな弱音が頭を過ったが、すぐに私はその考えを追い払う。
できるだろうか、じゃない。私はちゃんと私らしくなるために、ここへ来たのだから。

とはいえ本当は心のどこかで、氷室との別れ方もある意味"逃げ"になるのではないだろうかと迷っているのも事実だった。
でもそれならそれで、その別れを最後の"逃げ"にして、ちゃんと自分の感情をコントロールできるようになるまでだ。

責められても仕方ないことをしているのはわかっていた。
それならいっそ、責めて恨んで、それから嫌いになってほしかった。
どうせ私は、彼の人生の中で一瞬を共にしただけの、小さな存在なのだから。

足の赴くまま歩いていると、目の前に大きな川が見えた。

「────…」

思わず、歩を止める。

そこに広がっていたのは、狂い咲く桜の並木道。

あてどなく歩いていた私が無意識に辿り着いていたのは、お花見スポットとしても有名な川沿いの道だったらしい。その雄大さに思わず息を呑む。陽泉に咲いていた一本の巨木とはまた違うが、視界を埋め尽くす薄紅色は記憶にあるあの特別な場所と全く同じものだった。

────そりゃあ、そうだ。

東京でだって、桜は咲く。秋田に来る前だって、毎年こんな光景は見てきていた。その度に人の手など決して届かないその美しさに目を奪われてきた。

それなのに。

今目の前に広がっている桜は、これまでに見てきたどの年の桜よりも、私の胸を強く締め付けてきた。

どうしたって思い出してしまう。そう────ちょうどこんな強い風が吹いて、再び目を開けた時にそこにいた────桜の精のことを。

バカなのか、私は。
自ら断ち切っておいて未練がましく思い出して勝手に切なくなるなんて、自分で自分に腹が立つ。
これ以上自分を苦しめていたら、いい加減その見当違いな自己陶酔に胸やけしそうだ。私は早々に桜に背を向けて家路についた。

結局最初の威勢はどこへやら、私はそれからほとんど家を出ることもなく、一ヶ月後に行われた大学の入学式まで家で無為な時間ばかり過ごしてしまっていた。





────桜はとっくに散っていた。





大学に入って最初に待ち受けていたのは、午前中だけガイダンスのために教室に縛られた後、夜までサークルの勧誘や体験入部に追われる日々。

正直、こういった類の集団はどうにも苦手だった。
でも────私は、そんな私を変えるためにひとりで東京に来た。ここで前と同じように世界を締め出してしまっては、秋田でさよならしてきた優しい人達に怒られてしまう。

何度目か知れない自分への戒めをここでも繰り返したところで、ひとまずゆくゆくはひとりで生きていく力をつけるため、処世術として私はいくつかのサークルに登録してみることにした。賑やかな人の多いオールラウンドサークル、静かな人の多い文芸同好会、勉強熱心な人の多い金融経済研究部。このくらい振れ幅を大きくしておけば、そのうち自分に適した居場所も見つかるだろう。
ついでに、早いうちにバイトの面接にも応募してみることにした。ありがたいことに実家からの仕送りがあったお陰で生活に困窮することはなさそうだったが、これを機に服やメイクを研究してみるのも良いかもしれない。そうなると、自分の買い物のためのお金くらいは自分で稼いでおきたかった。
入社したのは、全国チェーンのファミレスのホール。接客業なんて…と最初は少し尻込みしていたが、これも全て処世術だと言い聞かせる。

正直序盤にスピードを上げすぎて音を上げたくなっている自分もいたが、なんとかその無理が功を奏して、2週間と経たないうちに行動を共にできる友人もそこそこにできた。
特別仲の良い人がいるわけじゃない────やはり秋田で過ごした福井や氷室との日々を超える関係を作ることは相当に難しそうだったが、孤独を感じない程度には楽しめている、と思う。

そう、最初からこちらが拒絶する姿勢を見せていなければ、そこそこに浅い関係の友人なんてすぐにできてしまうものだったのだ。私はてっきり私という人間が誰からも嫌われるような人間なのだとばかり思っていたが、世界はそこまで私に厳しくなかった。まあ、多少は疲れるけど。

「────大丈夫ですか、冬子さん」

そう言いながら向かいの席でシェイクに口をつけるのは、テツヤ。

「え、やっぱり私の顔、疲れてる?」
「疲れてます。というか普通にタフな人でもそこまで色々一気に抱えるのはしんどいと思います」
「やっぱり…? 私も最近頬が変にこけてるなあって思ってたんだよね…」
「無理して余計に人嫌いが加速したら元も子もないですよ」

