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42話
「あー退屈だった」
「寝てたじゃん」
「バレた?」
「うん、起こされなかったから福井も寝てたんだろうなって」
「お前も寝てたのかよ」
形式通りに例年の儀式が終わり、私達は崩れぎみの列をなしてクラスへと戻っていた。廊下の端の方に見えるのはきっと、HR後にお世話になった…あるいは憧れの先輩に声を掛けようと待ち構えている後輩の女の子達。誰が目当てなのかは知らないが、もしかしたらその中に福井狙いの子もいるかもしれない(いつだったか部活の練習後にラブレターを貰ったと謎の報告を受けた日のことを思い出した)。
────今日は卒業式、最後の登校日だった。
「つか聞いた? C組の持田、東大行くらしいぜ」
「え、ほんと? でも確かに持田君って学年で一番頭良かったよね。流石としか言えない」
「な。進学先がバレてから急にモテ出したって、嬉しそうな悲しそうなめちゃくちゃ複雑な顔してた」
「はは…まあ陽泉からそんなエリートが出たとあっちゃ、人脈は作っておきたいよねえ…」
決して目立つ容姿でもなければ、派手な性格をしているわけでもなかったはずの持田君に急に群がる女子の様子を想像して、思わず苦笑する。肩書きだけで判断して近づいたり離れたり、そういうミーハー女子に困らされてきたのは決して男子だけではない。
「お前、いつ秋田発つの?」
「んーと、まだ決めてないけど、引っ越しの準備とか色々落ち着いたらかな」
「良いよな、元々東京にいた奴は。突然あんな人混みに放り出されてもちゃんと人躱して歩けるんだろ」
「その様子だと福井は散々だったみたいだね」
「人酔いしたわ」
約1ヶ月前、無事に全ての受験を終えた私は、この春から東京のとある大学へ通うことになっていた。
そしてそれを、以前から決めていた通り"誰にも告げることはなかった"。
福井は福井で、私の進学先を最後まで聞いてこなかった。雑談の中で"東京へ行く"という情報だけは出していたのでそれを口にすることは多々あったが、それ以上踏み込むようなことはしないでいてくれたのだ。
聞くところによると、どうやら福井も上京するらしい。自分が語らないのに人にあれこれ訊くのは失礼だろうと思い進学先までは訊かなかったが、広いようで狭いこの世界、もしかしたら在学中にばったり会うこともあるかもしれない。
まあ、そんな偶然があるのならそれはそれで受け入れよう。
「じゃあまた午後にね」
簡単なHRが終わり、生徒達は解放される。しかしそこにあまりしんみりとした空気がないのは、ここにいるほとんどの生徒が午後から開始される卒業パーティーに出席するためだ。
今は午前11時、3時間後の14時から別棟にある体育館で行われる段取りになっている。
部活の後輩の劉に無理やり誘わされたという福井は「余計なのついてっけど待ち合わせよーぜ。15分前とかにまたここで良いだろ?」と言った。
待ち合わせる生徒は私達だけじゃない。ほとんどの卒業生に加え、ある程度の数の後輩まで参加するパーティーの中では仲の良い友人を見つけることが難しいので、こうして事前に約束してから一緒に会場に向かうのが普通なんだそうだ。
福井なら、きっともっと声をかけられる人はたくさんいたと思う。
でも、彼は真っ先に私に「待ち合わせよう」と言ってくれた。
そのことが、今は素直に嬉しい。
1年前だったら…もしかしたら、もう少し卑屈になって「他の友達と待ち合わせなよ」と言っていたかもしれない。いや、それ以前に私はそんなパーティーになど参加しなかったことだろう。
