44話




それは忘れもしない、1年前の春の日のことだった。

編入先の学校を探すため訪れたこの学校は、同日に新入生の入学式も執り行うことになっていたらしい。よくまあそんな忙しい日に編入生の学校案内まで受け入れたものだ、と感心したが、案の定俺は当日あまり相手にされなかった。
時間と場所を指定されたは良いが、広い校舎内で知らない部屋を訪ねろというのは些か難しい課題だ。入口で事務員のような装いをした男性に道を尋ねたのでその通りに進んだつもりだったが、なぜか俺が辿り着いたのは校舎"外"の裏庭だった。

目の前に広がっているのは、桜の巨木。
アメリカではあまり馴染みのない花だったので、思わずその美しさに魅入ってしまい、本来の目的を忘れる。
どこまでも続く空でさえも覆ってしまうかのような荘厳な木だ。ごつごつと太く荒くれだった幹からは、想像もできないほど弱そうな花びらがいくつも"ここで生きているよ"と主張しているように咲いている。
こんなに淡い色をしているのに、触れればすぐに折れてしまいそうなほど小さいのに、こんなにも存在感がある。

"美"とは強さと弱さの中間点にでもあるのだろうか、と目の前の幻想的な景色を前に哲学的なことをふと考える。
この美しさを表す言葉を、俺は知らなかった。だから、ただ胸が締め付けられるような難しい感情だけを抱えて、桃色に染まった空を見上げていた。

その時、一陣の風がさっと吹いた。
風に乗って、たくさんの花びらが枝の元を離れ空へ飛び立っていく。その様子を眩しく思いながら再び地上に視線を落とすと────。

────そこには、桜の精がいた。

「────…」

いや、相手が人間なのはよくわかっている。
ただ…今この瞬間まで"誰かがいる"ことに全く気付いていなかったことと、それから────その人のあまりの美しさが、ここに咲き誇る桜の花とあまりに似合いすぎていたから。

そんな、子供の見る夢のような気持ちを────桜の木の下に立っている、綺麗な女の人に対して抱いてしまった。

「………誰……?」

彼女から発せられたのは、春のそよ風を思わせるような繊細で儚い声だった。
(後から思えば、彼女がここまで弱々しい声をしていたのは完全に戸惑いと不信感のせいだったということもわかるのだが、その時の俺は彼女を人間より高尚な"何か"だと思ってしまったせいで、そんなところにまで幻想のフィルターがかかっていた。)

「………ぁ……すみません、驚かせてしまって。実は、夏から編入する高校を探すための下見をしに来たのですが、職員室を探している間に道に迷ってしまい、困っているうちにここへ辿り着いていて………」

言いながら、当初の目的を思い出す。そうだった、俺は最初から職員室に行くために校内を歩いていたんだ。

その最中でこんなにも美しい命がこの世界に存在するのだと思い知らされてしまったせいで────つい、立ち止まってしまっていた。

名前と学年を伝え正式に挨拶をすると、彼女は「水影冬子です」と名乗り、職員室までの案内を申し出てくれた。学年は3年生、ここの生徒だそうだ。
本物の精霊じゃなかったのか、と頭の片隅で少し安心している自分がいた。

道すがら、彼女は校舎の配置についての簡単な説明もしてくれた。おおまかな位置取りはわかったが、正直規模が多すぎてついていけなかった。彼女も「校舎の間取りは面倒だけど通ってみればそれなりに面白い学校ですから」と笑っていた。
年下の俺にも、とても礼儀正しい人だった(これがただ彼女の人嫌いな性格によるものだということも、例によって後から知ったことなのだが)。

それにしても、この人は入学式に参加しなくて良かったのだろうか。ここに来るまでにいくつかの教室を通ってきたが、どこももぬけの殻だった。黒板に入学式のスケジュールが書かれていたことや、机の脇のフックに鞄が掛けられていたことから、他学年の生徒が登校していること自体は明白だ。しかし彼女はそんなこと関係ないとでも言わんばかりに悠々と廊下を歩いている。
俺はそんな彼女の綺麗な横顔を、ずっと盗み見ていた。

"綺麗な人"は今までにもたくさん見てきた。
どんな女性も、美しい何かをひとつは持っているものだと思っていた。

────でもこの人は、そんな簡単な言葉では片づけられない雰囲気を持っていた。
美しい? 確かにそれはそうだけど、彼女はこう…それだけじゃない気がする。

「じゃあ、私はこの辺で」

職員室を案内された後で、近くのカフェテリアで時間を潰してはどうか、と提案される。それなら一緒に、と誘おうと思ったのだが、それを言うより先に彼女の方からこの場を去る意思を示されてしまった。初対面の人間にそこまで執着するのも失礼だと思い、お礼にココアだけ渡して、去り行く彼女の背中をずっと見つめていた。