こちらに来てから彼と会うのは今日で3回目。
最初に会った時にはそれはもうかなり驚かされた。過去を断ち切ると言った手前、近くにいるとはわかっていながらテツヤにも連絡できずにいた私を、彼はあっさり発見してきたのだから。

────しかも、うちの大学の駅前のマジバで。

この時ほど自分の未来視を失ったことを恨んだ日はない。
注文したバーガーセットを受け取り席に着いたところで、突然真向かいから「お久しぶりです」なんて言われた時の私の反応といったら────きゅうりを置かれた猫、とでも検索してみてほしい。まさにあんな感じだったから。

テツヤ曰く、「こんな狭い場所で身を隠そうって方が無茶ですよ」とのことで。
別に彼も私を張ってあの場所にいたわけではないそうなのだが、聞いてみれば彼が通う誠凛高校とうちの大学は非常に近いところにあり、散策がてら少し遠くまで歩いた後、休憩しようと入ったのがこのマジバだったらしい。

偶然とは末恐ろしいものである。
それともまだ私が未来の視える人間だったとしたら、このことも既に確定事項として組み込まれていたと言うだろうか。今となってはもう、わからない。

2回目の出会いもその恨めしい偶然の産物だった。
その時はモラハラ傾向のある男と交際している友達とマジバに行ったその店内で「ごめん! 彼氏から呼び出し食らった!」と薄情なことを言われたのが原因だった。
先に注文していた私だけがひとり取り残され、店員さんにも今更要らないですなんて言えるわけもなく、バーガーセットの乗ったトレーを抱えながら空席を探していた時に見つけたのだ。最初から"テツヤがいるかもしれない"と疑っていたお陰で彼の存在に驚かされることはなかった────が、通り過ぎる前に声をかけられたので相席する他なくなってしまった。
彼は、私に会える確率を上げるために少しだけこちらに足を伸ばす頻度を上げたらしい。

「なんでそんなに頑なに過去を消そうとするんですか」
「消そうとしてるわけじゃないんだけど…生きてる間にもう一回人生やり直したくて」
「現に僕とはこうして相席してるのに、ですか」
「それはもう全部成り行きのせいというか…いやこうやって他のことのせいにするのも良くないな…」
「色々考えすぎるのは冬子さんの昔からの悪い癖ですよね。火神君が言ってましたよ、氷室さんがあなたを探して連絡してきたと」
「うわぁ…やっぱり一度の人生で全てを清算してやり直すなんて無理だったんだ…でも海外逃亡なんてもっと非現実的だし…でも現にこうして繋がりのある人と相席しちゃってるし…いっそなんかどっかの島とか誰も知ってる人のいないところに行けば良かったのかな…でもそれじゃ私の将来が…」
「そこまで模範的なまでに迷いながらよく秋田を飛び出して来れましたね」
「うう…正論が痛い…」
「────でも、冬子さんをそこまで思い悩ませてしまった責任の一端は僕にもあります。冬子さんの性格を考えたら、そんな寂しい結論になったのも…なんとなくですが、わかります。だからその"自分を嫌う癖"が大人しくなるまでは火神君にもこのこと内緒にしておきますね」
「ありがとう…本当にあなたはいつまでも可愛い弟だね…」
「でもある程度落ち着いたと思ったら容赦なく火神君を通して氷室さんに連絡しますから」
「可愛くなかった…」

そんなこんなで、なし崩し的にテツヤとは交流が続いてしまっていた。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、私の意図を苦し紛れにでも汲んでくれた彼が、必要以上に私の事情に首を突っ込んでくることはなかった。むしろ、私が失った"私らしさ"を取り戻すために、あれをやってみてはどうか、これに挑戦してみてはどうか、と色々提案してさえくれていた。

そうして今日、3回目に────ようやく待ち合わせて会うようになった頃には、もう穏やかな春風も遠のき、代わりに咽せ返るような湿気が足元に忍び寄ってきていた。

「とりあえず、オーランと金研は辞めたらどうですか」
「うん、私もそうしようと思う…」

最低限の人付き合いを学ぶために接客業のバイトは合理的な手段だと思っていた。
それから、人のいる空間を前提としても、静かで落ち着いている文芸同好会の雰囲気も、嫌いではなかった。ここでなら、ひとまず無理せず交流は続けられそうだ。