「にしてもお前マジで氷室のこと誘うとはな、見直した」
「え、あんだけ散々けしかけておいて、誘わない選択肢があると思ってたの?」
「おー、言うようになったじゃん。────でも氷室も相当喜んでてさ、やっぱ他の奴からの誘いは断ってたらしいぜ。お前が最後まで言い出さなかったら自分から誘うつもりだった、とか言ってた。それ聞いちゃうとやっぱあいつの方が上手だよな」
「…うん、それは最初から最後までそう」
────それでも私も変わったな、と思う。
パーティーなんて華やかな場に出ること自体もそうだし、そこにまさか誰かを誘って行こうとしているなんて、昔の自分が聞いてもまず信じなかったことだろう。
福井と別れ、女子の着替えや化粧のため解放された家庭科室へ一人向かいながら、この一年のことをぼんやりと振り返る。
一体全体誰が今日、私が氷室と一緒にパーティーに参加することを予想できたのだろう。
だってあれはそう────忘れもしない、1年前の春の日。
入学式に紫原が来るとわかっていた私は、人気のない裏庭でサボりを決め込んでいた。あの日もちょうど今日みたいに桜が綺麗に咲いていて、そよ風にその薄紅の花弁を乗せて舞っていた。
思わず髪を押さえるほどのつむじ風が吹いて、次に目を開けた時、"彼"が立っていたのだ。
あの時は確か、彼のことを桜の精のようだと思ったんだっけ。
その儚げな雰囲気が、美しい佇まいが、彼をまるで人より高尚な"何か"に見せていた。
涼やかな声は苦しいほど心地良くて、紡がれる言葉は悲しいほど優しくて。
私は彼に、もう二度と会いたくない────なんて思っていた。
だって、嫌いだったから。
人に好かれる人が、妬ましかったから。
人とうまく付き合える術を心得ている人が、羨ましかったから。
情けない自分と比べたりなんかして、最初からわかりきっているその格差に落ち込んでしまったのだ。私は彼のような人にはなれない、彼のような人と関われるような人じゃないと。
そうしたら、彼は偶然の力を借りながら、結局私の隣まで降りてきてしまった。
間近で見ると改めて、彼は本当に美しい人だった。その見た目然り、声然り、考え方や言葉選びの一つ一つ然り、とにかく存在の全てが胸を締め付けるほどに鮮やかだった。鮮やかなのに幻のように掴みどころがなくて、最初はやはりそれが少し怖かった。
朝のうちにラックに掛けておいた白い膝上丈のワンピースを手に取り、個々の持ち物が混ざらず保管できるように、と用意された備品の小さな段ボール箱に、自分の制服を脱ぎ入れていく。
でも────幻だなんて、儚いなんて、彼は決してそんなか弱い言葉で表せるような男ではなかった。いや普段は確かにそうなのだが────彼は、時折隠し切れていないほど強い獣のような雰囲気を漏らしていた。
それが、却って私の興味を惹きつけて離さなくなってしまった。
時の流れるまま大した理由もなく共に過ごした私達。
その姿はきっと事情を知る者が客観的に見れば、少しだけ異質に映ったかもしれない。
普通に憧れた私と、特別に憧れた彼。
未来を諦めた私と、未来を信じる彼。
私達はどこまでも正反対だったから。
そしてこうまでも正反対なのに、この2人はどこか似ているということにある時私は気づいてしまった。
同じだったのだ。
最初から手が届かないとわかっているものにそれでも焦がれ続け、結局指先ひとつ掠らず膝をついてしまった時覚えた、あの絶望が。
────本当は私達が似ているなんて思うことには、今でも少し引け目を感じる。
そのくらい彼は出来すぎた人だった。たまに理性で本能を抑えつけられていないところも含めて、そんなほんの少しだけ加えられた人間味も含めて、彼は私にとって"完璧"な人だった。