俺はまだ、その時彼女に対して持った"桜の精のようだ"という印象に────その印象に起因する感情に、気づいていなかった。

ただ、まだ右も左もわからない世界の中で少し戸惑っていた俺にとって、彼女との邂逅はある種の奇跡のようにすら思えてしまっていた。────なんて言ったら、本人にはまた「いつも本当に大袈裟だな」と笑われてしまうだろうか。

でも、本当にそうだったんだ。
ただ困っていたところを助けてもらったという意味でも、俺にとって彼女の存在は奇跡に近い救いの手だったわけだし、それだけでなく────なんだろう、あの桜と彼女が一体となったかのような感覚────だめだ、語彙力のない俺ではあの感覚をうまく言葉にできない。

彼女ならきっと、魔法のような言葉の粒で俺のこの感情をうまく表現してくれただろうに。

とにかくその時の出会いは俺にとって奇跡としか言いようがなく、そしてそれからの俺は、どうしたらこの奇跡をもう一度起こせるだろうかということばかり考えていた。










「福井さん、水影さんを見ませんでしたか?」
「冬子? なんでだよ」
「お手洗いに行くって出て行ったきり戻って来なくて…。後で福井さんとも一緒に3人で話そうって言われてたんです。進学先のこととか、福井さんもまだ聞いてないんですよね?」
「あーね…そゆこと……。………………なあ、氷室」
「はい」
「俺、迷ってたんだ」
「…え?」
「お前には知られたくないからって言って、冬子からこっそり打ち明けられてたことがひとつだけある。俺は冬子の願いを聞いてやりたかった…から、今まであいつに言われた通り、お前にそのことを黙ってた。でも、やっぱこのままじゃちっとばかりフェアじゃねえ。だから…もう取り返しのつかないとこまで黙ってたことをあいつへの免罪符にして、お前にちゃんと本当のことを話すわ」
「本当の…こと…?」
「…冬子はもう、誰にも何も言わず秋田を発つよ」
「………え」
「進学先を知らねえのはお前の言った通り、俺も同じだ。東京に行くってこと以外、あいつの今後については誰も知らねえ。そしてあいつは、誰にもそれを教えるつもりがないと言った。現に冬子ならさっきもう学校を出てったよ。二度とここには戻らない。俺には"色々落ち着いたら"発つって言ってたけど、多分────あいつは、その足でそのまま東京に行った」
「────────は?」










二度目の奇跡が起きたのは、初めて会ったあの日から2ヶ月も経たない頃のことだった。

あの春の日に学校案内を終えて帰宅した後、冷静になって改めて陽泉のパンフレットを眺める。記載されていることや聞いた話を思い返しつつ、望んでいた自分の編入先の条件にほぼマッチしていることをきちんと確認する。

いくらなんでも憧れの先輩ひとりのために自分の人生を左右されるほど盲目的ではないつもりだった。
ただ、憧れの先輩がいる場所に満足した環境下で通えるというのは、とても幸運なことだとも思った。

早速編入試験を受け、無事突破した後とんとん拍子に入学手続きを進めていく。バスケのこと、将来のこと、そしてあの桜の精のこと、たくさんの希望が頭の中をぐるぐると回っていた。

そうして実際に通い始められるようになったのは、春の終わり頃。ちらほらと半袖の制服も混じる中で、俺は────また、ひとり孤独に取り残されていた。

なぜなんだ。
今日はクラス配属の前の基本的な説明があるから、と呼び出されたはずだった。
場所もきちんと確認してきた。入学式の時より人の往来はかなり増えていたので、目的地まで辿り着くのだってそう苦ではなかった。
部屋に入る前に、そこが指定された化学教科準備室であることもきちんと確認した。
少し待たせるかもしれない、とは言われていたので、多少…それこそ5分10分くらいなら待つことも覚悟していた。

でも、俺は既に30分ここにいる。
改めて思う、なぜなんだ。

先生も忙しい身、もしかしたら急用が入ったのかもしれない。入れ違いになることを恐れてしまうと外で時間を潰すことすらできず、俺はただ忠犬のように小さな窓から見える外の景色を眺めてばかりいた。

外の景色は、以前訪れた時よりずっと色鮮やかになっているように思えた。
空の青、木々の緑、ひとつひとつの色が春先のあの頃よりずっとくっきり鮮明に見えるような気がする。日本は四季の美しい国と言われるだけあるな、なんて思いながらただただ無為な時間を潰し続ける。