でもそれ以外は、どうやら私には合わなかったらしい。人生経験と意気込んでいたあの頃の勢いはどこへやら、今やテツヤが挙げたその2つは私にとって負担にしか感じられなくなってきていた。
ひとまずその日は私が2つの部を退部するということだけ決定させたところでお開きとなった。

「そういえばそろそろまたIHの予選だよね」
「ええ、もう来週からですね」
「見に行って良い?」
「…! もちろん、来てくれるなら嬉しいです」

WCの時は、陽泉側で────しかも録画されたものでしか見ていなかったから。
改めて、今度はテツヤを一心に応援しながら生の試合を見てみたいと思った。

テツヤを駅まで送りがてら、2人並んで歩く。
その道すがら、私は店のガラス窓や公園前の掲示板に"昨日まではなかったもの"があることに気づいた。

「花火大会…もうそんな時期なんですね」

それは、夏を先取りするように毎年行われている花火大会のポスターだった。

「────…」

無意識に、足が止まる。

「…冬子さん?」

テツヤの声で我に返り、私はまた断ち切ってきたはずの思い出に浸りかけていた自分を頭の中でぶん殴った。
思い出すな、あの夏のことを。
空に打ちあがる花火よりずっと綺麗だった、あの横顔を。

「…氷室さんのことでも考えてたんですか」

何も言っていないのに、テツヤには全てバレていたらしい。

「…わかる?」
「わかります。会話が途切れてそういう顔をする時の冬子さんは、だいたい氷室さんのことを考えてるので」
「………春先こっちに来た時も、そうだったんだ」
「え?」
「川沿いの桜並木を見て、氷室君と初めて会った日のことを思い出しちゃったの」

桜が散って、落ち着いてきたと思ったらこれだ。
今度は夏が来る。薄闇の中で私に決して消えない感情を植え付けた、夏が。

「ダメだね、新しい季節が来る度に────新しいはずなのに、昔話ばっかり思い出しちゃう」
「……花火大会、一緒に行ったんですか」
「うん、行った。すごく…すごくね、綺麗だったんだ…。花火なんかより、あの人はずっと綺麗だったよ」

自分から訊いておいて、テツヤは「そうですか」と簡単に返すだけだった。

ああ、情けない。
今も鮮明に思い出せる。誰よりも地味な装いをしていたのに、誰よりも目立って見えたあの姿を。狭いブルーシートに並んで座って、触れ合ってしまうほどの距離で見上げた花火の音が、私の心臓まで共鳴させてきたことを。帰り道に下駄が脱げてしまった私を見ては跪いて履かせてくれた、あの時の笑顔を。また転んでしまわないようにと手を繋いでくれた、あの温もりを。

「なんで…思い出しちゃうんだろう…」

全部覚えてる。景色も、音も、匂いも、感触も、全て覚えてる。

「忘れる必要なんて、ないからじゃないですか」

テツヤの声は優しい。

「だって冬子さんは氷室さんのことを"思い出"にしたいんでしょう。思い出って思い出すからこそ"思い出"と言うのであって、少なくとも忘れるものではないと思うんです」

────彼の言うことは、冷静に考えれば正論でしかなかった。
私はそもそも氷室の存在を"綺麗な思い出"に昇華させたかったのだ。忘れたかったわけじゃない、ただ思い出しても苦しくないように、それまでは蓋をしておきたかったという────ただそれだけなのだ。

わかっている。
いつの間にか自分の中で"思い出にする"ことと"忘れる"ことの境界線を間違ったところに引いてしまっていたことなんて。

でも、今はその思い出の断片が頭を掠めるだけでこんなに苦しくなるのに────いつか本当にそれを"綺麗な思い出"にして笑うことなんて…本当にできるのだろうか?

わからない、未来がもう、私にはわからない。
そのつもりでここに来たはずなのに、私はもうあの時の選択が本当に正しいのかすら、わからなくなっていた。

子供のように項垂れてしまう私。そんなことを言ったって彼を困らせてしまうだけなのに。

「────まあ、今まで人のことばかり考えてきた冬子さんに、突然自分の感情と向き合えっていう方が無理な話なんじゃないですか」

それでもテツヤはずっと優しい口調のまま、私のことをまっすぐに見つめてくれた。

「確かに場所を変えたところで、距離を離したところで、自分の"日常"に刷り込まれてしまった記憶は消えません。それが大切な感情だったなら尚更────きっと冬子さんは、毎年春が来る度に同じくらい新鮮な気持ちで氷室さんとの出会いを思い出すんだと思います。未来が視えなくなったのなら尚更です。今まで未来に向いていたその目は、今まで以上に過去を想起させると思います」
「でもそれじゃ、私があんな思いをしてまでこっちに来た意味が────」
「ええ、だからそれで良いんだと思いますよ」