でもそんな彼は、いつも私の手を引いてくれた。
しゃがみこんだ私の隣に座って、目線を合わせて、立ち上がるのを待っていてくれた。
誰にも話せないと塞いでいた自分の異能も過去も、彼は自然に引き出してくれた。
もちろんそれはただ偶然が重なっただけの結果論だ。私が望んでペラペラと喋ったわけじゃない。
だというのに、彼はその全てを受け入れてくれた。私の嫌いな私を、私の分まで好きになってくれた。
私にとって、私の全てを知ってなお味方でいてくれることのそれがどれだけの奇跡に思えたか…未だにあの感情を表す適切な言葉が見つからない。
着慣れないドレスを身に纏いながら、私は彼と過ごした時間になおも想いを馳せる。
彼が他の誰とも違っていた理由。
彼が私の特別になった理由。
彼が"彼でなければならなかった"理由。
きっと彼があの春の日に現れなければ、私は何度彼とすれ違ったところで声など一度も掛けなかっただろう。
きっと彼が私の異能に言及していなければ、私は彼にああまで心を開きはしなかっただろう。
きっと彼が根気強く私のことを励ましてくれなければ、私は彼を頼ったりなど絶対にしなかっただろう。
それは全て偶然の上に成り立った産物。
もっと早く出会っていても、もっと遅く出会っていても、私達はきっとこうはなれなかった。
もっと深く踏み込まれても、もっと浅く踏み留まられても、私達はきっとここまで一緒にはいられなかった。
例えそれが決められた未来の前に敷かれたレーンを走っているだけだとしても、何もかもが既に確定していて、いくつもの偶然でさえ単なる必然でなかったとしても、私にとってそれだけは奇跡としか言いようがなかった。
アンクルストラップに白いレースのリボンがあしらわれた華奢なハイヒールを履き、指定のローファーを段ボールに入れる。これで着替えは完了だ。あとは家で何度も練習したヘアアレンジがうまくいくように祈るだけ。
そう。
私にとって彼は"奇跡"だった。
かつて同じように"奇跡"と呼ばれていた後輩達を疎んでやまなかったあの頃の自分の価値観を覆すほど、彼という"奇跡"は私の心を強く揺さぶった。
そしてその"奇跡"こそが、私にとっては"恋"だった。
高校生の恋なんてありきたりで、どこにでもありふれた普通のことだということはわかっている。
でも私にとって、恋とはまさに奇跡だったのだ。
鏡を見ながら編み込みでハーフアップのヘアスタイルを作り、余った三つ編みの部分をサイドでくるりと巻き付け花の形を模す。ピンで所々押さえながら、耳の上に薔薇を作った。
この奇跡を作ってくれた彼に、この奇跡に出会えた私に、最後の思い出を。
好きだよ。大好きだよ。
でも、だから、私はこの日を最後に恵まれた奇跡ときちんとお別れをする。
奇跡は永続なんてしない。
一度起きた奇跡は二度も起きない。
私にとってその奇跡は、恋心は、あまりに特別すぎるから。
メイクポーチからいくつか道具を取り出し、白いワンピースで霞んでしまわないよう少しだけ派手さの目立つ化粧をする。そこまでして、私の最初で最後のおめかしは終わった。
時計を見ると、13時30分。福井との待ち合わせにはあと15分ほどある。氷室にも同じ時間と同じ場所での待ち合わせを伝えているので、彼もきっとまだしばらくは姿を現さないだろう。
ならば、と私は名札を段ボールに挟みロッカーに押し込むと、家庭科室を出て一年前にお気に入りの場所としてよく通っていた裏庭へ向かった。
全部最後。これが終わったら、私は独りでここを離れる。
そう、それが最後だというのなら、もう一度訪れておきたい場所があった。