どのくらい時間が経っただろう、ようやく教室の戸が開く音がしたので、慌てて立ち上がり先生を迎える準備をする。
しかし、入ってきたのは担任と言われていた山村先生ではなかった。

「────水影さん!」

まさか、まさか。

転校初日に、また会えるなんて。

憧れの人は、俺を見ても全く驚くことなく柔和に微笑んだ。まるでこの人にはここで俺達が会うことがわかっていたみたいだ、なんてまた現実離れしたことを思う(まあ、本当にわかっていたのだろうけど)。

「久しぶり、氷室君」

桜の精は、季節が移ろい夏に差し掛かっているその中でも、変わらない淡い色をしていた。なんというか、存在は確かに認知できるのだが、一瞬でも目を逸らしてしまえばふっと消えてしまう幻のような────そんな不確かな何かに見えた。

彼女は俺がここにいる理由を知ると、理科教師の緊急会議が入ったことを知らせてくれた。彼女の用事はその理科教師から資料を置いてくるよう頼まれただけだというので、またすぐに去ってしまうのではないかと思っていたのだが────。

「待ってる間に話し相手、いる?」

彼女は、椅子を引き寄せて隣に座ってくれた。

会うこと自体は二度目でも、落ち着いて話をするのは初めてだった。
お互いの出身地のこと、大好きなバスケのこと、出てくるのは初めて話すのに支障がない、そんなありきたりな話ばかり。

彼女はどちらかというと、話すより聞くことの方が好きなようだった。
そして、バスケの話をする時、彼女は俺の話をよく理解していながらも────なぜか、少し悲しそうな顔をしていた。

話すのが苦手な理由も、バスケが彼女を苦しめる理由も、後になって全てわかった。
でもその時は、なぜ詳しいはずのスポーツでそんなに悲しい顔をするのか、その顔が映す辛い過去を俺は少しも理解できなくて────その場に違和感だけを残しながら、親切に福井さんのことを紹介してくれた彼女の厚意に曖昧に礼を言うことしかできなかった。

そうしてその後山村先生が来ると、彼女はやはりさっさと教室を出て行ってしまった。
今度こそ、止める暇もなかった。
前回もそうだ、彼女は俺が手を伸ばすそれより先に、さっと風を靡かせその場から消えてしまう。

「良かったね、頼れる上級生ができたみたいで」

そんな風に呑気に言う山村先生が淹れてくれたコーヒーは、正直あまり味がしなかった。










「誰にも…って、なんでですか!」
「お前の方がその辺はよくわかるんじゃねえの? あいつが背負ってきたもんとか、傷ついてきた穴とか…今のまま生きるためには、あいつには足りないもんが多すぎるって」
「どういう意味ですか、それ」
「…つまり、やり直すんだとよ。思い出も関係も全部一度断ち切って、自分ひとりで生きてみるって。それで、自分が大嫌いな自分のことをもう少し好きになりたいって。だからそれまでは、俺とも会わないとさ」
「そんなの…そんなの、理解できないです……」
「ま、俺もあいつの考えてることなんか"考え自体"は理解できてもその"意味"までは理解できたことなんかねえよ。でもあいつがそう言ってるんだから、」
「なんで止めなかったんですか! あなたは…あなただけはそれを知っていたというなら…そんな寂しい選択、彼女にさせるべきじゃないということだってわかったでしょう!」
「氷室、声がデケェから」
「福井さん!」
「うるせえって」
「はぐらかさないでください! どうして止めなかっ────」
「────止められるわけねえだろ!!!」
「っ…」
「いつだってあいつはそうだった…色んなもんが足りてないクセに、全部自分で決めて勝手に自分の居場所を決めちまう。俺なんか一番良い例だろ…一番大事、とかほざいときながら、あいつは最後まで俺に異能のことも過去のことも主体的には口にしなかった。結局そうなんだよ、俺はいつも全てが終わった後に、"終わった後の話"として聞かされることしかできねえんだよ。そんな俺に、端からあいつのことが止められるわけねえだろが…」
「……福井さん…」
「………お前だったら止められたのかもな。…ごめんな、もっと早く伝えなくて」
「…俺こそすみませんでした、福井さんの気持ちも考えず…声を荒げたりして」
「ほんとだよ、お前が音量上げるとギャップでビビるから程々にしてくれ」
「…でも…やっぱりそういう時は、俺なんかより福井さんの方が適任だと…思ってます」
「バカだなーお前、まだわかってねえのかよ」
「え?」
「冬子はな、お前のことが好きだったんだよ」
「…え?」



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