まっすぐ見つめたまま、彼は────ただただ簡単に、肯定の言葉を返す。

「今はまだ、氷室さんとの思い出は今まで苦しい思いばかりしてきた冬子さんにとっては眩しすぎるのかもしれません。でもそうやって何度も思い出して、それが本当に楽しいものだったんだといつか本心から思えるようになったら────きっとその時の冬子さんは、今よりずっと綺麗な笑顔で笑えるんだと思います。そしてその時は、いつか必ず来ると思います」
「本当にそう思うの? 私はそんなの…全然信じられないよ…」

おかしいな。私はそれを"信じられる"と思ったからここへ来たはずなのに。
また、何も信じられない"大嫌いな自分"に逆戻りしている。

「僕は素直に信じられます。冬子さんがいつかちゃんと過去を綺麗な思い出にして、笑ってくれる日のことを」

そんな私に、彼は"信じる"と言った。いとも容易く。

「冬子さんが未来を信じてここへ来たのはわかります。でも正直、それって言うほど簡単なことじゃないと思うんです。…だって冬子さんが今まで信じてきたのは、"人の未来"なんですから。人の未来なら変わるかもしれない、変えようとするその行動が報われるかもしれない────なるほど、それ自体はWCなんかを経て、素直に信じられるようになったのかもしれません。でも、冬子さんは"自分自身の未来"を本気で信じたことがありますか? 自分のためだけに未来を変えようとしたことがありますか?」
「……そう、言われると…」

私だって、未来を信じたかった。
あの時は本当に未来を信じられる気がしていたから、だからあんなに突発的に秋田を飛び出してしまった。

でも、今はそれを後悔してしまいそうな自分がいて────なんて浅はかだったんだろうと、思ってしまいそうな自分がいる。
氷室が私のことをどう思っているのかなんて知らない。私が望んでいる通り、彼にとっては私の存在など長い人生の一瞬を共にしただけの曖昧なものでしかなかったのだとさえ思っている。

なのに、私が────私自身が、離れてしまったことで逆に彼に執着するようになってしまった。景色は秋田のそれとは全然違うのに、生活もあの頃とまるきり変わってしまったというのに、思い出すのはいつだってあの短い1年間の何てことない日常のことばかりだった。

当たり前に未来を知っていた私には、そんな不確定といって余りある"自分の未来"を信じるなんてあまりにも難しいことだった。
私は気づけば────あんなに疎んでいた未来視に、縋りすぎてしまっていたのだ。

「だから、冬子さんがまだ自分を信じられないのは当然なんです。信じるものが違っていたんですから、逆戻りしたような気持ちになるのも当然です。そんな状態でいきなり自分を信じろ、未来を変えるための行動をしろ、と言われたところで最初は辛いだけと思います。────だから最初だけ、本当に最初だけ…無理をしてください」

テツヤの話は淡々と続く。無理をしろ、とそれまでの優しさに似合わない言葉が出てきた時でさえ、彼の感情は全く揺れていなかった。

「無理をして、強がって、氷室さんとの日々を思い出してください。そしてその時思ったことをそのまま話して────話しながらも新しい経験をたくさんしていって────氷室さんのことしか考えられなくなっている今の冬子さんにとって、"もっと大切だと思えるような思い出"を作ってください」

もっと、大切な思い出…?

「すみません、誤解を恐れずに言います。冬子さんは、今まで人を避け続けてきていましたよね。だから、そんな冬子さんのぽっかり空いた心を埋めてくれた氷室さんの存在は、多分他の人より大きなものとしてあなたの心を占めていると思うんです。だから今、冬子さんはそんなに苦しいんだと思います」

それは、私も何度か感じていたことだった。
福井だっていた。必ずしもプラスの要素ばかりを持っているわけではないが、紫原だっていた。
でも、氷室はあまりに私の心の多くを占めてしまった。だからそれを失った今、私は自分が考えている以上にダメージを受けているのだ。それが自業自得とわかっていながら。