もう一度クラス棟に戻り、廊下をまっすぐ歩いた突き当たりにある窓をがらりと開けた。
そこは、一年前に私と氷室が出会った場所。
大きな桜の木が咲き誇る、この学校で一番神秘的なところ。
白いワンピースが汚れることに少し躊躇いを覚えたが、結局私は裾をたくし上げて窓枠に足を掛けた。そのまま"向こう側"の景色へと飛び移る。
あの時と同じ神々しさで空を埋め尽くすほどの桜が、目の前に広がった。
「────…」
美しく咲き誇る巨木が伸ばす枝々は空をも覆い、薄紅の花弁の隙間から漏れる陽光が柔らかく網膜を焼く。
ここにいるのは桜の精だ。風に吹かれればすぐに儚くその花弁を散らしてしまうけれども、刹那的に咲き誇る様はまるで神のように輝く桜の精。彼らが浮かべる優しい笑みは何も語らず、深い切なさをその胸の奥にそっとしまいこんでいる。
桜の精は、確かに存在した。
花弁の隙間から漏れる陽光が眩しい。空模様ですら、あの日と同じだった。青くて、澄んでいて、どこまでも遠くへ行けそうな気がする。
背後の壁と隔てられた"こっち側の世界"。それはかつての私が、みんなが普通に生きている空間────いわゆる"あっち側の世界"にいられず唯一の逃げ場所にしていたところだった。世界を隔絶して、自分だけのオアシスを夢見て逃げ込んだ"異空間"だった。
ここに来るのは一年ぶり。
あの日から私は少しずつ変わっていった。"こっち側の世界"にしかいられない、そこにたまに福井が来てくれたら嬉しい、そんな卑屈な気持ちで自ら外界を締め出していた私は、気づけば"あっち側の世界"で当たり前のように居場所を見つけていた。
もう、この壁に質量以上の厚みは感じない。隔てられているとも、思わない。
この場所はかつて私にとって蜃気楼と同じだった。実体があるように見えても触れられない、どれだけ求めてもぼうっと眺めることしかできない、幻と同じもの。
今も"こっち側"と"あっち側"が一体になってしまった私にとってはまだ少し疲れるこの世界の中で、ここが儚い夢を見られる優しい場所であることに違いはない。
しかしようやく、この桜の木は"あっち側"と同じ地面に深く根を下ろし、同じ空に枝を伸ばす"一つの世界の一部"だったんだということを受け入れられるようになった。
世界は美しい、だなんて綺麗事は今更言いたくないけど、美しいものは世界に存在できないほど弱いものだと思っていた、あの頃の自分の考えは改めたいと思う。最初から私が遠ざけていただけで、私が見ないふりをしていただけで、美しいものも、奇跡も、不確定な未来も、全ては最初から存在していたのだ。
ざあっと、大きな風が吹く。せっかく頑張ってセットした髪が乱れてはいけないと、目を閉じながらも手で頭を押さえて心地良い風に浸る。
「わっ!」
「えっ!?」
すると、風の隙間から大きな声が聞こえた。完全に予期していなかった人の気配に、わざと出された大声に、思わず私はびくりと肩を跳ねさせ、間抜けな声まで出してしまう。
あ、でもこの声は────。
「びっくりしました?」
振り返った、窓の向こう。桜の舞う薄紅の中に、"彼"は立っていた。
「ずっとそこに立っていたので、もしかしたら今なら驚かせられるかなって思ったんです」
子供のようなあどけない顔で、氷室は笑う。
1年前、ここで出会った人。あの時は彼の方が私の存在に驚いたような顔をして慌てていたけど、今は完全に立場が逆になっていた。
────びっくり、した。
「…氷室君…なんでここに…?」
「迎えに来たんです。…っていうのは嘘で、パーティーに出る前にあなたと初めて会った場所にもう一度行こうと思ってみたら、偶然あなたがいたものですから」
私と同じような理由でここに来たという氷室は、よく似合うダークグレーのスーツを着て淡い水色のネクタイを締めていた。正装しているにも関わらず窓の桟を軽やかに飛び越えて、こちら側へ降り立つ。
「もう俺も、迷わないで行きたいところに行けるようになりましたよ」
そうだ、あの日彼は職員室に行こうとして、ここへ迷い込んでしまったんだっけ。
どうやら、この一年で色々と変わったのは私だけじゃないらしい。
「最後まで叶わないかと思ってましたけど…遂に水影さんを驚かせることに成功しました」
「…うん、驚いた自分にちょっと驚いてる」
「はは、水影さんらしい」
驚くなんて、いつぶりのことだろう。
未来が見えていた頃は、たとえそれが断片的な明日だったとしても、なんとなく一日の流れを想像できていたから。想定外のことが起きて戸惑うことや焦ることはあっても、それは全て"未来は確定事項でしかないと諦めていた"からだろう、声を上げて驚くなんて…そこまで感情を揺さぶられることなんて、久しく私の身には起こらなかった。
そうか、驚いて声を出してしまうってこんなに恥ずかしいことなのか。
虚をつかれるってこんなに心臓がうるさく鳴るものなのか。
「なんかこう…寿命3年分くらい縮んだ」
「今のでですか?」
「今のでだよ。先がわからないことに対する耐性なんてゼロ以下なんだから」
「じゃあ、もう3年分縮めてくれますか?」
突然何を言い出すのかと思いきや、氷室はスーツのポケットから小さな立方体の箱を取り出してきた。白い箱にかけられた白いリボン。箱の隅に書かれているのは、高校生にも手頃に入手できるからという理由で人気なアクセサリーショップの名前だった。
「…きっと、今日その服を着てきてくれるだろうって思ってたんです。なので、昨日急いで駅前の百貨店に行ってきました。…すみません、決して高価な物ではないんですが…」
「これ…私に?」
「ええ。良かったらこの後、つけてくれませんか」
恐る恐る、差し出された箱に手を伸ばす。
驚いたわけではなかった。でも、リボンを解く私の手は震えていた。
それがどういう感情から生まれた震えなのかはわからない。その名前を探す余裕もないまま箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、イヤリングだった。
淡い水色に染められている小さなアクリルビーズを、本物のクリスタルに見えるよう菱形に美しく加工した控えめなイヤリング。その色は、氷室の今つけているネクタイと同じ色だった。繊細なシルバーチェーンの先についているそれはきっと、耳につけたら動きに合わせてゆらゆらとそれは可愛らしく揺れてみせるのだろう。
「俺からの、ささやかですが…お祝いのつもりです。ご卒業、おめでとうございます」
うまく言葉を返せないまま、私はイヤリングをぎこちなく耳たぶにつける。
「ああやっぱり…夏に一度見たきりだったのでちょっと不安だったんですが、その格好によくお似合いです」
鏡がないので、イヤリングをつけた自分の姿を確認することはできない。
でもきっと鏡なんて見たら、耳元の小さなアクセサリーに視線を向けることなんてできないだろうと思ってしまった。
だって今、私の顔はきっと何にも隠せないほど、赤くなっているはずだから。
まさか氷室がこんなサプライズを用意してくれているとは思わなかった。ましてやそれが────そう、それが、"この格好ため"に用意されたものだなんて、とても。
────私が纏っていたのは、去年の夏、氷室と紫原と共に東京へ遊びに行った時に買った服と靴だった。