「もし冬子さんが、氷室さんにとって自分はたいした存在でないと思っているなら、冬子さんも同じように氷室さんのために思考するリソースを削げば良いんです」

つまり、彼の思い出を別の思い出で塗り替えろというのだ。まるで失恋した人にかける模範的な言葉のようだ、とこんな時なのに少しだけそんなことを考えてしまう。

「…今の状態で冬子さんがもっともっと悲しい思いをして、もっともっと自分の選択を後悔して、それで自分のことをまた嫌いになってしまったらそれこそ本末転倒だと思うので────だから、僕はあえて言います。氷室さんのことを忘れようとするのは諦めてください。そしてそれを、そんなに泣きそうな顔で思い出さずに済むくらい、これから楽しい経験をしてください」

私達が駅前で話し込んでいる間に、電車は何本も過ぎ去ってしまっていた。それでもテツヤはそんな方向には見向きもせず、まっすぐ私だけを見つめている。

「大丈夫です。秋田に福井さんがいたように、東京には僕がいます。挫けそうになっても、また自分のことが嫌いになりそうになっても、今度は僕が励まします。僕は福井さんにも氷室さんにはなれませんが…大事な自分の姉さんが笑って生きていくためなら、どこへだって駆けつけますから。だから────未来と向き合うことを選択した自分のその判断を、後悔しないでください」

自分の判断を後悔しない。
それは言うことはとても簡単で────そして、実践するのはとても難しいことだった。

でも、それを選んだのは紛れもなく私自身だ。
福井にも氷室にも迷惑をかけているとわかっていながら、それでもあの日私は秋田を飛び出した。

────これで最後にしようと決めて、自分のためだけの行動を取った。

「…そうだね、そこで後悔したら…私を支えてくれた人達に失礼だね」

そうだ、私は自分の最後の願いを叶えるためにここに来た。
だったら、そんな切ない記憶に縛られて立ち止まっているだけではいけない。

私は、自分を変えないといけないのだから。
不確定な自分の未来を、他の人と同じように"希望をもって"信じられるようになりたいのだから。

────いつもそうだった。
いつも自分のことを誰よりも否定してきた私を、その度に肯定してくれる人がいた。
目の前のテツヤだって、福井だって、氷室だって、いつも私が私を嫌う度に、それぞれのやり方で"世界は冬子のことが嫌いな人だけじゃないよ"と教えてくれていた。

私はその優しさを受け取るばかりで、何も返せなかった。
だからここに来たんだろう。あの弱い自分を過去にしてでも、変わりに来たんだろう。

彼らの優しさに応えられるだけの、優しい人間になるために。
彼らから受け取ってきた優しさを、彼らだけでなくもっと多くの人に返すために。
いつか未来を諦めたあの日々と向き合って、昔の────誰かを助けたいと素直に思えた自分を、取り戻すために。

「そうですよ」

テツヤの言葉を飲み込んだ私に、彼はそう言ってようやく笑ってくれた。

「少しずつで良いと思います。あと順番もつけましょう。まず昔のことを思い出す時に自分を責めるのはやめることからですね」
「ふふ…なんかテツヤの方が兄さんみたい」
「僕は良いですよ、兄と呼ばれても」

不安が消えたわけじゃない。悩みが解決したわけでもない。
自分の状態が昔に戻ってしまったのではないかと、とても心配になったのも事実だ。

それでも、テツヤの言葉には目を覚まされるようだった。

そうか。

私がここに来て改めて未来を信じられなくなってしまったのは当たり前のことだったのか。
だって私が今まで信じていたのは、"誰かの未来"だったから。
その信じるべき"誰か"が誰もいなくなって、すぐに"自分の未来"を信じろと言われたらそりゃあすぐには無理なことだろう。

だから、私は一旦元の"何も信じられない"状態からリスタートしなければいけない。
今度こそ、正しいものを────自分自身を、信じるために。

「ありがとうね、テツヤ」
「いいえ、僕は何も。ちなみに言うと、僕個人としては氷室さんを思い出にするのは反対なので、いつか氷室さんに連絡できる機会はこれからも狙い続けます」
「え…そ…そうですか…」

あくまで意思を曲げないらしい彼にたじろぎならがも、今度こそと彼を改札の方まで送り出す。

「じゃあ、また連絡します。しばらくIHの準備で放課後はかかりきりになると思うのですが…試合前には、必ず一言入れますから」
「うん、待ってるね」

そう言って駅の構内へ入って行く彼の姿が見えなくなるまで、私はずっとそこに立っていた。
そうだ、東京に来るのが目的だったわけじゃない。
まだここでの生活は始まったばかりなのだ。時間をかけてでも、ちゃんと本当の目的を────自分の過去と今と未来の全てを受け入れることを、していかないと。



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