着る機会も履く機会もないだろうと思いながら、ただしまわれるだけとなっていた可哀想な服達。まさか出番が来るなんて思っていなかったので、卒業パーティーへの参加を決めてからそれに相応しい装いを自分が持っていることを思い出すのに、一週間ほどかかってしまった。もちろんその間は何を着て行こうか、ずっと駅前の服屋で迷っているだけだった。
ある夜はっとパーティーに着て行ける服を持っていたことを思い出したところで、感じたのは安心感だけだった。一回きりの数時間のために無駄な出費をしなくて済んだということと、あの時ノリだけで買ってしまったワンピースが日の目を見る時を迎えられてよかったということへの簡単な安堵。
氷室があの日のことを覚えているなんて、端から思っていなかった。
あの日の一瞬の偶然を、この日のために私が思い出すと予期していたなんて、考えすらもしなかった。
「…ありがとう、本当に」
「いえいえ…値段で考えちゃうとたいした物じゃないんですが、一生懸命心をこめて選んだので、少しでも喜んでいただけたら嬉しいです」
「今の氷室君、あれみたい」
「あれ?」
「あの…シンデレラの…魔法使い」
素敵な服とお迎えの馬車を用意した後、最後にガラスの靴を履かせてくれる魔法使い。
魔法が解けてしまっても、何もかもがなくなってしまっても、唯一消えずに残り続けてくれた夢の残滓。
きっと私はいつかこの服と靴といつか捨てる時が来ても、このイヤリングだけは一生大切に持ち続けるのだろう。舞踏会の美しい思い出が、決して幻ではなかったのだと何度でも確認するのだろう。
「あー…俺、どっちかというと王子様役の方が嬉しいです。そりゃあ確かに魔法使いもなりたいですけど…」
氷室は私の言葉を冗談だと思ったらしい。何度も引きずり出される"魔法使いになる夢"をここでも持ち出されたものと捉えたのか、わざとらしく子供っぽい声で抵抗される。
…じゃあ、もしあなたが王子様になってくれるというのなら、今日だけは私もお姫様になれるだろうか。
「それじゃ、そろそろ行きませんか? 待ち合わせの時間も近づいてますし、多分福井さん達ならもう来てますよ」
「うん、そうだね」
氷室は来た時同様軽やかな動きで校舎内へと戻った。最初は私を助けようとしてくれたのか、振り返って手を差し出す動作を見せたものの、彼に続いてはしたなくスカートを捲り上げて窓を越える私を見るなり一瞬ぽかんと口を開け、それから楽しそうに笑いだす。
「ご、ごめん。今日くらいちゃんと淑女っぽく手を借りるべきだったね」
「いや、良いんです。慣れてるんですね」
「そりゃ、ここは私のお気に入りの場所だから」
「俺もです」
いつもの制服姿の生徒が行き交う廊下も、今日ばかりは勝手が違っていた。色とりどりのドレス姿に身を包む女子生徒達が殺風景な学校に花を咲かせている。その傍らで黒やグレーのスーツを着た男性陣の落ち着いた色合いでさえ、彼女達の華やかな色にうまい具合にコントラストを入れていた。
「凄いですね、本当にお城の舞踏会に来たみたいです」
しかし私の隣にいるこの人は、ここにいるどんな色の人より鮮やかだった。顔立ち、身のこなし、纏う雰囲気、その全てがこの場の誰よりもよく似合っている。
心なしか視線を集めているような、少しの気まずさを堪えながら教室に戻る。福井と劉は氷室の言葉通り既にそこにいた。劉は黒いスーツに赤いネクタイを締めていた。福井は氷室のより少し明るいグレーのスーツに、白いネクタイ。2人とも、よく似合っている。
「福井さん、劉」
氷室が教室の入口で声をかけると、2人は同時に振り返った。
「氷室…と、そっちのがパートナーアルか」
アル…?
「はじめまして、水影冬子です」
劉偉。独特な語尾をつける子だと思いつつも感想はそこ止まり。WCでその姿は見ていたが実際に話すのは初めてだったので、一応きちんと挨拶をしておいた。名前からして中国圏の子だとは思うのだが、まさか本当にアルを付けて喋る中国人がいるなんて思いもしなかった。福井あたりが適当なことを吹き込んだならまあ納得できる話でもあるが。
「すみません、お待たせしてしまいましたね…福井さん?」
快く握手の手を差し出してくれた劉の隣で、福井は珍しく何も喋らず固まっていた。私を凝視したまま、彼の周りだけ時が止まっているようだ。
「福井?」
私が声をかけてやっと、福井はハッとしたように我に返る。それから改めて私の頭の先から爪先までじろじろと眺め、最後に顔を見てから氷室の方を見る。
不審な動きをするやつだ。私の私服姿も福井なら何度も見ているだろうに。まあ、ここまでめかしこんで会うのは初めてだが。
「…似合うな、それ」
そうして彼は散々眺め回した後、ぶっきらぼうな口調で褒めてくれた。
「ありがとう」
福井はそれ以上何も言わなかった。それこそ馬子にも衣装くらいの軽口は想定していただけに、素直に褒められるとこちらの方が照れ臭くなってしまう。
「…行きましょうか」
結局会場入りを促したのは氷室だった。いつになく静かな福井と、私と劉が早く互いに馴染めるよう色々と話題を振ってくれる氷室。初対面の人間にはどうしても身構えてしまう私に対し、劉はとても自然体だった。福井や氷室とも普段からそこそこうまくやっているらしい。岡村いじりが楽しいとか、紫原に手を焼いている先輩達を大変そうだなと他人事のように思っているとか、彼は会場までの短い時間の中でも多くのことを話してくれた。
体育館前には、既に多くの人が集まっていた。
その中でも目立つのが、岡村。縦にも横にも大きい彼は、とにかく縦に長い劉を目印にしていたらしい。私達を早々に見つけ声をかけてくれた。
「良いのう氷室は…こんな綺麗な彼女の隣でパーティーに参加できるなんて…」
「はは…残念ながら彼女ではないですけどね…」
それから、嫌でも目立つ人がもうひとり。
「あ、みんないんじゃん」
紫原の明るい髪色も、今日この日ばかりは周りの鮮やかなドレスやネクタイの色に混ざって違和感を潜めている。
………紫原と会うのは、WCの準々決勝の朝以来だった。
「紫原…」
「影ちんも来たんだね、珍しい」
彼の口調と雰囲気は、あの朝の出来事も────なんなら、その前の喧嘩ですらなかったこととして扱われているのかと思いたくなるほど自然だった。
別に彼は作為的にそうしているわけではないのだろう。ただ本当に、彼にとってあの一連の出来事は"時が解決してくれる大したことのない出来事"だったのだろう。
きっと昔の私だったらそんな彼の…あえて悪く言うなら無神経さに、却って気を張って遠ざけて終わっていたのかもしれない。
でも今は、こうしてまた普通に名前を呼んでくれたことに素直に安心していた。
「一回くらい、こういう場に参加しても良いかなって思って」
「まー最後の思い出だしね。俺も誘われなきゃ行かなかったけど、ゴリが行こう行こうってうるさいから」
「ワシはレギュラー全員で会いたかったんじゃ」
「あれ…? 福井、岡村君は脳筋な後輩に…」
言いかけて、止める。
福井はいつもの…あの少し皮肉を混ぜたような笑い方で、私に目配せをしてきた。
────そういうことね。
紫原が来ると知ったら、私がこの場に来ないかもしれないと気を利かせて嘘をついていたのか。
最後の最後までこの人は優しいな。
ありがとう、でも大丈夫だよ。
「影ちん、あのさ」
「うん?」
「俺、影ちんに言ったこと、全部後悔も反省もしてないよ」
「うん」
「でも………なんてゆーか、その…」
「……」
「………ありがと」
紫原も、大したことないと思いながら色々考えていてくれたんだろう。
今ならそれが、ちゃんと伝わる。
「…うん。私こそ、ありがとう」
みんなこうして、少しずつ変わっていくんだ。
今回みたいに良い方向転ぶ時もあるし、悪い方向に転ぶことだってある。でもみんな、何もわからない未来を明るいものだと無意識に信じて、その時感じたことを、願ったことを素直に吸収していく。
未来とは、思ったほどに怖いばかりではないのかもしれない。
受付で参加費を払い綺麗に飾り付けられた体育館の中に入りながら、私は終わりゆく今と始まってゆく未来、その両方に希望を抱いていた。
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